再生
人は新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない(ヨハネ3・3)/
既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい(ヨハネ13・10)/
1.聖書
2.再生の表象
3.数年を要する
4.以前は魅かれていたことに興味を失う・嫌悪を覚える
5.成人期に達しないうちは再生しない
6.再生の最初の状態
7.各瞬間生まれつつある
8.善と真理との連結
9.純正な真理の中にいる者たちは特に顕著に再生することが出来る
10.その者から霊たちが分離する
11.再生
12.人間の再生は主の栄化の映像
13.改良・再生
14.神の子
15.悔改め
16.現今の教会は再生については何事も知らない
17.改心
18.ルイザ・ピッカレータ
19.徐々にしか為され得ない
20.妙好人
21.木を植える
22.人間は一つの試練によっては再生されないで、多くの試練により再生する
23.人間は死後再生するか?
24.外なる人はその事柄に従った生活により再生する
25.人間の再生はそれ以外のものではない
26.新しいエルサレムの教義
27.仁慈の生命に達した者のみが救われる、慈悲を持たない限り、自分は再生したものであるとは決して言うことは出来ない
28.サンダー・シング
1.聖書
ヨハネ3・3、5、7
人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。
はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。
『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。
コロサイ3・10
造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです。
天界の秘義8043
「水」・・・信仰に属した真理
「霊」・・・仁慈に属した善
天界の秘義9818〔11〕
この凡てからヨハネ伝の『霊』により意味されていることが今や明白である―
イエスはニコデモに言われた、人間は水と霊から生まれなくては、神の王国〔神の国〕に入ることは出来ません。肉から生まれたものは肉である、霊から生まれたものは霊である(ヨハネ3・5、6)。
ここでは『水から生まれること』は真理によって(生まれること)を意味し、『霊から生まれること』は、そこから生まれるところの、主から発した生命を意味し、それは霊的な生命と呼ばれている。(『水』は再生が起る手段となる真理を意味していることについては、2702、3058、3424、4976、5668、9323番を参照されたい。しかし『肉』は霊的な生命を何ら宿していない人間自身のものを意味している、3813、8409番)。
「水から生まれる」・・真理によって生まれる。
「霊から生まれる」・・そこから生まれるところの主から発した生命を意味し、霊的な生命と呼ばれる。
「肉」・・・・・・・・霊的な生命を何ら宿していない人間自身のもの。
2.再生の表象
真のキリスト教687
洗礼または再生は天界と地上の多くの物を以って表されている。天界では今、述べたように、それは白と紅の衣服によって、教会と主との結婚によって、新しい地と新し天界とによって、そこから降る新しいエルサレムによって(中略)世では、再生は春の凡ゆる植物の開花により、果実に至るまでの花の漸進的な発達により、温かい季節の間の凡ゆる木、潅木、花の成長により、凡ゆる果実の成熟により、朝と夕の急雨と露により―それが降り注ぐと花は開き、夜が来ると再び閉じる―庭園と畠から発する芳香により、雲の中の虹により(創世記9・14〜17)、暁の輝かしい色彩により、全般的に身体の不断の更新により―身体を健康に保つことは、いわば不断の再生である―表されている。地上の極めて些細な物ですら再生の姿を見せている。幼虫が蝶に変形する驚異とこれに類似した他の不思議な事柄を考察されよ。恐らく我々は、或る鳥は水浴を好み、その身体を洗った後、新しく歌い出すことに注意を向けることが出来よう。約言すれば、全世界は始めから終わりまで、再生の表象と模型とに充ちているのである。
3.数年を要する
申命記7・22
あなたの神、主はこれらの国々を徐々に追い払われる。あなたは彼らを一気に滅ぼしてしまうことはできない。野の獣が増えて、あなたを害することがないためである。あなたの神、主は彼らをあなたに渡して、大混乱に陥れ、ついには滅亡に至らせる。彼らの王たちはあなたの手に渡され、あなたはその名を天の下から滅ぼし尽くす。だれ一人あなたに立ち向かえず、ついには滅亡する。彼らの神神の像は火に投じて焼きなさい。それにかぶせてある銀や金に目を奪われて、それを取っておくことがあってはならない。あなたがその罠に陥ることがないためである。それは、あなたの神、主のいとわれることである。いとうべきものをあなたの家に持ち込んではならない。そうすれば、あなたも同じ様に滅ぼし尽くすべきものとなる。それを憎むべきものとして憎み、徹底していとい退けなさい。それは滅ぼし尽くすべきものである。
天界の秘義3200
しかしこれらの状態はただ一度だけしか発生したのではなくて、主が世におられた全生活の間絶えず、主が栄光を受けられたもうまでも、発生したことを知らなくてはならない。再生した者の場合も同一である。なぜならかれらは一度に再生するのではなくて、その全生活の間絶えず、実に他生においてさえも再生するのである、なぜなら人間は決して完全にはなされることはできないからである。
天界の秘義3468[2]
それで真理の善の中に、または教義的な事柄に従った生命の中にいる者たちは、その者たちの合理的なものである内部の方面では再生しているが、しかしその者たちの自然的なものである外部の方面では未だ再生していないのである、なぜなら人間は自然的なものの方面で再生する以前に、合理的なものの方面で再生するからである(3286、3288番)、それは自然的なものは全く世の中に存在しており、そして自然的なものの中に、人間の思考と意志とがそれを面として基礎づけられているためである。これが人間が再生の間にかれの合理的なまたは内なる人とかれの自然的なまたは外なる人との間に争闘を認める理由であり、またかれの外なる人はその内なる人よりもはるか後に再生し、また同じくかれの内なる人よりもさらに大きな困難を伴って再生する理由となっている。なぜなら世にさらに近づいており、身体にさらに近づいているものは内なる人に服従するように容易に抑制されることはできないのであって、それはただ非常に長い時間の後で、またその人間がその中へ導き入れられる多くの新しい状態によってのみ―その状態は自己を承認し、主を承認する状態であり、すなわち、自分自身のみじめさと主の慈悲とを承認する状態であり、かくて試練の争闘から生まれてくる(自己)卑下の状態であるが、その状態によってのみ行われるのである。それがそうであるため、次にここでエソウと二人の妻について言われていることがつけ加えられており、それによりこのような事柄がその内意に意味されているのである。
天界の秘義5126[3]
しかしながら彼がその時、またその後の年月の中で善と真理とを無視し、それらを否定し、それに反したことを行うに応じて、即ち、善と真理に代って、誤謬を信じ、悪を為すに応じて、合理的なものは閉じられ、また内的な自然的なものも閉じられてしまうのであるが、にも拘らず、彼に諸善と諸真理とをある程度の理解をもって把握させるだけの交流は主の神的摂理により依然残ってはいるが、それでもそれはもし彼が心から悔改めて、その後長い間誤謬と悪と闘わない限り、その善と真理とを彼自身のものとはなさないのである、なぜなら徐々にまたは連続的に合理的なものが彼らの中に開かれ、これに内的な自然的なものが服従し、内的な自然的なものに外的な自然的なものが服従するからである。このことは特に青年期の中に成人期に至るまで起り、続いてその生命の晩年にまでも起り、その後天界で永遠に起こるのである。この凡てから人間の内的な自然的なものとは何であるか、外的な自然的なものとは何であるかを知ることが出来よう。
天界の秘義5354[2]
しかしたれ一人自分自身からはこの善にいることは出来ない、なぜならそれは主から流れ入ってくるところの天的なものそれ自身であるからである。この天的なものは絶えず流れ入っているが、悪と誤謬とが妨害してそれを受け入れさせないのであり、それでそれが受け入れられるためには人間が悪を遠ざけ、また為し得る限り誤謬も遠ざけ、かくしてその流入を受けるように自分自身を処置することが必要である。悪が遠ざけられた後で、その人間がその流入を受け入れると、彼は同時に新しい意志と新しい理解とを受けるのであり、意志からは、彼は何ら利己的な目的を持たないで隣人に善を為すことに歓喜を覚えるのであり、新しい理解からは善い真のものをそのもの自身のために、また生命のために学ぶことに歓喜を覚えるのである。この新しい理解と新しい意志とは主から流入を通して存在するようになるからには、再生した人間はその人間が感動する善と真理とは自分自身から発しないで、主から発しており、また凡て自分自身から発し、または自分自身のものであるものは凡て悪意外の何ものでもないことを承認し、信じるのである。
天界の秘義5354[3]
