病気

 

 

聖なる病気苦しみ健康

医者認知症不眠症

悪寒無呼吸癩病健康

関節がはずれる痛みエイズ

アルコール依存症幻想狂気愚鈍

ウィルソン・ヴァン・デュセン

テレーゼ・ノイマン奇蹟

ヘレン・ケラー「私の宗教」

自殺安楽死

死を恐れない

 

 

 

 

 

1.聖書

2.病気

3.病気の原因

4.息切れ

5.トマス・ア・ケンピス

6.盲目であった者も他生では見えるようになる

7.苦痛、苦難となっていた身体的不完全さも消え失せるだろう

8.霊界の霊たちの間には自然的な病気はない

9.マリア・ワルトルタ

10.聖母から司祭へ

11.聖なる病気

12.疫病

13.病気について、熱病といったものをもたらす[引き起こす]者らについて、妖婦の地獄について

14.テレーゼ・ノイマン

15.ヘレン・ケラー

16.悪は霊魂に有害であり、国家に有害であり、身体に有害

17.サンダー・シング

 

 

 

1.聖書

 

 

詩篇149・5

 

主の慈しみに生きる人は栄光に輝き、喜び勇み

伏していても喜びの声をあげる。

 

 

 

イザヤ33・24

 

都に住む者はだれも病を訴えることはない。

都に住む民は罪を赦される。

 

 

 

 

2.病気

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P211

 

 神は邪悪を造りたまわなかったように、病も肉の痛みもお造りにならなかった。それは人間の不従順がもたらす当然の帰結にすぎない。痛みと病もまた想像の産物ではなく、それが個人の罪であれ、個人を一部とする家族の罪であれ、罪という目にみえない隠れた病が、目にみえる形に結果したものである。家族全員が悔い改め、わたしにつながれるならば、健康をもたらすわたしの血が全身を巡り、内に潜む目にみえない病をすべて癒し、永遠にわたり彼らを健全にする。そのような健全な状態のために人は創造されたのである。主とともに幸せの中に生きられるために。

 

 

 

天界の秘義8364

 

『わたしはエジプト人に加えた病はことごとくあなたには加えないであろう』(出エジプト15・26)。これは、彼らが分離した信仰と悪の生命の中にいる者らに属している悪から遠ざけられねばならないことを意味していることは以下から明白である、即ち、『病い』の意義は悪であり(そのことについては以下に述べよう)エジプト人の表象は分離した信仰と悪の生命の中にいる者らであり(7097、7317、7926、8148番を参照)、『あなたに加えないこと』の意義は、そのことが悪を意味している病いについて言われているときは、彼らは悪から遠ざけられねばならないということである、なぜならエホバ、すなわち、主は悪を取り去られるのではなくて、人間をそこから遠ざけ、善の中に保たれるからである(929、1581、2256、2406、4564、8206番)。このことから『彼らに病いを加えないこと』により彼らは悪から遠ざけられねばならないことが意味されている。

 

 

 

天界の秘義8364〔2〕

 

『病い』が悪を意味していることは内意では霊的な生命に影響を及ぼすものが意味されているためである。この生命に影響を及ぼす病いは悪であって、欲念、悪念、〔現世欲〕と呼ばれている。信仰と仁慈とが霊的な生命を作っている。この生命は、誤謬が信仰に属している真理にとって代わるとき、また悪が仁慈に属している善にとって代わる時病むのである、なぜならこれらは、病いが自然的な生命をその死に至らせるように、この霊的な生命を、霊的な死と呼ばれ、堕地獄の状態である死へ陥れるからである。ここから『病』によりその内意では悪が意味され、、『エジプト人の病い』により分離した信仰と悪の生命の中にいて、それにより正しい者たちにとりついてこれを悩ませた者らが、自らをその中へ投げ込んだ悪が意味されており、その悪は前の記事で、エジプトの災いが取り扱われた所に取り扱われれているのである。

 

 

 

天界の秘義8364〔3〕

 

ここに名を挙げられている凡ゆる病いにより善を意志する生命を破壊する悪と真理を理解する生命を破壊する誤謬であるところの、霊的な病いが意味され、約言すると、信仰と仁慈とに属した霊的な生命を破壊する霊的な病いが意味されているのである。更に自然的な病気はこうした物に相応しているのである、なぜなら人類の病気は罪から発しているため、その源泉から発しているからである(5712、5726番)、更に病いは凡てそれ自身の悪に相応しているのである、その理由は人間の生命の凡ゆるものは霊界から発しているということであり、それでもし人間の霊的な生命が病むならば、そこから悪が起って、自然的な生命にまでも入り、そこに病気となるのである。(病気と悪との相応について経験から言われたことを参照されたい、5711−5727番)。

 

 

 

天界の秘義8364〔6〕

 

 病いは霊的な生命の有害な悪いものを表象したため、それで主が癒された病いにより、教会と人類とにとりついてこれを悩ませ、霊的な死にも至らせたであろう色々な種類の悪と誤謬から解放されることが意味されているのである、なぜなら神的な奇蹟〔神の奇蹟〕は教会と天国との状態を包含して、これに関わりを持っているという事実により、それは他の奇蹟から区別されているからである。それで主の奇蹟は主として病いを癒されることから成っていたのである。

 

 

 

 

3.病気の原因

 

 

天界の秘義4225

 

先ずたれが巨大人の中にいるか、またたれがその外にいるかを述べなくてはならない。主に対する愛と隣人に対する仁慈の中にいて、隣人に対してはその者の中にある善に応じて善を行い、公正で公平なものの良心を持っている者たちはすべて巨大人の中にいるのである。なぜならこれらの者は主の中におり、従って天界にいるからである。しかし自己への愛と世への愛とそこから派生してくる欲念の中におり、たんに法律のために、自分の名誉と世の富とそこから生まれてくる名声のためにのみ善いことを行い、かくて自分自身と世とのために隣人に対しては内的には無慈悲であり、憎悪と復讐の中におり、隣人が自分に与しないときはその危害を歓んでいる者は凡て巨大人の外にいるのである、なぜならこれらの者は地獄にいるからである。これらの者は身体の中のいかような器官にも肢体にも相応しないで、その中に起ってくる種々の腐敗と病気に相応している、そのことについてもまたわたしは主の神的慈悲の下に、以下の頁に経験から語ることにしよう。

