真理に対する情愛

 

情愛天的・霊的無知教会信仰

心を尽くし、精神を尽くし(マタイ22・37)

 

 

 

1.真理に対する情愛

2.主からの流入は真理に対する情愛によって起こる

3.真理に対する霊的な情愛の中にいる諸天界は、主を太陽として見まつる

4.霊的な情愛の中にいる者たちは聖言に関心をもち、それを理解する以上には何ごとも熱心に求めはしない

5.くじけない

6.良心から考える者は善と真理とに対する情愛から考えており、かくて天界から考えている

7.真理のために真理を愛する情愛は主からの報いであり、その中に天界が存在している

8.真理に対する霊的な情愛を抱いている者たちのみがその教義が存在する天界に連結する

9.真理のために真理を愛する者たちは明るくされるのであり、善のために真理を求める者たちは認識するのである

10.ヴァッスーラ

11.信仰の善

12.最初は純粋な真理に対する情愛ではない

13.たれ一人真理によっては決して教えられはしないのであり、ただ真理に対する情愛によって教えられる

14.自由を生み出すものは善から発した真理に対する情愛

15.真理に対する情愛は無垢から発している

16.真理に対する情愛が無限に果を結ぶ

17.善い者には生命[生活]のために、すなわち、生命の善のために真理を求める情愛が存在しており、それで彼らは改良されることが出来る

18.母

19.絆

20.善は絶えず流れ入っているため、それは真理に対する情愛を生み出しており

21.いかような試練もその人間が真理の善の中に、すなわち、真理を愛する愛または情愛の中にいない限り、起ることは出来ない

22.教えられると喜ぶ

23.人間が教会となるのは真理の情愛[真理に対する情愛]から発しているため、真理の情愛と言うも、教会というも、それは同じ事

24.主が試練にある者たちを支配される手段は真理そのものではなくて、その真理の情愛[その真理に対する情愛]である

25.霊的なもの

26.他の者の認めないものを認め

27.連結が起ると、真理の情愛を通し、引いては善の情愛を通して認識する能力が与えられる

28.残りのもの

29.教える

30.信仰とは主から発するところの、天界的な愛から発出する真理に対する情愛

31.用を目標とした真理に対する情愛

32.善から真理を求める情愛の中にいて、絶えず真理を知ろうと切望しなくてはならない

33.たれ一人教えられなくては天界へ入る準備をすることが出来ない

34.天界の各々の中には真で善いものを理解することを求める最大の情愛が在り

35.無知の聖いものは他の者以上に無知であるということにあるのではなく

36.説得的な信仰の中にいる者らは真理のために真理を求める情愛を持ってはいない

37.再生しつつある人間の中に現存している真理の情愛〔真理に対する情愛〕

38.彼らはその水は苦いために飲むことは出来なかった・・・外套膜

39.人間は聖言から信仰に属した諸真理と諸善とを探求しようとは殆ど願っていない

40.アフリカ人

41.真理の善の中に、即ち、真理を愛する愛または情愛

42.愛は先ず真理に対する情愛を生じさせ、次にその知っているものを理解しようとする情愛を生じさせ、最後にその理解しているものを身体的な思考の中に見ようとする情愛を生じさせる

 

 

 

 

1.真理に対する情愛

 

 

天界の秘義1824

 

 霊的な天的なもののみでなく、外的な天的なものと内的な天的なものとが存在している。外的な天的なものは外なる人にぞくしたものであり、内的な天的なものは内なる人にぞくしたものであり、霊的な天的なものはそれらのものから派生したものである。天的なものそれ自身は主に対する愛と隣人に対する愛である。この天的なものは主から流れ入っており、事実内なる人を通って外なる人の中へ流れ入っている。内的な人の中ではこれは内的な天的なものと呼ばれ、外なる人の中では外的な天的なものと呼ばれている。外的な天的なものは善の情愛[善を求める情愛]のすべてであり、いな、それはまた善の情愛から発している楽しさの中に、愛の善と仁慈の善とが存在しているに正比例して、天的なものがそれらのものの中にあり、幸福もまたそれらのものの中に存在している。しかし霊的な天的なものは善の情愛を宿している真理の情愛[真理を求める情愛]であり、または善の情愛から生まれている真理の情愛である、かくそれは仁慈を宿している信仰であり、または仁慈から生まれている信仰である。

 

 

 

天界の秘義2189[2]

 

 人間における合理的なものの主要なものは(前の2072番に言ったように)真理であり、従って、それは真理の情愛であって、そのことは人間が改良され、かくして再生する目的を持っているのである。このことは[人間が改良され、かくして再生することは]真理の属した知識(cognitiones et scintiefica)により遂行されるのであって、この知識は絶えず善の中に、すなわち仁慈の中に植えつけられつつあるが、それは人間がそのようにして仁慈の生命を受けるためである。人間における真理の情愛がかれの合理的なものを支配しているのはこうした理由によっている。なぜなら改良され、再生しつつある者たちのもとでは仁慈の生命は(それは天界の生命それ自身であるが)絶えず生まれ、成長しつつあってしかもそれは真理によって行われていることがその生命の実相であるからであり、それで真理の質と量とに人間の仁慈は順応しているのである。

 

 

 

天界の秘義2189[]

 

このすべてから人間の合理的なものはいかようになっているかが、ある程度明白となるであろう。真理はたんに生命を、すなわち、善を受容する器に過ぎないのである。真理は善の着物[衣服]または上着のようなものにすぎないのであり、それでまた真理は聖言では『着物[衣服]』また『上着』と呼ばれている。しかし善が合理的なものを構成するときは、真理は消え去ってしまって、恰もそれが善であるかのようになるのである。そのとき善は天使たちの場合と同じように真理を通して輝くのである、なぜなら天使たちが着物を着て現れるときは、その善は衣服の外観を生み出している輝いたものであって、天使たちが予言者たちの前に現れたときもまたそのようであったかからである。

 

 

 

天界の秘義2189[]

 

それでこれが合理的な真理が合理的な善の中にあったため、そのとき現れなかったことにより意味されていることであって、そのことがかれらがかれに『あなたの妻サラは何処にいますか』と言ったことにより意味されているのである。しかし主の合理的な善はそのときはいかような天使のもとにもありえないような神的なものであったため、それは比較によってのみしか、かくて同一のものではない、類似したものからとった説明によってのみしか記されることはできないのである。

 

 

 

天界の秘義2422

 

善は実際現存はしているが、さらに内部の方へ後退してしまって、それで明確でない状態の中にいるが、それでもそれはそれ自身を真理の情愛と呼ばれる或る一種の情愛の中に明らかにしているのである。善の情愛とは何であるか、真理の情愛とは何であるかは前の1997番に、また間もなく以下に記されることの中に認めることができよう、2425番)、これらの状態があることは人間には明らかではなく、ましてやその状態の性質は明らかではないが、しかしそれらは天使たちには澄明な光の中にあるようにも明白である、なぜならその天使たちは人間の善い情愛の各々の中にいて、またそれらは人間が他生に入ってくるとき、人間自身にも明らかになるからである。善良な者がいくたの社会に区別されているのは、これらの情愛にまたその情愛の性質に順応しているのである。

 

 

 

天界の秘義2423

 

「ねがわくはごらんください、あなたの僕はあなたの目に恵み[恩ちょう]を得ました」は真理の情愛から発した卑下を意味し、「あなたはあなたの慈悲を大きなものになさいました」は善の情愛から発した卑下に似たものを意味していることは前に『恵み[恩ちょう]』と『慈悲』について言ったことから明白である(598、981番)。なぜなら真理の情愛の中にいる者たちは、すべてのものは慈悲から発していることを心から承認するほどに自分自身を卑下することは出来ないのであり、それで『慈悲』の代わりに『恵み[恩ちょう]』と言うのである、いな、かれらの中にある真理の情愛が少なくなればなるほど、益々かれらが恵み[恩ちょう]と言っているその言葉の中にも卑下は少なくなっているに反し、他方かれの中に存在する善の情愛が多くなればなるほど、益々その者が慈悲と言っているその言葉の中にも卑下が多くなっている。このことは真理の情愛の中にいる者たちのもとにある崇拝は、従ってその礼拝は、善の情愛の中にいる者たちのもとにある崇拝からは、従ってその礼拝からはいかに相違しているかを示している。なぜなら礼拝が存在するためには、崇拝がなくてはならないのであり、崇拝が存在するためには卑下がなくてはならないのであり、しかもそれは礼拝のあらゆるものの中に全般的にもまた個別的にも存在しなくてはならないからである。これまで言ったことは『恵み[恩ちょう]』と『慈悲』がここに記されている理由を示すに役立つであろう。

 

 

 

天界の秘義2718[]

 

真理の情愛の中にいることはいかようなことであるか、善の情愛の中にいることはいかようなことであるかを明らかにするため、わたしたちは簡単に以下のように述べてよいであろう。すなわち、真理の情愛の中にいる者は何かの事柄が真であるか、否か、またはそれがそうであるか否かを、考え、探求し、議論し、それが真であることを、またはそれがそのようなものであることを確認したときでも、それが何であるかと考え、探求し、論じ、かくして最初の入口のところに固くしがみついており、疑惑が晴れない中は知恵に入れられることもできないのである。しかし善の情愛の中にいる者たちは、その者たちがその中にいる善そのものから、その事柄がそのようなものであることを知り、また認めもしており、かくて最初の入口にいないで、内の部屋におり、知恵の中へ入れられるのである。

 

 

 

天界の秘義2718[]

 

 例えば、善の情愛から、または善から考え、行動することは天的なことであることを考えられよ。真理の情愛の中にいる者はこれはそうであるか、それは可能であるか、それは何であるかと論じており、かれらは心をそれにかかわる疑惑で占められているかぎりは、知恵に入れられることはできないのであるが、しかし善の情愛の中にいる者は議論はしないし、また疑惑に煩わされもしないで、それがそうであることを肯定し、それで知恵に入れられるのである。なぜなら善の情愛の中にいる者たちは、すなわち、天的な者たちは、真理の情愛の中にいる者たちが、すなわち、霊的な者たちが止まってしまうところから始めるのであって、それで後の者の行き着いた境界が前の者の最初の境となっているからである。こうした理由から彼らは、無数の善の情愛があるが(事実天界に存在している共同体と同数の情愛があるが)、それらはすべて主により連結されて、一つの天界の形となっており、いわば一人の人間を構成していることを知り、承認し、また認めることを与えられ、また各々の情愛の変化と種類を認識により識別することも与えられているのである。

 

 

 

天界の秘義2718[]

 

または以下の例を考えられよ。すなわち歓喜、祝福、幸福はことごとく専ら愛に属しており[愛のものであり]、愛のあるがままに、歓喜も祝福も、幸福もあること[愛の性質に歓喜、祝福、幸福の性質が応じていること]を考えられよ。霊的な人間はそれがそうであるか、幸福は他の何らかの源から発していないか、例えば社交、会話、瞑想、学問から、または財産から、その財産の名誉、名声、栄誉から発していないか、といった問題にその自然的な心を集中させてしまって、こうしたものは何ごとも生み出しはしないで、ただそれらのものの中にあるような愛の情愛のみがそれらを生み出しているという事実を確認しないのである。しかし天的な人間はこうした予備的なものの中にこだわりはしないで、それがそうであることを肯定し、それで目的そのものと用との中におり、すなわち、愛の諸々の情愛そのものの中におり、その情愛は無数であり、またその情愛の各々のものの中には表現を絶したものが存在しており―しかもそれは永遠に歓喜と祝福と幸福の変化を伴っているのである。

 

 

 

天界の秘義2718[]

 

 また一例として隣人はその中にある善のために愛さなくてはならないことを考えられよ。真理の情愛の中にいる者たちは、これは真であるか、またはそれはそうであるか、隣人とは何であるか、善とは何であるか、と考え、探求し、論じ、それより先へは進みもしないのであり、それでかれらはかれら自身に対し知恵の門を閉じてしまうが、しかし善の情愛の中にいる者たちはそれがそうであることを肯定し、それで自分自身に対しその門を閉じはしないで、内に入って行き、誰が他の者よりも更に隣人であるかを、またその者はいかような度で隣人であるかを、またすべての者は度が相違した隣人であることを、善から、知り、承認し、認め、かくて彼らは単に真理の情愛の中にのみいる者にまさって、表現を絶した事柄を認めているのである。

 

 

 

天界の秘義2718[]

 

 さらに以下の例を考えられよ。すなわち隣人をその者の内にある善のために愛する者は主を愛するのである。真理の情愛の中にいる者たちはそれがそうであるか、否かを注意して検討するのであり、もしかれらが、隣人をその中にある善のために愛する者は善を愛する者であり、そして―善はことごとく主から発し、主は善の中におられるため―誰かが善を愛するときは、その者はまた善が存在する源泉であられ、またその善の中におられる主を愛するのであると告げられるなら、それがそうであるか否かと検討し、また善とは何であるか、主は真理の中におられるよりも善の中にさらにおられるか、否かと検討するのであり、かれらがこのような事柄にこだわっている限り、知恵を遠方からさえも見ることはできないのである。しかし善の情愛の中にいる者たちは、それがそうであることを認識から知っており、かれらはすぐさま主のみもとにさえも至っている知恵の分野を見るのである。

 

 

 

天界の秘義2718[]

 

