洗う

不潔

 

天界の秘義3147

 

「足を洗う水」。これはそこの浄化[そこが清められること]を意味していることは以下から明白である、すなわち、『洗い水』または水で洗うことの意義は清めることであり(それについては間もなく述べよう)、『足』の意義は自然的なものであり、またはそれと同一のことではあるが、自然的な人におけるものである(2162番)。表象的な教会では足を水で洗い、それにより自然的な人の不潔なものが洗い去られたことを意味することが慣とされたのである。自然的な人の不潔なものは自己への愛と世への愛に属しているかの凡ゆるものであり、これらの不潔なものが洗い去られると、そのとき善と真理とが流れ入ってくるのである、なぜなら主から流入している善と真理とを妨害するものは専らこれらの不潔なものであるからである。

 

 

天界の秘義3147[2]

 

なぜなら善は絶え間なく主から流れ入っているが、しかしそれが内なる、または霊的な人を通ってかれの外なるまたは自然的な人に来ると、それはそこで歪められるか、追い返されるか、または窒息させられるか、するからである。しかし自己への愛と世への愛とに属している事柄が取り除かれると、そのときは善はそこに迎えられて、実を結ぶのである、なぜならそのとき人間は仁慈の業を実践するからである。これは多くのことを考察することから明白である、例えば不幸、困窮、病気におかれて、外なるまたは自然的な人にぞくしているものがたんに静止させられると、その人間はすぐさま敬虔に考え、善いものを意志し[欲し]、またなし得る限り敬虔な業を実践し始めるが、しかしその状態が変わるとこのすべてのことにもまた変化が起るのである。

 

 

天界の秘義3147[8]

 

これは、ヨハネ伝に記されているように、主が弟子たちの足を洗われたとき、教えられたことから明白である―

 

 次にかれはシモン、ペテロに来られる、ペテロはかれに言う、主よ、あなたはわたしの足を洗われますか。イエスは答えて、かれに言われた、わたしが為すことはあなたは今は知らないが、しかし後になって知るでしょう、ペテロはかれに言った、あなたは決してわたしの足を洗ってはなりません。イエスはかれに答えられた、もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何の関わりも持ちません。シモン・ペテロはかれに言った、主よ、わたしの足のみでなく、手も頭も。イエスはかれに言われる、洗われた者は、足を洗う以外には必要はなく、ことごとく清い、あなたたちはすでに清い、が、凡てが清いわけではない(ヨハネ13・4−17)。

 

『洗われた者はその足を洗う以外に必要はない』は、改良された者は、自然的なものの方面で清められる必要があるのみである、すなわち、悪と誤謬とはかれらから除かれなくてはならない、そのとき凡ゆるものが主から発している霊的なものの流入により秩序づけられることを意味しているのである。さらに足を洗うことは仁慈の務めであって、他人の悪を思わないことを意味し、またそれは卑下の務めであって、他の者を不潔なものから清めるように悪から清めることを意味したのであり、これもまた今引用したばかりの記事の中の主の言葉から明白である(ヨハネ13・12−17節、またルカ7・37、38、44、46、ヨハネ11・2、サムエル記前25・41)。