間接的な[媒介的な]善

ラバン新しい人・古い人状態の変化

 

 

天界の秘義4063[2]

 

 『ラバン』により表象されている善はヤコブにより表象されている真理の善に対照するといかようなものであるかは前章に述べられまた示されもしたことから認めることができよう。このことはさらに人間の再生の諸状態により説明することができよう、なぜならそのこともまたその表象的な意義の中にここにとり扱われているからである。人間が再生しつつあるときは、かれは主により一種の間接的な[媒介的な]善の中に留めおかれるのである。この善は純粋な諸善と諸真理とを導入するために仕えるが、しかしそれらのものが導入された後は、それはそれらのものから分離されてしまうのである。再生についてまた新しい人について何ごとかを学んだ者はたれでも新しい人は古い人とは全く相違していることを理解することができるのである、なぜなら新しい人は霊的な事柄と天界的な事柄を求める情愛の中にいて、これらの事柄がその人の歓喜と楽しさとを生み出しているに反し、古い人は世的な事柄と地的な事柄を求める情愛の中におり、これらの事柄がその人の歓喜と楽しさとを生み出しており、従って新しい人は天界における目的を目指しているが、古い人は世における目的を目指しているからである。このことから新しい人は古い人とは全く相違し、相反していることが明らかである。

 

 

天界の秘義4063[3]

 

 人間が古い人の状態から新しい人の状態へ連れてこられるためには、世を求めるいくたの欲念が脱ぎ棄てられて、天界を求めるいくたの情愛が着けられなくてはならない。このことは無数の方法により行われているが、その方法は主のみに知られており、またその多くのものは主により天使たちにも知らされてはいるが、しかしその何かが人間には知られても僅かしか知らされてはいないのである。にも拘らずその凡てのものは全般的にもまた個別的にも聖言の内意に明らかにされているのである。それで人間は、古い人であることから新しい人にされるときは、すなわち、再生しつつあるときは、それはある者たちが信じているように、一瞬に行われるのではなくて、数年を経過して行なわれるのである、なぜならその者のいくたの欲念は根絶されなくてはならず、天界のいくたの情愛が注ぎ込まれなくてはならず、またその人間は以前持ってはいなかったところの、またそれについてはほとんど何ごとも知らなかったところの生命を与えられなくてはならないからである。それで、その人間の生命のいくたの状態はかくも大いに変化しなくてはならないからには、必然的に彼は長く一種の間接的な[媒介的な]善の中に、すなわち、世を求めるいくたの情愛にもあずかり、天界を求めるいくたの情愛にもあずかっている善の中に長く留めおかれなくてはならないのであり、彼がこの間接的な[媒介的な]善の中に留め置かれないかぎり、彼は決して天界のいくたの善と真理とを容認はしないのである。

 

 

天界の秘義4063[4]

 

 この間接的な[媒介的な]または中間の善が『ラバンとその羊の群』により意味されているものである。しかし人間はこの中間的な善の中にはその善がこの用を果すまえより長くは留めおかれはしないで、その用が果されると、それは分離してしまうのである。この分離が本章にとり扱われているのである。媒介的な善が在ることは、またそれはその用を果した後では分離してしまうことは、たれもが幼少の頃から老年にさえ至るまで経験する状態のいくたの変化により説明することができよう。人間の状態は幼少の頃と子供時代の頃と青年時代の頃と大人の時代の頃と老年の頃とではそれぞれ異なっていることは知られている。人間は青年時代の状態へ入ると、玩具をもてあそんだその幼少期の状態を脱ぎ去ってしまい、年若い大人の時代へ入ると、青年時代のその状態を脱ぎ去ってしまい、さらに成熟した年齢の状態へ入ると、その年若い大人の時代も脱ぎ去ってしまい、ついには老年の状態に入ると、その状態も脱ぎ去ってしまうこともまた知られている。そして人がもし考察しようと願うなら、彼はまた以下のことを知ることができよう、すなわち、各々の時代にはその歓喜があり、その歓喜により人間はそれに続いている時代の歓喜へ継続的な段階をもって導き入れられ、これらの歓喜は彼をそこへ連れて行き、最後には老年時代の理知と知恵との歓喜へ連れて来る目的に仕えているのである。

 

 

天界の秘義4063[5]

 

