天使

ミカエル守護の天使天使の力天使の視力

天使の知恵天使の言葉天使の身体

天使たちは各々の人間のもとにその情愛の中に住んでいる

光の天使光の子

1.天使

3.主に仕える

4.他の者に与えようと欲する

5.天使たちは人間のもとにいる

6.天使は内なるものを見る

7.天使の知恵

8.天使の視線の威力

9.天的な天使の認識

10.主、天使にまさるもの

11.主から天使たちは人間を導き守る、それは一瞬の一瞬毎に行われている

12.悪霊は攻撃し、天使は防御する

13.天使は年老いることがない

14.天使は他の者の性質をただ一連の言葉からでも知る

16.主に対する愛の中にいる者は天使のようであって、ただ身体を着けている点が異なっているに過ぎない(最古代教会)

17.天使は壮麗な家に住む

18.ときとして天使は天使自身から語らないで、主から語っている

20.神的摂理

21.最初は天使として記されているが、後には『エホバ』として記されている天使

22. 天使の顔

23.天使になろうとする希望

24.ヨブ記 天すら、神の目には清くない

25.世では天使のように見えた多くの者は悪魔

26.天使の名

27.翼のついた天使

 

 

 

 

 

マタイ18・10

 

これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである。

 

 

 

 

1.天使

スウェーデンボルグ/真のキリスト教/677

 

この教会へ入れられることは地上に生ずるが、しかし、洗礼はまた幼児達をキリスト教天界と接触させ、天使達は彼処にかれらを守護することを主より命ぜられる。嬰児が受洗されると、天使はすぐ任命されてその子供達を主から信仰を受ける状態に居らせる。しかし、彼らは成長し、自分で考え且つ行動するようになるとその守護天使は彼らを離れ、かくて青年達は自分達の生活と信仰とに一致する霊達を自らの交友として惹き寄せる。それ故、洗礼はまた霊界に於けるキリスト教徒との連結へ導くものである。

 

 

スウェーデンボルグ/天界と地獄340

 

理知と知恵とが天使を作るのであって

 

 

天界の秘義10528

 

 主から発した主に対する愛の善と信仰の諸真理の中にいる者たちは死後天使となり、それを行う者たちは世に生きている間でさえも内的には天使であるからである。

 

 

天界の秘義9303

 

主の三一性について

 

このことは天界の天使から考えることができる。

天使は人間の形をとって現れているが、それでも彼の中には三つのものが在って、それが一つのものとなっている。

眼前には現れていない内なるものが在り、実際現れている外なるものが在り、その天使から遠方までも注ぎ出されているところのその情愛と思考とのスフィアが在るのである。この三つのものが一人の天使を作っている。

 

 

天界の秘義1079

 

「その父の裸かを見た」(創世記9・22)

 

これは彼がその過誤と歪曲とを観察したことを意味することは『裸か』の意義から明白であり(それについては直ぐ前の記事とまた前の213、214番を参照されたい)、それは悪い、歪められたものである。ここには、仁慈から分離した信仰の中にいる者らが『ハム』により、すなわち、彼がその父の裸かを見たことの中に、すなわち、彼の過誤と歪曲とを見たことの中に記されているのである。なぜならこうした性格の者は人間の中に他の何物をも見ないのであるが、それに反して―それと非常に相違して―仁慈の信仰の中にいる者たちは良いものを観察し、もし何か悪い誤ったものを見ても、それを赦し、もし出来ることなら、ここにセムとヤペテについて言われているように、彼の中にそれを矯正しようと試みるのである。仁慈が無いところには、そこに自己への愛が在り、それで自己に与しない凡ての者に対する憎悪が存在している。従ってこうした人物は隣人の中に悪いもののみを見、何か良い物を見ても、それを無価値なものとして認めるか、またはそれを悪く解釈するのである。仁慈の中にいる者は全くその反対である。こうした相違により、この二種類の人間は、特に他生に入ってくる時、互に他から区別されている。なぜならその時何ら仁慈の中にいない者にあっては、憎悪の感情がその一つ一つのものから輝き出ており、彼らは凡ゆる者を点検し、彼らを裁こうとさえ欲し、また悪いことを見つけ出すことに勝って何ごとをも欲してもおらず、罪に定め、罰し、拷問にかけようとする気質を絶えず抱いているのである。しかし仁慈の中にいる者たちは殆ど他の者の悪を見ないで、その凡ゆる善と真理とを観察し、悪い誤ったものを良いように解釈するのである。かくの如きが凡ゆる天使であって、それを彼らは主から得ているのである。なぜなら主は凡ゆる悪を善へたわめられるからである。

 

 

3.主に仕える

 

天界の秘義6482

 

 天使たちが主に仕える者たちである理由は、彼らが活動的な生命の中にいて、そこから幸福を得るためである。が、それでも彼らの遂行する務めは、天使達もまた一様に告白しているように、彼らから発するものではなく、主から発する流入から発しているのである。

 

 

4.他の者に与えようと欲する

 

スウェーデンボルグ/霊界日記4427

 

 それでもそうした凡てのもの、否、更に多くのものを他の者たちに与えようと心から願っており、否、他の者たちがそうしたものを歓ぶなら、そうしたものが自分たちから剥ぎ取られてしまうことさえも欲しており、また極めて力に満ち溢れているのである。

