見る

 

見ない盲目エフライム目の見えない者

心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る(マタイ5・8)

生まれ出る前に父親を見た人は誰もいない

 

 

 

1.理解する

2.思考によってこれに近づきこれを見る

3.信じる

4.人間を盲目にするもの

5.盲目であった者も他生では見えるようになる

6.「なぜなら彼女は言ったからである、エホバは見られたためである」(創世記29・32)

7.理解し、信仰を持つこと

8.父を見る

9.予見する、供える

10.人間の内なる目である知的な心が見るものは記憶知と真理である

11.ヴァッスーラ:こうして初めて<私は見える・・・>とあなたは言えよう

12.霊眼で見る

13.視野は人間の記憶の中に在る記憶知

 

 

 

マタイ13・14

 

イザヤの預言は、彼らによって実現した。

『あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、

見るには見るが、決して認めない』

 

 

 

イザヤ6・9−11

 

主は言われた。

「行け、この民に言うがよい

よく聞け、しかし理解するな

よく見よ、しかし悟るな、と。

この民の心をかたくなにし

耳を鈍く、目を暗くせよ。

目で見ることなく、耳で聞くことなく

その心で理解することなく

悔い改めていやされることのないために。」

わたしは言った。

「主よ、いつまででしょうか。」

主は答えられた。

「町々が崩れ去って、住む者もなく

家々には人影もなく

大地が荒廃して崩れ去るときまで。」

 

 

 

ヨハネ9・40−41

 

 イエスと一緒に居合わせたファリサイ派の人々は、これらのことを聞いて、「我々も見えないということか」と言った。イエスは言われた。「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」

 

 

 

1.理解する

 

 

天界の秘義2701

 

「神は彼女の目を開かれた」。これは理知を意味していることは以下から明白である。すなわち、『開くこと』の意義は―『神が開かれること』の、また『目』の意義は―理知を与えることである。(『目』が理解を意味していることは前の212番に、同じく『視覚』または『見ること』もそのことを意味していることは2150、2325番に見ることができよう)。神が内的な視覚を、または理解を開かれるとき、『神は目を開かれる』と言われており、そのことは人間の合理的なものの中へ、またはむしろ人間の合理的なものの霊的なものの中へ注がれる流入により行われている。このことはその人間には知られていない霊魂の道により、または内なる道によって行われている。この流入はかれが明るくされる状態であり、その状態の中ではその者が聞いたり、または読んだりするいくたの真理はかれの知的なものの中に内的に一種の認識によりかれに確認されるのである。これはその人間は自分の内に生来内在していて、自分自身の知的能力から発していると信じるが、しかしこのことにおいてはかれは大いに誤っているのである。なぜならそれは人間における明確でない、誤った、外面的なものの中へ―そうしたものはその内に在る善により、その者が信じているものを真理に類似したものとしているが、そうしたものの中へ―主から天界を通って注がれる流入であるからである。しかし霊的な者のみが信仰の霊的なものを明るくされる祝福を受けるのである。『神が目を開かれること』により意味されているものはこのことである。

 

 

 

天界の秘義2701[2]

 

『目』が理解を意味しているのは身体の目がその霊の目に相応していてその霊の目は理解であるためであり、それが相応しているため、聖言では『目』により、それが記されている殆どあらゆる所で、理解が意味されており、それが他のものであると信じられている所でさえもそのことが意味されているのである。例えば、主がマタイ伝の中で言われている所には―

 

 身体の光は目である。それでもしあなたの目が良いなら、あなたの全身は光に満ちるであろう。しかしあなたの目が悪いなら、全身は暗黒に満ちるであろう。それであなたの中に在る光が暗黒であるなら、その暗黒はいかに大きなものであろう(マタイ6・22,23、ルカ11・34)。

 

ここでは『目』は理解であり、理解の霊的なものは信仰であって、そのことはまた同じく解説からも明白である―『それでもしあなたの中に在る光が暗黒えあるなら、その暗黒はいかに大きなものであろう』。同じく同書に―

 

 もしあなたの右の目があなたをつまずかせるなら、それをえぐり出して、あなたから捨ててしまいなさい(マタイ5・29、18・9)。

 

『左の目』は知的なものであるが、しかし『右の目』はその知的なものの情愛であり、右の目をえぐり出してしまわなくてはならないことは、もしその情愛がつまずかせるなら、それを征服しなくてはならないことを意味している。

 

 

 

天界の秘義2701[3]

 

同書には―

 

 あなたたちの目は祝福されている、なぜならそれは見るからである。耳も祝福されている、聞くからである(マタイ12・16)。

 

ルカ伝には―

 

イエスは弟子たちに言われた、あなたたちが見るものを見る目は祝福されている(ルカ10・23)。

 

ここでは『見る目』により、理知と信仰とが意味されている。なぜならかれらが主を見、またその奇蹟と業とを見たことはかれらを祝福されたものにはしなかったが、しかしそれらを理解をもって把握することが、また信仰を持つことが―そのことが『見ること』である―また服従することが―そのことが『耳で聞くことである―かれらを祝福されたものにしたからである。『目で見る』ことが理解することであり、また信仰を持つことであることは前に見ることができよう(897、2325番)、なぜなら理解は視覚の霊的なものであり、信仰は理解の霊的なものであるからである。目の視覚は世の光から発しているが、しかし信仰の視覚は天界の光から発している。ここから理解をもって見、信仰により見ると言うことが普通になっている。(『耳で聞く』ことは服従することであることは前の2542番に見ることができよう)。

 

 

 

