悪魔
悪い者/
1.聖書
2.ほこり(埃)
3.神の恐怖
4.欺く者
5.魔鬼を追い出す
6.悪霊が責め苛む
7.悪魔は黒い
8.悪魔的形・怪物
9.悪魔は悔改めにより放逐される
10.天界と地獄とは人類から発する
11.地獄ではたれ一人主を承認はしない
12.あなたがたに最も近い人々や、最も愛されている人々の間にいて、あなたがたと戦う
13.自己愛が悪魔と呼ばれる
14.彼は地獄に入ると、善とは何であるかを知らなくなる
15.試練においては彼らは天使たちを、実に、主御自身をさえも偽装するのみでなく
16.彼らは絶えず主を殺そうとする考えを抱いている、天に対する怒りと憎悪
17.地獄の人間は主の御名を口にすることが出来ない
18.悪魔は決して眠らない
19.悪を自分自身のものとし、自分と共にいる悪霊どものようなものになる
20.ドラキュラに噛まれるとドラキュラになる
21.世では天使のように見えた多くの者は悪魔
22.天界全体が一人の人間を表象しているように、地獄全体もその総合体においては一人の悪魔を表象している
23.善と真理の中にいる者たちを征服しようとする彼らの努力と意図とは表現を絶したもの、世では殆どたれ一人それを信じることも出来ないといった性質を持った凄まじいもの、その術策たるや実に狡猾と技巧と呪詛とに満ち満ちたもの
24.悪霊は攻撃し、天使は防御する
25.悪い者は悪い者にのみその者の悪を通して悪を為すことが出来る
26.悪魔の努力・・・・悪いことを行い、誤ったことを説きつけようとする努力
27.彼らは自分自身を拝し、その思いは迷妄。悪念を確認する者は悪鬼と呼ばれ、悪念に生きる者は悪魔と呼ばれている
28.無神論者
29.人間は人間自身では悪魔
1.聖書
マタイ4・1
さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。
すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」イエスはお答えになった。
「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』
と書いてある。」
マタイ4・5−7
次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、言った。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、
あなたの足が石に打ち当たることのないように、
天使たちは手であなたを支える』
と書いてある。」イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。
マタイ4・8−11
更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。すると、イエスは言われた。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、
ただ主に仕えよ』
と書いてある。」
そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。
ルカ8・12
道端のものとは、御言葉を聞くが、信じて救われることのないように、後から悪魔が来て、その心から御言葉を奪い去る人たちである。
ヨハネ6・70−71
すると、イエスは言われた。「あなたがた十二人は、わたしが選んだのではないか。ところが、その中の一人は悪魔だ。」イスカリオテのシモンの子ユダのことを言われたのである。このユダは、十二人の一人でありながら、イエスを裏切ろうとしていた。
ヨハネ8・39−43
彼らが答えて、「わたしたちの父はアブラハムです」と言うと、イエスは言われた。「アブラハムの子なら、アブラハムと同じ業をするはずだ。ところが、今あなたたちは、神から聞いた真理をあなたたちに語っているこのわたしを、殺そうとしている。アブラハムはそんなことはしなかった。あなたたちは、自分の父と同じ業をしている。」そこで彼らが、「わたしたちは姦淫によって生まれたのではありません。わたしたちにはただひとりの父がいます。それは神です」と言うと、イエスは言われた。「神があなたたちの父であれば、あなたたちはわたしを愛するはずである。なぜなら、わたしは神のもとから来て、ここにいるからだ。わたしは自分勝手に来たのではなく、神がわたしをお遣わしになったのである。わたしの言っていることが、なぜ分からないのか。それは、わたしの言葉を聞くことができないからだ。
ヨハネ8・44−47
あなたたちは、悪魔である父から出た者であって、その父の欲望を満たしたいと思っている。悪魔は最初から人殺しであって、真理をよりどころとしていない。彼の内には真理がないからだ。悪魔が偽りを言うときは、その本性から言っている。自分が偽り者であり、その父だからである。しかし、わたしが真理を語るから、あなたたちはわたしを信じない。あなたたちのうち、いったいだれが、わたしに罪があると責めることができるのか。わたしは真理を語っているのに、なぜわたしを信じないのか。神に属する者は神の言葉を聞く。あなたたちが聞かないのは神に属していないからである。
ヨハネ13・2
夕食のときであった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。
2.埃(ほこり)
天界の秘義9327
真理には凡ゆる力があるため、悪から発した誤謬は、それは善から発した真理が剥奪され、かくて力が剥奪されたものであるため、何らの力もないことが生まれている。
従って地獄にいる者らは―そこの凡ての者は悪から発した誤謬の中にいるが―何らの力も持ってはいないのである。それでかれらの数千の者も、丁度空気中のほこりのかけらが息で追い払われるようにも、天界のただ一人の天使によってすら追いやられ、投げこまれ、散らされもするのである。この凡てから誤謬の悪にいる者らが善の真理のために恐怖を感じる理由を認めることができよう。この恐怖は「神の恐怖(神を恐れる恐怖)」と呼ばれる。
3.神の恐怖
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/7巻P101
私のメッセージを持って前進するようにと 私は我が力を身につけさせ こうしてあなたは進んでいった、それゆえこれからもあなたの前からは 反対者を退けていこう。誰かに害されたか?ああ!知らないだろうが、私の光を見ただけで どれほど多くの悪魔が退散したか・・・
霊界日記4732
