光の子

福音を生きる

 

 

1.聖書

2.スウェーデンボルグ

3.マリア・ワルトルタ

4.ヴァッスーラ

 

1.聖書

 

ヨハネ3・16−21

 

神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。

 

2.スウェーデンボルグ

 

天界の秘義51

 

『像[映像]』については、像[映像]は似た形ではなく、似た形に順応しており、それで『わたしたちはわたしたちの像をもって、わたしたちに似た形に従って人を作ろう』と言われている。霊的な人は『像[映像]』であり、天的な人は『似た形』または類似したものである。本章には霊的な人が取扱われ、次章には天的な人が取扱われている。『像』である霊的な人はヨハネ伝に於けるように、主から『光の子』と呼ばれている―

 

 暗い中を歩む者は自分が何処へ行くかを知っていない、光の子となるために、光があるうちに、光を信じなさい(12・35,36)。

 

かれはまた『友』とも呼ばれている―

 

 あなたらはもしわたしが命じることを行うなら、わたしの友である(ヨハネ15・14,15)。

 

 しかし『似た形』である天的な人はヨハネ伝には『神の子』と呼ばれている―

 

 しかしかれを受け入れた者、すなわちその御名を信じた者には神の子となるちからを与えられた、こうした者は血からではなく、また肉の意志からでもなく、また人の意志からでもなく、ただ神から生まれたのである(1・12,13)。

 

 

天界の秘義379

 

 これらのことが意味されていることは前に述べたところから明らかであり、『呪われる』ことは善に反感を持つことであることは既に示した(245番)。なぜなら不法と憎むべきことは、または憎悪は人間を背かせるものであり、かくてかれは下の方のみを眺め、すなわち、身体と地の事のみを眺め、かくて地獄に属した物を眺めるからである。このことは仁慈が追放され、消滅してしまう時生まれてくる、なぜならその時主を人間と結ぶきづなは切断されてしまうからである、それは仁慈のみが、または愛と慈悲のみが我々を主に連結させるが、仁慈の無い信仰は決して我々を主に連結させはしないためである、なぜなら後のものを単なる知識であって信仰ではなく、奈落の一味自身が持っているものであって、それによりかれらは善良な者を巧みに欺き、自分自身を光の天使に装うことができるからであるが、こうしたことは最も邪悪な説教家でさえ敬虔な熱意に似た熱意を以って時として行うのが常であるが、その唇から言われるものほどにその者らの心から遠いものは何一つありはしないのである。

 

人の言葉なり、または同意なりが、その人の意志または意図から発していないときは、それがいかような性質のものであろうと、たれもそれを尊重しないことをたれでもその者自身の経験から知っているのに、記憶の内の信仰のみが、またはそこから発した思考が何か益をもたらすことができると信じる程にも薄弱な判断力しか持っていない者が在りえようか。人の言葉なり同意なりを楽しいものになし、人間を人間に結びつけるものは意志または意図である。意志こそ真の人間であり、その欲しない思考または言葉はではない。人間はその性質と性向を意志から得ているが、それは意志がかれを動かすからである。しかしもしたれかが善いことを考えるなら、信仰の本質である仁慈はその思いの中に在るが、それは善を為そうとする意志がその中に在るからである。しかしもしかれが自分は善いことを考えていると語りつつも、邪悪な生活を送るならば、悪以外の何ものをも到底欲することはできないのであり、それで信仰は存在していない。

 

 

天界の秘義6655

 

「さあ、わたしたちはそれを慎重に取り扱おう」(出エジプト記1・10)

 

これは狡猾を意味していることは、「慎重」の意義から明白であり、それは真理と善から遠ざかっている悪い者について言われているときは、狡猾である。なぜなら悪い者がその狡猾から、また詐欺から行うものをかれらは慎重(なこと)と呼んでいるからである。「慎重(なこと)」により意味されている狡猾について、ここに若干述べて良いであろう。

悪にいる者は凡て狡猾を「慎重」と呼び、理知と知恵をそれ以外のものから成立させはしないのである。世でこうした性格を持った者らは他生ではさらに悪くなり、そこで善い真のものに反したことを狡猾から絶えず行い、真理を誤謬によって、いかような技巧を、またはいかような邪悪な議論を弄してでも、無価値なものとし、破壊できるように自分自身に思われる者らは、かれらの間では理知があって、賢明な者であると認められているのである。

