内意

心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る(マタイ5・8)

 

1.内意はまた聖言から発している教義的な事柄の中にも在る

2.内意は単に外なる意味の中に隠れているかの意味のみではなく、多くの記事の文字の意義が正しく対照されるさい、そこから生まれてくる

3.内意が書物を純粋な聖言にぞくするものとする唯一のもの

4.内意を斥ける者

5.ヴァッスーラ

6.聖言の内意はとくに天使たちのためのもの

7.内意の主要なもの

8.内なる歴史的な意義

9.この知識を手段として人間は天界と交流することができる

10.内的な思考

11.聖言には内意の在ることが極めて明白

12.聖母から司祭へ

13.内意はそれ自身では教会の純粋な教義である

14.マリア・ワルトルタ

15.何よりもまず心得てほしいのは、聖書の預言は何一つ、自分勝手に解釈すべきではないということです

16.内意が無くては決して知ることの出来ない秘義が在る

17.聖言の内意を構成しているものに二つのもの、即ち、情愛と実際の事柄

 

 

 

 

1.内意はまた聖言から発している教義的な事柄の中にも在る

 

天界の秘義3464

 

「その掘った井戸について(それを)かれに示した、かれらは言った、私たちは水を見つけました」。これはこれらのものによる内的な諸真理を意味していることは以下から明白である、すなわち『井戸』の意義は聖言であり(3424番)、『水』の意義は真理であり(2702番)、すなわち、聖言から発している真理であり、かくて『かれらの掘った井戸について(それを)かれに示す』ことは、かれらが教義的なものを得た源泉である聖言について、を意味し、『かれらは言った、私たちは水を見つけました』は、それらのものの中に、すなわち、教義的な事柄の中に内的な諸真理が在ったことを意味している。 なぜなら前に言ったように聖言の文字の意義は水をたたえた井戸のようなものであるため、文字の意義から引き出される凡ゆる教義的な事柄の中には内的な真理が存在しているからである、なぜなら聖言の各々の物と凡ゆる物の中には[聖言の一切のものの中には]内意が在り、内意はまた聖言から発している教義的な事柄の中にも在るからである。

 

 

2.内意は単に外なる意味の中に隠れているかの意味のみではなく、多くの記事の文字の意義が正しく対照されるさい、そこから生まれてくる

 

天界の秘義7233[3]

 

内意は、これまで示してきたように、単に外なる意味の中に隠れているかの意味のみではなく、多くの記事の文字の意義が正しく対照されるさい、そこから生まれてくるものであり、それは主により己が知的なものを明るくされている者たちによって識別されるものである。

 

 

天界の秘義・第三部(創世記22章)序言(2759の次)

 

 文字の意義にのみ止まって、内意を、その内意を説明している聖言の他の記事から探し求めない者はいかに大いに欺かれているかは、多くの異端から極めて明白であり―その異端のおのおのは聖言の文字の意義からその教義を証明しているのであるが―とくにそのことは自己と世への狂った奈落的な愛によりペテロに対する主の聖言から引き出されたかの大いなる異端から明白である―

 

 

3.内意が書物を純粋な聖言にぞくするものとする唯一のもの

 

天界の秘義2899

 

 その後ユダヤ教会に聖言が続いて起り、それも同じように表象的なものと表意的なものとにより記されたが、それはその聖言がその内に天界に理解されている内意を持つためであり、かくて聖言により交流[伝達]が生まれ、諸天界における主の王国が地上における主の王国に結合するためであったのである。聖言における凡ゆるものが、また聖言における凡ゆるものを記している言葉がことごとく主にかかわる神的なものを表象し、意味していないかぎり、かくて主の王国に属している天的なものと霊的なものを表象し、意味していないかぎり、聖言は神的なものではなく、それは神的なものであるため、他のいかような文体によっても到底記されることはできないのである。なぜならその文体によってのみ、人間の事柄と人間の言葉とが、その最小の一点にいたるまでも、天界の事柄と天界の観念とに相応するからである。もし聖言が小さな子供によってさえ読まれても、その中にある神的なものが天使により認識されるのはこのことから発しているのである(1776番)。