善良な霊たちは未だ天使とはなっていないような者である、なぜなら彼らは悪霊らとしばしば接触しないわけにはいかず、悪霊らは絶えず悪を生み出そうと企てているからである。こうした悪霊らの数は非常に大きく、彼らが生み出す悪は、種属と種類の点では無数である。善良で、内的には天使である者たちは彼らに胸版を与えているが、それは、いわば、金で作られた、大きな形の心臓である。悪い者、または強盗が彼らに会い、彼らがその衣服をかたえに引き寄せて、その金の心臓を見せると、その強盗らは敢えていかようなことも為そうとはしない。主を告白している者たちは、金の胸板を与えられているが、しかしそれ以前に、未だ彼らが三人格を承認している間は、その胸板は銀で出来ているのである。
霊界日記4733
彼らはまたつかが銀である剣を一振り、ベルトと共に与えられている。彼らがその剣を携えている時は、悪霊らはいかようなことも為そうとはしない。金の心臓とつかが銀である剣は内的な天使的な交わりを表象しているのである。
4.欺く者
天界の秘義5388
ある一人の霊がわたしとともにいて、わたしと語った。かれは身体の生命の中では何ら信仰を持たず、死後の生命を全く信じていなかった。かれもまた抜目のない者の一人であった。かれは他の者の心を甘言と同意を与えて捕らえることができた。そのためその性質は最初はその話しぶりからは明らかではなかった。かれは立て板に水を流すようにまた善良な霊のようにのべつまくなく話すことができた。
しかしかれの性質はかれが信仰と仁慈の事柄については話したがらなかったことから先ず明らかになった。なぜならそのときはかれの考えはそれについて行くことができないで、後ずさりしたからである。後になって、かれは他を欺こうという目的から同調していたことが幾多の徴候から認められた。
なぜなら同調は目的に応じているからであり、もしその目的が友情であり、または会話の楽しさというようなものであり、または正当な利得であるなら、その中にはそれほどの害はないが、しかしその目的が秘密を探り出して、そのことによって他の者を悪い仕事にしばりつけることであるなら―全般的に言って、もしその目的が危害を加えることであるなら―それは悪である。
そうしたものがこの霊が企んでいた目的であり、かれはまた腎臓と尿管の領域にいる者たちと対立していた。かれもまた、自分は尿のにおいを他の凡ゆるにおいにもまさって愛していると言い、腹部の下の辺りをしめつけたり、またはけいれんさせたりして苦痛を与えたのである。
5.魔鬼を追い出す
黙示録講解706
『かれらは主の名において魔鬼を追い出すにちがいない』(マルコ16・17)ことは以下のことからその結果を得たのである。すなわち、霊的に理解された主の名は主から聖言を経て発する教義の凡ゆるものを意味しており、『魔鬼』はあらゆる種類の誤謬を意味し、かくてこれらのものは主から聖言を通して発する教義により追い出され、すなわち、取り去られるのであり、(中略)
6.悪霊が責め苛む
天界の秘義695
しかし地獄の上に主により課せられた形と秩序とは凡ての者がその者の欲念と幻想とによりくくりつけられ、縛り付けられているといったものであって、彼らの生命そのものはその欲念と幻想から成っているが、この生命は死の生命であるため、恐るべき、表現を絶した苛責〔拷問〕に変化している、なぜなら彼らの生命の最大の歓喜は互に他を罰し、苦しめ、悩ますことが出来ることに在って、これは世には知られていない術によって行われ、これにより彼らは恰も彼らが身体の内にいるかのように、烈しい苦悩を引き起こすと同時に、恐怖、戦慄、またそういった多くの拷問と共に恐るべき慄然とする幻想を引き起こす方法を知っているのである。悪魔の一味はこのことに非常な快楽を感じているため、若し無限に苦痛と拷問とを増大し、拡大出来るとしても、その時でさえも満足しないで、更に再び無限に燃え上がるが、しかし主は彼らの努力を除かれ、拷問を和らげられるのである。
天界の秘義1820
[2]僅かな者しか試練における実情を知っていないため、それをここにかんたんに説明しよう。悪霊らはその人間が愛しているもの以外のものに対しては決して戦いはしない、かれがそれを熱烈に愛すれば愛するほど彼らは益々猛烈に闘争するのである。善のいくたの情愛にかかわるものに対して戦う者は悪い魔鬼であり、真理のいくたの情愛にかかわるものに対して戦う者は悪霊である。かれらは人間が愛している最小のものでさえも認めるとすぐに、またはその者に歓ばしいまたいとしいものを匂りによりいわば認めるとすぐに、たちまちそれをおそって、それを破壊しようと努力し、そのことによってその人間全体を破壊しようと努力する、なぜなら人間の生命は愛から成立しているからである。かれらにとっては人間をこのようにして破滅させるにまさって歓ばしいものはないのであり、またかれらは主によって放逐されない限り、未来永劫までも、そのことを止めようともしないのである。邪悪で狡猾な者らは人間の愛そのものの中にその愛にこびることによって徐々にかれら自身を入りこませ、かくしてその人間をかれら自身の間に引き入れ、そして間もなくかれを引き入れてしまうと、その者の愛を破壊し、そのことによってその人間を殺してしまおうと試みるが、しかもそれは理解もできない無数の方法により行われるのである。
[4]かれらは何ものにもまさって良心を破壊することに最大の歓喜を感じているからである。
[5]この僅かな所説からでも―それは極めて少数ではあるが―試練のいかようなものであるかを、それは、全般的には、愛のあるがままに、それに順応しているものであることを認めることができよう、またこのことからわたしたちは主の試練の性質のいかようなものであったかを、すなわち、それはあらゆるものの中でも最も恐るべきものであったことを認めることができよう、なぜなら愛の偉大さに試練の恐るべき性格が応じているからである。主の愛は全人類の救いであり、しかも極めて熱烈なものであった、したがってそれは最高度における善の情愛と真理の情愛との全総計であったのである。これらのものに反抗して、最も邪悪な術策と毒気とをもって、全地獄が争闘をいどんだのであるが、しかしそれでも主はかれらすべてを御自身の力により征服されたのである。勝利には、邪悪な魔鬼らと霊らとはその後いかような事もあえて為そうとはしないという結果が伴っているのである、なぜならかれらの生命はかれらが破壊することができることから成っており、かれらは人間が抵抗することができる性格をもっていることを認めると、そのときは最初の攻撃のみで逃げ去ってしまうからであるが、そのようにかれらは天界の最初の入口へ近づくときも逃げ去ることを常としているのである、なぜならかれらは(そこに近づくのみで)直ぐに戦慄と恐怖とに襲われ、自分自身を後に投げつけるからである。
天界の秘義696
主はたれをも地獄に送られないで、凡ての者を地獄から導き出そうとされており、まして拷問に入れようとはされない。しかし悪い霊が自らその拷問に向って突入するため、主は刑罰と拷問とを善と何らかの用へ変えられている。如何ような刑罰も主が何らかの用の目的を意図されない限り、決して在り得ないのである、なぜなら主の王国は目的と用の王国であるからである。奈落の者らが果すことのできる用は最低の用であり、かれらがそのことに携っている時は、余り拷問を受けないが、その用が終わると地獄に送り返されるのである。