 このすべてからわたしたちは真理の情愛の中にいる者たちは(すなわち霊的な者たちは)善の情愛の中にいる者たち(すなわち天的な者たち)に比較して明確でないもの[あいまいなもの]を持っていることを認めることができよう。それでも霊的な者たちは、善はことごとく主に対する愛と隣人に対する仁慈から発しており、愛と仁慈は霊的な連結であり、祝福と幸福とはそれらのものから発し、かくて天界的な生命[天界の生命]は主から発している愛の善の中に存在しているが、そこから分離した信仰の真理の中には存在していないことを進んで肯定しさえするなら、明確でないものから光の中へ入ることができるのである。

 

 

 

天界の秘義2979[2]

 

 霊的な人間の再生における実情は以下のごとくである。かれは先ず信仰の諸真理を教えられ、かくて彼は主により真理を求める情愛の中に留めおかれる。それと同時に、隣人に対する仁慈であるところの、信仰の善が彼の中へ徐々に注ぎ入れられるが、しかしそれは彼がほとんどそれに気づかないような方法で行われるのである、なぜならそれは真理を求める情愛の中に隠れていて、しかもそのことは信仰のものである真理[信仰に属している真理]が仁慈のものである善に連結する目的をもっているからである。時が経つにつれ、信仰のものである真理を求める情愛は増大し、真理はその真理の目的のために、すなわち、善のために、またはそれと同一のものであるが、生命のために顧慮され、そのことが益々熾烈になって行くのである。このようにして真理は善の中に徐々に注ぎこまれ[植え付けられ]、このことが起こると、その人間は徐々に注ぎ入れられた[植え付けられた]真理に従った生命の善を自分自身に浸透させ、かくて彼は善から行動するのであり、または善から行動しているように彼自身に思われるのである。この時が来る以前では信仰の真理が第一義的なものではあるが、しかし後には生命の善が第一義的なものになるのである。

 

 

 

天界の秘義3324[9]

 

人間は真理の情愛[真理に対する情愛]により再生する、かれは再生すると、善の情愛[善に対する情愛]から行動する(1904番)。

 

 

 

黙示録講解115

 

真理に対する霊的な情愛は―それは真理が真理であるために真理を愛することであるが、それは―主の神的なものを人間的なものの中に承認することにより、またそのことを信じることにより主に連結している者たちのもとにのみあるのである。

 

 

 

黙示録講解832[]

 

真理から真理を愛する者は、すなわち、それは真理であるため、真理を愛する者は霊的真理を見ることが出来るのであり、世では見ない真理を後には天界で見るのである。なぜなら理解を明るくする天界の光を受けるものは真理を求める愛そのものであるから。

 

 

 

天界の秘義2429

 

真理の情愛の中にいる者たちは善の情愛の中にいる者たちに比べると僅少な真理しか持っていない。人間の中にある真理はその者の内にある善に正確に順応している。善が僅かしか存在していないところには真理も僅かしか存在していない。

 

 

 

黙示録講解118

 

真理に対する純粋な情愛の中にいる者はことごとく自分の知っている事柄は僅かであり、知らない事柄は無限であることを知っているのである。さらに、彼は、そのことを知って承認することが知恵に至る第一歩であることを知っているのであり、また自分の知っている事柄で自分を誇り、そうした事柄のために自分自身が極めて理知的な者であると信じている者らはその最初の一歩にも達していないことを知っているのである。こうした人物はまた真理から誇るよりもさらに誤謬から誇るのである、なぜなら彼らは、彼ら自身の名声を顧慮して、その名声のみから心を動かされ、真理そのものからは心を動かされはしないからである。こうした者らは自然的な情愛の中にのみいて、そこから渇望の中にいる者らである(前の115番を参照)。

 

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P253

 

ヨハネ:

主のみことばは、すべて私の心の中にある・・・私は愚かな子供で、分からないことがいっぱいあります。

 

 

 

天界の秘義8994

 

霊的な認識をもっている者たちは真理に感動する女たちを愛するが、知識の中にいる女たちを愛しはしないのである。

 

 

 

天界の秘義2702[]

 

イエスは言われた。たれでももし渇くなら、わたしのもとに来て、飲みなさい、たれでもわたしを信じる者は、聖書が言っているように、その腹から生きた水の川が流れ出るでしょう(ヨハネ7・37,38)。

 

王座の真中におられる子羊はかれらを養い、かれらを生きた水の泉の中へ導き入れられるであろう。神はかれらの目から涙をことごとくぬぐい去られるであろう(黙示録7・17)。

 

わたしは渇く者に価なしに生命の水の泉から飲ませよう(黙示録21・6)。

 

『生きた水』と『生きた水の泉』は、主から、または、主の聖言から発している真理を意味している。なぜなら主は聖言であられるからである。専ら主のみから発している愛の、また仁慈の善は真理の命である。真理の愛と情愛の中にいる者は[真理を愛し、真理を求める情愛の中にいる者は]『渇く』と言われており、それ以外の者は『渇く』はずはないのである。

 

 

 

スウェーデンボルグ/黙示録講解22

 

「あなたたちに恩恵[めぐみ]と平安とがありますように」(黙示録1・5)は真理と善との歓喜を意味している。このことは以下のことから明白である。すなわち、『恩恵[めぐみ]』の意義は真理の歓喜であり(そのことについては以下にすぐ述べよう)、『平安』の意義は無垢と愛との歓喜である(そのことについては「天界と地獄」を参照されたい。そこには天界における平安の状態がとり扱われている、284−290)。『恩恵[めぐみ]』が真理の歓喜を意味しているのは、二つのものが主から発出していて、その起源では結合はしてはいるものの、それらを受ける者たちのもとでは分離しているためである。なぜなら神的な善よりも神的な真理を多く受ける者たちと、神的な真理よりも神的な善を多く受ける者たちがいるからである。神的な善よりも神的な真理を多く受ける者たちは主の霊的な王国の中におり、それで霊的なものと呼ばれているが、神的な真理よりも神的な善を多く受ける者たちは主の天的な王国の中におり、それで天的なものと呼ばれている。(天界におけるこの二つの王国については「天界と地獄」の20−28番を参照されたい。)霊的な王国にいる者たちには真理のために真理を求める情愛の中にいることが主により与えられており、この神的なものが恩恵と呼ばれるものであり、それゆえ、たれでもその情愛の中にいる限り、主の神的な恩恵に浴しており、人間、霊、または天使のもとには、真理に感動する以外の神的な恩恵は決してないのである。なぜならその情愛の中に彼らに対する天界と祝福とが在るからである(「新しいエルサレム」の232、236、238番、「天界と地獄」の395−414番を参照されたい)。真理の情愛[真理に対する情愛]または真理の歓喜と言うも、それは同じことである。なぜなら歓喜のない情愛はないからである。

 

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P346

 

神はすべての霊の目的です。霊魂は偶像崇拝や離教など、真の神に刃向かう無知に留まることを潔しとせず、ひたすら神に憧れています。霊魂が真理の思い出と望みを持っていないなら、無知が幅をきかすでしょう。初めの思い出と憧れを育てなさい。

霊魂の扉を開けて、光を入れ、命を入れ、真理を入れなさい。道を開き、光に溢れる生命の波に乗り、太陽の光と昼夜を分かたぬ風に吹かれて、ますます主に向かって伸びる木を成長させるために、追放地から出なさい。

私とともに歌いなさい。上京の人は歌いました。『シオンの捕らわれ人が帰されたとき、我らは夢見心地になって、口は笑い、舌は喜びに満たされ、異邦の民は“主は彼らに不思議を行なわれた”と言った。主は不思議を行なわれ、我らは喜び踊った』と。

 

 

 

黙示録講解444イ(10)

 

聖言である神的真理は真理に対する霊的情愛の中にいる者たちのもとにのみ在り得るためである。真理に対する霊的情愛は真理そのものを愛し、それを世の凡ゆる善にもまさって尊重することに在るのは、それを通して人間は永遠の生命を得るためであり、人間の中に永遠の生命が植えつけられる唯一の手段は真理であり、従って聖言である、なぜなら聖言を通して主は真理を教えられるからである。真理に対する霊的情愛は ― それは世の凡ゆる善にもまさって真理を愛することであるが ― 主によりマタイ伝に以下のように記されている ―

 

天国は美しい真珠をたずね求めている商人である人間に似ている。かれは非常に高価な真珠を見出したとき、そのもっている凡ゆるものを売り払って、それを買ったのである(13・45,46)。

 

『真珠』は真理を意味している。(人間は善から発している諸真理 ― それは主から発しているが、その諸真理 ― 以外のいかような源泉からも永遠の生命を得ないことについては「新しいエルサレムの教義」24番の終わりを参照されたい。)

 

 

 

黙示録講解863イ

 

マタイ13・44−46

 

『畠にかくれていた宝物』と『真珠』とは天界と教会との真理を意味し、『一つの貴い真珠』は主を承認することを意味している。真理をそれが真理であるために愛する情愛は『喜びの中に行って、その持っている凡てのものを売り、その宝物がかくれている畑を買った人間』により意味され、また『行って、そのもっている凡てのものを売って、その貴い真珠を買った商人』により意味されている。

 

 

 

天界の秘義5432[]

 

 しかし真理と生命とのために、従って主の王国のために真理を愛している者たちは実際教会の教義的なものを信じてはいるが、それでも真理のみを求めて聖言を研究し、その真理から彼らの信仰と良心とが形作られているのである。もしたれかが彼らに向かってあなたらはあなたらがその中に生まれた教会の教義的なものの中に止まっていなくてはならないと告げるなら、彼らは、もし自分たちがユダヤ教、ソツニウス主義、クェーカ主義、キリスト教異教主義の中に生まれ、または教会の外にすら生まれたとするなら、やはりそれと同じことがそうした信念を抱いている者らから自分たちに言われるであろうと反省し、また何処にも、ここにこそ教会が在る!ここにこそ教会がある!ここにこそ真理が在って、他の何処にもない! と言われていることを反省するのである。そしてそれが実情であるため聖言は主に向かって光により明るくされるように敬虔に祈りつつ研究されなくてはならないと、彼らは考えるのである。このような人物は、一個の教会である者は各々その者の信仰から生きていることを知っているため、教会の何人も乱さないし、また他の者を決して糾弾もしないのである。

 

 

 

マリア・ワルトルタ/マグダラのマリア/P216

 

“学問がもし神に基づかないなら、人間を高めるよりも人間の品位を失わせる誤謬となる”神に基づいて知る知識を持っている人は、倒れることはない。自分の品位を感じ、自分の永遠の未来を信じているからである。しかし、現存の神を探すべきである。神ではなく霊的な無智で包まれている人間のうわ言にすぎない幻の神々ではなく、まことの神を探すべきである。そのような神々の宗教では知恵のかげもなく、その信仰には真理のかげもない。知恵者となるためには、どんな年でもよい。また、ヨブの書にこう言われている。

 

“あなたの生活は昼よりも輝き、

暗ささえも暁のように思えるだろう。

また希望に満ちて心安らかにおり、

守られて安全に住むことだろう”(ヨブ1・17〜18)

真理を見つけたいという善意さえあれば、遅かれ早かれ、その真理に出会う。

 

 

 

2.主からの流入は真理に対する情愛によって起こる

 

 

神の摂理321

 

主から発する流入は凡て真理への情愛により起こり、それは理解へ入って、それを明るくするのである。

 

 

 

静思社/スウェーデンボルグ/主の聖言24

 

 真理の情愛[真理を求める情愛]から聖言を学び、また聖言を読むにさいし、真理をそれが真理であるために歓ぶ者たちは全く異なっている。これらの者は神を愛する愛と、隣人を愛する愛とを目的としており、かれ自身に対しては生活を目的としているのである。これらの者は凡て真理を愛しているため、主から流入を受け、聖言の中に純粋な真理を見、また見出している。なぜならかれらは理解の方面で明るくされ、諸真理をたとえそれらのものはかれ自身から発してはいないものの、かれら自身から認めるように、(主から)明るくされて認め、死後真理が真理自身の光の中に存在している天界へ挙げられ、そこで霊的なものとなり、天使となるからである。

 

 

 

天界の秘義3159

 

主から善は内なる人を通して外なる人へ絶えず流れ入っており、最も初期の年齢ではそれは外なる人の中に真理に対する情愛の形の下に現れている。人間は天的なまた霊的な善を目的としてそれを目指しているに比例して、真理は善に導き入れられ、善に連結するのである、或はそれと同一のことではあるが、真理に対する情愛は善に対する情愛へ導き入れられて、これと連結するのである。しかし人間が自分自身のものである善を、かくて自分自身と世とを目的として、それを目指すに比例して、天的なまた霊的な善は後退して行くのである。これが『右手あるいは左手を目指すこと』により意味されている相互的な自由である。

 

 

 

天界の秘義5893[2]

 

このかんの実情は以下のごとくである。善が働くためには自然的な心の中に真理が存在しなくてはならないのであり、真理は純粋な愛のものである情愛により導入されなくてはならないのである。何であれ人間の記憶の中に在るものはことごとく何らかの愛により導入されて、そこにその愛と連結してとどまっているのである。信仰の諸真理もまた同じであり、もしこの諸真理が真理を愛する愛により導入されているなら、その諸真理はこの愛と連結してとどまっているのである。それらが連結すると、そのときは以下のようなことが起こるのである。もしその情愛が再現するなら、その情愛と連結している諸真理も同時に現れてくるのであり、もしその諸真理が再現するならば、その諸真理と連結しているその情愛そのものも同時に現れてくるのである。それで人間の再生の間には―再生は成人期に行われるのである、なぜならそれ以前では人間は信仰の諸真理については自分自身からは考えないからである―かれがかれ自身に真理であると印象づけた諸真理の中に留めおかれることにより、またその諸真理が連結している情愛におけるその諸真理により、主から天使たちにより支配されており、そしてこの情愛は、すなわち、真理を愛する情愛は善から発しているため、かれはそのようにして徐々に善へ導かれるのである。