この凡てから再び生まれることの何であるか、また新しい意志と新しい理解の何であるかが明らかである。しかし新しい理解と新しい意志とが発生する手段となる再生は一瞬で成就されるのではなく、幼児時代の最初期から生命の終りまでも続き、その後他生では永遠に続くのであり、しかもそれは無数の、表現することも出来ない神的な方法により行われるのである、なぜなら人間は人間自身では悪意外の何ものでもなく、その悪は絶えず中から放出されるように放出されて、生れ出ようとする善を絶えず消滅させようと努めているからである。このような悪を遠ざけて、代って善を植え付けることは生命の全コースをかけなくては、また無数の、表現を絶した神的な方法[神の方法]によらなくては遂行されることは出来ないのである。これらの方法は殆ど何一つ現今では以下の理由から知られてはいない、即ち、人間は自分自身が再生することに甘んじないし、また、死後の生命を信じていないため、再生が何か意義のあるものであるとも信じはしないのである。再生の過程は―それには表現不可能な事柄が含まれているが―天使の知恵の主要な部分を作り上げていて、それはいかような天使によっても永遠に十分に経過することの出来ないような性質を持っているのである。それでこれが聖言の内意に取り扱われている主要な主題となっているのである。
天界の秘義9256〔3〕
こうした人物にあっては、その内なる人を閉じてしまったところの、真理を否定するか、または誤謬を主張するかする事柄が消散されない限り、内なる人は天界に向って開かれることは出来ないのであり、その真理を否定するか、誤謬を主張するかする事柄を消散してしまうことはこの世の中で行われなければならないのである。そのことは生命を完全に転倒しない限り、かくて数年を経なくては行われることは出来ないのである、なぜなら幾多の誤謬はそれら自身を配列して幾多の連続した組とし、相互の間に一つの連続した関連したものを築いて、自然的な心そのものを作り、また教会と天界に属した事柄に対するその自然的な心の観察の様式〔様態〕を作るからである。ここからこうした人物のもとでは信仰と仁慈に属した事柄は凡て、即ち、教会の教義、または聖言に属した事柄は凡て、全般的に言って、天界の、また神の事柄は凡て暗闇となっているに反し、他方、世と地の事柄は彼らには光となっているのである。ここからこうした人物における誤謬を破壊することはその人物の生命そのものを破壊することであり、もしその者らが何らかの新しい生命を持つとするなら、その幾多の誤謬は徐々に根こそぎにされ、それに代わって真理と善とが植え付けられねばならないのであり、その真理と善とが同じく互いに連続した関連を持ち、幾多の組に配列されるのである。このことが「生命の完全な転倒」により意味されており、そのことは数年を経過することによってのみ可能となるのである。それゆえ人間は一瞬で新しくされることが出来ると信じている者は非常な誤りを犯しているのである。
黙示録講解650ヘ
なぜなら教会が己が中に存在する程度まで改良され、再生する人間は徐々に改良され、再生するからである、なぜなら、彼らは新たにみごもり、生まれ、教育されるからであり、このことは出生から遺伝的に彼の中にある幾多の悪とその誤謬とが除かれるに応じて行われ、そのことは一瞬に遂行されはしないで、莫大な人生行路を通して遂行されるからである。
マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P32
どんな罪にも長い長い準備の経過があり、罪が重ければ重いほど、その準備期間は長い。善と悪どちらの場合にも突然、崇高になったり、堕落したりはしない。滅びの場合には長い間の詐欺的な要因があり、高く登るには、長い忍耐と聖なる努力の時がある。かくして、ユダの悲劇は、深淵に転び落ちようとする人々を救うあわれみの神の存在を知らせてくれる。
マリア・ワルトルタ/受難の前日/P180
霊魂は突然頂上に達するものではありません。最初の敗北にめげず、最初の勝利におごらずにそれを次の飛躍の土台としなければなりません。神はまた、そうした善良な意志に助力をお与えくださいます。
マリア・ワルトルタ/イエズスの受難/P33
善にしろ悪にしろ、人間が突如偉大になることはない。順々に昇るか沈むかします。苦しみの場合も同じようなことが起きるのです。
トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/2・9・3
人はじゅうぶん自分に打ち勝って、その愛情をまったく神にささげることを会得するまでには、長い間自分に対してたくさんの心戦(たたかい)をしなければならぬ。
人は自分を頼みにしている間は、とかく人間の慰めを受けたがる。
しかしほんとうにキリストを愛して熱心に善徳に励む者は、慰めも五官の楽しみも求めず、むしろきびしい修行をして、キリストのおんためにどんなつらい仕事でも耐え忍ぼうとするのである。
マーリン・キャロザース/この世に天国を/P74
私たちがクリスチャンになる場合、その古い性質を神に明け渡すのが難しいのです。一度に少ししかできません。なぜなら、自分の掌握していることを神のために一度に全部捨てるなんてことに、私たちは耐えられるようにできていないからです。
4.以前は魅かれていたことに興味を失う・嫌悪を覚える
エゼキエル6・9
そして彼らは自ら行った悪のゆえに、その忌まわしいすべてのことのゆえに、自分を嫌悪するようになる。そして彼らは、わたしが主であり、理由もなくこの災いを彼らにくだすと告げたのではなかったことを知るようになる。
天界の秘義3701[7]
かれはこの善に歓喜を感じ、これらの真理に楽しさを感じる度の中で、かれはその前の生命の悪に歓ばしくないものを感じ、その誤謬に楽しくないものを感じるのであり、その結果前の意志と前の理解とにぞくしているものは新しい意志と新しい理解とにぞくしているものから分離してしまい、しかもそれはそのようなものを知ろうとする情愛に応じて起るのではなくて、それを為そうとする情愛に応じて起るのである。
天界の秘義3938[4]
しかしここに意味されているものは永遠の生命の幸福に相応しているところの真理と善との情愛の歓喜[真理と善とに対する情愛の歓喜]である。情愛にはすべて歓喜が在るが、しかし情愛の如何に、歓喜が応じている。悪と誤謬との情愛[悪と誤謬に対する情愛]にもまた歓喜があり、人間が再生し、主から真理と善のいくたの情愛を受けはじめる以前では、これらの歓喜は唯一の歓喜であるように見え、それで人間は他に歓喜は何ら存在しないと信じ、従ってもしそれを奪われるなら、自分は全く死滅すると信じるほどにもなっているのである。しかし主から真理と善との情愛の歓喜を受けている者たちは、以前唯一の歓喜であると信じていた自分たちの前の生命の歓喜の性質を、それは比較的卑賤なものであり、実に汚れたものであることを徐々に見、また認めるのである。そして人間は真理と善との情愛の歓喜の中に進むにつれ、益々悪と誤謬との歓喜を卑賤なものとして認め、ついにはそれを嫌悪しはじめるのである。
ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国2.P88
もしあなたが、こうした信仰の海を泳ぐなら、その報酬として、あなたの心の中に三つの霊的喜びを呼び覚ましてあげよう。
ひとつは、明晰に神の事柄を洞察するようになること。聖なることを行うとき、あなたは大きな喜びと愉悦を覚え、まるでその中に浸されているかのように感じるでしょう。すなわちこれが私の注ぐ恩恵の油なのです。
二つ目は、世俗のことに退屈を感じること。一方心の中で、天上のことに喜びを感じるだろう。
最後に、全てのことから離れること。以前は魅かれていたことにも嫌悪感を覚えるようになるでしょう。
マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P161
アブラハムの懐を考え、アブラハムの懐よりもはるかに聖なる神の国を考える者にとっては、冷たく孤独な追放の地、この世にいる時間はあまりに長いと感じる。
聖母から司祭へ1973.10.20
何でも私と一緒にしない時には、すべてがあなたを疲れさせ、空ろになったようにしてしまうのをあなたは経験していますね。
そして、それを不審に思って、あなたは尋ねます。「おかしい、なぜこんな事が起こるのだろう?今までこの事に夢中だったのに・・・。何が起こったのだろう?」と。
何が起こったのかといって、ああ、子よ、私に奉献されたという大きな決定的な出来事があったのです。私はあの行為を真面目に取りました。この奉献には、あなたの生活を真実に変え、すっかり変容させてしまう力があるのです。
この奉献によって、あなたは自分の生涯をことごとく私の手に委ねました。今こそ、あなたの人生は私に属するもの、私のものとなったのです。私はそれをわがものとし、今こそ私の望み通り、少しずつそれを変容させてゆきます。
あなたをやさしく導いて、私の気に入る、かの完徳にまで至らせ、わが子イエズスの生き写しとなるまで、すこしずつあなたを変容させてゆきましょう。
新しいものの見方を与えましょう。あなたは私の眼で見るようになります。この世のすべてのものにはもう興味を失い、しかも、それが深い心痛のもととなるでしょう。それについて「何と空しい、何とつまらないことだ!」と言うでしょう。ところがあなたの兄弟たちの多くは、このようなものに導かれ支配されています。この世的な眼でものを見、この世のために生き、こうして貴重な人生を台無しにしてしまうのです。
新しい感じ方も与えましょう。私の心が感じるように感じるでしょう。そのため、あなたの愛する力と苦しむ力は極度に大きくなるでしょう。なぜなら、子よ、あなたは母の心と同じようにものを感じるからです!