天界の秘義5376[5]
荒廃にかかわる実情のいかようなものであるかは他生で荒廃の状態の中にいる者たちから明らかである。そこで荒廃(の状態)にいる者たちは悪霊と魔鬼とにより責めさいなまれるのである、なぜなら悪霊と魔鬼とは悪と誤謬との信念を注ぎ入れるため、ついにはかれらはほとんど圧倒されんばかりになり、その結果、真理は現れなくなるからである、しかし荒廃の時が終わりに近づくにつれて、かれらは天界からさしてくる光により明るくされ、かくして悪霊と魔鬼は、各々その者自身の地獄へと追い払われ、そこで刑罰を受けるのである。
天界の秘義7392[3]
世で隣人のために隣人に益を与えないし、己が国のために、己が国にも益を与えないし、また教会のために教会にも益を与えないし、(たんに)自分自身のためにのみ益を与える者は、かくて真理と善とのために真理と善とを行わない者は凡て他生では害を加えることに歓びを感じるのである。かれらが害を加えることに歓びを感じることは世では明らかではない、なぜなら外なる人がそれを隠しているからである、しかし他生で外なるものが取り去られつつあり、またその人間が内的なものに委ねられると、そのときはこの歓喜が現れて来て、明らかになるのである。かれらが地獄にいるのはそのことから起こっている、なぜならそこにいる者はすべて危害を加えることを愛するに反し、天界にいる者はすべて益を与えることを愛するからである。
天界の秘義59
人間が霊的なものにされつつある再生の経過では、かれは絶えず争闘にたずさわっていて、そのため主の教会は『戦闘的』教会と呼ばれている。なぜなら再生以前は人間全体は全く諸々の欲念とそこから発している諸々の誤謬とから成っているため、その諸々の欲念に支配されているからである。再生の間にこれらの欲念と誤謬とは瞬時に廃棄されることは出来ない。なぜならそれらはかれが獲得した唯一の生命であるため、そのようなことは、その人間全体を破壊してしまうからである。それで悪霊等は長い間かれの許に止まっていることを許されているが、それは彼らがかれの諸々の欲念を刺激して、その諸々の欲念が、主により善に向けられ、かくてその人間が改良される程になる迄も、無数の方法をもってゆるめられるためである。
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/1巻P254
悪魔はあなたを憎み ためらわずに焼き殺そうとするであろうが、手を掛けることはない、私は それを許さない ♡
この間私たちを港にちょうど引いていったボートの排気管に触った時のことを思い出します。卵焼きが作れるほど熱いあのパイプに、左手で、体重を全部かけてしまったのです。私は痛くて気絶しそうでした。左の掌はすっかり火傷を負い、痛さから逃げるために手を海に突っ込みたいと一瞬思いましたが、焼けた皮膚を冷水につけては傷がひどくなるのではと咄嗟に思い出し、思いとどまりました。手は10分間は熱をだし、赤く腫れ上がっていました。しかし、30分たつと、痛みも、火傷も一切が消えてしまいました。もう片方の手とまったく同じ感覚になり、すっかりもと通りになったのです。
♡ 子よ、あなたが傷を負うのを見たくはなかった、愛している そしてあなたにたいする私の清めは愛をもって選ぶ。決してあなたに染みが出来ることを許さない。 言おうとしていることを理解するように(*)♡
* 神さまはご自分で私の苦しみをお選びになることでしょう。
主よ、あなたからのものでしたなら、何でも愛しましょう。喜びであろうと苦しみであろうと。
愛する者よ そうです、私のために 心の中に天国を造ってほしい ♡ あなたからこの言葉を聞くのはどんなに私を悦ばせるか 子よ!
* どんな苦しみであっても、悪魔からのものは実現しないということです。しかし、神から来るどんな苦しみも実現され、したがって、霊魂の清めとなるでしょう。
そうです、そして私を喜ばせると思って自分の意思で選んだどのような苦しみも、私の目にはおぞましいものです、あなたは自分を欺いているに過ぎない。 それは悪魔を喜ばせ、私を喜ばせることにはならない。贖いは私が指示する ♡♡♡
あなたを大切に思い、深くより頼みます。
♡ 私を大切に思うなら、我が誉れとなろう ♡ そうです ♡
(悪魔の声が聞こえました。「こんな瞬間は、俺にとっては拷問だ!」)
悪魔は、神の私にたいする愛、そして私の神にたいする愛を私の心が喜んでいることに耐えられないのです。お互いが愛し合っていることに。
それは悪魔の体中を真っ赤な十字架で封印するようなものです。
7.悪魔は黒い
天界の秘義814
彼らは彼ら自身を、顔は醜くはないが、短剣を隠し持ち、手にコップを持っている小さな子供の姿の下に現して、その小児を私のもとへ遣わしたのである。そのことから私は彼らは無垢の仮面の下に、短剣か、または毒で殺そうとしている心を持っていることを知ることが出来たのである。それでも彼ら自身は身体は裸であり、非常に黒かった。
天界の秘義817
その告白の後で、刑罰が続いて起った。彼はその掘った暗い穴の中を二度転げ回され、顔も身体もエジプトの木乃伊(ミイラ)のように黒くなり、そうした有様で高い所へ引き上げられ、霊たちと天使たちの前に連れ回された。何という悪魔! との叫び声が聞えた。彼はまた冷たくなってしまい、かくて冷たい奈落の輩の一人となり、地獄に送られた。
天界の秘義952
しかし先ず鈍い青色に、次に黒色に変わり、そして他の者を支配しようと望んで、彼らを自分自身に比較して軽蔑したため、他の者よりも黒くなったのである。
天界の秘義5377
人間はとくに天界と相応し、また天界を通して主と相応しているため、人間は他生では天界の光の中ではその相応の性質にしたがって現れている。そこから天使たちは表現を絶した輝きと美しさをもって現れているが、奈落の者らは言うに言われぬ黒さと奇形とをもって現れているのである。
最後の審判とバビロンの滅亡58
これらの教義は後で傍聴者たちの前に読まれた。すると天界から声が聞こえて、それらは、聞く者には分からないが、最も深い地獄から口授されたものであると宣べた。これはさらに以下により確証された。すなわち、真っ黒い、最も恐ろしい顔付きをした一群の悪魔がその地獄から登って来て、その教義を、手ではなく、歯で彼らから引ったくり、これをその地獄へ持ち帰ったのである。それを見た人々は肝をつぶした。
天界と地獄481
形体的な愛である者らは粗野で、すすけて、黒く、不具になって現れるが、天界的な愛である者たちは、瑞々しく、明るく、端正で、美しく現れる。彼らはまたその思考、感情の点で全く異なっており、天界的な愛である者たちはまた理知的で、賢明であるが、形体的な愛である者らは愚鈍で、いわば頓馬である。