 

 

天界の秘義3540

 

ヨブ記は古代教会の書物であることは、前に言ったように、その表象的な表意的な文体から明白である、しかしそれは主とその王国とを専ら取扱っている内意を持っていないため、律法と予言者と呼ばれている書物にぞくしてはいないのである、なぜなら内意が書物を純粋な聖言にぞくするものとする唯一のものであるからである。

 

4.内意を斥ける者

 

天界の秘義1540

 

歴史的なものは主を表象しているものであり、言葉そのものは表象されている事柄を意味しているのである。しかし歴史的なものであるため、読者の心はその歴史的なものの中に留めおかれないわけにはいかない、とくに大半の人間が、実にほとんどすべての者が内意があることを信じていない、まして内意が一つ一つの言葉の中にも在ることを信じていない今日では、その中に留めおかれないわけにはいかないのである、そして恐らく、内意がこれまでかくも明らかに示されて来たという事実にも拘らず、かれらは今でさえもその存在を信じようとはしないであろうが、それは内意は文字の意義の中には殆ど認められないほどにも文字の意義からは遠のいているように見えるという理由によっているのである。

 

 

天界の秘義3427[2]

 

 聖言の内意の実情は以下のようである、すなわち、単なる知識の中にいて、『ペリシテ人』と呼ばれている者らは、また『ゲラルの谷間の羊飼い』と呼ばれて、たんなる信仰の教義的なものの中におり、隣人に対する何らの仁慈の中にいない者らは、聖言の内意が在ることを否定しないわけにはいかないのである。その主な原因は、彼らは唇では主を告白するものの、心では主を承認しないということであり、また隣人に対する愛を口では告白しているものの、心では隣人を愛しないということであり、心で主を承認しないし、心で隣人を愛しない者は聖言の内意を否定しないわけにはいかないのである、なぜなら聖言はその内意では主に対する愛と隣人に対する愛以外には何ものをもとり扱ってはいないからであり、それで主はこの二つの戒めに律法と予言者とが、すなわち、聖言全体がかかっていると言われているのである(マタイ22・37−40)。これらの者は聖言の内意を如何に甚だしく否定しているかもまたわたしは他生におけるこのような人物から認めることを許されたのである、なぜなら文字の意義に現れてはいない聖書の内意が在って、それは主と隣人に対する愛をとり扱っていることが彼らの前でたんに口に出されるのみで、彼らによる否定のみならず、反感と嫌忌とが認められるからである。これがこの否定の主要な原因である。

 

 

 

天界の秘義8928〔2〕

 

 先ず、霊的な教会に属している者たちは自分たちは光の中にいると信じてはいるが、しかし彼らは真理の神的なものについては明確ではなく、否、暗闇(の状態)に置かれていることは以下の事実から明白である、即ち、彼らは教会の言っていることが真であることを何ら内なる確認から知らないで、単に教会がそのように言っているという事実からのみ知っており、そのことをそれが誤っていようが、真であろうが、自分自身のもとで確認しているのであり、真理の神的なものを何ら内的に認識しない者は暗闇の中におり、または、それと同じことではあるが、彼には神的な真理は暗闇となっているのである。例えば、霊的な教会に属している者たちは聖言には何か内意が在ることを知らないし、また知ろうともしないし、何かのことでたまたまそれを信じるにしても全くそれはそれがそうであると内的に認めているからではなく、何か他の源泉から説得されてのことなのである。

 

 

 

霊界日記4413

 