今日、わが子の贖いを無駄にする多くの人、すなわち神を拒み、否定し、神と戦う人に対して、あなたはどれほど深い悲しみを感じることでしょう。自分に過失はないのに、これらの誤りを信じて無知の犠牲となり、迷いゆく人には、どれほどやさしい憐れみの情を感じることでしょう。
聖母から司祭へ1974.11.19
・ ・・とはいえ、わが子よ、私はどんなに念を入れてあなたを鍛え、変容させていることでしょう!今こそ、私があなたのうちに完全に生き、行動しているのに気がつきませんか!
ごらんなさい。以前、あなたは成功することを望んでいましたが、今は生きることさえ重荷であり、前には計画をたて、明日のためにいろいろとつもりをしていましたが、今は将来のことには全然興味がなくなってしまいました。あの頃は、知らず知らずのうちに、ただ自己満足だけを求めていたのです・・・。
今は、本当に何かが変わりました。それはあなたのうちに生き、働いているのは私だということです。
ジャック・ネランク/あなたは預言を無視しますか―現代の預言者ヴァッスーラに聞く/P17
ヴァッスーラ:現在は、クラシック音楽にしか興味ありません。回心するまでは、クラシック音楽なんて大嫌いでした。1985年までは、です。あの頃までは、私の好きなのはポップスだけでした。どう説明すればいいのでしょう。何が起こったのかをありのままに、お話ししましょう。私はデンマーク発タイ行きの飛行機の機内にいました。十一年前にはバングラデシュに住んでいたからです。守護の天使とはコミュニケーションがあって、私自身の心の中で天使の話しかける声が聞こえ守護の天使の姿が見えました。天使は音楽のことでも私を教育したがり、ポップスやロックをいっさい忘れさせて、むしろクラシック系の音楽を聞かせようとしました。天使は私と話をしているとき、「ヘッドホーンをつけて、これから始まる音楽を聞きなさい。私からの贈り物です」と言いました。それはシューベルトの交響曲第九番でしたが、すぐにひらめくものがありました。たちまちのうちに好きになり、同じ番組で続いて流れる曲目もすべて好きになりました。すると突然、誰かがポップスをかけたりすると、気分が悪くなり、聞くのが耐えられなくなったのです。シューベルトなどクラシック音楽の作曲家のカセットをどっさり買い込みました。聞くことに飢えていたみたいに、何でもすべて買ったのです。そしてポップス系の音楽は全部捨てました。
ジャック・ネランク/あなたは預言を無視しますか―現代の預言者ヴァッスーラに聞く/P237
ヴァッスーラ:私は最新流行の音楽のラップは三秒もきいてはいられません。聞いていると、私の魂が苦しめられるような気がして、ぞっとします。流行おくれだと言われそうですけれど。でも、若者たちの行動には変化が現れています。暴力的になっています。攻撃的になり始めています。それはサタンの印しです。
ネランク:つまり、若者が好む音楽の形式に反対なさっているということですか?
ヴァッスーラ:とんでもない。私はクラシック音楽と伝統的な典礼音楽にしか興味がないわけではありません。教会で演奏される、ギターの伴奏に合わせた、若い人たちのコーラスはとてもいいと思います。彼らの歌はぜんぜん古臭くなく、むしろ軽く、陽気で、神の喜びの証しをしています。アフリカやアジアに旅行する時には、伝統的な踊りが組み入れられたものが気に入っています。神の栄光をたたえるために企画されるもので、私も仲間入りしたくなります。守護の天使は、私がポピュラー音楽を味わわないように妨げたのではありません。でも回心する前には理解できなかったクラシック音楽を、手ほどきしてくれました。
ジャック・ネランク/あなたは預言を無視しますか―現代の預言者ヴァッスーラに聞く/P19
ヴァッスーラ:ブリッジも大好きでしたわ。ブリッジを学んだのは、ともかく十七年間も住んでいたアフリカ諸国では、ブリッジのような暇つぶしで社交が行われていたからです。ブリッジを学んで大好きになりました。でも啓示を受けてにわかに、我慢ならなくなりました。
ネランク:趣味について、なにか他には?
ヴァッスーラ:そう言った楽しかった活動は、啓示を受けた途端嫌になり、もっとまじめなことが好きになりました。性格が変わったといってもいいほどです。
ネランク:もう、気晴らしをする必要はないのですか?
