死を恐れない
1.マリア・ワルトルタ
2.トマス・ア・ケンピス
3.ヴァッスーラ
4.スウェーデンボルグ
5.ルイザ・ピッカレータ
6.ファニー・モイスィーバ
7.ジャン・マリ・ヴィアンネ
8.ヘレン・ケラー
9.アグレダのマリア
10.サンダー・シング
11.マーリン・キャロザース
天界の秘義3780[4]
ダビデの書には―
誠実を守り、公正な者を見よ、その人の終りは平安である(詩篇37・37)。
1.マリア・ワルトルタ
マリア・ワルトルタ/聖母マリアの詩下P301
(救われた娼婦アグラエ)
「はい、信じます、信じます! でも、どうか“私は許す”と私に聞かせてください」
「私は、神とイエズスの名であなたを許します」
「ありがとう・・・ありがとうございます・・・これから私はどうしたらよいのですか。私の救い主よ、永遠の命をもらうためには、私はどうすべきですか。男は、私を見ただけで堕落します・・・私は、見つかり求められるという絶えざる恐れの中でも生きていけません。この前の旅のとき、私はすべての男の視線におびえていました。もうこれ以上罪を犯したくないし、犯させたくもありません。私の歩むべき道を教えてください。どんな道であろうとも歩きます。ごらんのとおり、私は貧困と苦労の中にあっても強い。死でさえも怖くない。死はこの世の危険から私を救ってくれます」
マリア・ワルトルタ/聖母マリアの詩 上/P39
(主が羊飼いのエリアに)
死は幼いイエズスの姿で見た神との、永遠の出会いです。
マリア・ワルトルタ/イエズスに出会った人々3・P87
皆さんに平和! 言うまでもなく、金しか持っていない年寄りにとっても、莫大な財産のある青年にとっても死はつらい。だが高い徳を持ち、清い生活をしている人にとって、死は少しもつらくない。真の知恵者は、若い時から死さえもつらくないような生き方をしようとしています。
“生とは死の準備であり、また同様に、死とは最も崇高なる命への準備です”真の知恵者は、生と死の意味を悟った時、はかない物事に執着しないように人事を尽くし、裁きの時、神に捧げるために、永遠に役立つもの、すなわち、多くの徳や善行をつむのです。真の知恵者は、その生きざまにおいてまた知恵において老人を超え、そして少年よりも柔軟です。徳と正義を持って生きるならば、しばしば少年にさえも見られない初々しさを保つからです。
死とは何と甘美なことか。命が霧の中に後ろ姿を見せて去って行っても、疲れきった頭を御父の胸にもたせかけ、その懐に抱かれて『父よ、あなたを愛します。あなたに望みます。あなたを信じます』と、今はの際に言い、天国の輝く光を浴びて『永遠にあなたを愛します』と何度も何度も繰り返すのは何と喜ばしい!! 死をつらいものと考えていますか。死はすべての人間に課せられたものであり、信仰を持たず、罪にまみれている人たちにのみ重苦しい憂慮となるものです。
だれかが亡くなると、時に『もう少し長生きしたら、善いことをもっとたくさん行って、より大きな報いを得られたでしょうに』と言われたりするが、そういうものではありません。霊魂は、時間がどれくらい与えられているかを漠然と自覚しています。それは永遠に比べると、ほんの一瞬です。
それにしても、どれほどのあわれな霊魂たちがこういったことに触れないよう心を砕き、その代わりに、善意の人々が絶えず神の戒めに従って働き、時として聖人は日々の暮らしに豊かな功徳を持っています。百年いや千年、それ以上生きたとしても、今を超える聖徳には至らないと思います。なぜなら、神への愛、隣人への愛に、できる限りの寛大さを持ち、すべてにわたって実行するならば、それはもう完徳に到達しているからです。天国では“何年生きたか”ではなく“どう生きたか”が重視されるのです。
亡きがらを前にして、人はしばしば涙をこぼします。けれども遺体は泣きません。死を思えば恐れおののくけれど、臨終の時、そうならないように生きることについては気にも留めていないのです。むしろ、生きる屍のために泣くべきです。この人たちこそ真の屍であり、墓と化した体に息絶えた霊魂を住まわせているのです。いつか訪れる肉体の死を思って悲しむよりも、己の中(うち)にある屍のために泣くべきです。己を振り返って悲しむこともなく、浮かれて暮らしている生きた屍をどれほど見てきたことか。数多くの徳の冠を得て、神との一致を守りつつ亡くなった夫や親兄弟また友人のために、おろおろ涙を流すくせに、悪徳や罪のためにもはや屍となっている子供や夫や兄弟のためには泣かないのです。
どうして死んでいる人々をよみがえらせようとしないのですか。そうすることに真の愛があります。最高の愛です。土に帰った亡がらを悲しむのは愚かなことです。むしろ、最も愛している人の死んだ霊魂を悲しむべきです。この人々をよみがえらせるために全力をつくすべきです。愛する人にとりわけ大きな力をもつあなた方、ご婦人たちによく聞いてもらいたいのです。
マリア・ワルトルタ/マグダラのマリア/P376
(主がラザロに)
