排泄物

 

 

 

1.金をかぶせた糞

2.彼らは糞であり、便所に住んでいる

3.地では排泄物により土地が肥沃になることが生み出される

4.グリニョン・ド・モンフォール

 

 

 

 

1.金をかぶせた糞

 

 

仁慈の教義202

 

それでこの善は、それが善である限り、皮相的なものであり、本質的には悪である。偽善者のもとではそれは金をかぶせた糞であり、それは純金以外のものであるとは殆ど信じられはしないものの、嗅覚の鋭い鼻孔のもとへもってこられると、その汚臭が認められたのである。

 

 

 

 

2.彼らは糞であり、便所に住んでいる

 

ソドム的なものについて

霊界日記2675

 

 他生には生涯の間ソドムの罪を犯した者たちがいる。これらの者は死後の生命について何一つ信じはしなかったし、地獄と天界とが在ることも信じはしなかったし、自分らは全く獣のようなものであって、獣のように死んでしまうと信じたのであり、それで彼らはたとえ論じる〔推理する〕ことは出来るものの、知的な原理は何ら得てはいないのである。他生では彼らは極めて悲惨な処置にさらされ、奈落の拷問で罰しられるが、それは描写出来ないほどにも恐ろしいものであり、さらに彼らは排泄物〔糞便〕の在る尾の領域を構成している、すなわち、彼らは糞であり、便所に住んでいるからである。

 

啓示による黙示録解説97

 

人間が行う善の中には、何一つ真理から、または誤謬から存在しているものはないと信じられているが、それでも善の性質は他のいかような源泉からも発していないのである、なぜならそれは愛と知恵のように、また愛と愚鈍のように共に密着しているからであり、善を為すのは賢い者の愛であるが、しかし愚かな者の愛は外なるものの中では善のようではあるが、しかし内なるものの中では全く善に似てはいないものを行うのである。それで賢い者の善は純粋な金のようなものではあるが、愚か者の善は糞をおおた金のようなものである。

 

 

 

啓示による黙示録解説107

 

かれらは天使たちの前には木から彫った像のように現れ、業に功績をおいている者らは、何らおおいをつけないで、むき出しになったその彫像のように現れ、また毛のない羊のようにも現れ、業に功績をおいている者は糞だらけのそうした羊のように現れている、なぜなら業は凡て意志から理解により行われ、理解の中に生命を受けると同時に衣服も受けるからであり、ここから、前に言ったように、かれらは天使たちには生気のない、むき出しになった物として現れてくるのである。

 

 

 

 

3.地では排泄物により土地が肥沃になることが生み出される

 

 

「排泄物により霊的な事柄において表象されているものについて」

霊界日記2660

 

 排泄物は霊的な、汚れた、嫌悪すべきものである。地では排泄物により土地が肥沃になることが生み出されるからには、そこから、汚れた幾多の罪を告白し、自らが糞のようなものであることを告白する者たちの中には、こうした地の中には種子が成長することが表象されるのである。他生でも同じく、姦淫と残酷との楽しいものといったものが腐敗して、悪臭を発する糞のようなものとなり、かくて彼らがそうしたものを忌み嫌い初めると、その時はこれらの霊は、謂わば、その中に善の能力が植え付けられることが出来る土壌となるのである。

 

 

 

 

4.グリニョン・ド・モンフォール

 

グリニョン・ド・モンフォール/聖母マリアへのまことの信心228

 

第一週には、すべての祈り、すべての信心のわざを、自分自身を知り、おかした罪を痛悔する恵みをねがうことに専念します。したがって、すべてのことを、謙遜の精神でおこないます。

 

そのためには、どうしたらいいのでしょうか。もしお望みなら、わたしが前に述べた(78〜79)ように、自分の内奥の醜悪な精神的土壌をふかく反省し、自分自身のことを、カタツムリだ、ガマだ、ブタだ、ヘビだ、雄ヤギだ、と自嘲せねばなりません。または、聖ベルナルドの次の三つのことばを、まじめに黙想するのも、いい方法です。

 

すなわち「おまえは過去において、どんなものだった?くさい粘液でした。現在はどうだ?きたないクソ袋です。将来はどうだ?ウジ虫のエサです」(「人間の実体についての瞑想」3・8)