悪霊
1. 悪と誤謬の中にいる者は絶えず殺されはしないかと恐れている
2. 人各々のもとには少なくとも二人の悪霊と二人の天使がいる
3.悪霊は人間が無となり、その霊どもが一切の物となるように人間を徹底的に征服すること以外には何ごとも息づいてはいない
4.何か誤ったことを、または悪いことを聞いたり、または認めたりする所には刑罰を加えることを何ものにもまさって欲する
5.悪い霊らは絶えず悪を行おうと努めている
6.そうした場合彼は地獄から霊どもを引き寄せて、その霊どもは後には容易に退きはしない
7.奈落の霊らの中にはいかような邪悪があるか
8.ドラキュラに噛まれるとドラキュラになる
1.悪と誤謬の中にいる者は絶えず殺されはしないかと恐れている
天界の秘義390
悪と誤謬の中にいる者は、モーセの書に以下のように記されているように、絶えず殺されはしないかと恐れている―
おまえらの地は荒廃し、おまえらの都は荒れはてるであろう、またおまえらの中で残された者にはその敵の地でわたしは恐れを抱かせよう。彼らは木の葉のうごく音にもおどろいて逃げ、剣をさけて逃れるようにも逃げ、また追う者もないのに倒れるであろう、彼らは追う者もないのに、剣の前にあるかのように、互いにその兄弟に躓いて、その上に倒れるであろう(レビ記26・33、36、37)。
かれらはかれらを守ってくれる者をたれ一人持っていないため、凡ての者を恐れている。悪と誤謬の中にいる者はすべてその隣人を憎悪し、凡て互に他を殺そうとしている。
天界の秘義391
他生にいる悪霊の状態は、悪と誤謬の中にいる者が凡ての人を恐れていることを示している。自分自身から仁慈をことごとく剥奪した者はさまよって、彼方此方へと逃げて行く。凡て彼らの行く所ではそれがいかような社会であっても、その社会の人々はかれらが単に近づいてくるのみで直ぐさまその性格を認めるのである、なぜなら他生に存在する認識はそうしたものであるからである。かれらはかれらを放逐するのみでなく、激しく罰し、実にかれらを殺しかねないような憎悪を以って罰するのである。悪霊は互に他を罰し、責め苛むことに最大の喜びを感じており、それがかれらの最高の満足となっている。悪と誤謬そのものがその原因であることは今まで知られていなかったのである、なぜならたれでも人が他の者にのぞむことは凡てその人自身に帰ってくるからである。誤謬はそれ自身の中に誤謬の刑罰を持っており、悪はそれ自身の中に悪の刑罰を持っており、従って、かれらは自分自身の中にこれらの刑罰の恐怖を持っているのである。
2.人各々のもとには少なくとも二人の悪霊と二人の天使がいる
天界の秘義697
人各々のもとには少なくとも二人の悪霊と二人の天使が居る。悪霊を通してその人間は地獄と交流し、天使を通して、天界と交流している。人間はその両方の者と交流していないなら、一瞬も生きることはできない。かくて人間は各々そのことに気づいてはいないが、何処からの奈落の者の社会の中にいるのである。しかし彼は永遠の生命に対する準備の状態にいるため、彼らの拷問は彼には伝えられていない。人間がその中にいた社会が他生で時折彼に示される、なぜなら彼はそこへ帰り、かくて彼が世で送っていた生活に帰り、そこから地獄へ向うか、または天界へ挙げられるか、するからである。かくて仁慈の善に生きないで、自らが主により導かれることを許さない人間は奈落の輩の一人となり、死後また悪魔になるのである。
天界の秘義741
試練は人間のもとにいる天使たちと悪霊らの争闘以外の何ものでもない。悪霊らは人間がその幼児の項から行ったか、または考えさえもしたか、その何れかの凡ゆる悪いことを、かくてかれのいくたの悪のみでなく誤謬をも呼び起こして、かれを罪に定めるが、かれらにはそうしたことをするいまさって大きな歓びをおぼえるものは何一つないのである、なぜならかれらの生命の歓喜そのものはこのことに在るからである。しかし主は天使たちを通して人間を守られ、悪霊と悪鬼が限度を越えて襲わないように、人間にその堪えることができないほどに氾濫しないようにかれらを抑制されておられる。
