地獄

 

 

憎しみ・憎悪

永遠の地獄永遠の死奈落の歓喜

悪魔悪霊狂気

好色の刑罰

 

 

 

1.憎悪

2.自分で地獄へ行く

3.薪を積む

4.悪臭を発する

5.糞尿地獄

6.糞

7.尿

8.死体地獄

9.地獄の人間は主の御名を口にすることが出来ない

10.全地獄が一人の人間の中に

11.レギオン

12.地獄の政治

13.人間は自分が考えているような者

14.地獄の起源

15.地獄との交流がそのとき人間に開かれ

16.地獄の苦しみの1時間は

17.シルワン

18.このようにして彼は彼自身の中に地獄を作る

19.信仰の真理の中にいないし、また同時に仁慈の善の中にもいない者らは審きもなしに、即ち、彼らは誤謬の中にいるという何らの判決も無しに地獄へ連れ去られて行く

20.彼らは天界では最も深い地獄の中で苦しむ以上にも苦しむ

21.様様な地獄

22.永遠の作業場以外の何ものでもないこうした洞窟から、地獄全体は成っている

23.地獄について・・・『天界の秘義』第7章より

24.地獄の苛責

25.こうした霊どもから地獄は現在無限に増大し、しかも驚嘆すべきことは、特に教会内にいる者らから増大している

26.人間は生来小規模の地獄

27.著名な学者たちのいる地獄

28.人間が地獄へ行くことを主が望まれるのではない

29. 更におだやかな地獄へたわめられる(先見)

30.天界全体が一人の人間を表象しているように、地獄全体もその総合体においては一人の悪魔を表象している

31.人間が地獄を造り出した

32.神の否定と、基督世界では、主の神性の否定とが、地獄を構成している

33.天界と地獄も人間の中に在る

 

 

 

 

聖書

 

ルカ16・22−23

 

やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。そして、金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。

 

 

 

黙示録20・12−15

 

わたしはまた、死者たちが、大きな者も小さな者も、玉座の前に立っているのを見た。幾つかの書物が開かれたが、もう一つの書物も開かれた。それは命の書である。死者たちは、これらの書物に書かれていることに基づき、彼らの行いに応じて裁かれた。海は、その中にいた死者を外に出した。死と陰府も、その中にいた死者を出し、彼らはそれぞれ自分の行いに応じて裁かれた。死も陰府も火の池に投げ込まれた。この火の池が第二の死である。その名が命の書に記されていない者は、火の池に投げ込まれた。

 

 

 

黙示録21・8

 

しかし、おくびょうな者、不信仰な者、忌まわしい者、人を殺す者、みだらな行いをする者、魔術を使う者、偶像を拝む者、すべてうそを言う者、このような者たちに対する報いは、火と硫黄の燃える池である。それが、第二の死である。

 

 

 

 

.憎悪

 

 

天界の秘義693

 

 主と隣人に対する愛はそこから生まれてくる歓びと幸福と共になって天界を構成しているように、主と隣人に対する憎悪はそこから必然的に発して来る刑罰と苛責〔拷問〕と共になって地獄を構成している。無数の種属の憎悪とそれよりも更に無数の種類の憎悪があり、地獄も丁度それと同じように無数である。

 

 

 

天界の秘義1608[3]

 

仁慈を持たない信仰の中にいる者に、即ち、自分は信仰を持っていると言いはするものの、隣人を憎悪している者には天界の王国[天国]は与えられる筈はないことは、たれからでも、もしその者が進んでそのことを反省しさえするなら、認められることが出来よう、なぜなら憎悪が、即ち、地獄が生命を構成している時は、かかる信仰の中には生命は有り得る筈はないからである。なぜなら地獄は憎悪以外の何ものからも構成されてはおらず、それは人間が遺伝的に受け継いだ憎悪からではないが、人間が実際の生活により得た憎悪から構成されているからである。

 

 

 

 

.自分で地獄へ行く

 

 

天界と地獄510

 

各々の者は、その霊が世で宿っていたその者自身の社会へ入って来る、なぜなら人間各々はその霊の方面では、奈落の社会か、天界の社会か、その何れかの社会に連結しており、邪悪な人間は奈落の社会に、善良な人間は天界の社会に連結していてーそこへ死後帰って行くからである(438番参照)。その霊はその社会へ次々と段階を経て連れて行かれ、遂にはそこへ入って行く。悪い霊はその内部の状態にいるときは徐々にその霊自身の社会へ向き、その状態の終わる前に、遂にはその社会へ真っ直ぐに向き、そしてこの状態が終わると、その同類の者のいる地獄に向かって自ら自分自身を投げつける。その投げつける行為そのものは、頭を下に、足を上に向け、真っ逆さまになって落ちて行く者のように目に見える。それがそのように見える理由は、彼は奈落の物を愛して、天界の物を斥け、彼の中に秩序が転倒しているということである。

 

 

 

天界と地獄545

 

 神は人間に御顔を背けられ、御自分から人間を斥け、地獄に投じられる、また神は人間を悪のために怒られているという意見を持っている者もいるし、さらに、神は人間を罰して、これに悪を行われると考えている者もいる。こうした意見を彼らはそうした事柄が言われている聖言の文字の意義から確認しているが、文字の意義を説明している聖言の霊的意義は全く異なったものであり、従って聖言の霊的意義から来ている教会の純粋な教義は文字の意義とは異なったことを教えていることを知っていない、即ち、神は人間から決して御顔をそむけられず、御自身から人間を斥けられず、何人も地獄へ投げ込まれず、何人も怒られないことを教えていることを知ってはいないのである(*)。

たれでもまたその心が明るくされているならば、聖言を読んでいるとき、単に以下の事実からでも、それが事実であることを認めている、すなわち、神は善そのもの、慈悲そのものであられ、善そのものは何人にも悪を為すことが出来ず、愛そのもの、慈悲そのものはそのもの自身から人間を斥けることは出来ない、なぜならそれは慈悲と愛との本質そのものに反し、かくて神的なもの自身に反しているからである。それで明るくされている心から考える者たちは、聖言を読むとき、神は決して御顔を人間から背けられず、また決して御顔を人間から背けられないため、善と愛と慈悲から人間に対しられ、すなわち、神は人間に善を望まれ、人間を愛しられ、また人間に慈悲を持たれていることを明らかに認めている。

従って彼らはそうした事柄を宣言している聖言の文字の意義はそれ自身の中に霊的意義を貯えており、その霊的意義に従って、そうした表現を説明しなくてはならいことを認めている、なぜならそうした記事はその文字の意義により人間に理解出来るようなものにされ、そのため、人間の素朴な、全般的な観念[考え]に順応したものにされているからである。

 

(*)聖言の怒りと憤りとは主に帰せられてはいるが、しかしそれは人間のものであり、そのように表現されているのは、人間が罰せられ、地獄に落ちるとき、人間にはそのように見えるからである、5798、6997、8284、8483、8875、9306、10431。悪もまた主に帰せられているが、主からは善以外には何物も発していない、2447、6071、6991、6997、7533、7632、7679、7926、8227、8228、8632、9306。聖言には何故そのように表現されているか、6071、6991、6997、7632、7643、7679、7710、7926、8282、9010、9128.主は純粋な慈悲と寛容である、6997、8875.

 

 

 

天界と地獄547

 

従って人間は地獄から悪を為し、主から善を為すことが明白となるであろう、しかし人間は、自分の行うことは凡て自分自身から行うと信じているため、そうした理由から人間の行う悪は人間自身のものとして人間に密着しており、そこから人間は人間自身の悪の原因であって、決して主ではない。人間の中の悪は人間の中の地獄である。なぜなら悪と言うも、または地獄と言うも、それは同じことであるから。さて人間は人間自身の悪の原因であるため、彼はまた彼自身を悪に引き入れるのであって、それは主ではない、なぜなら主は人間を地獄に引き入れられるどころか、人間が自分自身の悪の中にいることを欲しないに応じて、また愛しないに応じて人間を地獄から救い出されるからである。人間の意志と愛との凡ては死後も人間のもとに存続している(470−484)。世で悪を欲し、愛する者は他生でもそれと同じ悪を欲し、愛し、そのときはもはや自分自身がそこから引き出されることを肯んじない。ここから悪にいる人間は地獄に縛りつけられ、同じくその霊の方面では実際そこにおり、死後はその悪のある所にいることを何ものにもまさって願い、従って自分自身を地獄に投げ込むものは人間であって、主ではない。

 

 

 

天界と地獄548

 

このことがいかようにして生じるかもまた述べよう。人間は他生に入ると、先ず天使たちに迎えられるが、天使たちは彼のために善い務めをことごとく果たし、また、主、天界、天使の生活について彼と話し、彼に真で善い事柄を教える。しかし今は霊となっているその人間は、実際世にいた頃はそうした事を知ってはいたものの、心ではそれを否定し、または軽蔑したような種類のものであるなら、彼は少し言葉を交わした後でそうした天使たちのもとを離れようと願い、また求める。天使たちはこれを認めると、彼を自由にさせる、彼はしばらくの間、他の者たちと交わった後で、ついには彼自身と同じような悪にいる者らと交わり(前の445−452)、そうしたことが起るようになると、彼は主に背を向けて、地獄に顔を向けるが、この地獄とは彼は世にいた頃すでに連結していたのである、そこには同じような悪の愛にいる者らがいるのである。これらの事から、主は天使たちにより、また天界からの流入により霊各々を御自分へ引き寄せられているが、悪にいる霊は徹底的に反抗し、主から自分自身を謂わば引きちぎって、自分自身の悪により、引いては地獄により、綱で引き寄せられるように引き寄せられることが明らかであり、それで彼らは引き寄せられ、悪への愛のため自ら進んでそれに従うため、彼らは自分自身を自由から地獄へ投げ込むことが明らかである。これが事実であることは、世の人間によっては、その人間が地獄について抱いている考えのために信じられることは出来ない。事実他生でも地獄の外側にいる者たちの目にはそのようには見えないのであり、ただ我と我が身を地獄へ投げ込む者にのみそのように見えるに過ぎないのである。なぜなら彼らは彼ら自身から進んで入るからである。悪を求める激烈な愛から入る者は、恰も頭を下に、足を上にして、真逆様に投げ込まれるかのように見える。彼らが神の力により地獄へ投げ込まれるかのように見えるのはこの外観によっているが、そのことについてはさらに多くのことを下に見ることができよう(574)。以上述べたことから、主は何人も地獄へ投げ込まれず、各々が自分自身を、単に世に生きている間のみでなく、死後霊たちの間に来る時にも、自分自身を投げ落とすことが今や明らかである。

 

 

 

天界と地獄574

 

 悪霊は自分自身から自分自身を地獄へ投げつけることは前に示した(548)。地獄にはこうした拷問があるのに、どうしてこのことが起こるかを簡単に説明しよう。各々の地獄から、その地獄の中にいる者らが抱いている欲念のスフィアが放出されている。このスフィアが同じ欲念にいる者により認められると、彼は心に感動を受け、楽しさに満たされる、なぜなら誰でも渇望しているものはその者には楽しいものであるため、欲念〔渇望〕とその楽しさとは一つのものとなっているから。従ってその霊はその方へ身を向け、心の楽しさからそこへ行こうと渇望する、なぜなら彼はそこにそうした拷問のあることを未だ知らず、それを知っている者でも尚その方へ行こうと渇望するから。なぜなら霊界では誰一人自分自身の欲念に抵抗することは出来ないからである。それは欲念はその者の愛から生まれ、愛はその者の意志から生まれ、意志は性質から生まれ、そこでは各々はその性質から行動するためである。それで霊が自分からすすんで、またはその者自身の自由から、自分の地獄の方へ足を向けて、そこへ入ると、最初は親しげに迎えられるため、友達の間に来たと信じる。しかしこれはただニ、三時間しか続かず、その間彼はそのずるさとか才能などを調べ上げられる。調べられると、彼らは彼を悩ませ始めるが、それも色々な方法でなされ、絶えず苛酷さと強烈さとが増し加えられて行くが、そうしたことは地獄の更に奥深い所へ入れられることにより行われている、なぜなら地獄が更に奥深くなるにつれて、霊も益々邪悪になるからである。悩ませた後には、彼を刑罰で残酷に扱い始め、しかもこれは彼が奴隷の状態に落ちぶれるまでは続くのである。しかしそこには絶えず反逆運動が勃発しており、各々が最大な者になろうと欲し、また他の者に対する憎悪の念で燃えているため、新しい反乱が行われ、かくして光景は一変して奴隷とされていた者は自由にされるが、それは新しい悪魔が他の者を征服する手助けとなるためであって、服従もしないし、その命令に従いもしない者は再び色々な方法で拷問にかけられ、それが絶えず行われる。こうした拷問が奈落の火と呼ばれる地獄の拷問である。

 

 

 

天界の秘義2258

 

主はいかような場合にも地獄には送られはしないで、その人間が自分自身を地獄に送るからである。

 

 

 

天界の秘義2406[]

 

この事柄については、すべての人間は例外なしに主により幾多の悪から遠ざけられ、しかもそれは人間が決して信じることも出来ない強い力により行われていることを知っている者は、もしいくらかいるにしても、僅かしかいないのである。なぜなら人間各々の努力は絶えず悪に向けられており、しかもそれがその者が持って生まれてきた遺伝的なものからも、またその者が自分自身から獲得した実際的なものからも発していて、それがもしその者が主により抑えられないなら、瞬間毎に最低の地獄にさえも真逆様に突っ込むといった程度にもなっているのである。しかし主の慈悲は、各瞬間にその最小の瞬間においてすらもその者を引き上げられ、抑えられている程にも大きいのである。

 

 

 

天界の秘義6489

 

 主の摂理〔主が供えられること〕は先見と連結しており、一方は他方無しには在り得ないのである、なぜなら悪は先見されて、善が(それに対し)供えられるからである。そして先見される悪は、主が(それに対して)供えられる処置により、絶えず善へ向けられている、なぜなら神的な善の目的が遍く支配しているからである。かくて何一つ何らかの善がそこから発することが出来るという目的がないなら許されはしないのであるが、しかし人間は、改良されるために、自由を持っているため、自分自身が自由の中にあって悪から善へ向けられるのに堪えるに応じて、(悪から善へ)向けられるのであり、(もし彼が天界へ導かれることが出来ないなら)、極悪の地獄から―そこへ彼は凡ゆる努力を尽くして飛び込むのであるが、その地獄から―更に穏やかな地獄へと向けられるのである。

