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ブラームスの部屋

    Johannes Brahms(1833-1897)

 コントラバス弾きの息子としてハンブルクで生まれた。三大Bの一人、ブラームスは古典的な形式を重んじ、その中でも交響曲を器楽における最高の形式として認識していた。ブラームスにとって交響曲を書くことは尋常ならない大仕事であった。結局生涯を通して完成に至ったのはわずか4曲。彼の交響曲作家としての自信はピアノ協奏曲やセレナード、ドイツ・レクイエムの成功によっても、変えられるものではなかった。また、ブラームスは周囲からの影響を敏感に取り入れた。その性格が作曲姿勢にも表れている。民謡や他の作曲家のモチーフを簡単に結び付けていく。子守唄とも批評される彼の作曲群にあって、唯一躍動的なあの『ハンガリー舞曲』もその典型で、ことわりをいれて発表したのだが、レメニーによって訴えられている。


交響曲第1番ハ短調op.68

●第1楽章 ウン・ポーコ・ソステヌート−アレグロ●第2楽章 アンダンテ・ソステヌート●ウン・ポーコ・アレグレット・エ・グラツィオーソ●第4楽章 アダージョ−ピウ−・アンダンテ−アレグロ・ノン・トロッポ・マ・コン・プリオ−ピウ・アレグロ

交響曲作曲の計画はあったが、ベートーベンを神のように崇めていたブラームスは、ブラームスが「不滅の9曲」と呼んでいたベートーベンの交響曲に匹敵するものでなければならないと考えていたため、なかなか完成できない。完成をみたのはブラームスが43歳の時である。指揮者ハンス・フォン・ビューローは「ベートーベンの第10交響曲」と称える。1855年に着想し、1876年9月にリヒテンタールにて完成。11月にオットー・デッソフ指揮により初演。

コンサート体験 

◆ゲルト・アルブレヒト 指揮   チェコ・フィルハーモニー交響楽団      1994.6.15  香川県県民ホール

1935年にエッセンに生まれる。音楽学者一家である。ハンブルク音楽大学を卒業した。1956年にデビューを飾る。ヴェルテンベルク国立劇場であった。1966〜1972年にはカッセル市の音楽総監督、1972〜1977年はベルリン・ドイツ・オペラ首席指揮者、チューリッヒ・トーンハレ管弦楽団の首席指揮者を1975〜80年に務めた。1988年ハンブルク国立オペラ座、ハンブルク・フィルハーモニー管弦楽団の音楽総監督に、1993〜1996年チェコ・フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者、1998年に読売日響の常任指揮者、2000年よりデンマーク国立放送交響楽団の首席指揮者に就任、歴任した。

チェコ・フィルハーモニー交響楽団

1998年1月からウラディミール・アシュケナージが首席指揮者を務める。日本の小林研一郎は客演指揮者である。

感想

ドヴォルザークの『自然と人生と愛』の3つの序曲がこの日のプログラム曲。しかし、メインはブラームスのこの曲。

YG-AKIRAが部屋で聴いてるCD

◎レナード・バーンスタイン 指揮   ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

Total time 51分55秒    レーベル ドイツグラモフォン    録音 1981.10  ウィーン

弦楽器が奏でる低音で甘美なメロディーがバーンスタインとウィーン・フィルの名コンビで聴ける。このコンビはピアノ協奏曲集やヴァイオリン協奏曲、交響曲全集等を通してブラームス作品を追及した。ブラームスと一体になったかのような演奏。


交響曲第3番ヘ長調op.90

●第1楽章 アレグロ・コン・プリオ●第2楽章 ハ長調 アンダンテ●第3楽章 ハ短調 ポコ・アレグレット●第4楽章 アレグロ

1882年に第1楽章の構想を立て始め、1883年にヴィースバーデンで書き上げる。ブラームスはヴィースバーデンでヘルミーネ・シュピースという女性に好意を寄せる。結婚を噂されるほどの交際であり、この頃書かれたこの交響曲に表れている。「自由にしかし楽しく」というブラームスの提唱がヘ−変イ−ヘという3音により表現されているらしい。1883年12月2日、ウィーンで初演、指揮者はハンス・リヒターである。ブラームスの「英雄交響曲」といわれる。ブラームスの4つの交響曲の中でもっとも演奏時間が短く、ブラームスは「小交響曲」と呼んでいた。

コンサート体験 

◆レナード・スラットキン 指揮   セントルイス交響楽団      1995.2.25  ザ・シンフォニーホール

レナード・スラットキン

1944年ロサンゼルスに生まれ、ヴァイオリニストの父とチェリストの母を持つ。ピアノを学んだ後、20世紀フォックス映画のオーケストラのコンマスだった父に指揮者の手ほどきを受け、後アスベンでワルター・ジェスキントに、ジュリアード音楽院でジャン・モレルに師事した。1973年ミネソタ管弦楽団首席客演指揮者、1977年ニューオリンズ・フィルハーモニー管弦楽団音楽監督、1979年にセントルイス交響楽団の音楽監督・指揮者、1982年シカゴ交響楽団首席客演指揮者に就任、1992年にはクリーヴランド管弦楽団のブラッサム音楽祭の音楽監督となる。プログラミングの才を認められた初めて儲けられたポストだった。

セントルイス交響楽団

1880年、セントルイス・コーラル・ソサエティとして組織される。1880年ヨーゼフ・オッテン、1894年アルフレッド・エルンスト、1907年マックス・ザック、1921年ルドルフ・ガンツ、1931年ウラディミール・ゴルシュマン、1958年エドゥアルド・ヴァン・ルモーテル、1963年エレアザール・カルヴァーリュ、1968年ウォルター・ススキンド、1975年イェルジー・セムコフ、1979年からはレナード・スラットキンが首席指揮者となる。スラットキンとの録音でグラミー賞を3回受賞している。(1995年まで)1996年からはオランダ人のハンス・フォンクが音楽監督・指揮者となる。本拠地はパウエル・シンフォニーホール。

感想

コリリャーノの『オーケストラのためのエレジー』、チャイコフスキーの『交響曲第4番』がプログラムされ、交響曲が2曲も聴けたこのコンサートはお徳であった。ブラームスから交響曲に入っていったわたしには特になじみやすかった。

YG-AKIRAが部屋で聴いてるCD

◎レナード・バーンスタイン 指揮   ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

Total time 41分53秒    レーベル ドイツグラモフォン    録音 1981.2  ウィーン

1983年度のレコード・アカデミー賞を受賞した名演。

◎小林 研一郎 指揮   ハンガリー国立交響楽団

Total time 36分34秒    レーベル CANYON CASSICS    録音 1992.10  ブタペスト フランツ・リスト音楽院大ホール

コバケンの情熱的な指揮風景が浮かんできそうなぐらい力強い。力強く小気味よく感じるこの演奏が結構気に入っている。第1楽章の打楽器群の力強さがインパクトになっており、ブラームスのシンフォニーに求めている私の気持ちを満たしてくれる。