ラバン

間接的な[媒介的な]善

 

 

天界の秘義3612

 

「ハランにいるわたしの兄、ラバンのもとへ逃げなさい」。これは外なるまたは形体的な善の情愛[外なるまたは形体的な善に対する情愛]を意味していることは以下から明白である、すなわち、ラバンの表象は自然的な人における善に対する情愛であり(3129、3130、3160番を参照)、『ハラン』の意義は外なるものであり、かくて対照的には明確でないものである(1430番を参照)。しかしここに元来『ラバン』と『ハラン』により意味されていることは以下の記事から、そこにはラバンとハランのことが言われているが、そこから認めることができよう、すなわち、それは根幹が共通した傍系の善である、なぜなら善と真理は氏族の中の両親、兄弟、親戚、縁者の連結のような連結をそれら自身の間に持っているからである(685、917、2508、2524、2556、2739番)。

 

 

天界の秘義4063

 

ラバンの表象は根幹が共通している傍系的な善であり(3612、3665、3778番)、かくて純粋な諸善と諸真理とを導入する上に役立つことができるような善であり(3974、3982、3986番)、ここでは、そのように役立った善である、なぜならその分離がとり扱われているからである。

 

 

天界の秘義4063[2]

 

 『ラバン』により表象されている善はヤコブにより表象されている真理の善に対照するといかようなものであるかは前章に述べられまた示されもしたことから認めることができよう。このことはさらに人間の再生の諸状態により説明することができよう、なぜならそのこともまたその表象的な意義の中にここにとり扱われているからである。人間が再生しつつあるときは、かれは主により一種の間接的な[媒介的な]善の中に留めおかれるのである。この善は純粋な諸善と諸真理とを導入するために仕えるが、しかしそれらのものが導入された後は、それはそれらのものから分離されてしまうのである。再生についてまた新しい人について何ごとかを学んだ者はたれでも新しい人は古い人とは全く相違していることを理解することができるのである、なぜなら新しい人は霊的な事柄と天界的な事柄を求める情愛の中にいて、これらの事柄がその人の歓喜と楽しさとを生み出しているに反し、古い人は世的な事柄と地的な事柄を求める情愛の中におり、これらの事柄がその人の歓喜と楽しさとを生み出しており、従って新しい人は天界における目的を目指しているが、古い人は世における目的を目指しているからである。このことから新しい人は古い人とは全く相違し、相反していることが明らかである。