 

 

 

コンソラータP90

 

地獄へは、本当に行きたい者だけが行くのだ。なぜならだれも私からひとつの霊魂も奪うことができないが、私の与えた自由意志により、霊魂は私から逃れ、私にそむき、私を否定し、自分の自由意志のままにサタンのもとに行けるからである。

 

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P210

 

神または神の民が、罪人たちを天界から締め出し地獄に突き落とすなどと思ってはならない。愛である神は誰一人地獄に落とし給わない。永遠にそうである。自らを地獄に突き落とすのは罪人自身の誤った生活である。生が終わり天界と地獄が迫ってくるはるか以前に、善悪の性質に応じて各人の心の中で自分自身の天界か地獄が形作られている。それゆえ、あの永遠の苦しみから救われたいと切に望む者は、心底悔いて心をわたしに明け渡すがよい。わが現存と聖霊の働きによって、永遠に神の御国の子供となるためである。

 

 

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/2巻P151

‘89・3・29

 

主よ、地獄に行く霊魂たちを哀れに思います。地上では私たちの一人として、同じようだったでしょう。地獄から連れ出す方法が何かあり、そして変えられるなら・・・

 

悪より善を選ぶ自由を与えた、懇願し 愛を呼びかけたが、悪のほうを選んでしまった、

 

しかし主よ、まだ機会があってもよくはないでしょうか・・・

 

子よ、彼らが完全に私を否定したのを あなたは知らない。 最後まで彼らを愛している。 悪魔に導かれ従うほうを選んだ、死後までも彼らの前にいたが、少しの躊躇もなく 進んで悪魔のあとに追従(つい)て行った、全く彼らが決めたのであり、いつまでも地獄にいるほうを選んだのだ。

 

 

 

 

高間友の会/シスター・エマニエル/マリア・シンマとのインタビュー 煉獄に居る霊魂の驚くべき秘訣/P45

 

魂を最終的に失うようにと私たちを導く心の持ち方、つまり地獄へ行く原因となることは何ですか。

 

 それは魂が神の方へ行きたくないと思う時で、その霊魂が実際に「私は行きたくない」と言う時です。

 

マリア、このことを明確にしてくださってありがとう。

 

これについてメジュゴルイエで出現を見ている内の一人であるヴィッカに質問したことがあります。彼女は地獄を見たのですが、次のように話してくれました。地獄に行く人たちは、「地獄に行く」と単独で決心した人たちだけなのです。誰かを地獄に入れるのは神ではないのです。 ― それどころか、神は救い主ですから霊魂たちにご自分の慈しみを喜んで受けるようにと懇願なさるのです。イエス様が話されている赦されない罪、すなわち聖霊に対する罪は、慈悲に対する絶対的な拒否です。それも、完全に知りながら、完全に認識しながら。ヨハネ・パウロ2世は慈悲に関する回勅の中でこれを非常に上手に説明しています。ここでも私たちは、永遠に滅びる危険にある霊魂のために祈りで大いに助けることが出来るのです。

 

 

 

 

3.薪を積む

 

 

トマス・ア・ケンピス/キリストにならいて/1・24・3

 

いまあなたが自分を大事にして、肉に従えば従うほど、あなたはますます後日(のち)の苦しみをひどくし、煉獄の燃料をたくさん積み上げるのである。

 

 

 

アルスの司祭P90

 

 少年たち、もし君たちが、火刑を準備し、薪を積み重ねている人を見たら、君たちはその人に何をしているのか尋ねるでしょう。するとその人は次のように答えます。『私は自分を焼く火を準備しています』。この時君たちはどう考えますか。そしてもし君たちが、その人が木に火をつけ、身を投げ入れるのを見たのなら、君たちは何と言うでしょうか。罪を説明する時に、私たちはこのようにします。地獄へ私たちを送るのは神ではありません。私たちが自分の罪とともにそこへ歩んでゆくのです。

 

 

 

 

4.悪臭を発する

 

 

天界の秘義4628

 

 さらに認識のスフィアが変化した香りについては、その香りは地上の香りのように明らかにかがれはするが、しかしその内部の閉じられている人間には知覚されはしないのである、なぜならそれらは内なる道から流れ入って、外なる道からは流れ入らないからである。これらの香りは二重の起原から、すなわち、善の認識と悪の認識から発している、善の認識から発している香りは庭園の芳香を湛えた花や他の芳香を湛えた物から発散しているかのように強烈なほどに甘美であり、表現出来ない程にも楽しく、また多様であり、天界の天使たちはこうした香りのスフィアの中にいるに反し、悪の認識から発している香りは鼻持ちならぬ水、排泄物、死体から発する悪臭、不快な臭い、または二十日ねずみと南京虫から発する汚らわしい臭いのように強烈な嫌忌感を与えている。このような悪臭のスフィアの中に地獄にいる者たちはいるのであるが、しかも驚くべきことには、その中にいる者はその不快さを認めはしないで、否、その悪臭が彼らには歓ばしく、彼らはその中にいると、その歓喜のスフィアの中にいるのである。しかし地獄が開いて、そこから発散したものが善良な霊たちに達すると、これらの霊たちはこの世でこうした悪臭のスフィアに襲われる者たちのように、恐怖と苦痛とに苛まれるのである。

 

 

 

天界の秘義4631

 

 また、二、三度死臭が私に匂ってきた、私はそれがたれから匂って来るのかと尋ねると、それは凶悪な強盗共や暗殺人や甚だしいたばかりを弄して犯罪をやってのける者らのいる地獄から匂って来ることを告げられたのである。ときにはまた私は糞尿の匂いを嗅いで、それがどこから匂って来たのかと尋ねると、それは姦通者のいる地獄から匂って来るのであると言われた。そして糞尿の匂いが死臭と混合している時は、それは残酷な輩でもある姦通者共から発していると言われた。その他これに類したことが起った。

 

 

 

天界の秘義7161

 

悪の中におり、そこから誤謬の中にいる者らは悪臭を発していることは、暗殺者と最も執拗な復しゅうを企てている者らのいるところの死体地獄と呼ばれている地獄から非常に明白であり、またそれは姦通者と汚れた快楽を目的としている者らのいるところの、糞尿地獄と呼ばれている地獄からも明白である。これらの地獄が開かれると、そこからは堪えがたい悪臭が放出されるが(4631番)、しかしこうした悪臭も、霊に属している内部を開かれている者以外の者によっては悪臭としては認められはしないのである。

 

 

 

 

.糞尿地獄

 

 

真の基督教570(神の摂理340にも同内容あり)

 

 悪魔共は答えた。「凡ゆる者は、たとえ善人、或は悪人と呼ばれるにしても、その者独自の歓喜を持っている。すると天使たちは尋ねた「君達は何を歓ばれますか。」 彼らはそれは姦通、復讐、詐欺、涜神の歓びであると語った。更に彼らは尋ねられた「然しこれらの歓びの性質は如何なるものですか。」 彼らは自らが他の者から排泄物、腐敗した屍体、腐りかかった尿から発する臭気として認められると語った。彼らは問われた、「で、これらは君達には歓ばしいのですか。」 彼らは語った、「さよう極めて歓ばしい」。 「では」と天使たちは語った、「君達はそのような物の中にころげまわっている不潔な獣のようなものです。」彼らは答えた、「そうかもしれない、とにかくこれらの物は我々の鼻には気持ちが良い。」 次に天使たちは尋ねた、「他に何か。」彼らは答えた、「各人は若し善良な霊と天使とを悩まさない限り、己が歓びを、実に彼らの所謂、最も不潔な歓びをすら楽しむことを許されている、然し我々はこの歓びに強いられて彼らを悩ます故、労役所に閉じ込められて、苦しい思いをするのである。この楽しさを失うことが地獄の苛責と呼ばれる内的苦痛を生むのである」。天使たちは更に尋ねた、「何故君達は善良な者を苦しめるのですか」。 「それを抑えることが出来ないからである」と彼らは答えた、「我々は天使を眺め、その周りに主の神的スフィアを認めると、憤怒に駆られるのである」。 この言葉に我々は語った、「それでは君達は野獣のようなものです。」 彼らはその新米の霊が天使たちとともに居るのを眺めると、憤怒の発作が憎悪の火のように彼らを襲った。それ故、彼に危害を加えないように、再び彼らは地獄に投ぜられた。

 

 

 

排泄地獄について

霊界日記3211

 

排泄地獄は尻、または臀部の下に在り、そこには多くの者がいて、人間の排泄物が食物として与えられている。そこには、身体の生命の中では、身体の色々な快楽以外には何ものをも目的とはしなかった男と女とがいる。ある一人の者が私と共にいたが、彼女はその惨めな食事を嘆いた、その際排泄物の臭いが漂った。こうした者らは便所の中にいる。1748年[60歳]9月20日

 

 

 

体育所について

霊界日記3212

 

前面の、やや下方に在る、体育所についてはすでに述べた。それが再び私から見えた。彼らはそこでスポーツをしたり、ダンスをしたり、話し合ったり、歓ばしいことに携わる、などする以外には何ごとも行わない。これらの者らからかの排泄地獄へ拉し去られて行く者らが来ている。1748年[60歳]9月20日

 

 

 

姦通者らの地獄について

霊界日記4563

 

姦通者らの地獄は尻の下に在る。そこにいる者らは糞尿の中にいる。

 

 

 

天界の秘義943

 

身体の生命の中で快楽そのものを己が目的、目標とし、単に生来の性向に耽り、贅沢と酒宴に生きることを愛し、只自分自身と世のことのみを心にかけて、神的な物を何ら省みず、信仰と仁慈に欠けている者は世で送った生活に似た生活に死後先ず入れられる。左手の前面の、非常な深い所に、凡てが快楽、遊戯、踊り、酒宴、おしゃべりである場所が在る。ここにこのような霊が連れて行かれ、かくて自分は依然世にいるとしか考えない。しかし暫くするとその光景は一変し、かくて彼らは単なる糞尿に過ぎない、尻の下の一つの地獄に落とされる。何故なら他生ではこのような全く形体的な快楽は排泄物のようなものに変わるからである。私は彼らが糞便を運びながら、己が運命を嘆いているのを見たのである。

 

 

 

アルカナ出版/天界と地獄488C

 

 神の真理を自らの愛の弁護に乱用して真理を曲げた者は、尿液を愛好しています。尿は、このような愛からくる楽しみに相応しているのです。貪欲で心を汚した者は、穴ぐらに住み、ブタの汚物や胃のなかの不消化な食べ物から発散するにおいをかいで喜んでいます。

 

 

 

アルカナ出版/天界と地獄488D

 

快楽だけに生きがいを覚え、ぜいたく三昧に暮らし、美食と胃袋の満足を人生最高の宝として愛し、それに身をゆだねた者は、来世では排泄物とトイレに愛好をおぼえます。このようなものが、彼らにとっての喜びになるわけは、以上の快楽が、霊的な汚物に相応しているからです。清潔な場所や汚れがないところは、彼らを不愉快にするため、避けています。

 

 

 

神の愛と知恵339

 

 地獄には悪い用である凡ての物が見られることができる(それらを列挙してある直ぐ前の338を参照されよ)。これらはへび、さそり、おろち、わに、とら、おおかみ、きつね、ぶた、色々なふくろ、こうもり、ねずみ、はつかねずみ、かえる、いなご、くも、多くの種類の昆虫のような凡ゆる種類の野生の動物であり、また毒にんじんとアコニットであり、植物と土の凡ゆる種類の毒であり、人間に有害な、致命的な凡ての物である。このような物は地上と地中のそのような物と寸分たがわず地獄に現われている。それらはそこに現われると言われるが、しかし地上のようにそこに在るのではない、なぜならそれらは彼らの悪い愛から群がり出てくる諸々の欲念の単なる相応であって、他の者の前にそれ自らをこうした形を以て現わしているからである。地獄にはこのような物が在るため、地獄は死体、糞、尿、腐敗物の悪臭に満ち、これをそこの悪魔的な霊は、動物が悪臭を歓ぶように、歓んでいる。このことから、自然界のその類似の物はその起原を主から得ておらず、始めから創造されたのでもなく、また自然からその太陽を通して発してもおらず、[全く]地獄から発していることを認めることができよう。それらは自然からその太陽を通して発しないことは明らかである、何故なら霊的なものが自然的なものに流れ入るのであって、その反対は行われないからである。そして地獄は主から発しておらず、それ故地獄に住む者の諸々の悪に相応した地獄の物は一つとして主から発していないため、それらは主から発していないことは明らかである。

 

 

 

神の愛と知恵341

 

「悪い用であるそれらの物は、何処でもそれに相応した物が在る所には、地獄からの流入の働きにより生まれている」。

 

(中略)それ故それらの地獄はそれに応じて名をつけられ、或るものは死体地獄、或るものは糞地獄、或るものは尿地獄と呼ばれている。

 

 

 

神の摂理38

 

悪の欲念に喜びを感じる者は、天使的天界の楽しむ善の情愛から生まれる喜びについては何ごとも知らない。なぜならこれらの喜びはその内的性質では全然相反したものであり、従って表面では殆ど相違していないけれど外なるものの内部では相反しているからである。なぜなら愛には凡てその愛自身の喜びがあり、悪い欲望に動かされている者は悪の愛に、例えば姦淫、復讐、詐欺、盗みまたは残忍に喜びを感じ、実に、極悪の人間は教会の聖いものを瀆し、神に向って毒舌をふるうことに喜びを見出すからである。支配を求める利己的な愛がこの喜びの源泉である。その喜びは心の内なる領域を囲んでいる欲念から流れ出て、身体に流れ入り、そこに不潔な物を刺激し、その不潔な物は繊維組織を刺激する。このように欲念の種類に応じ、心の歓喜から、身体の歓喜が発している。こうした欲念に溺れた者の身体の繊維組織を刺激するこの不潔な物の性質を何人でも死後霊界で知ることが出来よう。全般的にそれらは屍、糞のようなものであり、腐敗し、悪臭を発し、尿に似たものであるが、それは地獄はこうした不潔な物に満ちているからである。これらの物は相応であることは、「神の愛と知恵」を取扱った論文に見ることが出来よう(422−424)。しかしこの汚れた歓喜は地獄に入った者の中には凄惨な状態に変化する。これらのことを記したのは、今述べようとする天界の幸福を更に明らかにするためである。なぜなら凡てのものはその反対のものにより知られるから。

 

 

 

結婚愛477

 

これに以下の説話を付け加えよう―

私は最近世から来た一人の青年である、或る一人の霊が自分の姦通を誇って、自分は他の者以上に男性的な人間であるから、称賛されるのを願っている、と言うのを聞いた。(中略)

 

その後で天使は彼の視覚の状態のこうした転倒は何処から来ているかを彼に教えて、言った。『(前略)そして姦通の悪が他のいかような悪にもまさって心の内なるものを汚しますため、あなたはあなたの愛の汚れたものへ引き下げられないわけにはいかないのであり、その汚れた物は地獄の中に在って、そこでは洞穴が排泄物で悪臭を放っています。霊界の不貞な、淫猥なものは不純であり、不潔であり、それで何一つそれ以上には人間を不潔にしたり、汚したりしないし、また彼の中へ地獄をもたらしたりもしないことを理性から知ることの出来ない者がいましょうか。それであなたは姦通では他の者以上に男性的な人間であると言って、自分の姦通をこれ以上誇らないように警戒しなさい。私は、あなたは自分の男性であることが何処にあるかが殆ど解らないほどに不能になることを予めあなたに言っておきます。そうした運命が姦通の能力を誇る者を待っています。』

 

 

 

 

.