なぜなら数千の者が、否、巨万の者が彼らにその力を与えているため、彼らは地獄を征服することも出来るが、それにも拘らず、たれ一人をも支配しようとは欲しないといった者たちである。

 

 

天界の秘義1789

 

「あなたの大きな報い」。これは勝利の目的と目標とを意味していることは『報い』の意義から明白であり、それは試練の争闘の後の賞品であり、ここでは主は御自身に対しては如何ような勝利の賞品をも決して求められはしなかったため、勝利の目的と目標である。主の勝利の賞品は全人類の救いであったのであり、主が戦い給うたのは全人類に対する愛から発していたのである。この愛から戦う者は自分自身に対して如何ような賞品をも求めない、それはこの愛は他の者に自分自身のものをことごとく与え、移譲し、自分自身のためには何ものも得ようとは欲しないものであるためであり、それでここに『報い』により意味されているものは全人類の救いである。

 

 

天界の秘義2077〔2〕

 

主が抱かれた愛は人間の理解を全く超越しており、またそれは天使たちが抱いている天界的な愛のいかようなものであるかを知らない者らには、最高度に信じがたいものである。一つの霊魂を地獄から救うためには天使たちは死さえも何らかえりみはしない。否、出来ることなら、彼らはその霊魂のためには地獄の責苦も厭いはしないのである。ここから死んだ者たちから甦りつつある者を天界に連れて行くことは彼らの喜びの最も深いもの[最も内なるもの]となっている。しかし彼らはこの愛はその一かけらも彼ら自身からは発しておらず、そのすべてのものは全般的にも個別的にも主のみから発していると告白しており、否、もし誰かがそのように考えはしないなら、明らかにいらいらした感情を示すのである。

 

 

天界の秘義2704

 

「その子供に飲ませた」。これは霊的な諸真理を教えることであり、『子供』の意義は真理の方面の霊的なものである(2697番参照)。この節に取り扱われているところの、教えられる状態であるこの状態は、剥奪されまた荒れすさんだ状態から出て来つつある者たちの第三の状態である。なぜなら彼らは(前の18節にとり扱われているところの、2699番を参照)明るくされる状態または天界の光の状態の中へ入ってくると、その時彼らは諸真理を知り、また学ぼうとする情愛の中におり、彼らがこの情愛の中にいる時は、容易にまた謂わば自発的に諸真理に浸透するからであり、すなわち地上にいる者たちは主の聖言からまたは教義から諸真理に浸透し、天界にいる者たちは天使たちからそれに浸透するのであって、天使たちは新たに霊界に来た兄弟たちに天界の秩序に属している諸真理と諸善とを教えて、それらを彼らに浸透させかくして彼らを主に導くことに勝っていかようなことをも祝福された、幸福なこととは認めていないのである。

 

 

ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国/2巻P8

 

 このように、信仰に生きる霊魂も世俗のことについてはとても臆病なので、だまされることを恐れて、一瞥を与えることすらしません。その住まいは高い所、つまり地上界の上にあり、特にイエズス・キリストの傷口のうちにあり、その祝された部屋の中で、その花婿イエズスと共に、人類が直面する悲惨な状態について嘆き、泣き、祈り、苦しんでいます。彼女がイエズスの傷口のうちに生きている間、主はその徳の断片をその人に与えられるので、魂はあたかもそれが自分のものであるかのように感じます。それは主から来たものなのです。ちょうど誰かから贈り物をされた人が、それを受け取るとその所有者となり、それを見るたびに「これは私の物です。あの人から贈られたから」と考えるようなものです。

 

 同じことが霊魂にも起こります。主はご自分の神性の断片を体から削りとり、魂をご自身に変換なさいます。ああ、するとこの魂は罪を憎み、他人に同情し、破滅の瀬戸際にいる人を見ると、その人のために祈ります。またイエズス・キリストと一体となり、神の正義をなだめ、定められた罰から人類が免れるように、自らを苦しみの犠牲として捧げます。必要とあらば、いのちを犠牲にしてまでも。ああ、その人はたった一つの魂の救いのために、喜んでそうすることでしょう。

 

 

天界の秘義315

 

しかしもしよみがえった人物または霊魂が教えられようとする性格を持っていないなら、その時は彼は天使たちとの交わりを避けようとするのである。そのことを彼らは鋭敏に感じる。なぜなら他生では思考の観念はことごとく伝達されるからである。それでも彼らはその時でさえも彼の許を去りはしないが、彼が彼らから遠ざかって行くのである。

天使たちには各々の者を愛し、これに親切に仕え、教え、これを天界に導くに勝って求めるものは何一つとしてない。こうしたものからかれらの最高の歓喜が成っているのである。

 

 

天界の秘義2284[]

 

仁慈の生命は他の人のことを親切に考えて、その者に良かれとねがうことに在り、また他の人もまた救われるという事実から自分の中に喜びを認めることに在るのである。しかし自分が信じているように信じる者以外にはたれ一人救われないことを欲する者らは仁慈の生命を持ってはいないのであって、とくにそれがそうではないことに激怒する者らは仁慈の生命は持ってはいないのである。このことは、基督教徒よりも異邦人が多く救われているという事実のみからでも認めることができよう、なぜなら自分の隣人のことを親切に考えて、これに善かれとねがった異邦人は、他生では基督教徒と呼ばれる者よりも良く信仰の諸真理を受け入れて、主を基督教徒よりも良く承認するからである。なぜなら天使たちには地上から他生に入ってくる者に教えることにまさって歓ばしい、また祝福されたものは一つとしてないからである。

