憎しみ・憎悪

 

自己愛憎むな

 

 

 

1.憎しみ・憎悪

2.悪魔的形

3.憎むな

4.悪と誤謬の中にいる者は絶えず殺されはしないかと恐れている

5.憎悪はたれもその兄弟を容赦しない

6.悪霊と悪魔とは何であれ神的なものはことごとく認識し、知覚はするが、それに反感と憎悪とを抱き

7.殺意

8.蛇

9.親類、友、仲間は他生で互に会うことについて

10.今は人間各々は自分自身を他の者よりも愛しかくて凡ての者を憎んでいる

11.凡ての不法の源泉

12.他生では光はその中に理知を持ち、熱はその中に愛を持ち、暗闇は狂気を、冷寒は憎悪を持っている

13.ジャン・マリ・ヴィアンネ

14.マリア・ワルトルタ

15.憎悪は人間のもとに地獄を構成する

16.殺そうと欲する[意志する]ことである憎悪

17.その者が以前行った業は、その外なる形ではいかほど善であるように見えたにしても、ことごとく自己を、世を求める愛の業であったのであり、その中には憎悪が、その業が報いられはしなかったときは必ず潜んでいた

18.教会の終り

19.公教要理(カテキズム)

20.暗闇は狂気を、冷寒は憎悪を持っている

21.憎悪が彼らの語る一つ一つの言葉の中に潜んでいて、それが認められる

 

 

 

 

1.憎しみ・憎悪

 

 

天界の秘義1010[2]

 

憎悪を抱いている者は仁慈を持っていないのみでなく、仁慈に暴行を加えるのである、即ち、「血を流す」のである。憎悪には事実殺害が存在しており、それは以下のことから明白である。即ち憎悪を抱いている者はその憎んでいる者が殺されることを何ものにもまさって願っており、もし外的な拘束により抑えられもしないならば、彼を殺そうと欲するのである。こうした理由から『兄弟を殺しその血を流すこと』は憎悪であり、そしてそれが憎悪であるからには、その者に対する彼の観念[考え]の各々の中にはそれが存在しているのである。冒涜も同じである。すでに言ったように聖言を冒涜する者は真理を憎むのみでなく、それを消滅させ、または殺すのである。このことは他生にいる冒涜罪を犯した者らから明白である。彼らはその身体の中で生きていた間は外面的には正しい、賢い、敬虔なものとしていかほど見えたにしても、他生では主に、また愛の諸善と信仰の諸真理の凡てに致死的な憎悪の念を抱いているが、それはこれらのものが彼らの内的な憎悪、強奪、姦通に対立しているという理由に基いていて、彼らはその内的な憎悪、強奪、姦通を聖いものの仮面の下で覆い隠し、また愛の諸善と諸真理と不善化してそれらに自分自身を支持させるためである。

 

 

 

天界の秘義1079

 

「その父の裸かを見た」(創世記9・22)

 

これは彼がその過誤と歪曲とを観察したことを意味することは『裸か』の意義から明白であり(それについては直ぐ前の記事とまた前の213、214番を参照されたい)、それは悪い、歪められたものである。ここには、仁慈から分離した信仰の中にいる者らが『ハム』により、すなわち、彼がその父の裸かを見たことの中に、すなわち、彼の過誤と歪曲とを見たことの中に記されているのである。なぜならこうした性格の者は人間の中に他の何物をも見ないのであるが、それに反して―それと非常に相違して―仁慈の信仰の中にいる者たちは良いものを観察し、もし何か悪い誤ったものを見ても、それを赦し、もし出来ることなら、ここにセムとヤペテについて言われているように、彼の中にそれを矯正しようと試みるのである。仁慈がないところには、そこに自己への愛が在り、それで自己に組しない凡ての者に対する憎悪が存在している。従ってこうした人物は隣人の中に悪いもののみを見、何か良い物を見ても、それを無価値なものとして認めるか、またはそれを悪く解釈するのである。仁慈の中にいる者は全くその反対である。こうした相違により、この二種類の人間は、とくに他生に入ってくる時、互に他から区別されている。なぜならそのとき何ら仁慈の中にいない者にあっては、憎悪の感情がその一つ一つのものから輝き出ており、彼らは凡ゆる者を点検し、彼らを裁こうとさえ欲し、また悪いことを見つけ出すことにまさって何ごとをも欲してもおらず、罪に定め、罰し、拷問にかけようとする気質を絶えず抱いているのである。しかし仁慈の中にいる者たちは殆ど他の者の悪を見ないで、その凡ゆる善と真理とを観察し、悪い誤ったものを良いように解釈するのである。かくの如きが凡ゆる天使であって、それを彼らは主から得ているのである。なぜなら主は凡ゆる悪を善へたわめられるからである。

 

 

 

天界の秘義1080

 

「そして外にいる二人の兄弟に告げた」(創世記9・22)。

 

これは彼が嘲ったことを意味していることは今言ったことから当然の帰結として生まれてくる。なぜなら仁慈の中にいない者らのもとには、他の者に対する不断の軽蔑があり、または不断の嘲笑が在って、機会のある毎に彼らの過誤を公にするからである。彼らが公然と行動しないのはひとえに外なる拘束物に抑制されているためであり、すなわち、法律を恐れる恐怖、生命を、名誉を、利得を失いはしないかとの恐怖、またそうしたもののために世間の評判を悪くはしないかとの恐れに抑制されているためであって、このことが彼らはうわべでは友情を繕って見せてはいるものの、内ではそうしたものを抱いている理由となっている。

 

ここから彼らは二つのスフィアを得ているが、それらは他生では明白に認められている。すなわち一つは内的なもので、憎悪に満ちているが、他の一つは外的なもので、善いものを模倣している。これらのスフィアは元来全く調和しないものであるため、互に衝突しないわけにはいかないのであり、それで外的なスフィアが彼らから取り去られて、彼らが偽ることが出来なくなると、彼らは凡ゆる邪悪に突入するのであり、それが取り去られないときは、憎悪が彼らの語る一つ一つの言葉の中に潜んでいて、それが認められるのである。ここから彼らの刑罰と拷問とが起っている。

 

 

 

天界の秘義253

 

教会が『女』また『妻』『花嫁』『処女』『娘』と呼ばれているのは天界的な天使的な自分自身のものによっている。それは黙示録には『女』と呼ばれているのである―

 

陽を着た女がいて、その足の下に月が在り、その頭に十二の星の冠があった。竜は男の子を生んだ女を迫害した(黙示録12・1また4−10)。

 

