第5誡

なんじ、殺すなかれ。

 

 

十戒(出エジプト20)

憎しみ・憎悪憎むな主に対する敵意

兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける(マタイ5・22)

 

 

 

 

 

1.聖書

2.自然的意義:人間の生命を奪うこと、致命的な傷を加えること、身体を切断すること、名声に致命的な損害を加えること、敵意、憎悪、復讐

3.霊的意義:人間の霊魂を殺し、破壊する種々の方法

4.天的意義:軽率に主に対して怒りを発し、主を憎悪し、その御名を抹殺しようと欲すること

5.憎悪は人間のもとに地獄を作る

6.聖母から司祭へ

7.マリア・ワルトルタ

8.霊界日記

 

 

 

 

1.聖書

 

 

出エジプト記20・13、申命記5・17

 

殺してはならない。

 

 

 

 

2.自然的意義

 

 

真の基督教309

 

「汝殺すなかれ」

 

自然的な意義では、この誡命は、人間の生命を奪うこと、致命的な傷を加えること、あるいはその身体を切断することを意味し、また人の名声に致命的な損害を加えることを禁じている。なぜなら、名声はしばしば生命それ自身と同一であるからである。さらに広い自然的な意義では、殺人は敵意、憎悪、復讐を意味している。なぜなら、火がくすぶりつつ灰の中に潜んでいるように、殺害がそれらの思いの中に潜んでいるからである。地獄の火はそれ以外の何ものでもない。それ故、我々は憎悪に燃える、復讐に燃えるというのである。これらは意図における殺害であり、法律や報復や、復讐を恐れる必要が無くなるならば、特にもし、これらに裏切りと残忍が結びつけられるならば、行為となって爆発するであろう。

憎悪は殺害であることは主の以下の言葉によって明白である、「古の人に汝殺すなかれ、殺す者は審判にあうべしと云えることあるを汝等聞けり、されど我は汝らに告ぐ、すべての兄弟を故なくして怒るものは審判にあうべし」(マタイ5・21、22)。これは意図は意志に属し、意志することは潜在的な行為であるからである。

 

 

 

 

霊的な生命・神の聖言−遺稿―(黙示録講解からの抜粋)P90

 

『あなたは殺してはならない』という、この戒めの最も近い意義は―それは霊的な道徳的な意義であるが―人はその兄弟を、または隣人を憎んではならない、かくて彼の名誉を傷つけたり、または彼を中傷したりしてはならないということである、なぜならそのことにより彼は、その者の社会的な生命と呼ばれているところの、その者の兄弟たちの間におけるその者の生命の源泉であるその者の評判と名誉とを害し、または殺してしまい、後ではその者は社会的に死んだ者として生きるからである、なぜなら彼は卑賤な邪悪な者らの一人として数えられて、彼とはたれ一人交際しなくなるからである。このことが敵意から、憎悪から、または復讐から行われる時、それは殺人である。

 更に、世の多くの者によりこの生命は身体の生命と同じように考えられ、尊重されているのである。そして諸天界の天使たちの前ではこの生命を破壊する者はその兄弟の身体の生命を破壊してしまったかのように罪を犯したものとして考えられているのである。なぜなら敵視、憎悪、復讐は殺害を息づいて、それを欲しているが、しかし法律を、抵抗を、世評の損失を恐れる恐怖により抑制され、拘束されているからである。それでもこの三つのもの〔敵視、憎悪、復讐〕は殺害を求めている努力であり、努力はことごとく行為である、なぜならそれは恐怖が除かれると行為となるからである。このことがマタイ伝に教えられるものである、

 

 あなたらは昔から、あなたは殺してはならない、たれであれ殺す者は審判にかけられる恐れがあると言われたことを聞いている。しかしわたしはあなたらに言う、たれであれ理由も無しにその兄弟を怒る者は審判にかけられる恐れがあり、たれであれその兄弟に、ラーカーと言う者は評議にかけられる恐れがあるが、たれであれ、馬鹿者、と言う者は火の地獄に投げ込まれる恐れがある(マタイ5・21−26)(黙示録講解1012番)。