 

 

天界の秘義2704

 

天使たちは、諸真理と諸善を教えて彼らを主に導くことにまさって、いかようなことも祝福された、幸福なこととは認めていない。

 

 

マリア・ワルトルタ/天使館第4巻下P146

 

(シンティカ)

わたしは霊魂たちの近くでじっとしているつもりはありません。わたしが得たものは与えたいのです。与えるためには知らねばなりません。わたしに知ることをお与え下さい。そうすればわたしは愛の名においてあなたにお仕えするでしょう。

 

5.天使たちは人間のもとにいる

 

天界の秘義3464

 

天使たちは各々の人間のもとにその情愛の中に住んでいる。

 

 

天界の秘義9818[]

 

 この凡てから神的な諸真理が『印刻されること』により意味されたことを今認めることができよう。『霊』という語は聖言の多くの記事の中に用いられており、それが人間について言われているときは、その『霊』によりかれの知的な部分に印刻されている善と真理とが意味され、従ってその部分の生命が意味されている。『霊』が、人間について述べられているとき、こうした意義をもっていることは、人間はその内部の方面では霊であり、またその内部の方面では霊たちと交わっているためである。この主題については前に豊かに示したことを参照されたい、すなわち、人間のもとには霊たちと天使たちとがおり、人間は主によりかれらを手段として導かれている(50、697、986、2796、2886、2887、4047、4048、5846―5866、5976−5993番)、人間はその人間自身に似た霊たちと天使たちの間にいる(4067、4073、4077、4111番)、人間は各々その身体が生命を得る手段となっている一つの霊をもっている(4622番)。

 

 

真の基督教118

 

一方彼等はもし人間が彼等から引き離されるならば生存することが出来ないのである。

 

 

6.天使は内なるものを見る

 

天界の秘義3489

 

 天使たちは内なるもの以外のものには、すなわち、目的または意図と願いとそこから生まれてくる思考以外のものには何ら注意しない。

 

 

天界の秘義1258

 

 「これらの者から地に幾多の国民が拡がった」。これは、それらのものからその教会の凡ゆる礼拝の幾多の善と幾多の悪との方面が発生したことを意味しており、その幾多の善と幾多の悪とが『幾多の国民』により意味されていることは『幾多の国民』の意義から明白である。国民により、前に説明したように、多くの氏族が共になっていることが意味されている。最古代教会と古代教会では一人の父[父祖]を承認した氏族の多くが一つの国民[国家]を構成したのである。しかし『諸国民』がその内意で教会の礼拝を意味しており、それもその礼拝における幾多の善と幾多の悪の方面とを意味していることについては、実情は以下の如くである。氏族と国民とは天使たちから観察されるときは、天使たちは国民を考えはしないで、その国民における礼拝のみを考えるのである、なぜなら彼らは凡ゆるものをその特質そのものから、すなわち、それらが現にあるものから[現にある状態から]考察するからである。人間は天界ではその人間の特質または性格から考察されているが、その特質または性格とはその者の仁慈と信仰である。このことはたれでももし彼が以下のことを考察するなら明らかに把握することが出来よう、すなわち、彼が人間を、または氏族を、または国民を眺めるときは、彼らはいかような性質のものであるかを、大半考えるのである、すなわち、たれでもそのとき自分自身を支配しているものから考えるのである。かれらの特質はいかようなものであるかという考えがすぐに彼に浮かんできて、彼は彼自身の中にそこから彼らを評価するのである。このことは主に対してはさらに言われ、主から天使たちに言われるのであり、天使たちは人間を、氏族を、国民を、仁慈と信仰との方面の彼らの性質から考察しないわけにはいかないのである。ここから『国民』によりその内意では教会の礼拝以外には何ごとも意味されてはいないのであって、それもその礼拝の性質の方面が意味されており、その性質とは仁慈の善とそこから派生してくる信仰の真理である。『国民』という言葉が聖言に現れると、天使たちはその文字の歴史的な意義に従って、些かも国民の観念[考え]の中には留まってはいないで、その名前を挙げられている国民における善と真理との観念の中に留まるのである。

 

 

天界の秘義4802[3]

 

私は身体の生命にいた頃このようなものであった二人の人物と語ったが、彼らは自分たちが信仰の諸真理を確信しているのに、地獄にいることを怪しんだのである。しかし彼らは以下のように話されたのである、すなわち彼らのもとでは彼らが真理を理解する手段となった彼らの光は世の冬の光のような光であって、その光の中では、凡ての物は麻痺していて、楽しい、喜ばしい物は一つとして生まれはしないのであり、真理を理解する彼らの目的は誇ることであり、従って自己であったため、彼らの目的のスフィアが内的な諸天界に向って、そこの目的のみを認識する天使たちの方上昇すると、それは堪えられることが出来ないで、斥けられてしまうのであり、そうした理由から彼らは地獄にいるのである。

 

 

7.天使の知恵

 

天界の秘義5202

 

天使の知恵の大半を構成しているものはこれらの(再生の)経過である。

 

 

8.天使の視線の威力

 

天界の秘義4533

 

 天界の天使たちが悪い霊らを眺めると、その悪い霊らは彼らが互いに他の者に現れる姿とは全く相違した姿をとって現れるのである。

 