 

 

 

天界の秘義5893[3]

 

それがそうであることは多くの経験からわたしには明白なのである。なぜならわたしは、悪霊らが悪と誤謬とを注ぎ入れると、そのとき主からつかわされている天使たちはわたしをすでに植えつけられている諸真理の中に守って、わたしを悪と誤謬から守ったからである。このことからまた、真理を愛する情愛により内に根をはっている信仰の諸真理は天使たちが働きかける面となっていることが明らかとなったのである。それでこの面を持たない者は天使たちにより導かれることはできず、地獄により導かれるままになるのである。なぜならその場合天使たちの働きは何処にも固定することはできないで、流れ通ってしまうからである。しかしこの面は信仰の諸真理が実行され、そのことによって意志の中に植えつけられ、意志を通して生命の中に植えつけられないかぎり、得られることはできないのである。以下のこともまた記すに価しよう。すなわち、人間のもとに在る信仰の諸真理へ天使たちはめったに明らさまには働きかけはしないのである。すなわち、その真理について考えることをかきたてるようには働きかけはしないのであり、その真理に一致している事柄を全般的に考えることが、情愛とともに生み出されるのである。なぜなら(天使たちの)この働きかけは認知できない流入により行われ、その流入は視覚に示されると、流れ入ってくる光のように現れ、その光は善における無数の諸真理から成り、その諸真理は人間の中の何か単一な物を取り囲んで、人間を真理の中にとどめおきつつも、またその真理を愛する愛の中にとどめおくからである。このように、天使たちは人間の心を誤謬から高揚させて、かれを悪から守るのである。しかしこうした事柄は人間には全く知られてはいないのである。

 

 

 

3.真理に対する霊的な情愛の中にいる諸天界は、主を太陽として見まつる

 

 

黙示録講解527

 

(主は天使たちには陽としても、月としても現れておられることについては「天界と地獄」、116−125番を参照されたい)。

 

真理に対する霊的な情愛の中にいる諸天界は、すなわち、真理をそれが真理であるために愛する諸天界は主を陽として見まつるのである。これは霊的なものであるため、それで陽としての主から発している光は霊的なものである。しかし真理に対する自然的な情愛の中にいる諸天界は、すなわち、自分らが学問のある者となって、他の者に教えるために、真理を愛する諸天界は主を月として見まつるのである。これらの者は真理が自分たち自身に役立つために真理を愛して、真理それ自身のために愛しはしないのである、それでかれらは月として主から発出している光の中にいるのである。この光は陽として主から発出する光とは、太陽から発する昼の光がわたしたちの世界で月と星から発する夜の光から異なっているようにも異なっており、かれらのもとでは光が異なっていると同様に真理も異なっているのは、主から発出している神的真理は諸天界における凡ゆる光を生み出しているためである(「天界と地獄」、126−140番を参照)。

 

[]それゆえ、霊的な光の中にいる者たちは純粋な真理の中におり、またかれらは前に知ったこともなかった諸真理を聞くとき、すぐにもそれらを承認して、それらが真理であることを承認するのである。自然的な光の中にいる者たちは異なっている。そうした者たちは諸真理を聞くとき、それらを受け入れはするが、それはかれらがそれらを見るためではなく、または認めるためではなくて、かれらが信頼している有名な人によりそれらが話されるためであり、それゆえ、そうした者たちの大半の者たちの信仰は他の者たちから発してはいるものの、それでもかれらは信仰に従った生命の中にいるのである。この諸天界の中へ、良く生きはした者たちが凡て、たとえかれらは教義の誤謬の中にいるにしても、入ってくるのであるが、それでも誤謬は絶えずそこで清められ、ついにはその誤謬は真理として現れるのである。

 

 

 

 

4.霊的な情愛の中にいる者たちは聖言に関心をもち、それを理解する以上には何ごとも熱心に求めはしない

 

 

黙示録講解112[]

 

『スミルナの教会の天使』により、教会の中にいて、聖言を理解しようと望んではいるが、未だ理解してはおらず、それで未だ真理と善とにかかわる知識の中には極めて僅かしかいないものの、それでも、真理に対する霊的な情愛の中にいる者たちはまた仁慈の生命の中にいるのである、なぜならその生命からかれらは霊的な情愛を得るからである。

 

霊的なものは仁慈以外のいかような源泉からも人間のもとには来ないのである。

 

霊的な情愛の中にいる者たちは聖言に関心をもち、それを理解する以上には何ごとも熱心に求めはしないのである。

 

しかし聖言はその内部では霊的なものであり、霊的なものは無限のアルカナを包含しているため、かれらの理解しない無数の事柄がその中に在るため、それで、人間は世に住んでいて、そのときは自然的な人から見ている限り、真理と善にかかわる知識の中には極めて僅かしかいることはできないで、単に全般的なものの中にのみいることはできるにすぎないが、しかしその全般的なものの中には、その者が霊界または天界へ入ってくるときは無数の事柄が植えつけられることができるのである。

 

 

 

天界の秘義5355

 

「なぜなら神はわたしに非常に実をむすばせられたからである」。これはその結果善から真理が増大したことを意味していることは、『非常に実をむすばせること』の意義から明白であり、それは増大することであり、すなわち、善から真理が増大することである、なぜなら『非常に実をむすぶこと』は善について述べられ、『増大すること』は真理について述べられるからである(43、55、913、983、1940、2846、2847番)。ここから言語では『エフライム』は非常に実をむすぶことから名づけられ、その性質は『なぜなら神はわたしに苦しみの地で非常に実を結ばせられたからである』という言葉に含まれているのである。この性質は善から真理が自然的なものの中で受けた試練の後でその自然的なものの中に増大したということである。善から真理が増大することの何であるかをかんたんに述べよう。

人間が善の中にいると、すなわち、隣人に対する愛にいるときは、また真理の愛[真理を愛する愛]の中におり、従ってかれはこの善の中にいるに応じて、真理に感動するのである、なぜなら霊魂がその身体の中に存在しているように、善は真理の中に存在しているからである。それゆえ善は真理を増大させるにつれ、善自身を繁殖させるのであり、もしそれが純粋な仁慈の善であるなら、それはそれ自身を真理の中に、また真理によって限りなく繁殖させるのである、なぜなら善にはまたは真理には制限はないからである。無限なる者は凡ての物の中に全般的にも個別的にも存在されている、なぜならそれらの物は無限なる者から凡て発しているからである、しかしそれでも有限なものと無限な者との間には比率は存在しないため、限定されないものも無限な者には決して到達することはできないのである。現今の教会には、現今純粋な仁慈の善は全く存在していないという理由から、真理はめったに増大することはできない。その人間がその中に生まれている教会の信仰の教理を知って、それを色々な手段で確認することで充分であると信じられている。しかし純粋な仁慈の善の中にいて、そこから真理の情愛[真理に対する情愛]の中にいる者はそのことに満足しないで、真理の何であるかについて聖言から明るくされることを、その真理を確認する以前にそれを見ることを願うのである。さらにかれは、真理の認識は善から発しているため、善からその真理を見る[認識する]のである。なぜなら主は善の中におられて、その認識を与えられるからである。人間がこのようにして真理を受けるとき、それは無限に増大するのである。この点ではそれは小さな種子のようなものである、なぜならそれは成長して木となり、他の小さな種子を生み出し、その種子が代って庭園を生み出しなどするからである。

 

 

 

天界の秘義5702

 

「これはエジプト人には忌まわしいことであるからである」。

これはそれらのものは対立していることを意味していることは以下から明白である、すなわち、エジプト人の表象は転倒した秩序の中にいる者であり(5700番を参照)、ヘブル人の表象は―このヘブル人と共に食べることはエジプト人には忌まわしいことであったが、そのヘブル人の表象は―純粋な秩序の中にいる者であり(5701番)、かくてかれらは相互に対立しており、そこから反感が生まれ、ついにはいまいましい感情が生まれるのである。このいまいましい感情については以下のことを知らなくてはならない、すなわち、転倒した秩序の中に、すなわち、悪とそこから派生してくる誤謬の中にいる者はついには教会の善と真理には甚だしい反感を抱くようになり、それを聞くと、とくにその内的なものを聞くと、恰もめまいがして、吐気を感じるほどにも甚だしい忌ま忌ましさを感じるのである。このことはわたしが基督教界は聖言の内的なものを何故受けいれないのかと怪しんだとき、わたしに告げられ、また示されもしたのである。基督教界から来たいく人かの霊らが現れたが、かれらは聖言の内的なものを聞くことを強いられると、非常な嫌悪をかきたてられて、吐き出したいような気持ちがすると言ったのであり、これが現今のほとんど凡ゆる所の基督教会(の状態)であるとわたしは話されたのである。それがそうしたものである理由は、かれらは真理のために真理を求める情愛の中にはおらず、まして善から善を求める情愛にいないということである。かれらが聖言から、またはかれらの教義から何かを考え、話すことは子供時代の初期から得られた習慣と確立された形式から来ており、かくてそれは内なるものをもたない外なるものである。

 

 

 

天界の秘義8993

 

 真理に対する純粋な情愛は善い用を目的としてそのためにまた生命[生活]のために信仰の諸真理そのものを知ろうと欲し切望すること。

 

しかし純粋でない真理に対する情愛は自己のために、かくて名誉を求めるために、利得を追求するために真理を欲し、また切望するのである。

 

後者は教会の教義的なものが真理であろうが真でなかろうが単に確認することに固執する。かれらは真理そのものについては暗黒にいる。なぜなら利得である世的な目的と名誉である身体的な目的のためにかれらは完全に盲目となるから。

 

しかし前者は、自分自身で考えはじめる年齢に達するまでは教会の教義的なものの中に留まっており、自分自身で考えはじめるときに、聖書を探求し、明るくされることを求めて主に祈願し、明るくされると心から喜ぶのである。

 

前者(純粋な情愛)はイスラエル人の娘、後者(純粋でない情愛)はイスラエル人の娘から出ている婢。

 

 

 

啓示による黙示録解説255

 

が、真理をそれが真理であるためか、またそれが人間の自己のみでなく、その隣人に対しても、霊的生命の用に役立つために、知ろうとする情愛から聖言を研究した者たちは異なっていた。これらの者が天界へ上げられ、かくて光の中へ―神的真理はそこではその光の中に在るのであるが―入れられるのをわたしは見たのであり、同時にかれらはそのとき、永遠の生命である天使の知恵とその浄福の中へ挙げられたのである。

 

 

 

5.くじけない

 

 

黙示録講解103

 

「くじけはしなかった」は、為し得る限り、を意味している。このことは『くじけないこと』の意義から明白であり、そのことが真理と善とにかかわるいくたの知識を熱烈に求めている者たちについて言われているときは、なし得る限り、である、なぜなら今以下に記されている事の中には、これらの知識に従った生命[生活]がとり扱われているからである。この知識に従った生命の中にいる者たちは前進して、くじけはしないが、しかし未だ知識の中にのみいる者らは、為し得る限り前進はするものの、活力が発生する生命の光を得てはいないのである。

 

 

 

6.良心から考える者は善と真理とに対する情愛から考えており、かくて天界から考えている

 

 

天界の秘義2515

 

「かれに言われた」(創世記20・3)。これはそこから発した、すなわち、認識から発した思考を意味していることは、『言うこと』の意義から明白であって、それは認識することであり、また(2506番に示されたように)考えることである。認識から発した思考があったとここに言われているため、思考はいかようになっているかを簡単に述べた方がよいであろう。認識から発している思考があり、良心から発している思考があり、何ら良心がない状態から発している思考がある。認識から発している思考は天的な者たちのもとにのみ、すなわち、主に対する愛の中にいる者たちのもとにのみ存在しており、こうした思考は人間のもとに存在している最も内なるものであり、それは天界における天的な天使たちのもとに存在している。なぜならそれは主から発している認識であって、それによりまたそこからかれらの思考は存在しており、認識に反して考えることは不可能となっているからである。良心から発した思考はそれよりは低いものであって、霊的な者たちのもとに、すなわち、生命[生活]と教義との方面で仁慈と信仰との善の中にいる者たちのもとに存在している。さらにこれらの人々にとっても良心に反して考えることは不可能となっている、なぜならそれはかれらに良心を通して主から口授される善と真理とに反抗して考えることになるからである。

 

 

 

[2]しかし何ら良心をもたない状態から発した思考は自分自身が善い真のものにより内的に導かれることに甘んじないで、たんに悪い誤ったもののみによって、すなわち、主によらないで、自分自身によって導かれることに甘んじている者のもとに存在している。こうした人物は自分は良心と認識から考えている者たちと全く同じように内的に考えていると信じてはいるが、それはかれらは良心とは何であるかを知ってはおらず、ましてや認識とは何であるかを知ってはいないという理由によっているが、しかしその相違は地獄と天界との相違のようにも大きなものである。良心なしに考える者は何であれ何らかの欲念と幻想から考えており、かくて地獄から考えており、それがそのように見えないときは、それは名声を得るための外なる体裁から考えているのである。しかし良心から考える者は善と真理とに対する情愛から考えており、かくて天界から考えているのである。しかし主の思考については、それは人間の理解をことごとく超絶していたのである、なぜならそれは神的なものから直接発していたからである。

