排泄物

奈落の歓喜地獄尿

 

 

 

 

1.金をかぶせた糞

 

 

 

 

 

1.金をかぶせた糞

 

 

仁慈の教義202

 

主は悪い人間をその人間自身のために、また世のために善を行うように刺激されることができるが、しかしそのときでも主はその人間の悪の中へ流れ入られはしないで、その周囲に、その人間の円周の中へ流れ入られ、かくてその者の外なるものの中へ―その人間はその外なるものにより善として見えるように願っているのであるが、その外なるものの中へ―流れ入られるのである。

 

それでこの善は、それが善であるかぎり、皮相的なものであり、本質的には悪である。偽善者のもとではそれは金をかぶせた糞であり、それは純金以外のものであるとはほとんど信じられはしないものの、臭覚の鋭い鼻孔のもとへもってこられると、その汚臭が認められたのである。

 

 

 

結婚愛461(7)

 

 

 

 

天界の秘義868

 

 「水が地から乾ききるまで。」これはいくたの誤謬が明らかに消散したことを意味することは人間が再生しつつある間のその状態から明白である。現今だれでもいくたの悪と誤謬とは再生の間に全く分離されて廃棄され、かくて人間は再生すると、悪も誤謬も何ら止まっていないで、水に現れ清められた者のように清潔になり、義しいものになると信じている。しかしながらこの考えは全く誤っている、なぜなら悪はまたは誤謬は一つとして廃棄される程に振り落とされることは出来ないで、幼い頃から遺伝的に取得されて、行為と業により獲得されたものは何であれことごとく残っており、かくて人間は再生しているにもかかわらず―死後の霊魂たちにありのままに示されているように―悪と誤謬以外の何ものでもないからである。このことの真理は以下のことを考察することから充分に明白となるであろう、すなわち主から発しなくては人間の中には善は何一つ無く、真理も何一つ無く、悪と誤謬はことごとく人間自身のものから発して人間のものであり、人間は、霊は、また天使でさえも、もしいささかでもその者自身に委ねられるならば、自分自身から地獄へ突入してしまい、それ故また聖言には天界も純潔でないと言われているのである。このことは天使たちによっても承認されており、それを承認しない者は天使たちの間にいることは出来ない。彼らを地獄から解放し、彼らを地獄から引き出しさえもし、彼らを彼ら自身からそこに突入させないものは主の慈悲のみである。彼らは主により地獄へ突入しないように止められていることは天使たちにより明白に認められており、ある程度良い霊たちによってすら認められている。しかしながら悪霊らは、人間のように、そのことを信じていないが、しかしそのことはしばしば彼らに示されているのである。このことについては今後経験から主の神的慈悲の下に述べよう。

 

 

天界の秘義943

 

 身体の生命の中で快楽そのものを己が目的、目標とし、単に生来の性向に耽り、贅沢と酒宴に生きることを愛し、只自分自身と世のことのみを心にかけて、神的な物を何ら省みず、信仰と仁慈に欠けている者は世で送った生活に似た生活に先ず入れられる。左手の前面の、非常に深い所に、凡てが快楽、遊戯、踊り、酒宴、おしゃべりである場所が在る。ここにこのような霊が連れて行かれ、かくて自分は依然世にいるとしか考えない。しかし暫くするとその光景は一変し、かくて彼らは単なる糞尿に過ぎない、尻の下の一つの地獄に落とされる。何故なら他生ではこのような全く形体的な快楽は排泄物のようなものに変わるからである。私は彼らが糞便を運びながら、己が運命を嘆いているのを見たのである。

 

 

天界の秘義981

 

 『神は祝福された』が主の現存[臨在]と恵み[恩ちょう]を意味することは『祝福する』の意義から明白である。『祝福する』は、聖言では、その外なる意義では、―古代の、また現代のユダヤ人のように、また特に現今の基督教徒のように―外なる意義に止まっている者らにより与えられている聖言の説明に従って、凡ゆる地上的なまた形体的な善をもって富ませることを意味しており、それ故かれらは神の祝福を富から、凡ゆる物が豊富であることから、また自己の栄光から成立させたのである。しかし内意では『祝福すること』は凡ゆる霊的な天的な善を以って豊かにすることであり、その祝福は主によらなくては存在しないし、また決して在り得ないのであり、そのためそれは主の現存[臨在]と恵み[恩ちょう]とを意味しており、その現存と恵みとが必然的にこうした霊的な天的な善をもたらすのである。現存と言われているのは、主はひとえに仁慈の中におられ、ここにとり扱われている主題は仁慈から行動する再生した霊的な人であるためである。実に主は人間各々のもとに現存[臨在]されているが、しかし人間が仁慈から遠ざかるに比例して、主の現存[臨在]は―いわば―欠如してしまい、すなわち主は遠ざかりたもうのである。恵み[恩ちょう]と言われて、慈悲と言われていない理由は―わたしの推測するところでは、今まで知られなかったところの―以下の理由によっているのである。すなわち、天的な人間は恵み[恩ちょう]のことを語らないで、慈悲のことを語るに反し、霊的な人間は慈悲のことを語らないで、恵み[恩ちょう]のことを語るのである。

