教会

 

 

真理に対する情愛

教会は主の身体個人は最小の教会

再生

 

 

 

1.教会

2.教会の最初のもの

3.教会の最初の根源的原理

4.聖言の理解によって教会となる

5.マホメット教は偶像崇拝を破壊するため起こされた

6.宗教改革

7.竜

8.神の国

9.地球の何処かに教会が存在しないなら、人類は天界と連結しなくなるため、存続することが出来ない

10.教義的なものであるものが教会を作るのでなく、仁慈がそれを作る

11.母

12.人間が教会となるのは真理の情愛[真理に対する情愛]から発しているため、真理の情愛と言うも、教会というも、それは同じ事

13.信仰から始まる教会、仁慈から始まる教会

14.教会(すなわち、教会の中にいる者たち)の誤謬と悪とはその中にいる者には現れていない

15.仁慈は教会の内なるものであり、かくて教会の本質的なもの

16.真理の善が人を教会であるようにするのである、彼に似た他の者と共になって全般的な教会を作る

17.人間は善と真理の中にいる時、その人間は教会であり

18.内なるもののみでなく外なるものも存在しない限り、教会は在り得ない

19.教会を斥ける者は、教会は天界に導く故、天界から自らを斥け、而して天界から閉め出される

20.羊の檻に入ることは、教会に入ることであり、また天界に入ることである。何故なら、教会は天界と一つであり、実にそれは天界を構成するからである。

21.現今基督教界には何等宗教が無いために、最早如何なる教会も無い

22.教義が生活の規定となっているという事実から教会となっている

23.天界と地上の教会は主の身体であり、その会員は主の中にあり、主は彼等の中に在す

24.個人は最小の教会

25.教会は地上の主の天界、王国

26.一つの教会に所属しないで、幾多の教会に所属した人間

27.心臓と肺臓の教会

28.霊的な善の中に、即ち、仁慈の善の中におらず、また霊的な諸真理の中に、即ち、信仰の諸真理の中にいない者は、教会の中に生まれていても、教会の者ではない

29.悔い改めは人間の中なる教会の第一の要件

 

 

 

 

1.教会

 

 

新しいエルサレムの教義246

 

 聖言が在り、主がそれによって知られ、かくて神的真理が啓示されている所には特に教会が存在している(3857、10671番)。しかし聖言が在り、主がそれによって知られている所に生まれた者が教会に属しているのではなく、聖言の諸真理により主により再生した者が、すなわち、仁慈の生活を送る者がそれに属している(6637、10143、10153、10578、10645、10829番)。教会に属している者または己が中に教会の在る者は真理のために真理を求める情愛の中にいる、即ち、彼らは真理をそれが真理であるために愛し、また自分がその中に生まれた教会の教義的なものは真であるか、否かを聖言によって検討する(5432、6047番)。もしそうでないなら各人に抱かれている真理は他の者から、またその生まれた地から来るであろう(6047番)。

主の教会は己が宗教上の主義に従って生きる全世界の凡ての者のもとに存在している(3263、6637、10756番)。何処にいるにしても、善に生き、一人の神を承認している者はすべて、主から受け入れられて、天界に入る、(それは)善は主から発し、主は善の中におられるため、善にいる者はすべて主を承認するからである(2589−2604、2861、2863、3263、4190、4197、6700、9256番)。

 

 

 

天界の秘義255

 

『女の裔[種、精]』は主に対する信仰を意味していることは、『女』の意義が教会であることから明らかであり、教会の『裔[種、精]』は信仰以外の何ものでもない、なぜなら教会が教会と呼ばれるのは主に対する信仰によるからである。マラキ書に、信仰は『神の裔[種、精]』と呼ばれている―

 

  エホバはあなたとあなたの若い折の妻の間に証をたてられた。霊の残りのものを持った者は一人もそのようなことはしなかった。神の裔[種、精]を求めて一人も。しかしあなたらの霊に心を配りなさい、彼があなたの若い折の妻に背くような振舞いをしないためである(2・14、15)。

 

 この記事では『若い折の妻』は古代教会と最古代教会であり、その『裔』を(また信仰を)予言者は語っているのである。イザヤ書にも亦、教会に言及して―

 

  わたしは渇いた者に水を注ぎ、乾いた所に洪水を注ごう。わたしはわたしの霊をあなたの裔にわたしの祝福をあなたの子孫に注ごう(44・3)。

 

  黙示録には―

 

  竜は女を怒って、その裔の残ったもの、即ち、神の戒めを守って、イエス・キリストの証を持っている者と戦おうとして行った(黙示録12・17)。

 

 ダビデの書には―

 

  わたしはわたしの選んだ者と契約を結んだ、わたしはわが僕ダビデに誓った、わたしは永遠に至る迄もあなたの裔を固くたてよう、わたしはその裔を永遠に存続させよう、その王座を諸天の日のようにしよう、その裔は永遠に存続し、その王座は陽のようにわたしの前に続くであろう(詩篇89・3、4、29、36)。

 

 そこでは『ダビデ』により主が、『王座』によりその王国が、『陽』により愛が、『裔[種、精]』により信仰が意味されている。   

 

 

 

 

天界の秘義1844

 

 現今人々は教会を信仰の単なる教義的なものから存在するものとして語り、そのことによって主の諸教会を区別してはいるが、人間が如何ような生活を送っているかは意に介しないのである、即ち、彼らが内的な憎悪を抱いているか、互に野獣のように他を引き裂いているか、互に盗み合っているか、他の者の名声、名誉、富を奪っているか、心で何であれ聖いものをことごとく否定しているかいないかを意に介していないのである。それでもこうした者のもとには教会は些かも存在していないのであって、教会は主を愛し、自分自身のように隣人を愛し、良心を持ち、今言ったような憎悪に反感を持っている者たちのもとにのみ存在しているのである。しかし前に記した者らの間ではこうした人間は他国者のようなものであって、あらん限りの誹謗と迫害とを以て扱われるか、それとも単純な卑しい、取るに足らないものとして見なされるかしているのである。それでこのことが『あなたの裔は地に他国者のようになるであろう』により意味されているのである。

 

 

 

天界の秘義2966[]

 

 この価格(贖いの価格)はまたそれが人間のもとに受け入れられることについても述べられ、人間のもとではそれは人間がそれを受け入れるに比例して大きくなっていることは人間のもとに教会を形作るものは主の神的なものであるという事実から明白である、なぜなら主御自身のものでないものは一つとして教会とは呼ばれないからである、なぜなら教会と呼ばれるものを形成するものは愛と仁慈とに属している善であり、また信仰に属している真理であるからである。善はことごとく主から発しており、真理もことごとく主から発していることは良く知られており、人間から発している善と真理とは善と真理ではない、このことから人間における贖いの価格は、彼がそれを受け入れるに比例して大きなものとなっていることが明らかである。