天使たちは悪い者らが他の者に危害を加えようとしてその地獄から出て霊たちの世界に入ろうとしているのを認める毎に彼らを眺めるのであるが、そのことにより彼らは見破られて、再び元の所へ投げ込まれるのである。

 

 天使たちの視線の中にこのような威力がある理由は、知的な視覚と目の視覚との間に相応が在るということであり、それで彼らの視線には鋭い視力があり、その前には奈落の明るさは消滅して、悪霊らはその者らに属している形と性質の中に現れるのである。

 

 

9.天的な天使の認識

 

天界の秘義880

 

[3]実情はこうしたものであるため、仁慈の業の各々の中では業そのものは物質的な事柄以外の何ものでもなく、業が生きていることはその中にある信仰の真理に帰因しており、さらに信仰の真理もまた生命の無いもの以外の何ものでもなく、信仰の真理が生きていることは信仰の善に帰因しており、さらに信仰の善は善それ自体、真理それ自体であられる主のみから生きていない限り生きてはいないのである。このことが天的な天使たちは信仰については聞こうとはしないし、まして業についてはさらに聞こうとはしない理由を示している(202番)。なぜなら天的な天使たちは信仰と業とを愛に帰し、信仰を愛から存在させ、また信仰の業さえも愛から存在させており、かくてかれらのもとでは業と信仰とは消失して、愛とそこから派生した善以外には何ものも残らなくなり、そしてかれらの愛の中に主が在したもうからである。これらの天使たちはこのようにも、天界的な観念を持っている結果、霊的な天使と呼ばれている天使たちとは区別されていて、その思考そのものもこの思考から発した言葉とともに、霊的な天使の思考と言葉よりさらに遥かに把握し難いものとなっている。

 

 

天界の秘義1384

 

 主に対する愛の中にいる天的な天使たちのもとには、善の認識[善を認識すること]が在り、そこから真理の凡ゆる物の認識[真理の凡ゆる物を認識すること]が在り、かれらは善から真理を認識しているため、真理について語ることは全く容認しないし、ましてやそれについて論じることは容認しておらず、単にそれはそうである、またはそれはそうではないとしか言わないのである。

 

 それに反し、たとえ天的な天使達が持っているような認識ではなくても同様に認識を持っている霊的天使たちも、真理と善について語るものの、善と真理とを認識してはいるが、そこには相違があるのである。なぜならこの認識には無数の多様なもの[種類]があり、その多様なもの[種類]は事柄が主の意志のものであるか、否かにかかわる、それが主に許されているか、否かにかかわる、またはそれは主に容認されているか、否かにかかわる彼らの認識に関連しており、その凡ては互いに他から完全に区別されているからである。

 

10.主、天使にまさるもの

 

マリア・ワルトルタ/マグダラのマリア/P280

 

 私はまちがった言葉に賛成できないからです。私は天使にまさるものです。天使とは、キリストのあの先駆者、洗者であった。そして、キリストは私である。

 

 

11.主から天使たちは人間を導き守る、それは一瞬の一瞬毎に行われている

 

天界の秘義5992[3]

 

特に天使たちは人間のもとに在る善と真理とを呼び出し、それらを悪霊らの掻き立てる悪と誤謬とに対立させている。かくてその人間はその真中におかれて、悪も善も認めはしない、また真中にいるため、自分自身を悪にも善にも向ける自由を持っている。このような手段によって主から天使たちは人間を導き、守っており、しかもそれは一瞬毎に行われ、実に一瞬の一瞬毎に行われているのである。なぜならもし天使たちが万が一一瞬でもその庇護を中絶するなら、その人間は悪へ真逆様に投げ落とされ、そこからその後は決して引き出されることはできないからである。これらの事柄を天使たちは主から得ている愛から行っている、なぜなら彼らは人間から悪を遠ざけて、彼を天界へ導くことにまさって歓ばしい、幸福なことを何一つ認めはしないからである。そのことが彼らの喜びであることについてはルカ15章7節を参照されたい。主は人間をこのように守られており、しかもそれがその者の生命の最初の糸からその最後の糸までも、後には永遠にいたるまでも絶えず行われていることを殆どたれも信じてはいないのである。

 

 

12.悪霊は攻撃し、天使は防御する

 

天界の秘義1683

 

なぜなら主はいかような地獄とも決して争闘を始められなかったのであって、地獄が主を攻撃したということが実情であり、それはまた試練の中にあるところの、または悪霊との争闘の中にあるところの人間各々の場合と同一であるからである。人間の場合では天使たちは決して攻撃はしないのであって、常にまた絶え間なく悪いまたは奈落の霊どもがそれを行っており、天使たちは単に受け流して防禦するに過ぎないのである。このことは主から発している、なぜなら主はいかような者にも悪をもたらそうとは決して願われないのであり、または例えその者が凡ての者の中でも最も悪い、また最も苦々しい敵であるにしても、その者を地獄に突き落とそうとは決して願われないのであり、自分自身に悪をもたらしまた自分自身を地獄に投げ込むものはその者であるからである。このことはまた悪の性質からまた善の性質から来ている。凡ゆる者を虐待しようと欲することが悪の性質であるが、たれ一人をも虐待しようとは欲しないことが善の性質である。悪い者は攻撃しつつある時はその生命そのものの中にいるのである、なぜなら彼らは絶えず破壊しようと欲しているからである。善良な者はたれ一人をも攻撃していない時、また他の者を悪から守る上に役立つことが出来る時、その生命そのものの中にいるのである。

