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(05年7月、06年2月の雑記はありません)

6月 … 水無月・建未月(けんびげつ)・青水無月・晩夏



6月28日   講義;物理学の思想(後編)
 2度の原爆を経験した日本人は、原子力の平和利用を受け入れながらも、多くの人がそれに対して懐疑的でした。ツェルノブイリの事故で更に懐疑的になり、近年の原発の相次ぐ不祥事発覚は国民の原子力不信を決定的なものにしてしまいました。
 これはある意味タブーなのかもしれませんが、日本人はいわゆる「放射能アレルギー」的な考え方を持っています。確かに原発は事故を起こすと危険ですし、現に原発を縮小している国も多くある中、原発を推進する国の政策は間違っている、と。速やかに縮小すべき、と。
 しかし現に日本の発電量の約3分の1を原子力が担っており、それを全て火力で代替するのはほぼ不可能であるし、電力消費量を3分の1減らすことは更に非現実的です。段階的に原子力を他の手段に置き換えていくとしても、何に置き換えていくのか、明確な回答を出すことは難しいでしょう。
 しかも、原発より危険なものはいくらでもあります。例えば年間7000人が、自動車事故の犠牲になっています。自動車をなくしてしまえば、それができなくとも自動車の使用頻度を半分にすれば、交通事故の死者は理論的には3500人に減るはずですし、温暖化ガスの排出も抑えられます。にもかかわらず、何故、自動車の使用頻度を半減させることを誰も提唱しないのか。私としては不思議に思えるところでもあります。

 環境問題や生命倫理がこれほどクローズアップされるようになったのは、ここ20年ほどのことです。科学技術は人間の生活に利便性をもたらしますが、それを野放しにしておくと、その副産物に苦しめられることになります。本来万能ではない科学技術を万能であるかのように使うことにより、そのしわ寄せが来てしまうわけです。

 自民党が参院選に向けて、2010年に改憲を発議するという公約を発表しました。この改憲には憲法9条が含まれるのでしょうが、1962年の科学者京都会議の声明では、9条について「私たちは日本国憲法第九条が、制定当時にもまして、大きな新しい意義をもつにいたったことを確認するとともに、平和に対する責任をあらためて強調したいと思います」としています。
 要するに、道具としての科学技術は、人間の生活に必要不可欠な便利なものでありながら、同時にこれほど厄介なものはないと思うのです。

以上でだいたい60〜80分程度の発表ができ、10〜20分程度の質疑応答の時間が取れると思われます。

6月19日   講義;物理学の思想(中編)
 昭和初期の世界的な恐慌に巻き込まれた日本は、その突破口として日中戦争に突入します。
 国家総動員法が施行され、全ての国民、産業、学問などが戦時体制に向けて国家に動員されます。科学技術も例外ではありませんが、それは日本に限ったことではなく、戦時体制下の全世界で行われていたことです。
 日本は欧米の軍事技術を移入できなくなったため、国内の軍事技術が急速に発達します。アメリカも、その他の国も科学技術を軍事目的に動員します。その結果の最も悲惨なものが、広島原爆(ウラン爆弾)であり長崎原爆(プルトニウム爆弾)であります。

 大戦後の日本の科学は、軍事目的とは一切関わらなくなったはずでしたが、戦後復興を一気に推し進めたのは皮肉なことに朝鮮特需でしたので、ここに及んで科学者の反戦平和活動が一時的に弱まってしまいます。その後、米ソは冷戦体制に突入し、結局科学技術を軍事目的に使い続けるのです。中でも最も対外的にアピール効果があるのが、一つは核開発、もう一つは宇宙開発です。いわゆる五大国が、独占的に核兵器を所持することによって世界平和のバランスが保てるという歪んだ理屈により核実験を続け、そんな中、例えばアメリカの水爆実験中に漁船第五福竜丸が被爆するという最悪の事態を招きます。

 戦後はまだマルクス主義と反マルクス主義で論争している段階でしたから、科学の在り方についてもマルクス的、或いは反マルクス的な主張が繰り返されます。例えば物理学者の渡辺慧は「原子党宣言」で、反マルクス的立場から科学至上主義を唱えています。この原子党宣言は、現在では賛否両論あります。
 しかしいずれにせよ、原子党宣言にある通り、本来人間の道具・手段であるはずの社会制度や自然科学に、人間自身が次第に奴隷化されてしまい、第二次大戦やその戦後に至り、道具である核兵器を前に、それを作り出した人間自身が怯えているという、矛盾した状況に置かれているのは確かです。

 やがて日本が高度成長真っ只中にいた頃、アメリカを「スプートニクショック」が襲います。それまで宇宙開発の最先端を自負していたアメリカでしたが、ソ連が先に人工衛星を打ち上げてしまったのです。慌てた西側諸国は科学技術教育を徹底させ、ソ連に追いつけ追い越せとばかりに宇宙開発に注力します。その流れで出てきたのがアポロ計画です。
結局、熱い戦争か冷たい戦争かという違いだけで、軍事技術が科学技術の最先端だったことには変わりありませんでした。