私たちヘブライ人は、異教徒たちがするように、墓に彫刻やデザインをしないが、もし、それをするとすれば、消えた松明か、からっぽの水時計とか、またはその他の“終わり”を表わす何らかの象徴ではなく、土地に埋まって穂に咲く種子を刻むべきです。なぜなら、霊魂を、その殻から解放し、そして神の花壇で実らせるのは肉体の死であるからです。
マリア・ワルトルタ/マグダラのマリア/P377
「マリア、私はこれを望む。私のよい婢を。今日は昨日よりも、明日は今日よりも・・・。私が『マリア、これでよい。もうあなたの休みの時が来た』という時まで」
「そうしたら主よ、あなたが私を呼んでくださるのを望みます。私の兄を墓の外へ呼ばれたと同じように。おお! この世においての命より外へ!」
「いいえ、命の外ではなく、あなたを命へ。“あなたを命へ、まことの命へいつか呼ぶでしょう”肉体と、この世という墓から外へあなたを呼ぶでしょう。あなたを、あなたの魂の主との婚姻へ」
マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音/第3巻中/P150/
172・5−7
(主)
あなたたちは謙遜で、清く、愛深く、信頼に満ちた誠実な心の人となりなさい。花婿の前で慎ましく恥らう処女の愛をもって神を愛しなさい。真実にあなたたちに言いますが、どの霊魂も永遠の愛する御者(アマト―レ)、われらの神なる主に嫁いだ一人の処女なのです。この地球は婚約時代であり、そこで一人ひとりに与えられる守護の天使は、わたしたちの人生の全時間を通して花婿の家へ案内する霊的付き添い人であり、また臨終の時に婚礼衣裳を整える侍女でもあるのです。死の時は完結した婚礼の時であり、その時、認識、抱擁、融合がなされ、霊魂は完結した花嫁の資格でそのベールを上げ、その神の腕の中に身を投じることが出来るのです。このように花婿を愛するために、他者をスキャンダルに誘うことも無く。
マリア・ワルトルタ/マグダラのマリア/P367
(主)
ある人がすでに死んでいて、自分が彼に与えた苦しみをなぐさめることができないという呵責がないような生活を送る人は幸せである。しかし自分の神、私イエズスを苦しめた呵責のない人は、もっと幸せである。この人は私との出会いを恐れず、むしろ一生涯にわたって夢見たそれを、喜びをもって迎える人である。
マリア・ワルトルタ59・4/天使館第1巻P534
主:
あなたたちが、日、月、年、世紀と呼ぶ時間の尺度は、あなたたちを生かしている永遠の霊の動悸なのです。しかしあなたたちは、自分の霊魂において永遠なのですから、その霊魂ゆえに、あなたたちの創造主がもつ時間の尺度と同じ方法をもつべきなのです。したがって、『明日はわたしが死ぬ日となろう』と言うことです。いやむしろ、信じる者にとっては死ではありません。休息しつつ待機することであり、天の門を開くメシアを待機することです。
そして、まことにわたしはあなたたちに言いますが、今、ここにいる人たちのうち、二十七人だけが、待機すべく死ぬでしょう。その他の人たちは、死ぬ前にすでに裁かれるでしょう。そして死は、神への、それともマンモンへのぐずぐずできない移行です。メシアは来て、あなたたちの間におり、福音をのべ、真理に基づいて教え、天に救い上げようとしてあなたたちを呼んでいるからです。
悔い改めなさい! 天の王国の『明日』は近づいています。永遠の日を所有する者になれるように、清められた者となりなさい。
あなたたちに平安。
マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音2巻P557
131アックヮ・スペツィオーザでの説教。「他人のものは何であれ盗んではならず、欲しがってはならない」。ヘロデの罪。
1945年3月15日。
この小鳥ほど陽気で幸せな被造物がいるでしょうか? にもかかわらずその賢さは人の知性に比べれば何でしょうか? 一つの山に比べればシリカの鱗片のようなものです。しかしこの小鳥はあなたたちに教えています。まことにあなたたちに言いますが、不純な欲望を抱かずに生きる者は、小鳥の陽気さを所有します。彼は神に自らを委ね、神を父だと感じています。彼は昇る日に微笑み、下りる夜の帳に向かって微笑みます。太陽は彼の友であり、夜は彼の乳母だと知っているからです。彼は人に恨みを抱かず、人の復讐にもびくともしません。何一つ、人を傷つけていないからです。彼はその健康や睡眠について託(かこ)つことはありません。誠実な生き方は病気を遠ざけ、安らかな眠りを与えることを知っているからです。最後に、彼は死をも恐れません。良い行いをしてきたので、神の微笑を浴びることしかできないと心得ているからです。
王も死にます。金持ちも死にます。死を遠ざけるのは王笏ではなく、不死を買うお金でもありません。王の中の王、主人の中の主の前では王冠も金貨も笑止千万なものであり、ただ一つ価値をもつのは、律法のうちに生きられた一生だけです!
マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音/7卷P110/444・7
さて、神は努力する必要がないことを知っていますね。彼は完全で、無限ですから。けれども、人間である神は、無限の神の本性から、限りある人間にへりくだることによって、努力することができます。彼のうちにおいて、人間の本性は欠けているのでも、比喩的なものでもなく、実在しますが、それに打ち勝ちます。あらゆる感覚、感情、受難と死の可能性に、自由意志で打ち勝つのです。
死を愛する人はいません。とりわけ、それが苦痛を伴い、早過ぎ、不当なものであれば。誰も死を愛しません。けれども、誰もが死ななければなりません。ですから、死を迎えるすべての生き物を見るのと同じ平静さで、死を見なければなりません。よろしい。わたしは、わたしの人間性に死を愛させましょう。そればかりでなく、人類のために死ねる命を選びます。このようにして、わたしは人間である神という状態で、神のままでいたならば得られなかった功徳を得ます。そして、その無限の功徳によって、わたしは神としてばかりでなく、人間としても無限の力を得るでしょう。なぜなら、その功徳が得られるのは、神の本性が人間の本性に加わるからであり、わたしがそれにふさわしい愛と服従の徳によって自分を差し出すからであり、わたしの父である神に受け入れていただくよう、わたしの心に、堅忍、正義、自制、賢慮の、あらゆる徳を積むからです。わたしはすべての人のために自分を犠牲にします。これこそ、無限の愛です。それは功徳を得られる犠牲です。犠牲が大きければ大きいほど、功徳も増します。完全な犠牲に完全な功徳。最上の犠牲に最上の功徳。それは、その犠牲者の聖なる意志の通りに用いられます。父が、『おまえの望むようにしなさい!』とおっしゃるからです。犠牲者は神と隣人とを、はかりしれないほど愛しています。
マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P199
(やもめのシラに)
「あなたはシリア人ですか?」
「フェニキア人です、主よ。シドンの彼方の者で、私たちはタミリ川の辺りに住んでいます。私には他に十人の男の子と二人の娘がいます。一人の名はシラでもう一人の名はタミーラと言います。シラはまだ娘と言っていいほど若いのに、もうやもめです。やもめになったので、この町に来て、あなたの弟子である兄弟の家に住んでいます。あなたには何でもおできになると言ったのは、彼女でした」
「ここに一緒にいないのですか?」
「向こうのあの女たちの後ろにいます」
「前に来なさい」とイエズスは命令する。女は怖々近寄って来る。
「私を愛しているなら怖がることはありません」と、イエズスは慰める。
「愛していますから、アレキサンドロ・シエネの町から出て来ました。あなたのおことばを聞けば、苦しみに耐えられると考えましたから・・・」と泣く。
「何時、やもめになりましたか?」
「あなたたちのアダルの終りごろでした・・・もしあなたがおられたなら、ゼノは死ななかったでしょう。彼がそう言っていました・・・ゼノはあなたの話を聞いて信じていたからです」
「それなら彼は死んでいません。私を信じる者は生きるからです。真の命は肉体が生きる今にあるのではない。命とは、道と真理と生命を信じて、それに従って生きることによって得られます。神を信じてその信仰に従って生きたのが、たとえ一日、一時間だけであっても、そう生きたなら、その人はもう死を知りません。すべての人間の父である私の父は、信仰と法と義において送った時間の長さではなく、『死ぬまでそれを守って生きたいという意志』をごらんになります。私を信じ、私が言う通り行う人、救い主を愛し、この愛を広げて、自分の生きる限り、私の教えを実行する人に、私は永遠の命を約束します。私のぶどう畑に働きに来て、『主よ、あなたの労働者に加えてください』と言って、その意志を変えず、最後まで努力するすべての人は生きます。たとえ自分の命の最後の一時間だけでも、私のぶどう畑で熱心に働けば、最初の時間から働いても、大して熱心ではなく、ただ罰を恐れて働いた人々よりも先に報いを得ます。なぜなら、私の父は直ちに光栄を与えて報いるやり方はなさいません。永遠の罰を避けるに必要なだけの僅かな善だけを行おうと勘定するような人々に、永遠の裁き手は長い償いを与えます。そのような人々は、熱心に、神の光栄を探す真の愛とは何かを、長い償いの間に学ばねばなりません。ここで特に言っておきますが、未来においては特に異邦人の中で、一時間だけの、あるいはそれよりも短い時間働いて私の国で光栄を受けるであろう人々は多い。