 

 

神の摂理252

 

地獄の霊は攻撃するが、天界の天使は防御するのみである。それゆえ何人でも、悪い人間である将軍を用いてでも、自分の国と同盟国とを侵略から守ることが正当であるが、挑戦されないで攻撃することが正当ではないことが推論される。

 

 

天界の秘義6677

 

「もしそれが娘であるなら、彼女を生かしておかなくてはならない」(出エジプト記1・16)。これは、彼らはもしそれが善であるなら、そのようなことをしてはならないことを意味していることは以下から明白である、即ち、『娘』の意義は善であり(489−491、2362番)、『生きること』の意義は破壊されないことである。エジプトの王が息子は殺さなくてはならないが、娘は殺してはならないと言った理由は、内意から明らかであり、その内意は、彼らは真理を破壊しようと企てはするが、しかし善を破壊しようと企てはしないということである、なぜなら奈落の者は取り憑いて悩ます時は、真理を攻撃することは許されるが、善を攻撃することは許されはしないからである。その理由は真理は攻撃されることの出来るものではあるが、善は攻撃されることの出来ないものであり、善は主により守られており、奈落の者が善を攻撃しようと企てると、地獄に深く投げ込まれるということである、なぜなら善の一切には主が現存されているため、彼らは善の現存に耐えることは出来ないからである。そこから天使たちは善の中にいるため、一人の天使でも数千の奈落の霊どもを支配することが出来る程の権能を彼らに対しては持っているのである。善の中には生命が在ることを知られたい、なぜなら善は愛のものであり、愛は人間の生命であるからである。自己と世を求める愛のものであって、そうした愛の中にいる者らには善として現れている悪が、天界の愛のものである善を攻撃するなら、その一方の生命が他方の生命と戦うことになり、そして天界の愛の善から発している生命は神的なものから発しているため、自己と世を求める愛から発している生命が前の生命と衝突するなら、それは消滅し始めるのである、なぜならそれは窒息してしまうからである。かくて彼らは死の苦悶にある者のように苦しみ、そのため真逆様に自らを地獄に投げ込み、そこに着くと再び生命を回復するのである(3938、4225、4226、5057、5058番)。このことがまた善は魔鬼と悪霊によって攻撃されることが出来ず、かくて彼らは敢えて善を破壊しようとはしない理由となっている。真理にあってはそうではない、なぜなら真理はそれ自身の中に生命を持たないで、善から、即ち、主から善を通して生命を持っているからである。

 

 

13.天使は年老いることがない

 

マリア・ワルトルタ27・1/天使館1巻P217

 

天使たちは年老いることがありません。彼らは、そのうちに反映するの永遠の今によって、永遠の若さによって、永遠に美しいものたちなのです。

 

 

天界と地獄414

 

 天界にいる者たちは絶えず生命の青春に向って進んでおり、数千年生きれば生きるほど、その到達する青春は喜ばしく、また幸福になり、しかもこれは永遠に続き、彼らの愛、仁慈、信仰が進むに応じ、またその度に応じて増大している。年をとって、老齢のためやせ衰えて亡くなった婦人たちも、もし主に対する信仰と、隣人に対する仁慈とに生き、夫と幸福な結婚愛に生きたならば、年の経過につれて、益々青春とうら若い女性時代の花盛りに入り、地上の美からは考えることもできない美に入って行く。善良と仁慈とが彼らの中にその善良と仁慈そのものの姿を形作り、また示しており、仁慈の喜びと美とをその顔の凡ゆる線から、実にその最小の線からも輝き出させ、かくて彼らは仁慈そのものの形となっている。仁慈の形は、天界ではそのあるがままに見られるが、それは仁慈そのものが表現し、またその表現されたものであり、しかもそれは天使全体が、とくに顔が、いわば仁慈であり、それが明らかに目に見え、また明らかに認められるようになっている。この形は、目に映じると、言うに言われぬほど美しく、その最内部の生命そのものに仁慈を覚えさせる。約言すれば、天界では老いることは若くなることである。主に対する愛と隣人に対する仁慈とに生きた者たちは他生ではこうした形、またはこうした美になる。天使たちは凡てこうした形であって、それは無限に変化しており、天界はこの形から成っているのである。

 

 

天界の秘義4676

 

「老年」の意義は前の状態を脱ぎ棄てて、新しい状態を着けることであり、また生命が新しくなることである(3492,4620)。

なぜなら「老年」はその内意では老年を意味しないからである。それは内なる人はまたは人間の霊は老年とは何であるかを知らないで、身体または外なる人が老いるにつれて、内なるものは生命の新しさに入り、人間の霊は年令により、その身体の力が減退するにつれ、完全なものになるためである。このことは他生ではさらに真である。なぜならそこでは天界にいる者たちは絶えず主によりさらに完全な生命の中へ入れられており、ついにはかなり老年になって死んだ者たちでさえも、青春の開花期へ入れられるからである。このことから老年によりその内意では生命が意味されていることを認めることができよう。

 

 

14.天使は他の者の性質をただ一連の言葉からでも知る

 

天界と地獄236

 

