既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい
ヨハネ13・10
ヨハネ13・10
イエスは言われた。「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない。」
新エルサレムの教義186
内なる人は天界の光の中にあり、外なる人は世の光の中にあるため、内なる人は外なる人よりも前に再生しなくてはならない(3321、3325、3469、3493、4353,8746、9325番)。外なるまたは自然的な人は内なる人または霊的な人によって再生する(3286、3288、3321番)。外なるまたは自然的な人が再生しない中は人間は再生しない(8742−8747、9043、9046、9061、9325、9334番)。自然的な人が再生しない限り、霊的な人は閉じられている(6299番)。そしてそれは信仰と愛との真理と善とについていわば盲目である(3493、3969、4353、4588番)。自然的な人が再生すると、人間全体が再生する。このことは『弟子たちの足を洗うこと』と主の以下の御言葉によって意味されている―、
洗われた者は足を除いて洗われる必要はない、全身が清い(ヨハネ13・9、10、10243番)。
聖言では『洗うこと』は霊的に清められること、即ち、悪と誤謬から清められることを意味している(3147、10237、10241番)。そして『足』は自然的な人に属したものを意味している(2162、3761、3986、4280、4938−4952番)。それで『足を洗うこと』は自然的な人を清めることを意味している(3147、10241番)。
新エルサレムの教義209
『足を洗うこと』は自然的な人を清めることを意味した(3147、10241番)。主により『弟子たちの足が洗われること』の意味が説明されている(10243番)。
天界の秘義3147
「足を洗う水」。これはそこの浄化[そこが清められること]を意味していることは以下から明白である、すなわち、『洗い水』または水で洗うことの意義は清めることであり(それについては間もなく述べよう)、『足』の意義は自然的なものであり、またはそれと同一のことではあるが、自然的な人におけるものである(2162番)。表象的な教会では足を水で洗い、それにより自然的な人の不潔なものが洗い去られたことを意味することが慣とされたのである。自然的な人の不潔なものは自己への愛と世への愛に属しているかの凡ゆるものであり、これらの不潔なものが洗い去られると、そのとき善と真理とが流れ入ってくるのである、なぜなら主から流入している善と真理とを妨害するものは専らこれらの不潔なものであるからである。
天界の秘義3147[2]
なぜなら善は絶え間なく主から流れ入っているが、しかしそれが内なる、または霊的な人を通って彼の外なるまたは自然的な人に来ると、それはそこで歪められるか、追い返されるか、または窒息させられるか、するからである。しかし自己への愛と世への愛とに属している事柄が取り除かれると、そのときは善はそこに迎えられて、実を結ぶのである、なぜならそのとき人間は仁慈の業を実践するからである。これは多くのことを考察することから明白である、例えば不幸、困窮、病気に置かれて、外なるまたは自然的な人に属しているものが単に静止させられると、その人間はすぐさま敬虔に考え、善いものを意志し[欲し]、またなし得る限り敬虔な業を実践し始めるが、しかしその状態が変わるとこのすべてのことにもまた変化が起るのである。
天界の秘義3147[8]
これは、ヨハネ伝に記されているように、主が弟子たちの足を洗われたとき、教えられたことから明白である―
次にかれはシモン、ペテロに来られる、ペテロはかれに言う、主よ、あなたはわたしの足を洗われますか。イエスは答えて、彼に言われた、わたしが為すことはあなたは今は知らないが、しかし後になって知るでしょう、ペテロはかれに言った、あなたは決してわたしの足を洗ってはなりません。イエスは彼に答えられた、もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何の関わりも持ちません。シモン・ペテロはかれに言った、主よ、わたしの足のみでなく、手も頭も。イエスは彼に言われる、洗われた者は、足を洗う以外には必要はなく、ことごとく清い、あなたたちはすでに清い、が、凡てが清いわけではない(ヨハネ13・4−17)。