 

 

 

天界の秘義7396

 

それは地上にもまた存在しているが、しかしそれを構成している幾多の社会は、全世界に散在しており、主に対する愛と隣人に対する仁慈の中にいる者たちである。しかしこの散在している幾多の社会もまた、天界の諸々の社会のように、一人の人間を表象するように、主により共に集められているのである。これらの社会は教会の中に在るのみでなく、その外にも在り、共に集められて、主の教会と呼ばれ、それは全世界に散在して、全世界の善良な者から集められており、共同体とも呼ばれている。この共同体、即ち、この教会は諸天界の主の王国に連結した地上の主の王国であり、かくて主御自身に連結しているのである。

 

 

 

天界の秘義10760

 

仁慈と信仰の教義

 

人間のもとに天界を作るものはまた教会を作るのである。なぜなら教会は地上における主の天界であるからである。従って天界について前に言われたことから教会とは何であるかが明白である。

 

 

 

天界の秘義10761

 

 主が承認され、聖言が存在するところが教会と呼ばれている。なぜなら教会の本質的なものは主から発した主に対する愛であり、また主から発した主に対する信仰であり、聖言は人間が主から愛と信仰とを受け入れるためには、いかように生きなくてはならないかを教えているからである。

 

 

 

天界の秘義10762

 

 主の教会は内なるものであり、また外なるものである。即ち、それは愛から主の戒めを行なう者たちのもとでは内なるものであり―なぜならこれらの者は主を愛する者たちであるからである―またそれは信仰から主の戒めを行なう者たちのもとでは外なるものである。なぜならこれらの者は主を信じている者であるからである。

 

 

 

天界の秘義10763

 

 教会が存在するためには、聖言から発した教義がなくてはならない。なぜなら教義がなくては聖言は理解されないからであるが、しかし人間の中で教義のみが人間の中に教会を作るのではなく、それは教義に従った生活である。ここから信仰のみが教会を作るのではなくて、仁慈である信仰の生活がそれを作るのである。

 

 

 

天界の秘義10764

 

 教会の純正な教義は仁慈の教義と同時に信仰の教義であり、仁慈の教義を欠如した信仰の教義ではない。なぜなら仁慈の教義と同時に信仰の教義は生命の教義であるが、しかしそれは仁慈の教義を欠いた信仰の教義ではないからである。

 

 

 

天界の秘義10765

 

教会の外側にいるものの、一人の神を承認し、隣人に対する一種の仁慈の中にその者たちの宗教に従って生きている者たちは教会に属した者たちと交わっているのである。なぜなら一人の神を信じて、正しく生きている者は一人として罪に定められはしないからである。ここから主の教会は主が承認され、聖言が存在するところに特に存在しているものの、それは全世界の凡ゆる所に存在していることが明白である。

 

 

 

天界の秘義10766

 

 たれでも、その者の中に教会が存在しているなら救われるのである。しかしたれであれ、その者の中に教会が存在しないなら罪に定められるのである。

 

 

 

神の摂理328(イ)

 

何人も神を承認し、良い生活を送るという教会の二つの普遍的なものの中にいない限り、天界へ入ることは出来ないからである。

 

 

 

 

2.教会の最初のもの

 

 

天界の秘義6879

 

なぜなら教会の最初のものは神が存在されて、その方を拝さなくてはならないということを知ることであるから。知らなくてはならないその最初の性質は、神は宇宙を創造されて、創造された宇宙は神から存続しているということである。

 

 

 

天界の秘義6882

 

最初の教訓は、万物の存在の根源である神を承認しなくてはならないということであったが、第二の教訓は、神から発している神的真理を受け入れなくてはならないということである。

 

 

 

 

3.教会の最初の根源的原理

 

 

新しいエルサレムの教義296

 

教会の最初の根源的な原理は、その教会の神を知り、承認することである。なぜならその知識と承認がなくては連結はなく、かくて教会の内には主を承認しなくては、それは全くないからである。このことを主はヨハネ伝で教えられている―

 

子を信じる者は永遠の生命を得るが、しかし子を信じない者は生命を見ない、神の怒りがそのもとに止まっている(3・36)。

他のところには―

 

あなたらはわたしが在る[存在する者である]ことを信じないなら、自分の罪の中に死ぬであろう(8・24)。

 

 

 

新エルサレムの教義297

 

 主の中に三一性の在ること、即ち、神的なものそれ自身と神的な人間的なものと発出している神的なものが在ることは天界から来ているアルカナ〔秘儀〕であり、(それは)将来聖いエルサレムの中に留まる者たちのために存在している。

 

 

 

スウェーデンボルグ/アタナシウス信条についてP60

 

 以下のことが言われている、すなわち、教会の本質的なものはその神を知り、認めることであり、この主要な本質的なものが無くては神とのいかような連結もなく、かくて天界と永遠の生命とは存在しないのである。その理由は以下のものである、即ち、霊界においては思考と意志とは、注視されて愛される者と連結するのであり、その注視され、愛される者はその方向に身を向けるのであり、その時またその人間に属している凡ゆるものも自らを向けるのである。それ故天界は凡て主の方に向いているのである。(その連結については「天界と地獄」141−153を参照。思考に従って、また愛に従って自らを向けることについては、また、その向くことが主に向かって向くことであるときは、明るく[真理を]示されることに関わる経験については「天界と地獄」を参照されたい)。

 

人間が身を向けることとそこから[真理を]明るく示されることについては他の多くのアルカナ[秘義]が在るのである。凡ゆる者は、不明確な状態にいる時、身を向ける社会を得ており、彼らがたれかを考えている時、その者がその場に現れてくるのであり、愛している者との連結が起こるのであり、他の神々を承認している者は色々な方向に向くのであり、大部分の者は天界の頂上に身を向けるが、そこからは何処にも身を向けることは出来ず、それで主を承認しない者らは天界の天使たちと共にいることは出来ないのである。

 

 

 

 

4.聖言の理解によって教会となる

 

 

啓示による黙示録解説297

 

教会は聖言から発して、それはその聖言に対する理解と同質のものになっていることは、「聖書にかかわる新しいエルサレムの教義」(76−79番)に見ることが出来よう。

 

 

 

聖書76

 

教会は聖言から発していることは疑いを容れない、なぜなら聖言は神的真理そのものであり(1−4)、教会の教義は聖言から発しており(50−61)、聖言を通して主と連結することが出来るからである(62−69)。しかし聖言の理解[聖言を理解すること]が教会を作るものであるか、否かについては疑いが起こるかもしれない。なぜなら自分たちは聖言を持っており、それを読んでおり、またはそれを説教者から聞いていて、多少その文字の意義を知っているため、自分たちは教会に属していると信じている者らがいるからであるが、それでも聖言のそのことは、またはあのことはいかように理解しなくてはならないかを彼らは知っていないのであって、その中には(そうしたこと)を殆ど意に介しない者もいるのである。それで教会を作るものは聖言ではなくて、それを理解することであり、教会内にいる者たちの間の聖言に対する理解により、教会そのものも左右されることを証明しよう。その証明とは以下のものである。

