主は聖言を通して語られる

 

 

わたしの羊はわたしの声を聞き分ける(ヨハネ10・27)

神を見るみことばを読んで自らを教育しなさい

 

 

 

1.スウェーデンボルグ

2.ヴァッスーラ

3.聖母から司祭へ

4.サンダー・シング

5.ピオ神父

6.主が聖言の中に来られて、現存された

 

 

1.スウェーデンボルグ

 

 

聖書78

 

 さらに、主が人間のもとに現存されて、人間に連結されるのは、聖言によるのである。なぜなら主は聖言であられ、その中でその人間といわば話されるからである。主はまた、聖言も同じく神的真理そのものであるように、神的真理そのものであられる。このことから、人間が聖言を理解するのに従って、主はその人間のもとに現存されると同時に、その人間と連結されることが明白である。なぜならその人間は理解に従って真理とそこから派生する信仰とを得、また愛とそこから派生する生命とを得るからである。主は実に人間のもとに聖言を読むことを通して現存されてはいるが、しかし聖言から真理を理解することを通して、またその理解に従って人間と連結されるのであり、そして主が人間と連結されるに比例して、教会はその人間の中に存在するのである。

教会は人間の中に在るのであって、人間の外にある教会は己が中に教会をもった幾多の人間のもとにある教会である。このことが神の国は何時来ましょうかとたずねたパリサイ人に答えられた主の御言葉の意味である―

神の国はあなたたちの中にある(ルカ17・21)

ここでは「神の国」は主を意味し、主から教会を意味している。

 

 

 

天界の秘義6752[]

 

モーセにより歴史的な聖言の方面の主が表象され、エリアにより予言的な方面の主が表象されたため、それで主が御形を変えられた時、モーセとエリアとが主と話しているのが見られ(マタイ17・3)、主の神的なものが世に現れた時は、聖言を表象した者たち以外には何人も主と話すことも出来なかったのである、なぜなら主と話すことは聖言を通して為されるからである。

 

 

 

新エルサレムの教義263

 

 聖言は記されたからには、主はそれにより人間に語られる(10290番)。

 

 

 

天界の秘義10290

 

「エホバはモーセに言われた」(出エジプト30・34)。

これは聖言を通して主により明るくされ、認識することを意味していることは以下から明白である、すなわち、『言うこと』の意義は、それがエホバから言われているときは、明るくされて、認識することであり(それが明るくすることを意味していることについては、7019、10215、10234番を、それが認識することを意味していることについては、1791、1815、1819、1822、1898、1919、2080、2862、3509、5877番を参照されたい)、モーセの表象は聖言である(6752、7014、7089番)。聖言の『エホバ』が主を意味していることについては、9373番に引用されたところを参照されたい。ここから『エホバがモーセに言われた』により主により聖言を通して明るくされ、認識することが意味されていることが明らかである。

 

 

 

天界の秘義10290 []

 

このことが意味されていることは主は教会の人間とは聖言以外のいかような方法によっても話されはしないためである、なぜなら主はそのとき人間を、彼が真理を認識するように明るくされ、また彼に、それがそうであることを認める認識を与えられるからであるが、しかしそれはその人間における真理を求める願望の質に応じて行われており、人間における真理を求める願望はその真理を求める彼の愛に従っているのである。真理のために真理を愛する者たちは明るくされるのであり、善のために真理を求める者たちは認識するのである(認識の何であるかについては、483、495、521、536、597、607、784、1121、1387、1919、2144、2145、2171、2515、2831、5228、5920、7680、7977、8780番を参照)。

 

 

 

天界の秘義10290 []

 

しかし主は、聖言が布告され、各々の、また凡てのものに内意が存在するために、モーセと予言者とは生きた声により話されたのである。従ってまた『エホバはモーセに言われた』というこの言葉においては、内意にいる天使たちは『モーセ』の何であるかを知らないのである、なぜなら人物の名は天界に入りはしないで(10282番)、『モーセ』に代って彼らは聖言を認識し、『言われた』の表現は彼らのもとではその内意に一致したものに変化し、かくてここでは明るくされて、認識することに変化しているのである。さらに天使たちの観念の中では、『言うこと』と『話すこと』は、それが主が聖言を通して話されることについて言われているときは、それ以外の何ものでもないのである。

 

 

 

天界の秘義10548[2]

 

『聖言の外なるものによって』と言われていることは、教会を作り、礼拝に入っている信仰の諸真理と愛の諸善とにかかわる教訓はことごとくこの源泉から発しているためであり、また主にたずねることは聖言にたずねることであるためである。なぜなら聖言は主から発出している神的な真理であり、また主は天使たちのもとに主の神的な真理の中におられ、また主を受け入れる教会の人間たちのもとにおられるからには、主は聖言の中に現存されているからである。

 

 

 

黙示録講解1136(9)

 

神は神御自身から、または天使たちを通して直接に人間に教えられはしないで、聖言、説教、読書、他の者たちとの会話と交わりにより、かくて人間自身のもとでこれらの事について色々と考えることにより教えられるのである。人間はそのとき用から発する真理に対する情愛の度合いにおいて明るくされるのである。

 

 

 

主の聖言29―経験から―(『仁慈の教義』に併録)

 

 さらに、いかような霊にも、または天使にさえも、この地上で神の真理を人間に教えることは許されてはいないで、主御自身が聖言を通して各々の者に教えられるのであり、その人間がその意志の中に主から善を受け入れる限り、彼に教えられるのであり、その人間は(いくたの)悪を罪として避ける限り善を受け入れるのである。

 

 

 

天界と地獄305

注2

 

主は聖言が記されて以来、聖言により人間と話される、10290.