この記事では『女』により教会が、『陽』により愛が、『月』により信仰が、『星』により前のように信仰の諸真理が意味され、その凡てを悪霊は憎み、極限までも迫害するのである。

 

 

 

天界の秘義374

 

 『血の声』は暴行が仁慈に加えられたことを意味することは聖言の多くの記事から明らかであり、その中では『声』は訴える物を意味し、『血』如何様な種類であれ、罪を特に憎悪を意味している。なぜならたれでもその兄弟に対し、憎悪を抱く者は、主が教えられているように、彼を心の中で殺してしまうからである―

 

 昔の人に「殺してはならない、たれであれ殺す者は審判かれるであろう」と言われたことをあなたらは聞いている、しかしわたしはあなたらに言う、すべて軽率に人の兄弟を怒る者は審判かれるであろう。また兄弟にむかってラーカーと言う者は衆議にあうであろう、また馬鹿者と言う者は火の地獄に落ちるであろう。(マタイ5・21、22)。

 

 これの言葉により憎悪の度が意味されているのである。憎悪は仁慈に反しており、たとえ手を用いなくても、心の中で、何であれ、その為すことのできる方法をもって殺しており、手の行為からはただ外なる拘束によってのみ遠ざけられているにすぎないのである。それ故憎悪は凡て血である、例えばエレミヤ記には―

 

 あなたはなぜあなたの道を善として、愛を求めるのか。あなたの裾に貧しい無垢な者の魂の血が見られる(2・33、34)

 

 

 

天界の秘義374[2]

 

憎悪は『血』により意味されるように、各種の不法も同じく『血』により意味されている、なぜなら憎悪は凡ての不法の源泉であるからである。

 

 

 

天界の秘義374[3]

 

最後の時の無慈悲と憎悪もまた黙示録(16・3,4)の中に『血』により記されている。『血』は複数形で記されているが、それは凡て善いものと聖いものが愛から迸り出るように、凡て不正で憎むべきものも憎悪から迸り出るからである。それで隣人に憎悪を抱いている者は、もしそのことが可能であるなら、彼を殺し、実にその行うことが出来る何らかの方法で彼を殺すのである、これは彼に暴行を加えることであり、それがここに『血の声』により元来意味されているのである。

 

 

 

 

黙示録講解1015[2]

 

 殺そうと欲する[意志する]ことである憎悪は主に対する愛の、また隣人に対する愛の反対のものであるからには、これらの愛は人間のもとに天界を作るものであるからには、憎悪はかくて反対のものであるため、人間のもとに地獄を作るものであることは明白である。奈落の火は憎悪以外のいかようなものでもないのであり、その結果憎悪の質と量とに従って薄暗く燃えている火の中に、憎悪から発する復讐の量と質とに従って薄暗い焔を上げて燃えている火の中に地獄は在るように見えるのである。

 

 

 

黙示録講解1015[3]

 

憎悪と愛とは真向から対立しているものであるからには、憎悪は結果として、ちょうど愛が人間のもとに天界を構成しているように、人間のもとに地獄を構成するからには、主は以下のように教えられている―

 

 もしあなたが祭壇に捧げ物をして、そこであなたの兄弟があなたに何かのことで反感を抱いていることを憶い出すなら、そこにあなたの捧げ物をその祭壇の前に残しておいて行き、先ずあなたの兄弟と和解し、それから帰って来て、捧げ物を捧げなさい。あなたの仇と共に道の中にいる間にその者と和解しなさい、もしかしてその仇があなたを裁判官に引き渡し、その裁判官が役人に引き渡し、あなたが牢に投げ込まれる恐れがないためである。まことにわたしはあなたに言います。あなたは最後の小銭を払ってしまうまではそこから出てくることはないのである(マタイ5・23−26)。

 

裁判官に引き渡され、その裁判官により役人に引き渡され、その役人により牢に投げ込まれることは、その者が世においてその兄弟に対し憎悪を抱いていたことから死後も憎悪の念にいる人間の状態を記しており、『牢』は地獄を意味し、『最後の小銭を払うこと』はとこしえに燃え続ける火と呼ばれる刑罰を意味している。

 

 

 

黙示録講解1017

 

 人間が憎悪を慎み、そこから遠ざかり、それを悪魔的なものとして避けるとき、そのとき愛、仁慈、なごやかさが主から天界を通して流れ入り、そのとき初めてその者が行う業は愛と仁慈との業である。その者が以前行った業は、その外なる形ではいかほど善であるように見えたにしても、ことごとく自己を、世を求める愛の業であったのであり、その中には憎悪が、その業が報いられはしなかったときは必ず潜んでいたのである。憎悪が遠ざけられない限り、人間は単に自然的なものであるに過ぎず、単に自然的な人間はその人間が受け継いだ凡ゆる悪の中に止まっており、凡ゆる者を支配することを求める愛であるところの憎悪が、その根と共に除かれない中は、霊的なものとなることも出来ないのである、なぜなら霊的な愛である天界の火は、憎悪である地獄の火が、途中に立ちはだかって、それを閉め出している限りは、流れ入ってくることは出来ないからである。

 

 

 

天界の秘義1608

 

「あなたの裔[種]に永遠に」。これが主を信じるに違いない者たちを意味していることは、『裔[種]』の意義が信仰であり、実に(前の255、256、1025番に述べたように)仁慈の信仰であることから明白である。天界の王国[天国]は主の裔[種]に、すなわち、主を信じる信仰をもっている者たちに与えられるに違いないことはヨハネ伝における主御自身の御言葉から明白である―

 

  父は子を愛されて、その手に凡ての物を与えられた、子を信じる者は永遠の生命を持つが、しかし子を信じない者は生命を見ない(3・35、36)

 

 

 

天界の秘義1608[2]

 

さらに―

 

  彼を受けた者にはことごとく、彼の御名を信じる者たちには神の子となる力を彼は与えられた、彼らは血から生まれたのではなく、また肉の意志からも、また人間の意志からも生まれたのではない(1・12、13)。

 

 この言葉から信仰は、または主を信じることはいかようなことであるかが明白である、すなわち、信仰は『肉の意志』からでなく、また人間の意志からでもなく、主を受けて、主を信じる者のもとに存在していることが明白である。『肉の意志』とは愛と仁慈とに反したものである、なぜならこのことが『肉』により意味されているからである(999番)、そして『人間の意志』とは愛または仁慈から発した信仰に反したものである、なぜならそれが人間により意味されているものであるからである。なぜなら肉の意志と人間の意志とが分離させるものであるが、しかし愛とそこから派生した信仰とが連結させるものであり、それで愛とそこから派生した信仰を宿している者は神から生まれた者であるからである。そして、彼らは神から生まれているため、『神の子』と呼ばれ、またその『裔』であり、この者たちに天界の王国[天国]が与えられるのである。こうした事柄がこの節の以下の言葉により意味されているのである、『あなたの見る地はことごとくそれをあなたとあなたの裔[種]に永遠に与えよう。』

