天的・霊的

 

 

主を愛する卑下卑下の相違

真理に対する情愛霊的

天的なもの

 

 

 

 

1.天的な教会の人

2.霊的な教会の人

3.天的・霊的

4.霊的な者たちには善に勝っている者と真理に勝っている者と二つの部類が在る

5.天的な王国は最も内なる、または第三の天界を構成し、霊的な王国は中間の、または第二の天界を構成している

6.天的な者たちはこれらのものは三つのものではなくて、一つのものであることを認めている

 

 

 

 

1.天的な教会の人

 

 

天界の秘義2454

 

ルカ伝に『彼は彼の後を振り返ってはならない』と言われて、『彼の後にいるものを振り返って見てはならない』とは言われていない理由は、天的な者たちは教義的な性質のものは何であれ、それを口にすることすらも欲しないということである(202、337番参照)、そのことが何ら特定的なものが話されないで、単に『彼の後を』と言われている理由となっている。

 

 

 

天界の秘義3122

 

 更に仁慈を意味しているこの真理[真]については実情は以下のようになっている、即ち、天的なものであった最古代の人々は主から発している慈悲と真[真実、真理]とにより、主に対する愛とそこから派生してくる隣人に対する仁慈との流入を受けること以外のことは何ら理解しなかったのである。しかし霊的なものであった古代人にあっては、彼ら自身のもとにある主から発した慈悲と真とにより仁慈と信仰とを理解したのであるが、その理由は天的な人について前に言われたことから認めることが出来るように(202、337、2669,2715番)、天的な人は信仰または真理の事柄については決して考えないで、愛または善のものである事柄について考えたということである。更に天的な人は改良され再生されつつあった時は隣人に対する仁慈を通して主に対する愛へ入れられたのである。それ故『主から発している慈悲』により主に対する愛の流入を認識すること以外には何ごとも意味されてはおらず、『真[真実、真理]』により、そこから派生している隣人に対する仁慈の流入を認識すること以外には何一つ意味されていないことが明白である。

 

 

 

天界の秘義3122[2]

 

 しかし霊的な者たちはそれとは異なっており、これらの者は信仰の事柄について考えるのであって、彼らは改良され再生されつつある時は信仰の事柄によって隣人に対する仁慈に導き入れられるのである。それで霊的な者が取り扱われている時は、『主から発している慈悲』により隣人に対する仁慈の流入が意味され、『真[真理]』により信仰の流入が意味されるのである。しかしそれでもこの信仰は霊的な者が再生した時は、仁慈となるのである、なぜなら彼はその時仁慈から行動するからである、それ故仁慈から行動していない者は再生しておらず、仁慈から行動している者は再生しているのであり、この場合彼は信仰のまたは真理の事柄については意を介しないのである、なぜなら彼は信仰の善から行動しており、最早その真理からは行動しないからである、なぜなら真理は単に仁慈の形として現われる以外には最早現われなくなる程にも、それはそれ自身を善と連結させてしまっているからである。

 

 

 

天界の秘義4750

 

ユダによりここでは何であれ凡ゆる善に反抗している者らが表象されていることは、善い意味では天的な愛の善の中にいる者たちが聖言にユダにより表象されているためである。天的な愛は主に対する愛であり、そこから派生した隣人に対する愛である。この愛の中にいる者たちは主と極めて密接に連結しており、それで最も内なる天界におり、そこで彼らは無垢の状態の中にいて、そこから他の者たちには小さな子供たちとして現れ、全く愛の形として現れている。他の者たちは彼らの近くに行くことは出来ない、それで彼らは他の者のもとへ遣わされる時は、他の天使たちに取り囲まれており、その天使たちによって彼らの愛のスフィアが和らげられるのである、もしそれが和らげられないと、それは彼らがそのもとへ遣わされる者たちを失神状態に投げ込むのである、なぜなら彼らの愛のスフィアが骨の髄までも浸透するからである。

 

 

 

天界の秘義5113

 

 天的な教会は意志の部分の方面で再生し、または教会となることが出来る人間のもとに在り、霊的な教会は、今し方言ったように、知的な部分の方面でのみ再生することが出来る人間のもとに存在している。

 

 

 

天界の秘義5113[]

 

天的な教会の人は、幼少の頃から仁慈の善に浸透していることにより、意志の部分の方面で再生したのであり、彼は仁慈の善を認識した時、主に対する愛を認識するようになり、そのことにより信仰の諸真理はすべて彼の知性の中に鏡の中に現れるように現れたのである。理解と意志とは彼の中に心を全く一つのものとしたのである。なぜなら理解の中の事柄により意志に在るものが認められたからである。天的な教会を意味しているかの最初の「人間」の健全さはこのことに在ったのである。

 

 

 

天界の秘義5897

 

「ユダに属した者はエジプトに宿ってはならないし、そこに住んでもならない」(エレミア44・12,14,28)。

 

天的な者たちは「エジプト」により意味されている記憶知については全く知ろうとは欲していない。なぜなら彼らはその中にいる天的な善から凡ゆる事柄を知ってはいるが、その善はもし彼らが仮にも記憶知に諮るなら死滅してしまうからである。天的な王国の者たちは天的な善の中にいるため(霊的な真理は信仰であるに反し、天的な真理は仁慈)善から「下に降って」「後を振り返って見る」ことがないように信仰を口にしようとさえ欲しない。(202,337,2715、3246、4448)

