足の不自由な者
1.聖書
2.足の不自由な者
1.聖書
イザヤ35・5−6
そのとき、見えない人の目が開き
聞こえない人の耳が開く。
そのとき歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。
口の利けなかった人が喜び歌う。
荒れ野に水が湧きいで
荒れ地に川が流れる。
マタイ15・31
群衆は、口の利けない人が話すようになり、体の不自由な人が治り、足の不自由な人が歩き、目の見えない人が見えるようになったのを見て驚き、イスラエルの神を賛美した。
マタイ21・14
境内では目の見えない人や足の不自由な人たちがそばに寄って来たので、イエスはこれらの人々をいやされた。
ヨハネ5・1−9
その後、ユダヤ人の祭りがあったので、イエスはエルサレムに上られた。
エルサレムには羊の門の傍らに、ヘブライ語で「ベトザタ」と呼ばれる池があり、そこには五つの回廊があった。 この回廊には、病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが、大勢横たわっていた。
彼らは、水が動くのを待っていた。それは、主の使いがときどき池に降りて来て、水が動くことがあり、水が動いたとき、真っ先に水に入る者は、どんな病気にかかっていても、いやされたからである。
さて、そこに三十八年も病気で苦しんでいる人がいた。 イエスは、その人が横たわっているのを見、また、もう長い間病気であるのを知って、「良くなりたいか」と言われた。
病人は答えた。「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。」 イエスは言われた。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」
すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩きだした。その日は安息日であった。
2.足の不自由な者
天界の秘義4302
「かれはそのもものためにびっこを引いた」(創世記32・32)。これは、諸真理がそのことごとくが善と共になって天的な霊的な善へ入ることができるような秩序へ未だ配置されなかったことを意味していることは『びっこを引くこと』の意義から明白であり、それはその中には未だ純粋な諸真理は存在してはいないが、純粋な諸真理が導入されることができる全般的な諸真理は存在しており、また純粋な諸真理とは一致しなくはないようなものが存在しているところの善の中にいることである。
天界の秘義4302 [4]
『びっこを引くこと』が未だその中には純粋な諸真理は存在してはいないが、それでも純粋な真理が導入されることができる全般的な諸真理は存在しており、また純粋な真理とは一致しなくはないようなものが存在している善の中にいることを意味していることは、かくて『足なえ』は善の中にはいるが、真理を知らないために、純粋な善の中にはいない者(すなわち相互愛の中に生きている異邦人がその中にいるような善の中にいる者)であることは、聖言で、『足なえ』と『びっこ』が善い意味で記されている記事から認めることができよう。例えばイザヤ書には―
目しいの目は開かれ、耳しいの耳は開かれるであろう、足なえは雄じかのよないはねるであろう、おしの舌は歌うであろう(35・5,6)。
(中略)気質の善良な異邦人の場合のように、また教会の中にそれに似た性質をもっている者たちの場合のように、善の中にはいるが、さほど真理の中にはいない者たちが意味されている
天界の秘義6413
「足なえ」により、善の中にはいるが、未だ純粋な善の中にはいない者が意味されている。