不潔

 

同性愛第6戒:なんじ、姦淫するなかれ

匂い悪臭排泄物尿

地獄

 

 

 

 

 

1.聖書

2.スウェーデンボルグ

3.ヴァッスーラ

4.聖母から司祭へ

5.トマス・ア・ケンピス

6.ドレックス教授

7.アグレダのマリア

8.サンダー・シング

9.マリア・ワルトルタ

10.涜神の歓び

 

 

 

1.聖書

 

 

イザヤ35・8

 

そこに大路が敷かれる。

その道は聖なる道と呼ばれ

汚れた者がその道を通ることはない。

主御自身がその民に先立って歩まれ

愚か者がそこに迷い入ることはない。

 

 

 

マタイ15・10−20

             

それから、イエスは群衆を呼び寄せて言われた。「聞いて悟りなさい。口に入るものは人を汚さず、口から出て来るものが人を汚すのである。」そのとき、弟子たちが近寄って来て、「ファリサイ派の人々がお言葉を聞いて、つまずいたのをご存じですか」と言った。イエスはお答えになった。「わたしの天の父がお植えにならなかった木は、すべて抜き取られてしまう。そのままにしておきなさい。彼らは盲人の道案内をする盲人だ。盲人が盲人の道案内をすれば、二人とも穴に落ちてしまう。」 するとペトロが、「そのたとえを説明してください」と言った。イエスは言われた。「あなたがたも、まだ悟らないのか。すべて口に入るものは、腹を通って外に出されることが分からないのか。しかし、口から出て来るものは、心から出て来るので、これこそ人を汚す。悪意、殺意、姦淫、みだらな行い、盗み、偽証、悪口などは、心から出て来るからである。これが人を汚す。しかし、手を洗わずに食事をしても、そのことは人を汚すものではない。」

 

 

 

マルコ7・14−22

 

 それから、イエスは再び群集を呼び寄せて言われた。「皆、わたしの言うことを聞いて悟りなさい。外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。」イエスが群集と別れて家に入られると、弟子たちはこのたとえについて尋ねた。イエスは言われた。「あなたがたも、そんなに物分りが悪いのか。すべて外から人の体に入るものは、人を汚すことができないことが分からないのか。それは人の心の中に入るのではなく、腹の中に入り、そして外に出される。こうして、すべての食べ物は清められる。」更に次のように言われた。「人から出て来るものこそ、人を汚す。中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、これらの悪はみな中から出て来て汚すのである。」

 

 

 

コロサイ3・5

 

だから、地上的なもの、すなわち、みだらな行い、不潔な行い、情欲、悪い欲望、および貪欲を捨て去りなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない。

 

 

 

 

2.スウェーデンボルグ

 

 

天界の秘義1652

 

 外なる人の中にあって、善と真理として見えたに過ぎなかったところの諸善と諸真理とはそれによって主がその子供時代に幾多の悪と幾多の誤謬に対して戦われたものであった。この外面的な諸善と諸真理とが一節に記されている王たちにより意味されているが、しかし主がそれに向かって戦われた悪と誤謬とは二節に記されている王たちにより意味され、これらは不潔なものであった(創世記14章三節)。

 

 

 

天界の秘義3147

 

「足を洗う水」(創世記24・32)。これはそこの浄化[そこが清められること]を意味していることは以下から明白である、すなわち、『洗い水』または水で洗うことの意義は清めることであり(それについては間もなく述べよう)、『足』の意義は自然的なものであり、またはそれと同一のことではあるが、自然的な人におけるものである(2162番)。表象的な教会では足を水で洗い、それにより自然的な人の不潔なものが洗い去られたことを意味することが慣とされたのである。自然的な人の不潔なものは自己への愛と世への愛に属しているかの凡ゆるものであり、これらの不潔なものが洗い去られると、そのとき善と真理とが流れ入ってくるのである、なぜなら主から流入している善と真理とを妨害するものは専らこれらの不潔なものであるからである。

 

 

 

天界の秘義3610[2]

 