このことから教会の内で慎重を狡猾から成立させる折のその人間の性質のいかようなものであるかを認めることができよう。すなわち、かれらは(そのとき)地獄と交流しているのである。真の教会の人間である者たちは狡猾を嫌悪するほどにもそこから遠ざかっており、かれらの中で天使のような者である者たちは得べくば自分の心が開かれて、その思うことが何人にも明らかになるように願っているのである。なぜならかれらはその隣人に対しては善以外には何ごともねがってはいないし、もしたれかの中に悪を見ても、それをゆるすからである。悪にいる者らはそうではない。かれらはその考え、欲することが何であれ明らかになりはしないかと恐れているのである。なぜならかれらは隣人に対しては悪以外には何ごとも意図してはいないし、たとえ善を意図しても、それは自己のためであり、何か良いことを行っても、それはただうわべのみのことであって、利得と名誉を得るために善い者として見られるためである。なぜならかれらは、善で、真で、公正で、公平なものは、また尊いものは、(人の)心を、たとえ悪い者の心であっても、それをひきつける強い、かくれた力を持っていることを知っているからである。

 

 

天界の秘義9245

 

光は世に来た、しかし人間はその業が悪かったため、光よりは暗黒を愛した。悪を行う者はことごとく、その業が非難されることを恐れて、光を憎んで光へ来ない。しかし真理を行う者は、その業が明らかにされるために、光のもとへ来る、その業は神の中に行われたからである(ヨハネ3・19−21)

 

『光へ来ること』は主に対する信仰へ来ることを意味し、かくて主から発した信仰へ来ることを意味している。

 

 

天界と地獄489

 

秘かには行動しないで、自分の考えたことがすべて、社会生活に許される限り、明るみに出されるようにと願った者たちは―それは彼らは神的なものから誠実な公正なものを除いては何一つ考えなかったからであるが―天界では光に溢れた顔を持っており、その顔の中にはその光から彼らの情愛と思考との一つ一つが形をとって見られ、彼らの言葉と活動とはその情愛の映像のようなものとなっている、従って彼らは他の者以上に愛されている。彼らは話しているときはその顔が少し暗くなるが、しかし話し終わると、その話した事柄そのものがその顔に共に現れて完全に見えるのである。彼らの周囲に存在する物は凡て、彼らの中に在るものに相応しているため、その表象し、意味しているものが他の者から明白に認められるような外観をとっている。秘かに行動することを歓びとしていた霊らは、彼らを遠くから見ると、彼らを避け、彼らから蛇のように這って逃げるようにその者自身に思われている。姦淫を極悪のことに考えて、結婚の貞潔な愛に生きた者たちは他の凡ての者にまさって天界の秩序と形の中にいて、そこから美そのものと青春の花盛りにいる。その愛の楽しさは言語に絶し、永遠に増大して行く、なぜならその愛の中へ天界の凡ゆる歓喜と喜びとが流れ入るからである、それはその愛は主の天界と教会との連結から下降し、全般的に天界そのものであり、個別的には各天使における天界であるからである(前の366−387番を参照)。

 

 

3.マリア・ワルトルタ

 

マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P58

 

 しかし彼らは私を憎んでいます。私はこの世にとって一つの“危険”だからです。世間の偽り、欲望、暴力に対する危険そのものだからです。私は光で世間を照らすが、世間は光を愛しません。光は世間の俗悪さを、はっきり見せつけるから、世間は私を愛さない・・・私を愛することはできません。私が人間の心に打ち勝つために、つまり、人間を迷わせる闇の王に打ち勝つために来たと知っているからです。世間は私が医者であり、薬であることを認めようとせず、治療を拒んで狂ったように私を殺したいのです。

世間は私が主であるということに納得しない。私の言うことが世間の常識に背いているからです。そのために世間は、罪悪である自分の本性をあばこうとする私の声を、神の声を、押しつぶそうとしています。私と世間との間には、淵があります。それは私の責任ではありません。私はこの世に光と道を、真理と命を与えるために来たのに、世間は私を迎えようとしない。私の光は、その世間にとって闇に変わる。それは私を望まない人々の罰になるからです。

 

マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P59

 

私を迎える人は光、すなわち神の子となり、神を向かえるために生まれた人々です。

 

 

4.ヴァッスーラ

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/2巻P80

‘87・12・23

 

わが神よ、プロテスタントの人たちにはショックでしょう!(私はまだそのことを思っていました。)

 

♡ ヴァッスーラ 私は彼らが変わるように何年も待っていた、もうこの願いを自由に書き下ろさせてもらいたい ♡

 

でも ショックでしょう!

 

無礼と感じるであろう ♡ 聞きなさい。 都合のよい時しか私の言葉を聞かないで、自分に合わない時は耳を塞ぐことができようか?

