天国への憧れ

 

 

嘆息天使

宇宙創造の目的この世の意義

死を恐れない

 

 

 

 

1.天使になろうとする希望(スウェーデンボルグ)

2.天国への関心と憧れ(ルイザ・ピッカレータ)

3.天! それはわたしの目的(マリア・ワルトルタ)

4.この世を軽んじて天国にはいろうと努めるのこそ最高の知恵(トマス・ア・ケンピス)

5.ジャン・マリ・ヴィアンネ

6.天を望まない人は天国を得られない

7.ヴァッスーラ・・・この世で私を悦ばすものは、もう何もありません

8.凡て宗教的な人間はそれについて考え、そこに行こうと願う

9.それでもその人間はその最も内なるところでは平安の状態の中にいる、それを目的として彼は闘う

 

 

 

 

 

1.天使になろうとする希望(スウェーデンボルグ)

 

 

天界と地獄517

 

 諸天界の教えは地上の教えとは以下の点で、すなわち知識は記憶に植え付けられないで、生命に植え付けられるということで異なっている、なぜなら霊たちはその生命に一致した物をすべて受け入れ、吸収はするが、それに一致しない物は受け入れず、まして吸収はしないため、その記憶はその生命の中に宿っているからである、なぜなら霊たちは情愛であって、そこからその情愛に類似した人間の形を持っているからである。彼らの実情はこうしたものであるため、真理に対する情愛は生命の用のために絶えず吹き込まれている、なぜなら主は各々の者がその資質に応じて用を愛するように配慮され、その愛もまた天使になろうとする希望により生気づけられているからである。そして天界の用はすべて共通の用に関係しているため―その共通の用とは、主の王国が彼らの国家であるため、その王国の善である―また特殊な、個々の用は、それがその共通の善を更に近くまた更に完全に求めているに応じて、益々卓越したものとなっているため、この無数の、特殊な、個々の用は凡て善であり、また天界的なものである。それ故各々の者のもとでは真理に対する情愛は用に対する情愛と連結して、その二つは一つのものとなっており、この方法によって真理は用の中に植え付けられ、かくて彼らの学ぶ真理は用の真理である。このようにして天使的な霊達は教えられて、天界に入る準備をする。用を目標とした真理に対する情愛は色々な方法により注ぎ入れられているが、その方法の大半は世では知られていない。それは主として用を表象したものにより注ぎ入れられているが、その表象は霊界では無数の方法で示され、またその霊に、その心の内部からその身体の外部までも染み入って、全体に感動を与えるほどの歓喜と快楽とをもって示されている。かくて、その霊はいわばその霊自身の用の化身となり、それで彼は教えを受けた後で、自分自身の社会へ入ると、自分自身の用を遂行して、自分自身の生命を楽しむのである。これらの事柄から、外なる真理である知識は何人をも天界へ導き入れず、知識によって植え付けられたところの、用の生命である生命そのものが天界へ入れるものであることが明白となるであろう。

 

 

 

2.天国への関心と憧れ(ルイザ・ピッカレータ)

 

 

ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国/1巻P152

 

