マナセ

 

エフライム

 

 

 

天界の秘義5351

 

「ヨセフは長子の名をマナセと呼んだ」。これは自然的なものにおける新しい意志を、またその性質を意味していることは聖言のマナセの表象から明白であり、それは自然的なものにおける霊的な善であり、かくて新しい意志であり(そのことについては以下を参照)、この名前はまたこの善の、またはこの新しい意志の性質そのものを意味しているのである。

 

 

 

天界の秘義5351[2]

 

マナセと名づけられた長子が自然的なものにおける霊的な善を、またはその中の新しい意志を意味している理由は、善は事実として教会における、または教会となる人間における長子であるが、これに反し真理は長子ではないものの、恰も長子であるかのように見えるということであり(352、367、2435、3325、3494、4925、4926、4928、4930番)、そのことはまた人間の中には意志が先行するという事実からも求めることが出来よう、なぜなら人間が意志する(欲する)ことがその生命の最初のものであり、その理解はその後に生まれて、その意志することに順応してそれ自身を働かせるからである。

 

 

 

天界の秘義5352

 

「なぜなら神は私に私の労苦をすべて忘れさせ給うたからである」。これは試練の後で遠ざけることを意味していることは以下から明白である、即ち、『忘れること』の意義は遠ざけることであり(5170、5278番を参照)、『労苦』の意義は争闘であり、かくて試練である。ここから『神は私に私の労苦を凡て忘れさせられた』という言葉により試練の後で遠ざけることが、即ち、苦痛を与えた悪を遠ざけることが意味されていることが生まれてくるのである。

 

 

 

天界の秘義5353

 

「また私の父の家の凡て」。これは遺伝悪を遠ざけることを意味していることは、『父の家』の意義から明白であり、それはここでは遺伝悪である、なぜなら『家』によりその内意では人間が意味され、実に合理的な心であるか、または自然的な心であるか、その何れかの心が意味され、特定的にはその中の意志が意味され、従って、善と悪は意志について述べられるため、善が、または悪が意味されているからであり(710、2233、2234、3128、4973、4982、5023番を参照)、それでここの『父の家』により遺伝悪が意味されているのである。『マナセ』により意味されている性質がこれらの言葉とすぐ前の言葉に含まれている。原語では『マナセ』は『忘却』を意味し、かくてその内意では、実際的な悪のみでなく、また遺伝的な悪を遠ざけることを意味している。なぜならこの悪が遠ざけられると、新しい意志が起ってくるからである、なぜなら新しい意志は主から善が流入することによって存在するようになるからである。人間のもとへ主から善が絶えず流入しているが、しかし、実際的な悪のみでなく、遺伝的な悪もあって、それらのものがそれを受け入れないように妨げ、遮るのである。それでこれらのものが遠ざけられると、新しい意志が存在するようになるのである。このことは、不幸や、悲惨や、病にある者たちの場合には非常に明白である、なぜならこれらの者の中に、凡ゆる悪が発生してくる根元である自己への愛と世への愛とが遠ざけられると、その人間は神と隣人といついて良く考え、またその隣人の幸を願うからである。霊的な苦痛であって、そこから内的な悲惨と絶望とが生まれてくる試練にあっても同様である、即ちこの試練により主として悪が遠ざけられるのであり、それが遠ざけられた後では、天界の善が主から流れ入って、それにより新しい意志が自然的なものの中に形作られるのであり、この新しい意志が表象的な意義における『マナセ』である。