 この凡てから新しい生命の状態が着けられると、前のものが常に後に残されてしまうことが明らかである。しかしこの比較は、歓喜が手段であり、それは人間がそれに続いている状態へ入ってくると、後にとり残されてしまうことを示すのに役立つにすぎないが、しかし人間の再生の間では彼の状態はその前の状態とは全く異なったものになり、彼は全く自然的な方法で、それへ導かれるのである、またたれ一人主のみにより供えられる再生の手段または媒介によらなくては、かくてわたしたちがこれまで語ってきた媒介的な善によらなくてはこの状態へ到達しないのである。そしてその人間が世的な、地的な、形体的な事柄をもはや何ら目的としないで、天界のものである事柄をその目的とするかの状態へ入れられると、そのときはこの媒介的な善は分離するのである。何ごとかを目的とすることはそれを他の何ごとにもまさって愛することである。

 

 

天界の秘義4145

 

「あなたの父の家を望みに望んだ[慕いに慕った]からである」。これは直接に流れ入ってくる善である(『家』が善を意味していることについては、前の2233、2234、3652、3720番を参照、『父』もまた善を意味しており、3703番、『イサク』は合理的なものの善であることについては、3012、3194、3210番を参照)。そしてさらに、アブラハムはイサクとともになって直接的に流れ入ってくる神的善を表象し、ラバンは傍系的な善を、また直接に流れ入らない善を表象している(3665、3778番を参照)。傍系的な善、または直接に流れ入らない善は媒介的な[間接的な]善と呼ばれているかの善である、なぜならこの善は善のように見えはするが、しかし善ではないところの多くのものを世的なものから取得しているが、直接的には流れ入ってくる善は主から直接に、または主から間接的に天界を通して来るものであって、今し方言及したばかりのそうした世的な善からは分離した神的善である。

 

 

天界の秘義4145[2]

 

 再生しつつある人間はことごとく媒介的な善が純粋な善と真理とを導入するために役立つようにと、その媒介的な善の中に先ずいるのであるが、しかしそれがその用に仕えた後では、その善は分離されて、その人間は更に流れ入ってくる善へ連れてこられるのである。かくて再生しつつある人間は徐々に完全になされるのである。例えば、再生しつつある人間は、自分が考えもし、行なってもいる善は自分自身から発しており、自分はまた何かに価していると最初信じているのである、なぜならかれは善は他のある源泉から流れ入っていることを未だ知っておらず、知っても悟っておらず、またそれは自分はそれを自分自身から為すから、自分は当然報いられねばならないということ以外のものでありうることも未だ知ってもおらず、知っても悟ってもいないからである。最初かれはそのように信じない限り、かれは決していかような善も為さないであろう。しかしかれはこの手段により善を為す情愛へ徐々に入れられるのみでなく、善にかかわる、また功績にかかわる知識へも入れられるのであり、このようにしてかれは善いことを為す情愛へ導き入れられると、そのときは異なったことを考え、また異なったことを信じはじめるのである、すなわち善は主から流れ入ってくるのであり、自分が自分自身のものから為す善によっては自分は何ものにも価しないことを考え、信じはじめるのであり、ついにはかれは善いことを意志し、行う情愛の中にいると、かれは自己功績を全然斥けてしまい、それに嫌忌を感じさえもして、善から善に感動するのである。かれがこうした状態の中にいるとき、善は直接に流れ入ってくるのである。

 

 

天界の秘義4145[3]

 

 また一例として結婚愛を考えてみられよ、先行して、浸透してくる善は美であり、または作法の快さであり、または一方が他方に対し外的に(自らを)適応させることであり、または境遇が等しいことであり、または好ましい境遇である。これらの善が婚姻愛の最初の媒介的な善である。その後で心の連結が生まれるのであり、その中では一方は他方のように意志し、他方を喜ばすことを行なうことの中に歓喜を認めるのである。これは第二の状態であり、その時は前のものは、依然現存はしているものの、もはや顧みられはしないのである。最後に以下の点で天的な善で霊的な真理との方面で一方の者は他方の者のように同じ善に感動するのである。こうした状態がくると、両方の者はともに善と真理との結婚である天界的結婚の中にいるのであり―なぜなら結婚愛はそれ以外のものではないからである―主はその時その両方の者の情愛の中へ一つの情愛の中へ流れ入られるように流れ入られるのである。これが直接に流れ入ってくる善であるが、しかし前の善は間接的に流れ入ったのであり、それを導入する手段として仕えたのである。