天界の秘義2701[4]

 

またマルコ伝には―

 

 イエスは弟子たちに言われた。あなたたちは認めませんか、また理解もしませんか。あなたたちはすでに心を頑にしてしまいましたか。目をもっているのに見ませんか。耳を持っているのに聞きませんか(マルコ8・17,18)。

 

ここには理解しようと欲しないことまた信じようと欲しないことが目を持ちながら見ないことであることが明らかである。ルカ伝には―

 

 イエスは都について言われた、もしおまえだおまえの平安にぞくしている事柄を知ったならば、しかし今はそれはおまえの眼から隠れている(ルカ19・41、42)。

 

マルコ伝には―

 

 これは主が為されたことであり、それは私たちの目には奇しいことである(マルコ12・11)。

 

ここには『目から隠れる』ことと『目に奇しい』ことは理解に対しそのようになっていることを意味しており、そのことは言葉に普通に用いているさいの目の意義からでさえもたれにでも知られている。

 

 

 

天界の秘義3863(4)

 

外なる意義では「見ること」は見ること[視覚]を意味していることは解説の要もなく明白であり、内的な意義では「見ること」は理解を意味していることもまた明白であろう。なぜなら内なる人の視覚は理解以外の何ものでもなく、それで普通の談話でも理解は内なる視覚と呼ばれており、光がそれについて、外なる視覚について述べられているように述べられ、知的な光と呼ばれているからである。

 

 

 

神の愛と知恵96

 

霊的な光は自然的な光とは全く別個のものであることは、何人でも自分の心の思考を観察するならば知ることが出来よう。なぜなら心は考えるとき、それはその対象を光の中に見、また霊的に考える者は真理を見、しかも真夜中でもこれをちょうど日中に見るように見るからである。この理由から、光は理解に属性づけられて、理解は見ると言われている、かくて人は他の者が語る事柄について自分はそれがそうであることを見る(即ち理解する)と時々明言している。理解は、それは霊的なものであるため、自然的な光によりこのように見ることは出来ない。なぜなら自然的な光は人間の中に存在しないで、太陽と共に遠ざかるからである。このことから理解は眼の光とは相違した光を受け、この光は異なった起源から発していることが明らかである。

 

 

 

 

2.思考によってこれに近づきこれを見る

 

 

真の基督教339

 

「人々は救い主イエス・キリストなる神を信じなければならない、即ち、彼に対する信仰を持たなければならないのは、これは見えない神がその中に在すところの見える神に対する信仰であるからである。何故なら、人であり、また神である見える神に対する信仰は人の受け入れ得るものであるからである。信仰の本質は霊的なものであるが、その形は自然的であり、それ故信仰は人間の中に霊的且つ自然的なものになるのである。何故なら、霊的なものは凡て、人間がこれを現実のものとして所有するためには、自然的なものの中に受け入れられねばならぬからである。純粋に霊的なものは実際人間に入りはするが、受け入れられない。それはエーテルの如きものであり、人間を感動さすことなくして彼に流れ入り、また流れ去って行く。人間を感動さすためにはそれは人間の心に認められ、且つ受容されねばならず、これは彼の自然的な心の中にのみ可能である。」

「他方単に自然的な信仰または霊的本質を欠いた信仰は信仰ではなく単なる確信あるいは知識に過ぎない。確信は外的には信仰のように見えるけれど、内的には霊性を欠いている故、その内には救うものは少しも存在しない。これがアリウス派、ソツヌス派のように、主の人間性の神性を否定する凡ての者の信仰である。信仰はその対象無くして何であろうか。それは空間を凝視し、視覚がそれ自らを虚空に失うようなものである。それは鳥が大気を越えてエーテルの中に飛び入り、真空内にあるように、息絶えてしまうに似ている。かかる信仰はイオラスの翼の風のように、流星の光のように、人間の心に止まることは出来ず、長く尾を曳く彗星のように現れると間もなく過ぎ去り、消え去ってしまうのである。約言すれば、見えない神に対する信仰は盲目である。それは人間の心はその神を見ないからである。而して、このような信仰の光は霊的自然的なものでないため、蛍のそれのような或いは沼地、硫黄を含んだ土、或いは腐敗した木材から発する光のような、偽りの光である。この光によって見られる物は凡て錯覚に過ぎず、外面的なものが真実なものとして誤認されるのである。」

「これが見えない神に対する信仰の光であり、特に神がエーテルのような霊として考えられる時の光である。何故なら、そのとき人間は神をエーテルのように見、彼を物質的な宇宙に探し求め、そこに見出さないところから、自然が宇宙の神であると信ずるからである。これが現今流布している唯物論の源泉である。主は未だ嘗て父の御声を聞き、その御形を見た者はないと宣べ(ヨハネ5・37)また如何なる時にも神を見た者はなく、ただ父の懐に在す独子のみがこれを現し給うた(1・18)と述べ、神とともなる者が父を見た以外には何人も彼を見ない(6・46)と述べ、同様に何人も彼に由らなくては父に往くことが出来ない(14・6)、更に、彼を見、且つ認める者が父を見且つ認める者であると述べ給うた。」

 