 

 

 

天界の秘義4227[3]

 

 これらの霊は動物精神と呼ばれている人間の純粋な血液の腐敗したものに相応しており、その血液の中へ腐敗が無秩序に入ってくるのであり、それがそれ自らを拡げる所では何処であれ、神経と繊維とに悪感と麻痺とを生み出す毒のようなものであり、そこから最もいたましい、致命的な病が突発してくるのである。

 

 

 

天界の秘義5711

 

 病の相応がとり扱われねばならないため、人間の病は凡て霊界と相応していることを知らなくてはならない、なぜなら何であれ自然全体の中で霊界と相応していないものは凡て、その存在する源泉となり、従って存続する源泉となっている原因を持たないため、存在することはできないからである。自然界に存在する物は結果以外の何ものでもなく、その原因は霊界に在り、その原因である目的は内的な天界に在るのである。原因がなくなると結果もなくなるため、結果もまた、原因が絶えずその中に存在しないかぎり、存続することはできないのである。結果はそれ自身において観察されるなら、それは原因以外のものではなく、その原因を低い領域における原因として働かせるために外的にそうしたものをまとっているのである。結果の原因に対する関係に原因と目的との間の関係も類似しており、原因もまた目的であるその原因から存在しないかぎり、それは原因ではない、なぜなら目的のない原因は秩序をもたない原因であり、秩序のない所には何ごとも行われないからである。このことから今や以下のことが明らかである、すなわち、結果はそれ自身において観察されるなら原因であり、原因はそれ自身において観察されるなら目的であり、善の目的は天界に在って、主から発しており、従って結果は、原因がその中に、しかも絶えずその中に存在しないかぎり結果ではなく、原因は目的がその中に、しかも絶えず存在しないかぎり原因ではなく、目的は主から発出している神的なものがその中に存在しないかぎり善の目的ではないのである。ここからまた世界の一切の物は神的なものから発生しているため、神的なものから発生しつづけていることも明らかである。

 

 

 

天界の秘義5712

 

 これらの事柄を言ったのは、病もまた霊界と相応しており、それは巨大人である天界と相応しているのではなく、それと対立しているものの中にいる者と相応し、かくて地獄にいる者らと相応していることを明らかにするためである。霊界によりその普遍的な意味では天界と地獄とが意味されている、なぜなら人間は死ぬと、自然界から霊界へ移って行くからである。病がそうしたものと相応していることは、それが低い心の欲念と情欲とに相応しているためであり、その欲念と情欲とがまた病の起原となっている、なぜなら病の起原は、全般的に、不節制、色々な種類のぜいたく、たんなる身体の快楽であり、同じくまた羨望、憎悪、復しゅう、好色といったものの感情であり、それらが人間の内部を破壊し、そしてその内部が破壊されると、外部も害を受けて、人間を病に引きずり込み、かくて死にひきずり込むからである。人間の死は悪から来ており、または罪のためであると教会に知られているが、それは病の場合も同じである、なぜなら病は死に属しているからである。この凡てから病でさえも霊界と相応しているが、しかしそこの不潔なものと相応していることが明白である、なぜなら病は前に言ったように不潔なものから発生しているためそれ自身では不潔であるからである。

 

 

 

天界の秘義5713

 

 奈落の者は凡て幾多の病を生み出しているが、しかしそれには相違がある、それは地獄は凡て悪の欲望と欲念の中におり、かくて天界のものに相反しており、それで対立したものから人間に働きかけているという理由によっている。巨大人である天界は凡ゆる物を関連づけ、また安全に保っているが、地獄は、対立したものの中にいるため、凡ゆる物を破壊し、分離している。従ってもし奈落の者が近づくなら、彼らは病を起こさせ、ついには死を起こさせるのである。それでも彼らは身体の固体部分にまでも、または人間の内臓、器官、手足を構成している部分にまでも流れ入ることは許されてはいない、ただ単にその欲念と誤謬とにのみ流れ入ることを許されているに過ぎないのである。彼らが病に属しているような不潔な物に流れ入るのは、その人間が病にかかる時のみのことである、なぜなら前に言ったように、人間の中には霊界における原因なしには決して何ごとも起りはしないからである。もし人間における自然的なものが霊的なものから分離するなら、それは存在の凡ゆる原因から分離し、かくて生命を持った凡ゆるものから分離してしまうであろう。それでもこのことは人間が自然的な方法で癒されるのを妨げはしない、なぜなら主の摂理はこうした方法と一致しているからである。そのことは私は多くの経験により知ることが出来たのであり、しかもそれは極めてひんぱんに、また長い間にわたって知ることが出来たため、疑いは全く残されていないのである。なぜならこうした場所から来ている悪霊が再三、また長く私に近づき、彼らはまじかにいるに応じて苦痛を、また病を起こさせたのである。私は彼らは何処にいるか、またいかようなものであるかを示され、また彼らは何処から来たかも示されたのである。

 

 

 

 

天界の秘義5714

 

 身体の生命では徹底した姦通者であり、その最高の歓喜を多くの婦人と姦通を犯すことにおき、姦通後直ちにこの婦人らを棄て去って、嫌悪した者がこうした行為を老年までも執拗につづけた。さらに彼はまた快楽に溺れ、自分自身のためでない限り、特にその姦通のためでない限り、何人にも善を為して、これに仕えようとは欲しなかったのである。彼は足下に見え、幾日も私と共にいたが、その生命のスフィア[霊気]が私に伝えられると、いかような部分に彼は来るにしても必ず、その部分の骨膜と神経とに、例えば、左足のつま先に苦痛を与えたのである、また彼は上ってくることを許されると、彼のいる部分に、特に腰の骨膜に、横隔膜の下の胸の内部に苦痛を与えたのである。そのスフィアが働いていると、それはまた骨を非常に圧迫したのである。

 

 

 

 

天界の秘義5715

 