『洗われた者はその足を洗う以外に必要はない』は、改良された者は、自然的なものの方面で清められる必要があるのみである、すなわち、悪と誤謬とは彼らから除かれなくてはならない、そのとき凡ゆるものが主から発している霊的なものの流入により秩序づけられることを意味しているのである。さらに足を洗うことは仁慈の務めであって、他人の悪を思わないことを意味し、またそれは卑下の務めであって、他の者を不潔なものから清めるように悪から清めることを意味したのであり、これもまた今引用したばかりの記事の中の主の言葉から明白である(ヨハネ13・12−17節、またルカ7・37、38、44、46、ヨハネ11・2、サムエル記前25・41)。
天界の秘義7442[3]
人間の実情はこうしたものであるため、必然的に、人間は再生しつつある間にその自然的なものは感覚的なものに至るまでも再生しなくてはならないのである、なぜならこの感覚的なものが再生しない限り、前に言ったように、流れ入ってくる真理はそこに歪められて、内部は閉じられてしまうため、真理と善とを受けることは出来ないからである。それで外部が再生したとき、その人間全体が再生したのであり、このことが主がペテロの足を洗われたとき、これに話された言葉により意味されたのである―
シモン・ペテロは主に言った、主よ、私の足のみでなく、手も頭も洗ってください。イエスは彼に言われた、浴した者は足を洗ってもらう以外に必要はなく、全身がことごとく清いのである(ヨハネ13・9、10)。
『足』により自然的な事柄が意味され(2162、3761、3986、4280、4938−4952番)、『洗うこと』により清めることが意味され(3147、5954番)、『手』により自然的なものの内部が意味され、『頭』により霊的な事柄が意味されており、ここから『浴した者はただ足だけを洗ってもらう必要があるのみで、全身がことごとく清い』により意味していることが明らかである、すなわち、人間は自然的なものに属した外部の方面でもまた再生したときは、すでに再生しているのであるということが明らかである、それで人間は自然的なものの方面でもまた再生すると、そのときはその中の一切のものは内的なものに服従させられており、この内的なものがそこへ流入するときは、それはその全般的なものの中へ流れ入るように流れ入り、その全般的なものによって、それ自身を人間に感覚的な形をもって示すのである。こうしたことが人間に現実に起きると、彼は信仰に属した真理の情愛と仁慈に属した善の情愛を感覚的に[明らかに]感じるのである。
天界の秘義7442[4]
しかし自然的なものの究極的なものである感覚的なものそれ自身は、地的な、身体的な、世的な物から来ている物質的な観念〔考え〕に満たされているため、再生することは容易ではない。それで再生しつつある人間は、特に現今では、感覚的なものの方面では再生しなくて、感覚的なものの真上にある自然的なものの方面で再生するのであり、そこへ彼は主により、彼が信仰の諸真理と諸善とについて考えている時、感覚的なものから高揚されるのである。主により再生されつつある人間は感覚的なものから高揚される能力を与えられるのである。
天界の秘義10239[2]
しかし再生は、再生が先行し、清められることがそれに続いているという点で、清められることとは相違しているのである、なぜならたれ一人再生しつつある人間を除いては、また彼が再生した後でない限り、悪と誤謬からは清められることはできないからである、なぜなら再生していない者はその者が(悪から引き出されることを)許容するに応じて実際悪から引き出されはするが、しかしそこから清められてはいないからである、なぜなら彼は常に不潔であるからである。日々清められつつある再生した人間の場合はそうではなく、そのことがペテロに対する主の御言葉により意味されているのである―
洗われた者はその足を洗われる以外には必要はなく、かくて全身が清い(ヨハネ13・10)。
『洗われた者』は再生した者を意味しているのである。
マリア・ワルトルタ/復活/P190
