天使の力
1.一人の天使でさえも百万の悪霊を追い立てることが出来る
2.悪から発した誤謬の中にいる一千人の者も善から発した真理の中にいる一人の者にも全く勝ちはしない
3.彼らは、許されると、自然界でもまたそのような力を揮うことは聖言から明白である
1.一人の天使でさえも百万の悪霊を追い立てることが出来る
天界の秘義1398
善良でない数人の霊がわたしの周りにいた。一人の天使が近づいてきた、すると私はその霊どもがその天使がその場にいるのに堪えることが出来ないのを認めた。なぜなら彼が近づくにつれて、彼らは益々後退したからである。私はこれを怪しんだが、しかしその霊どもは彼がその身につけているそのスフィアの中に止まることが出来ないことを知ることが出来たのである。このことから、また他の経験からも、一人の天使でさえも百万の悪霊を追い立てることが出来ることが明らかにされたのである、なぜなら彼らは相互愛のスフィアには堪えることが出来ないからである。それでもその天使のスフィアはその天使と共にいた他の者たちにより和らげられていたことが認められたのである、すなわち、もしそれが和らげられていなかったなら、彼らは凡て四散してしまったのである。この凡てから他生にはいかに完全な認識が存在しているかが明白である。またそこにいる者たちはその認識に応じていかに共に結ばれ、また友情から引きはなされているかも明白である。
天界の秘義3417[3]
かくて知識の記憶知の中にいるが、仁慈の生命の中にいない者らは卓越から生まれてくる歓喜以外の何らかの歓喜の在ることを知ることが出来ないのであり、それが彼らの心に居座っている唯一の歓喜であって、彼らの生命の凡てを作っているため、それで謙遜[へりくだり]と他の者に仕えることに対する情愛から由来してくる天使の歓喜を―すなわち、主に対する愛と隣人に対する仁慈の歓喜を―全く知ってはおらず、従ってそこから由来してくる祝福と幸福とを知っていないのである。このことが主が彼らの弱さ[欠陥]に応じて語られた理由であって、彼らがそのことによって、善を学び、教え、行うように、善へ目覚めて、そこへ導かれるためであったのである。それと同時に主は天界の偉大と卓越との性質を教えられているのである(マタイ19・30、20・16、25−28、マルコ10・31、42−45、ルカ9・48、13・30、22・25−28)。これらのものが、またそのようなものが低い度の真理の外観である、なぜなら彼らは以下の理由から実際相対的に偉大になり、卓越し、力あるものとなり、権威を持つからである、すなわち、ただ一人の天使でも数万の奈落の霊よりも大きな力を持っているが、しかしそれもその者自身から持っているのではなく、主から持っているのであり、彼は彼自身からは何ら力を持ってはいないことを、かくて彼は最小のものであると信じるに比例して益々主からその力を得るのであり、しかも彼はそのことを彼が謙遜になり、他の者に与えることを求める情愛の中にいるに応じて、即ち、主に対する愛の善と隣人に対する仁慈の善の中にいるに応じ、益々信じることが出来るのである。
天界の秘義5428[2]
そして彼らは以下のように話されるなら、即ち、天使たちの力は実に世の強い者の力の凡てにも優っており、小天使の一人でも巨万の奈落の霊たちを追い払って、彼らをその地獄の中へ突き落とすことが出来るほどにも偉大であり、またそのことが聖言に彼らは『力』、また『支配者』と呼ばれている理由ではあるものの、それでも彼らの中で最小の者が最大な者なのである、即ち、力はすべて主から来ており、一つとして自分自身からは来てはいないことを信じ、欲し、認める者が最も力ある者なのである、かくて天界における力である彼らは自己から由来している力には徹底的に反感を持っていると話されるなら―このこともまた、媒介的なものが無しには自然的な光により観察される時は、もし相応がないなら、特に甚だしいのではあるが―それは承認されはしないのである。
天界の秘義6344[4]
善から真理の中にいる者たちは、即ち、仁慈から信仰の中にいる者たちは善から真理を通して力の中にいるのである。この力の中に凡ゆる天使たちはおり、ここから天使たちは聖言では『力』と呼ばれている、なぜなら彼らは悪霊らを抑える力を持っていて、一人の天使でも一千の者を直ぐにも抑えることが出来るからである。彼らはその力を主として人間のもとで発揮し、時としては多くの地獄に対して人間を守り、しかもそのことを無数の方法で行うのである。
天界の秘義6365
彼らは彼の眼前から逃げると言われているのは、その奈落の一味のたれかが主の天的な王国の天使に近づくときは、その眼前にいることが出来ないで、そこから逃げ去ってしまうためである、なぜなら彼は主に対する愛のスフィアであるところの、天的な愛のスフィアに堪えることが出来ないからであり、このスフィアは彼には燃えて、激痛を与える火のようなものとなるのである。さらに天的な天使は決して戦いはしないし、ましてやその手はその敵の首を掴みはしないし、また実際彼は、彼のことに関係している限りでは、いかような者も敵としては認めはしないものの、それはこの世の事情のためにそのように表現されているのであるが、しかしその真の意味は、奈落の者らが自分自身を彼の敵として認めて、彼の眼前から逃げ去るということである。
天界の秘義6677
