状態の変化
天界の秘義2796
ここに取り扱われているところの、主が色々な状態を着けられたことについては、それらは人間には不明なものでないわけにはいかない、なぜなら人間は自分の状態の変化を決して反省はしないからである。しかしその状態の変化は理解に属しているものまたは思考の方面のみでなく、意志に属しているものまたは情愛の方面でも絶えず行われているのである。彼がその状態の変化を反省しない理由は、彼が彼の中の凡ゆるものは自然的な秩序をもって互いに続いていて、それを(ある方向へ)向けている更に高いものが存在してはいないと信じているということであるが、事実はそれに反し凡ゆるものは人間のもとにいる霊たちと天使たちとにより処理されて、その人間の凡ゆる状態と状態の変化とはそこから発しており、かくてそれらは主のみが先見されている目的に向って主により永遠に向けられて行くのである。真実はそのようなものであることが今や私には多年の経験から極めて充分に知られるようになったのである。またいかような霊と天使とが私と共におり、彼らはいかような状態を生み出したかも知り、また観察することができたのである。以下のことを私はおごそかに主張することが出来る。即ち、凡ゆる状態は、その最小のものですらも、この源泉から発しており、そのことにより主により(主の目的へ)向けられているのである。また各々の状態の中には非常に多くの他の状態が在り、それらは明らかに現われてはいないで、共になって一つの全般的な状態として現われているが、これらの状態は、その後に連続して秩序をもって続いている幾多の状態に関連して処理されていることも知り、観察することが出来たのである。人間のもとではこれらのものは主により行われているが、しかし主御自身のもとでは、主が世におられた時は、それらは主御自身により行われたのである。なぜなら主は神的なものであられ、その生命の存在そのものはエホバであったからである。
天界の秘義3356
『震えること』または『動くこと』は状態の変化を意味している理由は、それが空間と時間の中に起るが、他生では空間と時間とは何ら考えられないで、それに代わって状態が存在しているということである。他生では凡ゆる物は空間の中に現れるように現れて、互いに他のものに恰も時間の中で続いているように続いているということは実際真ではあるが、しかし空間と時間はそれ自身では状態の変化である、なぜなら空間と時間とはその源泉から発しているからである。これは凡ゆる霊に、実に邪悪な者らにすら完全に知られていて、かれらは他の者たちに招致された状態の変化により、その者たちを、実際はそこにはいないのではあるが、そこにいるように現れさせるのである。人間はそのことを以下の事実から知ることができよう、すなわち、人間はいくたの情愛とそこから派生してくる楽しさの状態の中にいるに応じて、またいくたの思考の中にいて、その結果、身体から離れている状態の中にいるに応じて、かれは時間の中にはいないのである、なぜならその時は多くの時間もかれにはほとんど1時間にも思われないからであり、そしてこのことはかれの内なる人または霊は状態をもっていて、それに、その外なる人における空間と時間とが相応しているためである。それで『動くこと』は空間と時間における継続的な進行であるため、その内意では状態の変化である。
天界の秘義3593
「イサクは甚だしく非常に震えた」。これは状態の逆転にかかわる非常な変更を意味していることは、『震えること』の意義から明白であって、それは変更であり、それは状態の逆転について―その人間が再生してしまう前の状態と再生した後の状態について―前に言ったことから明白であり、すなわち、再生してしまう前の状態[再生していない状態]では、真理が外面的には主権をもっているが、再生した後の状態では真理は場所をゆずって、善が主権を受けるのである(この主題については前に再三示したことを参照されたい、1904、2063、2189、2697、2979、3287、3288、3310、3325、3330、3332、3336、3470、3509、3539、3548、3556、3563、3570、3576、3579番)。
天界の秘義4110[2]