 

 

 

天界の秘義1608[3]

 

仁慈を持たない信仰の中にいる者に、すなわち、自分は信仰を持っていると言いはするものの、隣人を憎悪している者には天界の王国[天国]は与えられる筈はないことは、たれからでも、もしその者が進んでそのことを反省しさえするなら、認められることが出来よう、なぜなら憎悪が、すなわち、地獄が生命を構成しているときは、かかる信仰の中には生命は有り得る筈はないからである。なぜなら地獄は憎悪以外の何ものからも構成されてはおらず、それは人間が遺伝的に受けついだ憎悪からではないが、人間が実際の生活により得た憎悪から構成されているからである。

 

 

 

天界の秘義2884

 

 自己と世を求める愛とその幾多の欲念の自由は完全な奴隷であって、決して自由ではないが、しかし依然それは丁度愛と情愛と歓喜が両方の意味で自由と呼ばれているように、自由と呼ばれている、それでも自己と世を求める愛は決して愛ではなくて、憎悪であり、その情愛と歓喜も同様に憎悪である。それらはその外観に従ってそのように呼ばれているのであって、その実体に従っているのではない。

 

 

 

天界の秘義3182

 

善へ導き入れられて、これと連結することになっている真理が自然的なものから高揚されるとき、それは自然的なものの中に在るものから分離されるが、この分離されることが彼らがその妹レベカを去らせることによって意味されているものである。人間がもはや真理から善を顧慮しないで、善から真理を顧慮するとき、真理は引き離されるのであり、あるいはそれと同一のことではあるが、人間が教義から生命[生活]を顧慮しないで、生命[生活]から教義を顧慮するとき、真理は引き離される[分離される]のである。例えば、教義は、たれをも憎んではならない、なぜならたれでも他の者を憎んでいる者は、その者を各瞬間殺しているからであると教えている。生命の初期では人間はこのことの真理をほとんど容認はしないが、しかし彼が年が進んで、改良されつつあるにつれ、彼はそのことを、自分がそれに応じて生活しなくてはならない教義的な事柄の一つとして顧慮するのである。ついに彼はそれに従って生きるが、そのときは彼はもはや教義からは考えないで、生命から行動するのである。このことが行われるとき、この教義の真理は自然的なものから高揚されて、実に自然的なものから分離されて、合理的なものにおける善の中に植え付けられるのであり、このことが行われると、彼はもはや自然的な人がそのいかような詭弁によってもそれに疑いを抱くことを許さないのであり、いな、彼は自然的な人がそれに反抗して論じることを許しはしないのである。

 

 

 

天界の秘義3488[3]

 

 あなたがたはわたしの名のために凡ての国民から憎まれるでしょう。

 

 これは善と真理とに属している凡ゆる事柄に対する軽蔑と嫌忌とを意味しており、『憎む』ことは軽蔑して、嫌忌することである、なぜならこのことは憎悪から生まれるからである、『凡ての国民から』は、悪の中にいる者らにより、を意味している(こうした者が『国民』により意味されていることは、前の1259、1260、1849、1868、2588番に見ることができよう)、『わたしの名のために』は主のために、であり、かくて主から発する凡ゆる事柄のために、である(主の『名』は主を拝する手段となる凡ゆる事柄の、かくて主の教会に属している凡ゆる事柄の一つの総合体であることは、前の2724、3006番に見ることができよう)。

 

 

 

天界の秘義3605[2]

 

 『憎むこと』はその内意では反感を持つことを意味しているのは、それがエソウにより表象されている善について述べられているためであり、善は憎悪とは真っ向から対立するものであって、憎悪の何であるかを知ってさえもおらず、対立したものは同一の主体の中にありえないのであり、憎悪に代って、善は、または善の中にいる者たちは、一種の反感を感じるからである、ここからここの『憎悪』はその内意では反感を抱くことを意味している、なぜなら内意は主として天界の中にいる者たちのために存在しており、それでそれがそこから下降して、文字の意義に派生すると、そのときは、歴史的なものはそのような性質を持っているため、反感の情愛は『憎悪』という表現に落ち込んでしまうが、しかしそれでも天界にいる者たちには憎悪の観念は些かもないといった方法で落ち込むのである。こうした実情は『わたしたちを試練にあわせないで、悪から救い出してください』という主の祈りの言葉について、第一部に経験から述べられたことに似ているのであり(1875番を参照)、すなわち、純粋に天使的なものが、すなわち、善が、試練と悪とが些かも考えられなくなって残るまでも、試練と悪とは斥けられてしまい、しかもそれには主が考えられるとき、悪が考えられることについては一種の憤りと反感とが添加される[接合される]のである。

 

 

 

天界の秘義3605[3]

 

 我々が聖言にエホバまたは主が『憎みたもうこと』について読む時もこれと同じである。例えばゼカリヤ書には―

 

 あなたたちはたれ一人その心で隣人を悪く考えてはならない、偽りの誓いを愛してはならない、なぜなら凡てこれらのことばはわたしが憎むことであるからである、とエホバは言われる(ゼカリヤ8・17)。

 

 モーセの書には―

 

 あなたはあなたのために柱を立ててはならない、それはあなたの神エホバが憎まれるものである(申命記16・22)。

 

 エレミア記には―

 

 わたしの嗣業[選民]はわたしには森の中のししのようになった、彼女はわたしに逆らってその声を上げた、それでわたしは彼女を憎んだ(エレミア12・8)

 

 ホゼヤ書には―

 

 ギルガルでわたしはかれらを憎んだ、かれらの業が邪悪なため、わたしはかれらをわたしの家から追い出そう、わたしはもはやかれらを愛しはしない(ホゼヤ9・15)。

 

 これらの記事では、エホバまたは主について述べられている『憎悪』はその内意では憎悪ではなくて、慈悲である、なぜなら神的なものは慈悲であるからである、しかしそれが悪の中にいる人間のもとへ流れ入りかれが悪の刑罰へ突入すると、そのときその慈悲は憎悪として現れるのであり、それがそのように現れるため、その文字の意義では同様にそのように呼ばれるのである。

 

 

 

天界の秘義3605[4]