 

 

 

黙示録講解22

 

「あなたたちに恩恵[恵み]と平安とがありますように」(黙示録1・5)は真理と善との歓喜を意味している。このことは以下のことから明白である。即ち、『恩恵[恵み]』の意義は真理の歓喜であり(そのことについては以下にすぐ述べよう)、『平安』の意義は無垢と愛との歓喜である(そのことについては「天界と地獄」を参照されたい。そこには天界における平安の状態が取り扱われている、284−290)。『恩恵[恵み]』が真理の歓喜を意味しているのは、二つのものが主から発出していて、その起源では結合はしてはいるものの、それらを受ける者たちのもとでは分離しているためである。なぜなら神的な善よりも神的な真理を多く受ける者たちと、神的な真理よりも神的な善を多く受ける者たちがいるからである。

 

 神的な善よりも神的な真理を多く受ける者たちは主の霊的な王国の中におり、それで霊的なものと呼ばれているが、神的な真理よりも神的な善を多く受ける者たちは主の天的な王国の中におり、それで天的なものと呼ばれている。(天界におけるこの二つの王国については「天界と地獄」の20−28番を参照されたい。)

 

 霊的な王国にいる者たちには真理のために真理を求める情愛の中にいることが主により与えられており、この神的なものが恩恵と呼ばれるものであり、それ故、たれでもその情愛の中にいる限り、主の神的な恩恵に浴しており、人間、霊、または天使のもとには、真理に感動する以外の神的な恩恵は決してないのである。なぜならその情愛の中に彼らに対する天界と祝福とが在るからである(「新しいエルサレム」の232、236、238番、「天界と地獄」の395−414番を参照されたい)。

 真理の情愛[真理に対する情愛]または真理の歓喜と言うも、それは同じことである。なぜなら歓喜のない情愛はないからである。

 

 

 

 

2.霊的な教会の人

 

 

天界の秘義981

 

 天的な人間は恵み[恩寵]のことを語らないで慈悲のことを語り、霊的な人間は慈悲のことを語らないで、恵み[恩寵]のことを語る。こうした言い方は以下の事情に根ざしているのである。即ち天的な者たちは人類を汚れたもの以外の何ものでもなく、それ自身においては排泄物のようなものであり、奈落のものであるとして承認しており、それで彼らは主の慈悲をねぎまつるのである。なぜなら慈悲はこのような事態に述べられるからである。しかしながら霊的な者たちは人類はこのような性質のものであることは知ってはいるものの、それでも彼らは彼ら自身のものの中に止まっていて、その彼ら自身のものを愛しているため、それを承認してはいないのであり、それで慈悲のことを語るには困難ではあるが、恵み[恩寵]のことは容易に語るのである。言語上のこうした相違は卑下の相違から発しているのである。人間はたれでも自分自身を愛し、自分自身で善を行い、かくて救いに価することが出来ると考えるに比例して、主の慈悲をねぎまつることは出来ない。

 

 

 

天界の秘義3241[]

 

 霊的な教会に属している者たちは、天的な教会に属している者とは異なって、善い真である事柄を何ら認識しないで、その学んだものを真理として認めているため、そのため彼らはその事柄については、何かの事柄が真であるか否かと絶えず論じており、各々の者はその者自身の教会のものであるその教義に止まって、それを真のものと呼んでいるのである。これがかくも多い相違の源泉となっている。更に極めて多くの者は外観と迷妄[妄想]から善い真の事柄についてその結論を下しており、互にその仕方は異なっているが、たれ一人いかような認識からもそれを下してはいないのである。彼らは認識の何であるかを知ってさえもおらず、その理解はこのように信仰の幾多の善と真理については明確ではないため、信仰の凡ゆる事柄の中で最も本質的なものについても、即ち、主の神的なものと人間的なものと発出する聖いものとについても見解の相違が生まれてくるのは驚くには当たらないのである。天的な者たちはこれらのものは三つのものではなくて、一つのものであることを認めているが、しかし霊的な者たちは、それらのものは一つのものであると考えようとは欲しはするものの三つのものの観念の中に宿っているのである。それで最も本質的なものであるものについても見解の相違が在るからには、教義的な事柄の変化と相違とは無数であるに相違ないことは明白である。このことから凡ての者は、ここに名を記されている者たちにより意味されているところの幾多の派生したものが何処から発しているかを知ることが出来よう。しかし教義的な事柄には極めて多くの変化と相違とが(即ち、極めて多くの派生したものが)存在していることを認めるにしても、それでも、凡てのものが仁慈を教会の本質的なものとして承認する時、またはそれと同一のことではあるが、生命[生活]を教義の目的として認める時即ち、彼らが教会の人間がいかように生活しているかを尋ねて、その見解はいかようなものであるかをさほど問題にしない時は、それらのものは共になって、一つの教会を形作っているのである、なぜなら他生では人は各々その者の生命の善に応じて分を主から受けて、生命の善から分離した教義の真理に応じてそれを受けはしないからである。

 

 

 

天界の秘義3246

 