天界の秘義1742[2]
悪霊がもっており、また悪霊が極度に愛している生命は自己への愛と世への愛といくたの欲念の生命であり、引いては復しゅうと残酷との生命であり、悪霊はそれ以外の生命にはいかような歓びもありえないと考えている。かれらはこうした欲念の歓喜に生命の凡てを置いて、こうした生命が唯一の生命であって、それを失うときは自分は全く死滅してしまうとのみしか考えない人間のようなものである―なぜならかれらは人間であったのであり、人間であったとき、その生命からこうした信念を得ているからである。しかしかれらの愛している生命はいかような性質を持っているかは他生におけるこのような性質の者らから明白であり、そこではそれは悪臭を発する排泄物のような生命に変化するのであって、しかも驚嘆すべきことには、かれらはその悪臭を極めて楽しいものとして認めているのである、このことは820、954番に経験から述べられたことから認めることができよう。
[3]かの魔鬼どもの場合もそれと同じであったのであり、かれらは主がかれらを狂人から追い出されたとき、自分の生命を恐れて、自分らが豚の中へつかわされるように求めたのである(マルコ5・7−13)。これらの魔鬼は身体の生命にいた頃は汚れた貪欲に溺れた者であったことは以下の事実から認めることができよう、すなわち、こうした者は他生では豚の間に己が時を過ごしているようにこうした者自身に思われているのであり、それは豚の生活が貪欲に相応していて、それでそれがかれらには快いものとなっているという理由によっているが、そのことは939番に経験から述べられていることから明白である。
3.悪霊は人間が無となり、その霊どもが一切の物となるように人間を徹底的に征服すること以外には何ごとも息づいてはいない
天界の秘義905
「箱舟から出なさい。」(創世記8・16)
これは自由を意味していることは前に言われたことから、また文の前後の関連そのものから明らかである。ノアは箱舟の中にいて、洪水に取りかこまれている限り、その意味は彼は捕らわれていたということであり、すなわち、いくたの悪と誤謬とにより、またはそれと同一の、悪霊らにより翻弄されていたということであった。ここから『箱舟を出る』ことは自由を意味するということが生まれてくる。
主の臨在は自由を含んでおり、その一方は他方に続いて起っている。主が臨在されるに比例して益々人間は自由となるのである、すなわち人間は善と真理との愛の中に止まるに比例して益々自由に行動するのである。かくのごときが天使たちを通して注がれる主の流入である。しかし他方悪霊らを通して注がれる流入は強制的であり、性急であり、威圧しようと力闘する、なぜならこうした霊どもは人間が無となり、その霊どもが一切の物となるように人間を徹底的に征服すること以外には何ごとも息づいてはいないからであり、そしてその霊どもが一切のものとなった時、人間はその悪霊どもの中の一人となり、否それですらなくなるのである。なぜならかれらの眼前にはかれは全く何ものでもないからである。それ故主がその人間を彼らの主権[支配]と軛から解放されつつある時、争闘が生まれるのである。
しかしその人間が解放されたときは、すなわち再生したときは、彼は主により天使たちから仕えられて、軛または主権のいかようなものも何一つないほどにもおだやかに導かれるのである。なぜなら彼は彼の歓喜と彼の幸福とにより導かれ、また愛され尊重もされるからである。これが主がマタイ伝に教えられるところであり―
わたしの軛は易く、わたしの荷は軽い(11・30)、
そしてこれは悪霊の軛の下におかれている時の人間の状態とは正反対のものである。なぜなら彼らは、今述べたように、その人間を無価値なものとして考え、得べくば、各瞬間毎にかれを責め苛もうとしているからである。このことを多くの経験によりわたしは知ることができたのであって、そのことについては主の神的慈悲により後に述べよう。