 

 『怒り』『憤り』『狂憤』が聖言の中でエホバまたは主について述べられるときも同様である(このことについては245、592、696、1093、1683、1874、2495、2447、3235番を参照)。ユダヤ民族とイスラエル民族は他の凡ゆる民族にもまさって、その交友の中にすら何か友だちらしくないものを認めるや否や、彼らを残酷に扱い、単に彼らを殺すのみでなく、野獣と鳥にさらしものにすることが当然なことであると信じるといった者であった、それで主の流入してくる慈悲が彼らのもとでは、単に彼らの敵のみでなく、その仲間に対してもこのような憎悪に変化したため、エホバもまた憎悪を抱き、怒り、憤り、激怒するとしか信じることはできなかったのである、こうした理由から聖言ではその外観に応じてそのように表現されているのである。なぜなら人間の性質のあるがままに、主はその者に現れたもうからである(1838、1861、2706番)。しかし愛と仁慈の中にいる者たち、すなわち、善の中にいる者たちのもとでは憎悪の性質はいかようなものであるかはマタイ伝の主の御言葉から明白である―

 

 あなたたちは、隣人を愛し、敵を憎まなくてはならないと言われているのを聞いている、しかしわたしはあなたたちに言う、敵を愛し、あなたたちを呪う者を祝福し、あなたたちを憎む者に善を行い、あなたたちを傷つけ、迫害する者らのために祈りなさい、これはあなたたちが、天におられるあなたたちに父の子となるためである(5・43‐45)

 

 

 

2.悪魔的形

 

 

天界の秘義1860

 

 「暗闇がたちこめた」。これは憎悪が仁慈に代ったときを意味していることは『暗闇』の意義から明白である。(すぐ下に示されているように)聖言では『暗黒』は誤謬を、『暗闇』は悪を意味している。誤謬が真理に代るとき、『暗黒』が存在し、悪が善に代るとき、またはそれと正確に同一のことではあるが、憎悪が仁慈に代るときは、『暗闇』が存在する。憎悪が仁慈に代るときは、その暗闇はその人間がそれが悪であることを全く知らなくなるほどにも、ましてや、それが他生では彼を地獄へ投げ込むほどにも甚だしい悪であることを全く知らなくなるほどにも甚だしいものになるのである、なぜなら憎悪の中にいる者らはその中に一種の歓喜を、また一種の生命のようなものを認め、この歓喜と生命そのものが彼にそれは善であるとしかほとんど考えさせなくなるからである、なぜなら何であれ人間の快楽と欲念とに媚びるものを、それが彼の愛にこびるために、彼は善であると信じるのであって、しかもそれが彼はそれが奈落のものであると告げられても、ほとんどそれを信じることができないほどにもなり、ましてこのような歓喜と生命とは他生では排泄物と死体の臭気に変わると告げられても、そのことを信じることができないほどにもなるからである。まして彼は自分が悪魔に、地獄の恐るべき映像になりつつあるということを信じないのである、なぜなら地獄は憎悪とこのような悪魔的な形以外の何ものからも成立してはいないからである。

 

 

 

天界の秘義1860[2]

 

それでも考える能力を持っている者はたれでもそのことを知ろうとするなら知ることができよう、なぜならもし彼が憎悪をかりにも描写しまたは表象するとするなら、または何らかの方法でそれを画くことができるなら、それを悪魔の形によってのみしか行うことはできないからであり、そうした形に憎悪を抱いている者らは死後なるのであるが、しかも驚くべきことには、こうした人間は他生では自分たちは天界に入るのであると宣言することができるのであり、ある者は自分たちは信仰を持っていると言うのみで天界に入ることができると宣言してはいるが、しかし天界には仁慈の形以外には何ものもなく、その形の何であるかは敬虔から認めることができよう(553番)。それでこうした者はすべて憎悪と仁慈のこの二つの形は如何にして一つのところに共に一致することができるかを考えて見られよ。

 

 

 

天界の秘義2363

 

自己への愛と世への愛のこの生命の性質について(またそれと同一のものであるところの、誇り、貪欲、羨望、憎悪、無慈悲、姦通の生命の性質について)明らかな考えを得るために、たれでも才能のある人はその人自身でこれらの悪の中の何れか一つを人格化されてみられよ、または、もしできることなら、その人が経験と理性からその悪について思いつくことができる考えに応じて、その目の前にそれを絵に描いてもみられよ。そのときその人はその人が描写しまたは画いたものの力強さに応じて、これらの悪はいかに恐るべきものであるかを、またそれらは内に何ら人間的なものを持っていない悪魔的な形のものであることを認められるであろう。こうした悪に己が生命の歓喜を認める者はすべて死後このような形に実際なるのであり、その者らのその悪における歓びが大きければ大きいほど、益々その者ら自身の形は恐るべきものとなるのである

 

 

 

天界の秘義3484

 

そこから善い霊と天使とは仁慈の形そのものとして現れているが、他方邪悪な霊と奈落の者とは憎悪の形として現れているのである。

 

 

 

3. 憎むな

 

 

マリア・ワルトルタ/聖母マリアの詩下P88

 

(イエズスの従兄弟ヤコボとユダの父アルフェオに)

「あなたこそ息子たちは許しなさい。子供たちの心をあなたが理解しさえすれば、私はあなたを慰められます。心に遺恨があれば私には何もできない」

「許すだって?」

(中略)

 

「私の言うことが聞けないのなら、さっさと出て行け!あの二匹の蛇に、年老いた父がおまえたちを呪いつつ死んでやる、と言っていたと伝えておけ」

「いいえ、それだけはいけない。自分の霊魂を滅ぼすことになる。そうしたいなら私を愛さなくてもよい。メシアだと信じなくてもかまわない。しかし憎むのはよくない。私をあざ笑うのも狂気と言うのもかまわない。しかし・・・憎むな」

 

 

 

マリア・ワルトルタ/受難の前日/P76

 

イエズスは、それをたしなめて、

「あなたたちは、彼と同じことをしてはいけない。人を憎んではなりません」と言う。

 

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズスの受難/P19

 

ラザロ:「では、ユダは逃亡するのですか。それでもかまわない。『彼に出くわしたら』とさっき言いましたが、こう言い直します。この世の果てまで追いかけてユダをたたき殺す、と」

イエズス:「そんなことを望んではいけない」

ラザロ:「いや、あいつを殺ってやる」

(中略)

 

イエズス:「ユダはサタンのところにいるはずです。そして、あなたはいつになってもサタンのもとへは行けない。それよりも殺人の考えを“すぐ”捨てなさい。さもなければ私はあなたから離れます」