『アブラハムはその得た妾たちの息子たちに贈物を与えた』。これは主の神的な人間的なものにより子とされたところの霊的な者たちがその霊的王国の中に定められた場所を得ることを意味していることは以下から明白である、即ち、『妾たちの息子たち』の意義は霊的なものである者たちを意味しており(彼らについては以下の記事に述べよう)、アブラハムのここの表象は、主の神的な人間的なものであり、それで『アブラハムの得た』という言葉により、彼らが(即ち霊的な者たちが)主の神的な人間的なものにより子とされたことが意味されており、またアブラハムが彼らに与えた『贈物』の意義は主の霊的王国における定められた場所である。

 

 

 

天界の秘義3246[2]

 

 主の霊的王国を構成して、霊的な者と呼ばれている者たちについていくたの所に(例えば3235番その他)すでに示されたことから以下のことを認めることができよう、すなわち、かれらは善と真理との結婚そのものから生まれた息子たちではなくて、それほど婚姻的なものではない一種の契約から生まれた者であり、かれらは実に同一の父から生まれてはいるが、しかし同一の母からは生まれていないのであり、すなわち、かれらは同一の神的善から生まれているが、同一の神的真理からは生まれていないのである。なぜなら天的な者たちは善と真理との結婚そのものから生まれているため、善を得ており、そして善から真理を得ており、それで真であるものを決してたずねはしないで、それを善から認識しており、真理についてはそれがそうであると肯定することを超えては真理については話しはしないからであり、このことは主がマタイ伝に―

 

あなたたちはしかり、しかりと話なさい、何であれそれらのものより以上のものは悪から来ています(5・37)

 

と教えられていることに従っているのであるが、これに反し霊的な者は、それ程婚姻的なものでない契約から生まれているため、真理の何であるかを、いかような認識からも知らないで、両親や教師から真理であると話されているものを真理と呼んでおり、それでかれらの中には善と真理との結婚は存在していないが、それでも、かれらがこのように信じている真理は、かれらが生命の善の中にいるときは、主により真理として採用されるのである(そのことについては1832番を参照されたい)。それで霊的なものである者たちはここに『妾たちの息子たち』と呼ばれており、これらの者によりこれまで列挙されたケトラの凡ての息子たちと、また直ぐ以下に、すなわち、12節から18節までにその名を記されているハガルの息子たちとが意味されているのである。

 

 

 

天界の秘義5113[]

 

 この教会の人は、天的な教会のものであった者たちとは異なって、善から真理を全く認識しないで、先ず信仰のものである真理を学んで、知的なものに浸透し、かくて真理から善いものを学ばなくてはならないのであり、それをそのようにして学んだ後で、それを考え、それからそれを意志し、遂にそれを為すことが出来るのであり、かくて新しい意志が主により彼の中にその知的な部分の中に形作られることが出来るのである。この新しい意志により霊的な人は主により天界へ挙られるものの、悪は依然彼に特有の意志に残っているが、その後その意志は奇跡的に分離されるのであり、しかもそれはさらに高い力によって行われ、そのことにより彼は悪から遠ざけられて、善の中に留めおかれるのである。

 

 

 

天界の秘義10124

 

 霊的な王国の中にいる者たちのもとでは、真理は外なる、または自然的な人の中に植え付けられ、そこで先ず、記憶となり、その人間がそれに感動し、それに従ってその生命を形作るに応じて、それは理解の中に呼び出され、信仰になると同時に隣人に対する仁慈となるのである。この仁慈は彼の新しい意志を構成し、またこの信仰は彼の新しい理解を構成し、二つは合して彼の良心を構成するのである。しかし天的な王国の中にいる者たちのもとでは、真理は記憶知とならないし、信仰にも良心にもならないで、それは愛の善の中に受け入れられるのであり、生命がそれに従うに応じて、それは認識となり、その認識は彼らのもとでその愛に順応して成長し、完全なものとされ、しかもそれが幼児の場合と殆ど変わりがなく、彼らの気付かぬ中に日増しに成長し、完全なものとなって行くのである。

 このことは彼らがそれに気付かぬ中に行われることは、その真理は記憶の中に行われることは、その真理は記憶の中に知識として止まらないで、思考の中の知的なものとしても止まらず、意志の中へ直ぐ入り、生命のものとなり、それでこれらの者は真理を認識する量と質とは彼らが抱いているところの主から発した主に対する愛の善の量と質とに順応しているためであり、従ってこれらの点で非常な相違が在るのである。そして彼らは善から真理を認識しているため、彼らは真理を理論により決して確認はしないで、真理が問題となる時は、単に然り、然り、否、否としか言わないのである。

 

 

 

 

3.天的・霊的

 

 

天界の秘義81[]

 

第三に、死んだ人は争闘に置かれるときは、殆ど常に敗北し、争闘に置かれないときは、諸々の悪と誤謬とに支配されて、奴隷である。彼を束縛するものは法律に対する恐怖、生命、富、利得、名声の毀損に対する恐怖といった外なるものであり、彼はこの生命、富、利得、名声をそれ自身のために尊んでいるのである。

霊的な人は争闘の中に置かれるが、常に勝利を得る、彼を抑制する束縛は内なるものであり、良心の束縛と呼ばれている。天的な人は争闘を持たない、かれは諸々の悪と誤謬とに襲われると、それを軽蔑し、それで勝利者[征服者]と呼ばれている。かれは明らかに束縛によって抑制されてはいないで、自由である。外面には現れていないかれの束縛は善と真理の認識である。