 

 

 

聖書77

 

 聖言は人間の中の聖言に対する理解に従って、即ち、聖言が理解されるままに聖言となっている。もしそれが理解されないなら、聖言は実際聖言と呼ばれはするが、それはその人間のもとでは聖言ではない。聖言はそれに対する理解に従って真理となっている。なぜならそれは誤謬化されるかもしれないため、真理ではないかもしれないからである。聖言はそれに対する理解に従って霊であり、生命である。なぜならその文字は、もし理解されないなら、死んでいるから。そして人間は聖言を理解するに従って真理と生命とを持つように、それに従って信仰と愛とを持つのである。なぜなら真理は信仰に属し、愛は生命に属しているから。さて教会は信仰と愛とによって、また信仰と愛とに従って存在するため、教会は聖言に対する理解を通して、またその理解に従って教会であることが生まれてくる。即ち、もし(それが)純粋な諸真理の中にいるならば高貴な教会であり、もし純粋な諸真理の中にいないなら卑賤な教会であり、もし誤謬化された真理の中にいるなら破壊された教会である。

 

 

 

聖書78

 

 更に、主が人間のもとに現存されて、人間に連結されるのは、聖言によるのである。なぜなら主は聖言であられ、その中でその人間と謂わば話されるからである。主はまた、聖言も同じく神的真理そのものであるように、神的真理そのものであられる。このことから、人間が聖言を理解するのに従って、主はその人間のもとに現存されると同時に、その人間と連結されることが明白である。なぜならその人間は理解に従って真理とそこから派生する信仰とを得、また愛とそこから派生する生命とを得るからである。主は実に人間のもとに聖言を読むことを通して現存されてはいるが、しかし聖言から真理を理解することを通して、またその理解に従って人間と連結されるのであり、そして主が人間と連結されるに比例して、教会はその人間の中に存在するのである。

教会は人間の中に在るのであって、人間の外にある教会は己が中に教会を持った幾多の人間のもとにある教会である。このことが神の国は何時来ましょうかと尋ねたパリサイ人に答えられた主の御言葉の意味である―

神の国はあなたたちの中にある(ルカ17・21)

ここでは「神の国」は主を意味し、主から教会を意味している。

 

 

 

聖書79

 

予言者の書の中で教会が取り扱われている多くの所で、聖言の理解が取り扱われており、聖言が正しく理解されている所以外には教会は無く、教会内にいる者たちにおける聖言の理解のままに教会が左右されることが教えられている。また予言者の書の多くの所にイスラエルとユダヤ民族のもとで教会は、彼らが聖言の意義を誤謬化したことによって、またはその理解によって全く破壊され、絶滅されたものとして記されている。なぜならそれ以外のものは何一つ教会を破壊しないからである。

 

 

 

聖書79[]

 

聖言に対する理解は、その真のものも、誤ったものも、予言者の書には、特にホゼア書には、『エフライム』により記されている。なぜなら聖言には『エフライム』は教会における聖言の理解を意味するからである。それで聖言の理解が教会を作るため、エフライムは

 

いとしい息子、歓ばれる子供(エレミヤ31・20)

長子(9節)

エホバの頭の力(詩篇60・7,108・8)

力あるもの(ゼカリア10・7)

弓で満ちている(9・13)

 

と呼ばれ、エフライムの息子たちは、

 

武具をつけ、弓を射る者(詩篇78・9)

 

と呼ばれている。

 

『弓』は聖言から発して誤謬と戦う教義を意味している。それでまた、

エフライムはイスラエルの右手の方へ渡されて、祝福された。そしてまたルベンの代わりに受け入れられた(創世記48・5、11−15)

それゆえ、

エフライムは、その兄弟マナセとともに(その父ヨセフの名の下に)、モーセにより、モーセがイスラエルの子孫を祝福したとき、凡ての者よりもたたえられた(申命記3・13−17)。

 

 

 

 

聖書79[]

 

聖言に対する理解が破壊された時の教会の性質もまた予言者の書の中に、特に、ホゼヤ書に、以下の記事に明白なように、『エフライム』により記されている―

 

イスラエルとエフライムは荒れすたれるであろう、エフライムは審判により圧せられ、砕かれる。わたしはエフライムに対し獅子のようになり、かき裂いて、立ち去ろう、わたしは連れ去ろう、が、たれ一人救う者はいないであろう(ホゼア5・5、9,11−14)。

 

ああ、エフライムよ、わたしはあなたに何を為そうか、なぜならあなたの聖さは夜明けの雲のようであり、朝降りる露のように、消え去るであろうから(6・4)。

 

彼らはエホバの地に住まないであろう、が、エフライムはエジプトに帰り、不潔なものをアッシリアで食べるであろう(9・3)。

 

 

 

聖書79[]

 

『エホバの地』は教会であり、エジプトは自然的な人の記憶知であり、『アッシリア』はそこから派生する理論であり、この二つのものにより聖言は誤って理解されるため、それで『エフライムはエジプトに帰って、アッシリアで不潔なものを食べるであろう』と言われているのである。

 

 

 

聖書79[]

 

さらに―

 

エフライムは風を食べ、東風の後からついて行く、日々彼は虚偽と荒廃とを積み重ねる。彼はアッシリアと契約を結び、油がエジプトへ運ばれる(12・1)。

『風を食べる』『東風について行く』『虚偽と荒廃とを積み重ねる』は、真理を誤謬化し、かくして教会を破壊することである。

 

 

 

聖書79[]

 

それに似たことがまた以下の記事のエフライムの『淫行』により意味されている(なぜなら『淫行』は聖言を、すなわち、その純粋な真理を誤って理解することを意味するからである)―

 

わたしはエフライムが全く淫行を犯し、イスラエルが汚れたことを知っている(ホゼヤ5・3)。

イスラエルの家にわたしは醜いものを見た、そこでエフライムは淫行を犯し、イスラエルは汚された(6・10)。

 

『イスラエル』は教会そのものであり、『エフライム』は聖言を理解することであって、その理解から、またその理解に従って教会は存在しており、それで『エフライムは淫行を犯し、イスラエルは汚された』と言われている。

 

 

 

天界の秘義709

 