ラザロ:「おお!・・・しかし・・・あなたのためならば・・・ああ、そうだ、先生!先生!先生!」

 

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズスに出会った人々2・P343

 

私はもう憎しみを知らない者になりました。なぜなら、しつこい憎しみは不毛のもとだとここで分かったからです。

 

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P90

 

 「彼が私を年端のいかぬ子供のように扱うときでもですか?普段はともかく彼はときどき常識外れなことを言いますよ」

 

「黙ってそれを聞き流すのです。それが怒りを鎮める唯一の薬なのです。謙遜と忍耐をもって沈黙しなさい。相手を罵らないで、もう黙っていられないと思ったら、そこを去りなさい。黙ることを知り、逃げることを知る。これは卑怯のためではなく、返答に窮したためでもない。ただ徳のため、賢明のため、謙遜のためです。議論のとき、正義を守るのは決して易しくないし、心の平和を守るのも難しい。

 

何時でも何かが心の中を濁し、雑音を立てる。そのとき人間の心に反映している神のかたどりは消えてゆき、もう神のことばを聞くことができない。兄弟の間の平和!敵に対しても平和。彼らが我々の敵であればサタンの友だちである。自分を憎む人を憎んで、自分もサタンの友人になりたいのですか。愛から外れている人が、どうして他人を愛へ導くことができよう。

 

あなたたちはよく私に言う。『イエズス、あなたは何回も教えを繰り返すだけでなく、それを実行しておられるのに、それでもあなたは憎まれている』と。私はこのことを何時も繰り返そう。何時かあなたたちと一緒にいられなくなるときには、この教えを天から聖霊を通して繰り返そう。我々は敗北ではなく勝利を教えたい。このために神を賛美しよう!回心者がいない日はなかったか、神の働き手はこれに注意すべきで、うまくいけば主をたたえ、勝利を手にしないときも世間の人々のように平和を失うことがないように。そうすれば・・・」

 

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P243

 

おまえたちは私の子羊の群れに属していないから、信じない。

(中略)

 

おまえたちが子羊の群れの中にいるのは、相手を傷つけ苦しませるためである。私の羊はおまえたちを怖がっている。同じようなできの人間だったら、おまえたちを憎むはずだが、彼らは平和と愛とあわれみの牧者の子羊だから憎むことを知らない。

 

私が憎まないように、私の羊もおまえたちを憎まない。憎みを取れ、それは三重の欲望の実である。肉体とともに霊魂もあることを忘れている野獣のような人間の抑えのきかない自我も取れ。

 

 

 

4.悪と誤謬の中にいる者は絶えず殺されはしないかと恐れている

 

 

天界の秘義390

 

悪と誤謬の中にいる者は、モーセの書に以下のように記されているように、絶えず殺されはしないかと恐れている―

            

おまえらの地は荒廃し、おまえらの都は荒れはてるであろう、またおまえらの中で残された者にはその敵の地でわたしは恐れを抱かせよう。彼らは木の葉のうごく音にもおどろいて逃げ、剣をさけて逃れるようにも逃げ、また追う者もないのに倒れるであろう、彼らは追う者もないのに、剣の前にあるかのように、互いにその兄弟につまづいて、その上に倒れるであろう(レビ記26・33、36、37)。

 

かれらはかれらを守ってくれる者をたれ一人持っていないため、凡ての者を恐れている。悪と誤謬の中にいる者はすべてその隣人を憎悪し、凡て互に他を殺そうとしている。

 

 

 

天界の秘義391

 

他生にいる悪霊の状態は、悪と誤謬の中にいる者が凡ての人を恐れていることを示している。自分自身から仁慈をことごとく剥奪した者はさまよって、彼方此方へと逃げて行く。凡て彼らの行く所ではそれがいかような社会であっても、その社会の人々はかれらが単に近づいてくるのみで直ぐさまその性格を認めるのである、なぜなら他生に存在する認識はそうしたものであるからである。かれらはかれらを放逐するのみでなく、激しく罰し、実にかれらを殺しかねないような憎悪を以って罰するのである。悪霊は互に他を罰し、責め苛むことに最大の喜びを感じており、それがかれらの最高の満足となっている。悪と誤謬そのものがその原因であることは今まで知られていなかったのである、なぜならたれでも人が他の者にのぞむことは凡てその人自身に帰ってくるからである。誤謬はそれ自身の中に誤謬の刑罰を持っており、悪はそれ自身の中に悪の刑罰を持っており、従って、かれらは自分自身の中にこれらの刑罰の恐怖を持っているのである。

 

 

 

.憎悪はたれもその兄弟を容赦しない

 

 

天界の秘義1861

 

 「見よ、煙の炉と火のたいまつを」。『煙の炉』は最も甚だしい誤謬を意味し、『火のたいまつ』は欲念の燃える熱を意味していることは、『煙の炉』の意義が甚だしい誤謬であり、『火のたいまつ』の意義が欲念の燃える熱であることから明白である。『煙の炉』と言われているのは、真理を知ってはいるが、それでもそれを承認はしていないで、心の中でそれを否定しており、実にその生活を真理に反した事柄の中に過ごしている人間は、とくにそうした教会の人間は煙の炉のようにしか見えないためである、すなわち、その人間自身は炉として、その憎悪から発している誤謬は煙としてしか見えないためである。誤謬が発してくる源泉である欲念はそのような炉から発している火のたいまつとして現れており、そのこともまた他生における表象的なものから明白である。(そのことは814、1528番に経験から記されているところである)。このようなものとして現われ、またこのようなものになるものは、憎悪、復しゅう、残酷、姦淫の欲念であり、この欲念に詐欺が混合するときはそれはさらに甚だしくなるのである。

 

 

 

天界の秘義1861 []

 

聖言では『炉』『煙』『火』によりこうしたものが意味されていることは以下の記事から認めることができよう。イザヤ書には―

 

  人はことごとく偽善者であり、邪悪な者であり、口はことごとく愚かなことを話している。邪悪は火として燃え、茨と刺とをやきつくし、森の茂みの中で燃え上がり、彼らは煙が立ちのぼっているようにのぼっている。万軍のエホバの憤りの中に地は暗くなり、民は火のための糧『火のもえぐさ』のようになり、人はその兄弟を容赦しようとはしない(9・17−19)。

 

 ここでは『火』は憎悪を意味し、そこから発する『立ちのぼる煙』はそうした誤謬を意味し、憎悪はたれもその兄弟を容赦しないことにより記されている、なぜならこうした人間は天使たちから眺められると、ここに記されているようにしか見えないからである。

