見る

1.理解

2.右の目・左の目

3.霊魂の視覚

4.目を上げる

5.ルイザ・ピッカレータ

6.目は内的な天使たちに属している

 

 

1.目

 

天界の秘義2973[5]

 

 天的な、また霊的な愛の中にいる者たちのもとでは、善が主から霊魂を通って身体に流れ入っており、そこから身体は光に満ちるようになっているが、しかし身体的なまた世的な愛の中にいる者らのもとでは、善が主から霊魂を通って身体へ流れ入ることはできないので、かれらの内部は暗黒の中に在り、そこからまた身体は、主がマタイ伝に教えられていることに従って、暗黒に満ちるようになっている―

 

 身体の燈は目である、もし目が正しいなら、全身は光に満ちるが、もし目が悪いなら、全身は暗黒に満ちる。それで光が暗黒であるなら、その暗黒は如何に大きいことであろう(マタイ6・22、23)。

 

『目』により霊魂に属している知的なものが意味されている(2701番)。

 

 

天界の秘義2973[6]

 

 しかしその内部は暗黒であるが、その外部は光に満ちているように見える者らの場合はさらに悪い。これらの者は外的には光の天使を装っているが、内的には悪魔であるといった者であり、『バベル』と呼ばれている、このような人物のもとで『周囲に』在るものが破壊されると、かれらは真逆様に地獄へ投げ落とされるのである。これらの事柄は、エリコの都により、以下の事柄で表象されたのである、すなわち、祭司たちがその周りを七度まわって、ラッパを鳴らすと、その城壁はくだけ、都が呪いにわたされたのである(ヨシュア6・1−17)。

 

 

天界の秘義3128[3]

 

 自然的な人が善から真理を通して明るくされることについては―それはここでは『母の家』と呼ばれているが―実情は以下のようになっているのである、すなわち、前に言ったように、人間のもとに神的善はかれの合理的なものの中へ流れ入り、その合理的なものを通してかれの自然的なものの中へ流れ入り、実にその記憶知の中へ、すなわち、その中にあるいくたの知識と教義的なものの中へ流れ入り、そこにそれ自身を適合させることにより、それ自身のためにいくたの真理を形作り、そのいくたの真理を通して自然的な人の中に存在している凡ゆるものを明るくするのである。しかしその自然的な人の生命が神的な善を受け入れないで、それをはねつけるか、または歪めるか、または窒息させるかする底のものであるなら、そのときは神的善は適合されることはできず、かくてそれはそれ自身のために真理を形作ることはできず、従ってその自然的なものはもはや明るくされることはできないのである、なぜなら自然的な人が明るくされることは善から真理を通して遂行されるのであって、もはやそれが明るくされることができないときは、改良は在り得ないからである。これが内意に自然的な人もまたその性質の方面で多くとり扱われている理由であり、かくて真理は何処から発しているか、すなわち、それはそこに在る善から発していることがとり扱われている理由である。

 

 

天界の秘義9936

 

知恵と理知に属したもの。

 

 

天界の秘義10569

 

信仰、理解。

2701、4403〜4421、4523〜4534、9051

目によりそれが主の神的なものを受け入れる人間について言われているときは、信仰が、また受容する器である理解が意味されているのである。なぜなら理解は内なる目であり、信仰は内なる目により見られ、認識される真理であるからである。

 

 

黙示録講解68

 

神的な摂理[供えられること]。

エホバの「目」も同じ。

人間については目は理解を意味しており、神的な理解は無限なものであるため、神的な摂理[神が供えられること]である。

 

 

2.右の目・左の目

 

天界の秘義4410

 

右目

右の目は理解のものである真理の情愛[真理に対する情愛]に相応。

信仰の諸善に相応。

 

左目

左の目の視覚は理解のものである真理に相応。

信仰の諸真理に相応。

 

 

天界の秘義6923

 

左の眼は物質的な物から抽象されたものを知る知識に相応しているが、右の眼は知恵に属したものに相応しているということである。

 

 

 

3.霊魂の視覚

 

天界の秘義1806

 

「かれはかれを外に連れ出された」。これは外なるものから内なるものを見る内的な人の視覚を意味していることは以下の記事に関連した、『外に連れ出すこと』の意義から認めることができよう。人間が身体の目で星空を熟視し、そこから主の王国を考えるとき、内なるものが引き出されてくるのである。人間がその目で何かを眺め、その眺めるものを、恰も見ないかのように見て、それのものから教会または天界に属した事柄を見るとき、または考えるときはいつでも、かれの内的視覚は、またはかれの霊の視覚は、または霊魂の視覚は『外に連れ出されるのである』。眼そのものは元来外に連れ出されたかれの霊魂の視覚以外の何ものでもないのであり、しかもそれは特にかれが外なるものから内なるものを見るためのものであり、すなわち、世のものから他生に存在するものを絶えず反省するためのものである。なぜならそれがそのためにかれが世で生きている生命であるからでる。そうしたものが最古代教会の視覚であったし、またそうしたものが人間のもとにいる天使たちの視覚であり、またそうしたものが人間のもとにいる天使たちの視覚であり、またそうしたものが主の視覚であったのである。

 

 

4.目を上げる

 

天界の秘義2148

 

「目を上げた」。これは主が御自身の中に見られたことを意味していることは、『目を上げること』の意義から明白である。聖言では『目』により、前に(212番)引用した記事から認めることができるように、内的な視覚がまたは理解が意味されている。ここから『目を上げる』ことは、自己の上の方にある事柄を見て、認識することを意味している。内的な事柄は聖言では高いものにより表現されており、たとえば『見上げる』『目を天に上げる』『高いことを考える』により表現されているが、その理由は、人間は天界は高い所にある、または自分自身の上の方にあると想像しているということであるが、それでもそれは高い所にあるのではなくて、内なるものの中にあるのである―たとえば人間が愛の天的なものの中にいるときは、その者の天界はそのときかれの中にあるのである(450番)。このことから『目を上げる』ことは自分の中に見ることを意味していることが生まれてくるのである。

 

 

5.ルイザ・ピッカレータ

 

ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国/2巻P41

 

 イエズスは彼らに答えた。「ルイザは私を知り、私もルイザを知っている。ルイザは目の中に入れても痛くないほど可愛い。」

 

 主が話しているうちに、突然イエズスのおん目の中にいる自分を見つけた。あのもっとも清い目の中にいて感じたことを、何と言って表現したらいいのか。言葉で言い表すことはできない。天使たちもびっくりしたままでした。

 

 

 

6.目は内的な天使たちに属している

 

霊界日記670

 

目は内的な天使たちに属している、なぜならそれは顔の中に在って大脳から発出しているからである。口は実に顔の中に在るが、しかし身体へ通じ、すなわち、胃へ、肺臓へ通じ、またそこから(他へ)通じており、それで口の領域にいる者たちは顔の他の領域にいる者たちほどには尊重されてはいない。目は顔の最も高貴な領域であって、他の感覚よりもすぐれている。それは、視覚は霊的な視覚に相応しているため、それに治められている霊的な階級に属している。