神のぶどう畑に招かれて、聖寵に従って愛の英雄的な行為に達した人々です。女よ、安心しなさい。あなたの夫は死んではいない。生きています。あなたは彼を失ったのではなく、少しの間離れているだけです。今は、花婿の家にまだ入ったことのない花嫁として、不滅の婚姻を準備せねばなりません。徳を得るために働き、もう別れのない、愛を失う恐れも罰もない二人の霊魂の幸せな婚姻に備えることです。霊魂は神に対して、また互いの愛の中で喜び勇むでしょう。『義人にとって死は命である。霊魂の生命力を危うくすることは何もなく、永久に正義の中に生き残れる』 ああ、シラ、はかない命を惜しんで泣くな。心を高く上げ、真の正義をもって見なさい。世間は私への信仰を滅ぼす危険があるから、神はあなたの夫をその危険から救われたのです。あなたを愛してくださったために」
マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音/7卷下P188/493・5
偶像崇拝と異教信仰は、克服することができます。賢い人は瞑想して言います、『真の神の所へ行けば、永遠の喜びがあるのに、なぜ偶像に屈して、より高い生の夢を捨てなければならないのか』と言います。人は、日々を惜しみ、死を恐れます。偽りの宗教や不信仰の闇に覆われれば覆われるほど、人は死を恐れるものです。でも、真の信仰に近づく人は、死を恐れなくなります。死の先に永遠の生命があり、そこで霊魂たちは再び出会い、苦しみも別れもなくなることを知っているからです。生命の道を進むことは、難しくありません。唯一の真の神を信じ、隣人を愛し、すべての行動において誠実であればよいのです。
あなたがたイスラエル人は、何が命じられ、何が禁じられているかを知っています。けれども、わたしの話を聞いている人びとのためにそれを繰り返し、彼らを遠くへ連れて行きます・・・(そして、イエズスは十戒を言う)。真の宗教は、そこにあります。派手で空虚な犠牲にあるのではありません。完全な道徳と完全な美徳の教えに従い、慈悲深くし、不名誉な行いを避けなさい。邪悪な人の虚栄、占い、前兆、夢を捨てなさい。知恵の本が言うように、神からの賜物である、健康、富、知性、力を誇ることなく正しく用いなさい。うぬぼれは、愚かさのしるしです。人が健康で、豊かで、賢く、強くいられるのは、神がお許しになる限りのことです。人を罪にさえ導きかねない、不道徳な望みを育んではいけません。人は、動物としてではなく、人間として行きなければなりません。自分を尊重しながら。
落ちるのは簡単ですが、上がるのは難しいです。けれども、臭い溝に落ちたまま、太陽輝く、花咲く山頂に戻りたいと思わない人がいるでしょうか? まことにあなたがたに言います。罪びとの生活とは、溝の中、間違いの人生にいることです。けれども、真理の言葉を受けて、真理に近づく人は、光溢れる山頂へ上ります。
マリア・ワルトルタ/復活/P16
「でも私には、何を言っていいのか分かりません。何を言っても、彼は泣くばかりです・・・」
「主の定めがどこにあるかをお話しなさい。恐れているばかりでは、まだ神を知ったとは言えません。もし、罪を犯したとしても、神が罪人をどんなにか愛しておられるかをお話しなさい。神さまはその愛のために、“御ひとり子”をこの世にお送りくださったではありませんか。その神さまの愛には、私たちも愛をもって答えねばならないでしょう。
愛はまた、神さまへの信頼をよび、その信頼は、神さまの裁きを恐れさせないようにさせます。」
2.トマス・ア・ケンピス
トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/1・23・1
この下界におけるあなたのことは、間もなくおわってしまうだろう。だから自分のありさまはどうかと考えて見よ。きょう人はまだ生きている。しかしあすはもう見えなくなってしまうだろう。
そしてひとたび見える世界から立ち去れば、たちまち他人に忘れられてしまうのである。
ああ、人の心は愚鈍で頑固なもの、目先のことばかり考えて、未来のことは少しもかまわないのである。
何をするにも思うにも、きょう死ななければならぬかのように、用心して行うがよい。
もし良心にやましいことがないならば、死もそれほど恐ろしくはあるまい。
死をのがれようとするよりは、罪をさけるほうがよい。
きょうもし準備ができていないならば、どうしてあすそれができよう?
あすのことは頼みにならぬ。あなたにあすの日があると、どうして知ることができよう。
さあ、愛する者よ、あなたがもし今、つねに神を畏れて死を目の前に描くならばどれほど大きな危険をまぬがれ、どれほど大きな恐れを除き去ることができるだろう!