 

 

 

 

6.悪霊と悪魔とは何であれ神的なものはことごとく認識し、知覚はするが、それに反感と憎悪とを抱き

 

 

(基督教徒の背信について。)

霊界日記1558(第3巻)

 

 多くの霊たちの前で、また、私の考えるところでは、マホメットの前でも、私は私自身のもとで以下のことはいかに驚くべきことであろうか、と考えていた、すなわち、口をつぐんで言っていたのである(なぜなら私の考えは一種の言葉であるから)、すなわち、他生では基督教徒と呼ばれている者たちの中では極めて僅かな者しか主をたずね求めはしないのに、人間を、否、悪魔を信奉している、または礼拝している他の者らはその地的な偶像崇拝の対象を探し出して、そこにおいてすらその崇拝を奉げているのであり、そのことはマホメットを、アブラハムを、ヤコブを、モーセを、または他のたれであれ、偶像として承認された者を尋ね求めている者らの実情から明白となっているのである。しかし私は答えとして以下のことを知らされた、すなわち、悪霊と悪魔とは何であれ神的なものはことごとく認識し、知覚はするが、それに反感と憎悪とを抱き、従って身体の生命の中でも、身体を去った後でもそれに力をつくして反抗するものの、彼らを支配している状態に一致しているもの、または悪魔的なものについては、全く逆なことが起ってくるのであり、そのことは、ちなみに、主が宇宙の神、支配者であられることを豊かに証明しているのである。1748年〔60歳〕3月19日。

 

 

 

 

7.殺意

 

 

天界の秘義1010[2]

 

憎悪を抱いている者は仁慈を持っていないのみでなく、仁慈に暴行を加えるのである、すなわち、「血を流す」のである。憎悪には事実殺害が存在しており、それは以下のことから明白である。すなわち憎悪を抱いている者はその憎んでいる者が殺されることを何ものにもまさって願っており、もし外的な拘束により抑えられもしないならば、彼を殺そうと欲するのである。こうした理由から『兄弟を殺しその血を流すこと』は憎悪であり、そしてそれが憎悪であるからには、その者に対する彼の観念[考え]の各々の中にはそれが存在しているのである。冒涜も同じである。すでに言ったように聖言を冒涜する者は真理を憎むのみでなく、それを消滅させ、または殺すのである。このことは他生にいる冒涜罪を犯した者らから明白である。彼らはその身体の中で生きていた間は外面的には正しい、賢い、敬虔なものとしていかほど見えたにしても、他生では主に、また愛の諸善と信仰の諸真理の凡てに致死的な憎悪の念を抱いているが、それはこれらのものが彼らの内的な憎悪、強奪、姦通に対立しているという理由に基いていて、彼らはその内的な憎悪、強奪、姦通を聖いものの仮面の下で覆い隠し、また愛の諸善と諸真理と不善化してそれらに自分自身を支持させるためである。

 

 

 

天界の秘義3182

 

善へ導き入れられて、これと連結することになっている真理が自然的なものから高揚されるとき、それは自然的なものの中に在るものから分離されるが、この分離されることが彼らがその妹レベカを去らせることによって意味されているものである。人間がもはや真理から善を顧慮しないで、善から真理を顧慮するとき、真理は引き離されるのであり、あるいはそれと同一のことではあるが、人間が教義から生命[生活]を顧慮しないで、生命[生活]から教義を顧慮するとき、真理は引き離される[分離される]のである。例えば、教義は、たれをも憎んではならない、なぜならたれでも他の者を憎んでいる者は、その者を各瞬間殺しているからであると教えている。生命の初期では人間はこのことの真理をほとんど容認はしないが、しかし彼が年が進んで、改良されつつあるにつれ、彼はそのことを、自分がそれに応じて生活しなくてはならない教義的な事柄の一つとして顧慮するのである。ついに彼はそれに従って生きるが、そのときは彼はもはや教義からは考えないで、生命から行動するのである。このことが行われるとき、この教義の真理は自然的なものから高揚されて、実に自然的なものから分離されて、合理的なものにおける善の中に植え付けられるのであり、このことが行われると、彼はもはや自然的な人がそのいかような詭弁によってもそれに疑いを抱くことを許さないのであり、いな、彼は自然的な人がそれに反抗して論じることを許しはしないのである。

 

 

 

天界の秘義374

 

 『血の声』は暴行が仁慈に加えられたことを意味することは聖言の多くの記事から明らかであり、その中では『声』は訴える物を意味し、『血』如何様な種類であれ、罪を特に憎悪を意味している。なぜならたれでもその兄弟に対し、憎悪を抱く者は、主が教えられているように、彼を心の中で殺してしまうからである―

 

 昔の人に「殺してはならない、たれであれ殺す者は審判かれるであろう」と言われたことをあなたらは聞いている、しかしわたしはあなたらに言う、すべて軽率に人の兄弟を怒る者は審判かれるであろう。また兄弟にむかってラーカーと言う者は衆議にあうであろう、また馬鹿者と言う者は火の地獄に落ちるであろう。(マタイ5・21、22)。

 

 これの言葉により憎悪の度が意味されているのである。憎悪は仁慈に反しており、たとえ手を用いなくても、心の中で、何であれ、その為すことのできる方法をもって殺しており、手の行為からはただ外なる拘束によってのみ遠ざけられているにすぎないのである。それ故憎悪は凡て血である、例えばエレミヤ記には―

 

 あなたはなぜあなたの道を善として、愛を求めるのか。あなたの裾に貧しい無垢な者の魂の血が見られる(2・33、34)

 

 

 

 

8.蛇

 

 

天界の秘義251

 

『蛇』が全般的に悪の凡てを、とくに自己への愛を意味している理由は悪はことごとく心の感覚的な部分から、またかの記憶知から発していて、それらが最初蛇により意味されたということであり、それゆえそれはここでは凡ゆる種類の悪を、特に自己への愛を、またそれと同一の、隣人と主に対する憎悪を意味している。聖言ではいろいろな蛇として、例えば憎悪である毒の相違に応じて、『スネーク』、『コカトリス』、『アスプ』、『毒蛇』、『火蛇』、『飛ぶ蛇』、『這う蛇』、『蝮』として記されている。

 

 

 

 

9.親類、友、仲間は他生で互に会うことについて

 

 

霊界日記2771

 