 

 

天界の秘義10037

 

『糞』が不潔なものを意味し、従って悪と誤謬とを意味していることは―なぜなら霊的な意義ではこれらは不潔なものであるから―食物から不用になり、使いふるされたものはことごとく糞に、汚物になり、『食物』はその霊的な意義では信仰の真理と愛の善とを意味しているためである(4792,5147,5293,5340,5342、5576、5915、8562、9003を参照)。

ここからまた糞、汚物、排泄物は地獄に存在している悪に相応し、地獄もまた聖言では厠(かわや)と呼ばれている(この相応については前の954、2755、4948、5394、5395、7161番を参照されたい)。

 

 

 

天界の秘義10037 []

 

ここから聖言ではこうした物は、以下の記事から認められることができるように、奈落的な事柄を意味している。イザヤ書には―

 

シオンに残された者とエルサレムに残った者とは聖いものと呼ばれるであろう、主がシオンの娘の排泄物を洗い去られ、エルサレムの血を洗い去られたとき、エルサレムの中で生命へ書き記された者はことごとく(聖いものと呼ばれるであろう)(イザヤ4・3,4)。

 

『シオン』と『エルサレム』により教会が意味され、『シオン』によっては愛の善の中にいる者たちにおける教会が『エルサレム』によりこの善から真理の中にいる者たちにおける教会が意味され、『シオンの娘の排泄物を洗い去ること』は教会内で愛の善の中にいる者たちを悪から清めることを意味し、『エルサレムの血を洗い去ること』は教会内で真理の中にいる者たちを悪の誤謬から清めることを意味しているのである。

 

 

 

天界の秘義10037[]

 

エレミヤ記には―

 

かれらはユダの王たちの骨を、その君たちの骨を、その祭司たちの骨を、その予言者たちの骨を引き出し、それらを陽と月との前に、また彼らが愛し、仕えた天の軍勢の凡ての前に広げるであろう、それらは集められず、埋葬もしないであろう、それらは地の面の糞となるであろう(エレミヤ8・1、2)

 

これらの言葉により教会の諸善と諸真理とを冒涜した者らの状態が記されており、その状態は当時また墓から骨を引き出すことにより表象されたのであり、『墓から引き出された王たちと君たちの骨』は冒涜された真理を意味し、『祭司と予言者の骨』は冒涜された善を意味し、『陽と月と天の軍勢の凡ての前に広げられること』は善と真理の凡てから遠ざけられることを意味し、『集められもしないし、埋葬されもしないこと』は生命へ何ら復活しないことを意味し、『地の面の糞となること』は奈落的なもの以外の何ものにもならないことを意味しているのである。さらに―

彼らは悪性の病の死により死んで、嘆かれず、埋葬もされず、地の面の糞のようになるであろう(エレミヤ16・4,25・33)。

『地の面の糞』により前のようなことが意味されているのである。

 

 

 

天界の秘義10037[]

 

哀歌に―

 

美味しいものを食べた者らは街路で荒廃している、紅で育てられた者らは糞の山を抱いている(4・5)、

 

『美味しいものを食べた者ら』は聖言を、またそこから真理の知識を得ている者らを意味し、『紅で育てられた者ら』は善の知識にいる者らを意味し、『糞の山を抱くこと』はそうしたものに代わって誤謬を学び、選び取ることを意味しているのである。マラキ書には―

 

もしあなたらが聞こうとしないなら、またもしあなたらが心にとどめようとしないなら、わたしはあなたらに呪いを送り、あなたらの顔に糞を、あなたらの宴の糞をまき散らそう(2・2,3)。

 

『顔の上に糞をまき散らすこと』は悪の誤謬をもって生命の内部を汚すことを意味し、『宴の糞』は礼拝の聖いものを汚すことを意味している。

 

 

 

天界の秘義10037[]

 

エゼキエル書には―

 

その予言者は人間の排泄物の糞で大麦の菓子を作るように命じられた、それはイスラエルの子孫はそのようにその不潔なパンを実に食べているためである。しかし彼は言った、ああ、主エホビよ、私の魂は汚されたことはありません、忌まわしい肉は私の口に入ったことはありません、と、すると彼は答えたもうた、私はあなたに人間の糞の代わりに雄牛の糞を与える、あなたはそれであなたのパンを作ることが出来ます。私は彼らをパンと水に乏しくさせ、人とその兄弟とは荒廃し、その不法のゆえにやつれ果てるであろう(4・9,12−17)。

 

これらの事柄によりユダ国民の教会の善と真理の性質が表象されたのであり、『人間の排泄物の糞で出来た大麦の菓子』は自己愛で汚された教会の内的な善を意味し、『雄牛の糞で出来た菓子』はこの愛に汚された教会の外なる善を意味しているのである。

 

 

 

天界の秘義10037[]

 

これらの事柄が『菓子』により意味されているため、『彼らはパンと水とに乏しくなるに違いない』、また『荒廃するに違いない』と言われ『パンと水』は善と真理を、『それらに乏しくなる』、『荒廃する』はそれらを剥奪されることを剥奪されることを意味しているのである。

 

 

 

マリア・ヴァルトルタ「手記」抜粋/天使館/P107

 

 肉の、また野獣のようなあなたたちの生きざまのごみが、たとえを見ることを妨げるためにあなたたちの霊魂の眼に被膜をかけたとしても、の眼にはベールはかけられない。わたしが出るようにつよくすすめ、出るための手段を与えているにもかかわらず、泥のなかにいることを楽しみ、そこにずっと留まろうとする人々の上に、わたしの手は重量をかける。彼らは泥のなかの泥になるだろう。というのも彼らは罪の泥を好んで食べ、彼らの不潔な飢えを満たすからだ。

 を否認した子供たちよ、その日は近づいている。地球の時間は長いようで短いのだ。

 

 

 

 

7.尿

 

 

アルカナ出版/天界と地獄488C

 

 神の真理をみずからの愛の弁護に乱用して真理を曲げた者は、尿液を愛好しています。尿は、このような愛からくる楽しみに相応しているのです。貪欲で心を汚した者は、穴ぐらに住み、ブタの汚物や胃のなかの不消化な食べ物から発散するにおいをかいで喜んでいます。

 

 

 

 

.死体地獄

 

 

暗殺者と最も執拗な復讐を企てている者らのいるところの死体地獄(スウェーデンボルグ/天界の秘義7161)

 

その生涯を憎悪、復讐、残酷の中に過ごした者等の地獄について

(スウェーデンボルグ/天界の秘義814)

恐るべき憎悪を抱き、そこから他の者に向かって復讐の念を抱いて、死以外の何物をも欲せずそれが行われない中何らの休息も知らない者らは、最も深い屍のような地獄に閉じ込められている。そこからは死体から発してくるような悪臭がたちこめており、驚くべきことには、こうした霊はそこの悪臭を喜び、それを最も快い匂りよりも好んでいるのである。

 

それが彼らの恐るべき性質とそこから生まれてくる彼らの幻想である。それに類似した悪臭がその地獄から実際放出されているのである。その地獄が開かれると(それは珍れにしか起こらないが、それも短時間にしか過ぎないが)非常な悪臭がそこから注ぎ出されて、その近くに霊は止まることは出来ない。

 

 

 

天界の秘義815

 

憎悪とそこから生まれてくる復讐を喜ぶあまり、身体を殺しても満足しないのみでなく、主が贖われた霊魂を破壊しようとさえする者は、非常に暗い通路[]を通って地の最低部分へ、その憎悪と復しゅうの度に比例した深い坑へ送られ、そこで凄まじい恐怖と戦慄に襲われると同時に、復讐欲に取りつかれ、それが嵩じると、さらに深い坑へ送られる。その後彼らはゲヘナの下に在る場所へ送られるが、そこには大きな、恐るべき、腹の部厚い蛇が現れ(それは全く現実の蛇であるかのように生き生きとして現れるが)それに噛まれて彼らは責め苛まれ、それを痛烈に感じる。このようなものが丁度身体の幾多の物が身体の生命に応じているように、彼らの生命に応じており、霊どもにより痛烈に感じられるのである。その間彼らは数代に亘って恐るべき幻想の中に住み、ついには自分が人間であったことを最早知らなくなるのである。彼らがこうした憎悪と復讐から得たその生命はそれ以外の方法では消滅することは出来ない。

 

 

 

 

9.地獄の人間は主の御名を口にすることが出来ない

 

 

アタナシウス信条についてP78

 

しかし凡ての地獄は主に反抗しているのである。彼らは主の御名を口にすることを欲していないし、また口にすることも出来ない、彼ら凡ての者にとっては、主を崇拝している者を苦しめ悩ますことが極めて楽しいのであり、この彼らの楽しさは極端なものである(例えば、ジレンボルグである)。主に反抗するスフィアは凡ゆる地獄から放出されており、主を拝するスフィアは凡ゆる天界から放出されており、ここから均衡が起こっている。

 

 

 

天界の秘義7097〔4〕

 

 このようなものになった者らは宇宙の創造者である父を承認はするが、主を承認はしないのである。主についてはここのパロがエホバについて、『エホバとはたれか。私はエホバは知らない』と言うように言うのである。否、天界のスフィアはことごとく主を承認し、主を愛することで満ちているように、地獄のスフィアはことごとく主を否定し、主を憎悪することで満ち、主の御名が語られるのにも堪えることも出来ないのである。

 

 

 

 

10.全地獄が一人の人間の中に

 

マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P237

 

全地獄が一人の人間の中にいるのを知らないのか?

 

 

 

 

11.レギオン

 

 

 

マルコ5・8−9

 

イエスが、「汚れた霊、この人から出て行け」と言われたからである。そこで、イエスが、「名は何というのか」とお尋ねになると、「名はレギオン。大勢だから」と言った。

 

 

 

真の基督教533

 

凡ての人々を支配せんとする愛と、凡ゆる富を所有せんとする愛の二種類の愛は長く人類に深く根を下ろしてきた。この二つの愛は、抑制されない時には、何らの制限も知らず、前者は天界の神たらんとの欲望を吹き込み、後者は世界の神たらんとの欲望を吹き込むのである。他の凡ての悪しき愛はこの二つの愛に従属し、その名はレギオンと呼ばれる。

 

 

 

 

12.地獄の政治

 

 

天界の秘義7773

 

善良な者たちのみでなく、悪い者らの間にも、すなわち、天界におけるように地獄にも、一種の政治があり、すなわち、支配があり、従属があり、それがなくては社会は結合しないからである。しかし天界の従属は地獄の従属とは全く異なっている。天界では凡ての者は平等な者に似ている、なぜなら彼らは兄弟が兄弟を愛するように互に愛し合っているからであるが、それでも互に他の者をその者が理知と知恵とにおいて勝っているに応じて自分の上に置いているからである。各々の者は、善と真理との愛そのものにより、謂わば自分自身から、善の知恵と真理の理知において自分よりも優っている者に自分自身を従属させているのである。しかし地獄の従属は独裁的な主権のそれであり、従って苛烈なものである、なぜなら支配する者はその命令の凡てを支持しない者に対しては凶悪な憎悪に狂うからである、なぜなら各々は他の者を例え外面では友として認めていても、(すなわち)他の者らの暴行に結束して当るために、友として認めてはいるけれど、(内面では)敵として認めているからである。この結束は強盗のそれに似ている。従属している者らは支配を渇望しており、また再三それが爆発して、暴動を引起し、かくてそこの状態は悲惨である、なぜならそのため残酷な無残なことが起り、それが交互に行われるからである。この凡てから他生の従属の実情のいかようなものであるかを認めることができよう。

 

 

 

 

13.人間は自分が考えているような者

 

 

黙示録講解86

 

何であれ人間が考え、欲する[意志する]ことはことごとく地獄か、天界か、何れかから発しているのである。もし人間が悪を考え、それを欲する[意志する]なら、それは地獄から発しているが、しかし善を考えて、それを欲するなら、それは天界から発しているのである。人間の中には他の何らかの源泉から発している思考と意志とは一つとして存在してはいないのである。自分は自分自身から考え、欲している[意志している]と考えている人間はこのことを知ってはいないのである、しかし私はこの主題については、人間が考え、欲している一切のものはこうした源泉の何れか一方から発していることを経験の一切から主張することが出来るのである。さらに、こうした理由から、悪を考え、欲している人間は事実[現実に]地獄にいるのであり、世に生きている間に現実にいる所へ死後その者はやって来るのである。人間の霊はその者が考え、欲している事柄から構成されているため、人間は他のいかような所へも来ることは出来ないのである。それで、彼は悪を考え、欲しているとき、その人間全体は悪から形作られ、構成され、それで彼は形では彼自身の悪である[それで彼は彼自身の悪の形となっている]。このことから奈落の霊らは全くその者ら自身の悪の像となり、怪物となり、その悪の種類に応じて、見る者を恐怖に陥れている。

 

 

 

 

14.地獄の起源

 