キリストはどのような新しい奇跡を行うであろうか? キリストは人々のために、この世界を離れる前に多くの奇跡を行い、人々のために死に至るまで人間を愛した後、さらにもう一つのある奇跡を行った。それは、私の体と私の血である。それを私の記念として行い、宗教生活の基盤とするように、私の代々の後継者にそれを行うようにと命じてある。そして、あの晩、あなたたちを清めて、私がどうしたかを覚えているだろうか? 私は一本の手ぬぐいを腰に巻き、あなたたちの足を洗った。その屈辱的な仕草に躓いた一人に言った、『もし、あなたを洗わないなら、あなたは私と何のかかわりもなくなる』と。あなたたちは、どんな肢体についてであるか、どんな象徴をしているか、私が言いたい事が分からなかった。今、その事について話そう。
私は、あなたたちに謙遜を教え、私の国に与るためにはどんなに清くあるべきかという必要を説き、また私は慈悲深く、もはや義人である人からは、そのための霊と知恵において、清い人からは、汚れるに最もたやすい肢体において、もう一つの洗いを要求する。あなたたちの足、体の一番低い部分、泥と埃、時として芥の中に行くその部分、それは肉体、人間の物質的な部分で原罪をもっていないが、神のみ業として、神しか見えない一番小さい不完全さがある。そして実際には自然の習慣になってしまう。そうならないように小さい不完全さも根の底から戦うべきである。そのためにはその小さいものにも警戒をすべきである。そこで私はあなたたちの足を洗った。いつだったか? パンとぶどう酒を私の体と血に変える前だった。私は神の子羊で、悪魔はその足跡を残した所に下る事ができない。それから私自身をあなたたちに与えた。そのようにあなたたちも洗礼をもって、私に来る人々を洗うべきである。そして私の体を相応しく受け、それによって洗礼が死の恐るべき断崖に変わる事のないように導きなさい。
あなたたちはびっくりしているのか? それに、ではユダはどうなのかと目で聞き合っている。私は答えよう。ユダは自分で死を食べた。私の至誠の行いも、彼の心に触れることはなかった。自分の師の最高の試みは、彼の意志にぶつかった。その意志には、タウの代わりにサタンの恐るべき刻印、獣のしるしが刻まれてあった。
私はあなたたちが聖体の宴にあずかる前に、あなたたちの罪の告白を聞く。そして、あなたたちに聖霊を注ぐ。そのために、真のキリスト者は恩寵に固められる。私は司祭の資格を与える前に、あなたたちを洗った。あなたたちも、キリスト教の生活を準備すべきである。三位一体の神のみ名において、そしてまた私の限りなき功徳によって、水で洗いなさい。それによって、心の原罪が消されて、罪がゆるされ、恩寵と聖なる徳が注がれる。そして聖霊は神殿を住まいにすることができる。
主の恩寵に生きる人々の体はそうなるであろう。罪を消すためになぜ水が必要なのか? なぜならば人間はそのすべての行いにおいて、そのような物質的なものだから。水は霊魂に触れない。非物質的であるしるしも、人間の目には触れない。そのようにして、私は示現的手段なしに生命を注ぐ事もできた。しかし、どれほどの人々が信じただろうか? 見ずして固く信じ得る人々が、どの位いるであろう? だからモーゼの律法から、不浄者の人のために使用されていた清めの水を取りなさい。それは、屍に触れて不浄とされていた人々を改めて幕屋に入れるためだった。私の洗礼を授けよ。だが、三位一体のみ名によって・・・。
もし真に御父が望まなかったならば、聖霊が行わなかったならば、み言葉は託身する事なく、あなたたちは贖われなかったであろう。洗礼によって生命を受ける。洗礼を授ける時は、父と子と聖霊のみ名によってである。その洗礼は、キリストという名を受ける。それは、現在と未来にあるであろう他の洗礼と区別するためである。今、こう言うのは、それは儀式であっても不滅の部分において消され得ないしるしがあるからである。私がしたようにパンとぶどう酒を取り、私の名においてそれを祝福し、裂いて配り、キリストを信じる者が私で養われますように。また、そのパンとぶどう酒を天の御父にささげるように。私があなたたちの救いのために、十字架の上に生贄となって、私自身をささげ尽くしたその記念として、私の後継者であるあなたたちは、それを行いなさい。