ヴァッスーラ:ありません。
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/3巻P244
主:うわさ話、空しい会話といった、あなたを引き下げるもの全てを不快とおもうように。あなたを愛するゆえ 完全であってほしい。
サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P366
主の臨在からくる真の歓びを一度でも味わった者は、作られた喜びの追求に貴重な時間を浪費することは二度とない。
トマス・ア・ケンピス/キリストにならいて/3・49・3
わたしはあなたの望みを知っているし、またしばしばあなたの嘆息を聞いた。
あなたはいまからもう神の子たちの光栄の自由に入りたがっている。いまからもう永遠の住居(すまい)、喜びの充ち満ちている天上のみ国に行きたがっている。けれどもその時期はまだこない、というのは、今はまだその時とちがい、戦闘のとき、労苦、試練のときだからである。
あなたは無上の善に満たされることを望んでいる、しかしいまはそうなることができない。
わたしはその無上の善である。神のみ国が来るまで、わたしを待つがよい。
マリア・ワルトルタ/受難の前日/P192
アンナリア:
「私の捧げものを、どうぞ快く受け入れてください。ご存じのように私は貧しい女で、あなたにお捧げできるのは自分の命しかありません。純潔を守ってきた今までの私の命、これだけです。
それで私は母に、身内の者をそばに呼ぶように頼みました。母が独りきりにならないように、サラにも頼みました。サラが私の命の娘になってくれるでしょう。私を退けないでください、主よ。世間はもう私にとって何の魅力もありません。まるで牢獄のように思われます。死の間際に立っている者にとっては、世間の喜びごと、楽しみごとがまるで風のように空しく傍らを通り過ぎて行くだけです。
私の望みは、生贄になることだけです・・・。世間の憎しみが主に降りかかるのを見るより先に、主のお苦しみに倣って生贄になりたいのです・・・」
5.成人期に達しないうちは再生しない
天界の秘義677
再生することが出来る人間の食物については、事情は以下の如くである、即ち、人間は再生することが出来る以前は手段として役立つことが出来る凡ゆるものを供えられる必要があるのである、即ち、意志に対する手段としては幾多の情愛の幾多の善と歓喜とを、また理解に対する手段としては主の聖言から発している幾多の真理とまた他の源から発している確認させる事柄とを供えられる必要があるのである。人間がこのようなものを供えられないうちは再生することは出来ない、即ち、これらのものが食物となるのである。このことが人間は成人期に達しない中は再生しない理由である。しかし人間各々にはその人に特有の、また謂わばその人自身の食物があり、それがその者が再生する以前に主によりその者に供えられるのである。
天界の秘義711
人間は準備しない限り、即ち、諸真理と諸善とを供えられない限り、決して再生することは出来ないのであり、まして試練を受けることは出来ないのである。なぜならそのような時彼のもとにいる悪霊が彼の諸々の誤謬と悪とを刺激し、もし諸真理と諸善とが―この諸真理と諸善へ諸々の誤謬が主によってたわめられ[まげられ]それによって消散させられるのであるが、その諸真理と諸善とが―そこに現存していないならば、彼は屈従してしまうからである。この諸真理と諸善とはこうした用のために主により保存されている残りのものである。
天界の秘義1661[2]
たれ一人悪と誤謬とは何であるかを学んで知らない中は、それで教育されない中は悪と誤謬に反抗して戦うことは決して出来はしない。人間は自分の理解と判断とを十分に用いない中は悪の何であるかを知らないし、ましてや誤謬の何であるかを知らない、それが人間が成人期に達しない中は試練を受けない理由となっている、それで人間はことごとくその成人期に試練を受けるが、しかし主はその子供時代にそれを受けられたのである。
6.再生の最初の状態
スウェーデンボルグ/天界の秘義5221
明るくされた全般的な状態の中には最初は混乱[不安]があり、善から発した諸真理がその秩序をもっておきかえられる時までは平安のないことを知りはしない。
7.各瞬間生まれつつある
天界の秘義5202
善の中にいる人間は、その幼少期の初期から世におけるその生命の最後までも、その後永遠に至るまでも、その内部の方面のみではなく、外部の方面でも各瞬間生まれつつあるのであり(後略)
天界の秘義4378
それで人間はいわば絶えず生まれているのである。
8.善と真理との連結
天界の秘義6717
その起源が善から発している真理が善と連結する事はいかように理解しなくてはならないかを述べよう。
再生しつつある人間の中に主により徐々に導入される真理は善にその起源を得ているのである。最初の期間では、善は内なる人の中に在るため、それはそれ自身を示しはしないが、真理は外なる人の中に在るため、それはそれ自身を示すのであり、そして内なるものが外なるものに働きかけるが、外なるものは内なるものに働きかけはしないため(6322)、真理に働きかけて、それを自分自身のものとするものは善である。なぜなら善以外には何ものも真理を承認して、それを受け入れはしないからである。このことは再生しつつある人間の中に現存している真理の情愛[真理に対する情愛]から明らかである。その情愛そのものは善から発しているのである。なぜなら愛のものである情愛はそれ以外のいかような源泉からも発することはできないからである。しかしこの最初の期間に、すなわち再生以前に受け入れられる真理は純粋な真理ではなくて、教義の真理である。なぜならこの時にはその人間はそれが真理であるか、否かを考えはしないで、それが教会の教義のものであるため、それを承認しており、かれがそれが真理であるか否かを考えないで、教会の教義からそれを承認しているかぎり、それはかれのものではなく、それでそれはかれのものとはされないからである。これは再生しつつある人間の最初の状態である。
天界の秘義6717[2]
しかしかれが再生すると、そのときは善はそれ自身を示すのであり、とくにかれがかれ自身で真理であると承認する真理を欲し、それに従って生きることを愛することにより示すのである。その時はかれはその承認する真理を欲し、それに従って行動する為、それはかれのものとされるのである。なぜならそれは以前のように単に理解の中にのみ存在しないで、意志の中にもまた存在し、そして意志の中にあるものはその者のものとされるからである。そして理解はそのとき意志と一つのものとなるため―なぜなら理解は承認して、意志は遂行するから―その二つのものの連結が、すなわち、善と真理との連結が生まれるのである。この連結が行われると、そのときは子供たちが、丁度結婚から生まれるように絶えず生まれてくるが、その子供たちとは祝福と歓喜とを伴った諸真理と善である。この二つの状態が善から発した真理の起源により、また真理と善との連結により意味されているものである。
9.純正な真理の中にいる者たちは特に顕著に再生することが出来る
天界の秘義6765
人間が再生しつつある時は、彼は誤謬との争闘へ入れられ、その時主により真理の中に留めおかれるが、しかしそれは彼が真理であると自分自身に説きつけた真理の中に留め置かれるのであり、この真理から彼は誤謬と戦うのである。彼はまた純正なものではない真理からも ― もしその真理が何らかの方法で善と連結されることの出来るようなものでありさえするなら ― 戦うことが出来るのであり、それは無垢により善と連結するのである。なぜなら無垢は連結の手段であるからである。ここから人間は何らかの教義から教会の中で再生することが出来るが、しかし純正な真理の中にいる者たちは特に顕著に再生することが出来るのである。
10.その者から霊たちが分離する
天界の秘義4110
彼ら(悪い霊たち)はその人間が真理と善とを更に良く確認するために、対立した考えと感情とを導入する目的の下に接合されているが、その人間が善を真理とを確認し始めると、彼らは止まっていることに不快を、分離することに喜びを感じ、このようにして彼らの歓びから生まれてくる自由の中に分離するのである。こうしたものが、人間が再生しつつある時、その者から霊たちが分離する実情であり、従って善と真理の方面でのその者の状態の変化である。
天界の秘義8209
人間はその改良の間では善を欲することと悪を欲することとの間の均衡(の状態)の中に(すなわち自由の中に)おかれており、そのとき善いものを欲することに近づくに比例して天界へ近づいて、地獄から後退し、またそのとき主から受ける新しい意志は、かれがその両親から遺伝により後には実際の生活により受け入れられたかれ自身の意志に反抗して、これに打勝つのである。それゆえ人間が善を欲し、善に感動するほどにも改良されたときは、主は善の中に現存されているため、善は悪を遠ざけるのである、なぜなら善は主から発し、かくて主のものであり、否、主御自身であるからである。
11.再生
天界の秘義3860
人間は実際その両親から人間として生まれてはいるが、しかし主から再び生まれるまでは人間とはならないのである。霊的なまた天界的な生命が人間を作るのである。なぜならそれが彼を獣から区別するからである。
12.人間の再生は主の栄化の映像
天界の秘義3138
13.改良・再生
真の基督教302
新しい誕生の第一歩は改良と呼ばれ、それは理解にかかわり、第二は再生と呼ばれ、それは意志にかかわり、そこから理解にかかわっている。
14.神の子
真の基督教572
聖言には再生した者は神の子、神によって生まれた者と呼ばれ、再生は新しい心と新しい霊によって示されている。
霊・・・神的諸真理に一致した生活
15.悔改め
真の基督教509
悔改めは人間の中なる教会の第一の要件である。
真の基督教509
再生しない人間とは悔改めない人間以外の何であろうか。
真の基督教510
悔改め以前は、人間は再生とは何の関わりも持たない。
16.現今の教会は再生については何事も知らない
真の基督教591
かくて主は人間は再び生まれない限り、神の国を見ることは出来ないと語り給うけれど、現今の教会は再生については何事も知らないこととなるのである。
霊界日記5741
学のある神学者の中の多くの者が、再生の何であるか、を知っているかについて、他生で、点検されたが、たれ一人知りはしなかった。(中略)彼らは隣人に対する仁慈の何であるかを知らないし、従って、生命の善の何であるかを知らないのであり、彼らは生命の善、または仁慈が救いの本質的なものであることを信じないで、たとえ人間は生命の善を欠いているにしても、信仰のみが救いの本質的なものである、と信じ、信仰のみから、単なる慈悲のみから、天界が、主から執り成しを受ける者らに与えられる、と信じている以上、そのことが絶えず彼らの心の中に在る以上、彼らは決して再生の何であるかを知ることは出来ないのである。
17.改心
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/3巻P171
‘89・5・12
イエス?