悪い霊らもまた実に自由の中に遠ざけられるが、しかし彼らには自由として見えるにすぎない自由の中に遠ざけられるのである。彼らはその人間が真理と善とを確認しはじめると、彼らは止まっていることに不快を、分離することに喜びを感じ、このようにして彼らの歓びから生まれてくる自由の中に分離するのである。こうしたものが、人間が再生しつつあるとき、その者から霊たちが分離する実情であり、従って善と真理との方面のその者の状態の変化の実情である
天界の秘義4111[2]
これらの事柄に含まれていることもまた霊たちが分離されつつある時のその霊たちの状態から認めることができよう。善と真理との方面の霊たちの状態はその霊たちがその中にいる社会に順応している、なぜなら前に示されたように思考はすべて他の者たちを通して流れ入っており、最も近い所では、その思考の主体が共に交わっている者たちを通して流れ入っており、それでかれらが一つの社会から遠ざけられて、他の社会の中へ入れられると、かれらの思考と情愛との状態は変化し、従って真理と善との方面のかれらの状態も変化してしまうのである。しかしもしかれらが調和していない[一致していない]社会へ入れられるなら、かれらは不快を感じ、従って束縛を感じ、それでその社会から分離されて、かれらに調和した社会へ連れ去られて行くのである。悪い者は善良な者の社会にいることはできないし、または止まっていることはできないし、善良な者もまた悪い者の社会の中におり、または止まることはできないし、霊たちと天使たちとがすべて愛のものである情愛に順応していくたの社会に区別されているのはこうした理由によっているのである。しかし愛の情愛の各々はその内に色々な、多様なものを含んでいるものの(3078、3189、4005番)、それでも一つのものが支配しており、それで各々の霊は多くの社会の中にいることができるものの、それでも絶えずその者を支配している情愛のものである社会へ向って絶えず努力しており、ついにはその中へ連れてこられるのである。
天界の秘義4111[3]
なぜなら全般的に言って、他生における状態の変化は神的なものへ近づくことと神的なものから遠ざかること以外の何ものでもないからである。
天界の秘義4122
なぜなら再生しつつあるところの、またそのもとに天使たちが仕える者として現存しているところのその人間の中に、その天使たちはこのようにかれの状態の変化を見ており、また認めており、その変化に応じ、またその変化を手段として主からかれを善へ、その人間が自分自身が導かれることに甘んじている限り、導くからであり、その経過は天界ではこのように非常に有益なものであるためそれがここに詳細に取り扱われているのである。
天界の秘義4151
前に述べられたように、ラケルがテラピムを、またはラバンの神々を盗んだことによりラバンにより表象された状態が真理の方面で変化したことが意味されたのであり(4111番を参照)、ここにまたつづいて言われていることの中に、この状態の変化が以下の事実の結果として起ったものとしてさらに記されているのである、すなわち、ラバンにより表象された善が『ヤコブ』である善から分離されてしまった後では、それはこの分離を通して他の状態へ入ってきたのである、なぜならその両方の善が連結していた時ラバンにより表象されている善にはその善自身のものとして見えた諸真理が今は恰もそれらのものが取り去られてしまったかのように認められたからである。このことがラバンがそれらについて苦情を訴え、その天幕を探したが、いかようなものも見出さなかった理由である。なぜなら善い意味でテラピムにより意味されている諸真理は(4111番)、かれのものではなくて、『ラケル』である真理の情愛にぞくしたからである。
天界の秘義4151[2]
このかんの実情のいかようなものであるかは他生に起きるものからでなくては認めることはできない、なぜならそこで人間の近くに起る事柄は恰もかれの中に在るかのようにかれには見えるのであり、そのことは他生の霊たちの場合でもほとんど同一であるからである。媒介的な善の中にいる霊たちの社会が天使たちと交わっていると、そのときはかれらには天使たちにぞくしている諸真理と諸善とは正しくかれら自身のものであるかのように見えるのであり、実際かれらはそれが事実でないことを認めるのであり、それでかれらはそれらが自分たちが交わっていた者たちにより取り去られたと信じるため、苦情を訴えるのである。このことがテラピムについて述べられていることにより内意にここに意味されている事柄である。
