エフライム

 

マナセ

 

 

1.聖書

2.聖言の理解

3.教会の知的なもの

 

 

 

1.聖書

 

 

エレミヤ31・15−20

 

主はこう言われる。

ラマで声が聞こえる

苦悩に満ちて嘆き、泣く声が。

ラケルが息子たちのゆえに泣いている。彼女は慰めを拒む

息子たちはもういないのだから。

主はこう言われる。

泣きやむがよい。

目から涙をぬぐいなさい。あなたの苦しみは報いられる、と主は言われる。

息子たちは敵の国から帰って来る。

あなたの未来には希望がある、と主は言われる。

息子たちは自分の国に帰って来る。

 

わたしはエフライムが嘆くのを確かに聞いた。

「あなたはわたしを懲らしめ

わたしは馴らされていない子牛のように

懲らしめを受けました。どうかわたしを立ち帰らせてください。

わたしは立ち帰ります。あなたは主、わたしの神です。

わたしは背きましたが、後悔し

思い知らされ、腿を打って悔いました。

わたしは恥を受け、卑しめられ

若いときのそしりを負って来ました。」

エフライムはわたしのかけがえのない息子

喜びを与えてくれる子ではないか。

彼を退けるたびに

わたしは更に、彼を深く心に留める。

彼のゆえに、胸は高鳴り

わたしは彼を憐れまずにはいられないと

主は言われる。

 

 

 

ホセア13・12−13

 

エフライムの咎はとどめておかれ

その罪は蓄えておかれる。

産みの苦しみが襲う。

彼は知恵のない子で

生まれるべき時なのに、胎から出て来ない。

 

 

 

2.聖言の理解

 

 

聖書79

 

予言者の書の中で教会が取り扱われている多くの所で、聖言の理解が取り扱われており、聖言が正しく理解されている所以外には教会は無く、教会内にいる者たちにおける聖言の理解のままに教会が左右されることが教えられている。また予言者の書の多くの所にイスラエルとユダヤ民族のもとで教会は、彼らが聖言の意義を誤謬化したことによって、またはその理解によって全く破壊され、絶滅されたものとして記されている。なぜならそれ以外のものは何一つ教会を破壊しないからである。

 

 

 

聖書79 [2]

 

聖言に対する理解は、その真のものも、誤ったものも、予言者の書には、特にホゼア書には、『エフライム』により記されている。なぜなら聖言には『エフライム』は教会における聖言の理解を意味するからである。それで聖言の理解が教会を作るため、エフライムは

 

愛しい息子、歓ばれる子供(エレミヤ31・20)

 

長子(9節)

 

エホバの頭の力(詩篇60・7,108・8)

 

力あるもの(ゼカリア10・7)

 

弓で満ちている(9・13)

 

と呼ばれ、エフライムの息子たちは、

 

武具をつけ、弓を射る者(詩篇78・9)

 

と呼ばれている。『弓』は聖言から発して誤謬と戦う教義を意味している。それでまた、

 

エフライムはイスラエルの右手の方へ渡されて、祝福された。そしてまたルベンの代わりに受け入れられた(創世記48・5、11−15)

 

それ故、

 

エフライムは、その兄弟マナセと共に(その父ヨセフの名の下に)、モーセにより、モーセがイスラエルの子孫を祝福したとき、凡ての者よりも称えられた(申命記3・13−17)。

 

 

 

聖書79[3]

 

聖言に対する理解が破壊された時の教会の性質もまた予言者の書の中に、特に、ホゼヤ書に、以下の記事に明白なように、『エフライム』により記されている―

 

イスラエルとエフライムは荒れすたれるであろう、エフライムは審判により圧せられ、砕かれる。わたしはエフライムに対し獅子のようになり、掻き裂いて、立ち去ろう、わたしは連れ去ろう、が、たれ一人救う者はいないであろう(ホゼア5・5、9,11−14)。

ああ、エフライムよ、わたしはあなたに何を為そうか、なぜならあなたの聖さは夜明けの雲のようであり、朝降りる露のように、消え去るであろうから(6・4)。

彼らはエホバの地に住まないであろう、が、エフライムはエジプトに帰り、不潔なものをアッシリアで食べるであろう(9・3)。

 

 

 

聖書79 [4]

 

『エホバの地』は教会であり、エジプトは自然的な人の記憶知であり、『アッシリア』はそこから派生する理論であり、この二つのものにより聖言は誤って理解されるため、それで『エフライムはエジプトに帰って、アッシリアで不潔なものを食べるであろう』と言われているのである。

 

 

 

聖書79 [5]

 

更に―

 

エフライムは風を食べ、東風の後からついて行く、日々彼は虚偽と荒廃とをつみ重ねる。彼はアッシリアと契約を結び、油がエジプトへ運ばれる(12・1)。

 

『風を食べる』『東風について行く』『虚偽と荒廃とをつみ重ねる』は、真理を誤謬化し、かくして教会を破壊することである。

 

 

 

聖書79 [6]

 

それに似たことがまた以下の記事のエフライムの『淫行』により意味されている(なぜなら『淫行』は聖言を、即ち、その純粋な真理を誤って理解することを意味するからである)―

 

