光の子天的・霊的救霊神の子神の子たち

 

1.真理を行う者は、その業が明らかにされるために、光のもとへ来る

2.「あなたの父の家を望みに望んだ[慕いに慕った]からである」

 

 

1.真理を行う者は、その業が明らかにされるために、光のもとへ来る

 

天界の秘義9245

 

光は世に来た、しかし人間はその業が悪かったため、光よりは暗黒を愛した。悪を行う者はことごとく、その業が非難されることを恐れて、光を憎んで光へ来ない。しかし真理を行う者は、その業が明らかにされるために、光のもとへ来る、その業は神の中に行われたからである(ヨハネ3・19−21)

 

『光へ来ること』は主に対する信仰へ来ることを意味し、かくて主から発した信仰へ来ることを意味している。

 

 

2.「あなたの父の家を望みに望んだ[慕いに慕った]からである」。

間接的な[媒介的な]善

 

天界の秘義4145

 

「あなたの父の家を望みに望んだ[慕いに慕った]からである」。これは直接に流れ入ってくる善である(『家』が善を意味していることについては、前の2233、2234、3652、3720番を参照、『父』もまた善を意味しており、3703番、『イサク』は合理的なものの善であることについては、3012、3194、3210番を参照)。そしてさらに、アブラハムはイサクとともになって直接的に流れ入ってくる神的善を表象し、ラバンは傍系的な善を、また直接に流れ入らない善を表象している(3665、3778番を参照)。傍系的な善、または直接に流れ入らない善は媒介的な[間接的な]善と呼ばれているかの善である、なぜならこの善は善のように見えはするが、しかし善ではないところの多くのものを世的なものから取得しているが、直接的には流れ入ってくる善は主から直接に、または主から間接的に天界を通して来るものであって、今し方言及したばかりのそうした世的な善からは分離した神的善である。

 

 

天界の秘義4145[2]

 

 再生しつつある人間はことごとく媒介的な善が純粋な善と真理とを導入するために役立つようにと、その媒介的な善の中に先ずいるのであるが、しかしそれがその用に仕えた後では、その善は分離されて、その人間は更に流れ入ってくる善へ連れてこられるのである。かくて再生しつつある人間は徐々に完全になされるのである。例えば、再生しつつある人間は、自分が考えもし、行なってもいる善は自分自身から発しており、自分はまた何かに価していると最初信じているのである、なぜならかれは善は他のある源泉から流れ入っていることを未だ知っておらず、知っても悟っておらず、またそれは自分はそれを自分自身から為すから、自分は当然報いられねばならないということ以外のものでありうることも未だ知ってもおらず、知っても悟ってもいないからである。最初かれはそのように信じない限り、かれは決していかような善も為さないであろう。しかしかれはこの手段により善を為す情愛へ徐々に入れられるのみでなく、善にかかわる、また功績にかかわる知識へも入れられるのであり、このようにしてかれは善いことを為す情愛へ導き入れられると、そのときは異なったことを考え、また異なったことを信じはじめるのである、すなわち善は主から流れ入ってくるのであり、自分が自分自身のものから為す善によっては自分は何ものにも価しないことを考え、信じはじめるのであり、ついにはかれは善いことを意志し、行う情愛の中にいると、かれは自己功績を全然斥けてしまい、それに嫌忌を感じさえもして、善から善に感動するのである。かれがこうした状態の中にいるとき、善は直接に流れ入ってくるのである。

 

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P322

 

人間は楽園の安全な岸から、春になると水の溢れる地上の川に投げ捨てられました。けれども神は追い出した二人の心に、永遠の思い出を記されました。神の御声を聞き、愛を感じていた美しい楽園、神のことを味わった天の国にいたことの思い出を残されました。(中略)

今、楽園ではなく、地上にいるあの蛇は、霊魂を迷わせようとしています。永遠の天国に行こうとする霊魂が、命と救いの木々を養う大いなる川へ遡るのを妨げようとしています。流れを遡って神に行き着いた人々だけは、天使たちと一緒に住み、もう苦しむことがないでしょう。

 

 

天界と地獄83

 