「もしそれが娘であるなら、彼女を生かしておかなくてはならない」(出エジプト記1・16)。これは、彼らはもしそれが善であるなら、そのようなことをしてはならないことを意味していることは以下から明白である、即ち、『娘』の意義は善であり(489−491、2362番)、『生きること』の意義は破壊されないことである。エジプトの王が息子は殺さなくてはならないが、娘は殺してはならないと言った理由は、内意から明らかであり、その内意は、彼らは真理を破壊しようと企てはするが、しかし善を破壊しようと企てはしないということである、なぜなら奈落の者は取り憑いて悩ます時は、真理を攻撃することは許されるが、善を攻撃することは許されはしないからである。その理由は真理は攻撃されることの出来るものではあるが、善は攻撃されることの出来ないものであり、善は主により守られており、奈落の者が善を攻撃しようと企てると、地獄に深く投げ込まれるということである、なぜなら善の一切には主が現存されているため、彼らは善の現存に耐えることは出来ないからである。そこから天使たちは善の中にいるため、一人の天使でも数千の奈落の霊どもを支配することが出来る程の権能を彼らに対しては持っているのである。善の中には生命が在ることを知られたい、なぜなら善は愛のものであり、愛は人間の生命であるからである。自己と世を求める愛のものであって、そうした愛の中にいる者らには善として現れている悪が、天界の愛のものである善を攻撃するなら、その一方の生命が他方の生命と戦うことになり、そして天界の愛の善から発している生命は神的なものから発しているため、自己と世を求める愛から発している生命が前の生命と衝突するなら、それは消滅し始めるのである、なぜならそれは窒息してしまうからである。かくて彼らは死の苦悶にある者のように苦しみ、そのため真逆様に自らを地獄に投げ込み、そこに着くと再び生命を回復するのである(3938、4225、4226、5057、5058番)。このことがまた善は魔鬼と悪霊によって攻撃されることが出来ず、かくて彼らは敢えて善を破壊しようとはしない理由となっている。真理にあってはそうではない、なぜなら真理はそれ自身の中に生命を持たないで、善から、即ち、主から善を通して生命を持っているからである。
天界の秘義7299
更に他生では魔法使いからは秩序を濫用し、その法則を歪める力は取り去られてしまうのである。これは二つの方法で行われ、一つは主の神的な力により天使たちは彼らの魔法で作り出されたものを根絶してしまうが、これは彼らが正しい者に悪を為そうとしてそれを用いる時に行われるのであり(主から発している天使の力は凡てそうしたものを一瞬にして消滅させるほどにも強大である)、他は魔法が全く彼らから取り去られ、それで彼らは最早そうした種類の物は何一つ示すことが出来ないということである。
天界の秘義7299
主の神的な力により天使たちは彼らの(魔法使いら)魔法で作り出されたものを根絶してしまうが、これは彼らが正しい者に悪を為そうとしてそれを用いる時に行われるのであり(主から発している天使の力は凡てそうしたものを一瞬にして消滅させるほどにも強大である)
真の基督教569
或る悪魔がその狡知によって光の天使の外観を帯びることが出来、最低の天界の或る天使たちの間に現れた。その後ニ、三日して、私は彼を見た。遠方からは彼は豹のように見えた。彼は中間の深淵を越えて、ニ本の橄欖の木の間に立ったが、その木の芳香も彼には何の影響も与えなかった。これは、如何なる天使もその場に居合わせなかった為である。然し、天使たちが近づくや否や、彼は痙攣を起こして倒れ、その時の有様は大きな大蛇が身悶えしているようであった。遂に、彼は地面の割れ目から逃れ、その朋輩達によって洞窟の中へ運ばれ、そこに間もなく彼自身の歓喜の忌まわしい匂いによって生き返ったのである。
2.悪から発した誤謬の中にいる一千人の者も善から発した真理の中にいる一人の者にも全く勝ちはしない
天界の秘義6784〔2〕
真の記憶知は悪から発した誤った教義の力に打ち勝つことは、神的なものが善から発した凡ゆる真理の中に在るに反し、悪から発した誤謬の中にはそれに相反したものが在り、そして神的なものに相反したものは全く勝ちはしないためである。それで他生では悪から発した誤謬の中にいる一千人の者も善から発した真理の中にいる一人の者にも全く勝ちはしないで、その一千人の者はこの一人の者の眼前からも逃げ去ってしまうのであり、もし逃げ去らないなら、責め苛まれるのである。「悪から発した誤謬」と言われているのは、それが真に誤謬であるに反し、悪から発しないで、真理に対する無知から発した誤謬はそうしたものではないためである。悪は天界に対立するものであるが、しかし無知から発した誤謬はそうしたものではない、否、もしその無知の中に無垢が何かあるなら、その時はこの誤謬も主から真理として受け入れられるのである、なぜならこうした誤謬の中にいる者たちは真理を受け入れるからである。
天界の秘義9327
真理には凡ゆる力があるため、悪から発した誤謬は、それは善から発した真理が剥奪され、かくて力が剥奪されたものであるため、何らの力もないことが生まれている。従って地獄にいる者らは―そこの凡ての者は悪から発した誤謬の中にいるが―何らの力も持ってはいないのである。それで彼らの数千の者も、丁度空気中の埃のかけらが息で追い払われるようにも、天界のただ一人の天使によってすら追いやられ、投げ込まれ、散らされもするのである。この凡てから誤謬の悪にいる者らが善の真理のために恐怖を感じる理由を認めることが出来よう。この恐怖は「神の恐怖(神を恐れる恐怖)」と呼ばれる。
3.彼らは、許されると、自然界でもまたそのような力を揮うことは聖言から明白である
天界と地獄229
彼らは、許されると、自然界でもまたそのような力を揮うことは聖言から明白である、例えば彼らは軍隊全部を滅ぼし、疫病をもたらし、そのため七万人が死んだのである。この天使については以下のように記されている、「その天使はエルサレムに向って手を伸べ、それを滅ぼした。が、エホバはその悪を悔いられて、その民を滅ぼした天使に言われた、それで充分である、今は手を止めよ。ダビデはその民を打ったその天使を見た」(サムエル記後4・16,17)。他に幾多の記事がある。