神を見る

 

 

心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る(マタイ5・8)

主は聖言を通して語られる

 

 

 

出エジプト記24・9−11

 

 モーセはアロン、ナダブ、アビフおよびイスラエルの七十人の長老と一緒に登って行った。彼らがイスラエルの神を見ると、その御足の下にはサファイアの敷石のような物があり、それはまさに大空のように澄んでいた。神はイスラエルの民の代表者たちに向かって手を伸ばされなかったので、彼らは神を見て、食べ、また飲んだ。

 

 

 

天界の秘義9405

 

「彼らはイスラエルの神を見た。」 これは主が聖言の中に来られて、現存されたことを意味していることは『見ること』の意義から明白であり、見られ給うたのが主である時は、それは主が来られて、現存〔臨在〕されることである(4198、6893番)。『イスラエルの神』が主を意味していることは、かれが『イスラエルの聖者』、『イスラエルの神』と呼ばれ給うている聖言の凡ての記事から明白である(7091番)。『イスラエルの神』が霊的な教会の神を意味していることは、『イスラエル』によりこの教会が意味されるためである(そのことについては前の9404番を参照)。『彼らがイスラエルの神を見た』により意味されていることは主が聖言の中に来られて、現存されることであることは、シナイ山から布告された律法により広い意義では神的真理の凡てが意味され、かくて聖言の各々の、また凡ての事柄の方面が意味していることは、聖言は主から発出している神的真理であり、主から発出しているものは主御自身であるためである。それで聖言を読むと同時に主を仰ぎ、真理はことごとく、また善もことごとく主から発していて、何一つ自分自身からは発してはいないことを承認している者たちは、聖言から明るくされて、真理を見、善を認めるのである。この明るくされることは天界の光から発しており、その光は主から発出している神的真理そのものである、なぜならこれは天界の天使たちの前には光として現れているからである(2776、3195、3339、3636、3643、3862、3993、4302、4413、4415、5400、6032、6313、6608番)。

 

 

 

天界の秘義9405〔2〕

 

 聖言の中に主が来られて、現存されることもまた『人の子を見ること』により意味されている、例えばマタイ伝には―

 

 その時人の子のしるしが現れて、彼らは人の子が力と栄光とをもって天の雲の中に来るのを見るであろう(また24・30、また4060番を参照)、

 

なぜなら『雲』は聖言の文字の意義を意味し、『力と栄光』はその内意を意味しているからである。聖言の文字の意義が『雲』と呼ばれていることは、それが世の光の中に在るためであり、内意が『栄光』と呼ばれているのは、それが天界の光の中に在るためである(創世記18章序言と5922、6343、6752、8106、8267、8427、8443、8781番を参照)。更に聖言の内意では、主のみと主の王国と教会が取り扱われているのである。ここから聖言の聖さが発しており、また、前に言ったように、聖言を読んでいる間に、自分自身を眺めないで、主と隣人とを注視し、即ち、自分の同胞の、自分の国の、教会の、天界の善を注視する者たちのもとに主が来られて、現存されることが発しているのである(6818−6824、8123番)。その理由は主を仰ぐ者たちは自分自身が主により天界の光の中へ挙げられることに堪えるものの、自分自身を眺める者らは自分自身が挙げられることに堪えないということである、なぜなら彼らは自分自身と世とにその視線を固定させているからである。このことから『主を聖言の中に見ること』により意味していることを認めることが出来よう。

 

 

 

天界の秘義9411

 

「彼らは神を見た。」これが信仰を意味していることは、『神を見ること』の意義から明白であり、それは理知と信仰を与えられることである、なぜなら内意では『見ること』は霊的に見ることであり、霊的に見ることは信仰から見ることであり、ここから聖言では『見ること』は信仰を持つことを意味しているからである(2325、3863、3869、4403−4421、5400、6805、9128番)。彼らがイスラエルの神を、即ち、主を見たことは、シナイ山から布告された律法は広い意味では聖言の全総合体を意味し、聖言は主から発した神的真理であり、それはその最高の意義では主のみを取り扱っているためである。それで聖言を読んでいる時明るくされている者たちは主を見まつるのであり、そのことは信仰から、また愛から起るのである。このことは聖言の中にのみ起るのであって、他のいかような文書の中にも起りはしないのである。

 

 

 

霊的な生命・神の聖言P31

 

 人間が、悪が罪であるため、それを避け、そこから離れる時、彼は神はおられ、神は一人であられることを天界の光から認めるのみでなく、また神は人間であられることを認めるのである。なぜなら彼は彼の神を見ようと願い、神を人間としてしか見ることが出来ないからである。(黙示録講解955番)。