 ここから天界を考えない者は、即ち、天界を存在させている神的なもの[神]を考えない者は、天界の最初の入口へも挙げられることは出来ない。彼は初めそこへ来ると、抵抗とまた強い反撥を感じる。その理由は、天界を受けなくてはならない彼の内部は、天界の形を持たず、閉じられているということであり、実に、彼は天界に近づいて行くに応じて益々その内部はきつく閉じられるのである。これが教会内で主を否定する者と、ソツニウス派の者のように、主の神性を否定する者との運命である。しかし教会の外に生まれて、聖言を持っていないため、主を知っていない者たちの運命はいかようになるかは、後に述べよう。

 

 

 

 

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/3巻P95

 

‘88・12・28 グループにたいするメッセージ。

 

♡ 私は主。 我が花たちよ、平和であるように。 あなた方の主 私は平和であるから。 我が愛する被造物よ どれほど愛しているか! あなた方は 私にとって尊い。 花と名づけたあなた方よ、成長しなさい、我が神聖な光のもとで成長し、まだ我が光を見ていない 兄弟たちのために、祈りなさい ♡ 彼らの改心のために祈りなさい。 花たちよ! あなた方に水を与えるつもりだ、そう! 小川は川となり 川は平和と愛の大海へと ひろがって行く。 我が光を 遠くいたるところに放ち 「預言のように 教えを注ぎ出し 世々代々に これを残し伝えよう(*)」と言ってきた。

 *シラ書24・33

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/3巻P165

‘89・5・1

 

ぼろを纏(まと)い 素足のまま 乾いた唇をして 乞食の姿で訪れている

 

私は主、エマヌエル、この弱い器を通して私自身を顕す 聖なる者のうちの聖なる者 ♡ あなたのもとに来た 小さな者たちよ、非常に大切にされたくに民よ、あなたのもとに来て 目の前に我が聖心を顕している ♡ 我が聖心は聖であり、清く 愛に満ちている、そこで、以前目を覚ましていたように、目を覚ましなさい、無気力から目覚め、目覚めて私を感じなさい。 我が霊は絶え間なくあなた方のさ中に 脈々と注ぎ出されている、それでも、非常に多くの人はまだ分かっていない・・・私、主は、あなた方を創造して以来預言者を形造ってきた、しかし私自身の者たちは今までもずっと繰り返してきたことを繰り返し・・・いまだに我が全ての預言者たちを迫害して、町から町へと追っている。 アベルの聖なる血は絶え間なく流されている、私自身の者たちは義なる掟を求め、そばにいてほしいと切望する、しかし我が恵みの聖霊を送ると、目を閉じ、聞くのも拒む、そして心を頑なにさせ、害を及ぼす鳥を追い払うようにして徒党を組み 我が恵みの聖霊を追い払ってしまう ♡ 我が聖心は痛む・・・広げなさい! 広げなさい! 私の道を塞いでしまわないように! あなた方によって飢えている 我が民に、届くのを邪魔するだけの、それらの障害を取り除きなさい。 あなた方を癒し、あなた方を慰めるために、あなた方のもとに来て、平和と愛を届けに来た、私の土地を灌漑し 土を耕しにやって来た。 我が名は聖であり 金言 掟は聖である ♡ そう、この乾いた土を愛の水で潤す そして私、主は、我が子どもたちを祝福し ずっと霊を注ぎ続ける。 気がついたであろう? はるか以前に約束した新しい天と新しい地を受けるように あなた方を準備していると気がついたであろう? まだ理解していないのか? 私のやり方を見たであろう? 我が声に耳を傾けるようにと 地の隅から隅まであなた方皆を招く ♡ 

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/3巻P231

‘89・8・22

 

御名が讃美されますように。息する全てのものがあなたを讃えますように、わが主よ!

 

愛があなたを愛している。 すべてを越える我が愛と慈しみが あなたの上にある ♡ 寄りかかっていなさい、私は道を案内する者、疑わないように、まこと愛する者よ、いつでもあなたを満たそう。 我が平和と愛の流れを 川のように送っているであろう? では歓びなさい、私、主が−あなたと−ともに−いる のだから。 みことばを読むように (そこでイザヤ書49・6を開きました)

(後ほど)

今や私自身の手で葡萄畑を世話している。 貧しい者 義人たちの悲嘆の叫びを聞いたのだ、 彼らは果実を願っていた、そこで私、慈しみの主は果実を何倍にも増やしている、パンと魚を増やし 群集を養ったように ♡ この果実は地球にとっては美、そして栄光となろう、敵にふみにじられないように、葡萄畑を囲んで塀を立てる ♡ 愛する者たちよ、私、葡萄畑の主があなた方のさ中にいる。 勇気を まこと愛する者たち。 あなた方がいかに光を遮られ 闇の中に閉じ込められていたかを知っている、しかしこの暗やみと 我が燃え盛る愛の火を対称させようとして 私は降った。 地球全体がまばゆい光で輝き 愛なる私が、あなた方のさ中に生きるであろう ♡