 

こうした言い方は以下の事情に根ざしているのである。すなわち天的な者たちは人類を汚れたもの以外の何ものでもなく、それ自身においては排泄物のようなものであり、奈落のものであるとして承認しており、それでかれらは主の慈悲をねぎまつるのである。なぜなら慈悲はこのような事態に述べられるからである。しかしながら霊的な者たちは人類はこのような性質のものであることは知ってはいるものの、それでもかれらはかれら自身のものの中に止まっていて、そのかれら自身のものを愛しているため、それを承認してはいないのであり、それで慈悲のことを語るには困難ではあるが、恵み[恩ちょう]のことは容易に語るのである。言語上のこうした相違は卑下の相違から発しているのである。人間はたれでも自分自身を愛し、自分自身で善を行い、かくて救いに価することができると考えるに比例して、主の慈悲をねぎまつることはできない。若干の者が恵み[恩ちょう]をねぎまつることができる理由は、それが習慣的な言葉の形式となってしまって、その中には主のものはほとんど存在していないで、自己のものが多く存在しているということであり、このことはたれでも自分自身の中に、主の恵みを口にしている間に、発見することができよう。

 

 

天界の秘義987

 

 再生した人間が欲念を支配することについては、自分は自分自身により悪を支配することができると信じている者は最大の過ちを犯していて、決して再生した者でないことを知らなくてはならぬ。なぜなら人間は悪以外の何ものでもなく、悪の塊りであり、その意志はことごとく単に悪にすぎないからであり、それが前章(創世記8・21)に言われているところである。すなわち、『人間の心の想像[考えること]はその若い時から悪いのである』。人間と霊とは、天使さえも、その者自身において観察されるならば、すなわち、その者自身のものである凡てのものの方面で観察されるならば、最も下劣な排泄物に過ぎないのであり、その者自身の自由に放任されると、憎悪、復しゅう、残酷、最も醜悪な姦淫以外の何ものをも呼吸しないことが生きた経験によりわたしに示されたのである。

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P100

 

 聖人:「あのギリシャの名高い哲学者ソクラテスが、一生をかけてただ一つのこと、つまり“自分は無知である”ことを学びとったと告白したのを、覚えておいででしょう。それをきいて人々は、哲学者のくせに無知だというのなら、他の俗人とどこが違うのかと迫りました。ソクラテスは、一つだけ違うところがある。それは、自分は無知であることを知っているが、人々はそれさえ知らずにいるのだ、と答えました。

 わたしの場合も、これと非常に似通っています。わたしは、自分が弱く罪人であることを知っていますが、人々は自分が罪人であることに気づいていないのです。そのため、罪を癒す薬にまったく気づかず、罪の中で死んでしまっているのです。人々がわたしのことを聖人と呼んでいるとすれば、それは誤っています。わたしは、神との密なる交わりに生きることによって聖人になろうと努めてはいますが、聖人になってなどおりません。もちろん、次のことだけはいつでも堂々と証しを立てられます。わたしは、愛する聖なるキリストと交わる中で、どのような理解も超えたあの平和を楽しんでいる。この天上の歓喜はこの世の言葉では表現できないものであり、現世的な人々には決してそれがわからないということです」

 

 

 

 

天界の秘義1096[3]

 

天的なものは主と隣人とに対する愛である。愛がないところには、関連は破られて主は現存されない。なぜなら主は専ら天的なものを通して、すなわち、愛を通して流れ入られるからである。天的なものが存在しないときは、霊的なものは決して在りえない。なぜなら霊的なものはことごとく天的なものを通して主から発しているからである。霊的なものは信仰であり、それゆえ信仰は主から仁慈を、または愛を通して発しない限り、信仰は存在しない。自然的なものもそれに類似している。この同じ秩序に応じて凡ゆる善が流れ入っており、そのことから以下のことが生まれている。すなわち内なるものから、すなわち仁慈から主を愛している者たちは凡ゆる善を持っているが、それに反し仁慈から主を愛さない者らは何の善も持っていないのであって、憎悪の、姦淫の歓喜のような、善いものを模倣してはいるが、しかしそれ自身では悪いものであるもののみをもっており、それはそれ自身において観察されるならば、排泄物の歓喜であって、そうしたものにそれはまた他生では変化するのである。