死ぬ時になって恐れるよりも喜ぶことができるような生活を、今しようと努めよ。
その時からキリストと共に生きることができるように、いま世間に対して死ぬことを学べ。
その時自由にキリストのみもとに行くことができるように、いますべての物を軽んずることを学べ。
その時固い自信がもてるように、いま苦行によってあなたの肉体を懲らせ。
トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/1・24・7
たといあなたが今日まで名誉や快楽のうちに生活(くら)して来たとしても、今この瞬間に死ななければならぬとしたら、それらはみなあなたにとってなんの役に立とう? だから神を愛し、それにお仕えするほかは、すべてむなしい。
なんとなれば、完全な愛は神に安心して近づかせるから、神を愛する者は、死も罰も審判も地獄も恐れないからである。
だからいままだ罪を愛している人が、死や審判を恐れるのも、別にふしぎではない。
しかし愛によって、あなたが悪をはなれ得ないにしても、せめて地獄を恐れる心で罪におちいるのを思いとどまるならば、それも結構である。
けれども神をおそれる心のない人は、長く善にふみとどまっていることができず、やがて悪魔のワナにかかってしまうのである。
トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/2・12・1
『自分を捨て、自分の十字架を取ってイエズスにしたがえ。』(マタイ16・24)とはひどい言葉だと多くの人は思っている。
しかし『のろわれた者よ、わたしをはなれて永遠の火に入れ。』(マタイ25・41)という最後の言葉はもっとひどく聞こえるだろう。
だからいま喜んで十字架の言葉を聞き、これにしたがう者は、永遠の刑罰の宣告を聞く心配はあるまい。
主がさばくためにおいでになる時には、この十字架の印が天に現われるだろう。
その時生前自分を、十字架に付けられたもうお方に肖(あや)からせた十字架のしもべたちは、みな大きい信頼をもって審判者であるキリストに近づくだろう。
3.ヴァッスーラ
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/4巻P197
‘90・7・30 ロードス島、聖ネクタリオの修道院で
さあ、あなた方の多くは正しい道から逸れ 胸のうちに罪を隠し持ち、私を受けるのを怖れている、告解し 自らを解放しなさい、真に悔い改め 清らかさと聖性のうちに私が受けられるように 断食しなさい ♡
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち8巻P125
平安を与える。私を喜ばせて こう唱えなさい:
イエス、わが唯一の愛、
イエス、私の霊感よ、
霊魂の仲間、
イエス
あなたお一人が 私の杯、
私の飲み物、わが祝福、
み心の深奥に お隠し下さい
天国へと 死が救い出すまで。
霊魂の保護者よ、
ともにいて下さい どこまでも
アーメン。
これをあなたのテーマとしなさい。
祝福を与えたが 今ふたたび 祝福しよう。 愛が ともにいる。私たち? ic
4.スウェーデンボルグ
人間の生命の目的のいかようなものであるかは、病んで死が切迫している際明白になることについて
霊界日記1235
名誉・・・死を恐れる
財産・・・遺言
霊界日記4592
<病気について>
人間における病気は凡て今し方記したもの以外の源泉からは発していないで、非常に多くのものはいくたの欲念から、例えば、色々な悪徳の過度の放縦から、その多くのものから、同じく好色の行為の種々の身体の歓喜から、また将来にかかわる心労からのみ発しているのである。こうしたものが凡ゆる病気の真の原因である。死そのものもまた罪の理由以外のいかような源泉からも発してはいない。そうしたものが血液を腐敗させてしまうのであり、すなわち、血液が腐敗すると、そうしたものはその非常に小さな器官そのものを妨害し、ふさいでしまい、そのため病気が勃発するのである。ここから病気は地獄から発しているそのスフィアに相応している。もし人類が善の状態に生きたなら、そのときは人間は衰弱して、老年の極度の弱い状態にも達し、身体がもはや内なる人に仕えることができなくなると、その人間は、病気にもかかりはしないで、その地的な身体から他生へ移って行くのである。
天界と地獄445
身体はその霊が霊界から得ているその霊の幾多の思考と情愛とに相応して、自然界でその機能を果たすことが最早不可能となった時、人間は死ぬと言われている。これは肺臓の呼吸と心臓の鼓動とが停止する時起こりはするが、しかもその人間は死ぬのではなく、単に彼が世で用いるために持っていた身体の部分と離れるのみであって、その人間自身は生きているのである。人間自身は生きていると言うのは、人間は身体から人間ではなくて、霊から人間であるからである、なぜなら霊が人間の中に考え、その考え[思考]が情愛と共になって人間を作っているからである。このことから人間は死ぬと、単に一つの世界から他の世界へ移って行くに過ぎないことが明らかである。従って、死は聖言では、その内意では復活と生命の連続とを意味している。