 

天界の秘義279

 

それでこれらの節を凡て連続して考えると、以下のような意味になるのである、感覚的な部分が天的なものからそれ自身を離反させた(創世記3章14節)、主はそれを再び結合させようとの目的のために世に来られるであろう(15節)、外なる人がそれ自らを離反させた結果、争闘が起った(16節)、そこから悲惨が起り(17節)、罪に定められたことが起こり(18節)、遂に地獄が起った(19節)。これらのことがその教会の内に、第四の子孫から洪水まで継続的に起ったのである。

 

 

 

 

15.地獄との交流がそのとき人間に開かれ

 

 

天界の秘義920[3]

 

しかしその子孫におけるように、その教会が衰微し、かの認識が、または天界との交流[連なり]が失われはじめた時、他の状態の事柄が始まったのである。その時人間は以前のように、感覚の対象の中に天界的なものを最早何ら認めなくなって、単に世的なもののみを認め、そしてそれは彼らの認識が失われるに比例して増大し、遂には丁度洪水以前に存在した最後の子孫のもとでは、彼らは対象の中に世的な、形体的な地的な物以外には何ものをも認めなくなったのである。かくて天界は人間から分離し、彼らもまた極めて微かにしか交流しなくなり、地獄との交流がその時人間に開かれ、そこから彼の全般的な観念が発したのであり、その全般的な観念から、すでに示したように、凡て個別的な物の観念が流れ出ているのである。かくて天界的な何らかの観念[考え]が示されると、それは彼には全く無意義なものとなり、そのため遂には彼らは霊的な天的な物が存在することを承認しようとさえ欲しなくなったのである。このように人間の状態は変化し、転倒したのである。

 

 

 

天界の秘義920[4]

 

主は人間の状態がこのようになることを予見されたため、人間が天的なものと霊的なものとを知るようにと、信仰の教義的な事柄を保存されたのである。この教義的な事柄は『カイン』と呼ばれた者たちにより、また『エノク』と呼ばれた者たちにより最古代教会の人たちから集められたのである。

 

 

 

 

16.地獄の苦しみの1時間は

 

 

トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/1・24・4

 

そこでの苦しみの1時間は、この世でのもっともきびしい苦行の百年間より、もっとつらいことだろう。

 この世ではときどき働きを休むことができるし、また友だちの慰めを受けることもできる。しかしそこへ落とされた者には、休みも慰めもさらにないのである。

 

 

 

 

17.シルワン

 

 

シルワンの手記/P80

 

 私は長い間、何が自分の身に起こっているかを理解できず、こう考えていた。「私は誰をも裁かない。悪い考えを受け入れず、忠実に任務を果たし、断食し、常に祈る。なぜ悪魔たちは私に襲いかかってくるのか。私は間違っているのだろうか。その理由がよく分からない。祈れば、悪魔たちは一時退くが、いつもまた戻ってくる。長い間、私はこのような戦いをしている。」それで私はあるスタレツにそれを打ち明けた。彼は黙って聞いてはくれたが、私は相変わらずその迷いの中に留まった。ある夜、私は自分の独房の中で腰かけていた。突然多くの悪魔に囲まれてしまった。熱烈に祈りをすると、悪魔たちは一時追い出されるが、また戻ってきた。イコンの前で屈拝するために立ち上がると、悪魔は私の礼拝を自分に向けさせるために、私の前を立ちふさぐ。私はまた腰かけて祈った。「主よ、ごらんください。私は清い心で祈りたいのですが、悪魔たちはそれを許しません。どうしたらこれから解放されるか教えてください。」すると神は私の心に答えてくださった。「高慢な人はいつも悪魔のために苦しむ。」私はまた尋ねた。「いつくしみ深い主よ、謙虚になるために、どうすればよいのですか。」主は答えてくださった。「地獄の中に意識的に留まりなさい。絶望してはなりません。」

 

 おお、神のいつくしみよ、私は神と人の前に醜いものです。しかし、主は私を愛し、励まし、癒し、謙虚さと愛、忍耐を教えてくださる。主は私の上におんいつくしみを注いでくださった。その時以来、私は意識的に地獄にいて、その暗い片すみで焼き尽くされていると感じる。しかし神を望み、泣きながら捜し求めて言う。「近いうちに私は死に、地獄の暗い獄舎にはいり、そこで独りで焼かれ、主に叫んで泣くに違いありません。私の心をご存知の神よ、どこにおいでになるのですか。」このような考えは大いに私の助けとなり、精神を浄め、心に真のやすらぎをもたらした。神のわざは何とすばらしいことよ。主よ私が希望を失わず、しかも地獄に意識的に留まるように命令される。主はそこにもこんなに近くおられる。

 

「私は世の終わりまで皆さんとともに毎日いる」(マタイ28・20)「悩みの日々、私に叫びなさい。私はあなたを救う。そして、あなたは私を賛美するだろう。」

 

 

 

 

18.このようにして彼は彼自身の中に地獄を作る

 

 

天界の秘義4104[5]

 

 成人期の者で何らかの判断を持ち、その事柄に何らかの考察を与えようとする者は誰でも自分が二つの王国の中に、すなわち、霊的な王国と自然的な王国との中にいることを知ることが出来、また霊的な王国は内的なものであって、自然的な王国は外的なものであり、従って自分は一方のものを他方のものの前に置くことが出来、すなわち、一方のものを他方のものに勝って目的として認め、かくて自分がその目的として認め、または優先させるものが自分を支配することを知ることが出来るのである。それでも彼が霊的な王国をその目的として認め、それを(すなわち、その王国に属しているものを)優先させるなら、そのときは彼は主に対する愛と隣人に対する愛とを第一次的なもの、主要なものとして承認し、従ってこの愛と仁慈とを確認して、信仰のものであると言われているものをすべて第一次的なもの、主要なものとして承認するのである、なぜならこれらのものはその王国に属しているからであり、その場合彼の自然的なものにおける凡ゆる物は、仕え服従するために、それに順応して排列され、秩序付けられるからである。しかし人間が自然的な王国を(すなわち、それに含まれているものを)彼の目的として、それを最初に置くと、そのときは彼は主に対する愛と隣人に対する仁慈のものである凡てのものを、信仰のものである凡てのものを消滅させてしまい、それらを全く些かも取るに足らないものとしてしまうが、しかもそれは世と自己を求める愛とそれに属している凡てのものを一切のものとするほどにもなるのである。こうしたことが行なわれると、彼の自然的なものにおける凡てのものはこれらの目的に順応して秩序をもって排列され、かくて天界のものには全く反して排列され、このようにして彼は彼自身の中に地獄を作るのである。

 

 

 

 

19.信仰の真理の中にいないし、また同時に仁慈の善の中にもいない者らは審きもなしに、すなわち、彼らは誤謬の中にいるという何らの判決もなしに地獄へ連れ去られて行く

 

 

天界の秘義4169[4]

 

しかし信仰の真理の中にいないし、また同時に仁慈の善の中にもいない者らはこのような審きもなしに、すなわち、彼らは誤謬の中にいるという何らの判決もなしに地獄へ連れ去られて行くのである。

 

 

 

20.彼らは天界では最も深い地獄の中で苦しむ以上にも苦しむ

 

 

天界の秘義6353[2]

 

が、事実は、天界は主によりたれにも拒まれてはいないのであり、生命と生命の伝達とのために(それはそこでは香りが地上でそれを嗅ぐ者により認められるように認められるのであるが)邪悪な者はそこに住むことが不可能となるのである、なぜなら彼らはそこではその生活の悪により、最も深い地獄の中で苦しむ以上にも苦しむからである。

 

 

 

 

21.様様な地獄

 

天界と地獄488

 

神の真理を自分自身の愛に応用して、それを誤謬化した者は尿を愛する、なぜなら尿がそうした愛の楽しさに相応しているからである。鼻持ちもならぬほど貪欲であった者らは小さな室に住んで、豚の好きそうな汚らしいものを愛し、また胃の中の不消化な食物から吐き出されるような悪臭を愛している。ただ快楽の中に生活を送り、みやびやかな生活をし、口と胃とを甘やかして、人生の与える最高の善のような物を愛した者は他生では排泄物と厠を愛し、そこに歓喜を覚えるが、それはそうした快楽は霊的な死であるからである。彼らは清潔で汚れていない所を不愉快に感じるため、そこを避けている。姦淫に楽しさを感じていた者らは、凡ゆる物が下劣で汚らしい娼家でその時を過ごし、そこを愛して、貞潔な家庭を避け、その家庭に入ると必ず気を失ってしまう。彼らには結婚を破壊することほど楽しいものはないのである。復讐を求め、そのため野蛮で残酷な性質をつけてしまった者らは死体のような物を愛して、そうした性質の地獄にいる、その他これに準じている。

 

 

 

天界の秘義824

 

ここにはその生涯を姦淫と好色とに過ごした者の地獄について述べよう。また欺く者、女妖術者[女魔法使い、妖婦]の地獄についても述べよう。

 

右足のくびすの下に、残酷を喜ぶと同時に、姦淫を喜び、その中に自分の生命の最大の歓喜を覚えた者の住む地獄が在る。身体の生命の中で残酷であった者はまた他の者以上に姦通者であることは注意すべきことである。このような者がこの地獄にいる者らであり、ここでは彼らは筆舌に言い現わし難い残酷な方法を取っている。彼らは草をすり潰すに用いられる器や、すりこぎのようなものをその幻想によりすり潰すために作り、それを以て可能であればたれでもすり潰し、苦しめる、彼らはまた死刑執行人の持っているような幅の広い斧のようなものや大錐を持っており、それを以て互に残酷な暴行を加え合っている、他の凄まじい残虐な振る舞いは言わずもがなである。前の時代に異邦人を非常に残酷に扱ったユダヤ人が若干そこに居る。そして現今その地獄は、特に基督教世界と言われているものから来ているが、その生命の歓喜をことごとく姦通〔姦淫〕に見出し、その大半は残酷なものである者らにより増大しつつあるのである。時として彼らの歓喜は人間の排泄物の悪臭に変わり、それはその地獄が開く時極度に発散する。私はそれを霊たちの世界の中で嗅いだが、その時そのため殆ど気を失うほどにもなった。この不快な排泄物の臭いは地獄に満ちたり、止んだりして、それが交互に繰り返されている、なぜならそれは彼らの姦通から発する歓喜であり、それがこのような不快なものに変わるからである。時がたって、彼らはこのような物の中で一定の期間を過ぎると、独り棄ておかれ、責め苛まれながら坐り、醜い骸骨のようなものになるが、しかしそれでも生きているのである。

 

 

 

天界と地獄586

 

 私はまた地獄を覗き込んで、その内部はいかようになっているかを見ることを許された。なぜなら主は良しとされるときは、霊または天使は下の深淵を、それが覆われているにも拘らず、上から見通して、その性質を調べることが出来るからである。このようにして私はまたそこを覗き込むことが出来たのである。ある地獄は、岩の中のほら穴のように見えて、それが奥へ進み、それから深淵の中へ、斜めに、または垂直に降っていた。ある地獄は獣が森の中で住んでいるような穴や洞窟のように見えた。あるものは、鉱坑に見られるような、空ろなほら穴のように見えて、穴は下の方へ開いていた。地獄の大半は三重になっていて、上のものは、そこに悪の誤謬にいる者らが住んでいるため、その内は暗闇に閉ざされているように見えるが、下のものは、そこに悪そのものにいる者らが住んでいるため、火のように見える。なぜなら暗闇は悪の誤謬に、火は悪そのものに相応しているからである。深い地獄には内的な悪から行動した者らがいるが、それほど深くない地獄には外的な悪から、即ち、悪の誤謬から行動した者がいる。ある地獄には火事で家や町が焼けた後のようなものが見られ、そこに奈落の霊らは隠れて住んでいる。それよりは穏やかな地獄には粗末な小屋のようなものが見られ、ときには、小路や街路のある町のように、互に隣接しており、その家の中には奈落の霊がいて、絶えず口争いし、憎み、打ち合い、いがみ合っており、街路と小路には強奪、掠奪が行われている。地獄のあるものの中には売春宿のみがあって、見るも吐気をもよおさせ、凡ゆる種類の汚物と排泄物とに満ちている。密林もまたあって、その中を奈落の霊は野獣のようにぶらついており、またそこにも地下の穴があって、他から追いかけられている者はそこへ逃げ込んでいる。砂漠もまたあり、そこには不毛の、砂のようなもの以外には何一つなく、ある所はごつごつした岩があって、その岩の中にほら穴がある。ある所にはまた小屋がある。こうした荒地へ凡ゆる極端な刑罰を受けた者らが、特に、世で奸策と詐欺とを人一倍に狡猾に計画し、案出した輩が地獄から追放されている。彼らの最後の運命はこうした生活である。

 

 

 

 

22.永遠の作業場以外の何ものでもないこうした洞窟から、地獄全体は成っている

 

 

啓示による黙示録解説153

 

 前述の記事に私は、教義においても生活においても、信仰のみが義とさえすることを確認した者らの死後の運命について、記憶すべき事柄を付け加えよう。

 

 

 

啓示による黙示録解説153・1

 

 彼らが死んで、その霊が生き返ると―それは全般的に心臓の鼓動が止んでから三日目に起るのであるが―彼らが前の世で持っていた身体に似た身体の中にいるように彼ら自身に思われ、それは彼らが前の世に依然生きているとしか考えられないほどにも似てはいるものの、それでも彼らは物質的な身体の中にいるのではなくて、霊的な身体の中にいるのであり、その身体は、物質的なものではないものの、物資的なものであるかのように、同じく霊的なものである彼らの感覚の前に現れるのである。

 

 

 

啓示による黙示録解説153・2

 

 幾日かすると、彼らは自分たちが色々な社会がつくられている世界にいて、その世界は霊たちの世界であって、天界と地獄との中間に介在していることを認める。そこの社会は凡て、無数であるが、善い、また悪い自然的な情愛に従って、驚嘆すべき方法で排列されている。善い自然的な情愛に従って排列されている社会は天界と連絡し、悪い情愛に従って排列されている社会は地獄と連絡している。

 

 

 

啓示による黙示録解説153・3

 

 新来の霊、または霊的な人間は、善いまた悪い、色々な社会へ連れて行かれて、真理に感動するか、否かを、それがいかように行われるかを、また誤謬に感動するか、否かを、それがいかように行われるかを調べられる。