 理解の事柄または信仰の真理が取り扱われている主題である時は、『神』の名が用いられているが、しかし意志の事柄または愛の善が取り扱われている時は『エホバ』の名が用いられている。なぜなら理解または信仰の事柄は教会を構成しないが、愛に属した意志の事柄がそれを構成するからである。エホバは愛と仁慈の中におられるが、信仰の中には、それが愛の信仰または仁慈の信仰でない限りおられないのである。

 

 

 

 

5.マホメット教は偶像崇拝を破壊するため起こされた

 

 

スウェーデンボルグ/神の摂理255(ロ)

 

マホメット教は多くの民族の偶像礼拝を破壊するために主の神的摂理により起こされたことを更に詳細に示すために、この主題をある順序をたてて説明しなくてはならない。

 

 

 

 

6.宗教改革

 

 

スウェーデンボルグ/「主の聖言」42

 

 それで聖言がローマカトリック教徒により斥けられると、主の神的摂理により宗教改革が行なわれ

 

 

 

 

7.竜

 

 

真の基督教182

 

竜とは現代の教会の信仰を保持する者たちの凡てを意味している。

 

 

 

 

8.神の国

 

 

真の基督教572

 

神の国は天界と教会とを意味し、教会は地上における神の国である。

 

 

 

 

9.地球の何処かに教会が存在しないなら、人類は天界と連結しなくなるため、存続することができない

 

 

天界の秘義637

 

 『わたしは彼らを地と共に滅ぼそう』は教会と共に人類が滅びるであろうということを意味しているのは以下のためである、即ち、もし主の教会が仮にも全く地上に消滅してしまうならば、人類は決して生存することは出来ないで、ことごとく死滅してしまうのである。教会は前に言ったように心臓のようなものであり、心臓が生きている限り、近くの内臓と各々の器官は生きることが出来るが、しかし心臓が死ぬとすぐに、それらはことごとく死んでしまうのである。地上の主の教会は心臓のようなものであり、そこから人類は、人類の中で教会の外にある部分でさえも、生命を得ているのである。その理由はたれにも知られていないが、しかしそのことが多少なりとも知られるために以下のことを述べてよいであろう、すなわち地上の全人類は色々な部分を持った一つの身体のようなものであって、その中に教会は心臓のようなものとなっており、そして主が天界と霊たちの世界を通して、心臓に結合するように、結合し給うことが出来る教会が存在しない限り、分離が起こり、そしてもし人類が主から分離するなら、それは直ちに死滅してしまうのである。このことが人類が最初に創造されて以来常に何らかの教会が存在していて、教会が死滅し始めるといっても、依然それはたれかのもとに存続した理由となっている。

 

 

 

天界の秘義637[2]

 

このことがまた主が世に来られた理由であった。もし主がその神的慈悲の中に来られなかったならば、地上の全人類は滅んでしまったであろう、なぜなら教会はその時その最後の末端に達していて、いかような善も真理も殆ど生き残ってはいなかったからである。人類は天界と霊たちの世界を通して主と連結していない限り生きることが出来ない理由は、人間はそれ自身において認められるならば、獣よりも卑しいということである。もし彼は彼自身の自由に委ねられるならば、彼は彼自身と凡ゆる物の破滅へ突っ込むであろう、なぜなら彼は彼自身と凡ゆる物の破壊をもたらすもの以外の何物をも欲していないからである。人間の秩序は人間は自分自身のように他の者を愛さなければならないということでなくてはならない。しかし今は人間各々は自分自身を他の者よりも愛しかくて凡ての者を憎んでいるのである。しかし獣の場合は全く異なっており、その秩序はそれに従って獣が生きているものである。かくて獣はその獣がその中に置かれている秩序に応じて生きているが、人間は全くその秩序に反して生きているのである。それで主が人間を憐れみ、天使たちを通して人間を御自身に連結させられないということが仮にもあれば、人間は一瞬も生きることが出来ないのである、しかしこのことを人間は知ってはいない。

 

 

 

天界の秘義2323

 

 『夕』は巡視[尋問]のときを意味していることは『夕』の意義から明白である。教会の状態は聖言では一年の季節と一日の時間に譬えられ、一年の季節に譬えられているのは、その夏、秋、冬、春に譬えられているからであり、一日の時間に譬えられているのは、その昼、夕、夜、朝に譬えられているからである、なぜならその二つのものの事態は類似しているからである。『夕』と呼ばれる教会の状態は、最早いかような仁慈も無い時であり、従っていかような信仰も存在しなくなり始める時であり、かくて教会が存在しなくなりつつある時である、これが『夜』がその後についている『夕』である(22番参照)。また仁慈が輝き出る、従って信仰もまた輝き出て、かくて新しい教会が起りつつある『夕』もまたあるが、この夕は朝の前の薄明り[薄明]である(883番参照)。かくて『夕』には二つの意義があるのである、なぜなら教会が存在しなくなりつつある時、新しい教会が起りつつあり、しかもそのことが同時に行われるように主により定められている[配慮されている]からである、なぜなら地球の何処かに教会が存在しないなら、人類は(前の468、637、931、2054番に示されたように)天界と連結しなくなるため、存続することが出来ないからである。

 

 

 

天界の秘義2853[]

 

 地上における主の教会の場合も同一であり、地では教会は心臓と肺臓のようなものとなっているが、他方教会の外にいる者たちは心臓と肺臓から支えられて、生きている身体の幾多の部分に相応しているのである。このことから、身体は心臓と肺臓が無くては存続することが出来ないように、地上の何処かに教会が無くては人類は存続することが出来ないことが明らかである(468、637、931、2054番参照)。そうした原因から、何らかの教会が終結してしまったときは常に、即ち、いかような仁慈も最早存在しないため、教会が教会でなくなってしまった時は常に、主の摂理の下に新しい教会が起されるのであり、例えば『人間(マン)』と呼ばれた最古代教会が滅んだ時、『ノア』と呼ばれて、洪水後に存在した古代教会である新しい教会が主により創造されたのであり、これが堕落して教会で無くなった時、表象的なユダヤとイスラエル教会が設立され、これが全く消滅してしまった時、主が世に来られて、新しい教会を設立されたのであるが、それは教会を通して天界が人類と連結するためであったのである。このことがまた『あなたの裔により地の凡ゆる国民は祝福されるでしょう』により意味されていることである。

 

 

 

 

10.教義的なものであるものが教会を作るのでなく、仁慈がそれを作る

 

 

天界の秘義3324[10]

 

教義的なものであるものが教会を作るのでなく、仁慈がそれを作るのである(809、916、1798、1799、1834、1844番)。

 

 

 

天界の秘義3324[10]

 

教会は仁慈から発しており、分離した信仰からは発しない(916番)。

 

 

 

天界の秘義3324[10]

 