私の魂にとって、この地上の全ての物事は天国のそれに比べますと、まるでなにか腐敗物であるかのような感覚さえ与えられていましたので、身体の中にとどまっていなければならないという義務はなんと辛く感じられたことだったでしょう。他の人にとっては感覚的に気持ちのよいことでも、私にとっては煩わしく、苦しみに満ちたもののように思われましたし、また他の人びとでしたら、その人と会話を続けるために、どれほどの礼儀と丁重さをもって接するであろうかと思われるほど、非常にきれいであったり、重要人物であるような人びとでも、私にとっては無関心であるばかりでなく、退屈にさえ感じられるのでした。私の心はほんの少しの満足や嬉しさの影をも感じるわけではありませんでしたが、これらの人びとをただ神の似姿として眺める時にのみ、我慢できるのでした。まさにそのようでしたから、私の心は非常に騒ぎ、落ち着かなくなり、絶えず天国への関心と憧れにせかされて、イエスに訴えておりました。私の内面はこの地上の物事にたいして非常な心痛、にがみ、嫌気などを感じ、これら全てのことは、この世でこれ以上生きつづけることを不可能にするのではないかと信じさせるほどまでに私を苦しめるのでした。しかし私にとっては全ての出来事のうちに存在する従順が私の前に立ちふさがり、これ以上死を望まず、神が望まれることに従うようにという絶対的命令をもって、大変うまく私にブレーキをかけました。私にできる範囲内で、頭の中から死についての考えを遠ざけるように努めました。しかしそれにもかかわらず、私の心の中には天の故郷への憧れと熱望をこめた絶え間ない射祷のかずかずがしっかりと刻まれているのでした。それから私の心は従順によって大部分静まりましたが、完全にではありません。時折りちょっと逃げ出したり・・・本当を申しますと相当不完全でした。

 

 

 

ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国/4巻P147

 

 私はすっかり困惑してしまい、なんとお答えしてよいか分からないでいますと、イエスはお消えになりました。少ししてから戻ってこられましたが、主と一緒に、非常に死を恐れている様々な人たちを見ました。私はそれを見て申しました。

「愛すべきイエスよ、多くの人が死を恐れているのを見ますが、私が死を恐れないことは欠点でしょうか? 私が思いますには、死はいつまでも私とあなたを一致させますので、別離という私のつらい殉教も終わるでしょう。死についての考えは、私になんの恐れも生じさせないだけでなく、私にとっては慰めです。それは私に平和を与えてくれますので、私は、それと共に死をもたらす他のすべてのことを放棄して、死を大歓迎するでしょう。」

「娘よ、本当をいうと、死についてのこのおかしな恐れは、馬鹿げたことである。各自は皆私の功徳、私の徳、私の働きを、天に入るためのパスポートとしてもっているのだから。私はそれを皆に贈り物として与えて、皆に、彼らの功徳、徳、わざを付け加えてあげた。このようなこと全てがあるというのに、死について何の恐れを抱くことがあろうか? このもっとも確かなパスポートによって、霊魂は自分が望む場所に入ることができ、このパスポートのおかげで、皆彼女を尊重し、通路をあけてくれる。

 あなたに関しては、私と関係したことと、崇高な善との一致はいかに甘美で愛しいものであるかを体験したのだから、まったく死を恐れる必要はない。私に捧げるために可能な、もっとも私から好まれる贈答品は、私と一致するために死を望むということである、ということも覚えておきなさい。これが、霊魂が自身を浄めるためと、何の仲介も経ずにまっすぐ天への道をたどるための、もっとも美しい心の態度である。」

 こうおっしゃると、イエスは消え去られました。

 

 

 

 

3.天! それはわたしの目的(マリア・ワルトルタ)

 

 

マリア・ワルトルタ29・10/天使館1巻P240

 

わたしは、神が私に知らせようとなさったことのみを一途に知ろうとし、自分自身に、あるいは神に対して、自分に言われたこと以外何一つ尋ねず、暴飲暴食、知識欲、所有欲に打ち勝ちました。何やかやと詮索せずに、わたしは信じました。わたしが快楽の暴飲暴食に打ち勝ったのは、味覚に耽溺することを一切拒否したからです。わたしは自分の肉を足の下に置きました。サタンの道具である肉を、天に上る階段とするために、わたしはサタン諸共踵で踏みつけました。天! それはわたしの目的です。神が在したのはあそこです。わたしの唯一の渇望です。食い意地ではなく、神に祝福される必然の飢えであり、彼はわたしたちが彼に飢え渇くことを望んでおられます。

 

 

 

マリア・ワルトルタ/聖母マリアの詩/下P99

 

イエズスがマリア・ワルトルタに:

 

私があなたたちに望むことは、天国に対する聖なるあこがれである。

 