 

 

 

 

7.真理のために真理を愛する情愛は主からの報いであり、その中に天界が存在している

 

 

天界の秘義10683

 

真理のために真理を愛し、真理のために真理を行うことを愛する者たちは主を愛し、自分自身の中に天界を受け入れるのである。なぜなら主から発している報いは真理のために真理を愛する情愛であり、天界は真理のために真理を愛する情愛の中に存在しているからである。

 

 

 

黙示録講解695ニ

 

「報い[報酬]」は、真理と善とに対する霊的な情愛の中にいる者たちが得るところの、祝福、幸福、歓喜の方面の天界を意味し、報いはかの情愛そのものである。なぜなら天界と言うも、またはかの情愛と言うも、同じことであるから。なぜなら天界はその情愛の中にあり、そこから発しているからである。

 

(20)しかし、霊的な情愛でなく、単に自然的な情愛から真理を話し、善を行い、天界を絶えず報いとして考える者らはイスラエル教会においては「雇われた僕」により表象されたのであり、かれらについてはその教会においては多くの法令があったのである。例えば―

 

雇われた僕らは過越節のものを食べてはならない(出エジプト12・43、45)(他略)

 

 

 

 

8.真理に対する霊的な情愛を抱いている者たちのみがその教義が存在する天界に連結する

 

 

黙示録講解732

 

[2]新しいエルサレムと呼ばれているこの新しい教会は最初は僅かな者たちのもとに初まるであろうが、後にはさらに多くの者たちの間に在り、ついに充分な状態に達するにはいくたの理由が在るのである。先ず、その教義は―それは主に対する愛と隣人に対する仁慈の教義であるが―以下の者たちを除いては承認され、かくて受け入れられることはできないのである、以下の者たちとは真理により内的に心を動かされる者であり、諸真理を認める能力を持っている者たちのみが諸真理により内的に心を動かされることができるのであり、己が知的能力を培って、それを自己を求め、世を求める愛により破壊しなかった者たちが、諸真理を認めるのである。

 

第二の理由はその教会の教義は信仰のみにおける教義により、同時に信仰のみにおける生活によりそれを自らに確認しなかった者たちを除いては承認されることはできず、そこから受け入れられることはできないということである。教義のみによる確認は受け入れることを妨げはしないが、しかし生活によってもまた確認することは妨げるのである、なぜなら、そうした者らは主に対する愛とは何であるかを知らず、隣人に対する仁慈とは何であるかも知らず、また知ろうとも欲しないからである。

 

 

 

[3]第三の理由は地上では新しい教会はその教会が霊たちの世界において増大することに従って成長するということである、なぜならかの世界から霊たちは人間のもとにおり、彼らは地上に生きていた間は彼らの教会の教義の中にいた者らから来ていて、これらの者の中一人として、真理に対する霊的な情愛を抱いていた者たちを除いては、その教義を受け入れはしないのであり、真理に対する霊的な情愛を抱いている者たちのみがその教義が存在する天界に連結するのであり、彼らが人間に天界を連結させるのである。これらもまた主が世を去られた後、キリスト教会がヨーロッパにおいて極めて遅々としてしか成長せず、時代が経過する迄はその充全な状態に達しなかった理由であった。

 

 

 

9.真理のために真理を愛する者たちは明るくされるのであり、善のために真理を求める者たちは認識するのである

 

 

天界の秘義7012

 

そして驚くべきことを言うのではあるが、各々の者はその真理に対する情愛に応じて明るくされ、またその生命の善の性質に応じて真理に対する情愛を持つのである。ここからまた真理のために真理を愛する情愛を持たないで、自分自身の利益のために真理を求める情愛を持っている者は、聖言を読む時も全く明るくされはしないで、単に教義的なものを、それがいかような種類のものであれ、確認するに過ぎないのである、なぜなら彼らは主の王国を求めないで、世を求め、信仰を求めないで、名声を求め、かくて天界の富を求めないで、ただ地の富を求めているに過ぎず、例えたまたま聖言から真理を知ろうとする願望に捕えられるにしても、真理に代って幾多の誤謬が現れてきて、遂には凡ゆる物が否定されてしまうからである。

 

 

 

天界の秘義10290

 

「エホバはモーセに言われた」(出エジプト30・34)。

これは聖言を通して主により明るくされ、認識することを意味していることは以下から明白である、すなわち、『言うこと』の意義は、それがエホバから言われているときは、明るくされて、認識することであり(それが明るくすることを意味していることについては、7019、10215、10234番を、それが認識することを意味していることについては、1791、1815、1819、1822、1898、1919、2080、2862、3509、5877番を参照されたい)、モーセの表象は聖言である(6752、7014、7089番)。聖言の『エホバ』が主を意味していることについては、9373番に引用されたところを参照されたい。ここから『エホバがモーセに言われた』により主により聖言を通して明るくされ、認識することが意味されていることが明らかである。

 

 

 

[]このことが意味されていることは主は教会の人間とは聖言以外のいかような方法によっても話されはしないためである、なぜなら主はそのとき人間を、かれが真理を認識するように明るくされ、またかれに、それがそうであることを認める認識を与えられるからであるが、しかしそれはその人間における真理を求める願望の質に応じて行われており、人間における真理を求める願望はその真理を求めるかれの愛に従っているのである。真理のために真理を愛する者たちは明るくされるのであり、善のために真理を求める者たちは認識するのである(認識の何であるかについては、483、495、521、536、597、607、784、1121、1387、1919、2144、2145、2171、2515、2831、5228、5920、7680、7977、8780番を参照)。

 

 

 

[]しかし主は、聖言が布告され、各々の、また凡てのものに内意が存在するために、モーセと予言者とは生きた声により話されたのである。従ってまた『エホバはモーセに言われた』というこの言葉においては、内意にいる天使たちは『モーセ』の何であるかを知らないのである、なぜなら人物の名は天界に入りはしないで(10282番)、『モーセ』に代ってかれらは聖言を認識し、『言われた』の表現はかれらのもとではその内意に一致したものに変化し、かくてここでは明るくされて、認識することに変化しているのである。さらに天使たちの観念の中では、『言うこと』と『話すこと』は、それが主が聖言を通して話されることについて言われているときは、それ以外の何ものでもないのである。

 

 

 

天界の秘義9367

 

説得的な信仰の中にいる者らは自分の教えていることが真であるか、それとも誤っているかを、いかような内なる照示からも知ってはいないのである、否、かれらは一般民衆から信じられさえするなら、(そうしたことは)意には介しはしないのである。なぜならかれらは真理のために真理を求める情愛をもってはいないからである。さらにかれらは他の凡ての者にもまさって信仰のみを擁護し、仁慈である信仰の善を、その信仰の善を手段として利を得ることができるかぎり、重要視するのである。

 

 

 

信仰3

 

 しかし一般的には霊的な、または神学的な問題は超自然的なものであるため、たれにもそれは把握出来ないと言われている。しかしながら霊的な真理も自然的な真理と全く同じように充分に把握されることが出来るものであって、たとえそれが明らかに把握されないにしても、それでもそれを聞くとすぐに、それは真であるか、真でないかを認めることが出来るのである。このことは特に真理に感動する情愛の持主に言われるのである。(中略)

この凡ては私が霊たちと交わっている間に起ったのである。私と共にいた他の多くの者はそのことによって、霊的な事柄も、それが聞かれたり、読まれたりすると、自然的な事柄と全く同じように充分に把握されることが出来ることを納得したのである。しかしその人間自身が自分自身から考えているときは(そのことを)把握するのは決して容易ではないのである。

 霊的な事柄も把握されることが出来る理由は、人間は理解の方面では天界の光の中へまでも高揚されることが出来るのであって、その光の中では霊的な事柄以外のものは何一つ現れないのであり、その霊的なものは信仰の真理であるということである。なぜなら天界の光は霊的な光であるから。

 

 

 

 

10.ヴァッスーラ

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/1巻P122

 

それから、別の司祭の反応はこうでした。「はい、それは神聖であって、神からのものですから、書き続けなさい」と。彼は、それが神のみことばであることを信じます。けれど、多忙すぎて、それを一揃いとして目を通そうとしたり、どのようなものか、見つけ出そうとさえしないのです。このことで、私は驚いてしまうのですが、もし、神があるメッセージを伝えようとしていらっしゃると信じるなら、何故もっと努力してそれが何であるのか、探り出そうとしなのでしょう?

 

 

 

 

11.信仰の善

 

 

天界の秘義2846

 

「わたしはあなたを祝しに祝そう」。これは真理の情愛から実を結ぶことを意味していることは、『祝せられる[祝福される]こと』の意義から明白であり、それは天的な霊的な善で富まされることを意味しており(981、1096、1420、1422番を参照)、ここでは霊的な者たちがとり扱われているため、信仰の善から、またはそれと同一のものであるところの、真理を求める情愛から実を結ぶことである。

 

 

 

12.最初は純粋な真理に対する情愛ではない

 

 

天界の秘義3040

 

自然的な人における真理の情愛[真理に対する情愛]はことごとく善の情愛[善に対する情愛]が合理的なものから流入することにより、または神的なものから合理的なものを経て流入することにより発生するのであるが、この流入を通して自然的な人の中に発生する真理の情愛[真理に対する情愛]は最初は純粋な真理に対する情愛ではないのである、なぜなら純粋な真理は継続的な段階をもって生まれるのであり、またそれ自身では真理ではなくてたんに純粋な真理に導く手段に過ぎなかった以前の真理に継続的な段階をもって置きかえられるからである。この僅かな言葉から、真理の情愛[真理に対する情愛]は実にそこから生まれてはいるが、しかし新しい源泉から生まれていると言われることにより意味されていることを認めることができよう。

 

 

 

天界の秘義3089

 

再生しようとしている人間の実情は以下のごとくである、すなわち、真理に対するその者の最初の情愛は非常に不純なものである、なぜならその中には、自己自身を求め、世を求め、天界の栄光といったものを求める用と目的とに対する情愛が存在していて、それは自己自身を顧みはするが、共同体を、主の王国を顧みはしないし、ましてや主を顧みはしないのである。このような情愛が必然的に先行している、にも拘らずそれは継続的に主により清められ、ついにはいくたの誤謬と悪とはいわば周辺に追いやられてしまうが、それでもそれらは手段として役立っていたのである。

 

 

 

 

13.たれ一人真理によっては決して教えられはしないのであり、ただ真理に対する情愛によって教えられる

 

 

天界の秘義3066

 

ここから、『街の人々の娘たちが水を汲むために外に出て来ること』により、真理の情愛[真理に対する情愛]とその情愛を通して教えを受けることとが意味されていることが明白である。たれ一人真理によっては決して教えられはしないのであり、ただ真理に対する情愛によって教えられるのである。なぜなら真理は情愛をはなれては実際耳には音声として来るには来るが、しかし記憶には入らないのであり、真理を記憶に入らせて、その中に止まらせておくものは情愛であるからである。なぜなら情愛の善は土のようなものであって、その中に真理が種子として播かれるからであるが、しかしその土のあるがままに(すなわち、その情愛のあるがままに)、播かれたものから生み出されたものもなるのである。目的または用が土の、または情愛の性質を決定し、かくて播かれたものから生み出されるものの性質を決定するのであり、または、もしあなた方が以下のような表現を好まれるなら、愛そのものがそれを決定するのである、なぜなら凡ゆるものの中には愛が目的と用であるからである、なぜなら愛される者以外のものは一つとして目的と用としては顧みられはしないからである。

 

 

 

 

14.自由を生み出すものは善から発した真理に対する情愛

 

 

天界の秘義3145

 

「そのらくだを解いた」。これは仕えねばならなかったそれらのものに対する自由を意味していることは以下から明白である、すなわち、『解くこと』の意義は自由にすることであり、『らくだ』の意義は(すぐ前の3134番のように)全般的な記憶知であり、かくて仕えねばならなかったものである。この間の真の実情は以下のようである、すなわち、自由がないなら自然的な人の中には真理は生まれないのであり、また真理を自然的な人から合理的なものの中へ呼び出して、そこで善と連結させることもできないのである。これらのことはすべて自由な状態の中に起るのである、なぜなら自由を生み出すものは善から発した真理に対する情愛であるからである。真理が情愛から学ばれないかぎり、かくて自由の中に学ばれないかぎり、それは植付けられはしないのであり、ましてや内部へ高揚されて、そこに信仰とはならないのである。改良はことごとく自由の中に行われ、自由はことごとく情愛のものである[情愛に属している]こと、また人間は人間自身から、人間自身のものであるものから真理と善とに感動し、それにより再生するために、主は人間を自由の中に保たれることは、前に見ることができよう(2870−2893番)。これが『らくだを解くこと』により意味されていることである、なぜならもしらくだがそのような事を意味しなかったならこれらの細目は記録されるには余りに些末なことであろうから。

 

 

 

 

15.真理に対する情愛は無垢から発している

 

 

天界の秘義3183

 