 

 

 

霊的な生命・神の聖言―遺稿―163

 

約言すると、真理をそれが真理であるために愛する者は、いわば、信仰の疑わしい事柄については、主にお尋ねして、主から答えを受けることが出来るが、しかし、主は聖言であられるため、聖言を除いては何処にも、答えを受けることは出来ないのである(黙示録講解1089番)。

 

 

 

神の摂理135

 

「にも拘らず、天界の天使と語ることは稀にしか許されないけれど、霊たちと語ることは時々許され、それはこれまで数代にわたって多くの者に与えられてきた、が。これが許される時は、霊たちは人間とその母国語で語って、しかも二、三語を語るに過ぎない。しかし主の許しにより語る者は、人間の理性の自由を取り去る事は決して語らないし、また人間に教えもしない、なぜなら主のみが人間に教えられるからであるが、しかしそれは人間が明るくされている状態にいる間に、聖言を通して間接的に教えられるのである。このことについては今後さらに述べよう。私はこのことの真理を個人的経験により知ることを許されたのである。私は今や数年間霊たちと天使たちと語り合っているが、如何なる霊も聖言の如何なる事柄についても、または聖言から引き出される如何なる教義についても敢えて私に語ろうとはせず、まして教えようとはせず、また如何なる天使もそのようなことは欲しなかったのであり、主のみが私に教えられたのである。主は私に御自身を示され、以後絶えず私に見られ、丁度天使により見られるように、常に太陽として見られて、その内に住まわれ、かくして私を明るくされたのである。」

 

 

 

聖書2

 

しかしこのように考える者は、天地の神、エホバ御自身がモーセと予言者たちとを通して聖言を語られたのであって、それでそれは神的な真理そのものであるにちがいない、なぜならエホバ御自身の語られるものはそれ以外のものではありえないから、とは考えない。また彼は、エホバと同一の方である主は福音書に在る聖言を、その多くを御自身の御口で、他のことを聖霊である御口の霊から話されたことも考えない。

 

 

 

 

2.ヴァッスーラ

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち9巻P225

 

みことばを通して 私は我が意思を知らせる。

 

 

 

 

.聖母から司祭へ

 

 

聖母から司祭へ1984.1.28

 

 わたしのメッセージを含んでいるこの本も、わたしの汚れなき心のおくりものです。

 ひじょうに特別なおくりものです。

 わたしのこの本の中に、あなたがたが知らねばならないことは示されています。それで、もし、あなたがたが、これを正しく読むなら、その中にわたしの計画の準備も、その苦しい実現も、またその輝かしい勝利の完成も、すべて含まれています。

 愛する子らよ、この本を読み、黙想し、これに生きるようにしてください。疑ってはなりません。話しているのは、わたしです。この言葉を通して、わたしは、この本の中に現存し、自分をあらわしています。母としての、このわたしのメッセージの価値は、後日はじめて分かるでしょう。

 

 

 

 

4.サンダー・シング

 

 

サンダー・シング/イエス・キリスト封印の聖書/P316

 

われらが救い主は、御言葉を通してお話しになります。

 

 

 

 

5.ピオ神父

 

 

ピオ神父/魂の酸素17

 

 この困難な時期には、自分自身のために信仰書を読みなさい。いつもこのような読書をすることを心から勧めます。この読書は、魂にとってすばらしい糧となり、完徳への道で大きく進歩するよう導きます。読書で得られるものは、私たちが祈りや黙想をとおして得るものに、なんら劣ることはありません。

祈りおよび黙想では、私たちが主に語りますが、聖なる読書においては、神のほうが私たちに語られるのです。力の限り、この読書を大切にしなさい。そうすれば、自分が霊的に新しくなってきていることに、すぐにでも気づくでしょう。

 読書を始める前に、思いを主に上げて、神ご自身があなたの思いを導き、心に語りかけ、意志を動かしてくださるように願い求めましょう。

 

 

 

 

6.主が聖言の中に来られて、現存された

 

 

天界の秘義9405

 

「彼らはイスラエルの神を見た。」 これは主が聖言の中に来られて、現存されたことを意味していることは『見ること』の意義から明白であり、見られ給うたのが主である時は、それは主が来られて、現存〔臨在〕されることである(4198、6893番)。『イスラエルの神』が主を意味していることは、かれが『イスラエルの聖者』、『イスラエルの神』と呼ばれ給うている聖言の凡ての記事から明白である(7091番)。『イスラエルの神』が霊的な教会の神を意味していることは、『イスラエル』によりこの教会が意味されるためである(そのことについては前の9404番を参照)。『彼らがイスラエルの神を見た』により意味されていることは主が聖言の中に来られて、現存されることであることは、シナイ山から布告された律法により広い意義では神的真理の凡てが意味され、かくて聖言の各々の、また凡ての事柄の方面が意味していることは、聖言は主から発出している神的真理であり、主から発出しているものは主御自身であるためである。それで聖言を読むと同時に主を仰ぎ、真理はことごとく、また善もことごとく主から発していて、何一つ自分自身からは発してはいないことを承認している者たちは、聖言から明るくされて、真理を見、善を認めるのである。この明るくされることは天界の光から発しており、その光は主から発出している神的真理そのものである、なぜならこれは天界の天使たちの前には光として現れているからである(2776、3195、3339、3636、3643、3862、3993、4302、4413、4415、5400、6032、6313、6608番)。