♡ 私です、私を感じ 観想しなさい。 私は愛 そして聖なる者。 私を愛し 聖となりなさい、教える、私は知恵、来なさい 御母もあなたを愛しておられ、メッセージを今書いて下さる。
(‘89・5・19のマルティニの集いのためのメッセージ)
♡ 我が子よ、私 あなたの聖なる母が、祝福を与えます。 これが私のメッセージです: あなた方皆に平和、私は皆を愛し 祝福します。 耳を澄まして 今日私たちの与えている呼びかけに注意を向けて下さい、いかに時が迫っているかを悟って下さい。 イエスと私は昼夜となく改心を呼びかけています。 改心を呼びかける私たちの声は今や世界中に及び 何倍にも増え続けるでしょう。 時が迫っています 我が子たちよ。 この呼びかけの緊急性を あなた方の非常に多くが理解していないようなので 今日私の心は痛むのです。 黙想して自らを調べるようにお願いします、改心し 神の道を歩んでいるかどうか 自分を分析してみて下さい。 まことに愛する子たちよ、神を信じ 祈るだけではありません、改心するとは神と和睦し 魂をこめて神を愛することです、イエスが注いで下さる愛を思って下さい。 キリストのうちに生き、自らを清め イエスが癒して下さるよう 完全に心を開きなさい。 改心するとは神とともにいたいと願い、心から神に恋い焦がれることです。 最大の霊的賜物は愛であることを 多くの人は忘れています ♡ イエスの掟を再び思い出させましょう: 私が愛するように 互いに愛し合いなさい。 私を喜ばせて私たちのメッセージを生きて下さい、私どもの小さな代弁者となり 周り中に私たちの種子を蒔いて下さい、耳ある者は聞くように。 私どものメッセージの緊急性に気づいて下さい ♡ 皆が一緒に今夜ここに集まっているのを見て 喜んでいます。 お持ちの聖具をすべて祝福します。 今夜は徹底して霊魂を糾明し、特別な黙想の夕べとしましょう。 イエスと私は扶けようとして いつもあなたの前にいます、ですから心を込めて話しかけて下さい そうしたら聞きましょう ♡ 皆を父と子と聖霊の御名によって祝福します、アーメン。
18.ルイザ・ピッカレータ
ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国/4巻P234
「我が娘よ、なぜ不安に心を騒がせて時間をつぶしているのか? あなたに関する出来事は何でもない。中傷、迫害、反対などのすべては人を義とし、ひとりで人間的な物事に依頼することなく、創造されたときのような神との一致にその人を戻すために、神の摂理が許すことなのである。なぜかというと、その人がどんなに善人で聖人であったとしても、いつも何かその内面に人間的な精神をもっているからである。
また外面的にも、人は完全に自由ではない。常に希望し、人を信用し、人に頼り、そこから評判や尊敬を取り立てようとする人間的な何かを持っているものである。中傷、迫害、反対などの風が吹きすさぶやいなや、人間の精神は、なんと大きな雹の被害を受けることだろう! 事実人間は、自分が被造物から反対を受け、悪く解釈され、軽蔑されているとみると、もう人々のあいだに慰めを見いだせなくなり、同時に、彼への助け、支え、信頼、尊敬なども不足してくる。それで、最初はその人自ら被造物を捜し求めて行ったのに、その後は彼自身が、人々から逃げ出す。なぜなら、どこを向こうが、苦味ととげしか見つけることができないからだ。ゆえにこの人は、このような状態に成り下がって、独り取り残されてしまう。
しかし人は、独りで居ることができない。彼は独りで居るために創られていないからだ。それでは、この可哀想な人は何をするだろうか? 彼は少しも躊躇することなく、彼の中心つまり神に全てを向ける。すると神はその全てを彼に与え、人も神を知るために自分の知性を、神と神から受けた恩恵を思い出すためにその記憶を、神を愛するために自分の意志を適用して、自分のすべてを神に与えるようになるのである。
さあこれが、我が娘よ、霊魂が創造された目的、すなわち義とされ、聖化され、自分の霊魂の中で再び作り直されるということである。たとえその後、また被造物と接し、彼らが助け、支え、尊敬などを彼に与えたとしても、この人はもう、それがどんな値のものかを知っているので、無関心をもってそれらを受けるようになる。もしその人にこれらのことが役に立つと見ても、彼は常に神と共に独り留まりながら、ただそこに神の誉れと栄光を見るためにだけ、それを使用することだろう。」
19.徐々にしか為され得ない
神の摂理279[3]
「悪は除かれるに応じて、赦される」。
一度悪は赦されると、それは人間から分離され、全く放逐され、人間の生活状態は一瞬にしてその反対の状態に変えることが出来、かくて主の直接的な慈悲により、人間は悪の状態から善となり、従って地獄から導き出されて、直ぐさま天界へ移されることが出来ると想像することは現代の誤りである。こうした信念と見解とを抱く者は悪と善との何であるかを把握せず、人間の生活状態については何ごとも知らず、また意志の諸々の情愛は心の純粋に有機的な諸々の原質の状態の変化、変動にすぎず、理解の中の思考はその原質の形の変化、変動にすぎず、記憶はその変化から生まれる恒久的な状態であることを知りさえもしない。このことが凡て知られると、悪は徐々にしか除かれることは出来ず、悪を赦すことはそれを除去することと同一の事柄ではないことが明らかに認められることが出来る。しかしこれは概括的な主張であって、説明されない限り、実際承認はされても、理解されないし、理解されないものは手で車輪をあてもなく回すようなものであり、それで前に述べた見解は、その述べられた順序に従って、一つ一つ説明しなくてはならない。
神の摂理279[3](ロ)
「人間の生活状態は一瞬にして変えられることが出来、かくして、主の直接的な慈悲により、人間は悪の状態から善となることが出来、従って地獄から導き出されて、直ちに天界へ移されることが出来ると考えることは現代の誤りである」。
この誤りの下に苦しんでいる者たちは仁慈を信仰から分離し、救いを信仰のみの結果として認めている、なぜなら彼らは義認と救いとは、その信仰を言い現わしている言葉を信頼と信任とを以て信じ、繰返しさえすれば、そこから生まれてくると考えているからである。多くの者もまたそれと同じ結果が即時に、人間の生涯の最後の時間にも―その前ではないとしても―生まれると考えている。これらの者は人間の生活状態は一瞬にして変えられることが出来、人間は即座の慈悲により救われることが出来ると信じざるを得ない。しかし主の慈悲は即時的なものでなく、人間は一瞬にして悪から善になることは出来ず、神的摂理が人間生活の幼少期からその終わりに至るまでも絶えず働かない限り、人間は地獄から導き出されて、天界へ移されることは出来ないことが本章の最後の項に見られるであろう。ここに我々はそこから以下の主張を引用しよう、すなわち神的摂理の法則は凡て人間の改良を、従ってその救いを目指しており、それ故、生来地獄的な彼の状態をその反対の天界的状態へ変化させることを目指しており、このことは、人間が悪とその歓喜から遠ざかって、善とその歓喜へ入るにつれて、徐々にしか為され得ないものである。
20.妙好人
サンダー・シング/イエス・キリスト封印の聖書/P390
まことのキリスト者は、世にあって花のような存在です。たとえ、罪に汚れた世界に生きていようとも、顔と胸とを義の太陽に向けていれば、主の栄光は彼らの胸の中に宿り、彼らは生けるキリストが内住していることを証しできるのです。そのようなキリスト者は、苦しみの世にあって甘い香りのようです。彼らの働きによって、多くの罪人が救われ、それによって彼らは報われます。
サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書P149