 

 

天界の秘義1103

 

「カナンは彼の僕とならなくてはならない」。これは礼拝を外なるもののみから成立させる者は卑賤な役目を果すことが出来ることを意味していることは前節(25、26)にカナンが僕であることについて言われたことから明白である。こうした人間は実に地上では主の教会の中では僕ではないのである。なぜなら彼らの中には高い地位を占め、他の凡ゆる者の上に置かれて、仁慈と良心からは何事も行ってはいないが、しかも極めて厳格に教会の外なるものを守り、それを守らない者を罪に定めさえしている者が多くいるからである。しかしこうした人間は仁慈と良心の中にいないで、礼拝をもっぱら内なるものを欠いた外なるものから成立させているため、主の王国では、すなわち、他生では僕である。なぜなら彼らは不幸な者の中に居るからである。彼らがそこで果している務めは卑賤なものであって、またそれにはここに充分に述べることも出来ないほどに多くのものがあるが、それについては主の神的慈悲の下に今後記すことにしよう。なぜなら他生では各々の者は例外なしに何か用を果たさなくてはならないからであるが、それは人間は世に住んでいる間に、また他生に住んでいる間にも、主の良しとされるところに従って、その住んでいる社会にまた隣人に対し用を遂行するという目的以外の目的のためには生まれていないためである。このことは人間の身体の場合も同一であって、人間の身体の各部分も、実にそれ自身では無価値な物でさえも何かの用を果さなくてはならないのである。例えば、食物に対してのみでなく、排泄物を分離し、内蔵を浄化する上に役に立たなくてはならない多くの唾液、胆汁、他の分泌液のような、それ自身では排泄物のようなものであるといったものも何かの用を果さなくてはならないのである。畠とぶどう畠の肥料と糞といった他の多くの物もそのようなことに役立っているのである。

 

 

天界の秘義1594[]

 

それのみが天界的なものである相互愛は、人間が自分自身については以下のように言うのみでなく、またそのことを承認もし、信じもしていることにあるのである、すなわち、自分は全く無価値なものであり、卑しい汚れたものである、主はその無限の慈悲から自分を地獄から絶えず引き出され、遠ざけておられるが、その人間はその地獄の中へ自分自身を投げ込もうと絶えず努めている、いな、渇望しているのである。彼がそのことを承認し、信じているのはそれが真であるためである、主がまたはたれか天使が彼が服従するためにそれを承認し、信じるように欲しておられるというのではなくて、彼が自分はまことにそうしたものであることを認めて、高ぶらないためである、なぜならそうしたことは排泄物がそれ自身を純金と呼ぶようなものであり、または糞の山の上を飛んでいる蝿が自分は楽園の鳥であると言うようなものであるからである。それで人間が自分自身は自分が実際あるようなものであることを承認し、またはそのようなものであると信じるに応じて、かれは自己愛からその自己愛の幾多の欲念から後退して、自分自身を忌み嫌うのである。彼がそのことを為すに応じて、彼は主から天界の愛を、すなわち、すべての者に仕えようとする願望から成っている相互愛を受けるのである。これらの者が主の王国の中で最大の者となるところの『いとも小さい者』により意味されている者たちである(マタイ20・26−28、ルカ9・46−48)。

 

 

天界の秘義1742[2]

 

悪霊が持っており、また悪霊が極度に愛している生命は自己への愛と世への愛と幾多の欲念の生命であり、引いては復讐と残酷との生命であり、悪霊はそれ以外の生命にはいかような歓びも在り得ないと考えている。彼らはこうした欲念の歓喜に生命の凡てを置いて、こうした生命が唯一の生命であって、それを失うときは自分は全く死滅してしまうとのみしか考えない人間のようなものである―なぜならかれらは人間であったのであり、人間であったとき、その生命からこうした信念を得ているからである。しかし彼らの愛している生命はいかような性質を持っているかは他生におけるこのような性質の者らから明白であり、そこではそれは悪臭を発する排泄物のような生命に変化するのであって、しかも驚嘆すべきことには、彼らはその悪臭を極めて楽しいものとして認めているのである、このことは820、954番に経験から述べられたことから認めることが出来よう。

 

 