親類、友、仲間は他生で互に会うことについて

 夥しい経験から、以下のことを知ることが与えられた、即ち、他生では彼らはその親類、友、仲間、知人に会い、また生きていた頃彼らが単に評判から知っていたに過ぎなかった者にも会って、彼らと話し合い、また最初は彼らと交わるのである、なぜなら他生では距離は何ら重要なものではなく、千マイルも―またはそれが一万マイルであっても―離れている者たちも彼らの近くにおり、実に、各々の者はその者の性質に従って、その近くにおり、それで彼らは彼らの真近に現れることが出来るのである。それで事態はそうしたものである以上、親類、両親、子供、友、仲間が、また何処であれ知り合った者が互に会いはするものの、身体の生命の間でたれかを憎悪した者たちは非常に不運である、即ち、そうした者らもまた共にやって来て、憎悪を働かせ、憎悪した者らを非常に悩ませ、苦しめるのであり、霊魂がおびただしくいることも何らの妨げとはならないのであり、そのことは私は非常に多くの経験から知ることを与えられたのである。それで憎悪に警戒されたい、彼らの生命は身体における生命に類似しており、それで、生命の方面では、自分らは身体の生命の中にいるとしか考えはしないのである。

 

 

 

 

10.今は人間各々は自分自身を他の者よりも愛しかくて凡ての者を憎んでいる

 

 

天界の秘義637[2]

 

このことがまた主が世に来られた理由であった。もし主がその神的慈悲の中に来られなかったならば、地上の全人類は滅んでしまったであろう、なぜなら教会はその時その最後の末端に達していて、いかような善も真理も殆ど生き残ってはいなかったからである。人類は天界と霊たちの世界を通して主と連結していない限り生きることが出来ない理由は、人間はそれ自身において認められるならば、獣よりも卑しいということである。もし彼は彼自身の自由に委ねられるならば、彼は彼自身と凡ゆる物の破滅へ突っ込むであろう、なぜなら彼は彼自身と凡ゆる物の破壊をもたらすもの以外の何物をも欲していないからである。人間の秩序は人間は自分自身のように他の者を愛さなければならないということでなくてはならない。しかし今は人間各々は自分自身を他の者よりも愛しかくて凡ての者を憎んでいるのである。しかし獣の場合は全く異なっており、その秩序はそれに従って獣が生きているものである。かくて獣はその獣がその中に置かれている秩序に応じて生きているが、人間は全くその秩序に反して生きているのである。それで主が人間を憐れみ、天使たちを通して人間を御自身に連結させられないということが仮にもあれば、人間は一瞬も生きることが出来ないのである、しかしこのことを人間は知ってはいない。

 

 

 

 

11.凡ての不法の源泉

 

 

天界の秘義374[2]

 

憎悪は『血』により意味されるように、各種の不法も同じく『血』により意味されている、なぜなら憎悪は凡ての不法の源泉であるからである。

 

 

 

 

12.他生では光はその中に理知を持ち、熱はその中に愛を持ち、暗闇は狂気を、冷寒は憎悪を持っている

 

 

天界の秘義3643

 

前に言ったように他生では光はその中に理知を持ち、熱はその中に愛を持ち、暗闇は狂気を、冷寒は憎悪を持っているのである。

 

 

 

 

13.ジャン・マリ・ヴィアンネ

 

 

聖ヴィアンネの精神P284

 

選ばれた者の特徴は愛であります。丁度、地獄にいる者のしるしが憎しみであるように。地獄にいる者は同じ地獄にいる他の者を愛しません。弟は兄を憎み、子は父を憎み、母は子を憎むのです。そして、このような憎しみが全部、一つの固まりになって神様に集中されるのです。これが地獄の真の姿です。聖人はすべての人を愛します。殊に敵を愛します・・・神様の愛に燃えた心は、丁度、雌鳥が雛の数に応じて羽を広げるように、神様が自分の生涯の途中で出合わせてくださる霊魂の数が多ければ多いほど大きく開かれます。

 

 

 

 

14.マリア・ワルトルタ

 

 

マリア・ワルトルタ/聖母マリアの詩 下/P236

 

憎しみは罪と同じように人間を汚します。

 

 

 

マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音/2卷P551/130・5

 

憎しみ。サタンの友である者だけが憎しみを抱きます。善人は人を憎みません。決して。どんなわけがあろうと。侮られ、蔑まれようと、大損害を蒙(こうむ)ろうとも赦します。決して憎みません。憎しみは、破滅した霊魂が自分自身に対して行う証言であり、無辜の人に与えられる最も素晴らしい証言です。憎しみは善に対抗する悪の反乱だからです。善良な人に対しては容赦はしません。

 

 

 

マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音/2卷P507/126・7

 

わたしはどのように襲ったか?

常軌を逸するまで怒り狂い、その後衝撃の最初の引き金を引いたのか? 時として人は自分の感情を抑えられません。なぜならサタンは、石投げ兵のように、悪の中に人を投げ込むからです。しかし、一つの石が目標に達した後、もう一度投げられ、襲うために、石投げ兵の手に自ら戻って来るとしたら、その石についてあなたたちは何と言うでしょうか? 『魔法にかけられた地獄のような力に囚われている』と言うでしょう。第一撃の後、その残忍さは衰えもせず、第二、第三、第十番目の打撃を与える人はそうなのです。怒りは収まるから、最初の弾みのすぐ後、尤もな理由から弾みがまたあるとしても、理性がその後釜に座ります。ところが一方、真の殺人者、すなわちサタンは憎しみですから、兄弟への憐れみなど無いし、ありえないサタンの中では襲われた犠牲者に対する残忍さは弥(いや)増します。

 

 

 

 

15.憎悪は人間のもとに地獄を構成する

 

 

黙示録講解1015[2]

 

 殺そうと欲する[意志する]ことである憎悪は主に対する愛の、また隣人に対する愛の反対のものであるからには、これらの愛は人間のもとに天界を作るものであるからには、憎悪はかくて反対のものであるため、人間のもとに地獄を作るものであることは明白である。奈落の火は憎悪以外のいかようなものでもないのであり、その結果憎悪の質と量とに従って薄暗く燃えている火の中に、憎悪から発する復讐の量と質とに従って薄暗い焔を上げて燃えている火の中に地獄は在るように見えるのである。

 

 

 

16.殺そうと欲する[意志する]ことである憎悪

 

 

黙示録講解1015[2]

 