世界にあまねく存在している主の教会は凡ゆる所で真理の方面では相違しているが、しかし仁慈を通して一つのものとなっている(3267番)。例え教会員は祭儀のまた教義の事柄については相違しているにしても、もし凡ての者が仁慈を持っているならば、教会は一つのものである(809、1285、1316、1798、1799、1834、1844番)。もし凡ての者が信仰ではなく、仁慈を教会の本質的なものであるものとして考えるなら、多くのものから一つの教会が生れるであろう(2982番)。

 

 

 

天界の秘義7231

 

取扱われている主題はイスラエルの子孫により表象されている霊的な教会であり、その教会は人間のもとに(先ず)知識における、次には理解における信仰により初まり、その信仰がルベンとその息子たちにより表象されており、その後その教会が人間のもとに成長すると、この信仰は意志へ入り、意志から行為へ入り、かくてその人間は信仰に属した真理を意志し〔欲し〕、それを行うのであるが、それは聖言にそのように命じられているためである、この信仰の状態がシメオンにより表象されており、最後に、新しくなった彼の意志の中に、仁慈の情愛が認められ、かくて彼は前のように信仰からではなく、隣人に対する仁慈から善いことを為そうと意志する〔欲する〕ようになるのである、なぜなら人間がそこまで再生すると、その時は霊的な教会の人間になるからである、なぜなら教会はその時彼の中に存在するからである。そうした情愛を持ったこの仁慈はレビにより、表象されるのである。それでここからルベンとまたシメオンの氏族が列挙され、最後にレビの氏族が列挙されており、彼により前に言ったように教会の本質そのものである仁慈が表象されているのである。

 

 

 

結婚愛119

 

 教会は母と呼ばれていることは以下の記事に現れている―

 

 エホバは言われた、あなたらの母と論じよ、彼女はわたしの妻ではない、わたしもその夫ではない(ホセア2・2)。

 あなたはその夫を嫌っているあなたの母の娘である(エゼキエル16・45)。

 わたしが出したあなたの母の離縁状はどこに在るか(イザヤ50・1)。

 あなたの母は水の傍に植えられて、果を結ぶぶどうのようである(エゼキエル書19・10)。

 

 これらの事はユダヤ教会について言われたのである。

 

 イエスはその手を弟子たちに伸ばして言われた、わたしの母、わたしの兄弟は神の言を聞いて、これを行う者である(ルカ8・21、マタイ12・48、49、50、マルコ3・33−35)。

 

 主の弟子たちによって教会が意味されている。

 

 イエスの十字架の傍に、かれの母が立っていたが、イエスはその母とその愛された弟子が傍に立っているのを見て、その母に言われた。女よ、あなたの子を見なさい。また弟子に言われた。あなたの母を見なさい。それでこの時からその弟子は彼女を自分の家へ迎えた(ヨハネ19・25−27)。

 

 このことによって主はマリアを母としては認められないで、教会として認められたことが意味されている。その理由から主は彼女を女、また弟子の母と呼ばれたのである。主が彼女をこの弟子の、またはヨハネの母と呼ばれたのは、ヨハネが教会の仁慈の諸々の善を表象したためである。仁慈の善は教会の実体そのものである。それで彼は彼女を彼のもとへ迎えたと言われているのである。ぺテロは真理と信仰とを、ヤコブは仁慈を、ヨハネは仁慈の諸々の善を表象したことは「啓示された黙示録」の5、6、790、798、879に見ることが出来よう。十二弟子は合して教会の凡ゆる物を表象したことは、233、790、903、915に見ることが出来よう。

 

 

 

 

11.母

 

 

天界の秘義3583

 

「あなたの母の息子たちにあなたに身をかがめさせなさい」。これは真理に対する情愛の他の凡てのものを治める(主権)を意味していることは以下から明白である、すなわち、『息子』の意義もまた真理であり(489、491、533、1147、2623、3373番を参照)、『母』の意義は霊的な真理の情愛[霊的な真理に対する情愛]であり、かくて教会である、なぜなら教会は真理から、また真理に対する情愛から教会であり、また教会と呼ばれているからである(289、2691、2717番)

 

 

 

天界の秘義4257

 

「かれがやって来て、わたしを、息子の上に母を打ちはしないかと」。これはそれがまさに死滅しようとしていることを意味していることは、説明を要しないで明白である。(中略)なぜなら『母』により彼らは教会を理解し(289、2691、2717番を参照)、『息子』により教会のものである真理を理解したからである(489、491、533、1147、2623、3373番)。ここから『息子たちの上に母を打つこと』は全く死滅することを意味しているのである。人間もまた、人間の中に教会と教会とに属しているものとが死滅すると、すなわち、『母』により本来意味されていて、人間の中に教会を生み出すところの真理に対する情愛が破壊されると、全く死滅してしまうのである。

 

 

 

 

12.人間が教会となるのは真理の情愛[真理に対する情愛]から発しているため、真理の情愛と言うも、教会というも、それは同じ事

 

 

天界の秘義4427

 

「デナは出て行った」。これは信仰の凡ゆる事柄の情愛とそこから派生して教会を意味していることは、デナの表象から明白であり、それは凡ゆる真理の情愛[凡ゆる真理に対する情愛]とそこから派生した教会である(3963、3964番を参照)、なぜならヤコブの十二人の息子たちは信仰の凡ゆる事柄を表象し、かくて教会の凡ゆる事柄を表象したのであり(2129、2130、3858、3926、3939番)、それでデナはレアと下婢たちとの生んだヤコブの十人の息子たちの後に生まれたため、それらのものに対する情愛を意味し、それゆえ教会を意味しているからである。なぜなら教会は真理の情愛[真理に対する情愛]から発しており、それで人間が教会となるのは真理の情愛[真理に対する情愛]から発しているため、真理の情愛と言うも、教会というも、それは同じ事であるからである。

 

 

 

天界の秘義4449

 

なぜなら教会は真理の情愛から教会であって、このことがここに『新しい教会』により意味されているからである

 

 

 

 

13.信仰から始まる教会、仁慈から始まる教会

 

 

天界の秘義4672[2]

 

信仰から始まる教会はことごとくこのようなものになるが、仁慈から始まる教会は非常に異なっている。信仰から始まる教会は理解以外にはそれを導びいてくれるものを何一つ持ってはおらず、理解は人間の中の遺伝的なものを除いては、即ち、自己と世を求める愛を除いては何ものも持ってはいないのである。これらのものは理解を説得して聖言からこれらのものを確認するものを探求させて、確認させはしないものを説明し去ってしまうのである。仁慈から始まる教会はそうではない、すなわち善がそれを導くものであって、善の中には主がおられるのである、なぜなら主と信仰との間に仁慈と愛との善が介在しており、その介在が無いなら霊的な交流は在り得ないからである、なぜなら介在するもの[媒介するもの]が無くては流入は存在しないからである。もし悪が善に代っているなら、それは主を追い払ってしまい、主のものである事柄をすべて、かくて信仰のものである凡ゆるものを斥けるか、歪めるかしてしまうのである、なぜなら信仰は善を通して主から発しているからである。