わたしはエフライムが全く淫行を犯し、イスラエルが汚れたことを知っている(ホゼヤ5・3)。

イスラエルの家にわたしは醜いものを見た、そこでエフライムは淫行を犯し、イスラエルは汚された(6・10)。

 

『イスラエル』は教会そのものであり、『エフライム』は聖言を理解することであって、その理解から、またその理解に従って教会は存在しており、それで『エフライムは淫行を犯し、イスラエルは汚された』と言われている。

 

 

 

天界の秘義5354[9]

 

 

 

天界の秘義5355

 

「なぜなら神は私に非常に実を結ばせられたからである」。これはその結果善から真理が増大したことを意味していることは、『非常に実を結ばせること』の意義から明白であり、それは増大することであり、即ち、善から真理が増大することである、なぜなら『非常に実を結ぶこと』は善について述べられ、『増大すること』は真理について述べられるからである(43、55、913、983、1940、2846、2847番)。ここから言語では『エフライム』は非常に実を結ぶことから名づけられ、その性質は『なぜなら神は私に苦しみの地で非常に実を結ばせられたからである』という言葉に含まれているのである。この性質は善から真理が自然的なものの中で受けた試練の後でその自然的なものの中に増大したということである。善から真理が増大することの何であるかを簡単に述べよう。

人間が善の中にいると、即ち、隣人に対する愛にいる時は、また真理の愛[真理を愛する愛]の中におり、従って彼はこの善の中にいるに応じて、真理に感動するのである、なぜなら霊魂がその身体の中に存在しているように、善は真理の中に存在しているからである。それゆえ善は真理を増大させるにつれ、善自身を繁殖させるのであり、もしそれが純粋な仁慈の善であるなら、それはそれ自身を真理の中に、また真理によって限りなく繁殖させるのである、なぜなら善にはまたは真理には制限はないからである。無限なる者は凡ての物の中に全般的にも個別的にも存在されている、なぜならそれらの物は無限なる者から凡て発しているからである、しかしそれでも有限なものと無限な者との間には比率は存在しないため、限定されないものも無限な者には決して到達することは出来ないのである。現今の教会には、現今純粋な仁慈の善は全く存在していないという理由から、真理はめったに増大することは出来ない。その人間がその中に生まれている教会の信仰の教理を知って、それを色々な手段で確認することで充分であると信じられている。しかし純粋な仁慈の善の中にいて、そこから真理の情愛[真理に対する情愛]の中にいる者はそのことに満足しないで、真理の何であるかについて聖言から明るくされることを、その真理を確認する以前にそれを見ることを願うのである。更に彼は、真理の認識は善から発しているため、善からその真理を見る[認識する]のである。なぜなら主は善の中におられて、その認識を与えられるからである。人間がこのようにして真理を受ける時、それは無限に増大するのである。この点ではそれは小さな種子のようなものである、なぜならそれは成長して木となり、他の小さな種子を生み出し、その種子が代って庭園を生み出しなどするからである。

 

 

 

3.教会の知的なもの

 

 

天界の秘義6222[2]

 

教会の知的なものと意志により意味されることを説明することが必要である。教会の知的なものとは信仰の真理の何であるかを、また仁慈の善の何であるかを聖言から認識することである。聖言の文字の意義は、何であれ人間がその抱いている教理をその意義から確認するといった性質のものであることは知られており、そのことは聖言の文字の意義は真理を受け入れる全般的な器であるためであり、またこの器の性質は真理を受けない中は透明なものを通して現れるようには現れないためであり、かくてそれは単に全般的なものであるに過ぎないで、人間が個々のものと単一なものとを適当に受け入れるためには、先ず人間により学ばれねばならないためである。聖言の文字の意義は、人間がその抱いている教理を何なりとその意義から確認するといった性質を持っていることは、教会にこれまで存在してきたところの、また今も尚存在しているところの極めて多くの異端から非常に明らかであって、その異端の各々はその徒党連により聖言の文字の意義から確認されており、実に彼らがそれは真理であると徹底的に信じている程にも確認されており、以後天界から真理そのものを彼らは万が一聞くとしても、その一片も受け入れようとはしないのである。

 

 

 

天界の秘義6222[3]

 

 その理由は彼らは教会の知的なものを持っていないということである、なぜなら教会の知的なものは、人間が聖言を読んで、一つの記事を他の記事と入念に比較する時、何を信じ、何を為さねばならぬかを認識することに在るからである。この知的なものは主によって明るくされている者の中にのみ、基督教世界においてもまた明るくされている者と呼ばれている者の中にのみ見出されることが出来るのであり、この明るくされること[照示]は、名声と栄誉のためではなく、生命と用とのために、真理を知ろうと欲する人間の中にのみ見出されることが出来るのである。この明るくされることそのものは人間の知的なものにより受け入れられるのである、なぜなら明るくされるものは人間の知的なものであるからである。このことは知的なものを殆ど持っていない者は聖言からそのようなものを到底認めることが出来ないで、その者が明るくされている者と信じている者を信じているという事実から極めて明白である。更に再生している者たちは、明るくされることが出来る知的なものを主から受けることを知られたい。知的なものに流れ入って、それを明るくするものは主から発している天界の光である、なぜなら知的なものはそれ以外の源泉からはその光を、その視覚を得ないからであり、従ってその認識を得ないからである。