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズスに出会った人々1.P139

 

「それなら、あなたに言わせれば、聖書で自殺して死んだと言っている人々は悪かったのですね」

 

「だれに対しても、自分に対しても暴力はよくない。その人たちが悪かったのです。ただ、善悪の判断がまだできなかったから、ある時は神からあわれみを受けたと思われます。しかし、みことばがすべての真理をはっきりさせたであろうその時から“絶望して死ぬ人にはゆるされはしない”

ユダ、このことをよく考えなさい。命は賜物の一つで、愛すべきものの一つです。しかし、どういう賜物でしょうか。聖なる賜物ですから、清い心をもって愛すべきです。命は肉体が健全である間、続きます。後には、大なる命、永遠の命が始まります。義人たちにとって幸福、義人でない人にとって呪いの命。命は目的か手段か? 手段です。永遠という目的のために役立たせるべきです。それなら、この世にいる間、命に生きるためと霊に仕えるため、それだけのものを与えるべきです。肉体の“すべて”の欲望を節制すべきです。理性の“すべて”の邪悪な望みを節制すべきです。人間くさい“すべて”の邪欲に、心の節制をすべきです。その代わり、天を目指している“すべて”の憧憬への限りない飛躍、神と隣人への愛、神と隣人に仕える意思、神のみことばへの従順、善と徳に対しての英雄であるべきです。

ユダ、私はおまえに答えました。この説明で十分ですか、納得できますか。いつも真実でありなさい。よく分からないようなら質問しなさい。私は先生でいるためにここにいます」

 

 

 

 

4.この世を軽んじて天国にはいろうと努めるのこそ最高の知恵(トマス・ア・ケンピス)

 

 

トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/1・1・3

 あなたがもし謙遜でなくて聖三位のおぼしめしにかなわぬならば、聖三位に ついて深い議論をすることができても、なんの役に立とう。
 まことに人を聖人義人にするのは高尚な言葉ではない。私たちを神に愛される者とするのは、ただ徳の高い生涯だけである。
 私は痛悔の定義を知るよりも、むしろ痛悔を心に深く感じたい。
 あなたがたとい聖書全部とあらゆる学者の言葉とをことごとく暗記したところで神を愛する心とその恩恵とがなければなんの役に立とうか。
「空の空なるかな、すべて空である」(伝道書1・2)しかし神を愛し、これにのみお仕えすることは別である。
 この世を軽んじて天国にはいろうと努めるのこそ最高の知恵である。」

 

 

 

トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/1・1・4

 

長生きすることばかり望んで、善良な生活を送るよう心がけないのはむなしいことである。

 この世のことばかり考えて、後の世の用意をしないのはむなしいことである。

 たちまち過ぎ去るものを愛して、終わりない歓楽(よろこび)の所に向かって急がないのはむなしいことである。

 

 

 

第48章 永遠の日およびこの世の苦悩について

 

トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/3・48・1

 

ああ天の都のいとも幸いなる住居(すまい)よ! ああ永遠のいとも輝かしき日よ!

 

 

 

 

5.ジャン・マリ・ヴィアンネ

 

アルスの司祭P11

 

神の聖なる現存について考えることはほんとうに甘美で、慰めるものです。神は決して悩ましません。時は矢の如くすぎていきます。喜びは天国を待ち望むことです。―私たちは神を見るでしょう。私の兄弟たちよ、今まで考えたことがありますか。私たちは神を見るでしょう。本当に神を見るでしょう。

私たちは神を(中略)面と向かって見るでしょう。私たちは神を見るでしょう。

 

 

 

 

6.天を望まない人は天国を得られない

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズスに出会った人々1.P307

 

そうです。サタンはあなたたちをより分けるために、罠をしかけるに違いない。私も、あなたたちを救うために、ふるいにかけます。争うものは二人です。サタンと私。その真ん中に、あなたたち。愛と憎しみ、知恵と無知、善と悪との間の決闘が、あなたたちの目前で行われます。あなたたちに対しての邪悪な打撃をかわすためには、私だけで足ります。あなたたちを愛しているから、私が代りに傷つけられるのを引き受け、サタンの武器の前に立ちはだかります。