「彼女の乳母」。これはそれに属している仁慈からも(分離すること)を意味していることは(かれらはまたこれをも去らせたことを、すなわち、かれらはそれをかれら自身から分離したことを意味していることは)、『乳母』または乳を与える者の意義が無垢であることから明らかである。聖言には吸う者と吸わせる者がくり返し言われており、前の者により幼児の最初の状態が意味されていて、その状態は無垢の状態であるにちがいないことは明白である、なぜなら人間は最初生まれると、人間は無垢の状態へ導入されるからであるが、それはその状態がそれに続いて起る凡ゆる状態に対する面となって、それらのいくたの状態における最も内なるものとなるためであり、この状態は聖言では『乳呑み児』により意味されているのである。次にかれは天的な善に対する情愛の状態へ、すなわち、その両親に対する愛の状態へ導き入れられるが、それはこのような幼児にあっては主に対する愛に代わって存在しており、この状態は『幼児』により意味されている。その後かれは霊的な善に対する情愛の状態へ、または相互愛の状態へ、すなわちその遊び友達に対する仁慈の状態へ導き入れられるが、その状態は『少年』により意味されており、それにつづいてくるいくたの状態は『大人』により意味され、最後には『老人』により意味されている。『老人』により意味されているこの最後の状態は知恵の状態であって、その中には幼児時代の無垢が宿っており、かくて最初の状態と最後の状態とは結合しており、人間は老いると、再び小さな子供となり、しかし賢い子供となって、主の王国に導き入れられるのである。

 

 

天界の秘義3183[2]

 

 このすべてから無垢は最初の状態であって、乳飲み児の状態であることが明らかである。ここからまた乳を飲ませる者も無垢を意味しており、与える者と受ける者については働きかける者と働きかけられる者の場合のように、類似した状態が認められるからである。ここには、真理に対する情愛が記される意図のために、すなわち、それが無垢から発していたことが記される意図のために、かれらはまた乳母を(また乳を与えた者を)去らせたといわれている、なぜなら真理に対する情愛はその中に無垢が存在しない限り真理に対する情愛ではないからである(2526、2780、3111番を参照)。なぜなら無垢により主はこの情愛の中へ流れ入れられ、実に真の無垢は知恵そのものであるからには、知恵のもとへ流れ入られるからであり(2305、2306番)、天使たちの目には無垢にいる者たちは幼児として現れているのである(154、2306番)。

 

 

 

 

16.真理に対する情愛が無限に果を結ぶ

 

 

天界の秘義3186

 

「わたしたちの妹よ、あなたは千万の者の母となるように」。これは真理に対する情愛が無限に果を結ぶことを意味していることは以下から明白である、すなわち、レベカであるところの『妹』の意義は真理に対する情愛であり(3077、3179、3182番を参照)、『千万の者の母となること』の意義は無限に実を結ぶことである、ここの『千万』は、とり扱われている主題は主であって、主の中には凡ゆるものは全般的にも個別的にも無限のものであるため、無限のものを意味している。人間のもとでは実情は以下のようになっている、すなわち、人間の合理的なものの中に善と真理との連結が遂行されない中は、すなわち、人間は再生しない内は、人間のもとには善は実を結ばないのであり、真理も増大しないのである、なぜならそのとき[人間が再生したとき]、実または子供たちが善と真理との結婚である正当なまたは天界的な結婚から生まれ出てくるからである。そのときがくるまでは、かれが行う善は恰も善であるかのように見え、真理も恰も真理であるかのように見えるということは真ではあるが、しかしそれらは純粋なものではないのである、なぜなら主から発している無垢がその中に宿っているところの善である魂そのものはそれらのものの中には存在しておらず、かくて、それらのものも人間に感動を与えはしないし、人間を幸福にもしないからである。愛の、また仁慈の情愛はその情愛の幸福とともになって―その情愛は霊魂であるが―人間が再生しつつあるとき主から与えられるのである。

 

 

 

 

17.善い者には生命[生活]のために、即ち、生命の善のために真理を求める情愛が存在しており、それで彼らは改良されることが出来る

 

 

天界の秘義3539[6]

 

 善い、真のものであるものを人間は意志しない[欲しない]けれど、それを理解することができるこうした人間の能力は、人間が改良され、再生される能力を持つために人間に与えられているのであり、そうした理由からこの能力は善い者にも悪い者にもそのもとに存在しているのであり、いな、悪い者には時としてそれは更に鋭利であることもあるが、しかし以下の相違があるのである、すなわち、悪い者には生命[生活]のために、すなわち、真理から発している生命の善のために真理を求める情愛はなく、それでかれらは改良されることはできないが、しかし善い者には生命[生活]のために、すなわち、生命の善のために真理を求める情愛が存在しており、それでかれらは改良されることができるのである。しかしこれらの者の改良の最初の状態は、かれらは真理から善いことを行うため、教義の真理が第一位に在って、生命の善が第二位に在るようにかれらには見えるということであり、かれらの第二の状態は生命の善が第一位に在り、教義の真理が第二位に在るということである、なぜならそのときかれらは善から、すなわち善の意志から善いことを為すからであり、このことが実現すると、意志は結婚におけるように理解に連結しているため、その人間は再生したのである。内意ではこの二つの状態がエソウとヤコブについて言われている事柄に取扱われているのである。

 

 

 

 

18.母

 

 

天界の秘義2717

 

「かれの母はかれにめとった」。これは真理の情愛を意味していることは『母』の意義から明白であり、それは教会であり(289番を参照)、ここに表象されている霊的教会は真理の中にあり、真理の情愛によって教会であるため、この情愛はここに母により意味されている。

 

 

 

天界の秘義3583

 

「あなたの母の息子たちにあなたに身をかがめさせなさい」。これは真理に対する情愛の他の凡てのものを治める(主権)を意味していることは以下から明白である、すなわち、『息子』の意義もまた真理であり(489、491、533、1147、2623、3373番を参照)、『母』の意義は霊的な真理の情愛[霊的な真理に対する情愛]であり、かくて教会である、なぜなら教会は真理から、また真理に対する情愛から教会であり、また教会と呼ばれているからである(289、2691、2717番)

 

 

 

天界の秘義4257

 

「かれがやって来て、わたしを、息子の上に母を打ちはしないかと」。これはそれがまさに死滅しようとしていることを意味していることは、説明を要しないで明白である。(中略)なぜなら『母』により彼らは教会を理解し(289、2691、2717番を参照)、『息子』により教会のものである真理を理解したからである(489、491、533、1147、2623、3373番)。ここから『息子たちの上に母を打つこと』は全く死滅することを意味しているのである。人間もまた、人間の中に教会と教会とに属しているものとが死滅すると、即ち、『母』により本来意味されていて、人間の中に教会を生み出すところの真理に対する情愛が破壊されると、全く死滅してしまうのである。

 

 

 

 

19.きずな

 

 

天界の秘義3835

 

しかし乍ら内なる情愛は内なるきずな[拘束物]と呼ばれ、真理の情愛と善の情愛は良心のきずな[拘束物]と呼ばれている。

 

 

 

 

20.善は絶えず流れ入っているため、それは真理に対する情愛を生み出しており

 

 

天界の秘義4247[2]

 

善は絶えず流れ入っており、真理はそれを受け入れるのである、なぜなら真理は善の容器であるからである。神的な善は純粋な真理以外のいかような容器にも適用されることはできないのである、なぜならそれらは相互に相応しているからである。人間が真理の情愛[真理に対する情愛]の中にいるときは(人間は再生しはじめる以前は最初はこの情愛の中にいるのであるが)、そのときですら善は絶えず流れ入っているが、しかし善自身をその中へ適用されることができるところの(すなわち、善自身のものとすることができるところの)容器を(すなわち真理を)未だ持っていないのである、なぜなら再生のはじめでは人間は未だ知識の中にいないからである。しかしながらその時も、善は絶えず流れ入っているため、それは真理に対する情愛を生み出しており、その真理に対する情愛は神的善が絶えず流れ入ろうとして努力しているその努力以外のいかような源泉からも発していないのである。このことから、そのときですら、善は第一位に立って、主役を演じていることが―それは恰も真理であるかのように見えはするものの―明白である。しかし人間が再生しつつあるときは(そのことは人間が知識の中にいる成人期に起るのであるが)、そのときは善が善自身を明らかに示すのである、なぜならそのときはその人間は真理を知ろうとする情愛の中にいるよりは、むしろ真理を行なおうとする情愛の中にいるからである。それまでは真理はかれの理解の中に在ったのであるが、今はそれはかれの意志の中にいる者たちに在るのであり、それが意志の中に在るときは、その人間の中に在るのである、なぜなら意志はその人間そのものを構成するからである。このように人間の中には絶えず循環が行われているのである、すなわち、知識の凡ゆるものは見ることを通して、または聞くことを通して思考の中へ入れられ、思考から意志の中へ入れられ、意志から思考を通して行為へ入れられるように絶えず循環しているのである。

 

 

 

天界の秘義4368[2]

 

なぜなら天界的なものである二つの情愛が存在しており、すなわち善の情愛と真理の情愛とが存在しているからである(そのことについてはすでに時折とり扱ったのである)。真理の情愛[真理に対する情愛]はひとえに善から発生している。情愛そのものはこの源泉から来ている、なぜなら真理は真理自身からは生命を得ないで、善から生命を受けており、それで人間が真理により感動するときは、そのことは真理から来ているのではなくて、その真理に流れ入って、その情愛そのものを生み出しているところの善から発しているのである。このことがここに『情愛が導入されるための情愛の相互的なもの』により意味されているものである。教会の内には主の聖言に感動して、非常に苦労しながらそれを読んでいる多くの者のいることは知られているが、それでも真理を教えられることを目的としている者は僅かしかいないのである、なぜなら大半の者はその者自身の教理に止まっていて、その教理を聖言から確認することがかれらの唯一の目的となっているからである。これらの者は真理の情愛[真理に対する情愛]の中にいるように見えるはするが、しかしその中にはいないのである、なぜなら真理について教えられることを、すなわち、真理とは何であるかを知ることを愛し、その目的から聖書を研究することを愛する者のみが真理の情愛の中にいるからである。善の中にいる人間、すなわち、隣人に対する仁慈の中にいる者を除いては、まして主に対する愛の中にいる者を除いてはたれ一人この情愛の中にはいないのである。これらの者のもとには善そのものが真理へ流れ入っていて、その情愛を生み出しているのである、なぜなら主はこの善の中に現存されているからである。このことは以下の例により説明することができよう。

 

 

 

天界の秘義4368[3]

 

 純粋な仁慈の善の中にいて、主がペテロに語られた以下の言葉を読む者たちは―

 

 わたしはあなたに、あなたはペテロであると言う、わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう、地獄の門はそれに勝ちはしない、またわたしはあなたに天国の鍵を与えよう、何であれあなたが地で結ぶものはことごとく天でも結ばれ、何であれあなたが地で解くものはことごとく天でも解かれるのである(マタイ16・15−19)

 

 これらの者たちは(すなわち、純粋な仁慈の善から真理の情愛の中にいる者たちは)、これらの言葉により意味されていることを教えられることを愛しておりかれらは教会がその上に建てられるそこの岩により(従ってペテロにより)仁慈の信仰が意味されており、この方法により、天界を開きまた閉じる力はこの信仰に与えられていることを聞くと、そのときはかれらは喜んで、この真理に感動するのである、なぜなら信仰の源泉であられる主のみがこうした方法によってこの力を持たれているからである。しかし純粋な仁慈の善から真理の情愛の中にいないで、他の何らかの善から真理の情愛の中におり、とくにもし自己と世を求める愛から真理の情愛の中にいるなら、その者たちはこの真理に感動はしないで、悲哀をおぼえ、こうした力を祭司階級に要求しようと願っているため怒りさえもするのである。かれらはこのようにして主権を奪われるため怒るのであり、尊敬を剥奪されるため悲しむのである。

 

 

 

天界の秘義5816[2]

 

 ベニヤミンにより表象されている真理が『ヨセフ』である内なる善に服従しないかぎり、慈悲はなく、自然的なものにおける諸真理との連結もないことについては、実情は以下のようになっているのである。人間を教会とする真理は善から発した真理である、なぜなら人間は善の中にいると、そのときはかれは善から真理を見て、認識し、かくてそれが真理であることを信じはするが、もし善の中にいないなら、全くそのようなことは起らないのである。善は光を与え、照らし、人間に真理を見、認め、信じさせる小さな焔のようなものである。なぜなら善から発した真理の情愛[真理に対する情愛]は内なる感覚をその方へ決定づけ、その視覚を、暗黒を生み出す世と身体の物から引き出すからである。ここのベニヤミンが表象している真理はこのようなものである。これが教会の唯一の真理であることは、すなわち、それは人間を教会とする唯一の真理であることは前に見ることができよう(5808番)。しかしこの真理はヨセフにより表象されている内なる善に全く服従しなくてはならないのである、なぜなら主は内なる善を通して流れ入って、下に在る諸真理に生命を与えられ、かくてまたイスラエルにより表象されているところの、自然的なものから発した霊的な善から発しているこの真理にも生命を与えられるからである(4286、4598番を参照)。

 

 

 

天界の秘義5827

 

「一人はわたしから出て行ってしまった」。これは内なる善が外観的には去ってしまったことを意味していることは以下から明白である、すなわち、『出て行くこと』または去ってしまうことの意義は去ることであり、ヨセフの表象は内なる善である(そのことについては前を参照)。その去ったことは表面のみのことであったことは明らかである、なぜならヨセフは依然生きていたからである。このかんの実情は以下の如くである。ヨセフについて述べられていることにより、始めから終りまで、主の人間性の栄化が順序を追うて表象されているのであり、従って低い意義では人間の再生が表象されているのである、なぜなら人間の再生は主の栄化の映像または模型であるからである(3138、3212、3296、3490、4402、5688番を参照)。人間の再生の実情は以下のようなものである。人間が真理を通して善へ導き入れられつつある最初の状態では、真理は世の光の中に在って、身体の感覚的な物からへだたってはいないため、それは明らかに現れているのである。しかし善は異なっている、なぜなら善は天界の光の中に在って、身体の感覚的な物からへだたっているからである、なぜならそれは人間の霊の中に在るからである。ここから信仰のものである真理は明らかに現れてはいないのである。人間はそれ以外の方法では決して再生することはできないのである。しかしこの状態がすぎると、そのときは善はそれ自らを明らかに示し、しかもそのことは隣人に対する愛により、また生命のために真理を求める情愛により行われるのである。これらのこともまたヨセフが連れ去られて、父に現れはしなかったが、後に自らをかれに明らかにしたことにより表象されている事柄である。こおこともまた内なる善が外観的には[表面では]去ったことにより意味されており、その去ったことが『その一人はわたしから出て行ってしまった』により意味されているのである。