 これらの事柄は自己と世への情愛の中にいる者らによっては到底把握されることは出来ない、なぜなら彼らはそれ以外のいかような生命も在り得ないと信じており、従ってもし自分たちが仮にもその生命を奪われるなら、自分たちは全く生きることは出来はしないと信じているからである。なぜならその生命の中にいる者は霊的な天的な生命はいかようなものであるかを到底知ることは出来ないからである。それでも事実は、彼らが自己と世への情愛の生命を剥奪されると、そのとき天使的な天界的な生命のような生命が、表現を絶した知恵と幸福とともに主から流れ入って来るのであり、この生命から前の生命が観察されると、それはその中には自分たちが考えたり話したりすることが出来、かくて外なる形では他の者にように見えることが出来るということを除いては、その中には神的なものは何一つないほどにも生命でないものとして、または獣の不潔な生命として見えるのである。

 

 

 

天界の秘義7225[]

 

これらの記事から『割礼を受けないこと』は不潔であることを意味していることは明白であり、不潔なものはすべて世への愛と自己への愛である不潔な愛から発しているため、それで『割礼を受けない』により善と真理との流入を妨害するものが意味されているのである。こうした愛が在るところには、流れ入ってくる善と真理とは消滅してしまうのである、なぜならそれらは、天界と地獄のように、相反したものであるからである。ここから『割礼を受けない耳』により服従しないことが意味され、『割礼を受けない心』により善と真理とを斥けることが意味され、それはこうした愛がそれ自身を城壁のように誤謬をもって強固なものになしたとき特に見られるのである。

 

 

 

天界の秘義7225[]

 

 モーセは、舌がもつれたために、自分自身を『唇では割礼を受けない者』(創世記6・12)と呼んだことは内意のためであり、そのことにより、パロにより表象されているところの誤謬の中にいる者らは、律法の神的なものから彼らに言われる事柄に耳を傾けようとしないことが意味されるためである、なぜなら誤謬の中にいる者らは律法の神的なものに属している真理を誤謬と呼び、律法の神的なものに反している誤謬を真理と呼ぶからである、なぜなら彼らは全く対立したものの中にいるからである。そこから教義の諸真理は彼らからは不潔なものとしか認められず、天界の愛すら彼らには不潔なものに見えるからである。さらに彼らは天界の社会へ近づくと、不愉快な臭いを発するのであり、それを知覚すると、それは彼ら自身から発しているのに、その天界の社会から発散していると考えるのである、なぜなら不快な臭いはそれとは対立したものに近寄らない限り認められはしないからである。

 

 

 

天界の秘義9917〔4〕

 

 エレミヤ記には―

 エルサレムは罪を犯した、その不潔はその裾にあった(哀歌1・8、9)。

『裾〔スカート〕の不潔』は行為と業における、引いては最も外なるものにおける(不潔)を意味している、なぜなら最も外なるもの、または最も外部のものは内的なものからその本質を得ており、それで内部が不潔である時は、その不潔は人間の前に現れていないかもしれないが、その最も外なるものもまた不潔であるからである、その不潔が人間の前に現れないことは人間は外なる形を眺め、それで内部を見ないという理由によっているものの、それでも内部に存在しているこの不潔なものは天使たちの前には現れており、他生では外なるものは取り去られるため、そこでは凡ての人間のもとに残らずそれは暴露され、従ってその業の本質の性質がいかようなものであったかが明らかにされるのである。

 

 

 

仁慈の教義202

 

主は人間各々を通して善を生み出されることが出来、悪い人間が生み出す悪を善に向けられることが出来るのである。主は悪い人間をその人間自身のために、また世のために善を行うように刺激されることが出来るが、しかしその時でも主はその人間の悪の中へ流れ入られはしないで、その周囲に、その人間の円周の中へ流れ入られ、かくてその者の外なるものの中へ―その人間はその外なるものにより善として見えるように願っているのであるが、その外なるものの中へ―流れ入られるのである。それでこの善は、それが悪である限り、皮相的なものであり、本質的には悪である。偽善者のもとではそれは金を被せた糞であり、それは純金以外のものであるとは殆ど信じられはしないものの、嗅覚の鋭い鼻孔のもとへ持ってこられると、その汚臭が認められたのである。