 かつて一つの大きな四角い穴が現れたが、それは斜め下方へ非常に深くのびていた。その深淵の中に一つの円形の穴が見え、そのときは開いていたが、間もなく閉じられてしまった。そこから危険な熱が放出していたが、それは色々な地獄から集められ、色々な種類の欲念から、例えば、傲慢、好色、姦淫、憎悪、復しゅう、喧嘩、争いから起っているものであって、そうした欲念から地獄には放出される熱が起きるのである。その熱が私の身体に働きかけると、それは忽ち燃える熱病のような病気を引き起したが、しかしその流れが止むと、こうした病の結果はすぐに止んだのである。人間がその生活から招いたような病気に陥ると、すぐさまその病気に相応した不潔なスフィア[霊気]が密着して助成原因として現存するのである。それが実相であることを私が確実に知るように、幾多の地獄から霊らが来て私と共になり、その霊らを通してそこから発散しているスフィアが私に伝えられたが、それが身体の固体部分に働きかけるのを許されるに従って、私は圧迫、苦痛に襲われ、またそれに相応した病気にさえも襲われたのである、が、それはその霊らが追い払われると、一瞬にして止んでしまったのである、これは疑う余地がないように、幾度も行われたのである。

 

 

 

天界の秘義5716

 

 また私は経験から知ることが出来たのではあるが、そこから遠くないところに、悪寒を与える熱病の寒けのような、不潔な寒けを注ぎ込む霊らもいる。その霊らは心を乱すようなものを注ぎ込み、また失神状態を引き起こすのである。この近所から来ている霊らは極めて邪悪である。

 

 

 

天界の秘義5717

 

 頭脳の排泄物であるところの、その最もねばねばした物に関係しているのみでなく、これに恰も毒を感染させる方法を知っている者もいる。こうした霊は到着すると、頭蓋骨の中へ殺到し、そこから連続して脊髄の中へさえも殺到する。これはその内部の開かれていない者によっては感じられることはできない。私はその侵入を、また私を破壊しようとするその努力を明らかに感じることができたのであるが、しかし私は主により守られていたため、その努力は徒労に帰した。かれらは私から知性の能力をことごとく奪い去ろうと努めた。私は明らかにかれらの働きを感じ、またそこから苦痛を感じもしたが、しかしそれは間もなく止んでしまった。その後私はかれらに話しかけたが、かれらはその出てきた所を止むなく告白した。かれらは自分たちは暗い森に住んでおり、そこでは敢えてその仲間を害うようなことはしない、それはそのようなことをすれば、その仲間は自分たちを残酷な目にあわせるからである、と言った。このようにしてかれらは抑えつけられているのである。かれらはその顔は野獣であって、醜悪であり、また毛深い。私はかれらは、聖言に記されているように、以前軍隊を殺戮したような者どもであると言われた、なぜならかれらは各人の頭脳のくぼみの中へ殺到して、互いに殺し合うような狂気とともに、恐怖の念を吹き込んだからである。現今このような霊はその者自身の地獄に閉じ込められて、外に出されない。これらの者はまた頭蓋骨の中の頭の致死的な腫瘍に関連を持っている。かれらは頭蓋骨の内部に殺到し、そこから連続して脊髄の中へさえも殺到すると前に言ったが、しかし以下のことを知っておかなくてはならない、すなわち、その霊ども自身が殺到するというのは外観にすぎないのであり、かれらは身体の中の問題の場所に相応した道により外側へ連れ去られて行くのであって、それが恰も侵入があるかのように内部に感じられるのである。こうした知覚は相応により生まれており、その相応からかれらの働きかけはそれが向けられるその人間に容易に集中するのである。

 

 

 

天界の秘義5718

 

 

 

天界の秘義5719

 

 聖言の文字を軽蔑し、嘲笑する者、まして、その中に含まれている、さらに深い意味のものに対し、従って聖言から来ている教義的なものに対してこのような態度を取ると同時に、隣人愛には些かもおらず、自己愛にいる者らは、凡ゆる静脈と動脈とに流れ込んで、その全体を汚染する血液の不潔な物に関係している。かれらは人間の近くにいてそうした種類の事柄を何か人間に引き起さないように、他の者から引き離されてかれら自身の地獄におかれ、ただこうした性質を持った者らとのみ交っている、なぜならそうした者らはその地獄の息とスフィアの中へ自らを投げ込むからである。

 

 

 

 

天界の秘義5720

天界の秘義5721

天界の秘義5722

天界の秘義5723

天界の秘義5724

天界の秘義5725

 

 

 

 

天界の秘義5726

 

 死は罪以外のいかような源泉からも発してはおらず、罪は神的秩序に反した凡てのものであるため、それで悪は最小の、最も不可視的な器官をさえも―その器官からそれに次いで大きな、同じように不可視的な器官が構成されているが―閉じてしまうのである、なぜなら凡てのものの中でも最小で、全く不可視的な器官も人間の内部から連続しているからである。ここから最初の、そして最も内なる障害が起り、またそこから血液の最初の、また最も内なる毀損が起るのである。この毀損が増大すると、病気が起り、遂には死が起るのである。しかしながらもし人間が善い生活を送ったなら、その内部は天界に向って開かれ、天界を通して主に開かれ、かくてまた最小の、最も不可視的な小さな器官さえも開かれるであろう―最初のせん状のこん跡さえも相応により小器官と呼ばれることができよう―従って人間は病はなく、単に衰えて非常な老年にまでも至り、遂には再び小さな子供に、しかし賢明な子供になりさえもし、そして身体がもはや彼の内なる人、または霊に仕えることが出来なくなるとき、彼はその地的な身体から天使たちが持っているような身体へ移り、世から天界へ直接に病もなしに移って行くであろう。

 

 

 

 

「悪は悪自身を罰することについて」

 

霊界日記2438

 

 

霊界日記2439

 

このことは以下の事実からも推し測ることが出来よう、すなわち、たれでも生活の悪から自分自身に病を引き起こすのであり、そこから病と死とが起るが、そのことにその事態は似ているのである、なぜなら人各々の身体は、霊たちの世界である最大の身体〔巨大人〕を小さな肖像として表象しているからである。1748年〔60歳〕6月29日。

 

 

 

 

<熱病の熱が発してくる地獄について>

 

霊界日記4590

 