「しかし、救い主に在す主なる神に対する信仰はこれと異なっている。彼は神と人である故、思考によってこれに近付き、これを見ることが出来るのである。かかる信仰は不確定なものではなく、一定の対象をもち、一度受け入れられた時、止まるのは、人はその一度眺めた皇帝或いは主の姿を思い浮かべることが出来るさまに似ている。その信仰の幻は、輝ける雲の真中に一人の天使がいて人間に来って天界に行くことを勧めているのを見るに似ている。主は彼を信ずるものにこのように現れ給うが、人間が主を知り、主を認める限り、即ち各人が主の誡命を知り、悪を避け、善を為すことによってその誡命に服従する限り、その人間に近づき給うのである。かくて彼は遂に、ヨハネ伝の以下の言にあるように、彼の中に在し給う父と共に人間の家に来り、その許に住み給うのである。イエスは語り給うた。「わが誡命を保ちて之を守るものは、即ち我を愛する者なり。我を愛する者は我が父に愛せられん。我も之を愛し、之に己を顕すべし。かつわれ等その許に来りて住処を之とともにせん」(14・21、23)。上述したことは、私が筆を執っている間に、主から私の許に遣わされた主の十二人の使徒達の眼前に在って記されたものである。」

 

 

 

3.信じる

 

 

天界の秘義3863(9)

 

「心の清い者は祝福されている、かれらは神を見るからである」(マタイ5・8)。

 

ここでは「神を見ること」は神を信じることであり、かくて神を信仰によって見ることである。なぜなら神は信仰の中におられ、信仰の中にあって真の信仰を構成しているものであられるため、信仰の中にいる者たちは、信仰から神を見るからである。

 

 

 

聖書57(3)

 

「教義から生まれなくてはならない純粋な真理は主から明るくされている者以外には文字の意義には現れていない」。

明るくされることは主のみから発していて、真理をそれが真理であるために愛して、それを生命[生活]に役立たせる者たちのもとに存在している。他の者らは聖言を明らかに示されはしないのである。明るくされることは主のみから発している理由は主は聖言の凡ゆる物の中におられるということである。真理をそれが真理であるために愛して、それを生命[生活]に役立たせる者たちが明るくされる理由は、そうした者たちが主の中におり、主はその者たちの中におられるということである。なぜなら主は主御自身の神的真理であられ、それが神的真理であるため愛されるとき(そしてそれはそれが生命のために用いられるとき愛されるのであるが)主は人間のもとでその中におられるからである。このことを主はヨハネ伝に伝えられている―

 

かの日あなたたちは、あなたたちがわたしの中におり、わたしがあなたたちの中にいることを知るでしょう。わたしの戒めを守って、それを行う者はわたしを愛するのであり、わたしもかれを愛して、かれにわたし自身を明らかにしよう、そしてわたしはかれのもとへ来て、かれのもとに住むであろう(14・20、21、23)。

 

またマタイ伝に、

 

心の純潔な者は祝福されている、なぜならかれらは神を見るからである(5・8)

 

これらの者は聖言を読んでいるとき明るくされ、聖言が輝き出で、それが透明なものとなる者たちである(5・8)。

 

 

 

4.人間を盲目にするもの

 

 

聖書60

 

これと反対のことが、己が名誉を、またはこの世の富を仰ぎながら、誤った宗教の教義から聖言を読む者らのもとに起るのであり、ましてその教義を聖言から確認する者らのもとにはさらに起るのである。彼らに対しては聖言の真理はいわば夜の暗闇のようなものではあるが、誤ったものは日の光の中に在るようにも見えるのである。彼らは真のものを読みはするが、しかしそれを見はしない、その影を見るならば、それを誤謬かする。これらが主から以下のように言われている者らである、

 

 彼らは目があるが、見ない、耳があるが悟らない(マタイ13・13)。

 

なぜなら人間を盲目にするものはその人間自身のものと誤ったものを確認すること以外の何ものでもないから。人間自身のものとは自己への愛であり、そこから派生してくるところの自分自身の理知に対する自負[誇り]であり、誤ったものを確認することは光を装っている暗闇である。こうした人間の光は単に自然的なものであって、その視覚はうすぐらい所に妖怪を見る者のそれに似ている。

 

 

 

5.盲目であった者も他生では見えるようになる

 

 

天界の秘義994

 

 身体の生命の中で盲目であった者も他生では鋭い視覚を持っていた者と同じように見るのである。

 

 

 

6.「なぜなら彼女は言ったからである、エホバは見られたためである」(創世記29・32)

 

 

天界の秘義3863

 

「なぜなら彼女は言ったからである、エホバは見られたためである」

 

これはその最高の意義では先見を、内意では信仰を、内的な意義では理解を、外なる意義では見ること[視覚]を、現在の場合では主から発している信仰を意味していることは、『見ること』の意義から明白であり、そのことについては以下に述べよう。前に言ったことから以下のことを認めることができよう、すなわち、ヤコブの十二人の息子たちに因んで名づけられた十二の種族は、真理と善との、または信仰と愛との凡ゆる事柄を意味し、かくて教会の凡ゆる事柄を意味しており、種族各々は或る普遍的なものを意味しており、かくてその十二の種族は、何であれ教会にぞくしている凡ての事柄を包括し、包含している十二の普遍的なものを意味しており、その普遍的な意義では、主の王国にぞくしている凡ゆるものを意味しているのである。『ルベン』が意味している普遍的なものを信仰である。信仰が最初の普遍的なものである理由は、人間が再生しつつあるときは、または教会になりつつあるときは、かれは先ず信仰のいくたの事柄を、すなわち、霊的な真理のいくたの事柄を学んで、それに浸透しなくてはならないということである、なぜなら彼は信仰の教義により、または真理の教義により導き入れられるからである。なぜなら人間は人間自身では天界の善の何であるかを知ってはいないで、それを信仰の教義と呼ばれているところの教義から学ばなくてはならないといった性質をもっているからである。信仰の教義はことごとく生命を目的として認めており、それで善を目的として認めているのである、なぜなら善は生命であるからである。