注1
聖言では死は復活を意味している、なぜなら人間は死んでも、依然その生命は連続しているからである、3498、3505、4618、4621、6036、6221。
スヴェーデンボリ叙事詩P629
いったん主と結ばれた者は、この世においてすら永遠のいのちを前もって味わいます、そしてもはやこの束の間のいのちにはあまりこだわらなくなります。私を信じてください。もし私が、神は明日ご自分のもとに私を召されている、と知ったなら、私は今日、音楽家たちを呼び、よき最期のために、もう一度この世の楽しみを感じましょう。
5.ルイザ・ピッカレータ
ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国/4巻P147
私はすっかり困惑してしまい、なんとお答えしてよいか分からないでいますと、イエスはお消えになりました。少ししてから戻ってこられましたが、主と一緒に、非常に死を恐れている様々な人たちを見ました。私はそれを見て申しました。
「愛すべきイエスよ、多くの人が死を恐れているのを見ますが、私が死を恐れないことは欠点でしょうか? 私が思いますには、死はいつまでも私とあなたを一致させますので、別離という私のつらい殉教も終わるでしょう。死についての考えは、私になんの恐れも生じさせないだけでなく、私にとっては慰めです。それは私に平和を与えてくれますので、私は、それと共に死をもたらす他のすべてのことを放棄して、死を大歓迎するでしょう。」
「娘よ、本当をいうと、死についてのこのおかしな恐れは、馬鹿げたことである。各自は皆私の功徳、私の徳、私の働きを、天に入るためのパスポートとしてもっているのだから。私はそれを皆に贈り物として与えて、皆に、彼らの功徳、徳、わざを付け加えてあげた。このようなこと全てがあるというのに、死について何の恐れを抱くことがあろうか? このもっとも確かなパスポートによって、霊魂は自分が望む場所に入ることができ、このパスポートのおかげで、皆彼女を尊重し、通路をあけてくれる。
あなたに関しては、私と関係したことと、崇高な善との一致はいかに甘美で愛しいものであるかを体験したのだから、まったく死を恐れる必要はない。私に捧げるために可能な、もっとも私から好まれる贈答品は、私と一致するために死を望むということである、ということも覚えておきなさい。これが、霊魂が自身を浄めるためと、何の仲介も経ずにまっすぐ天への道をたどるための、もっとも美しい心の態度である。」
こうおっしゃると、イエスは消え去られました。
6.ファニー・モイスィーバ
「愛する者なのに、どうして人は死者を恐れるのですか?」
彼は答えた。
「それは、死が、人間誰にとっても、恐るべき、理解し難い神秘であるからです。彼らは死の瞬間に、死者がもはやこの世界の一部ではなくなったと考え、また、本能的に彼の霊魂が遺体の近くに存在することを感じ、その魂が現れて彼らを告発することを恐れるからです。また、霊魂が不滅であるとすれば、自分自身の罪と、罰に値する死に直面しなければならなくなるからです。
そこで、死への恐怖とは、神への恐怖であるのです。逆に、善なる人は心の中で神を愛していますから、死を恐れることはありません。あなたは魂が不滅であり、存続することを知り、魂の不滅を疑う人びとがいかに間違っているかを知りました。
7.ジャン・マリ・ヴィアンネ
聖ヴィアンネの精神P137
ごらんなさい、罪の状態にある人は、始終悲しそうにいています。何をしても無駄です。すべてに倦み、味気なくなってきます。
・ ・・これに反し、神様と和睦している者は、いつも満ち足りていて、喜びに溢れています・・・ああ、立派な生涯・・・そし
て、立派な死・・・。皆さん、私共は死を恐れます・・・たしかにそうだと思います。罪が死を恐れさすのです。罪が死をむごいもの、恐るべきものにするのです。この世から来世への戦慄すべき移り行きのときに、悪人を恐れさすのは罪です。
アルスの司祭P46
私たちの体を通して、死はただ清くされます。
聖ヴィアンネの精神P250
聖アウグスチノは死を恐れる者は神様を愛していないと言っています。これは本当です。ながいこと父親から離れているならば会うのが嬉しくないでしょうか。
8.ヘレン・ケラー
光の中へ/P206
「けれども私は、二つの世界があることを知っています。ひとつは、紐やものさしで測ることができる世界であり、もうひとつは、心や直感で感じ取ることができる世界です。スウェーデンボルグは来世とはたんに想像できるだけでなく、望んでそこに行けるところである、としています。この世に生きている人たちは、やがて別離と悲しみを引き連れた死の脅威に出会うことになりますが、その人たちに対する彼のメッセージは、神のみもとから吹き出す甘美な息吹のように人々の心に吹きわたります。今や私たちは、“大自然”と同じような姿勢で死と出会うことができます。あたかも“大自然”が不滅性を奪おうとする死をものともせず、金やエメラルドや真紅の衣裳でみずからを着飾るように、私たちももっとまぶしい思想と光輝く期待を身にまとって、楽しげな足取りで墓場へと行進し、炎と輝いて死と出会うことができるのです。」