 己が業に功績を置こうとするため、聖言の内なる意義を何ら意に介しない或る一人の者がいた(それはパウロである)。彼は長い間私から遠ざかっており、また最悪の部類の霊共の間にいた。彼は今は最悪の悪魔共と交わり、今自らのために霊共の或る天界を形作って、これに彼自身から楽しさを、しかし欲情と快楽との楽しさを与えようとした、そのことをまた彼は企てもしたが、彼はそのため更に悪いものとなり、投げ落とされてしまった。その際私は彼に、それは天界ではなく、地獄であると話したが、実際それは黒い地獄に変わったのである。特に彼はその周りに偽善者らを得ようと願ったが、その者らについて私しは彼らと話したのであり、私のもとに数日にわたって偽善者らがいたが、そのことを私は歯の痛みにより知ることが出来たのである、即ち、彼らは声も立てないで絶え間なく私を脅迫したが、そのことはパウロから来ていることが認められもしたのである、彼は聖言の内なる意義を憎んでおり、その憎しみの怒りの結果彼の周りに偽善者が引き寄せられているのである、事物はこのように関連づけられているのである、なぜなら偽善者は何一つ信じてはいないで、依然、聖言の文字の意義を尊重するからであるが、そのことは彼らがそこから多くの事柄を取り出し、それを用いて一般人を説得し、かくして自らが敬虔なものとして見えることが出来るためである。

 

 

霊界日記4561小

 

 パウロは、生きている間は、他生については、ただ世のことを考えるようにしか考えはしなかった。彼はそこには世の栄光が在ると考えて、天界の栄光はいかようなものであるか、またはそれは何か意義のあるものであるか、否かを知りはしなかった。それで彼は、凡ての者を天界へ入れる者は自分であり、主は彼らを自分のために受け入れられる、と考えた。更に、彼は自分は他の者にもまさってそのことに価している、と考えた。その栄光のために、即ち、世的な栄光のために、自分が最大の者になろうとして、かくも多くの危険と刑罰を受けたのであり、従って主が教えられた動機とは異なった他の動機から(多くの危険と刑罰とを買って出たのである)、しかし主は最大のものになろうとする者は(天界に)入りはしないで、最小のものになろうとする者が入るのであり、最後の者が最初の者になる、と教えられたのである。そのため、彼は、幾多の場合、悪霊と悪魔らと共になり、自らのために、全く奈落の天界を作ろうと企てたのであり、かくて彼は聖言の内意を斥けるのである、なぜなら聖言の内意は世の栄光とは対立しており、功績とも対立しているからである。

 

 

霊界日記4824

 

パウロの書簡には内意がないことは他生では知られているが、しかし教会に属している者たちが、内意を宿している主の聖言に悪を働かないようにと、その書簡が教会内に在ることが許されているのである。なぜならもし人間が悪い生活を送りつつも、聖い聖言を信じるなら、彼は天界に悪を働くからであり、そのためパウロの書簡は許されており、それでパウロは主から一つの譬えも、一片の教義すらも取り出して、それを説明し、明らかにすることを許されはしなかったのであり、彼は凡てのものを彼自身から得たのである。教会は、実に、主の聖言を説明はするが、しかしパウロの書簡により説明しており、そうした理由からまたそれは凡ゆるところで仁慈の善から逸脱して、信仰の諸真理を受けているのであるが、しかし主はそのことを教えられ、仁慈の善が凡てのものとならなくてはならないといった方法で教えられたのである。

 

 

 

霊界日記6074

 

 ツィンツェンドルフらは、旧約聖書の聖言を斥け、福音書を一種の軽蔑をもって読み、パウロ書簡のみを尊重したのである。

 

 

5.ヴァッスーラ

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/3巻P14

‘88・8・20

 

知恵の御わざを信じない我が教師たちには厳かに求める、譬えの隠れた意味を探し求め 先祖たちの全ての知恵を 探求するようにと、我が名の偉大さを理解するようになるために 願って 理解に霊に満たされなさい。

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/3巻P115

 

主:みことばは象徴的である。

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち8巻P30

 