天界と地獄553
全般的に彼らの顔は恐ろしく、死人の顔のように生気がない、ある者の顔は黒く、ある者の顔は小さな松火のように燃えており、ある者の顔はにきび、いぼ、ただれで、醜く、ある者には顔は見えないで、それに代わって、髪または骨のようなものが現れ、ある者のもとでは歯のみが見える。彼らの身体もまた怪物のようであり、言葉は怒り、または憎しみ、または復しゅうの言葉の様である、なぜなら各々の者はその誤謬から語り、その語調はその悪から発しており、約言すれば、彼らはすべてその者自身の地獄の映像となっているから。地獄そのものの形は全般的にはいかようなものであるかは私は見ることは出来ず、ただ以下のようにのみ言われたのである、天界全体はその総合体では一人の人間を表象しているように、地獄全体もその総合体においては一人の悪魔を表象しており、同じくまた一人の悪魔の映像をもって表象することができよう、と(前の544番参照)。
アグレダのマリア/神の都市/P314
聖母が地上よりはるかに高い空に来られた時、全能の主はルシファーと部下全員を女王の前に召喚しました。全員がそろうやいなや聖母はご覧になり、ありのままに彼らを知り、どんな状態にいるのかもわかりました。悪霊たちは嫌悪すべき姿をさらけ出したので、見るに耐えませんでした。
8.悪魔的な形・怪物
天界の秘義2363[3]
自己への愛と世への愛のこの生命の性質について(またはそれと同一のものであるところの、誇り、貪欲、羨望、憎悪、無慈悲、姦通の生命の性質について)明らかな考えを得るために、たれでも才能のある人はその人自身でこれらの悪の中の何れか一つを人格化されてみられよ、または、もし出来ることなら、その人が経験と知識と理性からその悪について思いつくことが出来る考えに応じて、その目の前にそれを絵に描いてもみられよ、そのときその人はその人が描写しまた画いたものの力強さに応じて、これらの悪はいかに恐るべきものであるかを、またそれらは内に何ら人間的なものを持っていない悪魔的な形のものであることを認められるであろう。こうした悪に己が生命の歓喜を認める者はすべて死後このような形に実際なるのであり、その者らのその悪における歓びが大きければ大きいほど、益々その者ら自身の形は恐るべきものとなるのである。
天界の秘義2363[4]
他方その同じ人にその人自身で愛と仁慈とを人格化させて、それを記述させてみられよ、またはそれをその人の目の前に何らかの形の下に表現させてみられよ、そのときはその記述し、描写する力に応じて、その人はその形が天使的なものであり、祝福と美で満ちており、またその内部が天界的な神的なもので浸透していることを認めるであろう。この二つの形がともに住むことができるとたれが信じることが出来ようか、またはその悪魔的な形が脱ぎ棄てられて、仁慈の形に変わることが出来る、しかもそれがその生活に反している信仰によって行われることが出来るとたれが信じることが出来ようか。なぜなら死後も各々の者の生命は、またはそれと同一のものであるところの、その者の情愛は残っており、そのときそれに彼の思考はことごとく順応し、従って彼の信仰も順応するのであり、かくてそれは、それがかつて心の中にあったままに明らかにされるからである。
天界と地獄80
彼らは、理知と知恵とは人間を作るが、それを持たない顔は人間を作りはしないことを誰でも知っていると言っている。それがそうであることはまた内なる諸天界の天使たちからも明らかに現れている。なぜなら彼らは、主から発する善と真理とにおり、そこから知恵と理知にいるため、極めて美しい、また極めて完全な人間の形を持っており、それよりも低い諸天界の天使たちはそれほど完全ではなく、また美しくもない人間の形を持っているからである。他方、地獄にいる者たちは天界の光の中ではほとんど人間としては現れないで、むしろ怪物として現れている。なぜなら彼らは悪と誤謬にいて、善と真理とにおらず、従って知恵と理知との反対のものにいるからである。その理由から彼らの生命は生命と呼ばれないで、霊的死と呼ばれている。
天界と地獄131
天界の光は神的真理であるため、この光はまた神的知恵と理知である、それで天界の光の中へ挙げられる[高揚される]ことにより、理知と知恵の中へ挙げられて、明るくされることと同じことが意味されている。この理由から天使たちの光はその天使たちの理知と知恵と全く同じ度にある。天界の光は神的知恵であるため、その光の中では凡てのものの性質は知られ、各々の者の性質はそのあるがままにその者の顔の中に明らかに示されていて、いかに小さなことでも隠されはしない。内的な天使たちはまた、善以外には何一つ欲していないため、自分たちの凡てのものが明らかにされることを愛している。天界の下にいて、善を欲しない者たちはそうではない、彼らはその[善を欲しないという]理由から天界の光の中に見られることを非常に恐れている。そして驚くべきは、地獄の者らは互に人間として相手には現れているが、天界の光の中では、凄まじい顔と形を持った怪物として、彼ら自身の悪の形そのものとして現れているのである。人間の霊も、天使から見られる時は同じであって、もし善であるなら、その善に従って美しい、人間として現れるが、もし悪であるなら、その悪に従って醜い、怪物として現れる。ここから凡ての物は天界の光の中に明らかにされ、このことは天界の光は神的真理であることによっていることが明らかである。
形体的な愛である者らは粗野で、すすけて、黒く、不具になって現れるが、天界的な愛である者たちは、瑞々しく、明るく、端正で、美しく現れる。彼らはまたその思考、感情の点で全く異なっており、天界的な愛である者たちはまた理知的で、賢明であるが、形体的な愛である者らは愚鈍で、いわば頓馬である。
地獄の霊らは凡て、天界の何らかの光の中に見られると、その者の悪の形をとって現れる、なぜなら各々はその悪の映像となっているからであるが、それは各々の者のもとでは、内部と外部とは一つのものとなって、内部は、顔、身体、言葉、動作である外部の中にそれ自身を示して[他から]見られるようになっており、それでその性質はそれが見られるとすぐに認められるのである。全般的に彼らは他を軽蔑し、自分を尊敬しない者を威嚇する心の形であり、色々な種類の憎悪の形であり、また色々な種類の復讐の形である。狂猛と残酷とが彼らの内部からそうした形を通して現れているが、しかし他の者から尊敬され、礼拝もされると、その顔はととのって、楽しさのあまり喜ばしそうに見える。僅かな言葉でその凡ての形をその現れているままに記すことは不可能である、なぜなら一は他とは似ていないから。ただ類似した悪におり、それで類似した奈落の社会にいる者らの間には全般的に似たところがあって、そこから、それを共通の基礎として、凡ての者の顔はそこでは一種の類似したものを持っている。
