目の見えない者

 

 

見る見ない盲目エフライム

耳の聞こえない者口のきけない者

足の不自由な者

 

 

 

 

1.スウェーデンボルグ

2.マリア・ワルトルタ

3.ルイザ・ピッカレータ

 

 

 

1.スウェーデンボルグ

 

 

天界の秘義6990

 

幾多の知識による信仰とその欠如による無信仰とを意味していることは以下から明白である。即ち、「見ること」の意義は理解して、信仰を持つことであり(893,2325、2807、3863,3869,4403−4421番参照)、かくて幾多の知識から発した信仰であり―なぜなら原語ではこれは開かれている者、即ち、その目を開かれている者を意味し、かくて幾多の知識から見ている者を意味しているからである。なぜなら知識は開くからである―「盲人」の意義は、目が見えない者は見ない者であるため、知識がないため、信仰も無いことである。聖言では「盲人」により、教会の外に住んでいるため、信仰の真理を知らずに生きてはいるが、教えられると、信仰を受ける幾多の国民も意味されていることは前に見ることが出来よう(2383)。それと同じ者がまた主から癒された盲人によっても意味されているのである(マタイ9・27−31、12・22、20・29以下、21・14、マルコ8・22−26、10・46以下、ルカ18・35以下、ヨハネ9)。

 

 

 

2.マリア・ワルトルタ

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズスに出会った人々3・P342

 

 全くの盲人というのは、霊魂の目をもって光すなわちまことの神を見ることのできない人です。私は、皆が見えるようになるように、この世の光として来たのです。

 

 

 

マリア・ワルトルタ/受難の前日/P146

 

 バルトロメオの方はこう言う。

「私はあなたから離れません。目が治されたことは、だれかを送って親戚の者に知らせます。私はおそばを離れません。あなたは私に目を取り戻してくださいましたから、私はあなたに命を捧げます! ああ主よ、あなたの一番卑しい下僕であるこの私をあわれんでください! 」

「私について来るがよい。善い心は人の身分を平等にします。主により頼んで仕える者、その人だけが偉大と言えるのです」

 イエズスは群集のホザンナの叫びの中で道を続ける。バルトロメオも皆と一緒にホザンナを叫びながら、周りの人に、こう言う。

「私は一切れのパンを請うためにここに来た。それなのにパンではなく、主を見つけた! 私は本当に貧しい者だったが、今や、聖なる王に仕える身となった。ああ、主とそのメシアに栄光あれ! 」

 

 

 

3.ルイザ・ピッカレータ

 

ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国/3巻P34

 

「私は霊魂に三つの方法で自分を現す。力、知らせ、そして愛によって。力はおん父、知らせはみことば、愛は聖霊である。」

 

 その他にも、なんといろいろなことを理解したことでしょうか! しかし残念なことに、私が表現できることはあまりにも少ないのです。

 

 私にとっては次のように考えられました。神は霊魂にたいし、その力をもってすべての被造界のうちにご自分を現されます。全ての存在物のうちに神の全能が示されます。たとえ沈黙の言語によってではあっても、大空、星、他のすべてのものは、ひとつの崇高な存在、創造されなかった一つの存在、そしてその全能性について私たちに語ります。事実、もっとも偉大な科学者がその知識のすべてをもってしても、一番つまらない蚊一匹すらも造り出すことはできません。このことは、一つの非常に権能ある永遠な者が存在するに違いないということを私たちに語ります。それは全てを創造し、全ての生き物に命とその本質を与えてくれた一つの存在です。

 

 宇宙のすべては明白な響きと、拭うことのできない特徴をもって、神とその全能について語ります。ですからそれを見ることができない人は盲目で、しかも自発的な盲人です。

 我らの主イエスは、「知らせ」をもって天から下りて来られることによって、私たちの目には見えないその知らせを、おん自ら地上にもたらしてくださいました。いったい幾つの方法で主はご自分をお現しになったのでしょうか?

 それについては各自理解することができると信じますので、これ以上長引かせないことにいたします。