たとえ話 ことわざやこの時代の預言に隠された意味合いを 我が聖霊が解き明かして下さるように求めなさい。

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/10巻P98

‘00・4・28

 

神は 私に知識を拒まれません、むしろ面と向って、単純な言葉で話しかけられます、そしてお声は 耳もとに楽の音と響き、荘厳に力強くご自分の思いを語られ、知性を照らして 金言の秘められた意味を分からせて下さいます そして悦び ほほ笑みながら 私たちの目には隠されていた 聖書の中の謎めいた言葉を解かれるのです。

 

そう、主のなさる全てには それにふさわしい時があります。 主なるわが神はその神聖な口づけで私を封印されました、ご自分たちの十全な神性のうちに私をさらに引き入れるため 私の霊魂に聖なる三位一体の印を押されて、封印されました。

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/10巻P115

‘00・8・5

 

大いなる高貴な晩餐によって 我が聖なるメッセージを通し 私はあなたとほかの人びとを 満足させた。私は この悪に染まった時代のために 不思議中の不思議を準備し、皆が来て それを味わう許しを与えた。私の晩餐を味わうことは、神なる創造主の、私を味わって、私を理解すること。

 

ああ! わが主よ! み言葉は神秘で 秘められており

多くの人は 聖書やこれらのメッセージを読んでも

その知識を深く理解しないのです、

聖書もメッセージも神についての知識であるゆえ。

それらは霊魂と知性を照らし 私たちのうちなる光となっていますが、

み言葉を読みながらも、み言葉の知恵には

深く踏み込めない人々がいるのを 知っています

彼らにとってそれらは あたかも封印されたかのように見えるのです。

とはいえ、み言葉は 真の観想、真の知恵 そして真の真理です・・・・

 

自分の声ではなく 私の声を聴く人は誰であっても 私の知恵を深く理解し、我が言葉は太陽に向けられた鏡のように 霊魂のうちに輝きを放つ。 我が言葉を読んで自分を小さくし 寛大と愛をもって私を尊ぶ者は誰であっても、目の鱗が落ちて 近づき難い栄光のうちなる 私を見よう。そう、その目は 見えてはいなかったもの 到達しがたく 聖人たちがけに取っておかれたものを くまなくはっきりと見よう。

 

たぶん我が言葉は、時代よ、あなたにとっては分かりづらい しかし その日には目の鱗が落ち、私が父のうちにおり、あなたは私のうちに そして私はあなたのうちにいることを知るであろう、とかつて言わなかったか? 私の掟を保ち それを守る者、その者は 私を愛する者だと言ったであろう? そして私を愛する者は誰であろうと 御父に愛され、私はその人を愛し 私自身を顕す と。 そう! そして我が栄光のうちに あなたは私を見よう。

 

 

6.聖言の内意はとくに天使たちのためのもの

 

天界の秘義2551

 

聖言の内意はとくに天使たちのためのものであり、それでそれはかれらの認識と思考とに適合しているのである。

 

 

天界の秘義3954

 

その文字の意義が天界に向って上昇し、かくてその考えることが主から発しまた主と主にぞくしているものとにかかわるものである領域に入ると、それはついには天使たちによりそのように認められるのである、なぜなら内意が天使たちには聖言であり、内意に対し文字の意義は考える面または手段として役立っているからである。なぜなら文字の意義は大半の所で世的な、地的な、形体的な事柄をとり扱っており、そのことを天使たちは、かれらは霊的なものと天的なものとの中におり、かくて地的なもののはるか上方にいるため、考えることはできないため、それは天使たちには達することはできないからである。そうした理由から人間に仕えると同時に天使にも仕えることができるところの聖言が与えられているのである。このことにおいて聖言は他の凡ゆる文書とは異なっているのである。

 

 

天界の秘義4027[3]

 

天使たちは―かれらは聖言の内意におり、またかれらには内意が聖言となっているため―

 

 

7.内意の主要なもの

 