「悪霊らは発狂しており、力を尽くして他の者たちを彼ら自身の地獄に連れ去り、かくしてその者たちを責め苛もうとやっきになっていることについて」
霊界日記4334
4.何か誤ったことを、または悪いことを聞いたり、または認めたりする所には刑罰を加えることを何ものにもまさって欲する
霊界日記1483
しかし主は信仰の中にいる者たちを顧慮されるため、その内部は悪霊らにはさらけ出されはしないのである、もしさらけ出されるなら、彼らはすぐさまその中へなだれ込もうと努めるのである、なぜなら彼らは、何処であれ、何か誤ったことを、または悪いことを聞いたり、または認めたりする所には刑罰を加えることを何ものにもまさって欲するからである。1748年〔60歳〕3月17日。
5.悪い霊らは絶えず悪を行おうと努めている
悪い霊らは絶えず悪を行おうと努めていることについて
霊界日記3821
以下のことがしばしば認められた、すなわち、私が街路にいた際、悪霊らは私を車の輪の下に投げ出そうとしたのであり、それでこうしたことは事実彼らにはありふれたことであった。彼らがそうしたことを絶えずやってのけようと努力していることを今日私は特に認めたのである、なぜなら彼らはこのようなことを企てているとき、そのことを認めることを与えられ、実に彼らの努力のスフィアは、絶えずそれが彼らの生命となっているといったものであり、私は人間が主から絶えず守られており、彼らの努力が挫折していることを認めたのである。ここから、主が凡ゆる瞬間に、最小の瞬間においてすら、人間を守られない限り、実に、その歩みの最小の中にすら守られない限り、人間はたちまち死滅してしまうことが明らかである、こうしたものが霊たちの世界の努力である。1748年〔60歳〕11月2日。
6.そうした場合彼は地獄から霊どもを引き寄せて、その霊どもは後には容易に退きはしない
天界の秘義9009
意志から、また先見からも発しているものは、先見から発していないものよりは遥かに悪いのである、なぜならその人間はそれが悪であることを認めて、それでそこから遠ざかることが出来るのに、遠ざかろうとは欲しないことによって、それを自分自身の中に確認し、確認された悪は性質となり、それでそれは後には殆ど根絶することは出来なくなるからである、なぜならそうした場合彼は地獄から霊どもを引き寄せて、その霊どもは後には容易に退きはしないからである。
天界と地獄577
天使たちが知恵と理知とを持っていると同じ程度に、奈落の霊もまた邪悪と狡猾とを持っている、なぜなら人間の霊は、身体から解放されると、その善か、またはその悪か何れかにいるため、即ち天使的な霊はその善の中に、奈落の霊はその悪の中にいるため、事情は似ているからである。なぜなら前に再三述べ、また示したように、霊各々はその愛であるため、彼はその善か、その悪か、その何れかであり、それゆえ、天使的な霊はその善から考え、欲し、話し、行動するように、奈落の霊もその悪から考え、欲し、話し、行動し、そして悪そのものから考え、欲し、話し、行動することは、悪の中にある凡ゆる物からそのように為すことであるから。が、彼が身体の中に生きていた時はそうではなかったのである、なぜならその時はその人間の霊の悪は、人間各々が法律や、利得を得る希望や、名誉や、名声や、それらを失いはしないかとの恐れから感じる縄の中に縛り付けられて、そのため、その霊の悪は爆発して、それ自身の中にあるものを示すことが出来なかったからである。更に、その当時は、人間の霊の悪は、そうした人間が世のために公言もし、また偽り装いもしたところの、外面的な正直や、誠実や、公正や、真理と善に対する情愛の中に包み込まれ、覆われ、そうした装いの下に、その悪は隠されて明らかには認められず、その当人自身も自分の霊にそのようにもおびただしい邪悪と狡猾とが巣食っているとは殆ど知りもせず、引いては、自分自身は、死後自分の霊がその霊そのものの中へ、その霊自身の性質の中へ入る時、その霊がなるような悪魔であることも知りもしなかったのである。