 

 

 

天界の秘義419

 

 天的なものは愛の聖いものとそこから派生してくる善であるように、霊的なものは信仰の真理と善である、なぜなら真のもののみでなく、善いものをも理解することは信仰に属しているからである。信仰の知識にはその二つのものが包含されている。しかし信仰の教えているようなものになることは天的なものになることである。信仰はこの二つのものを包含しているため、その二つのものは琴と弦楽器であって、それで霊的な真理を意味しており、オルガンは弦楽器と風奏楽器との中間のものであるため、霊的な善を意味している。

 

 

 

天界の秘義865[2]

 

主から認識を得ている天的な人は全く異なっている。なぜならかれの中には個別的なものと個別的なものの単一的なものとは注ぎこまれることができるからである。例えば、真の結婚は一人の夫と一人の妻のそれであり、こうした結婚は天界の結婚を表象しており、それで天界の幸福はその中に在ることができるが、しかし決して一人の夫と複数の妻との結婚の中には在ることはできないということである。霊的な人は、その事を主の聖言から知っていて、それに黙従し、そこから一人以上の妻との結婚は罪であることを良心の事柄として容認はするが、しかしそれ以上のことは何も知っていない。しかしながら天的な人はこの全般的なものを確認する幾多の事柄を認めており、かくて一人以上の妻との結婚はかれに嫌忌の念をかき立てるのである。霊的な人間は全般的なことのみしか知っていないで、その全般的なものからその良心が形成されているため、また聖言の全般的なものは感覚の迷妄[妄想]に適応しているため、無数の誤謬が、消散されることができないで、その全般的なものにそれ自身を接合させ、入りこませていることが明らかである。これらの誤謬がここに『出て行って、行ったり、帰ったりしていたからす』により意味されているのである。

 

 

 

天界の秘義1525

 

光における相違の理由は第一の天界の中にいる凡ゆる善良な霊と第二の天界の中にいる凡ゆる天使的な霊と第三の天界の中にいる天使とは全般的に天的な者と霊的な者とに区別され、天的な者は善を求める愛の中にいる者であり、霊的な者は真理を求める愛の中にいる者であるということである。

 

 

 

天界の秘義2023

 

「あなたの後のあなたの裔」。これは、主を信じている者たちのもとにあるところの、そこから派生した神的なものを意味していることは、『裔』の意義が仁慈の信仰であることから明白であり(1025、1447、1610番参照)、また『あなたの後の』の意義が(直ぐ前の2019番に説明した)主に従うことであることから明白である。主を信じている者たちのもとにある神的なものは愛と仁慈である。愛により主に対する愛が意味され、仁慈により、隣人に対する愛が意味されている。主に対する愛は隣人に対する愛とは決して分離されることはできない、なぜなら主の愛は全人類に対する愛であり、主はその中の一人も滅びないように、全人類を救って、御自身に全的に接合させようと望まれているからである。それゆえ主に対する愛を持っている者は主の愛を持っており、そのことによってその隣人を愛さないわけにはいかないのである。

 

 

[]しかし隣人への愛にある者はすべてが隣人を愛しているという理由から主に対する愛の中にいるわけでない、例えば気質の善良な異邦人は(第一部1032、1059番に示したように)主については無知ではあるが、それでも主はその者のもとに仁慈の中に現存されているのであり、また教会内の他の者にも(そのことが言われるのである)。なぜなら主に対する愛はそれよりは度が高いからである。主に対する愛を持っている者たちは天的な人であるが、しかし隣人に対する愛をまたは仁慈をもっている者たちは霊的な人である。洪水以前にいて、天的なものであった最古代教会は主に対する愛の中にいたが、しかし洪水後にいて、霊的なものであった古代教会は隣人に対する愛の中にまたは仁慈の中にいたのである。愛と仁慈とのこうした区別についてはそれらが今後記されるとき述べることにしよう。

 

 

 

天界の秘義2708

 

「かれは荒野に住んだ」。これは、相対的に明確でないものの中に、を意味していることは以下から明白である。すなわち、住むことの意義は生きることであり(2451番)、『荒野』の意義はわずかな生命力しか持たないものであり(1927番参照)、ここでは明確なものでないものであるが、しかしそれは相対的なものである。しかし相対的に明確でないものにより天的教会の状態に対照されたさいの霊的な者たちの状態が意味されているのである。天的な者たちは善の情愛の中におり、霊的な者たちは真理の情愛の中におり、天的な者たちは認識を持っているが、しかし霊的な者たちは良心の指示を持っており、天的な者たちには主は太陽として現れておられるが、しかし霊的な者たちには月として現われておられるのである(1521、1530、1531、2495番)。前の者は主から光を得ているが、しかしそれは太陽から発した日中の光のように、善と真理とを見させもし、認識させもしているのである。しかし後の者は月から発した夜のような光を主から得ており、かくてかれらは相対的に明確でない状態の中にいるのである。その理由は、天的な者たちは主に対する愛の中におり、かくして主の生命そのものの中にいるが、しかし霊的な者は隣人に対する仁慈と信仰の中におり、かくて実に主の生命の中にはいるが、しかしそれはさらに明確でない状態においてその中にいるのである。かくて天的な者たちは信仰とその諸真理については決して論じないで、善から真理を認識しているため、それは然うであると言っているに反し、霊的な者は真理から善の良心の中にいるため、信仰の諸真理について語り、論じるのであり、また天的な者たちにあっては愛の善はその意志の部分に植えつけられていて、その意志の部分の中に人間の主要な生命が存在しているが、霊的な者にあってはその知的な部分に愛の善が植えつけられていて、その知的な部分の中に人間の第二次的な生命が存在しているためであり、このことが霊的な者が相対的に明確でないものの中にいる理由である(81、202、337、765、784、895、1114−1125、1155、1577、1824、2048、2088、2227、2454、2507番)。

