神の子たち

 

 

光の子天的・霊的

主を愛する従う

 

 

 

 

天界の秘義51

 

『像[映像]』については、像[映像]は似た形ではなく、似た形に順応しており、それで『わたしたちはわたしたちの像をもって、わたしたちに似た形に従って人を作ろう』と言われている。霊的な人は『像[映像]』であり、天的な人は『似た形』または類似したものである。本章には霊的な人が取扱われ、次章には天的な人が取扱われている。『像』である霊的な人はヨハネ伝に於けるように、主から『光の子』と呼ばれている―

 

 暗い中を歩む者は自分が何処へ行くかを知っていない、光の子となるために、光があるうちに、光を信じなさい(12・35,36)。

 

かれはまた『友』とも呼ばれている―

 

 あなたらはもしわたしが命じることを行うなら、わたしの友である(ヨハネ15・14,15)。

 

 しかし『似た形』である天的な人はヨハネ伝には『神の子』と呼ばれている―

 

 しかしかれを受け入れた者、すなわちその御名を信じた者には神の子となるちからを与えられた、こうした者は血からではなく、また肉の意志からでもなく、また人の意志からでもなく、ただ神から生まれたのである(1・12,13)。

 

 

 

天界の秘義1737

 

「あなたの敵をあなたの手に渡された」(創世記14・20)。これは勝利を意味していることは説明なしに認めることが出来よう。人間的な本質と神的な本質との連結は主により不断の試練の争闘と勝利により得られ、遂行されたのであり、しかもそれは主御自身の力により行われたのである。その連結と結合とを他の方法で把握している者は大いに誤っている。そのことにより主は義となられたのである。連結または結合は愛の天的なものをもって、即ち、前に言ったように、エホバである愛それ自身をもって遂行されたのである。人間が主と連結することもまた幾多の試練により信仰を愛の中に植えつけることにより遂行されるのである。信仰が愛の中に植えつけられない限り、即ち、人間が信仰に属している事柄により信仰の生命を、即ち、仁慈を受け入れない限り、連結は存在しないのである。そのことのみが、主に従うことであり、即ち、主がその人間的な本質の方面でエホバと連結されたように、主と連結することである。そこからまたこのような者たちは凡て神の独り子であられた主から『神の子たち』と呼ばれ、またそこから神の映像となるのである。