 

 

 

天界の秘義3863[2]

 

 古代人の間では、信仰のものである真理か、または愛のものである善か、そのいずれが教会の長子であるかということが論争の主要点であったのである。信仰のものである真理が長子であると主張した者たちは外なる外観から論じて、それが長子であると決定したのである、なぜなら真理が最初に学ばれ、また学ばれねばならないからであり、またそれにより人間は善へ導き入れられるからである。しかしかれらは善が本質的には長子であって、それが外なる人を通して導き入れられた真理を採用し、受け入れるために、それが内なる人を通して主により秘かに注ぎ入れられることを知らなかったのであり、またかれらは善の中に主から発している生命が存在しているが、しかし真理の中には真理が善を通して得ている生命以外には生命は存在しておらず、かくて善は真理の霊魂であって、霊魂がその身体を自らのものとし、それを身につけるように、善は真理をそれ自らのものとし、それを身に着けることも知らなかったのである。このことから私たちは、外なる外観に従うと、人間が再生しつつある間は真理が第一位に在って、いわば長子であることを認めることはできるが、しかしながら善が本質的には第一位に在って、長子であり、人間が再生したときは、最初におかれるのである。そのことが真実であることは前の3539、3548、3556、3563、3570、3576、3603、3701番に見ることができよう)。

 

 

 

天界の秘義3863[3]

 

 本章にまた前の諸章にとり扱われている主題は自然的なものの再生であり、ここでは真理により善へ導き入れられる状態であるところのその最初の状態であるため、それでヤコブの最初の息子は、またはルベンは『エホバは見られた』から名づけられたのである、なぜならそれはその内意では主から発している信仰を意味しているからである。信仰はそれ自身において観察されるなら、それは理解における信仰であり、また意志における信仰である、信仰のものである真理を知り、理解することは理解における信仰と呼ばれるが、しかし信仰のものである真理を意志する[欲する]ことは意志における信仰と呼ばれている。理解における信仰は『ルベン』により意味されるものであるが、しかし意志における信仰は『シメオン』により意味されるものである。理解における信仰は、または真理を理解することは意志における信仰または真理を意志することに先立っていることはたれにでも明白であるにちがいない、なぜなら天界の善といった何かが人間に知られていないときは、かれはそれを意志する[欲する]ことができる以前に先ずそれが存在していることを知って、それがいかようなものであるかを理解しなくてはならないからである。

 

 

 

天界の秘義3863[4]

 

外なる意義では「見ること」は見ること[視覚]を意味していることは解説の要もなく明白であり、内的な意義では「見ること」は理解を意味していることもまた明白であろう。なぜなら内なる人の視覚は理解以外の何ものでもなく、それで普通の談話でも理解は内なる視覚と呼ばれており、光がそれについて、外なる視覚について述べられているように述べられ、知的な光と呼ばれているからである。『見ること』はその内意では主から発している信仰を意味していることは以下の事実から明白である、すなわち、内的な理解は真理と善のものである対象以外の対象を何ら持っていないのである、なぜならそれらのものは信仰の対象であるからである。信仰のものである諸真理をその対象としているところのこの内的な理解は、または内なる視覚は、公民的[社会的]な道徳的な生活の真理をその対象としているところの理解のようにはそれ自身を明らかに示してはいないが、それは以下の理由のためである、すなわち、この内的な理解は後のものの中に存在していて、天界の光の中に存在しているが、その光は人間が代の光の中にいる限り、明確でない状態におかれているのである。にもかかわらず、それは再生した者たちのもとではそれ自らを明らかに示すのであり、とくに良心により明らかに示すのである。『見ること』はその最高の意義では先見であることは明白であるにちがいない、なぜなら主について述べられる理知は無限な理知であって、それは先見以外の何ものでもないからである。

 

 

 

天界の秘義3863[5]

 

 『見ること』は―それに因んでルベンが名前をつけられたが、その『見ること』は―その内意では主から発している信仰を意味していることは、聖言の極めて多くの記事から明らかであり、その中から以下のものを引用してよいであろう―

 

 エホバはモーセに言われた、火の蛇を作り、それを柱の上におきなさい、たれでも噛まれて、それを見る者は生きるようになるでしょう。モーセは銅で蛇を作り、それを柱の上においた、蛇がたれかをかんで、そのかまれた者が銅の蛇を見たなら、その者は再び生きるようになった(民数記21・8、9)。

 

 銅の蛇は主を外なる感覚的なものまたは自然的なものの方面で表象したことは前に見ることができ(197番)、『銅』は自然的なものを意味している(425、1551番)。主に対する信仰は、それを見、または仰ぎ見た者が再び生きたことにより表象されたことを、主御自身がヨハネの書の中で教えられている―

 

 モーセが荒野に蛇を挙げたように、人の子もそのように挙げられねばならない、かれを信じる者はたれでもことごとく滅びないで、永遠の生命を得るためである(3・14、15)。

 

 

 

天界の秘義3863[6]

 

 イザヤ書には―

 

 主は言われた、行って、この民に言いなさい、あなたたちは聞いて聞きなさい、しかし悟ってはならない、見て見なさい、が知ってはならない、この民の心を鈍くし、耳を重くし、目をめくらとしなさい、かれらが目で見、耳で聞き、心で悟らないためである(6・9、10)。

 

 