このことから、天使たちは他の者の性質を、それがいかようなものであるかを、たんにその言葉から知るのである、すなわち、その者の情愛のいかようなものであるかを、たんにその言葉から知るのである、すなわち、その者の情愛のいかようなものであるかは、その語調(トーン)から知り、その者の心のいかようなものであるかは、発音された音、または語から知るのである。賢明な天使たちは、その者を支配している情愛のいかようなものであるかを、ただ一連の言葉からでも知っている。なぜなら彼らは主としてそれに注意を払っているから。各人は種々の情愛を持っていることは知られている、すなわち喜んでいるときとか、悲しんでいるときとか、寛大と慈悲を抱いているときとか、誠実と真実であるときとか、愛と仁慈にいるときとか、熱意または怒りを持つときとか、たばかり、欺くときとか、名誉を求めるときとか、そういったときの情愛は、それぞれ異なってはいるものの、しかしその者を支配している情愛または愛はそうした情愛凡ての中に存在しており、それで賢明な天使たちは、そのことを認めているため、その言葉から人間の状態の凡てを知るのである。それがそうであることは、私は多くの経験から知ることができたのである。私は天使たちが他の者の生命をただその者の言葉を聞くのみで明らかにするのを聞いた。彼らはまた言った、私たちは他の者の思考の僅かな観念からでも、その者の生命の凡ゆる物を秩序正しく含んでいる愛を知るからであり、人間の生命の書とはそれ以外のものではない、と。

 

 

 

 

16.主に対する愛の中にいる者は天使のようであって、ただ身体を着けている点が異なっているに過ぎない(最古代教会)

 

 

天界の秘義784

 

 最古代教会の状態は彼らが天界と内なる交流を持ち、かくて天界を通して主との交流を持っている程のものであった。彼らは主に対する愛の中にいたのである。主に対する愛の中にいる者は天使のようであって、ただ身体を着けている点が異なっているに過ぎないのである。彼らの内部は覆いを取られ、主からさえも開かれていた。しかしこの新しい教会は異なっていた。彼らは主に対する愛の中にはいないで、信仰の中におり、信仰を通して隣人に対する仁慈の中に居たのである。こうした者は最古代の人のように内なる交流を持つことは出来ないで、外なる交流を持っているのである。

 

 

 

 

17.天使は壮麗な家に住む

 

 

天界の秘義1116

 

天使たちは描写もできない程の極めて壮麗な住居を持っているからである。

 

 

 

天界の秘義1628

 

 天使たちはすべてその居るところに彼ら自身の住居を持っていて、それらは壮麗である。

 

 

 

天界の秘義1629

 

彼らの住居はまた、その中に住んでいる霊たちが完全なものになるに応じて、さらに美しい住居に変化している。

 

 

 

 

18.天使は人間の性格を見る

 

 

天界の秘義1258

 

 「これらの者から地にいくたの国民がひろがった」。これは、それらのものからその教会の凡ゆる礼拝のいくたの善といくたの悪との方面が発生したことを意味しており、そのいくたの善といくたの悪とが『いくたの国民』により意味されていることは『いくたの国民』の意義から明白である。国民により、前に説明したように、多くの氏族が共になっていることが意味されている。最古代教会と古代教会では一人の父[父祖]を承認した氏族の多くが一つの国民[国家]を構成したのである。しかし『諸国民』がその内意で教会の礼拝を意味しており、それもその礼拝におけるいくたの善といくたの悪の方面とを意味していることについては、実情は以下のごとくである。氏族と国民とは天使たちから観察されるときは、天使たちは国民を考えはしないで、その国民における礼拝のみを考えるのである、なぜならかれらは凡ゆるものをその特質そのものから、すなわち、それらが現にあるものから[現にある状態から]考察するからである。人間は天界ではその人間の特質または性格から考察されているが、その特質または性格とはその者の仁慈と信仰である。このことはたれでももしかれが以下のことを考察するなら明らかに把握することができよう、すなわち、かれが人間を、または氏族を、または国民を眺めるときは、かれらはいかような性質のものであるかを、大半考えるのである、すなわち、たれでもそのとき自分自身を支配しているものから考えるのである。かれらの特質はいかようなものであるかという考えがすぐにかれに浮かんできて、かれはかれ自身の中にそこからかれらを評価するのである。このことは主に対してはさらに言われ、主から天使たちに言われるのであり、天使たちは人間を、氏族を、国民を、仁慈と信仰との方面ののかれらの性質から考察しないわけにはいかないのである。ここから『国民』によりその内意では教会の礼拝以外には何ごとも意味されてはいないのであって、それもその礼拝の性質の方面が意味されており、その性質とは仁慈の善とそこから派生してくる信仰の真理である。『国民』という言葉が聖言に現れると、天使たちはその文字の歴史的な意義に従って、些かも国民の観念[考え]の中にはとどまってはいないで、その名前をあげられている国民における善と真理との観念の中にとどまるのである。

 

 

 

 

18.ときとして天使は天使自身から語らないで、主から語っている

 

 

天界の秘義1745[2]

 

主が試練の状態の中におられたときはつねに主はエホバと他の者と語られるように語られたが、しかし主の人間的な本質が主の神的な本質に結合されていたときはつねに、エホバとは自分自身と話されるように話されたのであり、このことは福音書の多くの記事から明白であり、同じくまた予言者の書と詩篇の多くの記事からも明白である。その原因は母から来ている遺伝[母から受けついだもの]について前に言ったことから明らかに明白である。そうしたものが止まっている限り、主はエホバからはいわば不在であられたが、しかしそれが根絶されたかぎり、主は現存されて、エホバ御自身であられたのである。

