心の清い人々は、幸いである、

その人たちは神を見る(マタイ5・8)。

 

内意見る

生まれ出る前に父親を見た人は誰もいない

神を見る

 

 

1.聖書

2.神を信じること、かくて神を信仰によって見ること

3.聖母から司祭へ

4.ヴァッスーラ

5.マリア・ワルトルタ

 

 

 

 

1.聖書

 

 

マタイ5・8

 

心の清い人々は、幸いである、

その人たちは神を見る。

 

 

 

 

2.神を信じること、かくて神を信仰によって見ること

 

 

天界の秘義3863[9]

 

 さらに―

 

 あなたの目は王の美しさを見、遥か遠くの地を見るであろう(イザヤ33・17)。

 

 『王の美しさを見ること』は、主から発して、善から『美しい』と呼ばれているところの信仰の諸真理を意味し、『遥か遠くの地を見ること』は愛の善を意味している。(『王』は信仰の諸真理であることは前の1672、2015、2069、3009、3670番に見ることができ、『美しい』は善から述べられ、553、3080、3821番、『地』は愛の善である、620、636、3368、3379番)。マタイ伝には―

 

「心の清い者は祝福されている、彼らは神を見るからである」(マタイ5・8)。

 

ここでは「神を見ること」は神を信じることであり、かくて神を信仰によって見ることである。なぜなら神は信仰の中におられ、信仰の中にあって真の信仰を構成しているものであられるため、信仰の中にいる者たちは、信仰から神を見るからである。

 

 

 

聖書57(3)

 

「教義から生まれなくてはならない純粋な真理は主から明るくされている者以外には文字の意義には現れていない」。

明るくされることは主のみから発していて、真理をそれが真理であるために愛して、それを生命[生活]に役立たせる者たちのもとに存在している。他の者らは聖言を明らかに示されはしないのである。明るくされることは主のみから発している理由は主は聖言の凡ゆる物の中におられるということである。真理をそれが真理であるために愛して、それを生命[生活]に役立たせる者たちが明るくされる理由は、そうした者たちが主の中におり、主はその者たちの中におられるということである。なぜなら主は主御自身の神的真理であられ、それが神的真理であるため愛されるとき(そしてそれはそれが生命のために用いられるとき愛されるのであるが)主は人間のもとでその中におられるからである。このことを主はヨハネ伝に伝えられている―

 

かの日あなたたちは、あなたたちがわたしの中におり、わたしがあなたたちの中にいることを知るでしょう。わたしの戒めを守って、それを行う者はわたしを愛するのであり、わたしもかれを愛して、かれにわたし自身を明らかにしよう、そしてわたしはかれのもとへ来て、かれのもとに住むであろう(14・20、21、23)。

 

またマタイ伝に、

 

心の純潔な者は祝福されている、なぜなら彼らは神を見るからである(5・8)

 

これらの者は聖言を読んでいるとき明るくされ、聖言が輝き出で、それが透明なものとなる者たちである(5・8)。

 

 

 

天界の秘義9411

 

「彼らは神を見た。」これが信仰を意味していることは、『神を見ること』の意義から明白であり、それは理知と信仰を与えられることである、なぜなら内意では『見ること』は霊的に見ることであり、霊的に見ることは信仰から見ることであり、ここから聖言では『見ること』は信仰を持つことを意味しているからである(2325、3863、3869、4403−4421、5400、6805、9128番)。彼らがイスラエルの神を、即ち、主を見たことは、シナイ山から布告された律法は広い意味では聖言の全総合体を意味し、聖言は主から発した神的真理であり、それはその最高の意義では主のみを取り扱っているためである。それで聖言を読んでいる時明るくされている者たちは主を見まつるのであり、そのことは信仰から、また愛から起るのである。このことは聖言の中にのみ起るのであって、他のいかような文書の中にも起りはしないのである。

 

 

 

天界の秘義9818[]

 

 ダビデの書には―

 

  ああ、神よ、わたしの中に清い心[心情]を創造りたまえ、わたしの真中に確固として霊を新にしたまえ。あなたの御前からわたしを投げ棄てたまうな、わたしからあなたの聖い霊を取り去り給うな。あなたの救いの喜びをわたしに回復し、率直な心にわたしを支えさせたまえ。神の生贄は砕かれた霊である、砕かれた、悔いた心を神は卑しめられはしない(詩篇51・10−12、17)。

 

『清い心[心情]』は不潔な悪を嫌悪する意志を意味し、『確乎とした霊』は真理の理解と信仰を意味し、『砕かれた霊』と『砕かれた心』は試練の状態とその結果起ってくるこの二つのものの生命の卑下とを意味している。『霊』が生命を意味していることは前の表現の各々から明らかである。この生命が発してくる源泉である神的な真理[神の真理]は『聖い霊』である。さらに―

 

 その心[心情]を正しくしないし、またその霊が神に対してかたく定まっていない世代の者(詩篇78・8)。

 

『正しくない心』は意志が正しくないことを意味し、『神に対しかたく定まっていない霊』は理解と信仰とが確く定まっていないことを意味している。

 

 

 

 

3.聖母から司祭へ

 

 

聖母から司祭へ1997.2.2

 

「心の清い人は幸いである。」

心の清さは愛の完成から生まれます。そのために、愛する者だけが心の清さに達することができ、心の清い者だけが神をみることができるのです。

 

 

 

聖母から司祭へ1980.3.1

 

私の道を歩むためには、ただ一つ条件があります、清い心をもつことです。

 心の清い人は、しあわせです。見ることができるからです。

 砂漠で、私は、ますますあなたがたの心を清めます。それは、あなたがたが、知恵の光に包まれて、おん父のご計画を見ることができるためです。

 