 

 

 

 

14.教会(即ち、教会の中にいる者たち)の誤謬と悪とはその中にいる者には現れていない

 

 

天界の秘義4674[2]

 

 これらの事柄の実情は以下のごとくである、すなわち、教会(すなわち、教会の中にいる者たち)の誤謬と悪とはその中にいる者には現れていないのである、なぜなら誤謬の原理のもやが真理を完全に隠蔽し、悪の生命が真理を消滅させてしまうため、誤謬は誤謬からは見られはしないし、悪も悪から見られはしないからである。誤謬の原理も悪の生命も、誤謬が真理であり、真理が誤謬であり、善が悪であり、悪が善であるという外観を生み出すのである。それがそうであることは色々な経験から明白である。しかし教会は、または教会の中にいる者たちは、天界ではそれとは全く異なって現れている、なぜなら、天界では主から発している神的真理が在り、天界の神的真理は光であって、この光の中には彼らの性質が明白になるからである。なぜなら人間各々はその霊魂または霊の方面では天使の社会か、または悪魔の社会か、その何れかの社会の中にいるからである。人間の思考はそこに存在しているが、しかしその者の言葉と行為とは人間の間に在って人間と種々に交わっているのである。

 

 

 

 

15.仁慈は教会の内なるものであり、かくて教会の本質的なもの

 

 

天界の秘義4899[3]

 

仁慈は教会の内なるものであり、かくて教会の本質的なもの

 

 

 

 

16.真理の善が人を教会であるようにするのである、彼に似た他の者と共になって全般的な教会を作る

 

 

天界の秘義5826

 

 もし教会のものである霊的な善が存在するなら、内なる善と真理とが存在するというこのことについては、実情は以下の如くである。イスラエルが表象している霊的な善は真理の善であり、即ち、意志における、また行為における真理である。この真理が、またはこの真理の善が人を教会であるようにするのである。真理が意志の中に植え付けられると(そのことはその人間が真理に従って生きようとの目的から真理に感動するという事実から認められるのであるが)、そのとき内なる善と真理とが存在するのである。人間がこの善と真理の中にいると、その時主の王国は彼の中に在り、従って彼は教会であり、彼に似た他の者と共になって全般的な教会を作るのである。このことから教会が教会であるためには霊的な善が、即ち、真理の善が存在しなくてはならないのであり、決して真理のみであってはならないことを認めることが出来よう、が、真理のみから現今では教会は教会と呼ばれており、教会は互いに他から区別されているのである。誰でもその者自身の中に、真理が生命[生活]を目的としないなら、それに何の意味があるか否かを考えてみられよ。その目的が無いなら教義的なものは何であろうか。十誡の教えはそれに従った生活が無くては何であろうか。なぜならもしたれかがその教えとその意味の凡てを完全に知っているにしても、それに反した生活を送るなら、それに何の益があろうか。それには一体何の効果があろうか。或る者に対しては、地獄に投げ込まれるという効果があるにはあるが。聖言から発した信仰の教義的なものの場合も同一である、それは基督教生活の教訓である、なぜならそれらは霊的な律法であるからである。これもまた、それが生命のものとならない限り、何ものにも寄与はしないのである。自分の生命そのものに入ってくるものを除いては、何か有意義なものであるものが自分の中に在るか否かを、また、生命である人間の生命がその意志以外の何処に在るか否かを自分自身の中で考えてみられよ。

 

 

 

天界の秘義6113

 

教会によりここでは人間のもとにある教会に属したものが意味されているのである。なぜなら人間は善と真理の中にいる時、その人間は教会であり、こうした人間の集まったものが全般的な教会を作るからである。

 

 

 

天界の秘義6637〔2〕

 

更に以下のことを知られたい、即ち、仁慈の、また信仰の善の中に生きている者はことごとく主の教会と王国であって、そこから神の神殿、また家と呼ばれているのである。全般的な教会は個別的な教会である者たちから―その者たちはいかほど遠く離れていても、その者たちから―成っているのである。それ故このことがここに、また以下の記事に『イスラエルの息子たち』により意味されている教会である。

 

 

 

天界の秘義8938

 

そして主の教会は主から仁慈と信仰とを受ける状態の中にいる凡ゆる者のもとに存在しているのである、なぜなら人間は人間自身が教会であり、その中に教会が存在している幾人かの者〔多数の者〕が全般的な教会を作るからである。

 

 

 

聖書78

 

教会は人間の中に在るのであって、人間の外にある教会は己が中に教会を持った幾多の人間のもとにある教会である。このことが神の国は何時来ましょうかと尋ねたパリサイ人に答えられた主の御言葉の意味である―

 

神の国はあなたたちの中にある(ルカ17・21)

 

ここでは「神の国」は主を意味し、主から教会を意味している。

 

 

 

 

17.人間は善と真理の中にいる時、その人間は教会であり

 

 

天界の秘義6113

 

教会によりここでは人間のもとにある教会に属したものが意味されているのである。なぜなら人間は善と真理の中にいる時、その人間は教会であり、こうした人間の集まったものが全般的な教会を作るからである。

 

 

 

 

18.内なるもののみでなく外なるものも存在しない限り、教会は在り得ない

 

 

天界の秘義1083[3]

 

古代教会は内なるものについては基督教会からは些かも相違しなかったのであり、ただ外なるものについてのみ相違していたのである。仁慈から発した主礼拝は、外なるものはいかほど変化していようとも、決して相違することは出来ない。そしてすでに言ったように、内なるもののみでなく外なるものも存在しない限り、教会は在り得ないからには、内なるものが何か外なるものの中に終結しない限り、外なるものの無い内なるものは不確定なものとなるであろう。なぜなら人間は大半内なる人の何であるかを、また何が内なる人に属しているかを知っていない底のものであり、それ故外なる礼拝が無い限り、彼は聖いものについては何であれ如何ようなことも知らないからである。こうした人間が仁慈とそこから派生している良心とを持つ時、彼らは外なる礼拝の中に彼ら自身の内にある内なる礼拝を持つのである。なぜなら主は彼らの中に、すなわち仁慈の中に、また良心の中に働かれ、彼らの礼拝の凡てに内なるものを得させられるからである。仁慈を持っていない者は、また仁慈から生まれてくる良心を持っていない者はそうではない。彼らは外なるものにおける礼拝を持ってはいようが、しかし彼らは仁慈から分離した信仰を持っているように、内なる礼拝から分離した外なるものにおける礼拝を持っているのである。こうした礼拝は『カナン』であり、こうした信仰は『ハム』と呼ばれている。そしてこの礼拝は分離した信仰から発しているため、ハムは『カナンの父』と呼ばれている。