 

 

 

啓示による黙示録解説153・4

 

 もし彼が真理に感動するなら、彼は悪い社会から連れ出されて、善い社会へ導き入れられ、それも色々な善い社会へ入れられて、遂にはその者自身の自然的な情愛に相応した社会の中へ入り、そこでその情愛に一致している善を楽しむようになり、しかもそれは彼がその自然的な情愛を脱ぎ棄てて、霊的な情愛を身につけ、かくて天界へ挙げられるまでに至るのである。しかしこれは世で仁慈の生活を送り、かくてまた信仰の生活を送った者たちに起るのである、信仰の生活とは主を信じて、悪を罪として避けることに在る。

 

 

 

啓示による黙示録解説153・5

 

 しかし真理に感動しないで、誤謬に感動するために、信仰のみによって義とすらされることを、教義においても、生活においても確認した者らは、善い業である仁慈の業を、救いの方法から斥けてしまっているため、善良な社会から連れ出されて、悪い社会へ導き入れられ、また色々な悪い社会へ入れられ、遂にはその者らの愛の欲念に相応した社会の中へ入ってくるのである。なぜなら誤謬を愛する者は悪を愛しないわけにはいかないからである。

 

 

 

啓示による黙示録解説153・6

 

 しかし彼らは世にいた頃、その内なるものの中には悪い情愛または欲念以外には何ものも無かったのに、その外なるものの中では善い情愛を偽り装ったため、最初は外なるものの中に交互に留めおかれ、世で幾つかの団体の使用人を支配した者らは、その行った務めの範囲に従って、全般的に、また部分的に、霊たちの世界の幾つかの社会を、ここかしこで支配する位置に置かれるが、しかし彼らは真理を愛しないし、公正も愛しないし、また真理と公正との何であるかを知るほどにも明るくされることも出来ないため、それで幾日がすると、解任されてしまう。私はこうした者が一つの社会から他の社会へと移され、その各々の社会で何らかの管理職を与えられるのを見たが、いく時も経たぬ中に、そのつど解任されるのを見たのである。

 

 

 

啓示による黙示録解説153・7

 

再三解任されると、或る者は飽き飽きしてしまって、また或る者は世間の評判を悪くしはしないかと恐れて、最早役職を求めようとはしなくなり、それで身を引いて、悲しげに坐り、それから荒地へ連れられて行く。そこには小屋があり、そこへ彼らは入って、何らかの種類の仕事が与えられる、彼らはそれを行うと、食物を受けるが、もし行わないと、飢えて、何一つ食物を受けはしない、それで苦しさのあまりに仕事へ強制される。そこには自然界に似た食物が在るが、しかしそれは霊的な起原から発していて、天界から主により凡ての者へその者たちの行う用に応じて与えられているが、怠け者にはその者らは何らの用も果さないため、何一つ与えられはしない。

 

 

 

啓示による黙示録解説153・8

 

 しばらくすると彼らは仕事を嫌って、その小屋から出て行くが、もし祭司であったなら、建築しようとする。するとすぐに切り石や、煉瓦や垂木や、板の山が現れる、またよしや葦やねば土や、石灰や、ちゃん(瀝青)の山も現れる。これを見ると、建築欲が燃え上って、彼らは或は石を、或は木を、或はよしを、或はねば土を取り、それらを秩序も無しに、しかし彼ら自身の目には秩序整然として、互に積み重ねる。しかし彼らが日中建てるものは夜になると崩れ落ちてしまう。すると翌日彼らはそのがらくたを集め、再び建てそれをずっと続けるが、遂にはそれにも倦いてしまう。こうしたことが行われるのは、彼らは信仰のみによる救いを確認するため、幾多の誤謬を寄せ集めたからであり、こうした誤謬は他のいかような方法によっても教会を建設はしないのである。

 

 

 

啓示による黙示録解説153・9

 

 それから彼らは倦き倦きして去り、一人淋しくすることも無く坐っているが、怠け者は、前に言ったように、天界から食物は与えられないため、彼らは飢え始めて、どうして食物を得て、その飢えを癒そうかということのみしか考えなくなる。彼らがこうした状態にいると、そこへ誰かがやってくる、これに彼らは施しを求める、するとその者らは、なぜあなたらはこんな風に何もしないで坐っているのです。私たちと一緒に私たちの家へ来なさい。私らはあなたらに仕事を与え、あなたらに食べさせてあげようと言う。それで彼らは喜んで立ち上がり、彼らと連れ立ってその家へ行く。すると各々仕事を与えられ、またその仕事に対して食物も与えられる。しかし信仰の誤謬を確認した者らは凡て善いことに役立つ仕事は為すことが出来ないで、ただ悪いことに役立つ仕事しか為すことが出来ないため、またその仕事も忠実には為さないで、ただ名誉や利得のために忠実らしく見えるようにしか為さないため、それでその仕事をやめて、ただ話し合ったり、しゃべりまくったり、歩き回ったり、眠ったりすることしか愛さない。それで、彼らは最早その主人からも仕事をするように仕向けられることが出来ないため、無益な者として追い出されてしまう。

 

 

 

啓示による黙示録解説153・10

 

 彼らは追い出されると、その目が開かれて、ある洞穴へ通じる道が見えてくる。そこへ来ると、戸が開かれ、彼らは入って、そこに食物があるか、と尋ねる。あると答えられると、そこに止まる許しを求める。止まってもよろしいと言われ、中へ入れられる、すると戸がその後ろで閉じられる。すると、その洞窟の監督がやって来て、彼らに言う、あなたらは最早ここから出ることは出来ない。あなたらの仲間を見よ、彼らはせっせと働いている、働きに応じて天から彼らに食べ物が与えられる。このことを私は、あなたらに知ってもらうために話しておく、と。すると彼らの仲間もまた言う、私らの監督は私ら各々がどんな仕事に適しているかを知っており、それを日々私ら各々に割り当てる、それを終えた日に、食べ物が与えられるが、終えないなら、食べ物も、着物も与えられはしない。もしたれかが他の者に悪いことをするなら、その者は洞窟の片隅の、ある呪われた塵の寝台の上へ投げつけられて、そこにむごたらしい拷問を受け、それが、その監督がその者の中に悔改めた印を見る時までも続き、その時になると、彼は赦されて、その仕事を行うように言いつけられる、と。たれでもその仕事が終わった後では、歩き回ったり、話し合ったり、その後で眠ったりするのを許されている。そして彼はその洞窟の内部へ導き入れられるが、そこには娼婦らがいて、その者らの間から各々一人を自分の女として取ることを許されてはいるが、たれかれの見境もない淫行は刑罰の下に禁じられている、と。永遠の作業場以外の何ものでもないこうした洞窟から、地獄全体は成っている。私はそれを明らかにするために、中へ入って、その作業場のいくつかを見ることを許されたが、彼らはすべて下劣であることが見られ、また彼らの中でたれ一人自分が世ではたれであったか、またはいかような務めにいたかを知りはしなかったのである。しかし私と共にいた天使は、私に以下のように話した。この者は世では下僕であり、この者は兵隊であり、この者は総督であり、この者は祭司であり、この者は高位にあり、かの者は満ち溢るる富の中にいたものの、その凡ての者らは自分らはいつも下僕であって、同じような仲間を持っているとしか考えていなかったのであるが、それは彼らは世では外的には似てはいなかったものの、凡て内部では似ており、そして内部は霊界では凡て共に交わっているという理由によっているのである、と。これが仁慈の生活を遠ざけて、そこから世でその生活に生きなかった者らの運命である。

 

 

 

啓示による黙示録解説153・11

 

 地獄全般については、それらは単にこうした洞穴と作業場から成っているが、しかし悪鬼の住んでいる地獄は悪魔の住んでいる地獄とは異なっている。悪鬼とは、誤謬の中にいて、そこから悪の中にいる者らであり、悪魔とは悪の中にいて、そこから誤謬の中にいる者らである。悪鬼は天界の光の中で死体のように現れ、その中にはミイラのように、黒く現れる者もあり、悪魔は天界の光の中では薄暗い、火のような色をして現れ、その中にはすすのように黒く現れる者もいるが、その顔と身体は凡て怪物である。それでも炭火の光に似た彼ら自身の光の中では、彼らは怪物としては現れないで、人間として現れている。これが彼らに許されているのは、彼らが共に交わることの出来るためである。

 

 

 

結婚愛80

 

第六の説話―

 

 こうした言葉が言われたので、わたくしは西の端を眺めてみた、と見よ! 火と硫黄との池のようなものが現れた。わたしは天使にたずねた、『そこの地獄はなぜあのように見えるのですか』。

 彼は答えた、『それはその真理の誤謬化のため湖として見えます。それは水は霊的な意義では真理であるからです。またその悪の愛から、その周りに、その中に火のようなものが現れ、その誤ったものを愛する愛から硫黄のようなものが現れます。湖、火、硫黄のこの三つのものは、彼らの抱いている悪い愛に相応したものであるため、その外観でもあります。凡てこれらの者は永遠の作業場に閉じ込められて、そこで自分の糧、着物、寝床のために働いています。そして彼らは悪を行うと、苛烈な、悲惨な刑罰を課せられます』。

 

 

 

 

 

 

 

23.地獄について・・・『天界の秘義』第7章より

 

 

天界の秘義692

 

 天界についてもそうであるが、地獄についても人間は極めて全般的な観念〔考え〕しか抱いておらず、それは殆ど考えといったものでないほどにも極めて曖昧なものである。それは森の中の小屋から先に出たことの無い者が地球について抱いている考えといったようなものである。彼らはその諸々の帝国と王国とについては何事も知っておらず、ましてその政治形態については、その社会については、社会の生活については何事も知ってはいない。彼らはこれらの事柄を知らない中は地球については最も全般的な考えを持っているに過ぎず、それは殆ど何ら考えというもので無い程にも全般的なものである。天界と地獄についての人々の考えも同様であるが、事実はその各々に無数のものが在り、いかような地上の世界におけるよりも無限に多数の物が存在している。それらが如何に無数であるかは以下の事のみからでも明らかとなるであろう、すなわち何人も他の者と同じ天界を持っていないように、何人も同じ地獄を持っていないのであり、最初の創造以来世に住んだ凡ての霊魂は如何ようなものであれ、ここに来て、共に集められているのである。

 

 

 

天界の秘義693

 

 主と隣人に対する愛はそこから生まれてくる歓びと幸福と共になって天界を構成しているように、主と隣人に対する憎悪はそこから必然的に発して来る刑罰と苛責〔拷問〕と共になって地獄を構成している。無数の種属の憎悪とそれよりも更に無数の種類の憎悪があり、地獄も丁度それと同じように無数である。

 

 

 

天界の秘義694

 

 主から発している天界は、相互愛を通して、謂わば一人の人間と一つの霊魂を構成しており、かくて凡ての者を永遠に支え、救おうとする一つの目的を目標としているように、他方、地獄も人間自身のものから発して、自己と世を求める愛を通し、すなわち、憎悪を通し、一人の悪魔と一つの心を構成しており、かくてまた凡ての者を永遠に破壊し、地獄に投げ込もうとする一つの目的を目標としている。かくの如きが彼らの努力であることは数千度も認められたのである、それ故主が凡ての者を各瞬間支えられない限り、彼らは滅んでしまうであろう。

 

 

 

天界の秘義695

 

 しかし地獄の上に主により課せられた形と秩序とは凡ての者がその者の欲念と幻想とによりくくりつけられ、縛り付けられているといったものであって、彼らの生命そのものはその欲念と幻想から成っているが、この生命は死の生命であるため、恐るべき、表現を絶した苛責〔拷問〕に変化している、なぜなら彼らの生命の最大の歓喜は互に他を罰し、苦しめ、悩ますことが出来ることに在って、これは世には知られていない術によって行われ、これにより彼らは恰も彼らが身体の内にいるかのように、烈しい苦悩を引き起こすと同時に、恐怖、戦慄、またそういった多くの拷問と共に恐るべき慄然とする幻想を引き起こす方法を知っているのである。悪魔の一味はこのことに非常な快楽を感じているため、若し無限に苦痛と拷問とを増大し、拡大出来るとしても、その時でさえも満足しないで、更に再び無限に燃え上がるが、しかし主は彼らの努力を除かれ、拷問を和らげられるのである。

 

 

 

天界の秘義696

 

 他生の凡ゆる物の均衡は全般的にも個別的にも悪がそれ自身を罰するようになっており、それで悪の中には悪の刑罰が存在している。誤謬も同様であって、それは誤謬の中にいる者に帰って来るのである。かくて各々は自分自身に刑罰と拷問とを持って来ると同時に、こうした拷問を加える悪魔の一味の者の間へ突進する。主はたれをも地獄に送られないで、凡ての者を地獄から導き出そうとされており、まして拷問に入れようとはされない。しかし悪い霊が自らその拷問に向って突入するため、主は刑罰と拷問とを善と何らかの用へ変えられている。如何様な刑罰も主が何らかの用の目的を意図されない限り決して在り得ないのである、なぜなら主の王国は目的と用の王国であるからである。奈落の者らが果すことの出来る用は最低の用であり、彼らがそのことに携わっている時は、余り拷問を受けないが、その用が終わると地獄に送り返されるのである。

 

 

 

天界の秘義697

 

 人各々のもとには少なくとも二人の悪霊と二人の天使が居る。悪霊を通してその人間は地獄と交流し、天使を通して、天界と交流している。人間はその両方の者と交流していないなら、一瞬も生きることは出来ない。かくて人間は各々そのことに気づいてはいないが、何処かの奈落の者の社会の中にいるのである。しかし彼は永遠の生命に対する準備の状態にいるため、彼らの拷問は彼には伝えられていない。人間がその中にいた社会が他生で時折彼に示される、なぜなら彼はそこへ帰り、かくて彼が世で送っていた生活に帰り、そこから地獄へ向うか、または天界へ挙げられるか、するからである。かくて仁慈の善に生きないで、自らが主により導かれることを許さない人間は奈落の輩の一人となり、死後また悪魔になるのである。

 

 

 

天界の秘義698

 