天界の秘義1742[3]

 

かの魔鬼どもの場合もそれと同じであったのであり、彼らは主が彼らを狂人から追い出されたとき、自分の生命を恐れて、自分らが豚の中へ遣わされるように求めたのである(マルコ5・7−13)。これらの魔鬼は身体の生命にいた頃は汚れた貪欲に溺れた者であったことは以下の事実から認めることが出来よう、すなわち、こうした者は他生では豚の間に己が時を過ごしているようにこうした者自身に思われているのであり、それは豚の生活が貪欲に相応していて、それでそれが彼らには快いものとなっているという理由によっているが、そのことは939番に経験から述べられていることから明白である。

 

 

天界の秘義1947

 

 人間は再生しつつある間は、彼は主から与えられている自由から、自己を強制し、またその者の合理的なものがそれ自身を服従させるために、その合理的なものを卑しくし、また苦しめさえもし、そのことにより彼は天界的な自分のものを受けるのであって、その天界的な自分のものはその後主により徐々に完成され、益々自由になり、かくてそれは善の情愛となり、そこから真理の情愛となって、歓喜を得、その自由の中にも歓喜の中にも天使たちの幸福に似た幸福が存在するのである。この自由がヨハネの書に語られているものである―

 

真理はあなたたちを自由にするでしょう、もし子があなたたちを自由にするならあなたたちは実に自由になるでしょう(ヨハネ8・32,36)。

 

この自由の性質は良心を持たない者らには全く知られていない、なぜなら彼らは自分が好きなように行い、誤ったことをほしいままに考えたり、話したり、ほしいままに悪いことを欲したり、行ったりして、強制したり、卑しくしたりはしない、ましてやこうした欲望を苦しめたりはしないことに自由があると考えているが、真理はその逆そのものであるからであり、そのことを主もまた同じ福音書に教えられているのである―

 

罪を犯す者はことごとく罪の奴隷である(ヨハネ8・34)

 

この奴隷的な自由を彼らは彼らと共にいて、それを注ぎ入れる奈落の霊どもから受けており、彼らはこれらの霊の生命の内にいるときは、また彼らの愛と欲念の中にもいて、不潔な、排泄物のような歓喜が彼らに吹き込まれ、そしていわば激流に流されるかのように流されて行くときは、自分自身が自由の中にいると考えているが、しかしそれは奈落の自由なのである。この奈落の自由と天界の自由との間の相違はその一方は死のそれであって、彼らを地獄に引きずり降ろすに反し、他方はまたは天界の自由は生命の自由であって、彼らを天界へ引き上げるということである。

 

 

天界の秘義5390

 

 不潔な排泄物に相応している他の霊もまた、すなわち、世では執拗に復讐を求めた者もいる、これらの者は左の方の前面に私に現れた。この不潔な排泄物にはまた霊的な事柄を不潔な地的な物に引き下げる者らが相応している。このような霊どもが私のもとへ来て、汚らわしい思いを持って来た、彼らはその思いから汚らわしい事を語り、また清潔な事柄を不潔な事柄に歪曲して、そうしたものに変えもした。こうした種類の多くの者は世では最低の階級の者に属していたが、或る者は高い地位の人々に属していた、彼らはその身体の生命の間では人前には実際そうしたことは語りはしなかったものの、それでもそうしたことを考えていたのである、何故なら彼らは恥辱を受け、友情、利得、名誉を失いはしまいかと恐れて、その考えたままを口にすることを控えさせたからである。それでも彼らは互に似通った者の間では、自由になると、最低の階級の者のように語り合い、否、彼らよりも更に汚らわしいことを語り合ったのである、何故なら彼らは一種の知的な能力を持っていて、それを濫用して、聖言と教義の聖い事柄をさえ汚したからである。

 

 

「排泄物により霊的な事柄において表象されているものについて」

霊界日記2660

 

 排泄物は霊的な、汚れた、嫌悪すべきものである。地では排泄物により土地が肥沃になることが生み出されるからには、そこから、汚れた幾多の罪を告白し、自らが糞のようなものであることを告白する者たちの中には、こうした地の中には種子が成長することが表象されるのである。他生でも同じく、姦淫と残酷との楽しいものといったものが腐敗して、悪臭を発する糞のようなものとなり、かくて彼らがそうしたものを忌み嫌い初めると、その時はこれらの霊は、謂わば、その中に善の能力が植え付けられることが出来る土壌となるのである。

 

 

 

霊界日記2843

 