 

 

 

 

19.教会を斥ける者は、教会は天界に導く故、天界から自らを斥け、而して天界から閉め出される

 

 

真の基督教384(2)

 

基督教国にあっても主と聖言を斥ける者は、たとえ道徳的な生活を送り、信仰に就いてさえ合理的に語り、教え、また書くにしても、何等信仰を持たない。

 これは前に述べた凡てから推論される。何故なら、真の唯一の信仰は主に対する、また主から発する信仰であり、若し、そうでないならば、それは霊的な信仰ではなく、自然的な信仰であり、而して単に自然的な信仰は信仰の本質を欠如していることが示されたからである。更に、信仰は聖言から由来し、他の如何なる起源をも持つことは出来ない。何故なら、聖言は主から来り、主は聖言の中にいまし、それ故、主は自らは聖言である(ヨハネ1・1、2)と語り給うからである。かくて、主と聖言とは一である故、聖言を斥ける者は主をもまた斥け、更に主か或は聖言かその何れかを斥ける者は、主からその聖言によって存在する教会をも斥け、更に教会を斥ける者は、教会は天界に導く故、天界から自らを斥け、而して天界から閉め出される者は呪われた者の間にあり、何等信仰を持たないことが推論される。

 

 

 

 

20.羊の檻に入ることは、教会に入ることであり、また天界に入ることである。何故なら、教会は天界と一つであり、実にそれは天界を構成するからである。

 

 

真の基督教380(2)

 

「似非信仰は唯一の真の信仰より離れ、「他の途によって攀じ登り」主を神として認めず、単なる人間として認める者等によって抱かれる。」

 唯一の、真の信仰から離れる凡ゆる信仰は贋物である。何故なら、唯一の真の信仰のみが存在し、それから離れるものは凡て誤ったものであるからである、主と教会との結婚は教会の凡ゆる善と真理を生み、それ故凡ての純粋な仁慈と信仰とを生むのである。しかし、その結婚から発しない凡ゆる仁慈と信仰とは一夫多妻あるいは、姦通の不法の子孫であって、正当に生まれたものではない。主を認めしかも虚偽と異端とを採用する凡ゆる信仰は一夫多妻の子孫であり、一つの教会の三人の主を認める凡ゆる信仰は姦通の子である。何故ならそれは娼婦の子のようなものであるか、あるいは、一人の夫に嫁ぎながらも他の二人の者と夜を過ごし、その各々を交互に己が夫と呼ぶ女の子のようなものであり、それ故かかる信仰は似非信仰と呼ばれる。主は多くの箇所でかかる信仰を告白する者を姦通者と呼び給い、ヨハネ伝の如く、彼らはまた盗人、強盗によって意味されている。「まことに我汝らに告ぐ、羊の檻に門より入らずして、他より越ゆる者は盗人なり、強盗なり。我は門なり。我によりて入る者は、救はるべし」(ヨハネ10・1、9)。羊の檻に入ることは、教会に入ることであり、また天界に入ることである。何故なら、教会は天界と一つであり、実にそれは天界を構成するからである。それ故、主は教会の花婿であり夫である如く、天界の花婿であり夫である。信仰の合法性あるいは非合法性は上述した三つの指示、即ち、主を神の子として認めること、彼を天地の神として認めること、彼は父と一であると認めることによって決定され、如何なる信仰であれこの要素から離れる限り、それは似非信仰である。

 

 

 

 

21.現今基督教界には何等宗教が無いために、最早如何なる教会も無い

 

 

真の基督教389

 

然し、我々の或る者は天界より照示され、そのことによって現今基督教界には何等宗教が無いために、最早如何なる教会も無いことを示されました。

 

 

 

 

22.教義が生活の規定となっているという事実から教会となっている

 

 

天界の秘義6637〔2〕

 

 教会が教会であると呼ばれることは、そこに聖言が在り、聖言から発している教義的なものが在るという事実から発してはいないのであり、また主がそこに知られ、そこに聖典が在るという事実からも発してはいないで、それは人間が聖言に従って、または聖言から発している教義に従って生活し、かくして教義が生活の規定となっているという事実から教会となっているのである。こうした性格を持っていない者らは教会の者ではなくて、教会の外側にいるのであり、悪の中に生きている者は、かくて教義に反した生活をしている者は、聖言については、主については、聖典については何事も知っていない異邦人よりも更に教会の外にいるのである、なぜなら前の者は教会の諸善と諸真理とを知っているため、自分自身の中に教会を消滅させているが、異邦人たちはそれらを知らないため、そうしたことを為す筈はないからである。更に以下のことを知られたい、即ち、仁慈の、また信仰の善の中に生きている者はことごとく主の教会と王国であって、そこから神の神殿、また家と呼ばれているのである。全般的な教会は個別的な教会である者たちから―その者たちはいかほど遠く離れていても、その者たちから―成っているのである。それ故このことがここに、また以下の記事に『イスラエルの息子たち』により意味されている教会である。

 

 

 

 

23.天界と地上の教会は主の身体であり、その会員は主の中にあり、主は彼等の中に在す

 

真の基督教416(太字は当方による)

 

 主の御国は最高度に愛せられねばならぬ隣人であるのは、主の御国は、時としては、聖徒の交わりと呼ばれる普遍的な教会と天界を含むからである。それ故、主の御国を愛する者は主を認め、主に対する信仰と隣人に対する仁慈とを持つ全世界の凡ゆる人々を愛する。而して彼はまた天界に在る凡ゆる者を愛する。主の御国を愛する者は、何物にも勝って主を愛し、かくして、他の者に勝って神への愛の中に在るのである。何故なら、天界と地上の教会は主の身体であり、その会員は主の中にあり、主は彼等の中に在すからである。それ故、主の御国への愛は隣人への愛の完成である。何故なら、主の御国を愛する者は、凡ゆる物に勝って主を愛するのみでなく、自分自身の様に、その隣人を愛するからである。何故なら、主への愛は普遍的な愛である故に、それは霊的生活と自然的生活とに浸透するからである。何故なら、この愛は人間の最高の能力に宿り、而してこの最高の能力は丁度意志が凡ての意図及び行動を支配し、理解が凡ての思考と言葉とを支配するように、より低い能力に働きかけ、これを生かすからである。これが主が「汝ら先ず天国と神の義とを求めよ。然らば凡てこれらの物は汝らに加へらるべし」(マタイ6・33)と語り給う理由である。天国とはダニエル書の以下の記によって明白であるように、主の御国である。「視よ、人の子の如き者の天の雲に乗りて来るを之に支配と栄えと国とを賜ひて、諸民、諸族、諸音をして之に事へしむ。その支配は永遠の支配にして移り去らず、又その国は亡ぶることなし。」(ダニエル7・13、14)。