が、そのとき全く信じることもできないほどの悪が現れてくる。そのとき無数の悪が悪そのものから迸り出て、その中にはまたいかような言語の言葉によっても表現できないようなものもある。私は霊の方面では霊界にいると同時に、身体の方面では自然界にいることを主から許されたため、多くの経験から彼らの性質を知り、また認めることも出来たのである。以下のことを私は立証することが出来る、即ち、彼らの邪悪はその一千分の一の部分さえも記すことは殆ど不可能なものであり、また主が人間を守られないならば、彼は決して地獄から救い出されることは出来ないのである、なぜなら人間各々のもとには天界から来ている天使たちのみでなく、地獄から霊もいるからである(前の292、293)。
天界と地獄580
奈落の霊らの中にはいかような邪悪があるかは、彼らの凶暴な術策から明らかとなるであろう。その術策は、それを列挙するのみでも一巻の書に満ち、それを説明すると数巻の書に満ちるほどにも多く、その大半は世では知られていない。第一の種類は相応の濫用に関係し、第二は神的秩序の最も外なるものの濫用に関係し、第三は、他の者の方へ身を向けることや、他の者に視線をこらすことや、自分自身の他に他の者を使うことや、また自分自身のもとから他の霊をつかわすことによって思考と情愛とを伝達し、流入させることに関係し、第四は幻想によって働きかけることに関係し、第五は、自分自身を自分自身の外に投げ出して自分が身体をもって止っている所とは別の所に現れてくることに関係し、第六は、偽装、説得、虚言に関係している。こうした技術の中へ邪悪な人間の霊は、身体から解放されると、おのずから入り込むのである。なぜならそれは彼がそのとき持つ悪の性質の中に内在しているからである。こうした術策により彼らは地獄で互いに他を苦しめ合っている。しかしこうした術策の凡ては、偽装、説得、虚言によって行われるものを除いては、世では知られていないため、私はここでそれを一々記さずにおこう。それは、記しても理解されないからでもあり、また話すには余りに醜悪なものでもあるから。
天界の秘義761
人間は自分自身からは誤った悪いものを一つとして生み出しはしない、それを生み出すと同時にその人間にその人間が自分自身からそれを行っているのであると信じ込ませるものこそ人間のもとにいる悪霊らである。かくの如きが彼らの悪意である。更に、私は多くの経験から確認することが出来るのであるが、彼らはこの信念を注ぎ入れ、強制していると同時に人間を訴え、罪に定めるのである。主に対する信仰を持っていない者は自分は自分自身で悪を行っていると信じないように明るくされることは出来ない、それで悪を自分自身のものとし、自分と共にいる悪霊共のようなものになる。これが人間の実情である。
天界の秘義9348〔6〕
霊的な意義では『罠』は自己への愛と世への愛の歓喜を通して誘惑し、欺くことを意味し、かくて悪の誘惑と欺瞞を意味し、そしてこのことはこれらの歓喜を甘やかす感覚の迷妄〔妄想〕から発した理論を通して行われていることはたれにでも明らかである、なぜなら罠にかけることと落とし穴に陥れることはそれ以外の源泉からは発していないからである。悪魔の一味も人間の中に在る何かこうしたその人間の愛によらなくては攻撃はしないのであり、この愛を彼らはその人間が捕えられるまで凡ゆる可能な方法で歓ばせるのであり、その人間が捕えられると、その人間は真理に反抗して誤謬から論じ、悪から善に反抗して論じるのである。その時彼はまたそのことに満足はしないで、他の者を誤謬と悪へ陥れ、いざなうことに歓びを覚えるのである。彼がまたこうしたことに歓びを感じる理由はその時は彼はその悪魔の一味の一人になっているということである。
神の摂理310[1]
彼らはこうした性格を持っている故、自分自身を拝し、その思いは迷妄であり、即ち悪念を確認する者は悪鬼と呼ばれ、悪念に生きる者は悪魔と呼ばれている。