 

 

 

霊界日記5798

 

<天界へ通じている道は、隅の親石までは、地獄へ通じている道とは同一である>

 

彼らは、また、怒って、言明した、自分らは自分ら自身では善を行うことは出来ない、そうであるなら、どうして自分らは天界へ通じる道を歩んで行くことが出来ようか、と。しかし彼らは以下のように話されたのである、即ち、神について、主について悪いことを考えないこと、かくて聖言に反し、教義に反し、あなたらの信仰の教義に反しているような事柄を避けることは、あなたらの力の中に在るのであり、あなたらが思考の幾多の悪を避けると、その時は、主から、善い情愛が、その情愛から生まれてくる思考が流れ入り、かくてあなたらは主により善の中へ連れて来られるのであり、あなたらが善の中にいるに応じて、益々真理の情愛[真理に対する情愛]の中にいるのである、と。

 

 

 

 

21.いかような試練もその人間が真理の善の中に、即ち、真理を愛する愛または情愛の中にいない限り、起ることは出来ない

 

 

天界の秘義4274

 

「するとそこで一人の男が彼と組打ちをした」。これは真理の方面の試練を意味していることは『組打ちすること』の意義から明白であり、それは試練である。試練そのものは組打ちまたは格闘以外の何ものでもない、なぜなら真理は悪霊らにより攻撃され、その人間と共にいる天使たちにより守られるからである。この格闘を人間が認識することが試練である(741、757、761、1661、3927、4249、4256番)。しかしいかような試練もその人間が真理の善の中に、即ち、真理を愛する愛または情愛の中にいない限り、起ることは出来ない。なぜなら真理を愛しない者は、または真理により感動しない者は、真理を何ら意に介しはしないが、それを愛する者はそれが害されはしなかと不安を感じるからである。人間が真であると信じるものを除いては他の何ものも人間の理解の生命を生み出しはしないし、また人間が善いものとして自分自身に印刻したものを除いては何ものも彼の意志の生命を生み出しはしないのである、それで彼が真のものであると信じているものを攻撃されると、彼の理解の生命は攻撃され、彼が善いものとして彼自身に印刻したものが攻撃されると、彼の意志の生命は攻撃されるのであり、それで人間が試みられているとき、彼の生命は危機にさらされるのである。争闘の最初のものは真理の方面のものであり、または真理に関わるものであるのは、それが彼が第一次的に愛するものであり、たれであれその者の愛のものであるものが悪霊らにより攻撃されるが、しかしその人間が真理よりもさらに善を愛する後では―そのことは秩序が転倒するとき起るのであるが―かれは善の方面で試みを受けるからである。しかし試練の何であるかは僅かな者しか知っていない、それは現今では僅かな者しか試練を受けはしないためである、なぜなら信仰の善の中に、即ち、隣人に対する仁慈の中にいる者以外の者は一人として試みられることは出来ないからである。もしこの仁慈の中にいない者が仮にも試みられるなら、その者は直ぐさま屈服し、そして屈服する者は悪を確認し、誤謬を確信するのである、なぜならそのようにしてその者らが共に結合する悪霊らはそのときその者らの中にあって屈服するからである。このことが現今では僅かな者しか霊的な試練へ入れられはしないで、ただ単に何らかの自然的な心労にのみ入れられるが、その自然的な心労にのみ入れられるのは、そのことによって彼らが自己をまた世を愛する愛から引き出されるためであり、もしそうした心労がないなら、彼らは抑えられはしないでその愛へ突入してしまう理由である。

 

 

 

 

22.教えられると喜ぶ

 

 

天界の秘義4368[2]

 

なぜなら天界的なものである二つの情愛が存在しており、すなわち善の情愛と真理の情愛とが存在しているからである(そのことについてはすでに時折取り扱ったのである)。真理の情愛[真理に対する情愛]はひとえに善から発生している。情愛そのものはこの源泉から来ている、なぜなら真理は真理自身からは生命を得ないで、善から生命を受けており、それで人間が真理により感動する時は、そのことは真理から来ているのではなくて、その真理に流れ入って、その情愛そのものを生み出しているところの善から発しているのである。このことがここに『情愛が導入されるための情愛の相互的なもの』により意味されているものである。教会の内には主の聖言に感動して、非常に苦労しながらそれを読んでいる多くの者のいることは知られているが、それでも真理を教えられることを目的としている者は僅かしかいないのである、なぜなら大半の者はその者自身の教理に止まっていて、その教理を聖言から確認することが彼らの唯一の目的となっているからである。これらの者は真理の情愛[真理に対する情愛]の中にいるように見えはするが、しかしその中にはいないのである、なぜなら真理について教えられることを、即ち、真理とは何であるかを知ることを愛し、その目的から聖書を研究することを愛する者のみが真理の情愛の中にいるからである。善の中にいる人間、即ち、隣人に対する仁慈の中にいる者を除いては、まして主に対する愛の中にいる者を除いてはたれ一人この情愛の中にはいないのである。これらの者のもとには善そのものが真理へ流れ入っていて、その情愛を生み出しているのである、なぜなら主はこの善の中に現存されているからである。このことは以下の例により説明することが出来よう。

 

 

 

天界の秘義4368[3]

 

 純粋な仁慈の善の中にいて、主がペテロに語られた以下の言葉を読む者たちは―

 

 わたしはあなたに、あなたはペテロであると言う、わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう、地獄の門はそれに勝ちはしない、またわたしはあなたに天国の鍵を与えよう、何であれあなたが地で結ぶものはことごとく天でも結ばれ、何であれあなたが地で解くものはことごとく天でも解かれるのである(マタイ16・15−19)

 

 これらの者たちは(すなわち、純粋な仁慈の善から真理の情愛の中にいる者たちは)、これらの言葉により意味されていることを教えられることを愛しておりかれらは教会がその上に建てられるそこの岩により(従ってペテロにより)仁慈の信仰が意味されており、この方法により、天界を開きまた閉じる力はこの信仰に与えられていることを聞くと、そのときはかれらは喜んで、この真理に感動するのである、なぜなら信仰の源泉であられる主のみがこうした方法によってこの力を持たれているからである。しかし純粋な仁慈の善から真理の情愛の中にいないで、他の何らかの善から真理の情愛の中におり、とくにもし自己と世を求める愛から真理の情愛の中にいるなら、その者たちはこの真理に感動はしないで、悲哀をおぼえ、こうした力を祭司階級に要求しようと願っているため怒りさえもするのである。かれらはこのようにして主権を奪われるため怒るのであり、尊敬を剥奪されるため悲しむのである。

 

 

 

 

23.人間が教会となるのは真理の情愛[真理に対する情愛]から発しているため、真理の情愛と言うも、教会というも、それは同じ事

 

 

新しいエルサレムの教義246

 

 聖言が在り、主がそれによって知られ、かくて神的真理が啓示されている所には特に教会が存在している(3857、10671番)。しかし聖言が在り、主がそれによって知られている所に生まれた者が教会に属しているのではなく、聖言の諸真理により主により再生した者が、すなわち、仁慈の生活を送る者がそれに属している(6637、10143、10153、10578、10645、10829番)。教会に属している者または己が中に教会の在る者は真理のために真理を求める情愛の中にいる、すなわち、彼らは真理をそれが真理であるために愛し、また自分がその中に生まれた教会の教義的なものは真であるか、否かを聖言によって検討する(5432、6047番)。もしそうでないなら各人に抱かれている真理は他の者から、またその生まれた地から来るであろう(6047番)。

主の教会は己が宗教上の主義に従って生きる全世界の凡ての者のもとに存在している(3263、6637、10756番)。何処にいるにしても、善に生き、一人の神を承認している者はすべて、主から受け入れられて、天界に入る、(それは)善は主から発し、主は善の中におられるため、善にいる者はすべて主を承認するからである(2589−2604、2861、2863、3263、4190、4197、6700、9256番)。

 

 

 

 

天界の秘義4427

 

「デナは出て行った」。これは信仰の凡ゆる事柄の情愛とそこから派生して教会を意味していることは、デナの表象から明白であり、それは凡ゆる真理の情愛[凡ゆる真理に対する情愛]とそこから派生した教会である(3963、3964番を参照)、なぜならヤコブの十二人の息子たちは信仰の凡ゆる事柄を表象し、かくて教会の凡ゆる事柄を表象したのであり(2129、2130、3858、3926、3939番)、それでデナはレアと下婢たちとの生んだヤコブの十人の息子たちの後に生まれたため、それらのものに対する情愛を意味し、それゆえ教会を意味しているからである。なぜなら教会は真理の情愛[真理に対する情愛]から発しており、それで人間が教会となるのは真理の情愛[真理に対する情愛]から発しているため、真理の情愛と言うも、教会というも、それは同じ事であるからである。

 

 

 

 

天界の秘義4449

 

なぜなら教会は真理の情愛から教会であって、このことがここに『新しい教会』により意味されているからである

 

 

 

 

24.主が試練にある者たちを支配される手段は真理そのものではなくて、その真理の情愛[その真理に対する情愛]である

 

 

天界の秘義5044

 

「牢屋の君[長]」。これは試練の状態において支配している真理を意味していることは以下から明白である、即ち、『君[長]』の意義は主要な[第一義的な]真理であり、かくて支配している真理であり―そのことについては間もなく述べよう―『牢屋』の意義は誤謬の剥奪であり、従って試練である(そのことについては前の5038、5039、5043番を参照)。試練の状態において支配している真理により意味されていることを先ず述べなくてはならない。試練の中にいる凡ての者のもとには主から真理が流れ入り、それが諸々の思いを支配し、治め、試練を受けている者たちが疑惑に陥り、絶望にすら陥る時、その者たちを支えるのである。この支配している真理はその真理であり、また彼らが聖言から、または教義から学んで彼ら自身の中に確認したような真理である。実際そのような時他の真理もまた思い出されはするが、しかしそれは内部を支配はしないのである。時としてその支配する真理は理解の前に明白に示されはしないで、曖昧に隠れてはいるが、それでも依然支配しているのである、なぜなら主の神的なものはその中に流れ入って、心の内部をその中に留めており、それでそれが光の中へ入ってくると、試練を受けているその人物は慰めを受け、苦痛を和らげられるからである。

 

 

 

天界の秘義5044[2]

 

 主が試練にある者たちを支配される手段はこの真理そのものではなくて、その真理の情愛[その真理に対する情愛]である、なぜなら神的なものは情愛のものである事柄の中にのみ流れ入るからである。人間の内部に植え付けられて、根を張っている真理は情愛によって植え付けられ、根を張った真理はそこに密着して、情愛により思い出され、そしてこの真理がそのようにして思い出されると、それは、それに連結しており、その人間の相互的な情愛であるところの情愛を提示するのである。これが試練にある人間の実情であるため、それでたれ一人成人期に達し、かくてその者が支配されることが出来る手段となる何らかの真理に浸透するまではいかような霊的な自然的な試練にも入れられないのであり、もしそうでないなら彼は試練の下に沈んで、その後の状態は最初の状態よりは更に悪くなるのである。これらの事柄から『牢屋の君[主]』により意味されているところの、試練の状態において支配している真理により意味されていることを認めることが出来よう。

 

 

 

 

25.霊的なもの

 

 

天界の秘義5639[2]

 

霊的なものは自然的なものに対してはいかようなものであるかをさらに簡単に言っておかなくてはならない。なぜなら基督教世界にいる者たちの大半は霊的なものの何であるかを全く知ってはいないからであり、その言葉を聞くとためらって、たれもその何であるかを知らないと独り言を言うのである。霊的なものは、人間にあっては、その本質は、自己のためではなくて、善と真理とのために善と真理とを求める情愛そのものであり、また自己のためではなくて、公正で公平なもののために公正で公平なものを求める情愛である。人間がこれらの情愛から自分自身の中に歓喜と楽しさとを感じるなら、ましてや幸福と祝福とを感じるなら、それはかれにおける霊的なものであり、それは自然界から来ないで、霊界から、または天界から来ており、すなわち、天界を経て、主から来ているのである。それでこれが霊的なものであって、それが人間を支配すると、それはその人間の考え、欲し、行う一切のものを動かして、いわばその一切のものを色づけしており、その思考とその意志の行動に霊的なものを帯びさせ、ついにはこれらのものもまた、かれが自然界から霊界へ入るときのように、かれの中に霊的なものとなるのである。約言すると、仁慈と信仰に対する、すなわち、善と真理に対する情愛が、歓びと楽しさとともになって、とくにそこから生まれてくる満足と祝福とともになって―そうしたものが人間の中に内的に感じられて、かれを真の基督教徒とするのであるが―霊的なものとなるのである。

 

 

 

 

26.他の者の認めないものを認め

 

 

天界の秘義5822

 