 

 

 

天界の秘義2710

 

 わたしたちが今とり扱っている節には霊的な教会の人間は教義からのみ真理を知っていて、天的な教会の人間のように、善そのものから真理を知っていないという理由から、霊的な教会の人間の状態は天的な教会の人間のそれに比較された場合、それは明確なものではなく、また戦闘的なものであるとして記されているのである。

 

 

 

天界の秘義2715

 

天的な者たちにあっては、善そのものが彼らの意志の部分の中に植えつけられ、そこから光が発して彼らの知的な部分へ入っているが、しかし霊的な者たちにあっては、その意志の部分はことごとく破壊されてしまっており、それで彼らはそこから何ら善を得てはおらず、それゆえ善は主により彼らの知的な部分の中に植えつけられるのである(863、875、895、927、928、1023、1043、1044、2124、2256番)。意志の部分は主として人間の中に生きているものであるが、知的なものはそこから生きているのである。それで意志の部分が霊的な人のものとでは悪以外の何物でもない程に破壊されてしまって、しかも悪がそこから不断にまた継続的に彼らの知的な部分に、即ち、彼の思考の中へ流れ入っているため、そこの善は比較的明確なものではないことが明白である。

 

 

 

天界の秘義2715[]

 

ここから、霊的な者は、天的な者のようには、主に対する愛を持ってはおらず、従って、あらゆる礼拝における本質的なものであり、また善が主から流れ入ることのできる手段となっている卑下を持ってはいないのである。なぜなら高ぶっている心は些かもそれを受けはしないのであって、ただ砕けた心のみがそれを受けるからである。霊的な者はまた、天的な者のようには、隣人に対する愛を持ってはいないのである。なぜなら自己と世を求める愛が彼らの意志の部分から絶えず流れ入っており、その愛の善を明確でないものにしているからである。このことはまたたれにでも、もしその者が以下のことを考察することにより反省するならば、明白になるに相違ない。即ち、その者がたれかに善を為すときは、それは世の目的から発しており、それで、たとえその者は意識してそのように為してはいないものの、それでも報酬を考えており、すなわち、その者が善を行うその相手の者から受ける報酬かそれとも他生で主から受ける報酬かその何れかを考えており、かくて彼の善は功績の観念により汚されているのである。同じくまたその者が何らかの善を行ったときも、その者がそれを知らせ、かくして自らを他の者の上に挙げることが出来るならば、その者はその生命の歓喜の中にいるのである。

 

 

 

天界の秘義2715[]

 

 さらに霊的な人間における善は比較的明確なものでない[あいまいなものである]ことは以下の事実から認めることができよう。すなわち、かれは天的な者のようには何らかの認識から真であるものを知らないのであり、両親と教師の教訓から、またその者が生まれてきて教え込まれた教義からそれを知るのであり、その者が何ものかを自分自身からまた自分の思いからつけ加えるときは、感覚的なものとその迷妄[妄想]とが、また合理的なものとその外観とが、大半その者を支配していて、その者に天的な者たちが認めるような純粋な真理を殆ど何一つ認めさせることができないのである。にもかかわらず主はその真理のように見えるものの中に、たとえその真理は迷妄であり、または真理の外観であっても、善を植えつけられるのであるが、しかしその善はそれが連結している諸真理により限定[変化]されて、その真理から明確でないもの[あいまいなもの]になっている。このことは太陽の光が物体に流れ入る場合に似ているのである。太陽の光を受ける物体の性質が、その光をそこで色彩の相の下に現出させるのであり、もしその形の、またその受け入れる性質が(その光)に適応したものであり、また相応しているものであるなら、その光を美しい色彩として現出させるが、しかしもしその形の、またその受け入れる性質がそれに適応しておらず、かくて相応もしていないならば、その光を醜い色彩として現出させるのである。このように善それ自身は真理に応じて限定[変化]されるのである。

 

 

 

天界の秘義2715[]

 

そのことはまた霊的な人は悪とは何であるかを知らないという事実からも明らかである。かれは十戒の教えに反しているもの以外の何かかが悪であるとは殆ど信じてはいないし、無数に存在している情愛と思考の悪を知ってはいないし、またそれらを反省はしないし、それらをまた悪と呼んでもいないのである。欲念と快楽の歓喜を何であれことごとくかれは善として承認しており、自己愛の歓喜そのものをかれは追及もし、またそれに同意し、それをゆるしもしていて、このようなものがかれの霊に影響を及ぼして、かれは他生では全くそのようなものになるということを知ってはいないのである。