天界の秘義4151[3]
全般的に言って、実情は以下のようになっている、すなわち、たれ一人自分自身のものである善と真理とは決して持ってはいなくて、善と真理とはすべて主から直接的にも、また天使たちの社会を通して間接的にも流れ入ってはいるものの、それでもその善と真理とはその人間のものであるかのように見えるのであるが、そのことはその人間が、その善と真理とはその人間のものではなくて、主のものであることを知り、次に承認し、最後に信じる状態へ入ってくるまで、その人間のものとされるという意図の下に行われているのである。さらに、善と真理とはすべて主から発しており、善は一つとして人間からは発していないことは聖言から知られ、またそのことにより基督教世界に知られており、いな、聖言から発している教会の教義的なものも以下のことを宣言しているのである、すなわち、人間は人間自身では善を追い求めることすらできない―なぜなら善を行なうことは善を意志することから発しているからであるが、信仰もまたすべて主から発しており、かくて人間は信仰をそれが主から流れ入ってこない限り些かも持つことはできないのである。
天界の秘義4151[4]
これらの事柄が教会の教義的なものにより宣べつたえられ、説教により教えられている。しかし僅かな者しか、いな、極めて僅かな者しかな者しかそれが然うであることを信じてはいないことは、かれらは生命はすべてかれら自身の中に在ると考え、ほとんどたれも生命が流れ入ってくることを考えていないという事実から認めることができよう。人間の生命はすべて考えることができ、意志することができる能力から成っている、なぜなら考え、意志する能力が取り去られるなら、生命は何一つ残らないからである。そして生命そのものは善を考え、善を意志する能力から、また真理を考え、わたしたちが真のものであると考えることを意志することから成っている。これらのものは人間のものではなくて、主のものであり、主から天界を通して流れ入ってくることは聖言から来ている教会の教義的なものに順応していることをそこから結論することができよう。
天界の秘義4151[5]
悪と誤謬の場合も同じである。聖言から来ている教義に従うと、悪魔は人間をたぶらかそうと絶えず努めており、また絶えず悪を吹き込んでおり、それでたれかが大きな犯罪を犯すと、かれは悪魔により迷わされるのに甘んじたと言われている。そしてそのことがたとえそのことを信じる者がいてもそれは僅かではあるけれど真の事実なのである。なぜなら善と真理とはすべて流れ入っているように、悪と誤謬もすべて流れ入っており、従ってまた悪を考え、意志することもすべて流れ入っていることを認めることができるのである。これらのものもまた流れ入っているため、何らかの判断力をもって反省することのできる者はすべて、生命はすべて、それは恰も人間の中に在るかのように見えるはするものの、流れ入っていることを推論することができよう。
天界の秘義4151[6]
これが実情であることは世から他生へ入って間もない霊たちにひんぱんに示されている。しかしその霊たちのある者はもし悪と誤謬もまたすべて流れ入ってくるなら、悪と誤謬とは一つとしてかれらに帰せられることはできない、それらは他の源泉から来ているため、かれらは過ってはいないと言ったのである。しかしかれらは以下のように答えられた、すなわちかれらはかれら自身で考え、意志していると信じることにより悪と誤謬とを己がものとしてしまったのであり、それに反しもしかれらがまことに実情のあるがままに信じたなら、そのときはかれらは悪と誤謬とを己がものとはしなかったであろう、なぜならかれらは善と真理とはすべて主から発していることを信じたであろうし、もしかれらがそのことを信じたなら、かれらはかれら自身が主により導かれるのに甘んじたであろうし、それで異なった状態の中にいたであろう、またそのときはかれらの思いと意志とに入った悪はかれらを動かしはしなかったであろうから、なぜなら悪ではなくて善がかれらから発したであろうから、なぜならわたしたちを動かすものは入ってくるものではなくて、発するものであるからであり、それはマルコ伝7・15の主からの御言葉に従っているのである。
天界の秘義4151[7]