 

 

 

[]このことは主と天使たちの連結により説明することができよう。ときとして天使は天使自身から語らないで、主から語っているが、そのときかれは自分が主であるとのみしか考えていないのであって、そのときはかれの外なるものは静止しているのである。かれの外なるものが活動しているときはそうではない。その理由は天使たちの内なる人は主から所有されているということであり、それで天使たち自身のものの側で妨害しないかぎり、それは主のものであり、また主でありさえするのである。しかし主にあっては、完全な連結がまたはエホバとの永遠の結合が行なわれたのであって、それで主の人間的な本質そのものもまたエホバである。

 

 

 

 

20.神的摂理

 

 

天界の秘義3039

 

「かれはあなたの前にその天使[御使]を遣わされるであろう」。これは神的摂理[神の摂理]を意味していることは、聖言の『天使[御使]』の意義から明白であり、それは主であるが、しかし主のいかようなものが意味されているかは前後の記事から明らかであり(1925番を参照)、ここでは神的摂理が意味されていることが明白である。聖言では『天使たち』により主が意味されているのは、天使たちの口授の下に予言者その他の者により聖言に語られたものはことごとく主から発しており、即ち、主御自身に属しているためである。天界の天使たちもまた善と真理とは何一つ彼ら自身からは発しないで、凡ては主から発していることを承認し、認識していて、しかもそれはそれ以外の何らかの考えを生じさせる凡ての事に彼らは嫌忌を抱くほどにも徹底しているのである。そこから『天使』により、即ち、善い天使により主が意味されているが、しかし主のいかようなものが意味されているかは前後の連続、または関連から明らかになっている。

 

 

 

 

21.最初は天使として記されているが、後には『エホバ』として記されている天使

 

 

天界の秘義3088

 

このことは神的善から発していたことは、ここの僕はかれの主人、すなわちアブラハムに代わって、またイサクに代わって行動しているためである、なぜならつかわされた者は、つかわした者の品性を着けるからである。聖言にはこうしたことはしばしば行われているのである、例えば(出エジプト記3・24のやぶの中にモーセに現れた天使のように、士師記6・11、12、14のギデオンに現われた天使のように)最初は天使として記されているが、後には『エホバ』として記されている天使が語られているときがそれである。同一の理由からレベカは次の節にかれに『わたしの主よ』と語りかけているのである。

 

 

22.天使の顔

 

天界の秘義3573[3]

 

 しかし結果とその結果のしるしから、この連結の実情のいかようなものであるかが或る程度なりと人間に明らかである、なぜなら顔は自然的な人の表情であるように、自然的な心は合理的な心の表情であるほどにも、丁度自然的な心は顔とその表情とにそれ自身を表すように、合理的な心(すなわち人間の内的な意志と理解)はそれ自身をこの自然的な心の中に現わさなくてはならないからである。再生した人間の場合のようにその連結が遂行されると、その人間が何であれその合理的なものの中に内的に意志し、考えるものはことごとくそれ自身をその自然的なものの中に示すのであり、またこの自然的なものはそれ自身をその顔の中に明確に示すのである。天使たちはこのような顔を持っており、天的な人間であった最古人もこのような顔を持っていたのである、なぜならかれらは善以外には何ごとをも欲しなかったからには、他の者がかれらの目的と意図を知ることを些かも恐れなかったからである、なぜなら自らが主に導かれるのに甘んじる者は他の何ごとも[善以外の何ごとも]決して意図しないし、または考えもしないからである。状態がこのような性格のものであると、そのときは合理的なものは善の方面で[合理的なものの善は]自然的なものの善に直接それ自身を連結させ、自然的なものの善を通してその諸真理に連結させ、また間接的には合理的なものの中に善自身と連結している真理を通して、自然的なものの真理にそれ自らを連結させ、自然的なものの真理を通して自然的なものの善にそれ自らを連結させ、ここから連結は分離不可能なものとなるのである。

 

 

23.天使になろうとする希望

 

天界と地獄517

 

 諸天界の教えは地上の教えとは以下の点で、すなわち知識は記憶に植え付けられないで、生命に植え付けられるということで異なっている、なぜなら霊たちはその生命に一致した物をすべて受け入れ、吸収はするが、それに一致しない物は受け入れず、まして吸収はしないため、その記憶はその生命の中に宿っているからである、なぜなら霊たちは情愛であって、そこからその情愛に類似した人間の形を持っているからである。彼らの実情はこうしたものであるため、真理に対する情愛は生命の用のために絶えず吹き込まれている、なぜなら主は各々の者がその資質に応じて用を愛するように配慮され、その愛もまた天使になろうとする希望により生気づけられているからである。そして天界の用はすべて共通の用に関係しているため―その共通の用とは、主の王国が彼らの国家であるため、その王国の善である―また特殊な、個々の用は、それがその共通の善をさらに近くまたさらに完全に求めているに応じて、益々卓越したものとなっているため、この無数の、特殊な、個々の用は凡て善であり、また天界的なものである。それ故各々の者のもとでは真理に対する情愛は用に対する情愛と連結して、その二つは一つのものとなっており、この方法によって真理は用の中に植え付けられ、かくて彼らの学ぶ真理は用の真理である。このようにして天使的な霊達は教えられて、天界に入る準備をする。用を目標とした真理に対する情愛は色々な方法により注ぎ入れられているが、その方法の大半は世では知られていない。それは主として用を表象したものにより注ぎ入れられているが、その表象は霊界では無数の方法で示され、またその霊に、その心の内部からその身体の外部までも染み入って、全体に感動を与えるほどの歓喜と快楽とをもって示されている。かくて、その霊はいわばその霊自身の用の化身となり、それで彼は教えを受けた後で、自分自身の社会へ入ると、自分自身の用を遂行して、自分自身の生命を楽しむのである。これらの事柄から、外なる真理である知識は何人をも天界へ導き入れず、知識によって植え付けられたところの、用の生命である生命そのものが天界へ入れるものであることが明白となるであろう。