 地獄の他にまた剥奪が在り、それについては聖言に多くの事が記されている。何故なら人間は実際に犯した罪の結果他生へ無数の悪と誤謬とをもって入り、これを自分自身に蓄積し、接合しているからである。正しい生活を送った者でさえもそうである。これらの者が天界に携え上げられることが出来る前に、その者らの悪と誤謬は消散されなくてはならず、この消散が剥奪と呼ばれている。剥奪には多くの種類が在り、その期間にも長短が在る。或る者は死後比較的短時間の中に、或る者は直ちに天界へ挙げられている。

 

 

 

天界の秘義699

 

 私は地獄にいる者の拷問と低地にいる者の剥奪とを見るために、時々そこへ下ろされた。地獄へ下ろされることは一つの場所から他の場所へ運ばれることではなく、当人は同じ場所に止まりつつも、或る奈落の社会へ入れられるということである。しかし私はここに単に以下の経験のみを述べよう、私はそこにいた時、ああ神よ! ああ神よ! 私らを憐れんでください! 私らを憐れんでください! といった哀れな嘆きを聞いたが、それは長時間にわたっていた。私はそのみじめな者たちと語ることを許されたが、それは莫大な時間に亘った。彼らは悪霊らが自分らを苦しめる以外には何物も欲していないし、またそれ以外のもののためには燃えないということで悪霊らを訴えた。彼らは絶望し、自分たちの苦悩は永遠に亘ると信じていると語った、しかし私は彼らを慰めることを許された。

 

 

 

天界の秘義700

 

 地獄の数は、私たちが述べたように、極めて多いため、これを順序を追って若干説明するために、以下のように取り扱おう、一、憎悪、復讐、残酷の生活を送った者らの地獄について。ニ、姦淫と好色に生活した者らの地獄について、また欺く者と女魔術者〔妖婦〕の地獄について。三、貪欲者の地獄とそこに在る汚れたエルサレムと荒野の強盗について、また単に快楽に生きた者の糞尿地獄について。四、右に述べた地獄から区別されている他の地獄について。五、最後に剥奪される状態にいる者たちについて、是らの記事は以下の諸章の前に記され、また終わりにも附加されるであろう。

 

 

 

続、地獄について

ここでは、その生涯を憎悪、復讐、残酷の中に過ごした者等の地獄について。

 

天界の秘義814

 

恐るべき憎悪を抱き、そこから他の者に向かって復讐の念を抱いて、死以外の何物をも欲せずそれが行われない中は何らの休息も知らない者らは、最も深い屍のような地獄に閉じ込められている。そこからは死体から発してくるような悪臭がたちこめており、驚くべきことには、こうした霊はそこの悪臭を喜び、それを最も快い匂りよりも好んでいるのである。それが彼らの恐るべき性質とそこから生まれてくる彼らの幻想である。それに類似した悪臭がその地獄から実際放出されているのである。その地獄が開かれると(それは珍れにしか起こらないが、それも短時間にしか過ぎないが)非常な悪臭がそこから注ぎ出されて、その近くに霊は止まることは出来ない。ある悪鬼どもが、またはむしろ復讐の鬼が、私がその性質を知るためにそこから送られて来たが、彼らはそのスフィア〔身体から発する霊気〕にかくも有毒な息を感染させたため、私の周りの霊たちはそこに止まることが出来なくなり、同時にそれは私の胃にも影響して、私は吐いたのである。

 彼らは彼ら自身を、顔は醜くはないが、短剣を隠し持ち、手にコップを持っている小さな子供の姿の下に現して、その小児を私のもとへ遣わしたのである。そのことから私は彼らは無垢の仮面の下に、短剣か、または毒で殺そうとしている心を持っていることを知ることが出来たのである。それでも彼ら自身は身体は裸であり、非常に黒かった。しかし間もなく彼らはその屍のような地獄に送り返されたが、その際彼らの沈む有様を認めることが出来たのである。彼らは左こめかみの面の左側の非常な遠方へ下降しないで進んで行って、後で沈んでしまったが、先ず火のように見えた物の中へ、次に炉の煙のような火の炉の中へ沈み、次に炉の下へ、前面に向って沈んだが、そこには極めて陰惨な多くの洞窟が在って下の方へ向いていた。途中彼らは絶えず色々な悪をもくろみ、考えていたが、それは主として、理由も無しに、無垢な者に対して考えていたのである。彼らは火を通って沈む時非常に嘆いた。彼らが何処から来て、またいかような者であるかが良く知られるために、彼らは送り出される時は一種の指輪を持っていて、それに真鍮の刺し針のようなものが付けられているが、これを彼らは手で押さえて、捻じ曲げている。これは彼らがこのような性質のものであって、縛られているという印しとなっている。

 

 

 

天界の秘義815

 

憎悪とそこから生まれてくる復讐を喜ぶあまり、身体を殺しても満足しないのみでなく、主が贖われた霊魂を破壊しようとさえする者は、非常に暗い通路[]を通って地の最低部分へ、その憎悪と復讐の度に比例した深い坑へ送られ、そこで凄まじい恐怖と戦慄に襲われると同時に、復讐欲に取り憑かれ、それが嵩じると、さらに深い坑へ送られる。その後彼らはゲヘナの下に在る場所へ送られるが、そこには大きな、恐るべき、腹の部厚い蛇が現れ(それは全く現実の蛇であるかのように生き生きとして現れるが)それに噛まれて彼らは責め苛まれ、それを痛烈に感じる。このようなものが丁度身体の幾多の物が身体の生命に応じているように、彼らの生命に応じており、霊どもにより痛烈に感じられるのである。その間彼らは数代に亘って恐るべき幻想の中に住み、ついには自分が人間であったことを最早知らなくなるのである。彼らがこうした憎悪と復讐から得たその生命はそれ以外の方法では消滅することは出来ない。

 

 

 

天界の秘義816

 

 憎悪と復讐には無数の種族のものが在り、それにもまして無数の種類のものが在り、一つの種属は他の種属とは同じ地獄を持っておらず、それでそれらを一々順序を追って詳しく述べることは不可能であるため、私は眺めたことのあるものに言及しよう。貴族のように見えた者が一人私のもとへ来た。(私に現れた者たちは明るい日の光の中に在るかのように、それよりもさらに明白に見られたのであるが、しかしそれは私の内なる視覚によったのである。なぜなら主の神的慈悲の下に私は霊たちと共にいることが出来たからである)。彼は近づいて来ると、私に告げたいものが沢山あるように身振りで見せかけて、私が基督教徒であるか、否かと尋ねた、それに対し私は基督教徒であると答えた。彼は自分もまた基督教徒であると言い、他人に聞かれたくない事を告げたいから、自分と只一人になってくれないかと言った。しかし私は地上では人間が一人になると考えるようには、他生では一人になることは出来ない、多くの霊が居合わせていると答えた。彼は今度は更に近づいて来て、秘かに私の後の頭の背後に廻った。その時私は彼が刺客であることを認めたのである。彼はそこにいる間に、私は心臓を突き刺されたように、また間もなく頭脳も突き刺されたように感じた―それは容易に人間を死に至らすような打撃であった。しかし私は主により守られていたので、何ものをも恐れなかった。彼はいかような手段を用いたかは私は知らない。彼は私が死んだものと考えて他の者に向って、自分は途中で、背後から恐ろしい打撃を加えて殺してしまった人間の許から来たばかりであると語り、自分はその術には極めて巧みであるから、人間はその人間が倒れて死ぬまではそのことが分からない、だから自分自身の無垢であることは疑われはしないと語った。このことから私は彼が最近生命を離れたばかりで、そこではそのような行為を犯していたことを知ることが出来たのである。こうした者の刑罰は凄まじい。彼は数代に亘って奈落の苛責を受けた後、ついには嫌忌すべき、最も奇怪な顔を―顔ではなくて、麻屑のような妖怪然とした顔を持つようになるのである。かくて彼らは人間的な物を尽く脱ぎ去り、人は彼らを見るや慄然とし、かくて彼らは暗い所を野獣のように彷徨うのである。

 

 

 

天界の秘義817

 

 左側の奈落の一つの室からある者が一人やって来て、私と語った。私は彼が悪党の一人であることを認めることが出来た。彼が世で行なったことは以下の方法で明らかにされたのである。彼は低地のやや深い辺りへ、やや左寄りの前方へ送られ、そこで埋葬しなくてはならない死人のために墓を掘るようなことをやり始めた。そのため彼は身体の生命の中では何か恐ろしい行為をやってのけたのであるという疑いが起った。するとそこへ黒布で蔽われた葬式の棺が現れた。間もなくその棺から一人の者が出て来て、私のもとへ来て、自分は死んだのであるが、自分はあの男から毒で殺されたと信じている、自分は死ぬ時にそう考えたのであるが、しかしそれは嫌疑以上のものであるか否かははっきりしないと敬虔な態度で語った。その恥ずべき霊はそれを聞くと、自分はそのような行為を犯したのであると告白した。その告白の後で、刑罰が続いて起った。彼はその掘った暗い穴の中を二度転げ回され、顔も身体もエジプトの木乃伊のように黒くなり、そうした有様で高い所へ引き上げられ、霊たちと天使たちの前に連れ回された。何という悪魔! との叫び声が聞えた。彼はまた冷たくなってしまい、かくて冷たい奈落の輩の一人となり、地獄に送られた。

 

 

 

天界の秘義818

 

 臀部の下に恐るべき地獄が在り、そこでは彼らは互に他の胸元に向って復讐の鬼のようにナイフを振りかざし、互に他の者を刺し貫き合っているように見えるが、しかし今まさに刺し貫こうとする際にナイフが絶えず彼らから取り上げられてしまうのである。彼らは他の者に非常な憎悪を抱いた余り、これを残酷に殺してしまおうと燃え立った者であり、そのためこうした恐るべき性質を身につけてしまったのである。この地獄は私が恐るべき憎悪の性質を認めるために私に開かれたのであるが、しかしそれもその凄まじい残酷さのためにほんの暫くの間にすぎなかったのである。

 

 

 

天界の秘義819

 

 身体の下の部分と同じ面の左手に、幅よりも長さの方が優った、大きな、一種の淀んだ湖が存在して、前面のその堤の周囲に、溜り水に住んでいるような怪物のような蛇が、忌まわしい息を吐き掛け乍ら、そこに居る者らに現れて来る。そこからさらに遠く離れて、左の岸に、互に他の者に歯で食いつき乍ら、人肉を食べ、互に他の者をむさぼり食っている者らが現れている。更にそこよりも遠い所で左手に大魚が、巨大な鯨が現れ、それが人間を呑み込んではまた吐き出している。最も遠い所には、または向い岸には、余りにも奇怪であるため、記すことも出来ないような、非常に醜悪な顔が、主として年取った女の顔が現れているが、彼らは狂乱しているかのように走り回っている。右の岸には互に他の者を残酷な器具で殺戮しようと試みている者等がいるが、その器具は彼らの心の恐ろしい感情に応じて異なっている。湖の真中は何処も淀んでいるかのように真黒である。時々私は霊どもがこの湖に連れて来られるのを見て驚いたが、そこから出て来て私に告げた者により以下のことを知ったのである。彼らは隣人に内的な憎悪を抱いた者であり、彼らの憎悪は機会がある毎に爆発し、そこに彼らは最大の歓喜を認めたのである、彼らには隣人を審判へ連れて来て、これに刑罰を加え、もし法律の刑罰により抑えられないならば、これを殺すに勝って楽しいことはなかったのである。(右に述べた)こうしたものに人間の憎悪と残酷とは身体の生命の後変化するのである。彼らの憎悪と残虐から生まれて来る幻想は彼らには生命の現実性を招くのである。

 

 

 

天界の秘義820

 

 強盗と海賊行為を行った者は他生では腐敗して、悪臭を放っている尿を他の凡ての液体にもまさって愛し、彼ら自身にはこのような物の間に、淀んだ悪臭を放っている溜り水の中に住んでいるように見える。或る一人の強盗が私のもとへ来て、歯をかみ鳴らしたが、その音は人間から発しているかのようにはっきりと聞こえたのである。これは彼らには歯が無かったので、奇妙なことであった。彼は自分はどんなにきれいな水の傍よりも尿の汚物の中に住んでいたい、尿の臭いは自分の喜ぶものであると告白した。彼は他のどんな所よりも尿の大桶の中にいて、そこに家を持ちたいものだと言ったのである。

 

 

 

天界の秘義821

 

 たれからも自分が尊いものではないと思われないように、尊い顔付きと生活とを上辺で見せ、名誉ある地位に引き上げられるため、また世間の評判を悪くしないで富を得るために尊いもののように見せかける凡ゆる方法を研究している者らがいる。それ故彼らは公然とは行動しないで、他の者を通して詐欺の術策により他の者の財産を奪い、財産を掠奪されるその家族が飢えて死んでも何ら意に介しない、もし公の注目を逃れることが出来るならば、何らの良心もなく、こうした悪事を自ら遂行しようとする、それ故彼らは実にそれを自分自身の行為により犯す者らと同じ性質を持っている。彼らは隠れている強盗であり、彼らに特有なこうした種類の憎悪は他の者に対する軽蔑、利得に対する貪欲、無慈悲、詐欺に結合している。他生ではこうした人間は罪の無い者と認められようと願い、悪事が露見しなかった為、自分は何の悪事もしてはいないと言う。そして自分の無罪を示すため、衣服を脱ぎ、裸になり、このようにして自分の無垢を証明する。しかし彼らは点検されている間にその性質は彼らの気付かぬ中に、その只一つの言葉からも、その思考の只一つの観念[考え]からも徹底的に充分に認められるのである。このような者は、他生では、何人であれ、その出会う仲間を何らの良心も無く殺そうと欲する。彼らはまた手に斧と大槌とを持っていて、その者のもとには他の霊がいるように見え、その霊が背を向けると打つが、しかし血を流すようなことはしない、なぜなら彼らは死を恐れているからである。そして彼らは自分の性質の実際的な凶悪さを霊たちと天使たちとの眼前に現すまいとして、力の限り自分の手から是らの武器を棄てようと努めはするものの、それらを離すことは出来ない。彼らは前方の足の下の中間の距離の所にいる。

 

 

 

天界の秘義822

 