光の中へ/P208
「私には、死を直視することを恐れるような貧弱な信仰は理解することができません。死の前でくずおれるような信仰は、頼りがいのないか細いアシにすぎないからです。」
9.アグレダのマリア
アグレダのマリア/神の都市/P343
元后の御言葉
私の娘よ、私が御子の人間としての死を見習い、自然死を遂げたことを御子なる主は御喜びになり、一つの恩恵を教会の子供たちに与えて下さいました。私に信心する者たちが死に際して私を呼び、私の幸せな死と主を模倣したいという希望を思い出し、私の弁護を望むならば、私の特別な保護を受け、悪霊たちに対して私によって守られ、主の慈悲の法廷に共に出廷し、私の取り成しを受けることになります。従って主は、私に新しい権力と任務を御与えになり、私の貴い死の神秘を崇め、私の助けを願う全ての人たちに良き死と、より純粋な生活のために恩寵を下さることを約束して下さいました。それゆえ、私はあなたが今日よりこの神秘を心の奥底で信心し、愛すること、私と三人の罪人の奇跡をなさった全能者を祝い、讃え、崇めることを希望します。
死は命の延長であり、命の状態と一致しますから、良き死の最も確かな保証は、良き生活です。つまり、この世の愛から心を離して重い鎖から解き放たれて生きることです。原罪の影響から自由になり、生きることです。情欲の重荷や足枷を棄てて生きることです。
アグレダのマリア/神の都市/P344
死は命の延長であり、命の状態と一致しますから、良き死の最も確かな保証は、良き生活です。つまり、この世の愛から心を離して重い鎖から解き放たれて生きることです。原罪の影響から自由になり、生きることです。情欲の重荷や足枷を棄てて生きることです。
10.サンダー・シング
サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P64
天界、あるいは神の王国は、現世にいる真の信仰者の生活の中にその始まりをみる。どのような迫害や苦難を身に受けようと。彼らの心は常に平和と歓びに満ちている。すべての平和と生命の本源である神が、彼らの中に宿っているからだ。死は彼らにとって死ではなく、永遠の家に永遠に入るための戸口である。こうもいえよう。彼らはすでに永遠の御国への新生を体験しているのだが、体を離れる日は彼らにとっては死の日ではなく、霊界への誕生日になるということだ。それが彼らにとって最高の歓びとなることは、次の出来事からも明らかである。
ある義人の死
三十年の間、全身全霊をもって主に仕えてきた真のクリスチャンが、臨終の床に就いていたときのことを、ある天使が話してくれた。死ぬ二、三分前に、主は彼の霊眼を開き、体を離れ去る前に霊界を一瞥して周囲の人々にみたことを話せるようにしてくださった。彼は、天が自分に向かってすでに開かれ、天使と聖徒の一団が彼を迎え入れるために進み出て、入口にはキリストが両手を大きく広げて待っていてくれるのをみた。この光景を目にしたとき、彼は付き添いの人々が驚くほどの歓喜の叫び声をあげた。
「おお、何という歓びであろう。わたしは主とお会いできることをずっと待ち続けていたのだ。みよ! 愛に光り輝く主の聖顔を。わたしを迎えにきてくれている天使の群れを。何と神々しい場所だろう。わたしは本当の故郷に向かって旅立つのだから、どうか悲しまず、喜んでおくれ」
ベッド脇にいた人たちの一人が、「意識が朦朧としているゆおだ」と小声で話した。こんお言葉をきくと、彼はいった。
「違う。意識ははっきりしている。この素晴らしい光景がみえませんか。あなたの目から隠されているとは残念だ。お別れです。次の世でまた会いましょう」
こういうと、彼は両瞼を閉じ、「主よ、わが魂を御手に委ねます」との言葉とともに永眠した。
徳間書店/林陽編訳/サンダー・シング/イエス・キリスト封印の聖書/P166
彼は、チベットに行くことと、自分が世を離れることをいつも関連づけていました。
「わたしは、もう一度チベットに行きたい。自分の時が短いことを知らされている。わたしはこれを大いに喜ぶ。死を思う度に、大きな歓びに満たされる。」
スイスでの講演では、チベットでの殉教を予期するような言葉を残している。
「わたしは、ある日、チベットで死ぬことになると思っても恐れない。その日がくれば、喜びをもってこれを迎える。わたしは毎年チベットに戻る。次の年にも、あなた方はわたしがチベットで命を落としたという知らせを耳にするかもしれない。そのときには、『彼は死んだ』と思わず、『彼は天国と永遠の生命に入った。彼は完全な生命の中でキリストとともにいる』といっていただきたい。」