これはこれ以上明らかに述べることの出来ない秘義であり、またそれは、人間には内なるものと外なるものとが在り、それらは相互に明確に区別されていることを考え、また真理を知ろうとする情愛の中にいる者たちによらなくては理解されることは出来ないのである。これらの者は天界の光によってその知的な部分を明るくされ、かくて他の者の認めないものを認め、かくてまたこの秘義をも認めるのである。

 

 

 

天界と地獄603

 

 本書で天界、霊たちの世界、地獄について述べたことは、霊的な真理を知ることを喜ばない者たちには明確ではないであろうが、それを喜ばれる方々には、特に、真理のために真理を愛される方々、即ち、真理を、それが真理であるために愛される方々には明白であろう、なぜならすべて愛されるものは光をもって、特に真理はそれが愛される時は、光をもって、心の観念〔考え〕の中へ入って来るからである、それは真理はすべて光の中に存在するからである。

 

 

 

 

27.連結が起ると、真理の情愛を通し、引いては善の情愛を通して認識する能力が与えられる

 

 

天界の秘義5877

 

「ヨセフはその兄弟たちに言った」。これは内なる天的なものが自然的なものにおける諸真理に認識の能力を与えたことを意味していることは以下から明白である、すなわち、聖言の歴史的なものにおける『言うこと』の意義は認識であり(1898、1919、2080、2619、2862、3395、3509、5687、5743番を参照)、ここでは認識の能力を与えることであり(そのことについては以下に述べよう)、ヨセフの表象は内なる天的なものであり(そのことについてはすぐ前の5869番を参照)、ここでは『兄弟』であるヤコブの十人の息子の表象は自然的なものにおける諸真理である(5403、5419、5458、5512番)。かくてその内意は内なる天的なものが自然的なものにおける諸真理に認識の能力を与えたということである。『言うこと』によりここでは認識の能力を与えることが意味されているのは、今以下の記事にとり扱われている主題は、『ヨセフ』である内なる天的なものが『ヤコブの息子』である自然的なものにおける諸真理と連結することであり、連結が起ると、認識する能力が、すなわち、真理の情愛を通し、引いては善の情愛を通して認識する能力が与えられるからである。

 

 

 

天界の秘義5885

 

それが流入によるものであったことが生まれてくるのは、内なるものは外なるものの中へは流入以外の方法では働きかけはしないし、さらに内的な交流が行われた今は、さらにその中へ流入により働きかけるためである(5883番)。流入により明らかに示すことは、善の方面では、真理の情愛[真理に対する情愛]を通して善を認識することであって、仁慈であるが、真理の方面では、真理を承認することであって、信仰である。

 

 

 

天界の秘義7055〔2〕

 

しかしこの事は秘義であるため、それを例により説明しよう。自分自身の中に確認されている自分の教会の教義に従って考え、また教えてはいるが、それが真理であるか否かを、それが教会の教義から来ていて、学者や明るくされている人たちから述べられているという事実以外の根底からは知っていない者らのもとには神的なものから間接に発している真理は有り得るが、それでもそれは神的なものから直接に発出している真理と連結してはいないのである、なぜならもしそれが連結しているなら、その時は彼らは真理のために、特に生命のために真理を知ろうとする情愛を得、そこから彼らはまたその教会の教義的なものを自分自身の中に確認する以前に、それらが真理であるか否かを認識することをまた与えられ、各々個々のものの中に、その確認させるものが真理そのものに一致しているか否かを認めるからである。

 

 

 

 

28.残りのもの

 

 

天界の秘義5894

 

ここでは、残りのものは、善がそれ自身を明らかに示す以前の、真理の承認[真理を承認すること]であり、また真理に対する情愛である。これらのものは善とともに輝き出るのである。それまではそれらのものから生命の用に資するだけのものが引き出されるのである。

 

 

 

 

29.教える

 

 

啓示による黙示録解説357

 

レビの種族は教会を教会とする本質的な愛である真理への愛を意味し、そこから理知を意味することは、以下の記事から明らかとなるであろう―

 

レビの子孫はエホバに仕え、エホバの御名において祝福するためにエホバにより選ばれた(申命記21・5)

 

『エホバの御名において祝福する』は教えることであり、それは真理の情愛の中にいて、そこから理知にいる者たちのみが行うことができるのである

 

 

 

 

30.信仰とは主から発するところの、天界的な愛から発出する真理に対する情愛

 

 

天界と地獄480

 

各々の者はその支配愛のあるままに生きることを知らないことを天使たちは非常に不思議がり、また多くの者が、自分たちはいかような生活を送っていようと、直接の慈悲と信仰のみで救われると信じて、神的な慈悲は間接的なものであって、主により世でもまた世の後では永遠に導かれることが神の慈悲であり、悪に生きない者は慈悲によって導かれることを知っておらず、また信仰とは主から発するところの、天界的な愛から発出する真理に対する情愛であることも知っていないことを非常に不思議がっている。

 

 

 

 

31.用を目標とした真理に対する情愛

 

 

天界と地獄517

 

 諸天界の教えは地上の教えとは以下の点で、すなわち知識は記憶に植え付けられないで、生命に植え付けられるということで異なっている、なぜなら霊たちはその生命に一致した物をすべて受け入れ、吸収はするが、それに一致しない物は受け入れず、まして吸収はしないため、その記憶はその生命の中に宿っているからである、なぜなら霊たちは情愛であって、そこからその情愛に類似した人間の形を持っているからである。彼らの実情はこうしたものであるため、真理に対する情愛は生命の用のために絶えず吹き込まれている、なぜなら主は各々の者がその資質に応じて用を愛するように配慮され、その愛もまた天使になろうとする希望により生気づけられているからである。そして天界の用はすべて共通の用に関係しているため―その共通の用とは、主の王国が彼らの国家であるため、その王国の善である―また特殊な、個々の用は、それがその共通の善をさらに近くまたさらに完全に求めているに応じて、益々卓越したものとなっているため、この無数の、特殊な、個々の用は凡て善であり、また天界的なものである。それ故各々の者のもとでは真理に対する情愛は用に対する情愛と連結して、その二つは一つのものとなっており、この方法によって真理は用の中に植え付けられ、かくて彼らの学ぶ真理は用の真理である。このようにして天使的な霊達は教えられて、天界に入る準備をする。用を目標とした真理に対する情愛は色々な方法により注ぎ入れられているが、その方法の大半は世では知られていない。それは主として用を表象したものにより注ぎ入れられているが、その表象は霊界では無数の方法で示され、またその霊に、その心の内部からその身体の外部までも染み入って、全体に感動を与えるほどの歓喜と快楽とをもって示されている。かくて、その霊はいわばその霊自身の用の化身となり、それで彼は教えを受けた後で、自分自身の社会へ入ると、自分自身の用を遂行して、自分自身の生命を楽しむのである。これらの事柄から、外なる真理である知識は何人をも天界へ導き入れず、知識によって植え付けられたところの、用の生命である生命そのものが天界へ入れるものであることが明白となるであろう。

 

 

 

 

32.善から真理を求める情愛の中にいて、絶えず真理を知ろうと切望しなくてはならない

 

 

天界の秘義5937[3]

 

 霊的な事柄を認識しようと欲する者は善から真理を求める情愛の中にいて、絶えず真理を知ろうと切望しなくてはならないのである。そのことにより彼の知的なものは明るくされ、そしてその知的なものが明るくされると、そのときは彼は何かのものを自分自身の内に内的に認識することが出来るのである。しかし真理を求める情愛の中にいない者は、その信仰している教会の教えから、また祭司、長老、または修道僧がそのように言っているという理由から、その知っているものがそうである、と考えるにすぎないのである。この凡てから認識の何であるかが、それは世の物には存在しているが、霊的な物には存在していないことが明白であり、さらにそれは以下の事実から明白である。すなわち、人各々は、ユダヤ人として生まれた者でさえも、また教会の中に生活してはいるものの、教会の外にいる者も、その中に生まれた教義の中に止まっているのである。さらに何らかの異端の中にいる者は、たとえ真理そのものを話されるにしても、またその真理が確認されるにしても、その真理の一片をすらも認めはしないのであり、それは彼らには誤謬として見えるのである。

 

 

 

 

33.たれ一人教えられなくては天界へ入る準備をすることが出来ない

 

 

天界と地獄512

 

しかし誰一人、例えば[一人の]神がおられ、天界と地獄があり、死後の生命があり、神を何ものにもまさって愛さなくてはならない、隣人を自分自身のように愛さなくてはならない、聖言は神的なものであるため、聖言にあることは信じなくてはならないというようなことを先ず教えられない限り、そのように行動することは出来ない。人間はこうした事を知り、また承認しなくては霊的に考えることは出来ず、そうしたことを考えなくては、それを欲しもしない、なぜなら人間は知らないことを考えることは出来ず、考えないことは欲することも出来ないから。それゆえ人間がそうしたことを欲するとき、天界は流れ入り、すなわち、主は天界を通して、人間の生命へ流れ入られる、なぜなら主は意志へ流れ入られ、意志を通して思考へ流れ入られ、その二つを通して生命へ流れ入られるから。それは人間の生命はすべてその二つのものから発しているためである、これらのことから、霊的な善と真理とは世から学ばれないで、天界から学ばれ、また、たれ一人教えられなくては天界へ入る準備をすることが出来ないことが明らかである。主はまた誰でも人間の生命へ流れ入られるに応じて、教えられる、なぜならそれに応じて主は意志を真理を知ろうとする愛で燃やし、その思考を明るくされて、人間は真理を知りそしてこうしたことが起るに応じて、人間の内部は開かれて、その中に天界が植え付けられ、さらに、それに応じて神的なものと天界的なものとが、人間における道徳的な生活の誠実な物の中へ、また社会生活の公正な物の中へも流れ入って、それらの物を霊的なものにするからである。

 

 

 

 

34.天界の各々の中には真で善いものを理解することを求める最大の情愛が在り

 

 

霊界日記741

 

 身体の生命における人間の欲念に代って、身体を養うために食べもし、飲みもすることを求める欲念に代って、霊たちは知ることを求める欲念を、または知ることから生れる快楽を持っている。天使たちの欲念はただ真で善いことのみを知ることを求める欲念であるが、霊たちのそれは何であれ依然新しいものを知ることを求めるそれであり、その欲念は殆ど恒久的なものであって、地上の食物により身体を養うことを求める欲念に代って起っている。かくて天界の各々の中には真で善いものを理解することを求める最大の情愛が在り、そこから彼らは反省を得、その手段により彼らは益々完成されて行くのである。1748年〔60歳〕2月11日。

 こうした事項は多くの霊たちと天使たちとの眼前で書かれたのであり、彼らはその書かれた事柄を反省もし、また肯定もしているのである。

 

 

 

35.無知の聖いものは他の者以上に無知であるということにあるのではなく

無知

 

 

天界の秘義1557[3]

 

無知の聖いものは他の者以上に無知であるということにあるのではなく、人間は人間自身では[人間自身によっては]何ごとも知っておらず、自分の知らないものは自分が実際知っているものに比較するなら無限であるということを承認することにあり、特にそれは人間が記憶と理解の事柄を天的なものに比較するなら、すなわち、理解の事柄を生命の事柄に比較するなら殆ど無価値なものに見なすということにあるのである。主については主は人間的なものを神的なものに連結しつつあられたため、秩序に順応して進まれたのであり、そして主は今初めて、主が子供であられたとき持っておられたような天的な状態に到達されたのであって、その状態の中には世的なものもまた現存していたのである。主はこの状態からさらに天的な状態へ進まれることによりついに幼児の天的な状態の中へ入れられ、この状態の中で主は人間的な本質を神的な本質に完全に連結し給うたのである。

 

 

 

 

36.説得的な信仰の中にいる者らは真理のために真理を求める情愛を持ってはいない

 

 

天界の秘義9367

 

説得的な信仰の中にいる者らは自分の教えていることが真であるか、それとも誤っているかを、いかような内なる照示からも知ってはいないのである、否、彼らは一般民衆から信じられさえするなら、(そうしたことは)意には介しはしないのである。なぜなら彼らは真理のために真理を求める情愛を持ってはいないからである。さらに彼らは他の凡ての者にもまさって信仰のみを擁護し、仁慈である信仰の善を、その信仰の善を手段として利を得ることが出来る限り、重要視するのである。

 

 

 

 

37.再生しつつある人間の中に現存している真理の情愛〔真理に対する情愛〕

 

 

天界の秘義6717

 

「レビの娘を娶った」(出エジプト記2・1)。これは善と連結したことを意味していることは以下から明白である、即ち、『娘を娶ること』、即ち、妻に娶ることの意義は連結であり、レビの表象は善である(6716番を参照)。その起原が善から発している真理が善と連結する事はいかように理解しなくてはならないかを述べよう。再生しつつある人間の中に主により徐々に導入される真理は善にその起原を得ているのである。最初の期間では、善は内なる人の中に在るため、それはそれ自身を示しはしないが、真理は外なる人の中に在るため、それはそれ自身を示すのであり、そして内なるものが外なるものに働きかけるが、外なるものは内なるものに働きかけはしないため(6322番)、真理に働きかけて、それを自分自身のものとするものは善である、なぜなら善以外には何ものも真理を承認して、それを受け入れはしないからである。このことは再生しつつある人間の中に現存している真理の情愛〔真理に対する情愛〕から明らかである。その情愛そのものは善から発しているのである、なぜなら愛のものである情愛はそれ以外のいかような源泉からも発することは出来ないからである。しかしこの最初の期間内に、即ち、再生以前に受け入れられる真理は善の純粋な真理ではなくて、教義の真理である。なぜならこの時にはその人間はそれが真理であるか、否かを考えはしないで、それが教会の教義のものであるため、それを承認しており、彼がそれが真理であるか否かを考えないで、教会の教義のものであるため、それを承認しており、彼がそれが真理であるか、否かを考えないで、教会の教義からそれを承認している限り、それは彼のものではなく、それでそれは彼のものとはされないからである。これは再生しつつある人間の最初の状態である。