 

そうはいっても、あなたたちの中の打撃は、あなたたちの自由意志で私の方へ走り寄り、真理と命である私の道によって、自分でかわすべきです。天を望まない人は天国を得られません。キリストの弟子となるにふさわしくない人は、世間の風が吹き飛ばしていく軽い塵みたいなものです。

 

 

 

 

7.ヴァッスーラ・・・この世で私を悦ばすものは、もう何もありません

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/4巻P178

‘90・7・4

 

私はもろく、迫害者たちはあきらめずに追って来ますが、あなたに希望を置き、あなたのためにだけ、この追放の地に生きているのです。この世で私を悦ばすものは、もう何もありません。目はすでにあなたの平和の世界を慕い求め、心も魂もあなたへの愛に恋い焦がれています。

 

 

 

 

8.凡て宗教的な人間はそれについて考え、そこに行こうと願う

 

 

神の摂理60

 

「無限で永遠な者との類似は天界に存在している」。天使たちの天界につき多少知っておくことは大切である。なぜなら凡て宗教的な人間はそれについて考え、そこに行こうと願うからである。しかし天界に通じる道を知って、その中を歩む以外には何人も天界に到達することは出来ない。この道は天界を構成する者たちの性格から多少知ることが出来、また何人も天使の性質を世から携えて行かないかぎり、天使にはならず、または天界に入らない事実からも多少知ることが出来よう。このことはその道を歩むことによってその道を知ってそこを歩むことを予想している。また霊界には、天界の凡ゆる社会と地獄の凡ゆる社会に通じている道があり、各自はいわば、本能的に己が道を見るのである。彼が己が道を見ることは凡ての愛に相応した道があるという事実に起因しており、愛はその道を開き、彼を彼自身に似た者の許へ導いて行くのである。何人も自分の愛に相応しない道は見ない。それゆえ天使は天界の愛以外の何ものでもないことが明白である。なぜならもしそうでないなら、彼らは天界に至る道を見ないからである。しかし天界について述べることによりこのことは更に明らかとなるであろう。

 

 

 

 

9.それでもその人間はその最も内なるところでは平安の状態の中にいる、それを目的として彼は闘う

 

 

天界の秘義3696[2]

 

再生しつつある人間の中の新しい生命の場合も殆ど同じである。即ち、最初彼は静謐の状態の中にいるが、新しい生命へ移って行くにつれ、それと同時にまた不安な状態へ移って行くのである。なぜなら前に彼に浸透するようになっていた幾多の悪と誤謬とが出現し、発生してきて、彼を悩ませ、遂にはそれは彼の新しい生命の状態を破壊しようと絶えず努めている悪魔の一味により加えられる試練と懊悩に陥る程にも至るのである。それでもその人間はその最も内なるところでは平安の状態の中にいるのである。なぜならもしそれが彼の最も内なるところに存在しない限り彼は闘わないからである。なぜなら彼はその闘争において絶えずこの状態をその目的として注視しており、そしてこのような目的を持たない限り、彼は闘う力と強さを決して持ちはしなからである。更にこれが彼が勝利を得る理由であり、これが目指している目的であるため、彼はまたその幾多の闘争または幾多の試練の後でこの状態の中へ入ってくるのである。これは秋と冬との状態に続いてくる春の状態に似ており、または夕と夜とに続いてくる暁の状態に似ている。(霊的な事柄における平安の状態は自然的なものにおける春と暁に似ていることは、前の1726、2780番に見ることが出来よう、また平安は善と真理から発し、不安は悪い誤ったものから発していることは3170番に見ることが出来よう、また平安は善と真理から発し、不安は悪い誤ったものから発していることは3170番に見ることが出来よう。