全般的に彼らの顔は恐ろしく、死人の顔のように生気がない、ある者の顔は黒く、ある者の顔は小さな松火のように燃えており、ある者の顔はにきび、いぼ、ただれで、醜く、ある者には顔は見えないで、それに代わって、髪または骨のようなものが現れ、ある者のもとでは歯のみが見える。彼らの身体もまた怪物のようであり、言葉は怒り、または憎しみ、または復しゅうの言葉の様である、なぜなら各々の者はその誤謬から語り、その語調はその悪から発しており、約言すれば、彼らはすべてその者自身の地獄の映像となっているから。地獄そのものの形は全般的にはいかようなものであるかは私は見ることは出来ず、ただ以下のようにのみ言われたのである、天界全体はその総合体では一人の人間を表象しているように、地獄全体もその総合体においては一人の悪魔を表象しており、同じくまた一人の悪魔の映像をもって表象することができよう、と(前の544番参照)。
しかし地獄は、または奈落の社会は個別的にはいかような形をとっているかを、しばしば私は見ることができた、なぜなら地獄の門と呼ばれているその入口には、ふつう怪物が現れていて、それがその内にいる者らの形を全般的に表象しているからである。そこに住んでいる者らの猛々しい情欲も同時にその時恐ろしい、残虐な物により表象されているが、私はそれをここに記すことは控えよう。しかしながらこれは奈落の霊らが天界の光の中で見える形であって、彼ら自身の間では人間として現れており、これは主の慈悲から起っており、互いに他に対しては、天使たちの前に現れるような醜悪な形をとって現れないためであることを知らなくてはならない。
しかしそうした外観は妄想である、なぜなら天界からの何らかの光線が流れ入るや否や、彼らの人間の形は、前に記したように、彼ら自身のあるがままの形である怪物の形に変化するからである。なぜなら天界の光の中では凡ゆる物はそれ自身においてあるがままに現れるからである。これがまた彼らは天界の光を避けて、火のついている石炭から発しているような光のような、時には燃えている硫黄から発している光のような、彼ら自身の光の中へ自分自身を投げ込む理由であるが、しかしその光もまた、天界から何らかの光がその上に差し込むと、ただ暗闇に変化するのである。ここから地獄は暗闇と暗黒の中にあると言われ、暗闇と暗黒とは、地獄にあるような、悪から由来した誤謬を意味している。
天界と地獄554
地獄の霊らのそうした怪物のような形を点検することにより―その形は、私が言ったように、凡て他の者を軽蔑し、また自分を尊敬しない者たちを威嚇する心の形であり、また自分に好意を示さない者たちを憎悪しこれに復讐する心の形でもあるが―彼らは凡て全般的には自己への愛と世への愛との形であり、彼らが各々その形をもって示している悪はその二つの愛から発していることが明白となったのである。私はまた以下のことを天界から告げられもしたが、多くの経験からも証明されたのである。即ち、自己への愛と世への愛であるその二つの愛は、地獄を支配し、同じく地獄を作っているが、しかし主に対する愛と隣人に対する愛とは天界を支配し、同じく天界を作っており、また地獄の愛であるその二つの愛と天界の愛であるその二つの愛は、互いに正反対のものである。
啓示による黙示録解説153・11
地獄全般については、それらは単にこうした洞穴と作業場から成っているが、しかし悪鬼の住んでいる地獄は悪魔の住んでいる地獄とは異なっている。悪鬼とは、誤謬の中にいて、そこから悪の中にいる者らであり、悪魔とは悪の中にいて、そこから誤謬の中にいる者らである。悪鬼は天界の光の中で死体のように現れ、その中にはミイラのように、黒く現れる者もあり、悪魔は天界の光の中では薄暗い、火のような色をして現れ、その中にはすすのように黒く現れる者もいるが、その顔と身体は凡て怪物である。それでも炭火の光に似た彼ら自身の光の中では、彼らは怪物としては現れないで、人間として現れている。これが彼らに許されているのは、彼らが共に交わることの出来るためである。
霊界日記4626
9.悪魔は悔改めにより放逐される
仁慈の教義10
この凡てから、悔改め以前には、その善が主から発している仁慈は存在しないで、(その善が)人間から発している仁慈が存在していることが明らかであるが、しかし悔改めの後では、それは、その善がその人間から発しないで、主から発している仁慈となるのである。なぜなら主は、悪魔が、すなわち悪が人間から放逐されない中は、その人間のもとへ入られ、その者を通して御自身からいかような善も為されることはできないのであり、その悪魔が放逐された後で、そのことを行われることができるからである。悪魔は悔改めにより放逐されるのであり、かれが放逐されると、主は入られ、そこにその人間を通して善を行われるが、しかし常にその人間が自分は自分自身から善を行っているとしか認めないといった方法でそのことを行われるのである。それでもその人間はそれが主から発していることを知っているのである。
10.天界と地獄とは人類から発する
天界と地獄311
天界と地獄とは人類から発していることは基督教世界では全く知られていない、なぜなら天使たちは始めから天使として創造られて、彼らにより天界が形作られ、悪魔または悪鬼は光の天使ではあったが叛いたために、その一味とともに投げ落とされて、彼らから地獄が形作られたと信じているからである。天使たちは、基督教世界にこうした信念があることを非常に怪しみ、さらに天界については―それが教会の教義の主要な事柄であるのに―全く何ごとも知られていないことを怪しんでおり、そしてこうした無知があまねく支配しているため、彼らは、今や主は天界について、また地獄についての多くの事柄を明らかにされることを良しとされ、かくして、教会がその終末に達したために日ましに増大しつつある暗黒を、為しうるかぎり散らされることを良しとされたことを心に喜んでいる。そうした理由から彼らは私が彼らの口から以下のことを宣べ伝えるようにと望んでいる。すなわち、天界全体には始めから天使として創造られた天使は一人もいないし、地獄にも光の天使として創造られたが、投げおとされた悪魔は一人もいない、天界でも地獄でも、凡ての者は人類から来ており、天界には、世で天界的愛と信仰に生きた者がおり、地獄には、奈落の愛と信仰に生きた者がおり、地獄が全体として考えられたとき悪魔と悪鬼と呼ばれるものとなるのである。悪い魔鬼と呼ばれる者のいる背後の地獄は悪魔(デビル)と呼ばれ、悪霊と呼ばれる者のいる前面の地獄は悪鬼(サタン)と呼ばれている。その一方の地獄のいかようなものであるか、またその他方の地獄のいかようなものであるかは以下の頁に述べよう。かれらは以下のように言った。すなわち、基督教世界が天界にいる者について、また地獄にいる者についてこうした信念を抱いたのは、聖言の若干の記事をただ文字の意義に従ってのみ理解して、聖言から来ている純正な教義によって解明し、説明しなかったからであり、聖言の文字の意義は、純正な教義によって光を投じられないかぎり、心を色々な方向に迷わせて、無知、異端、過誤を生むのである、と。