この世の罪と悲哀の中にあっても、平和に満ち、歓びに輝き、実り多き人生を送る祈りの人がいるのをみて、驚かされることが間々ある。それは、祈りによって信仰が生ける水の本源にまで根を下ろし、そこから力と生命を引き出して永生へと実を結んでいるのである。
21.木を植える
天界の秘義8326
「彼らを植えられる」。これは絶えず再生することを意味していることは、『植えること』の意義から明白であり、それは再生させることである、なぜなら再生の場合も〔木を〕植えることに似ているからである。なぜなら木は植えられると、成長して葉、果実をつけ、その果実の種子から新しい木に成長し、また前のことが繰り返されるからである。人間の再生の場合もそれに似ており、それで聖言では人間はまた木に譬えられ、再生した人間は庭園または楽園に譬えられ、彼における信仰の諸真理は葉に、仁慈の善は果実に譬えられ、新しい木が生まれてくる種子は善から発している真理に、またはそれと同一の、仁慈から発している真理に譬えられているのである。『絶えず再生する』と言われているのは、再生は人間の中に始まるが、決して停止はしないで、単にに彼が世で生きている間のみではなく、また他生においても永遠に、絶えず完全なものにされているからではあるが、それでもそれは神的なものに較べることが出来るほどの完成には決して到達することは出来ないのである。
22.人間は一つの試練によっては再生されないで、多くの試練により再生する
天界の秘義8403〔2〕
人間の再生について教えられていない者らは人間は試練も無しに再生することが出来ると考えており、或る者は人間は一つの試練に堪えた時再生したのであると考えている。しかし試練が無くてはたれ一人再生しないのであり、多くの試練が次々に続いて起ってくることを知られたい。その理由は再生は古い人の生命が死んで、新しい天界の生命が植え付けられるために起るということであり、そのことは戦いが必然的に起らなくてはならないことを示している、なぜなら古い人の生命は抵抗して、消滅されようとは欲しないし、新しい生命は古い人の生命が消滅してしまったところ以外には入ることは出来ないからである。そこから両方の側に戦いが起り、この戦いは生涯続くため、激しい戦いであることが明白である。
天界の秘義8403〔3〕
明るくされた理性から考える者は、このことからたれ一人戦いが無くては、即ち、霊的な試練が無くては、再生することが出来ないことを認め、また人間は一つの試練によっては再生されないで、多くの試練により再生することを見、認めることが出来るのである。なぜなら非常に多くの種類の悪が彼の前の生命の歓喜を作っており、即ち、彼の古い生命を作っており、この凡ての悪が急にまた同時に征服されることは不可能であるからである、それはその悪は太古の時代から両親の中に根を張っていて、非常に頑強にその人間に密着しており、従って彼の中に先天的に存在しており、更に彼の中に彼の幼児時代から彼自身の実際の悪を通して確認されているためである。これらの悪は、植え付けられて新しい生命となれねばならない天界の善とは反対のものである。
23.人間は死後再生するか?
真の基督教729
聖餐に与るに足る程成長しない中に他界する者は洗礼を通し主によって天界に入れられる。何故なら上述したように、洗礼は基督教会へ導き入れることであり、霊界の基督教徒とつらなる手段であるから。霊界では教会と天界とは同一の物である。それ故かの世界で教会へ入れられることはまた天界へ入れられることである。幼児または少児の頃他界した者達は主の特別の配慮の下に教育され、再生し、かくして主の子等となるのである、何故なら彼らは他の如何なる父をも知らないからである。
基督教会の外に生まれた嬰児と少児達は、主に対する信仰を受け入れた後、彼らの宗教を奉じている人々に宛てられている天界へ、洗礼以外の手段によって入れられ、基督教天界に在る者と混入しない。実に、凡ゆる国人は、もし、神を認め、正しく生活するならば、救われるのである。何故なら、凡ゆる人は霊的に生まれ、それ故贖いの益を受けることが出来、主は彼等凡てを贖い給うたからである。主を受ける者達、即ち、主に対する信仰をもち、悪を避ける者達は「神の子」「神より生まれし者」(ヨハネ1・12、13、11・52)と呼ばれ、また「御国の子」(マタイ13・38)「後継者」(マタイ19・29、25・34)と呼ばれている。主の弟子達はまた「子達」(ヨハネ13・33)と呼ばれ、凡ての天使もそのように呼ばれているのである(ヨブ1・6、2・1)。
24.外なる人はその事柄に従った生活により再生する
天界の秘義8742
人各々内なる人と外なる人とを持っており、内なる人は霊的な人と呼ばれるものであり、外なる人は自然的な人と呼ばれるものである。人間は再生するためにはその二つともが再生しなくてはならない。
天界の秘義8743
再生していない人間のもとでは外なる、または自然的な人が支配して、内なる、または霊的な人は仕えているが、しかし再生している人間のもとでは、内なる、または霊的な人が支配して、外なるまたは自然的な人は仕えている。こうした転倒は主による再生によらなくては決して在り得ないのである。
天界の秘義8744
外なる人が再生していない限り彼は善を凡て快楽に、利得に、誇りに置いて、自分に対抗する者たちに向かっては憎悪と復讐に燃え上がっており、その時はその内なる人は(それに)同意するのみでなく、(それを)確認もし、推進もさせる理由を提供しており、かくて内なる人は仕えて、外なる人は支配しているのである。
天界の秘義8745
しかし外なる人が再生した時は、内なる人は隣人を良く考え、これに良かれと願うことに善のすべてを置き、その外なる人は隣人を良く語って、これに良いことを行うことに善のすべてを置いており、遂にはその各々はその目的として隣人を愛し、主を愛して、前のように自己を愛し、世を愛しはしないのである。
天界の秘義8746
内なる人は先ず主により再生し、後に外なる人が再生するが、外なる人は内なる人によって再生するのである。内なる人は信仰に属した事柄を考えて、それを欲することにより再生するが、外なる人はその事柄に従った生活により再生するのである。信仰の生活が仁慈である。
天界の秘義8747
再生した人間はその内なる人の方面では天界の中にいて、そこの天使であり、天使たちと共におり、死後その天使たちの間にまた来るのである。その時彼は天界の生活を送り、主を愛し、隣人を愛し、真理を理解し、善を楽しみ、そこから祝福を感じるのである。これらのものが永遠の生命の幸福である。
25.人間の再生はそれ以外のものではない
天界の秘義3017
「祝福される」ことは、それが人間について述べられるときは霊的な天的な善で富まされることであり(981、1096、1420、1422番を参照)、そしてかれは彼の中の幾多のものが主により霊的な天的な秩序に処理され、かくて神的な秩序の映像とその秩序に似た形に処理される時、その霊的な、天的な善をもって富まされるからであり(1475)、人間の再生はそれ以外のものではないのである。
新しいエルサレムの教義173
霊的生命を受けない者、即ち、主により新しく生まれない者は天界に入ることは出来ない、そのことを主はヨハネ伝で教えられている―
まことにわたしはあなたたちに告げる、人は再び生まれないなら、神の国を見ることは出来ない(ヨハネ3・3)。
新しいエルサレムの教義174
人間はその両親により霊的生命へ生まれないで、自然的生命へ生まれている。霊的生命は神を何ものにもまさって愛することに、その隣人を自分自身のように愛することにあり、そのことは主がその聖言で教えられた信仰の教えに従っている。しかし自然的生命は自分自身と世を、隣人にまさって、実に神御自身にもまさって愛することにある。
新しいエルサレムの教義175