 凡ゆる人間を害い、苦しめることに喜びを得るところの、隣人に対する一種の憎悪が在り、彼らは危害を加えることが出来るほど喜んでいる。一般庶民の中で最低の者らからこのような者が非常に多く来ている。また一般人には属していないが、同じ性質を持ち、良い社会に生まれたため、また法の刑罰を恐れているため、外面的には作法が更に良い者も居る。死後これらの霊の身体の上部は裸となって、髪は振り乱れて現れて来る。彼らは前に飛び出し、互に他の肩の上に手の掌を置いて、互に苦しめ合い、次に相手の頭を飛び越え、直ぐ身を引き返して、拳を以って激しい攻撃を加える。作法がさらに良いと言われている者も同じように行動するが、しかし先ず挨拶を交し、それからその隣人の背後に回り、拳を以て攻撃するが、しかし互に顔を見合すと、挨拶をし、再び背後に回って、拳を以て打つのである。このようにして彼らは外見を繕っている。これらの者は左側のやや隔たった、中位の高さの所に現れている。

 

 

 

天界の秘義823

 

 何ごとであれ人間が身体の生命の中で行なったことは他生で継続的に帰ってくるが、その考えた凡てのことも同様に帰ってくる。その敵意、憎悪、詐欺が帰ってくると、彼が憎悪を抱き、秘かに計りごとをめぐらしたその相手の人間が彼の前に現れてくるが、しかもこれは一瞬に行なわれるのである。これが他生の実状である。しかしこうした出現については今後主の神的慈悲の下に述べよう。人間が他の者に対して抱いていた思いは公然と現れる、なぜなら凡ての思考は認識されるからである。ここから嘆かわしい状態が生まれている。なぜならそこでは隠れた憎悪も公然と爆発するからである。悪い者にあってはその者の悪い行為と思いとはこのようにそのあるがままに帰ってくるが、しかし善い者にあっては異なっている。後の者にあっては、その者の友情と愛との善い状態が最高の歓喜と幸福とをもって帰って来るのである。

 

 

 

 

第八章

地獄について。続き。

ここにはその生涯を姦淫と好色とに過ごした者の地獄について述べよう。また欺く者、女妖術者[女魔法使い、妖婦]の地獄についても述べよう。

 

 

 

天界の秘義824

 

右足のくびすの下に、残酷を喜ぶと同時に、姦淫を喜び、その中に自分の生命の最大の歓喜を覚えた者の住む地獄が在る。身体の生命の中で残酷であった者はまた他の者以上に姦通者であることは注意すべきことである。このような者がこの地獄にいる者らであり、ここでは彼らは筆舌に言い現わし難い残酷な方法を取っている。彼らは草をすり潰すに用いられる器や、すりこぎのようなものをその幻想によりすり潰すために作り、それを以て可能であればたれでもすり潰し、苦しめる、彼らはまた死刑執行人の持っているような幅の広い斧のようなものや大錐を持っており、それを以て互に残酷な暴行を加え合っている、他の凄まじい残虐な振る舞いは言わずもがなである。前の時代に異邦人を非常に残酷に扱ったユダヤ人が若干そこに居る。そして現今その地獄は、特に基督教世界と言われているものから来ているが、その生命の歓喜をことごとく姦通〔姦淫〕に見出し、その大半は残酷なものである者らにより増大しつつあるのである。時として彼らの歓喜は人間の排泄物の悪臭に変わり、それはその地獄が開く時極度に発散する。私はそれを霊たちの世界の中で嗅いだが、その時そのため殆ど気を失うほどにもなった。この不快な排泄物の臭は地獄に満ちたり、止んだりして、それが交互に繰り返されている、なぜならそれは彼らの姦通から発する歓喜であり、それがこのような不快なものに変わるからである。時がたって、彼らはこのような物の中で一定の期間を過ぎると、独り棄ておかれ、責め苛まれながら坐り、醜い骸骨のようなものになるが、しかしそれでも生きているのである。

 

 

 

天界の秘義825

 

 足の裏の面に、前面の非常な遠方にゲヘンナと呼ばれている地獄が在り、そこには己が歓喜の凡てを姦通に置き、姦通を許されるのみでなく、名誉あることであるとみなし、尤もらしい色々な口実を設けて、罪の無い者や無垢な者をそうした事にそそのかした恥知らずの女どもがいる。大火のため空にみなぎるような一種の火のような輝きがそこに現れ、それに火のような熱が伴っているが、それは私はその温もりを顔に感じて知ることが出来たのである、またそこからは骨と頭髪とが燃えているような悪臭が発している。時としてこの地獄は恐るべき蛇に変り、これに彼らは噛まれて、死を喘ぎ求めるが、しかし死ぬことは出来ない。ある女どもがそこから放たれて私のもとへ来て、以下のように言った、そこには火のような熱が在るが、しかし自分らが善い霊たちの社会に近づくことを許されると、その熱は甚だしい冷寒に変り、かくて燃える熱と冷寒とが、極端から極端へ、自分たちのもとで交互に起り、そのため悲惨な責苦を受けている、と。しかしそれでも彼らにはその中間の時が在り、その間彼らはその火のような欲念の熱の中にいるのである。しかし、すでに言ったように、その状態は変化するのである。

 

 

 

天界の秘義826

 

 所謂基督教世界から来ている数名の男女がいた。彼らは身体の生命の中では姦通は合理的なものであるのみでなく、聖いものでさえあると信じ、かくて彼らが不敬虔にも名付けた共産結婚を神聖な装いの下に挙行したのである。私は彼らがゲヘンナに送られるのを見たが、しかし彼らがそこに着くと、変化が起り、赤みを帯びたゲヘンナの火のようなものは、彼らが来るとさらに白くなり、彼らは共に一致することが出来ないことが認められた。それでこの呪うべき一味は分離され、背後の地獄へ(他の世界と言われた所へ)追われ、そこで彼らは水の淀んだ池の中に浸され、そこから彼らのために定められた新しいゲヘンナへ送られた。ゲヘンナには描写し難い一種の摩擦音が聞えたが、ゲヘンナの摩擦音は、または唸り声は神聖なものを姦淫により汚辱した者等のそれよりも荒々しかった。

 

 

 

天界の秘義827

 

 結婚愛と子供達に対する愛とを顧慮しているように見せかけて、罠にかけ、または客人は貞潔で邪心が無く、友情があると信じ込ませるように振舞い、このようなまたその他種々の口実を設けて、それだけ安全に姦淫を行う者は尻の下の地獄の中に、最も不潔な排泄物の中に居り、骨のようなものになるまでも剥奪される〔荒れすさんでしまう〕、それは彼らは詐欺漢と同列のものであるからである。彼らは良心とは何であるかを知りさえもしていない。私は彼らと語ったが、彼らはたれでも良心をもって、姦通は良心に反すると言わなくてはならないということに驚いたのである。彼らは以下のように告げられた、すなわち、こうした良心の無い姦通者が天界に入ることは魚が空中にのぼり、または鳥がエーテルの中へ飛び入ることが不可能なように不可能である、なぜなら彼らは近づくのみで窒息するように感じ、その歓喜はむかむかする悪臭に変り、彼らは地獄に投げ込まれないわけにはいかなくなり、遂には生命の殆どない骨のようなものになるからである、なぜなら彼らは真に人間的な生命を失ってしまうと、それが殆ど残らなくなってしまうといった性格の生命を彼ら自身に得ているからである、と。

 

 

 

天界の秘義828

 

凌辱欲に取りつかれ、結婚と子供の目的も無く、処女性とそれを奪うことに最大の歓びを見出し、処女からその花を奪った後は、その生贄を棄て去り、嫌忌し、娼婦にさせてしまう者らは他生で最も甚しい刑罰を受ける、それはこうした生活は自然的な、霊的な、天的な秩序に反しているからであり、またそれは天界で最も聖いものとして考えられている結婚愛に反するのみでなく、無垢にも反しており、この無垢を彼らはもし彼らの生贄とならないならば結婚愛に滲み込む無垢な者を唆して売淫生活へ投げ入れることにより犯し、殺してしまうからである、なぜなら処女たちを貞潔な結婚愛へ入れ、結婚した一対の者たちの心を連結するものは愛の最初の花であるから。そして天界の聖さは結婚愛と無垢とに基礎づけられており、それでこうした人間は内的な殺人者であるため、彼らは荒れ狂う馬の上に坐って、馬から揺すぶられて、投げ上げられ、投げ出され、自分の生命も危険に陥るように彼ら自身に思われるが、こうした恐怖に彼らは襲われるのである。その後彼らは凶暴な馬の腹の下にいるように彼ら自身に思われ、間もなく、馬の後部を通って腹の中へ入るように彼ら自身に思われる、するとその時不意に彼らは汚らわしい娼婦の腹の中にいるように彼らには思われるが、この娼婦は大きな竜に変り、そこに彼らは苛責〔拷問〕に包まれて止まる。この刑罰は数百数千年の間に幾度も帰ってきて、遂にこうした欲望の恐怖が彼らに滲み込むようになる。彼らの子供についてはその子供たちはその父から多少父に似た遺伝を得ているため、他の子供よりも性質が悪く、それ故このような交わりからは子供はめったに生まれはしないのであり、生まれた者でも長くこの世には止まらないと私は告げられたのである。

 

 

天界の秘義829

 

 身体の生命の中でみだらなことを考え、他人の言うことは何であれ、聖い事柄でさえもみだらにとって、しかもそれを生まれつきの好色の何物からも刺激されない成人期、老年期になってさえもやってのける者らは他生でも慎みはしない、またはこの世にいたときと変ったことを考えたり、話したりはしないのであり、そこでは彼らの思いは他に伝えられ、時々他の霊たちの前にみだらな表象となって表れてくるため、他の者を不愉快にさせるのである。彼らの刑罰は以下のようである、彼らはその不愉快にさせた霊たちの面前で投げつけられて平伏し、左から右へローラーのように幾度も迅速にころがされ、それから横へ位置を変えてころがされ、また位置を変えてころがされるが―その好色の性質に応じて、凡ての者の前に裸にされ、または半裸体にされてころがされるが、同時に恥辱感を吹き込まれる。次に彼らは軸の上に置かれているかのように、頭と足とを水平にしてきりきり舞いをさせられる。抵抗と同時に苦痛が起ってくる、なぜなら二つの力が働いて、一つは回転しようとするが、他はその逆の方へ回転しようとし、かくてその刑罰には千々に引き裂かれる苦痛が伴うからである。こうした刑罰を受けた後、その悲惨な受苦者に他の霊たちの視界から身を隠す機会が与えられ、恥辱感が注ぎ込まれる。しかし彼を試み、彼が依然そのようなことに固執しているか否かを見る者たちがいるが、彼は恥辱と困苦の状態に在る限り、自ら警戒している。こうして彼は彼自身には(他から)隠れているように見えるが、彼らには彼がどこにいるかは知られているのである。この刑罰は前方のやや遠方に現れたのである。

 その年齢の狂気と燃える欲望から、妻は、特に若くて美しい妻は一人の夫のために存在すべきでない、彼ら自身とその同輩の者のために存在すべきである、夫は単に家庭の長であり、子供の教育者に過ぎぬといった嫌悪すべき主義を抱いている少年や青年や若者らがいる。これらの者は他生ではその言葉の少年じみた音声により区別されている。彼らは背後のそこのやや高くなった辺りにいる。こうした主義を確認し、またそれに一致した実際の生活でそれを確認した者らは、他生では痛ましい刑罰を受けるのである、即ち、その技術により彼らに身体の中にいるとの幻想を起こさせると同時に、身体的な苦痛を感じさせることの出来る霊たちにより、彼らはその関節を外され、またつけられ、または彼方此方に捻じ曲げられるのである。こうしたことが猛烈に繰り返され、それに彼らが抵抗してもがくため、彼らは肢体が切断されて粉々に引きちぎられるかのように彼ら自身に思われるほどにも、恐ろしい苦痛とともに引き裂かれる、このことが時を置いて再三行われるため、遂にはこのような生活の原理に対しては恐怖に襲われ、そのようなことを考えなくなるのである。

 

 

 

 

天界の秘義830

 

快い顔を見せ、快く話してもみせるが、内には毒を持ったたばかりを潜め、かくして人間を破壊させようとして人間の心を捕え、巧妙な詐欺により人間を欺く者らは、他の者の地獄よりは更に恐ろしい、実に殺人者の地獄よりも恐ろしい地獄に居る。彼らは蛇の間に住まっているように彼ら自身に思われ、その詐欺が悪質であるに比例して、更に恐ろしい、有毒な、また更に多くの蛇が現れ、それが彼らを取り巻いて、彼らを苦しめる。彼らはそれが蛇であるとしか知っていない、彼らは同じような苦痛と責め苦とを感じている。恐らくこのことを信じる者は僅かであろうが、それは真である。これらは詐欺を前もって充分思い巡らしてそれを実行し、そこに己が生命の歓喜を感じている者である。欺く者の刑罰は、各々その欺きの性質に応じ、多様である。全般的に、こうした人物は社会に容認されないで、放逐される、なぜなら霊の考えることは何であれ、近くにいる者は直ぐにそれを知り、認め、かくて彼らは何かたばかりがあるか、それはいかような種類のたばかりであるかを認めるからである。それで彼らは遂には社会から放逐されて、独り

他から離れて坐るが、その時幅の広い顔をつけて現れ―その広さは他の人の顔の四、五倍に匹敵している―また白くなった肉質の帽子をつけて現れ、死の象徴[映像]として、苦しみ悶えながら坐っている。他を欺く性質を生まれつき持っていて、それで前の者程前もって思いめぐらして欺くようなことはなく、容貌を偽って秘かに欺くことをしない者も居る。彼らも直ぐに知られ、その思いは明白に認められる。彼らは鋭い人間であると思われたいかのように、それを自慢さえもする。これらの者はこのような地獄を持っていない。しかし主の神的慈悲の下に後に欺く者らについて更に多くのことを述べよう。

 

 

 

24.地獄の苛責

 

 

真の基督教570

 