11.地獄ではたれ一人主を承認はしない
天界の秘義6197
その時私は、地獄ではたれ一人主を承認はしないで、能う限り、主を冒涜しつつも、宇宙の創造者なる父なる神のことが言われるのを聞くことを望まないわけではないという事実を反省することが出来たのである。
12.あなたがたに最も近い人々や、最も愛されている人々の間にいて、あなたがたと戦う
聖母から司祭へ1980.8.15
このように、かれ[悪魔]は、どんな手段に訴えても、おとし穴をしかけます。これは、しばしばあることですが、あなたがたにもっとも近い人々や、あなたがたからもっとも愛されている人々のあいだにいて、あなたがたと戦うのです。それは、あなたがたを失望させるために他なりません。かれは、こうして、あなたがたの使徒的活躍に対する熱心さと、情熱をさまそうとするのです。
あなたがたの天の母に完全な信頼をよせて進みなさい。あなたがたの愛のかわきを、私の汚れなき心でだけ、いやそうとつとめなさい。ここなら、あなたがたを落胆させるようなことは決してありません。ここでこそ、あなたがたは、英雄的な愛に導かれるでしょう。ここで、あなたがたの、あらゆる傷は、介抱され、いやしてもらえるでしょう。こうして、あなたがたは、人々の霊魂に奉仕できるように、新しい力を得て、新しい飛躍をとげるでしょう。
聖母から司祭へ1988.11.12
―落胆に負けないように。
わたしの敵は、あなたたちを打つために、しばしば、善い人、あなたたちから助けられたこともあるような人さえ利用します。ときとしては、あなたたちの仲間である司祭さえも利用するのです。
わたしを尊敬し、わたしのいうことを聞き、わたしに従う司祭たちが、他の司祭たち(かれらも、わたしの母としての愛をうける最愛の子らであるが)、に笑われ、侮辱され攻撃されるとき、わたしが予言したその時が来たのです。
13.自己愛が悪魔と呼ばれる
かくて天界の形は美しい人間の形であり、その霊魂は神的な愛と知恵であり、それ故主であり、地獄の形は醜悪な人間の形であり、その霊魂は自己への愛と自己の理知であり、それ故悪魔である。なぜならそこを只一人で支配する悪魔はいないし、自己愛が悪魔と呼ばれるからである。
14.彼は地獄に入ると、善とは何であるかを知らなくなる
神の摂理298(ロ)
「もしそのとき人間の理解が真理を見るなら、それはそこから遠ざかるか、またはそれを誤謬化するかする」。
人間は意思的な自己性を持ち、意思的な自己性は悪であり、知的な自己性はそこから発する誤謬であり、後者はヨハネ伝1・13の人の意志により、前者は肉の意志により意味されている。意志的な自己性は本質的には自己への愛であり、知的自己性はその愛から発する誇りである。この二つは結婚した匹偶(つれあい)に似、その結婚は悪と誤謬との結婚である。この結婚は凡ゆる悪霊の中に、その霊が地獄に入る前に行われ、彼は地獄に入ると、善とは何であるかを知らなくなる。なぜなら彼は悪が歓ばしいものに感じられるため、それを善と呼び、かくて真理から遠ざかり、またそれを見ようとも欲しないため、眼が美しいものを見るように、悪に一致した誤謬を見、耳が調子の整ったものに聴き入るように、それに聴き入るからである。
15.試練においては彼らは天使たちを、実に、主御自身をさえも偽装するのみでなく
霊界日記617
悪魔の一味はいかにたばかりに満ちているかは言葉では決して表現されることは出来ない。試練においては彼らは天使たちを、実に、主御自身をさえも偽装するのみでなく、人間の幻想[妄想]に応じて凡ゆる方法をもって偽ることが出来る。悪魔は一瞬にしてその人間の幻想を知る、なぜなら彼は彼自身にその人間の人となり[人格]を着けるからである。さらに、彼はその人間の知らない中に、その人間の中に在るものを探り出し、驚くべきことではあるが、機会がある時(利用しようとして)色々な事柄をその記憶に貯えておくのである。更に悪魔は偽装している時は、適当な色々な情愛を、それが善いものに思われようが、または悪いものに思われようが、吹き込んで、それらを驚くべき方法で配列し、術策を弄して悪へ向ける。彼は一つの情愛がいかように回転するかを明らかに認めており、それを悪にたわめようと常にやっきになっている。更に、彼はまたその人間の思考と口の中へその情愛に順応した言葉を吹き込んで、その言葉がその人間自身のものであると考えさせるため、それでそのことを知らない者は、その言葉はその悪魔のものであるのに、それはその人間自身のものであるとしか考えることは出来ないのである。
16.彼らは絶えず主を殺そうとする考えを抱いている、天に対する怒りと憎悪
真の基督教312
内なる人の性質は、主によって改良されない限り、如何なるものであるかは、地獄の悪魔と悪鬼によって私に明らかになった。なぜなら、彼らは絶えず主を殺そうとする考えを抱いているからである。けれども彼らはそれが出来ないために、主に献身している者達を殺そうとするのである。彼らはこれを、この世の人間が為すことが出来るように為すことが出来ないため、彼らの霊魂を破壊しようと、すなわち彼らの信仰と仁慈とを破壊しようと努めるのである。憎悪は彼らの間では青ざめた火のように、復讐は蒼白な火のように現れるが、ただしこれは火ではなく外観である。彼らの心の凶悪さは、時折空中に架空な戦いを出現させ、その戦いに天使達は倒されて、殺される。このような恐るべき空想を生むものは、彼らの天に対する怒りと憎悪である。さらに、彼等自身は遠方では、虎、豹、狼、狐、犬、鰐その他凡ゆる種類の蛇のように見え、しかして彼らは優しい動物の表象的な形を見る時、想像においてこれに飛びかかり、これを滅ぼそうと試みるのである。嘗て若干の悪魔が私の眼前に竜の形をとって現れ、婦人達の側に立った。婦人達は嬰児を抱いていたが、これを彼らは、黙示録(12章)に述べられている通りに噛み砕こうと努めたのである。この外観は主と主の新しい教会に対する彼らの憎悪を表象するものであった。
世に在って主の教会を破壊しようと欲する人間は、これらの悪魔に似ている。こうした事実は彼らに連なっている者達に明らかではない。それは人間にその地上の義務を果たさせる物質的な身体によって、このような物は視野から遮断されているからであるが、彼らの身体を眺めないで、彼らの霊を眺める天使達には彼らは上述した悪魔のように見えるのである。主がある人間の目を開いて、これに霊界を見ることを得させたまわない限り、誰がこのような事柄を知ることが出来るであろう。もし主がこれを明らかに明らかにし給わなかったならば、これらの事や他の多くの極めて重要な事柄は永久に人類から隠れたままにおかれなかったであろうか?