「1920年、英国滞在中に、わたしは死の床にある男性の見舞いを頼まれた。時間がなかったので最初は断ったが、『是非とも行って会うとよいでしょう。あなたのためになります』と神の人が言ったため、見舞いに行くことにした。彼は極貧の人で、世話をする娘と二人だけで暮らしていた。全身が病に冒され、長い年月のあいだ苦しみ続けていた。体はすっかり衰弱し、まるで骸骨のようである。しかし、彼の瞳は星のように光り輝いていた。彼はこう語った。『あなたはわたしに教えるために来られたのですか。しかし、教えたいのはわたしの方です。人々は、苦しみの最中では真の幸福は持てないといいますが、わたしは神に感謝しているのです。わたしは、長い苦しみの中にあっても、驚くべき幸せを見ています。それは、国王が宮殿にいても得られないほどの歓びです』。彼は、体は衰弱しきっているように見えたが、顔は天使のように輝き、目には天国があった。『わたしは、もうすぐ死ぬでしょう。どうか、皆にいってください。わたしは死ぬのではありません。真の意味で生きようとしているのです』。わたしは、行って彼の歓びのメッセージを人々に伝えた。伝え終わったときに、彼が死んだことをきかされた。この人は、死の直前に驚くほどの歓びをもって、人々にこう語ったという。『わたしは、天使たちとともに救い主にお会いするために行きます。救い主とともに住むために』。しかし、人々にはこれを理解することができなかった。この世的な人々は、この貧しい男が持てたような歓びに与ることができないのである。」
サンダー・シング/イエス・キリスト封印の聖書/P304
「またあるとき、わたしは、司祭とともにハンセン病患者を見舞いに行った。友は病人に『可哀想に、あなたの苦しみを見るのはとても辛い』と声をかけたが、相手の答をきいていたく驚いた。『あなたは悲しみばかりを思っておられるが、わたしは心が素晴らしい平和に満たされていることを、神に感謝しています。自分がこのような病にかかっていることについても感謝しているのです』。わたしは、この男が難病であることに感謝しているときいて驚かされたが、彼はさらにこう付け加えたのである。『自分が健康体だったら、きっと、人殺しや盗賊になっていたでしょう。しかし、わたしはこの病を通して罪という病を知ったのです。肉体の病から癒されることを、今は願っていません。わたしは、霊的な病を癒やされて、今や、イエス・キリストにある歓びを発見したのですから』。この貧しい人は、言葉には尽くすことのできない歓喜を持っていた。言葉には出せずとも、彼の涙がそれを静かに物語っていた。キリストは、貧しい者に福音を伝えるために来られたが、貧しい人はそれを身をもって知るのである。わたしは、ともにいた司祭は、この貧しい人ほどの幸せを得てはいないと思った。そして、富める人、健康な人の多くもまた、貧しい人々ほどには幸せではないと知った。本の中にではなく、生けるキリストの中に貧しい人への福音があることは、経験が証明している」
マーリン・キャロザース/信仰その驚くべき力/P279
信仰のない人たちは、うわべは飾っていても、心の内には死と未知なことへの恐怖があります。
マーリン・キャロザース/信仰その驚くべき力/P280
人は、自分が死んだら、あとはどうなるかということを心配するのも神はご存じでした。また若くて健康なときには、そんなことは考えもしないでしょう。しかし、病気、老齢、何かの危険などに脅かされると、人はみな死後のいのちについて考え始めます。私は戦場でそんな人たちを数多く見てきたので、神を信じない人や、死後のいのちを信じたことがない人がどうなるかをよく知っています。
死という黒い雲が迫って来ると、何かを信じていようといまいと、人はそのことに心を奪われます。陸軍の従軍牧師だったころ、私は数多くの兵士たちと、死や死後のいのちについて話し合いました。すると、神を信じていない人たちの中にも、私の話すことが真実だと信じてくれる人たちも出てきたのです。神が私を戦場に遣わした理由のひとつがこのことだったと私は信じています。
そして、今私は、数多くのまだ神を知らない人たちにあることを話しなさいと神に語られていると信じています。あることとは、死後のいのちは実際あることです。死ねば何が起きるかを、私たちははっきり知ることができるのです。
マーリン・キャロザース/信仰その驚くべき力/P279
祈りへの答え、心の喜び、神が守ってくださるという確信などは、信仰によって得られます。信仰がなければ、サタンが喜んで用いている苦しみの犠牲になるかもしれません。
雲の間にある虹出版/エレミヤ宮下訳/マーリン・キャロザース/恐れからの解放/P260
私は父の病院でベッドの足元に立っていました。12歳の私は、父がもう2度と家に戻らないなどとは考えてもみませんでした。
「マーリン、良い子になるんだよ」というのが、だれかが私を病室から連れ出すときに、父が私に言った最後の言葉でした。
それからまもなく父の心臓は止まりました。担当医は、心臓を刺激するため、注射をしました。母によると、父は目を開き「そんな必要はないよ。私はもう行くから」と言ったそうです。
数秒間、父は身体を持ち上げて座る姿勢をとり、ベッドの足元に目をやりました。顔に輝くような笑みを浮かべて、「見てごらん、彼らがやって来る」と言いました。それから、後ろに倒れて息をひきとったのです。