天界の秘義3454

 

しかし内意に暴行を加えることは、この意義の主要な事柄であり、また聖言の本質的な聖いものであるものを否定することであり、その主要な事柄とは主の神的人間性[神の人間性]と主に対する愛と隣人に対する愛である。この三つのものは内意の主要なものであり、聖言の聖いものであり、またそれらは聖言から発している凡ゆる教義的な事柄の内なる聖いものであり、同じく凡ゆる礼拝の内なる聖いものである、なぜならその中に主の王国そのものが存在しているからである。第四のものは、聖言は、その中に凡ゆる事柄の方面で、全般的にも個別的にも、いな、その最小の一点の方面でさえも、神的なものであり、かくて主は聖言の中におられるということである。このことはまた聖言から教義的な事柄を得ている凡ての者により告白され、承認されているが、それでも聖言の中にその文字に現れているもの以外には何ら聖いものを承認していない者らは心ではそれを否定しているのである、なぜならこうした者はその歴史的なものの中にも、またその予言的なものの中にも何ら聖いものを認めることはできないで、ただそれが聖いものであると呼ばれていることから、たんに些細な外なる何かを認めるのみであるが、それでもそれはその最小の点すらも神的なものであるなら、内的には聖いものであるにちがいないのである。

 

 

8.内なる歴史的な意義

 

天界の秘義4279[3]

 

この意義を以下の記事では内なる歴史的な意義と名づけるが、しかもそのことは以下の付加的な理由にもとづいているのである、すなわち、それは第一の天界では時折そのあるがままに、しかも形をもって表象されているのであり、わたしもまた時々それを見ることを許されたのである。(4272番の第2項の序言として述べた解説を参照されたい)。

 

 

9.この知識を手段として人間は天界と交流することができる

 

天界の秘義4280[3]

 

 現今ではこうした事柄は逆理のように思われないわけにはいかないのである、なぜなら前に言ったように、こうした知識は全くすたれて、失われているから。それでもこの知識はいかに他の知識にまさっているかは、それがなくては聖言の内意を到底知ることができないという事実から知ることができよう、またそれは人間のもとにいる天使たちが聖言をこの意義に従って認めているためであり、またこの知識を手段として人間は天界と交流することができるためである。そして信じがたいことではあるが、内なる人はそれ以外の方法では考えはしないのである、なぜなら人間は身体の中で生きている間はそのことは知ってはいないものの、外なる人が聖言をその文字に従って把握するとき、それと同時に内なる人はそれをその内意に従って把握しているからである。とくにこのことは人間が他生に入って、天使となるときかれは内意を教えられなくとも、自ずから知っているように知っているという事実から認めることができよう。

 

 

10.内的な思考

 

天界の秘義5614[2]

 

もしあなた方に信じようとの心があるなら、善の中にいる人間の思考そのものがこのことを把握するのである、なぜならこの思考は内意の中にあるからである

 

 

11.聖言には内意の在ることが極めて明白

 

天界の秘義5973

 

聖言の内意に通じていない者は、なぜヤコブが時には『ヤコブ』、時には『イスラエル』と呼ばれているかを到底知ることはできない、なぜなら同じ章の中に、実に同じ節の中にすら、時にはヤコブが、時にはイスラエルが用いられているからである。ここから聖言には内意の在ることが極めて明白である。

 

 

12.聖母から司祭へ

 

聖母から司祭へ1976.4.13

 

あなたがたの中のどれほど多くの司祭たちが、み言葉を研究しながら、ただ人間的な知識だけでそれを理解しようとして、知らず知らずのうちにますます大きな誤謬に陥ったからをごらんなさい。  

 わが子のみ言葉を人間的知識のみで読むべきではありません。

 

 

13.内意はそれ自身では教会の純粋な教義である

 

白馬11

 