 

 

24.ヨブ記 天すら、神の目には清くない

 

ヨブ記15・14−16

 

どうして、人が清くありえよう。

どうして、女から生まれた者が正しくありえよう。

神は聖なる人々をも信頼なさらず

天すら、神の目には清くない。

まして人間は、水を飲むように不正を飲む者

憎むべき汚れた者なのだ。

 

 

 

 

25.世では天使のように見えた多くの者は悪魔

 

天界の秘義7046

 

そのとき世では天使のように見えた多くの者は悪魔であることが発見されるからである。

 

 

 

 

26.天使の名

 

 

天界の秘義1705

 

「エシコルの兄弟、アネルの兄弟である、これらはアブラムの契約の男たちであった」(創世記14・13)。これらの者により外なる人の方面の合理的な人の状態が、即ち、その幾多の善と真理との性質にかかわる状態が意味されていることは下記の24節に説明した彼らの意義から明白であり、そこにもまた彼らの名が記されているのである。約言すると、マムレとエシコルとアネルにより主がその子供時代の最初に戦われたとき主のもとんいいたところの、またそのとき主のもとにあった幾多の善と真理とに適合していたところの天使たちが表象され、意味されている。天使たちはこれらの善と真理から名をつけられているのである。いかような場合にも天界の天使はいかような名も持っていない。彼らに名が述べられる源泉は善と真理である。例えば、聖言に記されている『ミカエル』やその他の天使たちはそうした名を持った天使ではなく、彼らはその果たしている務めから―それがいかようなものであっても、そこから―こうした名を得ているのである。ここのマムレとエシコルとアネルも同一であるが、しかしそれは表象的なものである。

 

 

 

真の基督教300

 

 霊界の名によって明白であるように、各人の名は、その名のみではなく、その全人格を意味している。彼処では何人もその洗礼名を、あるいはその家族名を保有することなく、その性格に応じて新しい名を与えられ、天使はその道徳的な、霊的な生活に応じて命名される。このこともまた、主の以下の語によって意味されている。

 

「我は良き牧者なり。羊はその声を聞き、彼は己の羊の名を呼びて、索き出す」(ヨハネ10・3、11)。

 

「サルデスにて衣を汚さぬもの数名あり。勝を得る者の上に我は新しきエルサレムなる都の名と、我が新しき名とを書き記さん」(黙示録3・42)。

 

ガブリエルとミカエルとは天界の二人の人物の名ではなく、天界で主にかかわる知恵を享受し、主を礼拝する凡ての者を意味する。聖言に記されている人物や場所の名もまた、人物や場所を意味しないで、教会の事柄を意味している。自然界でもまた名はその名を持つ人物の性格を意味しているのは、性格は名に連結しているからである。それ故普通の談話で、ある人間については彼は偉大な名を―それはその人間が技術、学問、徳あるいはある他の目覚しい性質のために傑出していることを意味する―持っていると語ることが普通である。人間の名を辱しめることは、彼の行動を辱しめることである。両者は極めて密接に結ばれており、共に害を受けなくてはならない。王、あるいはある偉大な人物の名を誹謗することは、彼らの尊厳と高貴とに汚辱を与え、侮蔑の語調で或る人間の名を口に出すことはその行為を貶すことである。それ故、人間の名を辱しめることを禁ずることは全国民の全般的な律法であるのは、それは彼の性格と名声とは必然的に損害を受けねばならぬからである。

 

 

 

神の摂理230

 

 聖い物の冒涜は十誡の第二の誡命の『あなたはみだりにあなたの神の御名を語ってはならない』の語により意味され、冒涜してはならないことは、主の祈りの『あなたの御名が崇められますように』の言葉により意味されている。基督教世界で神の御名の意味を知っている者は殆どいない、なぜなら霊界では名前は自然界のように与えられないで、凡ての者はその愛と知恵の性質に従って名前を受けることが知られていないからである。それは何人でも霊界の社会または共同体に入ると直ぐに、その性格に従って名をつけられるからである。その名を付ける事は霊的な言語でなされ、その言語は凡ての物に名を与えることが出来る、なぜなら霊界ではアルファベットの一つ一つの文字が一つの物を意味し、人の名のような合して一つの語となっている幾つかの文字はその物の状態全部を意味するからである。これは霊界の驚異の一つである。

 

 

 

 

27.翼のついた天使

 

 

真の基督教48

 

足に二つの翼と、こめかみに他の二つの翼をつけた一人の天使が天界から飛び来たり、