 

 

天界の秘義195

 

 最古代の人々は人間の中の凡ての物を獣と鳥にたとえたのみでなく、それをそのように名づけもしたが、こうした話し方の慣わしは洪水の後の古代教会の中にすら残り、予言者の間に保存されたのである。人間の感覚的なものをかれらは『蛇』と呼んだのは、蛇は地に密着して生活しているように感覚的な物は身体に最も近接している物であるからである。ここからまた感覚の証明に基礎づけられているところの、信仰の諸々の秘義に関わる理論はかれらにより『蛇の毒』と呼ばれ、その理論家自身は『蛇』と呼ばれたのであり、そしてこうした人物は感覚的なものから、すなわち、(地的な、形体的な、世俗的な、自然的な物といった)目に見える物から大いに論じるため、『蛇は畠の凡ての野生の動物の中最も鋭敏であった』と言われている。

 

 

天界の秘義195[2]

 

同じく詩篇の中にも、理論により人間をたぶらかす[欺く]者を語って―

 

 彼らは蛇のようにその舌を鋭くする、その唇の中には蝮の毒がある(詩篇140・3)

 

さらに―

 

 彼らは母胎から道に迷い、いつわりを言う。その毒は蛇の毒に似ている、彼らは口ごもる者の声を、呪文を唱える賢い者の声を聞くまいとして耳をふさいでいるつんぼの毒蛇に似ている(詩篇58・3−6)。

 

 その人々は賢い人の語るところを、または賢い者の声を聞こうとさえもしない性格をもっているが、そうした性格の理論はここでは『蛇の毒』と呼ばれている。ここから古代人の間に、『蛇はその耳をふさぐ』ということが諺となったのであった。アモス書には―

 

  人が家に入って、その手を壁にもたせかけて、蛇にかまれるのに似ている。エホバの日は暗黒であって、光はなく、闇でさえあって、その中に輝きはないのではないか(5・19、20)。

 

 『壁の上の手』は自己から由来した力と感覚的な物に対する信頼とを意味しており、そこからここに記されている盲目が発している。

 

 

天界の秘義195[3]

 

エレミヤ記には―

 エジプトの声は蛇のようにすすむであろう、なぜなら彼らは木を切る者のように斧をもって彼女のもとへくるからである。エホバは言われる、彼らはその森を、それが探られないために、切り倒すであろう、なぜなら彼らは蝗よりも増し加わって、数えることもできないからである。エジプトの娘は恥じを受け、北の民の手に渡されるであろう(46・22−24)。

 

 『エジプト』は感覚的な物と記憶知から神的な事柄について論じることを意味している。このような議論は『蛇の声』と呼ばれ、そこから起ってくる盲目は北の民と呼ばれている。ヨブ記に―

 

 彼は毒蛇の毒を吸い、蝮の舌に殺されるであろう。彼は蜂蜜と牛酪の流れる川を、小川を見ないであろう(20・16,17)

 

『蜂蜜と牛酪の流れる川』は単なる理論家によっては見ることのできない霊的な天的なものであり、理論は『毒蛇の毒』『蝮の舌』と呼ばれている。下記の14、15節の蛇について更に参照されるように。

 

 

天界の秘義4598

 

「イスラエルは旅をした」。これはこの時の自然的なものの天的な霊的なものを意味していることは以下から明白である、すなわち、『旅をすること』の意義は継続的なものであり、または連続的なものであり(4375、4554番を参照)、ここでは、内的なものに向ってさらに、であり、ここの『イスラエル』の表象は自然的なものの天的な霊的なものである(4286番)。自然的なものの天的な霊的なものの何であるかは前に説明したところであり、すなわち、それは真理の善であり、または信仰の真理により得られる仁慈の善である。内的なものに向ってすすむことの何であるかは世ではほとんど知られていない。それは記憶知の中へ進んで行くことではない、なぜならこれは内的なものへ何ら進むことなしに再三存在し、内的なものから離れ去ってさえしも非常にひんぱんに存在しているからである。それはまた成人期の判断の中へ進んで行くことでもない、なぜならそれもまた時としては内的なものから離れ去っても存在しているからである。それはまた内的な真理の知識の中へ進むことでもない、なぜならこの知識もその人間がその知識に感動しないかぎり些かの益にもならないからである。内的なものへ進んで行くことは真理のいくたの知識に対する情愛の中に植え付けられている真理の知識により、かくていくたの情愛により天界と主へ向って進んで行くことである。