 悪魔共は答えた。「凡ゆる者は、たとえ善人、或は悪人と呼ばれるにしても、その者独自の歓喜を持っている。すると天使たちは尋ねた「君達は何を歓ばれますか。」 彼らはそれは姦通、復讐、詐欺、涜神の歓びであると語った。更に彼らは尋ねられた「然しこれらの歓びの性質は如何なるものですか。」 彼らは自らが他の者から排泄物、腐敗した屍体、腐りかかった尿から発する臭気として認められると語った。彼らは問われた、「で、これらは君達には歓ばしいのですか。」 彼らは語った、「さよう極めて歓ばしい」。 「では」と天使たちは語った、「君達はそのような物の中にころげまわっている不潔な獣のようなものです。」彼らは答えた、「そうかもしれない、とにかくこれらの物は我々の鼻しは気持ちが良い。」 次に天使たちは尋ねた、「他に何か。」彼らは答えた、「各人は若し善良な霊と天使とを悩まさない限り、己が歓びを、実に彼らの所謂、最も不潔な歓びをすら楽しむことを許されている、然し我々はこの歓びに強いられて彼らを悩ます故、労役所に閉じ込められて、苦しい思いをするのである。この楽しさを失うことが地獄の苛責と呼ばれる内的苦痛を生むのである」。天使たちは更に尋ねた、「何故君達は善良な者を苦しめるのですか」。 「それを抑えることが出来ないからである」と彼らは答えた、「我々は天使を眺め、その周りに主の神的スフィアを認めると、憤怒に駆られるのである」。 この言葉に我々は語った、「それでは君達は野獣のようなものです。」 彼らはその新米の霊が天使たちとともに居るのを眺めると、憤怒の発作が憎悪の火のように彼らを襲った。それ故、彼に危害を加えないように、再び彼らは地獄に投ぜられた。

 

 

25.こうした霊どもから地獄は現在無限に増大し、しかも驚嘆すべきことは、特に教会内にいる者らから増大している

 

天界の秘義6666〔3〕

 

 こうした霊どもから地獄は現在無限に増大し、しかも驚嘆すべきことは、特に教会内にいる者らから増大しているが、それは狡猾、詐欺、憎悪、復讐、姦淫のためであり、そうした悪は教会内では他の所よりもはびこっているのである、なぜなら教会内では狡猾は今や利口なこととして、姦淫は尊いこととして考えられ、それに異議を差し挟む者は嘲笑されてしまうからである。現今教会内でそのようなことが行われていることはその最後の時が切迫しているというしるしとなっている、なぜならマタイ伝24・22の主の御言葉に従って、『終わりが無いなら、たれ一人救われない』からである、なぜなら悪はことごとく丁度酒のおりが塊まりに染み込み、かくて遂に凡てのものに染み込むように、伝染し、染み込むからである。

 

 

天界の秘義824

 

ここにはその生涯を姦淫と好色とに過ごした者の地獄について述べよう。また欺く者、女妖術者[女魔法使い、妖婦]の地獄についても述べよう。

 

右足のくびすの下に、残酷を喜ぶと同時に、姦淫を喜び、その中に自分の生命の最大の歓喜を覚えた者の住む地獄が在る。身体の生命の中で残酷であった者はまた他の者以上に姦通者であることは注意すべきことである。このような者がこの地獄にいる者らであり、ここでは彼らは筆舌に言い現わし難い残酷な方法を取っている。彼らは草をすり潰すに用いられる器や、すりこぎのようなものをその幻想によりすり潰すために作り、それを以て可能であればたれでもすり潰し、苦しめる、彼らはまた死刑執行人の持っているような幅の広い斧のようなものや大錐を持っており、それを以て互に残酷な暴行を加え合っている、他の凄まじい残虐な振る舞いは言わずもがなである。前の時代に異邦人を非常に残酷に扱ったユダヤ人が若干そこに居る。そして現今その地獄は、特に基督教世界と言われているものから来ているが、その生命の歓喜をことごとく姦通〔姦淫〕に見出し、その大半は残酷なものである者らにより増大しつつあるのである。時として彼らの歓喜は人間の排泄物の悪臭に変わり、それはその地獄が開く時極度に発散する。私はそれを霊たちの世界の中で嗅いだが、その時そのため殆ど気を失うほどにもなった。この不快な排泄物の臭は地獄に満ちたり、止んだりして、それが交互に繰り返されている、なぜならそれは彼らの姦通から発する歓喜であり、それがこのような不快なものに変わるからである。時がたって、彼らはこのような物の中で一定の期間を過ぎると、独り棄ておかれ、責め苛まれながら坐り、醜い骸骨のようなものになるが、しかしそれでも生きているのである。

 

 

真の基督教673

 

実に地獄の多くの悪魔はこの世では洗礼を受けたのである。

 

 

 

26.人間は生来小規模の地獄

 

 

真の基督教329

 

人間は凡ゆる種類の悪に向かって生まれ、従って生来地獄的な凡てのものに傾いている。彼は再び生まれない限り、あるいは再生しない限り、天界に入ることは出来ない、それ故彼は天界の善を欲することが出来る以前に、地獄のもろもろの悪は除かなければならない、なぜなら何人も悪魔から分離されない中は、主に受け入れられることは出来ないからである。如何にして悪が除かれ、人間は善を為すように導かれるかは、悔改めと改良に関わる章に示されるであろう。人間の為す善が神の眼前における善となる以前に、悪は除かれねばならぬことは、主によってイザヤ書に以下のように教えられている、「なんじら己を洗い、己を潔くし、わが目の前よりその悪業をさり、悪を行うことを止め、善は行うことをならえ、さらばなんじらの罪は緋のごとくなるも、雪の如く白くなり、紅のごとく赤くとも、羊の毛の如くならん」(1・16−18)。

 

 

 

真の基督教612

 

 人間は生来凡ゆる種類の悪と欲念とに傾いており、可能な時は、これに惑溺する。何故なら、生来彼は他の者を支配し、その財産を所有することを貪り求めるからである。この二つの欲念は隣人への愛を破壊し、そのため彼は己れに反抗する者を見て憎悪し、これに復讐することを、例えそれが殺人を意味するにしても切望する。同じ理由から、彼は姦淫、詐欺、或は秘かな窃盗、涜神、或は偽証を軽んずる。何人でもこれを軽んずる者はその心においては無神論者である。かくの如きが生来の人間であり、それ故、人間は生来小規模の地獄である。さて人間は動物とは異なり、その内なる心の方面では、霊的に生まれ、天界に対して生まれている。しかし彼の自然的な即ち外なる人は、今述べたように、小規模の地獄であり、天界がその場所を占める以前に、地獄が除去されねばならないことが推論される。

 

 

 

真の基督教613

 

如何にして天界と地獄とは互いに相反し、分離しているかを知る者は凡て如何にして人間は再生するかを、また人間の性質は再生した時如何なるものであるかを知ることが出来よう。天界の凡ての者は主を見上げ、地獄の凡ての者は主から目を反らす故、何人かが天界から地獄を見る時、悪魔の背以外の何ものをも見ず、彼らは足で歩き、凡ゆる方向を眺めているけれども、時としてはその頭を下にして立っているように見えるのである。私が自分で眺めたこの異常な現象を生むものは、彼らの内なる心の反対の指向である。

 私がかくして再生は天界から地獄を除去し、分離することに相応していることを悟ったのである。何故なら、今述べたように人間は生来小規模の地獄であり、第二の誕生によって小規模の天界となるからである。かくして、諸々の悪は、地獄が天界から分離されるように、人間から分離され、除去され、次に、天界が彼の心に植えつけられ、彼が新しい人間となるにつれ、諸々の悪は主から目をそらし、徐々に覆される。人間の内なる悪は各々地獄の霊たちの類似の悪と交わり、同様に人間の善は各々天使たちの類似の善と交わっていることを注意せられよ。。

 

 

 

 

27.著名な学者たちのいる地獄

 

 

真の基督教274

 

著名な学者たちのいる地獄

 

 

 

 

28.人間が地獄へ行くことを主が望まれるのではない

 

 

天界の秘義7877[5]

 

許すことにおける実情のいかようなものであるかは僅かな言葉では述べることは出来ない、それには非常に多くのアルカナが含まれているからである。邪悪な者が地獄に落ちて、苦しめられることは主がそれを望む者のように許されるのではなくて、望まれはしないが、全人類の救いという目的から押し出されて、止むに止まれず、救済策をもたらすことが出来ない者のように許されるのである。もし主が仮にも救済策をもたらされるとするなら、それは神的なものに反して悪を為すことになるのである。しかしこの主題については主の神的慈悲の下に他の所でさらに多くのことを述べることにしよう。

 

 

 

 

29. 更におだやかな地獄へたわめられる(先見)

 

 

天界の秘義3854[2]

 

全般的に先見と摂理[供えられること]については、先見は人間に関連しており、摂理は主に関連している。主は、人類はいかようなものになるかを、その各々の者の性質はいかようなものになるかを、悪は絶えず増大して、ついに人間は人間自身では地獄に真逆様に突入することを永遠から先見されたのである。(中略)

 

それで主はもし人間が自らが自由の中に天界へ導かれることに甘んじなくても、それでもさらにおだやかな地獄へたわめられるようにと配慮されるが、しかしもし人間が自らが自由の中に善を導かれることに甘んじるなら、天界へ導かれるようにと配慮されるからである。(中略)

 

人間をそのような性質へ向って支配し、たわめられ、しかもそれは人間の自由を絶えず調節することによって行われているということが明白である。

 

 

 

 

30.天界全体が一人の人間を表象しているように、地獄全体もその総合体においては一人の悪魔を表象している

 

 

天界と地獄553

 

地獄そのものの形は全般的にはいかようなものであるかは私は見ることはできず、ただ以下のように言われたのである、天界全体はその総合体では一人の人間を表象しているように、地獄全体もその総合体においては一人の悪魔を表象しており、同じくまた一人の悪魔の映像をもって表象することができよう、と。

 

 

 

31.人間が地獄を造り出した

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P56

 

 天使は答えた。

「神は確かに愛である。神は、人間が神との幸せな交わりの中で永遠に生きられるよう、人間をお造りになった。だが、人間が自分自身の頑固さと自由意志の誤用によって神から顔を背け、自ら地獄を造り出したのだ。神は誰一人地獄に落としてはいないし、これからも落とされたりはしない。だが、人間自らが罪に取り込まれ、自ら地獄を造るのだ。神は、どのような地獄も決して造られてはいない」

 

 

 

神の愛と知恵339

 

 地獄には悪い用である凡ての物が見られることができる(それらを列挙してある直ぐ前の338を参照されよ)。これらはへび、さそり、おろち、わに、とら、おおかみ、きつね、ぶた、色々なふくろ、こうもり、ねずみ、はつかねずみ、かえる、いなご、くも、多くの種類の昆虫のような凡ゆる種類の野生の動物であり、また毒にんじんとアコニットであり、植物と土の凡ゆる種類の毒であり、人間に有害な、致命的な凡ての物である。このような物は地上と地中のそのような物と寸分たがわず地獄に現われている。それらはそこに現われると言われるが、しかし地上のようにそこに在るのではない、なぜならそれらは彼らの悪い愛から群がり出てくる諸々の欲念の単なる相応であって、他の者の前にそれ自らをこうした形を以て現わしているからである。地獄にはこのような物が在るため、地獄は死体、糞、尿、腐敗物の悪臭に満ち、これをそこの悪魔的な霊は、動物が悪臭を歓ぶように、歓んでいる。このことから、自然界のその類似の物はその起原を主から得ておらず、始めから創造されたのでもなく、また自然からその太陽を通して発してもおらず、[全く]地獄から発していることを認めることができよう。それらは自然からその太陽を通して発しないことは明らかである、何故なら霊的なものが自然的なものに流れ入るのであって、その反対は行われないからである。そして地獄は主から発しておらず、それ故地獄に住む者の諸々の悪に相応した地獄の物は一つとして主から発していないため、それらは主から発していないことは明らかである。

 

 

32.神の否定と、基督世界では、主の神性の否定とが、地獄を構成している

 

 

神の愛と知恵13

 

 神について正しい考えを持つことはいかに重要なことであるかは、神についての考えは宗教を持つ凡ての者の思考の最も深いものを構成するという真理により知ることが出来る、なぜなら宗教の凡ての物と礼拝の凡ての物とは神を目指しているから。そして神は宗教と礼拝との凡ての物の中に、全般的にもまた個別的にも存在されるゆえ、神について正当な考えを持たなくては天界と連なる(コミュニケイト)ことは出来ない。ここから霊界では各国人は神を人間として考えるに応じてその位置を定められるということが神いる、なぜならその考えの中にのみ主についての考えが在るからである。死後の人間の生命の状態はその確認した神の考えに順応することは、これと反対のことが、即ち、神の否定と、基督世界では、主の神性の否定とが、地獄を構成しているということから明らかである。

 

 

 

 

33.天界と地獄も人間の中に在る

 

 

天界の秘義6948

 

天界と地獄とについての妄想は、天界と地獄も人間の中に在るのに、天界は人間の上に、地獄は人間の下に在るという考えである。

 

 

 

天界の秘義7366

 

 自己への愛と世への愛とは人間のもとに地獄を作ることは前に述べた、で、今、人間が自分はそうした愛の中にいるか、否かを知るために、従って地獄か、または天界か、その何れが自分の中に在るかを知るために、―なぜなら人間自身の中に天界か、または地獄か、その何れかが在るからである―これらの愛の性質を話さなくてはならない。神の国は人間の中に在ることは主はルカ伝17・21に教えられている、従って地獄もまた人間の中に在るのである。

 

 

 

天界の秘義8918[4]

 

 世の人間のすべては空間の観念から(物を)考えるが、そのように空間の観念から考える者は地獄は人間からはるかに離れており、天界もまたそのように離れているとしか考えていない。しかし実情はそうではない。地獄と天界は人間の近くに在り、実に、人間の中に在り、地獄は悪い人間の中に、天界は善い人間の中に存在しているのである。さらに凡ゆる者は世にいる間にすでにその中にいたところのその地獄の中へ、またはその天界の中へ入って行くのである。しかし状態はそのとき変化するのである、すなわち、世では見えなかった地獄が見えるものとなり、世では見えなかった天界が見えるものとなり、凡ゆる幸福に満ちた天界が、凡ゆる不幸に満ちた地獄が見えるものとなるのである。天界はわたしたちの中に在ることを主はルカ伝で教えられている―

 

 神の国はあなたたちの中に在る(17・21)。

 

 

 

神の愛と知恵343

 

 前述の地獄は地中のこのような物と連絡しているのみでなく、連結していることは以下のことから結論することができよう、すなわち、地獄は人間から隔たっていないで、人間の周囲に在り、実に悪い者の中に在って、引いては地に隣接している