 

 

 

神の摂理233(ニ)

 

意志の愛は欲するものであり、いわば、それらに食欲を感じ、それらが吸収されて、心を養うようにしむける。もしその愛が悪であるなら、それは不潔な物を欲し、それに食欲を感じるが、しかし善であるなら、清潔な物を欲して、それに食欲を感じ、それに適しないものを凡て種々の方法で分離し、除き、斥けるのである。

 

 

 

天界と地獄491

 

直ぐ天界に挙げられる者は世で再生し、従って天界に入る準備をしていた者たちである。再生し準備していて、ただ身体にある自然的な不潔なものを斥けさえすればよい者たちは天使によりすぐ天界へ連れて行かれる。

 

 

 

 

神の摂理38

 

悪の欲念に喜びを感じる者は、天使的天界の楽しむ善の情愛から生まれる喜びについては何ごとも知らない。なぜならこれらの喜びはその内的性質では全然相反したものであり、従って表面では殆ど相違していないけれど外なるものの内部では相反しているからである。なぜなら愛には凡てその愛自身の喜びがあり、悪い欲望に動かされている者は悪の愛に、例えば姦淫、復讐、詐欺、盗みまたは残忍に喜びを感じ、実に、極悪の人間は教会の聖いものを瀆し、神に向って毒舌をふるうことに喜びを見出すからである。支配を求める利己的な愛がこの喜びの源泉である。その喜びは心の内なる領域を囲んでいる欲念から流れ出て、身体に流れ入り、そこに不潔な物を刺激し、その不潔な物は繊維組織を刺激する。このように欲念の種類に応じ、心の歓喜から、身体の歓喜が発している。こうした欲念に溺れた者の身体の繊維組織を刺激するこの不潔な物の性質を何人でも死後霊界で知ることが出来よう。全般的にそれらは屍、糞のようなものであり、腐敗し、悪臭を発し、尿に似たものであるが、それは地獄はこうした不潔な物に満ちているからである。これらの物は相応であることは、「神の愛と知恵」を取扱った論文に見ることが出来よう(422−424)。しかしこの汚れた歓喜は地獄に入った者の中には凄惨な状態に変化する。これらのことを記したのは、今述べようとする天界の幸福を更に明らかにするためである。なぜなら凡てのものはその反対のものにより知られるから。

 

 

 

3.ヴァッスーラ

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/2巻P90

‘87・12・31

 

小さな者よ、私を愛するか?

 

主を限りなく礼拝します 主よ。

 

そう ヴァッスーラ、私を愛しなさい。 今まで私を愛さなかった分も、私を愛さない人びとの分も、花よ、どの花も光を必要とする その花びらに与える影響を知っていて、娘(こ)よ 悔い改めてくれるか?

(私は過去の分と現下の罪を悔い改めました(*))

*神は 聖体拝領で主をお受けする準備をしておられるのでした。

 

花よ あなたを赦す、このすべてを心の底から忌み嫌いなさい、不潔を嫌いなさい(*) これはソドムの悪徳であった ♡♡

 *霊魂の不潔。

 

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/3巻P149

‘89・3・29

コーテテル(JU)(スイスの北)の集会に際して与えられたメッセージ

 

 ♡ 私、あなたの聖なる者は、苦しみを負い からだは この暗やみの世の 不従順、不潔と罪によって 引き裂かれている! ああ 被造物よ! 我が苦しみの叫びは、天使たちが打ちふるえて ひれ伏し、天全体を揺れ動かす。 私の声はまだ 届いていないか、我が娘息子たちよ? 天からの我が叫びに対し あなた方の聞こえない耳に 悪魔たちでさえ 唖然としている・・・血の涙に 目は溢れ、夜昼と、何時間も、あなたを待ち続けている、我が霊を 永遠に拒むのか? 憩う牧場が一つもなく、走って行って生き返らせてくれる泉も 一つとない、この荒れ果てた荒野に 我が声はこだまする。 私はいにしえの牧場に 天の玉座から降って来たが そこは粗末にされ 不毛と化していた、愛を込め 手ずから植えた花は、一つまた一つと 枯れていき、花床は荒れ果て 干からびている、泉はもう空の、ほこりっぽい、暗い穴に過ぎず、毒蛇の巣となった ♡ 