 ここの『見るが知らないこと』は真のものであるものを理解するものの、それを承認しないことを意味していることは明らかであり、『かれらが目で見ないように、目をめくらにすること』は、かれらから真理の理解[真理を理解すること]を奪うことを意味しており、ここの『見ること』は主に対する信仰を意味していることは、マタイ13・13、14とヨハネ12・36、37における主の御言葉から明白である。

 

 

 

天界の秘義3863[7]

 

 エゼキエル書には―

 

 人の子よ、あなたは反逆の中に住んでいる、かれらは見る目はあるが、見ない、聞く耳はあるが、聞きはしない(12・2)。

 

 『見る目はあるが、見ないこと』はかれらは信仰の諸真理を理解することはできたが、しかしそれを欲しなかったことを意味しており、そのことはイザヤ書の以下の言葉に従って、誤謬に迷わす光をもたらし、真理に暗黒をもたらす(『反逆の家』であるところの)悪のためであった―

 

 これは反逆の民であり、偽りを言う息子ら[子孫]であり、エホバの律法を聞こうとはしない息子らである、かれらは見る者に向って、見るなと言い、幻をもつ者たちに向って、私たちのためには正しい事を見てはならない、私たちにはなめらかな事柄を語り、迷妄[妄想]を見なさい、と言った(30・9、10)。

 

 さらに―

 

 暗黒の中を歩んだ民は大いなる光を見た、死の蔭の地に住んだ者の上に光は輝いた(9・2)。

 

 ここでは大いなる光を見ることは信仰のものであるところの諸真理を受けて信じることを意味している。信仰の中にいる者たちの上に天界の光が輝くと言われている、なぜなら天界に存在している光は神的善から発している神的真理であるからである。

 

 

 

天界の秘義3863[8]

 

 さらに―

 

 エホバはあなたたちの上に深い眠りの霊を注ぎ出されて、あなたたちの目を閉じられた、予言者たちとあなたたちの頭たちを、見る者たちをかれは蔽われた(イザヤ29・10)。

 

 『目を閉じること』は真理の理解[真理を理解する事]を閉じることを意味し(『目』は理解を意味していることについては、前の2701番を参照)、『見る者たちを蔽うこと』は信仰の真理を知って教える者たちを蔽うことを意味している。見る者たちは前には『予言者』と呼ばれ、『予言者』は教える者たちを、また教義の諸真理を意味していることは前に見ることができよう(2534番)。さらに―

 

祭司と予言者とは強い酒のために誤りを犯している、かれらは見る者たちの間で誤りを犯している、かれらは審判[判断、公道]においてつまづいている(イザヤ28・7)。

 

 ここでも意味は同じであり、かれらがその中で『躓いている』ところの『審判(判断、公道)』は信仰の真理であることは前に見ることができよう(2235番)。さらに―

 

 見る者たちの目は閉じられはしないであろう、聞く者の耳は聞くであろう(イザヤ32・3)

 

 

 

天界の秘義3863[9]

 

 さらに―

 

 あなたの目は王の美しさを見、遥か遠くの地を見るであろう(イザヤ33・17)。

 

 『王の美しさを見ること』は、主から発して、善から『美しい』と呼ばれているところの信仰の諸真理を意味し、『遥か遠くの地を見ること』は愛の善を意味している。(『王』は信仰の諸真理であることは前の1672、2015、2069、3009、3670番に見ることができ、『美しい』は善から述べられ、553、3080、3821番、『地』は愛の善である、620、636、3368、3379番)。マタイ伝には―

 

「心の清い者は祝福されている、かれらは神を見るからである」(マタイ5・8)。

 

ここでは「神を見ること」は神を信じることであり、かくて神を信仰によって見ることである。なぜなら神は信仰の中におられ、信仰の中にあって真の信仰を構成しているものであられるため、信仰の中にいる者たちは、信仰から神を見るからである。

 

 

 

天界の秘義3863[10]

 

 さらに―

 

 もしあなたの目があなたをつまづかせるなら、それをくじり出しなさい、二つの目を持っていて、火のゲヘンナに投げこまれるよりも、片目で生命に入る方があなたには良いからである(18・9)。

 

 この記事の中で『目』は目を意味してはおらず、またそれをくじり出してもならないことは明らかである、なぜなら目はつまづかせはしないで、『目』により意味されている真理の理解がつまづかせるからである(2701番)。信仰の諸真理を知り、把握し、しかも悪の生活を送るよりは、それらを知らないし、把握もしない方がまさっていることが、『二つの目を持って火のゲヘンナに投げこまれるよりは、片目で生命に入る方が良い』ことにより意味されているのである。

 

 

 

天界の秘義3863[11]

 

 同書に―

 

 あなたたちの目は祝福されている、それは見るからである、あなたたちの耳は祝福されている、それは聞くからである。まことにわたしはあなたたちに言う、多くの予言者と義しい人たちはあなたたちが見ているものを見ようとねがったが、見なかったのである(13・16,17、ヨハネ12・40)。

 

 ここの『見ること』は主に対する信仰のものである事柄を知り、理解することを意味しており、かくて信仰を意味している、なぜならかれらは主を見、その奇蹟を見たために祝福されたのではなく、信じたために祝福されたからである、このことはヨハネ伝の以下の言葉から認めることができよう―

 

 わたしはあなたたちに、あなたたちもまたわたしを見たが、信じはしないと言った。たれでも子を見て、子を信じる者はことごとく永遠の生命を得るということ、このことがわたしを遣わしたもうた方の意志である。父とともにいる者を除いてはたれ一人父を見てはいない、かれのみが[父とともにいる者のみが]父を見ているのである。まことに、まことにわたしはあなたたちに言う、わたしを信じる者は永遠の生命を得る(6・36、40、47、47)。