 

 

 

 

38.彼らはその水は苦いために飲むことは出来なかった・・・外套膜

 

 

天界の秘義8344

 

『モーセはイスラエルをスフ海から出発させた』は、彼らが地獄の領域を過ぎた後真理の神的なものの秩序に従って継続しているもの、を意味し『彼らはシュルの荒野へ行った』は、彼らが次に入れられた試練の状態を意味し、『彼は三日荒野の中を行ったが、水を見つけなかった』は、真理が枯渇し、遂には全く枯渇したことを意味し、『彼らはマラーに来た』は試練の状態を意味し、『その水は苦いために飲むことが出来なかった、それは苦かったからである』は、善の情愛が欠けていたため、真理は彼らには、不快なものに思われた、を意味し、『それで彼らはその名をマラーと呼んだ』は、この試練の状態と性質とを意味し、『民はモーセに向かってつぶやいて』は試練の苛烈さから来る悲哀を意味し、『言った、何を私らは飲もうか』は、真理はその真理に対して情愛が無いため、不快なものであったため、彼らはその真理に堪えることが出来なかった、を意味し、『それで彼はエホバに叫んだ』は悲哀から主に懇願することを意味し、『エホバは彼に一片の木を示された』は、主が善を吹き込まれた、を意味し、『で、彼はそれを水の中へ投げ入れた』は、その善をもって主は真理を感動された、そこから真理は快いものになった、を意味し、『そこにかれ〔エホバ〕はかれのために教令と審きとを定められた』は、その時啓示された秩序の真理を意味し、『そこにかれは彼らを試みられた』は、全般的に試練の方面で、を意味し、『かれは言われた』は教え諭すことを意味し、『もしあなたがあなたの神エホバの声を聞いて聞こうとするなら』は、主の戒めに対する信仰を意味し、『その目に正しいことを為そうとする』は、それに従った生活を意味し、『その戒めを聞こうとする』は、服従と教会の内的なものである信仰の善に従った生活とを意味し、『その教令をすべて守ろうとする』は教会の外的なものである信仰の真理に従った生活を意味し、『わたしがエジプト人に加えた病いは凡て、あなたには加えないであろう』は、分離した信仰と悪の生命の中にいる者らに属している悪から彼らは遠ざからなくてはならない、を意味し、『わたしはあなたを癒す者であるからである』は、主のみが悪から遠ざけられることを意味している。

 

 

 

天界の秘義8349

 

「が、彼らはその水は苦いために飲むことは出来なかった、それが苦かったためである」。これは、真理が彼らには、善の情愛が欠けていたため、不快なものに思われたことを意味していることは以下から明白である、即ち、『水を飲むこと』の意義は真理を受けて、これを善の下で適用する〔用いる〕ことであり(そのことについては、3069、5709番を参照)、『水』の意義は真理であり(そのことについては、すぐ前の8347番を参照)、『苦い』の意義は不快なものである(7854番)。ここから『彼らはその水は苦いために飲むことが出来なかった、それは苦かったためである』により、真理は彼らには不快なものに思われたことが意味されているのである。それが、善の情愛が欠けているために、を意味していることは、真理の歓喜はすべて善から発しているからである。真理の情愛はその起原を善から得ていることは、善は真理を愛し、真理は善を愛するためである、なぜならこの二つのものは結婚におけるように連結しているからである。たれでもその愛しており、目的としているものを教えられようと願っていることは知られている。善を愛する者、即ち、神を拝し、隣人に益を与えようと心から望んでいる者は、そこに導いて行くものを教えられることを、従って真理を教えられることを愛しており、このことから真理の情愛は善から来ていることを認めることが出来よう。

 

 

 

天界の秘義8349〔2〕

 

 悪い生活を送りながらも、真理を教えられようと願っている者も実際いるが、しかしこうした者には真理の情愛は無く、単に自己の栄誉のために、即ち、名声、名誉、または利得のために、教会の教義的な事柄を確認する情愛があるに過ぎない。真理の純粋な情愛は世における生命のために、また永遠の生命のために真のものを知ろうと欲することである。これらの者が、その者のもとに真理が枯渇し始める時試練に入れられるのであり、その知っている真理が不快なものに思われる時は、更に試練に入れられるのである。この試練は、善との交流が妨害されるという事実からその起原を得ている。この交流はその人間がその人間自身のものの中へ入るや否や妨害されるのである、なぜなら彼はそのことにより自己への愛、または世への愛の悪の中へ沈むからである。彼がこの状態から抜け出ると、真理は快いものとなるのである。このことが以下にその苦い水がその中に投げ込まれた木により癒されたことにより意味されているのである、なぜなら『木』により善が意味されているからである。

 

 

 

天界の秘義8352

 

「言った、私らは何を飲もうか」。これは、彼らが真理に対する情愛が何ら無かったという理由から真理は不快なものとなったために真理に堪えることが出来なかったことを意味していることは、『飲むこと』の意義から明白であり、それは真理を教えられて、これを受けることであり、またそれに感動することであり、従ってそれを己がものとすることであるが(3069、3168、3772、4017、4018番を参照)、ここではその真理に堪えないことであり、それは善に対する情愛が無いために、真理は不愉快なものになったという理由からであり、そのことは前に明らかにしたことに従って(8349番)、『水が苦かった』ことにより意味されているのである。この試練は、前には彼らに愉しいものであって、彼らの霊的な生命を、または天界の生命を作った真理が、今は彼らには、それに堪えることも出来ない程にも、不愉快なものに思われるため、彼らはつぶやき、また悲しむという事実から成っているのである。

 

 

 

天界の秘義8352〔2〕

 

 単に自然的な人間はこうした事柄が何らかの悲哀を生む事が出来ることを信じないであろう、なぜなら彼らは『真理が快かろうが、悪かろうが、それは自分に何の関わりがあろう。もしそれが快くないなら、それは捨ててしまったがよい』と考えるから。しかし霊的な人は非常に異なった気持ちを抱いている。真理を教えられ、己が魂に属し、かくて己が霊的な生命に属した物を明らかにされることが彼の生命の愉しさであり、それでそうしたものが枯渇すると、彼の霊的な生命は苦しみ、悩み、悲哀と心労とが続いて起ってくるのである。その理由は、善の情愛〔善に対する情愛〕が主から内なる人を通して絶えず流れ入り、外なる人の中に前に真理の情愛〔真理に対する情愛〕の歓喜を生んだところの、その善の情愛に一致したものを呼び出しているが、そうしたものが自己を、また世を求める愛の幾多の悪により―その悪をもまたその人間は前には歓ばしいものとして感じていたのであるが、そうした悪により―攻撃されると、そこに(その両方の)歓喜または情愛の争闘が起り、そこから不安が発生し、不安から悲哀と不満とが発生してくるということである。

 

 

 

天界の秘義8356

 

「すると水は美味しくなった」。これは、このことから諸真理は歓ばしいものになされたことを意味していることは以下から明白である、即ち、『美味しい』の意義は歓ばしいものであり―なぜなら霊的な意義では『美味しい』は歓喜と一つのものである生命の甘美を意味されているからである―『水』の意義は真理である(そのことについては、すぐ前の8355番を参照)。この間の実情は以下の如くである。人間が真理に感動することは善から発しているのである。なぜなら善と真理とは結婚と同じように連結しており、従って一方は他方を配偶者が配偶者を愛しているように愛しているからである。このことからまた善と真理との連結は聖言では『結婚』に譬えられており、そこから生まれてくる諸真理と諸善とは『息子、娘』と呼ばれている。この凡てから真理の情愛〔真理に対する情愛〕の歓喜はその原因を善以外のいかような源泉からも持ってこないことを認めることが出来よう。これはまた経験からも明白である、なぜなら生命の善の中にいる者たちは、即ち、神と隣人とを愛する者たちはまた信仰の諸真理を愛するからである。ここから善が流れ入って、受け入れられる限り、真理は歓ばしいものに思われるが、しかし善が流れ入らないと、すぐに、即ち、悪が支配して、善の流入を妨害し始めるとすぐに、真理に対する歓喜の欠如が感じられるのである。なぜなら真理と悪とは相互に他を斥け、相互に他に反感を持っているからである。この凡てから今や一片の木をその水に投げ込まねばならないと命じられた理由を、またその水がそこに投げ込まれたその一片の木により美味しくなった理由も認めることが出来よう。こうした事柄がそうしたことを意味していなかったなら、それは神的なものにより決して命じられはしなかったのである、なぜなら神的なもの〔神〕は一片の木を手段として用いなくてもその水を美味しくされることは出来たからである。

 

 

 

 

39.人間は聖言から信仰に属した諸真理と諸善とを探求しようとは殆ど願っていない

 

 

天界の秘義7502〔4〕

 

それが実情であることは何人も啓示によらなくては知ることは出来ないのである、なぜなら人間は他生に存在する事柄は啓示によらなくては知らないのであり、また人間は聖言から信仰に属した諸真理と諸善とを探求しようとは殆ど願っていないため(なぜなら人間は真理を真理自身のために、ましてや生命〔生活〕のためには、何ら愛していないからである)、それでこうした事柄は彼に啓示されていないからであるが、それでもそれは聖言の内意には示されているのである(しかもそれは連続したものと経過との各々の方面でも示されているのである)。それで教会の人間は聖言から真理を知ろうとする情愛を何ら持ってはおらず、ただ世的な理由から、自分自身の教会の教義的な事柄が真であるか、誤っているかを確認しようとする情愛しか持っていないため、彼は死後の状態については何事も全く知らないし、天界についても何事も知らないし、地獄についても何事も知らないし、人間のもとに何が天界を作るかを、また何が地獄を作るかを知りさえもしていないのである。否、人間は甚だしく無知であるため、たれでも天界へ入れられることが出来、或る者はその者がその者自身に僭取している力により、天界へ入れられることが出来、或る者は、自分はいかような生活を送っているにしても、主の慈悲により天界へ入れられることが出来ると、教えもし、信じもしていて、殆どだれ一人、天界は人間にはその者が世に生きている間に送る仁慈と信仰の生活〔生命〕により与えられ、この生命は存続することを知ってはいないのである。こうした事柄を言ったのは信仰のみを告白して、信仰の生活を顧みない教会のそうした人間の性質を明らかにするためである、なぜならこうした者が、ここの、また以下の記事のエジプト人により表象されている者らであるからである。

 

 

 

 

40.アフリカ人

 

 

霊界日記5517

 

私は少しく彼ら(アフリカ人)と主について話した。彼らは、自分たちは情報〔教えられること〕を求めており、真理を知ることを愛している、と言った。私は彼らに以下のことを話した、即ち、人間の形の下に一人の神を承認して、善良な生活を送った者たちは、教えられて、明るくされることが出来る者たちであるが、そのことはその者たちは真理を求める情愛の中にいるためである、なぜなら生命の善は真理を欲求するにまさって何ものも欲求しないからである、なぜならそれは善く生きる方法を知ろうと欲するからであり、そのためその者たちは教えられる時喜ぶのである、と。彼らはそのことを承認して、喜んだが、後で、私はまた、天界の教義から神的諸真理〔神の諸真理〕を教えられている非常に多くの霊たちと天使たちとがそこへ遣わされていることを聞いたのである

 

 

 

41.真理の善の中に、即ち、真理を愛する愛または情愛

 

天界の秘義4274

 

「するとそこで一人の男が彼と組打ちをした」。これは真理の方面の試練を意味していることは『組打ちすること』の意義から明白であり、それは試練である。試練そのものは組打ちまたは格闘以外の何ものでもない、なぜなら真理は悪霊らにより攻撃され、その人間と共にいる天使たちにより守られるからである。この格闘を人間が認識することが試練である(741、757、761、1661、3927、4249、4256番)。しかしいかような試練もその人間が真理の善の中に、即ち、真理を愛する愛または情愛の中にいない限り、起ることは出来ない。

 

 

 

 

 

42.愛は先ず真理に対する情愛を生じさせ、次にその知っているものを理解しようとする情愛を生じさせ、最後にその理解しているものを身体的な思考の中に見ようとする情愛を生じさせる

 

 

神の愛と知恵404

 

この凡てから今や、真理に対する情愛、真理の認識、思考の、この三つのものは愛から秩序をもって連続し、理解の中にのみ存在することが認められることが出来よう。何故なら愛が理解の中へ入ると―それは愛と理解との連結が行われるときなされるが―愛は先ず真理に対する情愛を生じさせ、次にその知っているものを理解しようとする情愛を生じさせ、最後にその理解しているものを身体的な思考の中に見ようとする情愛を生じさせるからである。なぜなら思考は内的な視覚以外の何物でもないからである。思考は自然的な心に属しているため、最初に明らかに示されるということは真であるが、しかし真理に対する情愛から発した真理の認識から来ている思考は最後に明らかに示され、この思考は知恵の思考であるが、しかし他は自然的な心の視覚を通して記憶から発している思考である。理解の中に存在しない愛または意志の凡ての働きは真理に対する情愛に関係しないで、善に対する情愛に関係している。