 

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/4巻P209

‘90・8・5−29 ― 十誡 ― ロードス島にて

 

安息日を聖とするように覚えておきなさい と求めた、だがあなた方は不潔をもってそれを逆転させ 自らの身体や精神を辱しめる醜悪な楽しみや習慣によって汚した それは神聖な真理を偽りとして手放し 私に仕える代わりに被造物を拝み それに仕えたからです。 ソドムとゴモラもあなた方の不潔と比べたなら 殆ど無垢で清く見える。 まことに言う、その日には ソドムとゴモラのほうがあなた方より軽い咎めで済まされよう、あなた方の殆どは安息日を守っていない、そう、我が掟を守ってはいない・・・

 

 

 

 

4.聖母から司祭へ

 

 

聖母から司祭へ1989.10.13

ファティマ最後のご出現の記念日  ドンゴ(コモ県)

第一の災害の天使

 

 太陽の奇跡のあった1917年10月13日の、わたしの最後の出現のことを、あなたたちは、今日、記念しています。

 主の偉大な日が訪れるまえに、教会と人類とを準備させる役目のある太陽に包まれた婦人を、よりいっそう仰ぎみなさい。

 決定的な戦いの時がきました。

 大艱難の時がこの世に下ったのです。なぜなら、神の天使たちは、その持っている災害で地を罰するためにつかわされるからです。

 五感の犠牲と邪欲の制御、慎み深さ、よい手本、潔白と聖徳の道を歩むようにと、わたしは何回も呼びかけたのです。

 しかし、人類は、わたしの呼びかけを受け入れず、不潔の罪を犯さないようにと命じている神の律法の第六戒に背きつづけたのです。

 それだけではありません、この罪をほめたたえて人間的な価値として、また、自分の個人的な自由を行使する新しい方法として、紹介するまでになったのです。こうして、今日では、不潔のすべての罪を正当化するほどになりました。

 まず第一に、少年と青年たちの良心をだらくさせて、自分ひとりで犯した不潔な行為は、もう罪ではないという確信を教えこんだのです。また、婚約者同士の結婚前の関係が許されるどころか、善いものであることを説き、家族は自由にふるまうことができ、出産をさまたげるために人工的な手段を利用してもよいという確信を教えこんだのです。

 自然に背く不潔の行為を正当化し、ほめたたえるほどにいたったのです。それだけではありません、同性どうしの共同生活を、家庭と同じものと認める法律までも提案するほどになったのです。

 不道徳、不潔、猥褻は、印刷物とすべての広報機関によって、今日ほどたえず宣伝されたことは今までなかったのです。

 特にテレビは、毎日猥褻な場面を映して爆撃のような悪の恐ろしい手段となったのです。その目的は、すべての人の知恵と心の清さを堕落させることをねらっています。

 娯楽の場、特に映画館とディスコは、人道的、キリスト教的尊厳を公に汚す場所となったのです。

 肉欲の罪をもって、ひきつづき公に、わたしたちの主である神を侮辱する時がこれです。

 すでに、聖書の中で、肉で罪を犯すものは、同じ肉でふさわしい罰を受けると忠告されています。

 こうして、第一の災害の天使が神の命令に従って、罰を与えるために世界を訪れる時がきたのです。

 

―第一の災害の天使は、額と手に獣の印を受けるのに承知し、獣の像を礼拝した人々の肉に、ひじょうに苦しい悪性の傷をきざむのです。この傷をうけた人は、失望のあまりに叫ぶようになります。

 

 この傷は、不治の悪性の病で、体におそいかかる苦しみを示しています。

 苦しい悪性の傷とは、無神論によって唯物的な文化をつくり、快楽を探すことを人間生活の最高の目的とする今日、これほど堕落した全人類にふりかかる無知のことです。わたしのあわれな子らのある者は、自分たちの不潔な罪と道徳上の無秩序のために、この傷をうけ、行った悪の重荷を自分たちのうちに担っています。