多くの者はそのことを知ることができるが、しかし僅かな者しかそれを信じないのである。悪い者らですらそれを知ることができるが、しかし依然信じることはできない、なぜならかれらはかれら自身のものであるものの中にいることを願って、そのことを、凡ゆるものが流れ入っていることを示されると、不安になって、自分自身のものであるものの中に生きることを許されるようにと切に願い、もし自分自身のものがかれらからかりにも取り去られでもするなら、自分たちはもはや生きることはできないと主張するほどにも、愛しているからである。そうしたものが知っている者たちの信念である。こうした事柄を言ったのは、媒介的な善の中にいる霊たちの社会の実情がいかようなものであるかを、すなわち、かれらが他の者たちと連結している時の、また他の者たちから分離している時の実情がいかようなものであるかを明らかにするためであり、すなわち、かれらは連結しているときは、かれらはその諸善と諸真理とはかれらのものではないけれど、かれら自身のものであるとのみしか知っていないのである。
天界の秘義4850
心またはハートが情愛とそこから生まれる思考との方面で変化すると、例えば、悲哀から喜びへ、または再び喜びから悲哀へ、不敬虔から敬虔または献身へ、というふうに変化すると、内部の状態は変化すると言われるのである。これらの変化は状態の変化と呼ばれて、情愛について述べられ、また思考についても、その思考が情愛により支配されているかぎり、述べられるが、しかし思考の状態の変化は、個別的なものが全般的なものの中に在るように、情愛の変化の中に在って、相対的にはいくたの多様なものとなっている。
天界の秘義5962[2]
天界にいる者は凡てこうした変化を受け、またそれを経験し、そうした変化がないなら、絶えず完成することは出来ないのである。なぜなら彼らはそのことにより善でないものと真でないものとを知るため、そのことにより幸福でないものを知る以上、そのことにより相対的な状態を得、その相対的な状態から更に完全な認識を得るからである。
天界の秘義5963
すぐ前に(5962番)記した他生の色々と変化する状態はそこにいる者たちの許に在る善と真理との認識に順応しており、かくて彼らが主の臨在[現存]を認識することに順応しているのである。この認識に応じて彼らは静謐を得ているのである。なぜなら主の臨在を認識している者たちは、彼らに起る一切の物は彼らの善に貢献しているが、悪は彼らには及ばないことを認識しており、そこから静謐(な状態)の中にいるからである。主に対するこのような信仰または信頼がなくては何人も決して平安な静謐(な状態)には達することは出来ないし、かくてまた喜びの中に祝福に達することも出来ないのである、なぜならこの祝福は平安な静謐(の状態)の中に宿っているからである。
天界の秘義6645〔2〕
人間における教会の実情はそれが継続的に新しい状態を経るということである、なぜなら人間は信仰の真理と仁慈の善とを強められるに応じて、他の状態へ導き入れられ、かくて前の状態はそれに続く状態に対する面となり、しかもそれが絶えず続いて行われるからである。かくて教会であり、または再生しつつある人間は絶えず更に内的なものの方へ導かれ、かくて天界の更に内部へ導かれて行くのである。そのことが行われるのは、主は愛から―それは神的なものであるため、無限なものであるため―人間を御自身にまでさえも引き寄せ、かくして彼を凡ゆる栄光と幸福とをもって祝福しようと欲しられるためであり、そのことはまたヨハネ伝の主の御言葉から非常に明白である―
わたしは、父なるあなたがわたしの中におられ、わたしがあなたの中にいるように、彼らも凡ての者も一つのものとなるように、彼らもまたわたしたちの中に一つのものとなるように祈ります。あなたがわたしに与えられた栄光をわたしは彼らに与えました、わたしたちが一つであるように、彼らも一つとなるためです、わたしが彼らの中に、あなたはわたしの中に(おられるように一つとなるためです)。父よ、あなたがわたしに与えられた彼らもまたわたしがいるところにわたしと共にいて、あなたがわたしに与えられたわたしの栄光を見るように、とわたしは願っています、わたしは彼らにあなたの御名を知らせましたが、またそれを知らせましょう、あなたがわたしを愛されたその愛が彼らの中に在り、わたしも彼らの中にいるためです(ヨハネ17・21−24、26)。