内意はそれ自身では教会の純粋な教義である(9025、9430、10401)。聖言をその内意に従って理解している者は、教会の真の教義そのものを知っている、なぜなら内意にそれが含まれているから(9025、9430、10401)。

 

 

 

 

14.マリア・ワルトルタ

 

 

マリア・ワルトルタ/聖母マリアの詩 上/P117

 

あなたたちは頭を下げ、礼拝せよ。人類の存在がなくなる前、キリスト以前とキリスト以後の預言、または創世の書の最初のことばから始まる聖書の象徴するところが知られるべきであるので、私はまだ説明されていないところについて説明する。この贈物を快く迎え、豊かな実となるようにせよ。私が人間の中にいた時に、私の訓戒に対して心を閉じ、超自然の奥義と真理とについて、私と肩を並べることができなかったために、私のことを悪魔憑き、冒涜者と言ったあのユダヤ人のようになるな。

 

 

 

マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音/2卷P561/132・2

 

イスラエル史上のあらゆる言葉は、選民のものとして霊的な意味を含むものであるから、この物語を考察し、適用しましょう。人生は常に教えです。イスラエルの人生は、地上での日々のためのみならず、永遠の日々を征服するための教えです。

 

 

 

 

15.何よりもまず心得てほしいのは、聖書の預言は何一つ、自分勝手に解釈すべきではないということです

 

ペトロ2・1・20−21

 

何よりもまず心得てほしいのは、聖書の預言は何一つ、自分勝手に解釈すべきではないということです。なぜなら、預言は、決して人間の意志に基づいて語られたのではなく、人々が聖霊に導かれて神からの言葉を語ったものだからです。

 

 

 

16.内意が無くては決して知ることの出来ない秘義が在る

 

天界の秘義7050

 

 この三つの節の中には内意が無くては決して知ることの出来ない秘義が在ることはその中の細目から明白である、なぜならエホバがモーセにエジプトに行くように命じられた後ですぐ、モーセがその道にある時、これに会われて、これを殺そうと求められたことにより意味されていることをたれが知るであろうか。

 

 

 

 

17.聖言の内意を構成しているものに二つのもの、即ち、情愛と実際の事柄

 

 

天界の秘義3839

 

「彼はラバンに言った、あなたが私に為したこのことは何ですか」。これは憤りを意味していることは、これらの言葉における、また以下に続いて言われている言葉における情愛から明白である。歴史的な連続に従ってこれらの言葉の中に落ち込んでいるものは憤りの情愛であることは明白である。聖言の内意を構成しているものに二つのものがあり、即ち、情愛と実際の事柄があり、聖言の表現に隠れている情愛は人間には明らかではなく、その最も内なる奥所に貯えられていて、人間に明らかにされることも出来ない、なぜなら人間はその身体の生命の間では世的な形体的な情愛の中にいて、その情愛は聖言の内意における情愛とは何ものをも共有してはおらず、この後の霊的なまた天的な愛の情愛であり、それを人間は以下の理由からそれだけ認めることは出来ないのである、即ち、その情愛の中にいる者は僅かしかいないのであり、しかもこの僅かな者も大半単純な人たちであって、自分の情愛を反省することは出来ない一方では、他の者はことごとく純粋な情愛の何であるかを知りさえもしていないのである。これらの霊的な天的な情愛は隣人に対する仁慈と神に対する愛の中に含まれている。それらのものの中にいない者らはそれらのものは何か有意義なものであるとは信じはしないものの、それでもそれらのものは全天界を満たしており、しかもそれには表現を絶した多様なものがあるのである。このような情愛はその多様なものと共になって聖言の内意に貯えられているものであり、そこに単に連続した各々の記事の中に存在しているのみでなく、各々の表現の中にも存在しており、否、各々の音節の中にさえも存在していて、聖言が単純な善の中にいると同時に無垢の中にいる者たちにより読まれている時、天使たちの前に輝き出てくるのであり、しかもそれには、前に言ったように、無限の変化が在るのである。