 

 

 

天界の秘義2715[]

 

 このことから同じように以下のことが明白である。すなわち、聖言全体の中には主に対する愛と隣人に対する愛の善以外には殆どいかようなものもとり扱われていないものの、それでも霊的な人間は善が信仰の本質であることを知ってはおらず、愛と仁慈とはその本質においてはいかようなものであるかさえも知ってはいないのであり、またかれが本質的なものとしている信仰について学んだことについても、人生の多くの経験により確認しない限り、それが果たしてそうであるか、否かと論じるのである。このようなことは天的な者たちは決して為しはしないのである。なぜならかれらはそれがそうであることを知り、また認めもしているからである。ここからマタイ伝には主により以下のように言われている―

 

 あなたたちは、然り、然り、否、否とのみ言いなさい。それをすぎたものは悪からでている(マタイ5・37)。

 

なぜなら天的な者たちは、霊的な者たちからそれがそぷであるか、否かと論じられている真理そのものの中におり、そこから天的な者たちは真理それ自身の中にいるため、その真理に属している無限のものをその真理から見、かくて光からいわば全天界を見ることができるからである。しかし霊的な者たちはそれがそうであるか否かと論じているため、かれらがそうしたことを行っているかぎり、天的な者の光の最初の境界にさえも来ることができないのであり、ましてやかれらの光からはいかようなものをも眺めることはできないのである。

 

 

 

天界の秘義3235[]

 

 神的な天的なものと神的な霊的なものとは主の神的なものを受ける者たちについてそのようなものとなっている。なぜなら主は各々の者に、主を受けるその者の性質に従って現れておられるからであり、このことは前に言われたことから認めることができよう(1838、1861番)、また主は天的な者に現れたもう方法は、霊的な者に対するそれとは異なっているという事実からも明白である、なぜなら天的な者には主は太陽として現れておられるが、霊的な者には月として現れておられるからである(1529−1531、1838番)。主は天的な者には太陽として現れておられるのは、かれらは愛の中にいるからであるが、しかし主は霊的な者には月として現れておられるが、それはかれらは霊的な愛に、すなわち、隣人に対する仁慈の中にいるからである。その相違は日中の太陽の光と夜の月の光との間の相違にも似ているのである。このことが創世記第一章に以下の言葉により意味されていることである―

 

 神は二つの大きな光を作られた、すなわち、日を支配する大きな光と夜を支配する小さな光を(作られた)(16節)。

 

 

 

天界の秘義3235[]

 

全般的に言って、主の王国は天的なものでもあり、また霊的なものでもあるのである、すなわち、それは天的な者と霊的な者とから成り立っているのである。ここに、アブラハムとサラとは主を神的な天的なものの方面で表象しており、アブラハムとケトラとは主を神的な霊的なものの方面で表象していると言われているのは、主の神的なものは天的な者には天的なものとして、霊的な者たちには霊的なものとして現れておられるためである。しかし天的なものとは何であるか、霊的なものとは何であるかを、または天的な者とはたれであるか、霊的なものとはたれであるかを殆どたれも知っていないため、彼らについてすでに言われもし、また示されもしたことを参照されたい、すなわち、天的なものとは何であるか、霊的なものとは何であるか(1155、1577、1824、2048、2184、2227、2507番)、天的な者とは誰であるか、また霊的な者とは誰であるか(2088、2669、2708、2715番)、天的な人は主に似た形であって、愛から善を行うが、霊的な人は主の映像であって、信仰から善を行っている(50−52、1013番)、天的な者は善から真理を認めて、真理については決して論じはしない(202、337、607、895、1121、2715番)、天的な人には善はかれの意志の部分に植え付けられているが、しかし霊的な人にはかれの知的な部分に植え付けられており、霊的な者たちの中にはこの知的な部分の中に新しい意志がつくられている(863、875、895、897、927、1023、1043、1044、2256番)。天的な者たちは善そのものから名状し難いものを見るが、しかし霊的な者は、何かの事柄がそうであるか、そうでないかと論じるため、天的な者の光の最初の境界にすらも達することはできない(2718番)、霊的な者は相対的には不明確な状態にいる(1043、2708、2715番)。主は霊的な者と救うために世に来られたのである(2661、2716、2833、2834番)。

 

 

 

天界の秘義3247

 

「彼は彼らをその息子イサクから去らせた」。これは霊的な者を天的な者から区別し、分離することを意味していることは、今し方言ったことから明白である、すなわち、『妾の息子たち』と呼ばれているところの、ケトラの生んだアブラハムの息子たちとエジプト人ハガルの生んだアブラハムの息子たちとは霊的な者たちを表象し、イサクはその関連した意義では、天的な者たちを表象しており(3245番)、これらの二つの部類は分離されたのである。

 

 

 

天界の秘義3394[2]

 