 一つの大きな四角の開いたところが現れ、それは斜めに下の方へ傾斜しており、そこに、非常な深い所に、一つの円い穴が現れたが、それはそのとき開かれていたが、すぐに閉じられてしまった。以下のように言われた、すなわち、そこからは色々な地獄からそこへ集められている危険な熱が放出されており、それは熱を生み出すようなものから、例えば、姦淫、争闘、復讐、残酷、その他そうした多くのものから派生しているのである。そこからその熱が放出され、それが熱病の熱へ落ち込むとき、身体を苦しめるが、しかしそれには非常な変化が伴っているのである。

 

 

 

霊界日記4591

 

 こうした地獄から来ている霊らは病人のもとにはいないが、しかしそうした熱からは、全般的なスフィアが、また全般的な流入が起っており、それがすぐさまその病気そのものによりその病気のものとされてしまうのである。そうした地獄そのものから来ている霊らがわたしと共にいたが、それはそうした霊らが何処から来ているかをわたしが教えられるためであったのであり、またその霊らはその場所と交流していたのである、すなわち、かれらが身を引くに応じて、その病はおだやかになり、近づくに応じて、それはさらに激しくなったのである。熱、冷寒、歯痛、こめかみ、頭、尻、種々の関節の痛みはこうしたものである。

 

 

 

 

<病気について>

霊界日記4592

 

 人間における病気は凡て今し方記したもの以外の源泉からは発していないで、非常に多くのものはいくたの欲念から、例えば、色々な悪徳の過度の放縦から、その多くのものから、同じく好色の行為の種々の身体の歓喜から、また将来にかかわる心労からのみ発しているのである。こうしたものが凡ゆる病気の真の原因である。死そのものもまた罪の理由以外のいかような源泉からも発してはいない。そうしたものが血液を腐敗させてしまうのであり、すなわち、血液が腐敗すると、そうしたものはその非常に小さな器官そのものを妨害し、ふさいでしまい、そのため病気が勃発するのである。ここから病気は地獄から発しているそのスフィアに相応している。もし人類が善の状態に生きたなら、そのときは人間は衰弱して、老年の極度の弱い状態にも達し、身体がもはや内なる人に仕えることができなくなると、その人間は、病気にもかかりはしないで、その地的な身体から他生へ移って行くのである。

 

 

 

 

4.息切れ

 

 

息切れ

7217

 

 

 

5.トマス・ア・ケンピス

 

 

トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/1・23・4

 

病気にかかったために自分を改める者が少ないことは、巡礼して聖人になる者が少ないのと同様である。

 

 

 

 

6.盲目であった者も他生では見えるようになる

 

 

天界の秘義994

 

 身体の生命の中で盲目であった者も他生では鋭い視覚を持っていた者と同じように見るのである。

 

 

 

 

7.苦痛、苦難となっていた身体的不完全さも消え失せるだろう

 

 

マリア・ヴァルトルタ「手記」抜粋/天使館/P216

 

「わたしは最初であり、最後である」(黙示録1・17)

 

 体において、考えられないほど美しく栄光化されたイエズスは、地球にいた時と違っており、違っていない。違っているのは、この世でいかに美しく、威厳があり、完全であろうとも、栄光化されたあらゆる体がもつ威厳と完璧さを帯びることは出来ないからだ。違っていないのは、肉の栄光化は人格の特徴を変質させないからだ。それゆえ体の復活では、背の高い者は背が高く、痩せている者は痩せており、逞しい人は逞しく、ブロンドの人はブロンド、茶髪の人は茶髪、などなどであろう。だが不完全さは消え去るだろう。においては、もし人間が罪と死と、あらゆる類の苦しみ、病気、人間同士の憎しみをそこに持ち込まなければ、地上の楽園でそう定められていたように、すべては美、純潔、健康、生命だからだ。

 

 地上の楽園は、栄光化された体をもつ者たちによって住まわれる天上の楽園の物質的な相似であった。地上の楽園の本来の外観は、天上の楽園、すなわち永遠の王国にもあるだろうが、それは超自然化されたかたちでそこにあるだろう。アダムの住まいを照らすために、によって創造された諸々の光、太陽、月、星々には、永遠の太陽(黙示録21・23)が、雅な、いとも清かなが、はたまた数知れぬ星々が取って替わるだろう。すなわち月を台にしての最も美しい星々を冠に戴くマリアを、その光で包む神・光が、またその無原罪の純潔をもってサタンに勝った、星の名をもつマリア(黙示録12・1)が、はたまた、正しい人たちに繋がれて(マタイ13・43)、の輝き、新しい天の星々となった聖人たちが取って替わるだろう。また、地上の楽園を潤していた河は、これによって人類を罪から洗浄し、諸徳を積ませ、育てるために肥沃にし、その創造主に喜ばれるに足るものとする手段を象徴していたが、この河には、そこからの河が、堕落した人類の罪を洗い、肥沃にし、に嘉されるものにするために湧き出す十字架のように、四本の支流があったが、それには、の都を流れ、子羊玉座から湧き出す生きた水の河が取って替わるだろう(黙示録22・1)。そして生命の木、これもまた、真の生命を失った者に再びそれを与えたを象徴する。すなわち、そこから生命を与える至聖なる果実が枝から垂れ下がっていたし、真の死に至らせる自我のすべての病に効くがもたらされた十字架には、黙示録(22・2)中に言われている『川の両岸』に立つ木々が取って替わるだろう。

 

 すべての不完全さは消えるだろう、とわたしは言った。天のエルサレムの住人はすでに完徳に到達し、もう堕落することはありえない―なぜなら神の都には、未だ不浄な罪人は入ることは出来ないし、不浄、嫌悪感、嘘を吐きだす者はそこに入ることは出来ないから―彼らにはどんな類の不完全さもない。感知しうる楽園に押し入ることの出来る大誘惑者も、天の楽園に忍び込むことは出来ない。その反逆により、すでにから地獄に落下したルシフェル(イザヤ書14・12−15)は、新しい天と新しい地が到来する前の、世の終わりに埋葬され『無』に帰するだろう。最早行動することも、あらゆる試練とあらゆる浄化を経てのうちに生きている者を、痛い目に遭わせることも危害を加えることも出来ないからだ。

 

 したがって、霊魂や知的能力にはいかなる欠点も不完全さも最早存続しないだろう。放縦な生活によって自ら招いたものであれ、苦痛、苦難となっていた身体的不完全さも消え失せるだろう。の子らの栄光化された体は、もし人間が、に創造された通りに十全のままでいたら彼を形造る三部分において、すべてにおいてそうであったように完全なものであろう。