17.地獄の人間は主の御名を口にすることが出来ない
アタナシウス信条についてP78
しかし凡ての地獄は主に反抗しているのである。彼らは主の御名を口にすることを欲していないし、また口にすることも出来ない、彼ら凡ての者にとっては、主を崇拝している者を苦しめ悩ますことが極めて楽しいのであり、この彼らの楽しさは極端なものである(例えば、ジレンボルグである)。主に反抗するスフィアは凡ゆる地獄から放出されており、主を拝するスフィアは凡ゆる天界から放出されており、ここから均衡が起こっている。
神の摂理53
この理由から、主の人間または霊または天使との結合は、凡て神的なものに関わりのあるものは彼らから発しないで、主から発しているという結合である。なぜなら人の持つ善の凡てと真理の凡ては主から発していて、人間自身から発しておらず、何人も主によらなくては主またはその名の『イエス』を口にすることすら出来ないことは知られているからである。
真の基督教297
イエスの名もまた聖いことは、その名に於いて天界と地上の凡ゆる者は跪くという使徒の宣言によって良く知られている。その聖さの故に、地獄の悪魔は一人としてそれを口にすることは出来ない。
18.悪魔は決して眠らない
トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/1・13
誘惑に抵抗すること
[1]この世に生きている限り、私たちは患難(なやみ)や誘惑(いざない)を免れることはできない。
ゆえにヨブ記にも「この世にいる人の生涯は戦闘(たたかい)である。」(ヨブ記7・1)としるしてある。
だからどの人も誘惑に注意し、悪魔にあざむく隙を与えないよう用心して祈るがよい。
悪魔は決して眠らず、「喰い尽くすべき者をさがしつつうろついて」(ペトロ前書5・8)いるからである。
だれも時として誘惑に会わないほど、完全で聖なる人はいない。それゆえ私たちがこれを全くのがれることはとうていできないのである。
19.悪を自分自身のものとし、自分と共にいる悪霊どものようなものになる
天界の秘義761
人間の中の霊的な試練はその者のもとにいる天使たちと悪霊らの争闘であり、この争闘は彼の良心の内に普通感じられることは前に述べたところであるが、この争闘についてはまた以下のことを知っておかなくてはならない、即ち、天使たちは絶えず人間を守っていて、悪霊どもが彼に加えようと努力している幾多の悪を外らしているのである。天使たちは人間の中の誤った悪いものを守りさえしている、なぜなら彼らは彼の幾多の誤謬と悪とは何処から発しているかを、即ち、悪い霊らと鬼どもから発していることを充分に知っているからである。人間は自分自身からは誤った悪いものを一つとして生み出しはしない、それを生み出すと同時にその人間にその人間が自分自身からそれを行っているのであると信じ込ませるものこそ人間のもとにいる悪霊らである。かくの如きが彼らの悪意である。更に、私は多くの経験から確認することが出来るのであるが、彼らはこの信念を注ぎ入れ、強制していると同時に人間を訴え、罪に定めるのである。主に対する信仰を持っていない者は自分は自分自身で悪を行っていると信じないように明るくされることは出来ない、それで悪を自分自身のものとし、自分と共にいる悪霊どものようなものになる。これが人間の実情である。天使たちはこのことを知っているため、再生の試練においては彼らは人間の幾多の誤謬と悪をまた守るのである、なぜならもしそれらを守らないなら人間は屈服するからである。なぜなら人間の中には悪とそこから発した誤謬以外には何ものもなく、かくて人間は諸々の悪とその諸々の誤謬の集合体、合成体そのものに過ぎないからである。
20.ドラキュラに噛まれるとドラキュラになる
天界の秘義9348〔6〕
霊的な意義では『罠』は自己への愛と世への愛の歓喜を通して誘惑し、欺くことを意味し、かくて悪の誘惑と欺瞞を意味し、そしてこのことはこれらの歓喜を甘やかす感覚の迷妄〔妄想〕から発した理論を通して行われていることはたれにでも明らかである、なぜなら罠にかけることと落とし穴に陥れることはそれ以外の源泉からは発していないからである。悪魔の一味も人間の中に在る何かこうしたその人間の愛によらなくては攻撃はしないのであり、この愛を彼らはその人間が捕えられるまで凡ゆる可能な方法で歓ばせるのであり、その人間が捕えられると、その人間は真理に反抗して誤謬から論じ、悪から善に反抗して論じるのである。その時彼はまたそのことに満足はしないで、他の者を誤謬と悪へ陥れ、いざなうことに歓びを覚えるのである。彼がまたこうしたことに歓びを感じる理由はその時は彼はその悪魔の一味の一人になっているということである。
天界の秘義7046
そのとき世では天使のように見えた多くの者は悪魔であることが発見されるからである。
22.天界全体が一人の人間を表象しているように、地獄全体もその総合体においては一人の悪魔を表象している
天界と地獄553
地獄そのものの形は全般的にはいかようなものであるかは私は見ることはできず、ただ以下のように言われたのである、天界全体はその総合体では一人の人間を表象しているように、地獄全体もその総合体においては一人の悪魔を表象しており、同じくまた一人の悪魔の映像をもって表象することができよう、と。
神の摂理302
かくて天界の形は美しい人間の形であり、その霊魂は神的な愛と知恵であり、それ故主であり、地獄の形は醜悪な人間の形であり、その霊魂は自己への愛と自己の理知であり、それ故悪魔である。なぜならそこを只一人で支配する悪魔はいないし、自己愛が悪魔と呼ばれるからである。
天界の秘義6666〔2〕
地獄から来ている悪い者のもとに存在しているような、征服しようとする意図については、私はまた以下のことを知ることが出来たのである。善と真理の中にいる者たちを征服しようとする彼らの努力と意図とは表現を絶したものである、なぜなら彼らは凡ゆる悪意、凡ゆる狡知と詐欺、凡ゆる欺瞞と凡ゆる残忍とを用い、それらはもしその一部のみを語るにしても、世では殆どたれ一人それを信じることも出来ないといった性質を持った凄まじいものであり、その術策たるや実に狡猾と技巧と呪詛とに満ち満ちたものである。
天界の秘義1683
なぜなら主はいかような地獄とも決して争闘を始められなかったのであって、地獄が主を攻撃したということが実情であり、それはまた試練の中にあるところの、または悪霊との争闘の中にあるところの人間各々の場合と同一であるからである。人間の場合では天使たちは決して攻撃はしないのであって、常にまた絶え間なく悪いまたは奈落の霊どもがそれを行っており、天使たちは単に受け流して防禦するに過ぎないのである。
天界と地獄595