 殺そうと欲する[意志する]ことである憎悪は主に対する愛の、また隣人に対する愛の反対のものであるからには、これらの愛は人間のもとに天界を作るものであるからには、憎悪はかくて反対のものであるため、人間のもとに地獄を作るものであることは明白である。奈落の火は憎悪以外のいかようなものでもないのであり、その結果憎悪の質と量とに従って薄暗く燃えている火の中に、憎悪から発する復讐の量と質とに従って薄暗い焔を上げて燃えている火の中に地獄は在るように見えるのである。

 

 

 

 

17.その者が以前行った業は、その外なる形ではいかほど善であるように見えたにしても、ことごとく自己を、世を求める愛の業であったのであり、その中には憎悪が、その業が報いられはしなかったときは必ず潜んでいた

 

 

黙示録講解1017

 

 人間が憎悪を慎み、そこから遠ざかり、それを悪魔的なものとして避けるとき、そのとき愛、仁慈、なごやかさが主から天界を通して流れ入り、そのとき初めてその者が行う業は愛と仁慈との業である。その者が以前行った業は、その外なる形ではいかほど善であるように見えたにしても、ことごとく自己を、世を求める愛の業であったのであり、その中には憎悪が、その業が報いられはしなかったときは必ず潜んでいたのである。憎悪が遠ざけられない限り、人間は単に自然的なものであるに過ぎず、単に自然的な人間はその人間が受け継いだ凡ゆる悪の中に止まっており、凡ゆる者を支配することを求める愛であるところの憎悪が、その根と共に除かれない中は、霊的なものとなることも出来ないのである、なぜなら霊的な愛である天界の火は、憎悪である地獄の火が、途中に立ちはだかって、それを閉め出している限りは、流れ入ってくることは出来ないからである。

 

 

 

 

18.教会の終り

 

天界の秘義2910[2]

 

 なぜなら諸教会の実情は以下のようになっているからである、即ち、初めは仁慈が彼らのもとで根元的なものとなっていて、たれでもその時は自分自身のためではなくて、隣人、共同体、主の王国、特に主のために、他の者を兄弟として愛し、善から感動するのである。しかし時がたつに連れ、仁慈は冷ややかになり、皆無にさえもなり始めるのである。その後互いに他を憎悪する心が生まれてきて、それは、市民社会では人間は法律の下に在り、外面的な抑制の束縛の下におかれているため、外面的には現れはしないものの、それでも内的には培われているのである。これらの外的な抑制の束縛は自己を、また世を求める愛から発しており、それらは名誉と卓越を求める愛であり、そこからまた権力を求める愛であり、かくて名声を求める愛であり、利得を求める愛であり、そこからまた権力を求める愛であり、かくて名声を求める愛である。これらの愛の下には隣人に対する憎悪が隠れており、それは、人間が凡ゆる者を支配し、他人のものである物を所有しようと欲するといった性質を持っており、こうした欲望が反対されると、彼らはその心の中に隣人に対する軽蔑を抱き、復讐を息づき、その隣人の破滅を歓び、敢えて可能な限り残虐なことをやってのけさえもするのである。このようなものへと教会の仁慈はその終りには遂には衰退して行って、そのとき、それについては信仰は最早存在していないと言われるのである、なぜなら幾度も示したように仁慈のない所には信仰はないからである。

 

 

 

天界の秘義2910[3]

 

このような終りを持った幾多の教会が私たちに聖言から知られているのである。最古代教会は洪水の頃このようにして消滅したのであり、同じように洪水以後に存在した古代教会も消滅したのであり、またヘブル教会と呼ばれた第二古代教会も消滅したのであり、最後にユダヤ教会も消滅したのであるが、このユダヤ教会は決して仁慈から始まった教会ではなく、単に教会を表象するものに過ぎなかったのであり、それは主が世に来られるまで、表象的なものにより天界との交流が存続するためのものにすぎなかったのである。その後異邦人の教会と呼ばれる新しい教会が主により起されたが、それは内なる教会であったのである、なぜなら内的な諸真理が主により啓示されたからであるが、しかしこの教会も今や終りに達しているのである、なぜなら今や仁慈が存在しないのみでなく、仁慈に代って憎悪が在るからであり、その憎悪は、外面的には現れてはいないけれど、それでも内に潜んでいて、各々のもとに可能な時はいつでも、即ち、外面的な束縛によって抑制されないときはいつでも、迸り出てくるほとばしり出てくるからである。

 

 

 

 

19.公教要理(カテキズム)

 

 

480 平和に関して、主は一人ひとりの人に何を求めておられますか。

 

「平和を実現する人は幸い」(マタイ5・9)と宣言される主は、心の平和を求め、怒りの罪を退けておられます。怒りは、受けた悪に対して報復を切望することです。また、憎悪の罪を退けておられます。憎悪は、隣人の不幸を望むように人を仕向けます。このような態度は、重大なことがらについて意図し、また同意する場合、愛に背く大罪となります。

 

 

 

 

20.暗闇は狂気を、冷寒は憎悪を持っている

 

 

天界の秘義3643

 

諸天界の中にいる者たちは朝の光と日中の光のような、また夕暮に近づいている光のような静寂な光の気流の中におり、同様に彼らは春の、夏の、秋の熱のような熱の中にいるに反し、地獄にいる者らは粗悪な、曇った、暗い大気の中にいて、また寒冷の中にいることが認められた。全般的にこれらの者の間には均衡が在ることが認められ、また天使たちは愛と仁慈とそこから派生してくる信仰の中にいるに応じ益々かれらは光の気流の中に、春の熱の気流の中にいるが、奈落の者は憎悪の中におり、そこから誤謬の中にいるに応じ、益々彼らは暗黒と冷寒の中にいることが認められたのである。前に言ったように他生では光はその中に理知を持ち、熱はその中に愛を持ち、暗闇は狂気を、冷寒は憎悪を持っているのである。

 

 

 

 

21.憎悪が彼らの語る一つ一つの言葉の中に潜んでいて、それが認められる

 

 

天界の秘義1080

 

憎悪が彼らの語る一つ一つの言葉の中に潜んでいて、それが認められる

 

 

 

天界の秘義1010[2](太字は当方による)

「憎悪を抱いている者は仁慈を持っていないのみでなく、仁慈に暴行を加えるのである、即ち、『血を流す』のである。憎悪には事実殺害が存在しており、それは以下のことから明白である。即ち憎悪を抱いている者はその憎んでいる者が殺されることを何ものにもまさって願っており、もし外的な拘束により抑えられもしないならば、彼を殺そうと欲するのである。こうした理由から『兄弟を殺しその血を流すこと』は憎悪であり、そしてそれが憎悪であるからには、その者に対する彼の観念[考え]の各々の中にはそれが存在しているのである。