 

 

天界の秘義4598[2]

 

内的なものに向って進んで行くことの性質の何であるかはこの世ではたれにも明らかではない、しかし他生ではそれは明らかに現れている、なぜならそこではそれは一種の霧から光の中へ進んで行くことであるから、なぜなら外的なもののみ中にいる者らは相対的には霧の中にいて、天使によってはそうしたものの中にいるように見られるに反し、内的なものの中にいる者たちは光の中にいて、従って知恵の中にいるからである、なぜならそこの光は知恵であるからである、そして驚くべきことには、霧の中にいる者らは光の中にいる者たちを光の中にいるものとして見ることは出来ないが、光の中にいる者たちは霧の中にいる者を霧の中にいるものとして見ることが出来るのである。ここに取り扱われている主題は主の神的なものが内的なものへ向って進んで行くことであるため、ヤコブはここでは『イスラエル』と呼ばれているが、しかし他の時には、本章の節と最後の節におけるように、『ヤコブ』と呼ばれているのである。

 

 

天界の秘義9452

 

 主は人間を神的慈悲から再生される。これはその幼児時代から世におけるその生命の最後に至るまで、後には永遠に至る迄も行われる。かくて主が人間を悪と誤謬から引き出して、彼を信仰の諸真理と愛の諸善へ導き、後にはそれらの中に留めおかれるのは神的慈悲から発している。そしてこの後で、主は神的慈悲をもって彼を天界における御自身のもとへ引き挙げられ、彼を幸いにされるのである。この凡てが慈悲から罪を赦すことにより意味されていることである。他の何らかの方法で罪が赦されると信じている者らは全く誤っている、なぜならもしそれが他の何らかの方法で為されることが出来るなら、おびただしい人間を地獄の中に見て、これを救わないことは慈悲が欠けていることになるからである。しかし主は慈悲そのものであられ、いかような者の死も望まれないで、その者が生きることを望まれているのである。

 

 

 

 

天界の秘義9726

 

それで人間は、信仰に属した真理と愛に属した善とを認めて、把握するようにと、主によりこの感覚的なものから更に内的なものに向って引き挙げられるのである。

 

 

天界の秘義9730

 

 人間には理解と意志の幾多のものは二つの方面へ決定づけられており、一つは世に向って外方へと決定づけられ、他は天界に向って内方へと決定づけられている。自然的な、感覚的な人間にあっては、理解と意志との引いては思考と情愛との幾多のものは世の方へ決定づけられているが、しかし霊的な、天的な人たちにあっては、これらのものは天界に向って決定づけられ、また交互に世の方へも決定づけられている。その決定のちょうつがいはその人間が再生しつつある時は内方へ向けられることが出来るに比例して、その人間は主により天界へ向って主御自身へ引き挙げられ、従って同じ割合で知恵、信仰、愛がその者に染み込むことが出来るのである。なぜならその人間はその時内なる人の中に生き、従って霊の中に生き、外なる人はそれに服従しているからである。しかしもし人間が自分自身が再生することに甘んじないなら、その時はその内部は凡て世の方へ決定づけられ、またその時はその生命は外なる人の中に在って、内なる人はそれに服従しているのである。これが外なる人が悪い欲念を支持する理解を提供する折の実情である。これらの人間は自然的なものと呼ばれ、極めて外なるものの中に止まっている者らは感覚的なものと呼ばれており、ここから『感覚的なもの』により意味されていることを認めることが出来よう。

 

 

 

 

グリニョン・ド・モンフォール/聖母マリアへのまことの信心/山下訳/215

 

あなたはこれからは神を、自分の父親のように考えるのです。神なる父親を、なんとかして喜ばせてあげようと、絶えまなく努力するようになるのです。この神と、息子対父親のように、こころおきなく、対話をかわすようになるのです。もし不幸にも、神に対して何かイケナイことをしたら、すぐに謙遜にゆるしをねがい、神に手をさしのべて助けをもとめ、再び立ち上がって、恐れず心配せず失望せず、神に向かって歩み続けるようになるのです。