 

 

 

 

8.霊界の霊たちの間には自然的な病気はない

 

 

遺稿 神学論文集P108

 

ベイエル博士に宛てたイマヌエル・スエデンボルグの第十番目の手紙から

 

霊界の霊たちの間には自然的な病気は在りませぬため、いかような病院も在りません、しかしそうしたものに代って霊的な発狂者の家が在り、その中に理論的に神を否定している者らがおり、他の家には現実に神を否定した者らがおります。世では白痴であった者らは、他生へ入って来ると、同様に愚物であり、白痴でありますが、彼らの外なるものが除かれ、その内なるものが開かれるとき―このことはすべての者に起りますが―その際はその者らの資質とその者らの前の生活とに一致した理解が与えられます、なぜなら真実の発狂と狂気とは外なるもの、または自然的なものの中に宿ってはいますが、内なる、または霊的な人の中には宿っていないからです。

 

 

 

9.マリア・ワルトルタ

 

 

マリア・ヴァルトルタ「手記」抜粋/天使館/P91

 

イエズスは言われる。

「(中略)

 モーセの時代からわたしは、わたしに対して赦しがたい罪を犯した人々をひどい病気によって罰した。モーセの姉マリアは、わたしのしもべモーセについて悪口を言ったので、その身体は癩に覆われた。彼らのについて悪口を言う人々が同じような、いやそれどころかもっと重い病気にかからぬはずがあろうか? 癩であれ、に対する、また、の感嘆すべき作品であるあなたたちに対するあなたたちの罪がますます広がったために、ますます伝播する。(後略)」

 

 

 

マリア・ヴァルトルタ「手記」抜粋/天使館/P93

 

 あなたたちの悪徳のしるしである多くの厭わしい病気、あなたたちが流すことを欲した、わたしを含むすべての血の証言となる水の中の血、呪われた人々を待ち受ける永遠の紅蓮の焔を前もって味わわせる太陽からの火、を憎む者を闇は待ち受けるとあなたたちに警告する暗闇、これらすべては、あなたたちを深い反省と悔悛へと導くためにある。

 

 

 

 

天使館/マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音/2卷P149/94.4−5(あかし書房/イエズスに出会った人々1卷P289)

 

女は斜面を転げ落ちるかと思われるほどすばしっこく下りると、ペトロが先生のもとに戻るより先に、イエズスの足下に着く。

「主よ、憐れんでください!」

 

「わたしはあなたを憐れむことができると信じますか?」。

 

「はい、あなたは聖者ですから、そしてわたしは悔悛者(かいしゅんしゃ)ですから。わたしは罪でありますが、あなたは憐れみでいらっしゃいます。わたしに最初に憐れみをかけてくださったのは、あなたのお弟子で、わたしにパンと信仰を恵みに来てくださった。主よ、肉よりも先にわたしの霊魂を清くしてください。と申しますのもわたしは三重に不浄ですが、あなたがたった一つの清浄しか与えられないとおっしゃるのなら、罪人のわたしの霊魂を清浄にしていただきたいからです。あなたのお弟子がわたしに繰り返したあなたのお言葉を聞く以前、わたしは人びとの中に戻るために病を治癒してもらいたいと望んでおりました。今は、永遠の生命を有するために赦していただきたいのです」。

 

「あなたを赦します。それ以外には何も・・・」。

 

「あなたは祝されますように! わたしは隠れ家で神の平和のうちに生きるでしょう・・・自由に・・・おお! 良心の呵責から、恐怖から解き放たれて。赦していただいた今は、もはや死さえも恐れません! 今は、わたしを赦してくださった神、あなたをもはや恐れません!」。

 

「湖へ行き、体を洗いなさい。そしてわたしが呼ぶまでそのまま水の中にいなさい」。

 

(中略)

 

イエズスを凝視すること以外何一つ見ていない女は、その二人の悲鳴を聞き、自分を指差している手を見て、はたと自分を見る・・・そして、あの着ていたぼろと共に、彼女の癩も湖に残して来たことに気づく。走り出すかと思いきや、走らない。裸の自分に恥じ入り、岸辺にうずくまり、泣き崩れる。その慟哭は、どんな叫びより悲痛でいつ果てるとも知れず、哀切である。

 

 イエズスは彼女に近づく・・・傍らに来る・・・彼女に布を掛けてやり、そっと頭を撫でて言う。

 

「さようなら。善い人であってください。あなたの痛悔の真摯さにより、あなたは恩寵を受けるに値したのです。キリストへの信仰において成長しなさい。清めの掟に従いなさい」。

 

 女はいつまでも、いつまでも、いつまでも泣きつづける・・・ペトロが踏み板を舟に引きずり上げる音を聞いた時、初めて顔を上げ、両腕を延べて叫ぶ。

 

「主よ、ありがとうございます。祝されたお方よ、祝されたお方よ!・・・」。

 

 イエズスは、舟が小さなフィヨルドの岬を曲がって消える前に、彼女に手を振って別れを告げる・・・

 

 

 

 

マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音/2卷P460/122.8

 

二人は喜び勇んで去って行く。過ぎ去った不幸の名残といえば青年の大きな頭部だけ。表情と言葉は正常に戻っている。

 

「それはそうと、あなたの意志によって治ったのですか、それともあなたのの力によってですか?」

 

を常に慈しまれる御父の御意志によってです。しかしわたしのは救いです。イエズスとは救い主という意味であることを、あなたたちは知っています。霊魂の、そして体の救いです。真の信仰をもってイエズスのを唱える者は、悪病と罪から蘇る、というのも、霊的、あるいは肉体的どんな病にもサタンの爪があり、サタンは、肉体的苦痛を通して反抗と絶望へと人を駆り立て、また倫理的あるいは霊的苦しみによって地獄落ちへと駆り立てようとして体の病気をつくり出すからです。」

 

「では、人類のどんな悩み来るしみにも、あなたのお考えでは、ベルゼブルは部外者ではない、ということになります」。

 

「部外者ではありません。彼によって病と死は世に入りました。また、犯罪と堕落は、同様に、彼によって世に入りました。何らかの不幸、不運によって苦しむ人を見る時、彼はサタンに苦しめられている、と考えていいのです。不幸、不運の原因になっている人を見る時、あなたたちは、彼はサタンの手先である、と考えなさい」。