 

 

 

4.ヴァッスーラ

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/10巻P116

‘00・8・5

 

自分の声ではなく 私の声を聴く人は誰であっても 私の知恵を深く理解し、我が言葉は太陽に向けられた鏡のように 霊魂のうちに輝きを放つ。 我が言葉を読んで自分を小さくし 寛大と愛をもって私を尊ぶ者は誰であっても、目の鱗が落ちて 近づき難い栄光のうちなる 私を見よう。そう、その目は 見えてはいなかったもの 到達しがたく 聖人たちだけに取っておかれたものを くまなくはっきりと見よう。

 

たぶん我が言葉は、時代よ、あなたにとっては分かりづらい しかし その日には目の鱗が落ち、私が父のうちにおり、あなたは私のうちに そして私はあなたのうちにいることを知るであろう、とかつて言わなかったか? 私の掟を保ち それを守る者、その者は 私を愛する者だと言ったであろう? そして私を愛する者は誰であろうと 御父に愛され、私はその人を愛し 私自身を顕す と。 そう! そして我が栄光のうちに あなたは私を見よう。

 

 

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/10巻P137

‘06・10・31

 

間もなく 私は地上を訪れる。 時代よ、あなた方のほとんどが忘れ去った者、統治者が 言っておく、私は地上で自分の地位に就く、と。

 

あまりに多くの人が こう尋ねる、「どのように主は 来られるのだろうか?」 私は こう答える、「時の初め 人間が地上に置かれて以来、常に悪の勝利は短かったことを知らないのか? 我が勝利に呑まれてしまうがゆえ 悪の勝利は今や ほとんど終わりかけている。 アーロンの杖を私がへびに変え ファラオのへびを呑み込んだように、我が勝利も同じく 悪人の勝利を呑みこんでしまう ♡ この勝利によってあなた方皆が 我が聖なる名を誉め称えるように!

 

それからは 我が民の間にとどまる・・・・そしてあなた方は神なる、私と旅をし、連れだって歩もう。 かつては手が届かないと思った者と あなたは歩み・・・かつては心から閉め出した者と話し(*)、至高の神なる私と会話する、こうして至高の神なる私が あなたの心に現存し、善い助言者として、人生の小道を指し示していく。 我が天使たちの間を 私と共に霊魂が歩めるように 節制、賢明さと義、剛毅、そのほか霊魂に必要なあらゆるものを与えよう。 そのとき地上の我が王国は 復興する(*1)。

 

そう、この世に生きている間も 神を見るのは可能である。 地上に留まっていながら 私を観想するのは可能である、そう! 地上にいながらあなたの神であり全てなる、私の深淵に分け入り 所有することはできる。これはあなたにとって 新しいいのち(*2)のはじまりとなろう、伝聞や言葉や本を通して私を知るだけでなく 聖霊の与える恵みによって 真理のうちに そして回心を通して私を知るようになるゆえ。 私を凝視することが 不滅性を与えるゆえ それ自体がいのち・・・こうした仕方で 私は地上を訪れる、我が子たちよ。

 

今や 我が神秘を理解したであろう?」 ic

 

  同時に「対話し」、という言葉も聞こえました。

  1「主の祈り」の中の、「み国が来ますように、み旨が天に行われる通り地にも行われますように」とは、キリストが、「そのとき地上の我が王国は 復興する」と宣言された文を説明するものです。

  2「旅路」とも聞こえました・・・

 

 

 

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/10巻P148

 

愛する者よ、来なさい、あなたにとって不変の故郷、霊魂の唯一まことの住まい そして唯一まことの安息の地に向う小道に入ってきなさい。 来て 我が心の寝所に足を踏み入れなさい。 私へと続く美徳の道を歩むように 招いている。 優しい花婿として、我が宝で霊魂を飾ろう、しかし真っ先に、我が神性をもって 霊魂を飾ろう。 女王(*)のように、あなたを我が名と現存そのものによって 荘厳に飾る。 あなたの霊魂を生ける祭壇、神なる私に向ってとこしえに歌われる賛美の歌とする。 偉大な王、自然界を越える存在である私は あなたの霊魂と交わり あなたと私は一つになる。

 

あなたはひとりでは何もできない、それゆえ、あなたの全身を恵みによって照らすには 純粋な光である、私の現存が不可欠。 そして我が天使たちに私自身を顕しているように この光を通してあなたにも 私自身を顕そう、こうして初めて

  <私は見える・・・>

とあなたは言えよう。 そのときは、私自らをあなたに知らせる。 あなたと会話し、あなたも私と会話する。 三位一体の本来の神が はるばる身を屈めて 私が造り直し 恵みによって私より生まれ出て 神となった者と会話する。 養子となった我が王国の跡継ぎと 会話するために。 弱々しく、堕落しやすいあなたが 自分のどうしようもなく悲惨な霊魂を見て 真に悔い改めるなら、あなたを私の全き肖りに似た者とすることができる。

 

*キリストが霊魂に言及されるときは、女性名詞として話されます。「女王」という表現も そのように説明できます。

 

 

 

 

5.マリア・ワルトルタ

 

 

マリア・ヴァルトルタ「手記」抜粋/天使館/P8

 

 もしわたしが、死すべき存在であるあなたたちに、マリアその人の美を見ることを好意的に認めるなら、あなたたちは恍惚のうちに聖化されるだろう。わたしの母が何者であるかをあなたたちに語るために比較に耐えるものは宇宙にはない。あなたたちは聖なる者でありなさい。そうすれば彼女を見るだろう。