 他の者は、これと異なって、善良で罪はないにしても、この同じ傷を受けます。この場合、この人々の苦しみは、あなたたちをみな一つに結び合わせる連帯性によって、多くの悪人の救いに役立ちます。

 

―第一の災害は、悪性の腫瘍、各種の癌のことです。医学は各分野にあれほど進歩したにもかかわらず、何もできないのです。これらの病気は、ますます広がり、人間の体を傷つけ、ひじょうに苦しい悪性の傷をもって破壊します。

 最愛の子らよ、不治のこれらの病気が全世界にどれほど広がり、そのために何百万人の人が死ぬということを省みてごらんなさい。

 

―第一の災害はまた、エイズの新しい病気なのです。この病気は、特に麻薬、悪徳、自然に背く不潔の罪の罰のぎせい者となるわたしのあわれな子らにおそいかかります。

 あなたたちの天の母は、人類がこの第一の災害に傷つけられているこの時代に、みんなのために助けと支え、慰めと希望となりたいのです。

 このために、断食と苦業と償いの道を歩むように、わたしは呼びかけます。

 

―少年たちに、潔白の徳のうちに成長し、このむずかしい道において親と教育者たちの助けをうけるようにと、わたしは願います。

 

―青年たちは、祈りとわたしに一致した生活をもって、邪欲をおさえることをならうように願います。また、映画館やディスコに行くのを止めるように願います。なぜなら、そこに、わたしの汚れなき心がこれほど愛する美徳を犯す重大な絶えざる危険があるからです。

 

―婚約者に、結婚前のすべての関係を慎むように、わたしは願います。

 

―キリスト信者の家庭には、結婚生活における貞潔を守るように養成され、命を妨げる人工的な手段を決して使わないように、わたしは願います。

 このようにしなければならないのは、キリストの教えによることであり、教会は今日も、照らされた知恵に従って、みなに教えるのです

 司祭たちが、独身生活を細心の注意を払って守り、修道者は貞潔の誓願を忠実にきびしく守るように、わたしは願います。

 苦しい悪性の病気の第一の災害にかかったわたしのかわいそうな子らに、わたしはあわれみ深い母として力づけ、慰め、希望と平和をもたらしたいのです。

 これらの人々に、わたしは、自分たちの苦しみを、つぐないと清めと聖化の精神で捧げるように願います。

 とくべつに、これらの人々のために、わたしの汚れなき心は、最も歓迎する避難所となり、救いと喜びの神にみちびく安全な道となります。わたしのこの天的花園に、すべての人は慰めとはげましをうけ、わたし自身、かれらの苦しみをやわらげるために、そして、神のみ旨ならば、癒しの恵みを与えるために、愛にみちた世話をひきうけます。

 したがって、人類がこの第一の災害にみまわれるこの時に、慰めと助けとを得るために、あなたたちの天の母であるわたしを仰ぎ見るようにと、みなに呼びかけるのです。

 

 

 

聖母から司祭へ1990.9.8

 

 わたしの現存が、あなたたちの間で強くなればなるほど、悪と罪、憎しみと不潔の暗闇は、あなたたちから遠ざかっていきます。それは、サタンがますます束縛され亡ぼされるからです。

 

 

 

聖母から司祭へ1994.8.15

 

 世界は、愛と命にかわける砂漠となりました。不潔はすべての報道機関を通じて、どこにでも宣伝され、その邪悪な影響で風俗を堕落させ、紊乱させ、こうしてあなたたちの体は、聖霊の神殿でありながら侮辱され、汚されています。罪はあなたたちを、新しいもっと大きな奴隷制度におとします。

 

 

 

 

5.トマス・ア・ケンピス

 

 

トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/2・10・1

 

世間のあらゆる楽しみはむなしいか、そうでなければ汚らわしい。しかし霊魂の喜びばかりは楽しく正しい。というのは、それは善徳から生じ、神によって清い霊魂に注ぎこまれるからである。

 

 

 

トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/3・6・4

 

彼が悪い汚らわしい思想(おもい)を吹きこんだならば、それを彼に投げ返して言うがよい、「退け不潔な霊よ、恥じよあさましき者! 汚らわしや、このような想像を起させるとは!