こうした霊どもには汚物と排泄物とは非常に快いものであり、それで彼らはこうした物を眺める楽しさを他の凡ゆる楽しさよりも愛し、汚物と排泄物のみでなく、忌まわしい、恐るべき内蔵を愛し、それが、彼らが人間を通して活動するときは、そうしたものを愛しているため、その人間の内的な感覚を、同じくまたその視覚をそうしたものへ、むりやりに向けさせるほどにも甚しいのである。

 

 

 

トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/3・13・3

 

自我を抑える熱心に燃え立ち、心の中(うち)に高ぶる思いを少しでも持っていてはならぬ。

 かえって卑しい者、小さい者たる実を示して、すべての人に自分の上を踏み歩かれ、街路(みち)の上の糞土のごとくふみにじられるようにすべきである。

 むなしい者よ、あなたになんの不平を鳴らすことがあるのか?

 あさましい罪びとよ、あなたはかようにしばしば神に背き、いくたび地獄におとされても文句の言えない身でありながら、あなたを責める人々に対して、どう言いわけをすることができるのか?

 けれども、それをわたしが大目に見ていたのは、あなたの霊魂がわたしの前に貴重なものであったからで、またあなたがわたしの愛を認め、わたしの恵みを絶えず感謝し、いつも真の服従と謙遜とに甘んじ、自分が軽蔑されるのを、忍耐するようになるためである。

 

 

 

グリニョン・ド・モンフォール/聖母マリアへのまことの信心79,80

 

わたしたちは、本能的に、クジャクよりも高慢、ガマよりも地上のものに愛着、雄ヤギよりも劣情、ヘビよりもネタミ深く、ブタよりも食いしん坊、トラよりも怒りっぽく、カメよりも怠け者、葦よりも弱く、風車よりもクラクラ変わります。わたしたちの霊魂の奥深にあるものはただ、無と罪だけ。わたしたちが当然受けねばならないものはただ、神の怒りと永遠の苦罰だけ。

だからこそ、わたしたちの主イエズス・キリストが、ハッキリ言っておられるのです。「だれでも、わたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分のいのちを憎まねばなりません。自分のいのちを愛する者は、それを失い、わたしのために自分の命を憎む者はそれを救うのです。」(マタイ16・24、ルカ9・23)

 

 

 

グリニョン・ド・モンフォール/聖母マリアへのまことの信心213

 

 愛する兄弟よ。わたしがこれから述べようとするこの信心の内面的・外面的実行に、もしあなたが忠実にとどまるならば、あなたはマリアをとおして聖霊がお与えになる光によって、あなた自身の精神的土壌がどんなに凶悪なものか、あなたがどんなに堕落した者か、すべての善をなすに当って、あなたがどれほど無能力な者かを、手に取るようにわかるでしょう。同時に、ただ神だけが、自然界・恩寵界の唯一の原動者であることがわかるでしょう。

 

この認識から出る当然の帰結として、あなたは自分自身を軽蔑するでしょう。自分自身のことを考えると、ヘドをはくような嫌悪感を覚えるでしょう。自分自身があのヨダレをたらしてすべてのものを汚染してはいまわる、カタツムリそっくりだと考えるでしょう。または例の毒液でなんでもかんでも有害物にする、ガマみたいな者だと思うでしょう。自分自身が人や動物をだますことしか知らない毒ヘビの同類だと分るでしょう。

 

さいごに、謙遜なマリアは、ご自分の深い謙遜に、あなたをあずからせてくださいます。その結果、あなたは自分自身を軽蔑するでしょう。そして自分以外のだれも軽蔑しなくなるでしょう。あなたは自分が軽蔑されることを、心から愛するようになるのです。

 

 

 

グリニョン・ド・モンフォール/聖母マリアへのまことの信心228

 

第一週には、すべての祈り、すべての信心のわざを、自分自身を知り、おかした罪を痛悔する恵みをねがうことに専念します。したがって、すべてのことを、謙遜の精神でおこないます。

 

そのためには、どうしたらいいのでしょうか。もしお望みなら、わたしが前に述べた(78〜79)ように、自分の内奥の醜悪な精神的土壌をふかく反省し、自分自身のことを、カタツムリだ、ガマだ、ブタだ、ヘビだ、雄ヤギだ、と自嘲せねばなりません。または、聖ベルナルドの次の三つのことばを、まじめに黙想するのも、いい方法です。

 

すなわち「おまえは過去において、どんなものだった?くさい粘液でした。現在はどうだ?きたないクソ袋です。将来はどうだ?ウジ虫のエサです」(「人間の実体についての瞑想」3・8)