 従って、戦後半世紀、大国は恐ろしい(人類を破滅に追いやりかねないほどの)技術力を持ちながら、それを危ういバランスを保って使わずに過ごしてきたわけです。もしかしたらそれは奇跡的なことだったのかもしれません。
 冷戦構造の崩壊は突如やってきましたが、それ以前から共産主義そのものは既に限界に達していました。ソ連は崩れるべくして崩れたのです。ここにおいて核兵器を所有する意味は、怪しい大義名分は完全になくなったはずです。にもかかわらず、パキスタンとインドが新たに核兵器を開発してしまいました。更にはどうやら半島の狂った将軍様が作っちゃったみたいです。

6月7日   講義;物理学の思想(前編)
 ノーベル賞を受賞した理論物理学者の湯川秀樹は、学者兄弟の一人です。
 男5人、女2人の6人なのですが、戦死した1人を除く男4人は全員学者、女2人も学者に嫁いでいます。
 小川環樹は漢文学者。
 貝塚茂樹は中国史学者。
 小川芳樹は冶金学者。

 昨日、近代思想史の発表(輪番制)でした。テーマとして、筑摩書房の『現代日本思想体系』の中から1冊選ぶのですが、高校時代、数学と物理が全くダメだった自分が敢えて選んだテーマは「科学の思想I」。数学と物理学に関する思想を扱っています(医学と生物学がII巻)。
 人文科学を扱う人にとって、自然科学の考え方やものの見方は絶対必要だと思うんですよ。逆に、自然科学を扱う人にも、人文科学や社会科学の考え方は必要だと思うからです。
 近代科学(自然科学)と近代思想を考える時、必ずついてくるのが、戦争であり、国家主義です。近代的な科学はヨーロッパにおいて18世紀〜19世紀に成立し、それまで宗教や迷信と結びついていた科学が完全に独立し、「科学によって全ての問題を解決できる」という科学万能主義が生まれたのです。
 20世紀初頭には、アインシュタインにより現代物理学が発達し、物質観・世界観が一変します。
 科学技術の急速な発展は、国家主義と強く結びついて、戦争の道具として科学技術が動員されます。本来、科学者は科学の国家主義化に対して断固抵抗すべきところですが、日本の戦前の科学者の多くが国家に迎合的だった(と物理学者の井上健は主張する)。そして一部の反ファッショ的・反国家主義的な科学者が、ある人はマルクス主義的立場から、またある人は反マルクス主義的立場から、国家への抵抗を呼びかける。
 第二次大戦が終結し、日本を含む世界各国の科学者が、科学技術の平和利用を訴えている一方で、一部の国は「軍備の充実が世界の安定をもたらす」という大義名分のもと、今なお必死に軍事技術の開発を続けていますし、いまどき核の技術力を世界に誇示しようとする馬鹿としか言いようのない為政者もいる有様です。

 湯川博士は、自著「物質世界の客観性について」の中で、古典物理学から現代物理学への発展の過程をわかりやすく追っています。
 古典物理学から現代物理学への発展の過程には、段階があります。


第一段階…古典物理学の世界。ものが空間(ユークリッド空間)において一定の位置を占める(即ち2点間の直線距離を測定できる)。ユークリッド幾何学が絶対的に成立する。我々の身近に観察できる力学的な自然現象を説明することができる。
第二段階…光や電気の知識が蓄積した段階。例えば光は何故真空を進むことができるのか、というような疑問が沸く。そこで「エーテル」という「物」の存在を仮定することにより、古典物理学の延長で光や電気、磁気の現象を一応説明できる。
第三段階…力学的現象に相対性を見出す段階。例えばx軸上の点Aと点Bが一致していたとする。1秒後に点AとBが1m離れていたとして、「Aが静止してBが動いた」「Bが静止してAが動いた」のどちらであるかを判定することは不可能である(「汽車が走るのか、窓外の山野が後退するのかは人々の経験だけからは決定できないはずであった」)。そこで双方とも等速直線運動をしていると考える(静止状態も速度0の運動と考える)。
第四段階…前段階の相対性を、力学的現象だけでなく光や電気などの全ての物理現象について当てはめる。すると「エーテル」の存在では説明できなくなってしまう。そのため根本的に物理学の法則を見直す必要が出てくる。こうして辿り着いたのが「特殊相対性理論」である。


 この第四段階を切り拓いたのがアインシュタインです。実際のところ、第四段階のような相対性理論を用いないと辻褄が合わない現象というのは、ミクロの世界や光速に近い速度の世界という、日常的に人間が体験できない世界でのことなので、日常的な現象を説明するのは古典物理学で十分なわけです。
 しかし、本来元素は他の元素に変化しないはずなのに、現代物理学によると一定条件下で元素は他の元素に変化します。物質が全く別の物質になってしまうわけです。太陽はどうやって光っているのか──これは現代物理学によって初めて説明できます。太陽では常時核融合反応が起こり、水素からヘリウムが生じていて、その際生じる莫大なエネルギーが太陽の光であり熱である。原子核反応──重い原子核が分裂する核分裂反応と、軽い原子核が融合する核融合反応は、反応と同時に莫大なエネルギーが放出されます。それを平和的に利用するのが原子力発電なのですが、軍事的に利用するのが原子爆弾や水素爆弾です。

(つづく)



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