 このアルカナについて実情は以下のようになっている、すなわち、霊的な者たちは、天的な者たちとは異なって、かれらのもっている認識を持っていないため、再生した人間のもとには神的な真理は[神の真理は]合理的な真理となることを知らないのである。かれらは実際善のことごとくは、また真理のことごとくは主から発していると言いはするが、それでもこれらのものはかれらの合理的なものの中に発生してくるため、かれらはそれらのものはかれら自身のものであり、かくていわばかれら自身から発していると考えるのである、なぜなら霊的な者たちはかれら自身のものから分離されることはできないのであって、かれら自身のものはそのようにそれを欲しているからである。けれども天的な者たちのもとではこのことについては、これらの者たちは[天的な者たちは]合理的なものの中に、すなわち、主の神的なものにより明るくされるとき真理の外観となる合理的な事柄の中に(3368番)、じつに自然的なものの中にすらも、すなわち感覚と記憶知のいくたの事柄の中にすら神的な善と真理とを認めるのであり、天的な者たちはこのような状態の中にいるため、かれらは善と真理とはことごとく主から流れ入っていることを認め、また善と真理とを認識する力があって、それが主からかれらに伝達されて、かれらのものとされ、またそれがかれらの歓喜と祝福と幸福とを構成していることを承認することができるのである。天的な人であって最古代の人々はその目で見る凡ゆる物の中に天的なものと霊的なものとを除いては何ものをも認めなかったのはこのことから発していたのである(1409番)。

 

 

 

天界の秘義4788[3]

 

 教会の人々は二種類に、すなわち善の中にいる者と真理の中にいる者とに分けられる。善の中にいる者たちは天的なものと呼ばれるが、しかし真理の中にいる者たちは霊的なものと呼ばれている。この二つの種類の間には非常な相違がある。善の中にいる者たちは善のために、また他から報酬を受けないで善を為すことを求める情愛の中にいるのである。なぜなら彼らは善を為すことにおいて喜びを認めるからには、善を為すことを許されることがかれらには報酬であるからである。しかし真理の中にいる者たちは、善を善それ自身のためではなくてそれがそのように命じられているためにそれを為そうとする情愛の中におり、彼らの大半の者は報酬を考えており、その楽しさは報酬から発しており、また誇ることから発しているのである。

 

 

 

天界の秘義4788[4]

 

 このことから善を善から為す者たちは、それを内なる情愛から為しているに反し、善を真理から為す者たちはそれを何か外なる情愛から為していることが明白である。ここからその相違が明白であり、すなわち、前の者は内なる人であり、後の者は外なる人である。それで内なる人である者たちは、真理を善から認めるため、ヨセフにより表象されている神的な真理を売ることはできないのであり、すなわち、遠ざけることはできないのであり、そこから感覚の誤謬も、従って、記憶知もかれを迷わせることはできないのである。しかし外なる人である者たちは、善から真理を認めないし、ただそれを教義と教師から知っているにすぎないため、それを売ることがまたは遠ざけることができるのであって、もしかれらが記憶知に諮るなら、自らが誤謬により容易に連れ去られるままになるのである、なぜならかれらは内的な指示を何ら持っていないからである。ヨセフはイシマエル人により売られないで、ミデアン人により売られたのはこうした理由からである。

 

 

 

天界の秘義5150

 

天的なものは神的善から発し、霊的なものは神的真理から発しており、その二つとも主から発している、これらのものが合理的なものの中に在るときは、それは合理的なものにおける天的なものと霊的なものと呼ばれ、自然的なものの中に在るときは、自然的なものにおける天的なものと霊的なものと呼ばれている。その人間が天的なものと霊的なものとを受けるように形作られるかぎり、『合理的なもの』と『自然的なもの』によりその人間自身が意味されているが、しかし『合理的なもの』によりかれの内なるものが意味され、『自然的なもの』によりかれの外なるものが意味されている。

 

 流入を通し、また受容に従って、人間は天的なものと呼ばれ、または霊的なものと呼ばれている、すなわち、もし主の神的な善が意志の部分に受け入れられるなら、天的なものと呼ばれ、もしそれが知的な部分に受け入れられるなら霊的なものと呼ばれるのである。

 

 

 

天界の秘義5639[3]

 

 基督教世界の大半の人間が霊的なものの何であるかを知ってはいないのは、彼らが信仰を教会の本質的なものとして、仁慈をその本質的なものとしていないためである。従って信仰に関心を持っている少数の者は仁慈についてはたとえ考えるにしても殆ど考えはしないため、またはその何であるかも殆ど知らないため、それで知識がないため、仁慈のものである情愛も認識されることは出来ないのであり、仁慈の情愛の中にいない者は霊的なものの何であるかを到底知ることは出来ないのである。特にこのことは、殆どたれ一人何ら仁慈を持っていない現今に言われるのである、なぜなら今は教会の最後の時であるからである。しかし全般的な意味では『霊的なもの』は善のみでなく真理に対する情愛を意味しており、それゆえ天界は霊界と呼ばれ、聖言の内意は霊的意義と呼ばれているが、しかし特定的には善に対する情愛のものであるものは天的なものと呼ばれ、真理に対する情愛のものであるものは霊的なものと呼ばれていることを知らなくてはならない。

 

 

 

聖書19

 

 聖言には天的な意義と呼ばれているさらに内的な意義があって、そのことについては前に少しく述べておいたが(6番)、しかしこの意義は理解の思考よりはむしろ意志の情愛へ入るため、明らかにするのは容易ではない。こうした天的意義と呼ばれる、さらに内的な意義がある理由は、主からは神的善と神的真理とが発出しており、すなわち主の神的愛からは神的善が、主の神的知恵からは神的真理が発出していて、その二つともが聖言の中に存在しているということである、なぜなら聖言は発出した神的なものであるから。聖言がそれを敬虔に読む者たちに生命を与えるのはこうした理由によっている。しかしこの主題については、主と教会との結婚があり、そこから派生している善と真理との結婚があることを示す章で述べよう。