 

この全てを頭から否定するでしょう! 部分的に選ぶわけにはいかないのですから。―これがあなたからではないと主張します。

 

もしそうするなら 私を神として否定することになる ♡

 

主よ、これは彼らにとっては きついことだと敢えて言わせて下さい。あなたを否定しているとは感じないでしょうし、結局はあなたを愛し、主として本当に礼拝しているのですから 主よ。

 

ヴァッスーラ 私はあなた方皆を一致させに来た ジェームズ神父は私の訴えを拒むであろうか?(*) そうはしない、私の弟子なら誰であろうと私の訴えを拒まないであろう?

    ジェームズ神父を誠実の模範となさっています。

 

はい、誠実なら、主よ。

 

あなたのくれたこの言葉で、すべては言い尽くされた。 「誠実なら」、耳を貸すであろう ♡♡♡ 一致を可能とするよう 皆の上に輝き 光を与えに来た、しかし ヴァッスーラ 非常に悲しいことに 光よりも闇を好む者がいるであろう その行為が悪に染まっているため、自分たちの行為が露にされるのを恐れて光のもとに来るのを拒む、しかし献身的な者たち 私のわざを真実に認め 従う者たちは 我が光のもとにやって来て 恐れなく自分の行為を表す、神である私のうちに行われた行為だと証して みことばのうちに住む人は、確かに私の弟子となり、真理を知り 真理はあなたを自由にすると私は言った、そしてこのたびは、こう言う:もし今日の我が言葉を認めるなら、確かに私の弟子となる、真理にたいする誠実さを学び 真理はあなたを自由にし 愛のうちの一致を可能とさせ 私に栄光を与えよう ♡ 私は手に我が心をのせ、与えようと、皆のところにやって来た、しかし訴えても多くの者は私を拒む、神として認めてはくれない 心を頑なにして もし私を愛するなら訴えに耳をかすはずであり、聞くのを拒むのは、もう子として私のものではないから、彼らの知恵が盲(めしい)にさせてしまった、しかし真に言う、私の羊たちは声を聞き分け、私の声を聞き分けない者たちは私の羊ではなく 我が全能を信じていない 私の仔羊がなぜ散らされ 私のからだが不具であるかを知っているか、教会の中になぜ不調和があるか知っているか? 夜導く灯を持たないで歩いていたからだ ♡ 光である私を探し求めなさい そうするならあなた方を導く、偽善と頑なさを捨て去り、柔和 謙遜であるように、心を開いて 私のいのちの雫に満たされなさい、私は良い羊飼いで あなた方を愛している ♡♡♡ ヴァッスーラ 私に話しかけなさい、聖なる仲間として接してくれるように ♡ 

 

そういたします わが神、お愛しします 主よ、み名を讃えたいと願っています 主よ。

 

♡ 愛する者よ 私は 我が名に栄光を帰した そして再びそうする、私の支配は永遠に続く、 ♡ 来なさい、勇気を 娘よ、ともにいる ♡♡

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/3巻P61

‘88・10・25

 

わが主よ?

 

私です ♡ 娘よ! 歓びなさい!あなたの理解をはるかに越える愛をもって 永遠の昔から 愛してきた! 偏愛をもって。 あなたを創造したのは あなたの愛で我が霊を悦ばせ 我が心を満たすため、あなたの涙によって我が怒りをなだめ 傷を和らげるため。 あなたを創造したのは 疲れた時の 憩い 忘れられた時の 話し相手として。 夢中であなたを愛している! 愛する者よ、 我が聖心の望みを知ってもらい、我が持てるすべてを分かち合うために あなたを選んだ。 我が光の子となりなさい。 私はあなたを最も愛する者 最も祝福する者。 私があなたに抱く嫉妬深い愛は その小さな心を燃え上がらせ 光の松明とし、ほかの心をも私を愛するように 燃え立たせるであろう。 私の愛が点る 祭壇となり、この炎を広げ 石の心をも生き生きとさせて 私の熱心な弟子にさせなさい。 肌の色や教義で区別しないように、あなた方は皆 私の似姿につくられ 私の十字架は 全てのくに民のために捧げられた。 我が聖なる名のもとに 一つとなりなさい。 被造物よ 私は 夢中で愛している! 生き返りなさい 被造物! あなた方のさ中に 私が現存すると信じて、皆を癒すことができるよう あなた方の心に入らせてほしい。