 

 『見はするが、信じはしないこと』は信仰の諸真理を知ってはいるが、それを受け入れないことを意味し、『見て信じること』はそれらを知って受け入れることを意味し、『父とともにいる者を除いてはたれ一人父を見ていないこと』は、神的善は神的真理によらなくては承認されることはできないことを意味している。(父は神的善であり、『子』は神的真理であることは、前の3704番に見ることができよう)。ここから内意はたれ一人主を承認しないかぎり天的な善を持つことはできないということである。

 

 

 

天界の秘義3863[12]

 

 その同じ福音書の中に同様に―

 

 たれ一人いかような時にも神を見てはいない、父の胸の中におられる独り児の御子のみが、その方のみが神を明らかに示された(ヨハネ1・18)。

 

 さらに―

 

 イエスは言われた、わたしを見る者は、わたしをつかわされた方を見る。わたしは光として世に来たのである、たれでもわたしを信じる者はことごとく暗黒の中に止まらないためである(12・45、46)。

 

 ここには『見ること』は信じることであり、または信仰を持つことであると明らかに言われているのである。さらに―

 

 イエスは言われた、もしあなたたちがわたしを知ったなら、わたしの父をもまた知ったであろう、今から後は、あなたたちはかれを知り、またかれを見ている。わたしを見た者は、父を見たのである(14・7、9)。

 

 さらに―

 

 真理の霊を世は受けることはできない、世はかれを見はしないし、また知りもしないからである、わたしはあなたたちを孤児のままに残しておきはしない、わたしはあなたたちのもとへ来る。なおしばらくの時がある、(その時がすぎると)世はもはやわたしを見はしない、しかしあなたたちはわたしを見る、わたしが生きているため、あなたたちもまた生きる(14・17−19)。

 

 ここでは『見ること』は信仰を持つことを意味している、なぜなら主は信仰によってのみ見られたもうからであり、それは主は愛により信仰を通して見られ、愛は信仰の生命であって、信仰は愛の目であるためである、それで『あなたたちはわたしを見る、わたしは生きているため、あなたたちもまた生きる』と言われているのである。

 

 

 

天界の秘義3863[13]

 

さらに―

 

 イエスは言われた、審判のためにわたしは世に来たのである、見ない者が見るためであり、見る者が目しいにされるためである。パリサイ人らは言った、私たちもまた目しいですか。イエスはかれらに言われた、もしあなたたちが目しいであるなら、罪はないでしょう、しかし今あなたたちは、私たちは見ると言っている、それであなたたちの罪は残っている(9・39−41)。

 

 ここには『見る者たち』は自分たちは他の者以上に理知的なものであると考えている者たちを意味しており、かれらについて、かれらは『目しいにされる』、すなわち、信仰を受けはしないと言われているのである(『見ないこと』または『目しいであること』は誤謬の中にいる者たちについて、また無知の中にいる者たちについて述べられていることは、前の2383番に見ることができよう)。ルカ伝には―

 

 あなたたちには神の王国の神秘を知ることが与えられているが、しかし他の者たちにはたとえで与えられている、それはかれらが見はするが、見ないためであり、聞きはするが、聞かないためである(8・10)。

 

 さらに―

 

 わたしはあなたたちに言う、神の王国を見るまでは死を味わわない者がここに立っている(9・27 マルコ9・1)。

 

 『神の王国を見ること』は信じることを意味している。さらに―

 

 イエスはその弟子たちに言われた、あなたたちは人の子の日の中の一日を見ようとねがう時代が起るであろう、しかしあなたたちは見ないであろう(17・22)。

 

 ここにはもはやいかような信仰も存在しない代の終結、または教会の最後の時がとり扱われているのである。

 

 

 

天界の秘義3863[14]

 

 さらに―

 

 イエスはかれらとともに坐られたとき、パンを取り、祝し、さいて、かれらに与えられるようになった、するとかれらの目は開かれて、かれらはかれを知った(24・30、31)。

 

 このことにより主は善によって現れたもうが、しかし善の無い真理によっては現れたまわないことが意味されたのである、なぜなら『パン』は愛の善であるからである(276、680、2165、2177、3478、3735、3813番)。これらの、また他の記事から、『見ること』は、その内意では、主から発している信仰を意味していることが明白である、なぜなら主から来ている信仰以外には信仰である信仰は存在しないからである。それがまた人間に『見させる』、すなわち、信じさせるのであるが、しかし自己から、または、人間自身のものであるものから発している信仰は信仰ではない、なぜならそれは人間に誤謬を真理として、真理を誤謬として見させるからであり、もしかれが真理を真理として見るにしても、依然信じはしないため、見はしないのである、なぜならかれはその真理の中に自分自身を見て、主を見ないからである。

 

 

 

天界の秘義3863[15]

 

 『見ること』は主に対する信仰を持つことであることは、天界の光について再三前に言ったことから極めて明らかである、すなわち、天界の光は主から発しているため、それには理知と知恵とが伴っており従って主に対する信仰が伴っているのである、なぜなら主に対する信仰は理知と知恵の中に内的に存在しているからである、それで天使たちのように、その光から『見ること』は主に対する信仰以外の何ごとも意味することはできないのである。主御自身もまたその光の中に、その光は主から発出しているため、存在されるのである。主に対する信仰を持っている者たちの良心の中に輝いているものもまたかの光であるが、その人間は身体の中に生きている間はその事実を知らないのである、なぜならその時それは世の光により明確でないものにされているからである。

