再生している者以外には何人も知ることはできない

 

 

再生

生まれ出る前に父親を見た人は誰もいない

心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る(マタイ5・8)

 

 

 

 

 

1.再生している者以外には何人も知ることは出来ない

2.主によって救われた者だけが証人となれる

3.挙げられた者以外たれ一人この高揚を知らないし、また自然的な人は自分が挙げられていないことを認めはしない

4.人は新たに生まれないならば、神の国を見ることも、その王を信じることもできない

5.自然的な人は、霊的な人が究極的な真理を確認するに当ってその手段とする物を凡て誤謬と呼ぶ

 

 

 

 

 

1.再生している者以外には何人も知ることは出来ない

 

 

天界の秘義1717[3]

 

外なる人が幾多の試練の争闘なしに内なる人に相応するようになることが出来ると想像する者は誤っている、なぜなら試練は幾多の悪と誤謬とを消散させる方法であり、また同じく諸善と諸真理とを導き入れ、外なる人に属したものを服従に至らせる方法であり、かくてそれは[外なる人は]内的なまたは合理的な人に仕え、またそのことを通して内なる人に仕えることが出来るのであり、即ち、内なる人を通して働かれつつある主に仕えることが出来るからである。これらの事柄が試練により行われることは幾多の試練を通して再生している者以外には何人も知ることは出来ないのである。しかしいかようにしてこれが為されるかは、最も全般的にさえも殆ど記すことは出来ない、なぜならそれは人間が何処からまたいかようにして為されるかを知ることなしに為されるからである、なぜならそれは主の神的な働きであるからである。

 

 

 

天界の秘義984

 

 『地に再び満ちる』ことは外なる人の中に、を意味していることは『地』の意義が外なる人であることから明白であって、その意義についてはすでに幾度も示しておいた。再生した人間の仁慈の諸善と信仰の諸真理とについてはそれらは良心の中に植えつけられるのであり、そしてそれらは信仰により、または聖言を聞くことにより植えつけられるため、それらは外なる人に属した記憶の中に最初存在していると言ってよいであろう。その人間が再生して、内なる人が活動する時、それと同じことが実を結ぶことと増えますことについても起り、即ち、仁慈の諸善は外なる人の諸情愛の中にそれ自身を現わし、信仰の諸真理はその外なる人の記憶の中にそれ自身を現わし、その何れの場合も増大し、増えますのである。この増えますことの性質は再生した人物の各々に知られることが出来よう、なぜなら確認させる事柄が絶えず聖言から、合理的な人から、知識から生まれて、そのことにより彼は益々確認することが出来るのであって、これは仁慈の結果であり、主のみが仁慈を通してその業を行われるからである。

 

 

 

 

2.主によって救われた者だけが証人となれる

 

 

サンダー・シング/イエス・キリスト封印の聖書/P387

 

しかし、罪人であり主の御恵みによって救われた人々、彼らのみが「今やわたしは救われました」と証言できるのです。盲目に生まれついた人が、「わたしは目が見えなかったが、今は見える」と証言するのと同じです。大いなる罪人であった人々、彼らこそが「自分は盲目だったが今は見える。わたしたちがこの世における主の証人である」と語れるのであります。イエス・キリストが胸の中に生きているときに、ただ唇を通してだけでなく、わたしたちの生き方が常に主を証言するのであります。

 

 

 

 

3.挙げられた者以外たれ一人この高揚を知らないし、また自然的な人は自分が挙げられていないことを認めはしない

 

 

結婚愛347

 

「一夫多妻者として止まる限り、霊的なものになることは出来ない」。霊的になることは自然的なものから挙げられることであり、即ち世の光と熱から天界の光と熱の中へ挙げられることである。挙げられた者以外たれ一人この高揚を知らないし、また自然的な人は自分が挙げられていないことを認めはしない。その理由は、彼は自然的なものではあるが、霊的な人と同じく、その理解を天界の光の中へ挙げることが出来て、霊的に考え、話すことが出来るということである。しかし、もし意志がそれと同時にその理解に従って、その高所へ登らないなら、彼は挙げられはしない。なぜなら彼はその高所に宿ってはいないで、たちまち自分自身をその意志のもとへ引き下ろして、そこに自分の位置を固定させるからである。意志と言われるが、しかし愛もまた意味されているのは、意志は愛を容れる器であるためである。なぜなら人間は愛するものを意志する[い]からである。こうした若干の考察から一夫多妻者は、一夫多妻者である限り、また同一のことではあるが、自然的な人は自然的なものである限り、霊的なものになることは出来ないことが明白である。

 

 

 

 

4.人は新たに生まれないならば、神の国を見ることも、その王を信じることもできない

 

マリア・ワルトルタ/マグダラのマリア/P80

 

ここでイエズスが口を入れる。

「そのまことの秘密を私はあなたに教えよう。この人たちは新しい心、すべての鎖を断ち切った、すべての偏見を捨てた新しい心をもって新たに生まれるのを知ったのです。そのために神を理解した。人は新たに生まれないならば、神の国を見ることも、その王を信じることもできません

 

 

 

 

5.自然的な人は、霊的な人が究極的な真理を確認するに当ってその手段とする物を凡て誤謬と呼ぶ

 

 

天界の秘義5008[7]

 

自然的な人は、霊的な人が究極的な真理を確認するに当ってその手段とする物を凡て誤謬と呼ぶのである、なぜなら霊的な光のものである事柄を自然的な光から見ることは不可能であるため、彼は自分が確認するものは実際そうしたものであるか、否かを認めることは出来ないからである。