 

 

 

天界の秘義10578[]

 

しかし主に対する愛の何であるかを、または主を愛することの何であるかを簡単に述べてみよう。自分は主を愛していると信じながらも、主の戒めに従って生きない者は非常に誤っている、なぜなら主の戒めに従って生きることが主を愛することであるからである。この戒めは主から発しているところの、かくてその中に主がおられるところの真理であり、それでその戒めが愛される度に比例して、すなわち、人間が愛からその戒めに従って生きる度に比例して、主は愛されるのである。その理由は主は人間を愛されて、愛から人間が永久に幸福になれるようにと望まれており、そして人間は主の戒めに従った生命[生活]によらなくては幸福になることはできないということである、なぜなら主の戒めにより人間は再生して、霊的なものとなり、かくして天界へ挙げられることができるからである。しかし主の戒めに従った生活を欠いて主を愛することは主を愛することではない、なぜならその時は主がその中へ流れこんでその人間を主御自身のもとへ引き挙げられるものが何一つその人間のもとには存在しないからである、そのことはかれは中に何も入っていない容器のようなものであり、その信仰の中には生命は些かもないためである。永遠の生命と呼ばれている天界の生命は何人にも直接には注がれてはいないのであり、それは間接に注がれているのである。この凡てから主を愛することの何であるかを、また主を、またはその御顔を見まつることの何であるかを、すなわち、主はこうした信仰と愛から見られたもうことを認めることができよう。

 

 

 

 

4.霊的な者たちには善に勝っている者と真理に勝っている者と二つの部類が在る

 

 

天界の秘義3240[]

 

 さらに各々の王国の中にいる者たちは、その或る者は善にまさっており、その或る者は真理にまさっているという理由から、かれら自身の間で善と真理とにより区別されていることを知られよ。(中略)

さて霊的な者たちには二つの部類が在るため(善に勝っている者と真理に勝っている者とがあるため)、それでかれらは二種類の教義的なものを、すなわち、仁慈の教義的なものと信仰の教義的なものとを持っているのであり、すなわち、信仰の善の中にいて、ここではヨクシャンの息子たちにより意味されている者たちのためには仁慈の教義的なものをもっているが、しかし信仰の真理の中にいて、ミデアンの息子たちにより意味されている者たちに対しては信仰の教義的なものを持っているのである。

 

 

 

 

5.天的な王国は最も内なる、または第三の天界を構成し、霊的な王国は中間の、または第二の天界を構成している

 

 

天界の秘義6417

 

 

天的な王国は最も内なる、または第三の天界を構成し、霊的な王国は中間の、または第二の天界を構成している。霊的な王国に対しては主は月として現れたもうているが、天的な各々国に対しては太陽として現れたもうている(1053、1521、1529−1531、4060番)。

 

 

 

 

6.天的な者たちはこれらのものは三つのものではなくて、一つのものであることを認めている

 

 

天界の秘義3241[]

 

 霊的な教会に属している者たちは、天的な教会に属している者とは異なって、善い真である事柄を何ら認識しないで、その学んだものを真理として認めているため、そのため彼らはその事柄については、何かの事柄が真であるか否かと絶えず論じており、各々の者はその者自身の教会のものであるその教義に止まって、それを真のものと呼んでいるのである。これがかくも多い相違の源泉となっている。さらに極めて多くの者は外観と迷妄[妄想]から善い真の事柄についてその結論を下しており、互にその仕方は異なっているが、たれ一人いかような認識からもそれを下してはいないのである。彼らは認識の何であるかを知ってさえもおらず、その理解はこのように信仰の幾多の善と真理については明確ではないため、信仰の凡ゆる事柄の中で最も本質的なものについても、即ち、主の神的なものと人間的なものと発出する聖いものとについても見解の相違が生まれてくるのは驚くにはあたらないのである。天的な者たちはこれらのものは三つのものではなくて、一つのものであることを認めているが、しかし霊的な者たちは、それらのものは一つのものであると考えようとは欲しはするものの三つのものの観念の中に宿っているのである。それで最も本質的なものであるものについても見解の相違が在るからには、教義的な事柄の変化と相違とは無数であるに相違ないことは明白である。このことから凡ての者は、ここに名を記されている者たちにより意味されているところの幾多の派生したものが何処から発しているかを知ることが出来よう。しかし教義的な事柄には極めて多くの変化と相違とが(即ち、極めて多くの派生したものが)存在していることを認めるにしても、それでも、凡てのものが仁慈を教会の本質的なものとして承認するとき、またはそれと同一のことではあるが、生命[生活]を教義の目的として認めるとき即ち、彼らが教会の人間がいかように生活しているかを尋ねて、その見解はいかようなものであるかをさほど問題にしないときは、それらのものは共になって、一つの教会を形作っているのである、なぜなら他生では人は各々その者の生命の善に応じて分を主から受けて、生命の善から分離した教義の真理に応じてそれを受けはしないからである。