 

 

 

7.理解し、信仰を持つこと

 

 

天界の秘義896

 

「ノアは箱舟の蔽いを取りのけて見た。」

 

これはいくたの誤謬が除かれると、信仰の諸真理の光が存在し、それをかれは承認し、またそれに対する信仰を持ったことを意味することは、蔽いを除くことの意義から明白であり、それは光をさえぎっているものをとり去ることである。『箱舟』により再生することになっていた古代教会の人間が意味されているため、『蔽い』により天界を、または光を見させないようにさえぎり、妨害しているもの以外には何ものも意味されるはずはない。妨げたものは誤謬であった。それでかれは『見た』と言われている。聖言には『見る』ことは理解し、信仰を持つことを意味している。ここではそれはその人間が諸真理を承認し、その諸真理に対する信仰を持ったことを意味している。真理を知ることはそれを承認することとは異なっており、それに対する信仰を持つこととはさらに全く異なっている。知ることは再生の最初の事柄であり、承認することは第二の事柄であり、信仰を持つことは第三の事柄である。知ることと承認することと信仰を持つこととの間にいかような相違のあるかは以下の事実から明白である、すなわち、ユダヤ人やもっともらしい理論により教義的な物を破壊しようと試みる者のように、最悪の人間でも知ることはできても、承認しないのであり、信じない者でも承認して、ある状態では説教もし、確認もし、熱意をもって説きつけさえもするが、しかし信者でない者は一人として信仰を持つことはできないのである。

 

 

 

[2]信仰をもち、知り、承認し、信じる者たち、これらの者は仁慈を持っており、良心を持っている、それ故信仰はたれにもこれらの事柄がその者に真のものとなっていない限り、属性づけられることは決してできないのであり、すなわち、かれは信仰を持っているとは言うことはできないのである。それ故このことが再生することである。単に信仰に属したことを知ることは、その者の理性からも同意されなくては、人間の記憶に属したものである。信仰に属したものを承認することは或る原因により、また或る目的のために生まれた合理的同意である。しかし信仰を持つことは良心に属している。すなわち良心を通して働かれる主に属している。このことは他生にいる者達から非常に明白である。単に知るに過ぎない者の多くは地獄にいるのである。承認している者の多くの者もまたそこにいるのである。それは身体の生命の中では彼らが承認したのは或る状態の中にいた時のみのことであって、他生で彼らがかつて他の者に説教し、教え、説きつけもした事柄が真であることを知ると、非常に驚き、それが彼らが前に説教したところのものとして、その記憶によみがえる時にのみそれを承認するためである。しかし信仰を持っていた者たちは凡て天界にいるのである。

 

 

 

天界の秘義897

 

 ここでは、再生した時の古代教会の人間が主題となっているため、『見ること』により承認することと信仰を持つことが意味されている。『見ること』がこうした意義を持っていることは聖言から明白である、例えば―イザヤ書には―

 

  あなたらはそれを作られた方を仰がなかった、それを形作られた方を遠くからあなたらは見なかった(22・11)。

 

 これはシオンの都について語っている。『遠くから形作られた方を見ないこと』は承認しないことであり、まして信仰を持たないことである。更に―

 

  この民の心をにぶくし、その耳を重くし、その目の上に塗りつけよ、彼らが目で見、耳で聞き、その心が悟り、ふるがえって、いやされることがないためである(6・10)。

 

『目で見ること』は承認して信仰を持つことを意味している。更に―

 

 暗黒の中を歩んだ民は大いなる光を見た(9・2)

 

これは信仰を受けた異邦人について言われているが、それはここにノアについて『かれはおおいを除けて見た』と言われているのに似ている。さらに―

 

  かの日みみしいはその書の言葉を聞き、めしいの目は暗闇から、また暗黒から見るであろう(29・18)。

 

 これは異邦人が信仰へ回心することを語っており、『見ること』は信仰を受けることを意味している。さらに―

 

  聞け、みみしいよ、眺めよ、目しいよ、見るために(42・18)。

 

 ここでも意味は類似している。エゼキエル書には―

 

 彼らは見る目を持ってはいるが、見ない、聞く耳はあるが、聞かない、彼らはそむく家であるからである(12・2)。

 

 これは理解し、承認し、信仰を持つことができるのに、そのことをしようとはしない者らを意味している。『見ること』は信仰を持つことを意味していることは、主を荒野の青銅の蛇により表象し、これを見て凡ての者がいやされたことから明らかである、例えば、モーセの書には―

 

  火の蛇をあなたのために作り、それをさおの上に置きなさい、たれでも噛まれた者が、それを見ると、生きるようになるでしょう、そして蛇がたれかをかんだならば、その者は真ちゅうの蛇を眺めると、生きるようになった(民数記21・8,9)。

 

 この記事からたれでも『見る』ことは信仰を意味していることを認めることができよう、なぜならこの場合見ることは主に対する信仰を表象する以外に何の意義があろうか。ここからまた、ヤコブの長子のルベンは『見ること』からルベンと呼ばれたが、それはその内意では信仰を意味していることが明白である(教会の長子について前に言われたことを参照されたい、352、367番)。

 

 

 

天界の秘義2325

 

ここの『見る』ことは良心を意味していることは、信仰を持っている者はまた良心を持っているためである。信仰は良心とは不可分離であり、信仰というも、良心というも、それは同じことである程にも不可分離である。信仰により、仁慈が存在する手段であり、また仁慈が存在する源泉であり、かくて仁慈そのものである信仰が意味されている、なぜなら信仰は仁慈がなくては信仰ではなく、信仰は仁慈がなくては在り得ないように、良心もまた仁慈がなくては在り得ないからである。

 

 

8.父を見る

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/10巻P30

 

私のうちで動けるように あなたを準備させてほしい。

あなたも、「私は休息を見いだした・・・」と他の者たちに言えるよう 我が玉座をあなたのうちに据えるのを許しなさい。 御父に見(まみ)えたいとは願わないか? 神に出逢いたいと切に焦がれていよう?