 

 

 

 

 

3.霊的意義

 

 

真の基督教310

 

 「霊的な意義」では、人間の霊魂を殺し、破壊する種々の方法を意味している。例えば、霊魂を神から、宗教から、神的な礼拝から引き離すようなことである。これは困難を仄めかすことによって或いは嫌忌と反感を注ぎ込むことによって行われる。この意義によって地獄の凡ゆる悪魔と悪鬼は殺人者であり、この世界で教会の聖なるものを犯し、汚す者達は彼らと連結している。虚偽によって、霊魂を破壊する者達は、アバドンあるいはアポリオンと呼ばれる深淵の王、即ち、破壊者(黙示録9・11)によって意味され、預言的な聖言では、その犠牲者は以下の記事のように、「殺されし者」と呼ばれている。

 

「神エホバかく言い給う、屠らるべき羊を牧え、これを持つ者これを屠らん」(ゼカリア11・4、5)。

「われらはひねもす死にわたされぬ、我らは屠られんとする羊の如くせられたり」(詩篇44・22)。

「ヤコブは来たらむ者らをして根を張らしめん。ヤコブの殺さるるは彼を殺ししものの殺さるるが如きことあらんや」(イザヤ27・6、7)。

「盗人の来るは盗み、殺し、亡ぼさんとするの他なし。わが来るは羊に生命を得しめ、かつ豊かに得しめんためなり」(ヨハネ10・10。比較イザヤ14・21、26・21、エレミア4・31、12・3、黙示録9・4、11・7)

 

これが悪魔は「始めより殺害者」と呼ばれる理由である(ヨハネ8・44)。

 

 

 

(霊的殺人)

真の基督教380(太字は当方による)

 

(2)「似非信仰は唯一の真の信仰より離れ、『他の途によって攀じ登り』主を神として認めず、単なる人間として認める者らによって抱かれる。」

 

 唯一の、真の信仰から離れる凡ゆる信仰は贋物である。何故なら、唯一の真の信仰のみが存在し、それから離れるものは凡て誤ったものであるからである、主と教会との結婚は教会の凡ゆる善と真理を生み、それ故凡ての純粋な仁慈と信仰とを生むのである。しかし、その結婚から発しない凡ゆる仁慈と信仰とは一夫多妻あるいは、姦通の不法の子孫であって、正当に生まれたものではない。主を認めしかも虚偽と異端とを採用する凡ゆる信仰は一夫多妻の子孫であり、一つの教会の三人の主を認める凡ゆる信仰は姦通の子である。何故ならそれは娼婦の子のようなものであるか、あるいは、一人の夫に嫁ぎながらも他の二人の者と夜を過ごし、その各々を交互に己が夫と呼ぶ女の子のようなものであり、それ故かかる信仰は似非信仰と呼ばれる。主は多くの箇所でかかる信仰を告白する者を姦通者と呼び給い、ヨハネ伝の如く、彼らはまた盗人、強盗によって意味されている。「まことに我汝らに告ぐ、羊の檻に門より入らずして、他より越ゆる者は盗人なり、強盗なり。我は門なり。我によりて入る者は、救はるべし」(ヨハネ10・1、9)。羊の檻に入ることは、教会に入ることであり、また天界に入ることである。何故なら、教会は天界と一つであり、実にそれは天界を構成するからである。それ故、主は教会の花婿であり夫である如く、天界の花婿であり夫である。信仰の合法性あるいは非合法性は上述した三つの指示、即ち、主を神の子として認めること、彼を天地の神として認めること、彼は父と一であると認めることによって決定され、如何なる信仰であれこの要素から離れる限り、それは似非信仰である。