人は各々自己と世への愛の諸々の悪の中へその両親により生まれている。習慣からいわば性質となった悪の各々はその子孫に遺伝し、かくてそれは、両親から、祖父から、曽祖父からと、長く連綿とさかのぼって絶えず遺伝しており、かくて悪の遺伝は人間自身の生命の凡てが悪以外の何ものでもないほどに大きなものとなっている。このように絶えず遺伝してきた悪は主から発している信仰と仁慈との生活によらない限り、破られはしないし、変更されもしない。
新しいエルサレムの教義176
人間は遺伝から取得しているものに傾き、またそれに陥っており、かくて彼はその悪を確認し、またそれに自分自身から更に多くのものを附加している。これらの悪は全く神的生命に反しており、それを破壊している、それで人間は主から霊的生命である新しい生命を受け入れない限り、かくて彼は新たにみごもり、再び生まれ、新たに育てられない限り、即ち、新たに創造されない限り、地獄に堕ちるのである。なぜなら彼は地獄にいる者らのように、自己と世に属した物以外の何一つ欲しないし、そこからそれ以外の物は何一つ考えもしないからである。
新しいエルサレムの教義177
たれも新しい生命、即ち、霊的生命に属した物を知らない限り、再生することは出来ない。新しい生命に、または霊的生命に属したものは信じなくてはならない真理と行わなくてはならない善であり、前のものは信仰に、後のものは仁慈に属している。これらのものは何人も自分自身では知ることは出来ない。なぜなら人間は感覚に明白である物のみを悟り、そこから彼は自然的な光と呼ばれる光を自分自身に得、その光から世と自己に関係した物以外の物は何一つ認めないし、天界と神に関係したものは何一つ認めないからである。これらは彼は啓示から学ばなくてはならない。例えば永遠から神であられる主が人類を救うために世に来られたこと、かれは天界を支配する一切の力を持たれること、信仰のすべてと仁慈のすべては、引いては真理と善のすべてはかれから発していること、天界と地獄の存在すること、人間は永遠に生きるものであること、もし善を行ったならば天界に、悪を行ったならば地獄に生きるものであるというようなこと(を学ばなくてはならないのである)。
新しいエルサレムの教義178
こうした、またその他多くの事は信仰に属しており、再生しなくてはならない人間はそれをしらなくてはならない、なぜならそのことを知る者はそのことを考え、後にはそのことを欲し、最後にそのことを行い、かくて新しい生命を得ることが出来るからである。一方主が人類の救い主であられることを知らない者は主を信じ、主を愛することは出来ず、それで主のために善を行うことは出来ない。善は凡て主から発していることを知らない者は自分の救いは主から来ていることを考えることは出来ず、ましてそれがそうであることを欲することは出来ず、それで主から生きることは出来ない。地獄と天界が在ることを知らず、また永遠の生命の在ることを知らない者は天界の生活について考えることは出来ないし、またそれを受けるように自分自身を整えることも出来ない。他の場合も同じである。
新しいエルサレムの教義179
人間は各々内なる人と外なる人を持っており、内なる人は霊的な人と呼ばれるものであり、外なる人は自然的な人と呼ばれるものであって、人間は再生するためには、その各々が再生しなくてはならない。再生しない人間のもとでは外なる、または自然的な人が支配して、内なる人はそれに仕えているが、しかし再生した人間のもとでは内なる、または霊的な人が支配して、外なる人がそれに仕えている。ここから人間のもとにはその出生から生命の秩序が転倒していることが明白であり、即ち、支配しなければならぬものが仕え、仕えなければならないものが支配しているのである。人間は救われるためにはこの秩序が転倒しなくてはならず、そしてこの転倒は主による再生によらなくては決して存在することは出来ない。
新しいエルサレムの教義180
内なる人が支配し、外なる人が仕えるとは、またその反対に内なる人が仕え、外なる人が支配するとはいかようなことであるかは以下により説明することが出来よう―もし人間がその凡ての善を快楽に、利得に、誇りにおき、憎悪と復讐に歓喜を覚え、自分自身の中にそれを確認する理由を探し求めるならば、そのときは外なる人が支配し、内なる人が仕えているのである。しかし人間が良く、誠実に、公正に考え、また意志する[欲する]ことに、また外面的にも同じように話し、行うことに善と歓びとを認めるときは、内なる人が支配し、外なる人が仕えているのである。
新エルサレムの教義181
内なる人が先ず主によって再生し、後に外なる人が再生し、それで後のものは前のものによって再生する。なぜなら内なる人は信仰と仁慈に属した事柄を考えることによって再生するが、外なる人はそうした事柄に従った生活によって再生するからである。このことが主の御言葉によって意味されている―
人はもし水と霊とで生まれないなら、神の国に入ることは出来ない(ヨハネ3・5)。
『水』は霊的意義では信仰の真理であり、『霊』はそれに従った生活である。
新エルサレムの教義182
再生した人間は、その内なる人の方面では、天界にいて、そこで天使たちと共になっており、その天使たちの間に死後また入って来て、天界の生活を送り、主を愛し、隣人を愛し、真理を愛し、真理を理解し、善を楽しみ、そこから生まれてくる幸福を認めることが出来るのである。
「天界の秘義」から
新しいエルサレムの教義183
「再生」とは何か、なぜそれが行われるか」。
現今再生のことは殆ど知られていない、その理由(3761、4136、5398番)。人間は凡ゆる種類の悪の中へ生まれており、かくて彼は、その固有性の方面では、生来悪以外の何ものでもない(210、215、731、874−876、987、1047、2307、2308、3518、3701、3812、8480、8549、8550、8552、10283、10284、10286、10731番)。人間の遺伝性は悪以外の何ものでもない。この教義の中の前の引用文を参照されよ(83番)。人間の固有性もそれと同じである。その同じ記事を参照されよ(82番)。人間その者は、その人間がその遺伝性と固有性とに影響されている限り、獣よりも悪い(637、3175番)。それで彼は彼自身では絶えず地獄の方を眺めている(694、8480番)。それでもし人間はその人間自身の固有性により導かれるならば、決して救われない(10731番)。
人間の自然的生命は霊的生命に反している(3913、3928番)。人間が自分自身から、または固有性から行う善は、彼はそれを自己と世のために行っているため、善ではない(8480番)。主と天界とが現存することが出来るためには、人間の固有性は遠ざけられねばならない(1023、1044番)。それは、彼が主によって再生するとき、実際遠ざけられる(9334−9336、9452、9454、9938番)。それで彼は新しく創造されねばならない、即ち、再生しなくてはならない(8548、8549、9452、9937番)。聖言では人間を『創造ること』は彼を再生させることを意味している(1688、10634番)。
人間は再生によって主に連結する(2004、9338番)。また天界の天使と共になる(2474番)。彼は主により善によって導かれる状態にいない中は天界に入らないが、それは彼が再生したとき起る(8516、8539、8722、9139、9832、10367番)。
再生しない人間の中には、外なるまたは自然的な人が支配して、内なる人が仕えている(3167、8743)。かくて人間の生命の状態はその出生の時から転倒しており、人間は救われるためには、それは再び転倒しなくてはならない(6507、8552、8553、9258番)。再生の目的は内なるまたは霊的な人が支配し、外なる自然的な人が仕えることである(911、913番)。なぜなら再生の後は自己と世への愛はもはや支配しないで、主と隣人に対する愛が支配し、それで主が支配されて、人間は支配しないからである(8856、8857番)。ここから人間は再生しない限り救われることが出来ないことが明白である(5280、8548、8772、10156)。再生は人間の生命を永遠に完全なものにする面(プレイン)である(9334番)。再生した人間は永遠に完成される(6648、10048番)。再生した人間と再生しない人間との性質が記されている(977、986、10156番)。