 私から離れ去れ、極悪の誘惑者、お前は私となんの関係もない、かえってイエズスこそ強い闘士のように私とともにおいでになるから、お前は必ず敗れるだろう。

 私はお前に従うよりは、むしろ死ぬことを、どんな責苦でも受けることを望む。『だまれ、静まれ!』(マルコ4・39) お前がいかに私を苦しめても、私はもはやお前の言うことを聞かない。

 『主は私の光、私の救いである。私はだれを恐れようか。』(詩篇26・1)『たとい軍勢が私に向って来ても、私の心は恐れないだろう。』(詩篇26・3)『主は私の扶助者(たすけて)、私の救い主である。』(詩篇18・15)」と。

 

 

 

トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/3・12・4

 

 そればかりか、生きている間ですら、その楽しみのうちにありながら、悩みや倦怠や恐れを覚えずにはいられないのである。

 なんとなれば、かれらの楽しみを求めようとしたそのことさえ、しばしばかれらに悲しみの苦罰を与えるからである。

 かれらは、気ままに楽しみを追い求めたのであるから、不安と悩みとを味わわずにいられないのも当然なのである。

ああ、これらの楽しみは、すべていかにはかなく、むなしく、放縦(ふしだら)で、恥ずべきものだろう!

 しかもかれらは酔って盲目になっているので、それがわからない。そしておろかな畜生のように、はかないこの世のつまらない楽しみを追うて、そのため霊魂を滅ぼしてしまうのである。

 だからわたしの子よ、「あなたは自分の情欲に従わず、自分の我意を捨てよ。」(集会の書18・30)

「主に在って喜べ。そうすれば主はあなたが心に願うことを、あなたにお与えになるだろう。」(詩篇36・4)

 

 

 

トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/3・12・5

 

 だからあなたは、もしほんとうの楽しみを味わい、いっそう豊かな慰めをわたしから受けたいと思うならば、いっさい世間の物事を軽んじ、あらゆる卑しい楽しみを捨てるがよい、そうすればあなたは祝福をこうむり、豊かな慰めを与えられるだろう。

 そしてあらゆる物質的慰めから離れれば、離れるほど、あなたはわたしの慰めのますます甘美で力強いことを知るだろう。

 けれども、その境地に達するには、まず多少悲しみをなめ、骨を折って戦わなければならない。

 抜き難い習慣は、あなたに抵抗するだろう。しかしそれにはいっそうよい習慣をもって打ち勝とう。

 からだも恨み歎くだろう。けれども精神の熱烈な力をもってこれを抑えよう。

 あの老獪な蛇はあなたを誘い悩ますだろう。しかし祈りをもってこれを追払おう。その上わけても有益な仕事にいそしむことによって、その入ってくる口をふさぐようにしよう。

 

 

 

トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/3・48・5

 

天上の甘美よ、来てすべての不潔を、み顔の前から逃げ去らせてください。

また私を大目に見て、私が祈りのとき主以外の何かを思うたびに、おん哀れみをもって私をおゆるしください。

 

 

 

 

6.ドレックス教授

 

 

天使館/天使のパン14号P42

『信仰は従順より重要である』ドレックス教授への救い主の御言葉

1970年12月4日早朝の主の御言葉

 

 大いなる信心と愛をもって貴方が行っている仕事に対する私の祝福を受けなさい。その仕事は私の童貞聖母マリアと私に捧げられている。

 今の時代は難しく深刻である。その理由は、人間が神を抜きにして将来を構築したいと願っているためであり、更には過去に行われていた崇拝に顔をそむけてしまったからである。人間はもはや恩寵を大切にしようとせず、俗事を好む。純潔を尊ばず、不潔の罪に敬意を払い、天使たちには不忠実である。このようにして人間は悪魔の手に陥っている。

 

 

 

 

7.アグレダのマリア

 

 

アグレダのマリア/神の都市/P282

 