地獄は絶えず天界を攻撃し、それを破壊しようと努力しているが、主は絶えず、天界にいる者たちを、その者たちの自己性から来ている悪から遠ざけることによって、また彼らを主御自身から発している善の中に留めおかれることによって、天界を守られていることを知らなくてはならない。私は地獄から発出しているスフィアを再三認めることが出来たのであるが、それは全く主の神的なものを、引いては天界を破壊しようとする努力のスフィアであった。ある地獄の噴出する様もまた時々認めたが、それは現れ出て、破壊しようとする努力であった。しかし一方天界は決して地獄を攻撃はしない。なぜなら主から発出する神的スフィアは凡ての者を救おうとする不断の努力であるからであり、地獄にいる者は救われることが出来ないため―なぜならそこに住んでいる者は凡て悪にいて、主の神的なものに反抗しているから―可能な限り、地獄の狂憤が沈められ、残酷が抑制されて、互に度を越えて他に摑みかからぬようにされている。これもまた神的な力の無数の手段により行われている。
25.悪い者は悪い者にのみその者の悪を通して悪を為すことが出来る
神の摂理19
善と同時に真理にいるものはすべて真実であって、悪と同時に誤謬にいるものはすべて真実でない。善と同時に真理にいるものは有意義なものであることは前に理解することが出来よう(11)。このことから悪であると同時に誤っているものは真実なものでないことが推論される。それは真実なものでないことによりそれには力も霊的生命もないことが意味されている。悪と同時に誤謬にいる者は―その凡ては地獄に居る―実際互いに他に対し力を揮うことが出来る、なぜなら悪い者は悪を為すことが出来、またこれを幾多の方法により為しているからであるが、にも拘らず彼は悪い者にのみその者の悪を通して悪を為すことが出来るのである。しかし彼は善良な者を些かも害することは出来ない、もし彼が時折起こることではあるが、善良な者に害を加えるならば、それはその善良な者の悪に結合するこにより為されるのである。これが人が自分に付添っている悪霊により試みられ、苦しめられる原因であり、この試みと苦しみが争闘を生み、そのことにより、善良な者はその悪から自由にされることが出来るのである。悪い者は何ら力を持たないゆえ、地獄は凡て主の眼前には無に等しいのみでなく、力では絶対的に無である。私はこれが多くの経験により証明されるのを見た。しかし邪な者は凡て自分は力のある者であると信じ、善良な者は凡て力に欠けた者であると信じていることは注目すべき事実である。これは悪い者は凡てのものを己が力に帰し、それでそれを狡猾と悪意に帰して、何ごとも主に帰さないが、善い者は何ごとも己が思慮に帰さないで、凡てのものを全能の主に帰しているためである。更に悪と誤謬は結合しても、その中には霊的な生命はないため、何ら真実なものではない、この理由から奈落の生命は生命と呼ばれず、死と呼ばれている。さて、何ものももしそれに生命がないならば、真実のものでないゆえ、死の属性として真実をあげることは出来ない。
26.悪魔の努力・・・・悪いことを行い、誤ったことを説きつけようとする努力
天界の秘義3894
前に以下のことを言っておいた、即ち、天使たちと霊たちの呼吸は彼らの愛の状態とそこから派生してくる信仰の状態に全く順応しているのである(3892番)。そこから一つの社会は他の社会と同じようには呼吸はしないのであり、自己への愛と世への愛の中におり、そのことにより誤ったものの中にいる悪い者らは善い者と共になって住むことは出来ないで、彼らに近づくと、呼吸が出来ないで、いわば彼ら自身には窒息してしまうかのように思われ、その結果地獄へまでも半死半生の者のようになって、または石のようになって落ち込んでしまい、そこへ落ちると、再び呼吸を受けるが、それは彼らがそこにいる者らと共通して持っているものである。このことから私たちは、悪と誤謬の中にいる者らは巨大人の中に、または天界の中にいることは出来ないことを認めることが出来るのである、なぜなら彼らはそこに近づくと、その呼吸は停止しはじめ、その観察と思考もまたことごとく停止し、同じように悪いことを行い、誤ったことを説きつけようとするその努力もことごとく停止し、その努力と共に彼らの活動と生命の運動もことごとく消滅し、かくて彼らは自分自身をそこから真逆様に投げ下ろさないわけにはいかないのである。
27.彼らは自分自身を拝し、その思いは迷妄。悪念を確認する者は悪鬼と呼ばれ、悪念に生きる者は悪魔と呼ばれている
神の摂理310[1]
彼らはこうした性格を持っている故、自分自身を拝し、その思いは迷妄であり、即ち悪念を確認する者は悪鬼と呼ばれ、悪念に生きる者は悪魔と呼ばれている。
霊的な生命・神の聖言P29
しかし人間は、用における歓喜からではなくて、支配することにおける歓喜から支配することを求める愛は全く悪魔的なものであることを考えなくてはならない、こうした人間は無神論者と呼ばれてもよいのである、なぜなら彼はその愛の中にいる限りその心の中では神の存在を信じはしないで、それと同程度に教会の凡ゆる事柄を嘲笑しており、神を承認する者をことごとく、特に主を承認する者たちを憎悪し、迫害しさえもするからである。こうした者の生命の歓喜そのものは悪を行うことであり、凡ゆる種類の邪悪な、破廉恥な行為を犯すことである。約言すると、彼らは悪魔そのものである。
このことは人間は世に生きている間は知らない、しかし彼は霊界に入って来る時―彼は死後すぐさま霊界に入るのであるが―それがそうであることを知るであろう。地獄はこうした者で満ち満ちており、そこでは彼らは主権を得るどころか、奴隷状態に突き落とされるのである。
更に彼らは天界の光の中で眺められると、彼らは支配を第一に置き、用を第二に置いたため、頭を下にし、足を上に向け、ひっくり返った形で現れるのであり、第一位にあるものは頭であり、第二位にあるものは足であり、頭であるものが愛されはするが、足であるものは軽蔑されるのである(黙示録講解951番)。
天界の秘義1049
「そしてわたしはわたしとあなたとの間にある契約を覚えよう」。
これが再生した者と再生することのできる者に特に注がれる主の慈悲を意味していることもまた生まれてくる、なぜなら主にあっては『記憶する[覚える]』ことは慈悲を持つことであるから。記憶する[憶える]ことは主について述べることはできない。なぜなら永遠から主は凡ゆる物を全般的にもまた個別的にも知られているからである、しかし慈悲を持つことは主について述べられるのである、なぜなら主はそのようなものが人間の性格であることを知られているからである、すなわち、前に言ったように、人間自身のものは奈落的なものであり、それが彼の地獄そのものであることを知られているからである。なぜなら人間はその意志の人間自身のものにより、地獄と交流し[連なり]、この人間自身のものは地獄からは、またその人間のものそのものからは、そのもの自身を地獄に向かって投げ込むほどには甚だしくまた強く何ごとも欲してはおらず、またそれはそのことにも満足しないで、宇宙の凡ゆるものを投げ込もうとさえ欲しているからである。人間は人間自身ではこのような悪魔であって、主はこのことを知られているからには、主が契約を憶えられることは人間に慈悲を抱かれて神的な手段により彼を再生させ、彼がそのことを可能にするようなものである限り、彼を強力な力により天界へ引かれるということ以外には何ごとも意味していないことが生まれてくる。