新しいエルサレムの教義184
「誰が再生するか」。
人間は信仰の諸真理と仁慈の諸善を教えられない限り、再生することは出来ない(677、679、711、8635、8638−8640、10729番)。単に真理の中にのみいて、善の中にいない者は再生することは出来ない(6567、8725番)。何人も仁慈の中にいない限り再生しない(989番)。良心を持った者以外には誰一人再生することは出来ない(2689、5470番)。凡ての者は、聖言から来ている教会の教義から発した信仰の諸真理により、主に対する愛の善と隣人に対する仁慈の善を受けるその能力に従って再生する(2967、2975番)。誰が再生することが出来、また誰が再生することが出来ないか(2689番)。信仰と仁慈との生活を送っているが、世で再生していない者たちは他生で再生する(989、2490番)。
新しいエルサレムの教義185
「再生は主のみから発している」。
主のみが人間を再生させられ、人間も天使もそのことには寄与しない(10067番)。人間の再生は主の栄化の映像[主の栄化を映し出している像]である。即ち、主はその人間性を神的なものになされたように、その再生させられる人間を霊的なものになされる(3043、3138、3212、3296、3490、4402、5688、10057、10076番)。主はその再生させられる人間全体を得ようと望まれ、その一部分(のみ)を得ようとは望まれない(6138番)。
新しいエルサレムの教義186
「更に再生に関連した事項」。
人間は信仰の諸真理とそれに従った生活により再生する(1904、2046、9088、9959、10028番)。このことは主の御言葉により意味されていることである―
人間は水と霊から生まれないなら、神の国に入ることは出来ない(ヨハネ3・5)。
『水』は信仰の真理を意味し、『霊』はそれに従った生活を意味している(10240番)。
(中略)
再生は人間の全生活の間継続するため、そのアルカナは無数である(2679、3179、3584、3665、3690、3701、4377、4551、4552、5122、5126、5398、5912、6751、9103、9258、9296、9297、9334番)。これらのアルカナの何れも殆ど人間には知られていないし、また認められもしない(3179、9336番)。このことが主の御言葉により意味されているものである―
風はその好きなところに吹く。あなたはその音を聞くが、それが何処から来て、何処に行くかを知らない、御霊によって生まれる者もすべてこのようである(ヨハネ3・8)。
(中略)
内なる人は天界の光の中にあり、外なる人は世の光の中にあるため、内なる人は外なる人よりも前に再生しなくてはならない(3321、3325、3469、3493、4353,8746、9325番)。外なるまたは自然的な人は内なる人または霊的な人によって再生する(3286、3288、3321番)。外なるまたは自然的な人が再生しない中は人間は再生しない(8742−8747、9043、9046、9061、9325、9334番)。自然的な人が再生しない限り、霊的な人は閉じられている(6299番)。そしてそれは信仰と愛との真理と善とについていわば盲目である(3493、3969、4353、4588番)。自然的な人が再生すると、人間全体が再生する。このことは『弟子たちの足を洗うこと』と主の以下の御言葉によって意味されている―、
洗われた者は足を除いて洗われる必要はない、全身が清い(ヨハネ13・9、10、10243番)。
聖言では『洗うこと』は霊的に清められること、即ち、悪と誤謬から清められることを意味している(3147、10237、10241番)。そして『足』は自然的な人に属したものを意味している(2162、3761、3986、4280、4938−4952番)。それで『足を洗うこと』は自然的な人を清めることを意味している(3147、10241番)。
(中略)
再生しつつある人間のもとにある真理への最初の情愛は純粋なものではないが、しかし継続的に清められる(3089、8413番)。再生しつつある人間のもとでは悪と誤謬とは徐々に遠ざけられ、急速には遠ざけられない(9334、9335番)。人間の固有性の悪と誤謬とは依然止まっており、再生によってのみ遠ざけられる(865、868、887、929、1581、2406、4564、8206、8393、8988、9014、9333−9336、9445、9447、9448、9451−9454、9938、10057、10060番)。人間は完全なものと呼ばれるほどには決して再生することは出来ない(894、5122、6648番)。悪い霊らは再生した人間を決して襲わない(1695番)。教会で教えられている義認を信じる者は再生については殆ど(何事も)知らない(5398番)。
(中略)
再生する者は必然的に試練を受けなくてはならない(3696、8403番)。それは試練は善と真理とが連結するために、また内なる人と外なる人とが連結するために起るからである(4248、4272、5773番)。
慈悲を持たない限り、自分は再生したものであるとは決して言うことは出来ない
天界の秘義989
何人も仁慈が自分の信仰の第一次的なものであることを承認し、信じない限り、また隣人に対する愛に動かされて、彼に慈悲を持たない限り、自分は再生したものであるとは決して言うことは出来ないのである。
天界の秘義2228
全地球の中の凡ゆる人間が『地の凡ゆる国民』により意味されていないことはたれにでも明白である、なぜなら彼らの中には救われない者が非常に多くいて、ただ仁慈の中にいる者のみが、即ち、仁慈の生命に達した者のみが救われるからである。
天界の秘義2228 [2]
このすべては信仰の何であるかを、即ち、それは仁慈であることを示している、なぜなら信仰の教義のものであると言われているものはことごとく仁慈に導くのであって、仁慈の中にそれらのものはすべて含まれており、仁慈からそれらのものはすべて派生しているからである。霊魂は、身体の生命の後では、その霊魂の愛のあるがままに止まるのである。
霊界日記1246
さらに、彼らは地獄にいるため、彼らは、彼らに何らかの危害が加えられるよりは、むしろ憐れまれねばならないのである。なぜならもし私が、仮にも彼らに話してはならないとするなら、またはある霊魂たちが身体における生活から身につけてしまった言い方で彼らに突っけんどんな事柄を話すとするなら、彼らはさらに苦しみを覚えるからである。そのことは慈悲と仁慈に反するであろう、なぜなら悪魔にすら善かれと願うことがキリスト教であるからである。
28.サンダー・シング
サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P154
子が親の性格を大きく受け継ぐというのは事実である。子はまた、親の習慣やその仲間といった環境の影響も受ける。悪しき環境に生きる親の子が悪くなるのも無理からぬことで、あらゆる状況が善くなることを阻んでしまうのである。こんな子供が善くなったとしたらまさに奇蹟であろう。しかし、このような奇蹟は多かれ少なかれどこででも起こっていることである。こうした奇蹟は、枷(かせ)を断ち切り、罪の呪縛から人を解き放ち、罪人を新しい存在に変える大きな力が秘められていることを証明する。新生とはこのようなものだ。秘められた大きな力とは、悔い改めた者たちの救済のために働く聖霊である。