元后の御言葉

 私の娘よ、もしも罰せられるべき人を誰でも救えるならば、拷問も死も私は拒みません。隣人に罪を犯させないために、あなたが祈り苦労することはあなたの義務です。目的が達成されなくても、あなたは主があなたの祈りを聞き届けられたかどうか判らなくても、確信を持ち続け、忍耐し続けなさい。この祈りは全ての人の救いを望む主を決して怒らせないからです。この時、賢慮と愛徳に叶う手段を用い、祈り続けなさい。いと高き御方なる神は、人々が自由意志で破滅を追及しない限り、あらゆる人々の救いを求めます。あなた自身の霊魂に神は無限の価格をつけています。悪魔の誘惑やあなたの情欲が、あなたにいかに小さい罪でも起こさせようとする時、私がどれほど悲しみ、どれほど涙を流すか覚えておいて下さい。

 

 

 

 

8.サンダー・シング

 

 

サンダー・シング/イエス・キリスト封印の聖書/P86

 

 大聖は、わたしが最初に訪れたときと正確に同じ場所にいた。彼は、まるでわたしと常に一緒だったかのように、わたしのこれまでの人生を細部にわたって述べ立てた。わたしの親友の一人―宣教師―は『今度、大聖と会われた時には、わたしを祈りに加えてくださるよう勧めていただきたい』といっていたので、このことを伝えると、大聖は次のように答え、わたしは非常に恥ずかしい思いをした。『あなたから勧められる必要はない。わが人生全体が祈りの伝道に捧げられているのだから、わたしは求められずとも、すべての人のために祈っている。行って、友人の宣教師にいいなさい。あの罪を捨て去らない限り、わたしはあなたのためには祈れないと。たとえわたしが祈っても、彼の罪が祈りの応答を妨げるからだ』

 わたしは、これを聞いて非常に驚いた。友人の心理状態をどうやって知ったのであろうか。わたしは、帰るとすぐ、友人にすべてを書き送った。友人は、非常に動揺して、自分と神以外誰も知らないと思い込んでいたその罪を、涙をもって悔い改めた。

 大聖は、またこのように述べた。

『密かに罪を犯しているとき、見ている者は誰もいないと本人は思い込む。だが、そこには神の聖天使以外に、すでに他界している由縁(ゆかり)のある霊たちも必ず集まっているのだ。わたしには彼らの姿が見えるが、彼らが姿を見せることは許されていない。誰かが罪を犯しているのを見るとき、彼らは落ち着かなくなり、離れ去ってしまう。罪の悪臭があまりにひどいからである。これらの霊たちと天使たちとは、審判の日に隠れた罪の証人となるだろう。

 だが、諸聖人と諸天使は、常に、聖書を学び、祈りに忙しくしている人々とともにいる。昔の人々が感じ取った“諸聖人の通功”がこれである。われわれが、心を尽くし、魂を尽くして神への奉仕に忙しくしていれば、死に臨むときにこれら諸天使、諸聖人方が来て、いつまでも神のお近くにいられるように迎え入れてくださるのだ』

 

 

 

サンダー・シング/イエス・キリスト封印の聖書/P302

ある臨死体験

 

「わたしは、ある青年に『あなたは救い主のために何をしていますか』と尋ねたことがある。彼はこう答えた。『わたしがしなければならないようなことを、キリストがわたしにしてくれたのですか』。わたしは言った。『キリストはあなたのために血を流され、生命をお与えになったのです』。彼は、言葉を返した。『待ってください。それはわたし個人のためですか。キリストは全体のために生命を与えたのでしょう。わたしが返さなければならない特別な何かを、キリストがわたし個人にしてくれたのでしょうか』