花よ、私を望みなさい、我が掟を重んじ 私を喜ばせなさい、私を第一におき 全てのものに優先させなさい。 地上的なものはすべて 嫌悪するように、この世でなされた すべての悪を埋め合わせるには 莫大な償いを必要とする、他の人びとに代って償うように、ヴァッスーラ、決して見捨てない。私の教えに導かれて あなたは我がもとに来た、私とあなた、あなたと私は、代々終わりなく結ばれている、私の平和を受けなさい ♡ 来なさい ♡

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/3巻P80

‘88・12・3

 

♡ 私を愛する者は 我が愛のうちに成長してゆき、一方彼らは私を愛するよう 他の者たちも連れて来れるようになる ♡ 我が聖心は愛の炎で燃え立ち その深淵に皆を引き入れようと切望している。 愛に渇く。 あなたに求めるのは愛のみ、愛は有徳の木の根だから。 来なさい、私と和解していないすべての者たち、来なさい、来て和解し 私自らの平和を受けなさい、来て 我が愛を共有しなさい、まだ私を理解していない者たちよ 来て、私と和解しなさい(ヨハネ14・27)、来て 愛と和解しなさい ♡ 私、あなたの主イエス・キリストは あなたに我が光の子となってほしいと願っている、そう、私を尊ぶ 平和と愛の弟子となって、

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/3巻P104

‘89・1・17      

 

♡ 今日、我が唇は愛に渇き、あなた方の愛を求めている、私は愛に飢え渇く、愛に飢え渇く・・・我が聖心はどれほど私を愛するのを 学ぶようにと願っているか! いつの日か愛の頂きに達し あなたが「お父さま(アッバ)!」と叫ぶのを 聞きたいと願っている! その時・・・その時初めて、我が傷は癒えはじめるであろう・・・我が司祭たちが、無限の愛から汲み上げ、自らの心を満たすようにどれほど願うか! 彼らに対する我が愛は大きい、どれほど大きいかは 天国に入るまで、十分理解はできないであろう ♡ 熱心を旗印、忠実を松明、清さを礼装、そして愛を紋章としなさい。 子羊たちが彼らのうちに私を認め 我が象りを はっきりと見出だせるように ♡ 羊飼いたちは、清くあってほしい、その清さのうちに 彼らの実が 無傷であるように。 我が聖心を歓喜させ 掟を完全に守りなさい、愛することは、掟に従うこと。 互いに愛し合いなさい ♡ ああ 我が光の子たちよ、みことばを生きるように、みことばを生きるように・・・

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/4巻P5

‘89・9・29

 

卑しめられるのは私のために良いことでした。私はあなたの掟を学ぶようになりました(詩篇119・71)。愛ゆえに苦しみを与えておられるのが分かっています。私を跡継ぎにされたために、愛を惜しみなく注いでおられるのです。愛する人びとを訓練されるのを知っています。あなたは主、焼き尽くす火です!

 

我がヴァッスーラ、過ぎ去る日ごとにあなたは私に近づいている。 日ごとに私も あなたに我が愛を証し こうした仕方で私自身を明かしているのが私であると 証ししている ♡ しかしあなたの世代はあなたに災いしている、この世代の災いは合理主義と呼ばれ、合理主義は死に至らせる ♡ 合理主義は闇の君主に由来し、暗やみの中に住む者たちは皆 他の病いとともにこの病いを患っている ♡ しかし私からの者はすべて 光から出ている、そしてあなた方の住むこの闇の世界を照らすために 選ばれた霊魂たちに私が降ると、悪を行う者たちを我が光は不安にさせ、その悪行は露顕してどの目にも見えてしまうために不安のあまり殺すのも厭わなくなる。 私から身を隠そうとしたアダムとエワの行為とあまり変わらない ♡ そう 我が光の子よ、あなたは私のものです そしてそのために闇が敵対し迫害し、闇を嗣ぐ者たちは私の跡継ぎたちを常に迫害しよう ♡ あなた方のくに民に光の時が至れば 我が光は彼らを不安にさせ、この者たちを震え上がらせる この者たちは生涯をかけて悪巧みし 合理主義を育ててきたからです、墓場に住む闇の霊魂たちにとって 光の時は絶え間ない拷問となる、しかし我が光を彼らの上に輝かせよう、この暗やみを我が光が貫き 穏やかな陽光は死の床に横たわる荒れ地のすべてをも生き返らせよう、闇はもはや くに民の上に影を映さない、我が光がその柔かいつぼみを元気づけ 陽光が花開かせ、地上の枝々は再び緑に変わる、祈りを続けるように、我が子よ、愛が永遠にあなたを愛している