口のきけない者

 

 

目の見えない者耳の聞こえない者

足の不自由な者

 

 

 

1.聖書

2.無知のために、主を告白することができない者

3.サンダー・シング

 

 

 

1.聖書

 

 

イザヤ35・1−10

 

荒れ野よ、荒れ地よ、喜び躍れ

砂漠よ、喜び、花を咲かせよ

野ばらの花を一面に咲かせよ。

花を咲かせ

大いに喜んで、声をあげよ。

砂漠はレバノンの栄光を与えられ

カルメルとシャロンの輝きに飾られる。

人々は主の栄光と我らの神の輝きを見る。

弱った手に力を込め

よろめく膝を強くせよ。

心おののく人々に言え。

「雄々しくあれ、恐れるな。

見よ、あなたたちの神を。

敵を打ち、悪に報いる神が来られる。

神は来て、あなたたちを救われる。」

そのとき、見えない人の目が開き

聞こえない人の耳が開く。

そのとき

歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。

口の利けなかった人が喜び歌う。

荒れ野に水が湧きいで

荒れ地に川が流れる。

熱した砂地は湖となり

乾いた地は水の湧くところとなる。

山犬がうずくまるところは

葦やパピルスの茂るところとなる。

 

そこに大路が敷かれる。

その道は聖なる道と呼ばれ

汚れた者がその道を通ることはない。

主御自身がその民に先立って歩まれ

愚か者がそこに迷い入ることはない。

 

そこに、獅子はおらず

獣が上って来て襲いかかることもない。

解き放たれた人々がそこを進み

主に贖われた人々は帰って来る。

とこしえの喜びを先頭に立てて

喜び歌いつつシオンに帰り着く。

喜びと楽しみが彼らを迎え

嘆きと悲しみは逃げ去る。

主に贖われた人々は帰って来る。

とこしえの喜びを先頭に立てて

喜び歌いつつシオンに帰り着く。

喜びと楽しみが彼らを迎え

嘆きと悲しみは逃げ去る。

 

 

 

 

2.無知のために、主を告白することができない者

 

 

天界の秘義6988

 

「言葉を発する」によりここでは声の発言が、または言葉を話すことが意味されてはおらず―なぜならその発言は、自然的なものであるからである―主を告白し、主に対する信仰を告白することが意味されているのである。なぜならこの発言は霊的なものであるからである。ここから「唖」によりその内意に意味されていることが明白であり、即ち、無知のために、主を告白することが出来ず、かくて主に対する信仰を表明することの出来ない者たちが意味されており、そうした状態に教会の外側の諸国民がおり、また教会内の単純な者たちがいるのである。こうした者が「唖」により意味されていることはイザヤ書に明らかである―

「そのとき足なえは雄じかのようにはね、唖の舌は歌うであろう、荒野に水が湧き出で砂漠の原には流れが湧き出るからである」(イザヤ35・5、6)

「唖の舌は歌うであろう」は、彼らは主を告白し、主に対する信仰に属したものを告白するであろう、を意味し、「荒野に水が、砂漠の原には流れが湧き出る」は、彼らが真理と善について幾多の知識を得ることを意味し、「荒野」は無知のために信仰については何らの知識も持っていない状態である。

主に癒された口の聞けない者により、また、主が世に来られたことにより誤謬とそこから派生した悪から救い出された諸民族が意味されているのである。

 

 

 

3.サンダー・シング

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P356

 

 多くの人は、野の獣のように人生を送っている。舌はあるが話す力がなく、動物のように押し黙り、自分にも人にも伝えられるものがもてずにいる。動物は舌をもっていても、話す能力はもっていない。鳴き声や動作で表現できる動物的感覚以上のことを、話す必要がないからだ。霊的生命なき人は動物のようなものだが、ある意味ではそれ以下であろう。牛でさえ飼い主を知り、ロバでさえ飼い主の小屋を覚えるというのに、被造物の冠たる人間は、自分の創造主すら覚えずにいるからだ。偽りはすらすらと舌先から出るが、真理の言葉はなかなか出てこない。それは、神である主を知らないからである。