 数か月後、彼は重い病に倒れ、死の床にあった。そのときに、脱魂して幻を見た。人生の様々な場面が映像となって室内に広がった。その中に、まだ幼い彼が、二階のバルコニーから転落する場面があった。転落するときに、誰かが彼を腕に抱きとめ、優しく地面に横たえた。その人の掌には“傷跡”があった。次に、彼は、自分が岩場から落ち、死を覚悟する場面を見た。このときにも、ある人が彼を救出した。その人の両掌には“傷跡”があった。さらに別な場面で、彼は毒蛇を踏んでいた。だが、ここでも、蛇に噛まれぬようにと何者かが蛇の鎌首を押さえた。その掌には傷跡が見えた。次に、室内で密かな罪に耽っている場面を見た。すると、またもその人が現われ、傷を見せながら、罪を犯さぬようにと彼に願った。これらの場面を見せられているときに、キリストが現われ、こういわれた。『わたしはあなたにこれだけのことをしたにもかかわらず、あなたはわたしが何もしなかったと考えている。あなたは今、死を前にしている。ここで死ねば、あなたは確実に地獄に行く。だが、今度もわたしはあなたを死の淵から救い出す。行って、神があなたのためにした、この大いなる出来事を人々に証言せよ』

 こうして、回復した彼は神のしもべとなった。わたしと再会したとき、彼は深い痛恨の思いでこう語った。『自分は愚かでした。神は自分に何もしてくれていないと考えていました。自分が幾度となく災難から逃れたときに、親も自分もただの偶然で済ませていたのです。しかし、今は、世の終わりまであなた方とともにいると約束してくださったキリストが、いつもともにいて、どんな危険からも自分を守ってくださることを知りました。』

 

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P54

 

 次の話も、ある異象の中で示されたものである。

 ある男が自室に隠れて罪深い行為に耽り、自分の罪を知る者は誰もいないと思い込んでいた。

 聖徒の一人がいった。「そのとき、この男の霊眼が開かれていればと、どんなに思ったことか。そうすればこんな罪を堂々と犯すこともなかっただろう」

 それというのも、この部屋には何人かの天使と聖徒たち、また彼の親しくしていた者たちの霊も、彼を助けようと集まって来ていたからである。其の誰もが彼の恥ずかしい行為をみて嘆き、一人はこういった。

「わたしたちは助けるためにきたのに、彼が裁かれる日には反対証人とならざるをえない。彼はわたしたちをみることはできないが、みな彼がこのような罪に耽っているのをみているのだ。どうか、この人が悔い改め、やがてくる刑罰を免れるように」

 

 

 

 

9.マリア・ワルトルタ

 

 

マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音/7卷上P18/434・5

 

このは、不潔な体や肉欲の臭う霊魂には来られないのです・・・

 

 

 

 

10.涜神の歓び

 

 

真の基督教570

 

 悪魔共は答えた。「凡ゆる者は、たとえ善人、或は悪人と呼ばれるにしても、その者独自の歓喜を持っている。」すると天使たちは尋ねた「君達は何を歓ばれますか。」 彼らはそれは姦通、復讐、詐欺、涜神の歓びであると語った。更に彼らは尋ねられた「然しこれらの歓びの性質は如何なるものですか。」 彼らは自らが他の者から排泄物、腐敗した屍体、腐りかかった尿から発する臭気として認められると語った。彼らは問われた、「で、これらは君達には歓ばしいのですか。」 彼らは語った、「さよう極めて歓ばしい」。 「では」と天使たちは語った、「君達はそのような物の中にころげまわっている不潔な獣のようなものです。」彼らは答えた、「そうかもしれない、とにかくこれらの物は我々の鼻には気持ちが良い。」 次に天使たちは尋ねた、「他に何か。」彼らは答えた、「各人は若し善良な霊と天使とを悩まさない限り、己が歓びを、実に彼らの所謂、最も不潔な歓びをすら楽しむことを許されている、然し我々はこの歓びに強いられて彼らを悩ます故、労役所に閉じ込められて、苦しい思いをするのである。この楽しさを失うことが地獄の苛責と呼ばれる内的苦痛を生むのである」。天使たちは更に尋ねた、「何故君達は善良な者を苦しめるのですか」。 「それを抑えることが出来ないからである」と彼らは答えた、「我々は天使を眺め、その周りに主の神的スフィアを認めると、憤怒に駆られるのである」。 この言葉に我々は語った、「それでは君達は野獣のようなものです。」 彼らはその新米の霊が天使たちとともに居るのを眺めると、憤怒の発作が憎悪の火のように彼らを襲った。それ故、彼に危害を加えないように、再び彼らは地獄に投ぜられた。