 

 

 

 

24.個人は最小の教会、教会は地上の主の天界

 

 

天界と地獄57

 

 天界について言われることは教会にも言うことができよう、なぜなら教会は地上の主の天界であるから。そこにはまた多くの教会が在って、その各々は教会と呼ばれているが、実際、それが愛と信仰の善に支配されている限り、教会である。ここにもまた主は色々な部分から一つのものが作り出され、引いては多くの教会から一つの教会を作り出されている。教会全般について言われることは、また個別的に教会人にも言うことが出来よう、即ち、教会は人間の中に在って、その外には無く、主がその中に愛と信仰との善によって現存されている者各々が教会である。天界を宿している天使に言われることはまた、教会を宿している人間にも言うことが出来よう。即ち、彼は、天使が最小の形の天界であるように、最小の形の教会であり、更に、教会を宿している人間は、天使と同じく、天界である。なぜなら人間は天界に入って、天使となるように創造されており、それ故主から善を受ける者は人間天使であるから。人間が天使と共通に持っているものは、人間の内部は天使の内部のように天界の映像(イメージ)に応じて形作られているということであり、また人間は愛と信仰との善にいるに応じて天界の映像となるということである。人間はさらに以下のものを持っている。即ち、人間の外部は世の映像に応じて作られており、人間は善にいるに応じて、彼の中の世は天界に服従して、天界に仕えており、かくて主は彼の二つのものの中に、天界に現存されておられるように現存されている。なぜなら神は秩序であられるため、主は凡ゆる所の主の神的秩序の中におられるからである。

 

 

 

 

 

25.教会は地上の主の天界、王国

 

 

天界と地獄57

 

 天界について言われることは教会にも言うことができよう、なぜなら教会は地上の主の天界であるから。そこにはまた多くの教会が在って、その各々は教会と呼ばれているが、実際、それが愛と信仰の善に支配されている限り、教会である。ここにもまた主は色々な部分から一つのものが作り出され、引いては多くの教会から一つの教会を作り出されている。教会全般について言われることは、また個別的に教会人にも言うことが出来よう、即ち、教会は人間の中に在って、その外には無く、主がその中に愛と信仰との善によって現存されている者各々が教会である。天界を宿している天使に言われることはまた、教会を宿している人間にも言うことが出来よう。即ち、彼は、天使が最小の形の天界であるように、最小の形の教会であり、更に、教会を宿している人間は、天使と同じく、天界である。なぜなら人間は天界に入って、天使となるように創造されており、それ故主から善を受ける者は人間天使であるから。人間が天使と共通に持っているものは、人間の内部は天使の内部のように天界の映像(イメージ)に応じて形作られているということであり、また人間は愛と信仰との善にいるに応じて天界の映像となるということである。人間はさらに以下のものを持っている。即ち、人間の外部は世の映像に応じて作られており、人間は善にいるに応じて、彼の中の世は天界に服従して、天界に仕えており、かくて主は彼の二つのものの中に、天界に現存されておられるように現存されている。なぜなら神は秩序であられるため、主は凡ゆる所の主の神的秩序の中におられるからである。

 

 

 

神の摂理30

 

自然界における主の天界は教会と呼ばれる。この天界の天使は主と結合した教会員である。彼はこの世を去った後、また霊的な天界の天使となる。これにより、天使的天界につき語られたことは人間的天界、すなわち教会についてもまた理解されねばならないことが明らかである。人間の中に天界を構成する主との相互的な結合は主により以下の語に示されている、『私の中に宿りなさい、そのとき私はあなたたちの中に宿るであろう。もし人が私の中に宿り、私もまたその中に宿るならば、多くの果を結ぶであろう。私を離れてはあなた方は何事も為すことが出来ないからである』(ヨハネ15・4、5)。

 

 

 

天界の秘義8900

 

地上の主の王国は『教会』と呼ばれる

 

 

 

 

26.一つの教会に所属しないで、幾多の教会に所属した人間

 

 

天界と地獄379

 

一人以上のものと結婚することは幾多の意志の間に分割された理解のようなものであり、また一つの教会に所属しないで、幾多の教会に所属した人間のようなものである、なぜならそのことによって彼の信仰は混乱して、全く無くなるからである。天使たちは以下のように言っている、一人以上の妻と結婚することは全く神の秩序に反しており、そのことを私たちは幾多の理由から知っているが、特に以下の理由から知っている、即ち、私たちは一人以上の者と結婚することを考えるとすぐに、私たちは内なる祝福と天界の幸福から遠ざけられて、酔いどれのようになる、なぜならそのとき私たちのもとに善はその真理から分離するからである、と。

 

 

 

 

27.心臓と肺臓の教会

 

天界と地獄328

 

 主の教会は全地球に広がっており、かくて普遍的なものであり、己が宗教に従って仁慈の善に生きた者は凡てその中におり、聖言が在って、それにより主が知られている教会は、その教会の外にいる者たちに対しては、人間の身体の内蔵と器官との一切が、その形、位置、連結に従って、色々に生きている源泉となっている心臓と肺臓のようなものであることは、前に見ることが出来よう。

 

 

 

 

28.霊的な善の中に、即ち、仁慈の善の中におらず、また霊的な諸真理の中に、即ち、信仰の諸真理の中にいない者は、教会の中に生まれていても、教会の者ではない

 

 

天界の秘義6637

 

霊的な善の中に、即ち、仁慈の善の中におらず、また霊的な諸真理の中に、即ち、信仰の諸真理の中にいない者は、教会の中に生まれていても、教会の者ではない。なぜなら主の天国全体は愛の、また信仰の善の中にいるからであり、教会もそれに似たものの中にいない限り、それは天界と連結していないため、教会で在り得る筈はないのである、なぜなら教会は地上の王国であるからである。

 

 

 

 

29.悔い改めは人間の中なる教会の第一の要件

 

 

真の基督教510

 

悔い改めは人間の中なる教会の第一の要件である。』教会はその凡ての会員から成り立つ交わりであり、人間は再生する時、この交わりに入るのである。凡ゆる者は罪の諸悪から遠ざかり、これを燃ゆる松明(たいまつ)を携えて自らを燃ゆる薪(まき)の山の上に投げつけようとしている地獄の霊の群を避けるように避けることによって、再生するのである。人生の初期に、人間を教会に対して準備させ、これに導き入れる物が多くあるが、悔い改めの行為は教会を人間の中に存在させるものである。悔い改めの行為は、人間に神に対する罪なる諸悪を犯すことを思い止まらせ、また人間をそこから遠ざける。悔い改め以前は、人間は再生とは何の関わりも持たない