 

「でも病気はから来ます」。

 

から与えられた秩序の中に、サタンからもたらされた無秩序は、肉の疾病とその結果、すなわち死、または致命的な遺伝をもたらしました。人はアダムとエバから原罪を継承しました。しかしそれだけではありません。原罪は人の三本の枝を抱き締めて、ますます拡張していきます。すなわち、肉はますます邪悪になり、またそれゆえに衰弱し、病み、精神はますます傲慢になり、またそれゆえに堕落し、霊はますます懐疑的になり、すなわちますます偶像崇拝者になります。したがって、わたしがあの脳水腫の青年にしたように、サタンを逃亡させるを教え、知性と心情にそれを刻みつけ、所有証印のように、自我の上に押す必要があります」。

 

 

 

 

マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音/1卷P468/122.13

 

あなたは、肉体の、あるいは心のどんな病気にもサタンがいる、とおっしゃいました・・・わたしには、心を病む一人の息子がおります。両親について語っておられた時、息子がそれを聞いていたら! わたしの悩みの種です。悪い仲間たちに誑(たぶら)かされて人の道を外れ、そして・・・ほんとうにあなたがおっしゃったように、・・・泥棒・・・今は家におりますが・・・喧嘩っ早くって・・・横暴で・・・若いものですから肉体と暴飲暴食で身を持ちくずしています。

 

 

 

 

10.聖母から司祭へ                                                                                      

 

 

聖母から司祭へ1988.12.31

 

―わたしの母としての役目は、毎日、わたしの子イエズスのみ前で、あなたたちのために取り次ぐことです。心配して注意する母のように、善と愛と聖徳の道を歩むために必要な恵みを、あなたたちみなのために、取り次いでいます。

罪人であるわたしの子らのために、わたしは、悔い改めと改心、そして主にたち返る恵みを取り次いでいます。

 病気であるわたしの子らのために、わたしは、すべての苦しみの意味を理解し、柔和な心をもって苦しみを受け入れ、愛をもってこれを捧げ、信頼と主のみ旨に対する子どもの従順によって、各々自分の十字架を担うことのできる恵みを与えます。(中略)

―わたしの母としての役目は、今日、世界で犯されている多くの悪をつぐなうことにあります。

 

 

 

聖母から司祭へ1989.10.13

 

―第一の災害の天使は、額と手に獣の印を受けるのに承知し、獣の像を礼拝した人々の肉に、ひじょうに苦しい悪性の傷をきざむのです。この傷をうけた人は、失望のあまりに叫ぶようになります。

 

 この傷は、不治の悪性の病で、体におそいかかる苦しみを示しています。

 苦しい悪性の傷とは、無神論によって唯物的な文化をつくり、快楽を探すことを人間生活の最高の目的とする今日、これほど堕落した全人類にふりかかる無知のことです。わたしのあわれな子らのある者は、自分たちの不潔な罪と道徳上の無秩序のために、この傷をうけ、行った悪の重荷を自分たちのうちに担っています。

 他の者は、これと異なって、善良で罪はないにしても、この同じ傷を受けます。この場合、この人々の苦しみは、あなたたちをみな一つに結び合わせる連帯性によって、多くの悪人の救いに役立ちます。

 

 

 

 

11.聖なる病気

 

 

あかし書房/フェデリコ・バルバロ訳編/マリア・ワルトルタ/イエズスに出会った人々3./P336

 

「けれども病気、死、災い、悲惨な出来事が続き、皆に見捨てられる時、信、望、愛を忘れず、『いとも高き御方の望みが実現されますように。今起きていることは私にとって有益です』と変わらず言える人こそ、まことに言うが、神の助けを受けるに値するのみならず、神の国での住まいが用意され、もはや清めを必要としない。」

 

 

 

 

マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音4巻下P235

 

 病気に見舞われることは避けられません。あらゆる病気は悪徳の、あるいは罰の証拠だとは限りません。からその義人たちに送られる聖なる病気があります、というのも、己をすべてと見なし、快楽の手段とする世には、他人の救いのために戦争の人質のようである聖人たちがいて、本人自ら彼らの苦しみで、世が日毎に積み重ね溜め込んでゆく大量の罪を償い、人類の上で潰え、その呪詛の下に人類を埋葬します。あなたたちは、ヨシュアがの名において戦っている間、祈っている老いたモーセのことを思い出しますか? 聖性を帯びて苦しむ者こそ、世にいて人びとや民の仮面をつけて隠れているサタン、拷問者、あらゆる悪の原因、残忍な戦士に対して最も偉大な攻撃を加えるということを、あなたたちが考えなければなりません。しかしながら、が送られるこれらの聖なる病気と、官能にまつわる不義の愛のための悪徳から送られる病気との間には、どれほどの相違があることか! 第一のそれはの有益な意志の証拠であり、第二のそれはサタン的腐敗の証拠です。

 だから聖人であるためには愛する必要があります、というのも愛は創造し、保存し、聖化するからです。

 わたしもまたこの真理をあなたたちに告げ、ネヘミヤとエズラのように『この日はわたしたちの神、主に奉献される。喪に服すな。泣くな』と言います。なぜならどの喪もの日を生きる時に止みます。死はその苦み、渋みを止めます、というのも息子の、夫の、父の母の、あるいは兄弟の死は、束の間の、限られた離別になります。瞬間的なのはわたしたちの死と共に止むからです。限られているのは、体に、感覚に限定されるからです。霊魂は亡くなった縁者の死と共に何一つ失いません。それどころか二分の一という自由には限界がありません。つまり生き残りのわたしたちの霊魂は肉体のうちにまだ閉じ込められているのに、ところが一方もう一つの部分、あのすでに第二の人生に移った霊魂は、自由を、また眠らずにいる力を肉体の牢獄から愛し合った時よりもはるかに享受しています。

ネヘミヤとエズラのように、わたしはあなたたちに言います、『肥えた肉を食べ、甘い葡萄酒を飲みに行きなさい。そしてそれがない人びとにはその分け前を送り届けなさい、というのもの聖なる日であるからこの日は誰も苦しんではならぬのです。誰も鬱々としていてはなりません、なぜならあなたたちのうちにあるの喜悦は、自らの城壁の内にまた自らの心の中に、いと高きの聖寵を受ける者の力だからです』と。