 

そうであるなら、そのときは あなたを産まなければならない、そう、御父を見るには 私から新たに生まれる必要がある。 生まれ出る前に父親を見た人は誰もいない。

 

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P350

 

 キリストの神性を知ることができる以前に、われわれは新しい生き物に変えられる必要がある。罪に染まり堕落した古い性質では、キリストを知ることはできない。みえざる神の形であられ、その形に似せてわれわれが造られたキリストを知ることができる以前に、新しい生命と新しい性質とが、われわれのものとなっていなくてはならないのである。そのときこそ、われわれはキリストを「まことの神」として知るようになる。

 

 

 

9.予見する、供える

 

 

天界の秘義2807

 

それが神について述べられているときは、その意義は予見し、供えることである、なぜなら『見ること』はその最も近い内意では理解することであり(2150、2325番)、さらにそれよりも深い内意では、信仰を持つことであり(897、2325番)、しかしその最高の意義では、予見し、供えることであり、

 

 

 

10.人間の内なる目である知的な心が見るものは記憶知と真理である

 

 

天界の秘義6032[2]

 

人間の内なる目である知的な心も同様であって、この目が見るためには、主から発している天界の光がそれを明るくすることが必要であり、この目がこの光により照らされると、そのときそれはそれ自身の外側の周囲にあるものを見るが、しかしその見る対象は霊的なものであり、すなわち、記憶知と真理である。しかしこの光が照らさないときは、人間の知的な心は、または内なる目は、外なる、または身体の目のように、暗黒の中に在って、何物をも見ないのであり、すなわち、記憶知から真理を何一つ見ないし、諸真理から善を何一つ見ないのである。

 

 

 

11.ヴァッスーラ:こうして初めて<私は見える・・・>とあなたは言えよう

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/10巻P148

 

愛する者よ、来なさい、あなたにとって不変の故郷、霊魂の唯一まことの住まい そして唯一まことの安息の地に向う小道に入ってきなさい。 来て 我が心の寝所に足を踏み入れなさい。 私へと続く美徳の道を歩むように 招いている。 優しい花婿として、我が宝で霊魂を飾ろう、しかし真っ先に、我が神性をもって 霊魂を飾ろう。 女王(*)のように、あなたを我が名と現存そのものによって 荘厳に飾る。 あなたの霊魂を生ける祭壇、神なる私に向ってとこしえに歌われる賛美の歌とする。 偉大な王、自然界を越える存在である私は あなたの霊魂と交わり あなたと私は一つになる。

 

あなたはひとりでは何もできない、それゆえ、あなたの全身を恵みによって照らすには 純粋な光である、私の現存が不可欠。 そして我が天使たちに私自身を顕しているように この光を通してあなたにも 私自身を顕そう、こうして初めて

  <私は見える・・・>

とあなたは言えよう。 そのときは、私自らをあなたに知らせる。 あなたと会話し、あなたも私と会話する。 三位一体の本来の神が はるばる身を屈めて 私が造り直し 恵みによって私より生まれ出て 神となった者と会話する。 養子となった我が王国の跡継ぎと 会話するために。 弱々しく、堕落しやすいあなたが 自分のどうしようもなく悲惨な霊魂を見て 真に悔い改めるなら、あなたを私の全き肖りに似た者とすることができる。

 

*キリストが霊魂に言及されるときは、女性名詞として話されます。「女王」という表現も そのように説明できます。

 

 

 

12.霊眼で見る

 

 

真の基督教777

 

 主は身体をもって現れ給わない理由は、主はその昇天以来、その栄化せる人間性の中に在し、この中に在って主はその霊的な眼の開かれていない者には何人にも現れ給うことは出来ないということである。それ故彼は悪い者、誤った者によっては、即ち主がその左手に置き給うた山羊によっては、見られることは出来ない。それ故主は自らをその弟子達に示し給うた時、先ず彼らの眼を開き給うたのである。何故なら、「而して彼らの眼開け、イエスなるを認む、而してイエス見えずなり給う」(ルカ24・31)と録されているからである。主の甦りの後墓を訪れた婦人達も同様であった。彼らは墓に坐す天使たちを眺め、彼らと共に語ったが、然し何人も肉体の眼を以てしては天使を見ることは出来ない。主はペトロ、ヤコブ、ヨハネの前に変貌し給うた際、彼らはその身体の眼でその栄化せる人間性に於ける主を眺めたのではなかった。何故なら我々は「彼らいたく睡気さしたり」(ルカ9・32)と告げられているから。彼らは主を霊の眼を以て眺めたのであり、目が覚めると、夢を見たのだと考えた。それ故主は天の雲に乗り身体を以て現れ給うであろうと想像することは無意味である。主は主から発し、主そのものにて在す聖言によって現れ給うであろう。

 

 

 

13.視野は人間の記憶の中に在る記憶知

 

 

天界の秘義9051

 

前の目または理解が見る事柄は霊的なものであり、その視野は人間の記憶の中に在る記憶知である。しかし外なる目の見る事柄は地的なものであって、その視野は世に現れる一切の物である。