 

 

 

 

天使館/マリア・ヴァルトルタ/自叙伝/P436

 

 神を愛する者にとって、病気は喜びです。激しい恐怖の反応は、しばらくして止み、それが再び訪れることはありません。肉体は苦しみます。でも苦しむのは肉体だけです。そのほかはすべて喜びです。この人たちは、最も熱心な懇願の仕方で、苦痛を望んでいます・・・健康な者が健康であり続けるのを望むときよりも熱心に。彼らは神が十字架を背負って進んで来られる姿を遠くに見ると、喜び勇んで会いに行き、差し出される聖なる御手に口づけし、最も大切なものとして十字架に口づけします。十字架を受け取るのに、ぐずぐずすることはありません。しっかり胸に抱きしめると、肩に乗せ、歌を歌いながら進みます・・・神が前に立ち、そして彼らは後に続きます、師の足跡をたどりながら。道が険しくなろうと、イバラだらけになろうと、石だらけになろうと気にしません。イバラのとげに肉を引き裂かれても、石で足の皮がむけても、太陽が照りつけて傷を悪化させようと、水で衣服が濡れようと、風で凍えそうになろうと、夜道を歩くのが辛かろうと、気にしません・・・最後には陽が昇ることを知っているからです! 険しい道は、最後には、火が混じった滑らかなガラスの海に変わるでしょう。それは子羊の都へと続きます。そしてその素晴らしい海の岸辺で、彼らはモーセの歌と子羊の歌とを永遠に歌うでしょう(*)。彼らはこれらのことをすべて知っていますから、彼らを楽にしようとしてくれる慈悲深いキレネ人に十字架を渡しません。彼らは言います。「いけません、イエズス、いとしい尊いお方、あなたは私のためにもう持ってくださいました。今度は私が、兄弟姉妹のために持つ番です。もしあなたの十字架で、私の肩に傷が出来、そこから血が流れたら、イエズスよ、ご覧ください、血の奇蹟を。硬い木の上の私の哀れな血が、善の花に変わるのを! 」そうです、十字架は愛されるならば花開くのです。そうです、十字架はそれを寛大な心で運ぶ者にとっては、天使のように速く飛ぶ翼になるのです・・・

 

*出エジプト記15・1−18、黙示録15・2−4

 

 私は少しの間茫然としていましたが、すぐに運命に身を委ねました。“委ねた”と言うのは正確ではありません。むしろこう言うべきでしょう。「最初の当惑の後、すでに病気で家に引きこもったときと同じことを、ベッドに寝たきりになったときにも行い、歌いながら私の十字架に口づけしました。そして実を言うと、それを一瞬も下ろすことなく、いつも歌いながら運び続けているのです」。

 苦痛が弱まるとき、私の回復のために祈りが挙げられていることが分かるとき、私は身震いして、私の宝物が取り上げられるのっではないかと心配になります。それは私が神に寄せている無限の信頼の中で、唯一私を揺るがすことでしょう。私があまりんい無価値なのっで、神はもう私を御子の贖いのわざに参加させないことにされたのではないかと考えたくなるのでした・・・そして私の価値の無さを認識し、神の慈悲が無限であることに慣れ親しんでいる私は、哀れで惨めな私たち人間を贖い主の高さまで持ち上げてくださる神を思い、落胆して激しく嘆くこともあります。でも私は私の神を信頼します!

 

 

 

 

12.疫病

 

 

天界の秘義7102

 

「かれが疫病、または剣をもって私たちに襲いかかられないためであります」。これは、悪と誤謬との堕地獄の状態を避けるために、を意味していることは以下から明白である、即ち、『かれが私たちに襲いかかられないためであります』の意義は、彼らが堕地獄を引き起こさないためである、であり、『疫病』の意義は悪の堕地獄であり(そのことについては以下に述べよう)、『剣』の意義は真理の剥奪であり、また誤謬の刑罰であり(2799番を参照)、かくてまた堕地獄である、なぜなら真理が剥奪されるとき誤謬が罰せられることは堕地獄の状態であるからである。

 

 

 

天界の秘義7102〔2〕

 

 聖言には四種類の剥奪と刑罰とが記されている、即ち、剣、飢饉、悪い獣、疫病が記されており、『剣』により真理の剥奪と誤謬の刑罰とが意味され、『飢饉』により善の剥奪と悪の刑罰が意味され、『悪い獣』により誤謬から発した悪の刑罰が意味され、『疫病』により、誤謬からは発しないで、悪から発している悪の刑罰が意味されているのである。刑罰が意味されているため、堕地獄もまた意味されている、なぜなら堕地獄が悪に強固に止まっている者らの刑罰であるからである。この四種類の刑罰についてはエゼキエル書に以下のように記されているのである―

 

わたしがエルサレムにわたしの四つの悪い審判を、(即ち)剣、飢饉、悪い獣、疫病を送って、そこから人と獣とを断ち去るとき(エゼキエル14・21)。

 

 わたしはあなたらに飢饉と悪い獣を送って、あなたらから奪い取ろう、疫病と血とはあなたの中を過ぎるであろう、特にわたしはあなたの上にもたらそう(エゼキエル5・17)。

 

 

 

 

天界の秘義7102〔3〕

 

『疫病』により悪の刑罰とその堕地獄とが意味されていることは以下の記事から明白である。エゼキエル書には―

 

 荒れた所にいる者らは剣によって死に、畠の面にいる者をわたしは野獣に与えて、これをかみ食わせ、砦と洞穴とにいる者らは疫病で死ぬであろう(エゼキエル33・27)。

 

『荒れた所で剣により死ぬこと』は真理を剥奪されて、そこから誤謬の堕地獄(の状態)にあることを意味し、『畠の面にいる者が野獣に与えられてかみ食われること』は誤謬から発した悪にいる者らの堕地獄(の状態)を意味し、『砦と洞穴とにいる者らが疫病で死ぬこと』は、誤謬によって悪を強固にする悪そのものの堕地獄(の状態)を意味している。

 

 

 

天界の秘義7102〔9〕

 

かれはその怒りの道を向けられ、彼らの魂を死から止められず、その生命を疫病で閉じられた(詩篇78・50)。

 

 これはエジプト人を語っており、『疫病』は凡ゆる種類の悪とその堕地獄とを意味しているのである。

 

 

 

 

13.病気について、熱病といったものをもたらす[引き起こす]者らについて、妖婦の地獄について

 

 

霊界日記4571

 

 

霊界日記4572

 

 

 

 

14.テレーゼ・ノイマン

 

 

ドン・ボスコ社/カール・デンライトネル著/テレーゼ・ノイマン/P36

 

「私は人間はどんな日々を送るのが、み心にかなう道かは存じません。ただ神さまだけごぞんじでいらっしゃいます。苦しみも、よろこびも、すべて神さまにおまかせしてあります。」

 

 

 

ドン・ボスコ社/カール・デンライトネル著/テレーゼ・ノイマン/P50

 

「たいていの人は、私が幼いイエズスの聖テレジアの列聖の日には丈夫になれるようにと祈っている、と思いこんでおられたようでしたけれども、私は決してそんな祈りはいたしませんでした。神さまは私たちに今、必要なことは、私たちより神さまのほうが、とっくにごぞんじでいらっしゃることを私は知っています。」

 

 

 

ドン・ボスコ社/カール・デンライトネル著/テレーゼ・ノイマン/P51

 

「この光の中からの声をききました。

『テレ―ゼよ、あなたは丈夫になりたくないか』という美しい声がしました。私は、

『私は生きることも、死ぬことも、丈夫なのも病気でいるのも、みな、楽しいことです。でもそれはみな、神さまがご存知です』と答えました。声はまた私に、

『あなたは、もういちど立てるようになったらさぞ嬉しいことでしょうね』とたずねました。私は、

『神さまのなさることでしたら、どんなことでもうれしゅうございます』とこたえ、それからつづけて、私が楽しく思うことをありったけ数え上げました。いろいろな草花や小鳥やあるいはまた、何か新しい苦しみ、それさえ楽しみです。しかしいちばんの喜びは救い主です』とこたえました。」

 

 

 

 

15.ヘレン・ケラー

 

 

めるくまーる/鳥田恵訳/高橋和夫監修/ヘレン・ケラー/光の中へ/P190

 

「私は自分の身体的障害を、どんな意味でも神罰だとか不慮の事故であると思いこんだことは一度もありません。もしそんな考え方をしていたら、私は障害を克服する強さを発揮することはできなかったはずです。いつも思うのですが、“ヘブル人に宛てたパウロの書簡”にある『神がこらしめられるのは、私たちを子として扱っておられるからである』(「ヘブル人への手紙」127節)という言葉には、とても特別な意味がこめられているようです。スウェーデンボルグの教えも、私のこの見解を支持してくれています。つまり彼は、必ずと言っていいほど誤解される“こらしめ”とか“せっかん”という聖書中の言葉を“神罰”としてではなく、“鍛錬”“試練”“魂の浄化”として定義しているのです。(中略)

 

そうなると、あらゆる種類の障害は、当人がみずからを開発して真の自由を獲得するように勇気づけるための、愛の鞭ということになります。それらは、石のように堅い心を切り開いて神からの高尚な贈り物を自分の存在の中から見つけ出すために、私たちに手渡された道具なのです。」

 

 

 

 

めるくまーる/鳥田恵訳/高橋和夫監修/ヘレン・ケラー/光の中へ/P192

 

けれども、それを言葉どおりに受け取ってしまったのでは、彼らを侮辱し、人間の尊厳を侮辱することになります。私たちの内側には、あえてさらけ出さなかったり、そうしたいと思わなかったり、そうできなかった、もっと多くの感情や力や人間らしさがあり、もっとも近しい友人ですらそれを知らずにいるということに、私たちはいくたび気づかされることでしょう。私たちはあまりに自分自身を知らなすぎます。だからこそ、内なる自己を開き、無知を追放し、仮面をはぎ取り、古い偶像を捨て、間違った規範を打破するために、私たちには障害と試練が必要なのです。このような荒っぽい覚醒手段だけが、絶え間なく圧力をかけてくる外的世界の執拗な窮屈さや煩わしさから私たちを解放してくれます。」

 

 

 

めるくまーる/鳥田恵訳/高橋和夫監修/ヘレン・ケラー/光の中へ/P196

 

「彼はどんな出来事やどんな障害の中にも選択の機会があり、選択は創造であるということを私たちに説いているのです。私たちは、試練を自己破滅へと方向づけることもできれば、逆に試練を善のための新しい力へと転換することもできます。一般的な意見や因習に身をまかせて漂うこともできれば、内なる霊魂の導きに身をゆだね、真理へ向かって勇敢に漕ぎ出すこともできます。自分の経験が本当に神によって祝福されたものであるかどうかは、外側から判定することはできません。私たち自身がそこに何を注ぐかによって、それが毒の盃ともなり、健康な生命ともなるのです。」

 

 

 

めるくまーる/鳥田恵訳/高橋和夫監修/ヘレン・ケラー/『光の中へ』/P208

 

「私には、死を直視することを恐れるような貧弱な信仰は理解することができません。死の前でくずおれるような信仰は、頼りがいのないか細いアシにすぎないからです。」

 

 

 

 

16.悪は霊魂に有害であり、国家に有害であり、身体に有害

 

 

結婚愛130

 

即ち、それは悪は霊魂に有害であり、国家に有害であり、身体に有害であるため、それを避けることであり、善は霊魂に、国家に身体に有益であるため、それを行うことである。

 

 

 

17.サンダー・シング

 

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P156

 

接吻は子に対する母の愛の外的しるしだが、子が伝染病にかかれば母は接吻を控えるだろう。それでも、苦しむわが子に対する母の愛は、少なくなるどころかますます燃え上がる。子は、母の愛と気遣いをいつも以上に必要としているからだ。同じように、神は、罪という伝染病にかかった人々を見捨てているようにみえても、彼らに向けられる神の愛は、子に対する母の愛よりも限りがない。神の忍耐もまた限りがない。人はちっぽけなヤカンのように、ごくささいなことにもすぐに湯気を立てるが、神はそうではない。神がそんなに短気だったら、この世はとっくの昔に灰と化していただろう。