 不義なる似非信仰は主を神として認めず、単に人間として認める者たちによって抱かれている。これは二つの邪悪な異端アリウス派およびソツイヌス主義によって極めて明瞭である。彼らは主の神性を否定し、他の途より攀じ登る故、基督教教会から呪詛され、追放されたのである。しかし、私はその憎むべきものが現今教会の多くの会員たちの思考の中に潜んでいることを恐れている。人が自らを学問と判断力とにおいて他に勝っていると考えるに従い、主は人間であって神ではないとの考えをとらえ、これを採用し勝ちになることは注意すべきことである。しかしかかる考えを採用する者は凡て、霊界では地獄にあるアリウス派およびソツヌス派との交わりに入って行く。これらの考えは現今では普通の考えであるのは、各人間にこれに付き添っている霊が在るからであり、もしそうでなければ、人は分析的に、合理的に、霊的に考えることが不可能となり、人間ではなく、獣となり、しかし、人間はすべて己が意志の情とそこから生まれる思考に類似した霊を自らに惹き寄せるからである。聖言から発する真理とこれに従う生活によって確認された善い諸情は、天界から天使を惹き寄せ、虚偽と悪しき生活によって確認された悪い諸情は地獄から霊を惹き寄せる。かくして悪い人間は益々悪魔との交わりに入り、それ故聖言の真理に抗う虚偽を、主に抗うアリウスの、またソツヌスの憎むべきものを益々確認するのである。これは如何なるサタンも聖言から真理を聞くに堪えず、実にイエスの御名をすら聞くに堪え得ないからである。もし、これを聞くならば、彼らは狂暴になり、彼方此方と駈け廻って、涜言を吐き散らし、そのとき、もし、天界から光が射し入るならば、彼らは暗い洞穴に飛び込み、そこで地下室で鼠を狩り立てる猫、あるいは梟の光によって見るのである。かくのごときが情と智とをもって主の神性と聖言の聖さとを否定するすべての者たちの死後の運命である。またこれが彼らの外なる人が如何に偽善を行い、基督教徒らしく佯り装うとも、その内なる人の状態である。私はこれを見、かつ聞いている故、それが真理であることを知っている。

唇では主を贖罪者、救い主として尊敬するものの、心では彼を単なる人間として認めている者がいる。彼等は蜜を塗った唇をもっているが、その心は苦味に満ち、その言葉は砂糖であるが、その思いは毒であり、彼らは毒蛇が一杯入っている饅頭のようなものである。若し、彼等が祭司であるならば、平和な国民の旗を立てて航海して行くが平和な船が近づくと、黒い旗をかかげ、船を捕らえ、船員を奴隷にして売りとばす海賊のようなものである。彼等はまた善悪を知る木の蛇のようなものである。彼らは光の天使のように装い、手にはその善悪を知る木から取ったものではあるが、生命の木の黄金の果実のように見える林檎を持ち、これを提供して言う「神汝らがこれを食らう日には汝等の目開け、汝等神の如くなりて善悪を知るに至るを知り給うなり」(創世記3・5)。その犠牲はこれを食うや、蛇に従って地獄に行き、そこに彼と共に住む。近くには、アリウスとソツヌスの林檎を食った凡ゆるサタンがいる。これらは婚礼に出席したが式服を着けていなかったため、外の暗闇に投げ出された者によって意味されている(マタイ22・11、12、13)。

 婚礼の服とは神の子、天地の神、父と一なる者としての主に対する信仰である。唇をもって主を尊ぶが、しかし心では彼を単なる人間として認める者らが他の者達を説きつけて、自らが考えるように考えさせようとするならば、霊的殺人であり、その最悪な者は霊的食人種である。何故ならば、人間の生命は主に対する愛と主に対する信仰から発するが、若し主は神なる人であり、人なる神であるとの信仰と愛とのこの要素が取り去られるならば、彼の生命は死に変わるからである。かくして人間は羊が狼に食い尽くされるように殺されるのである。

 

 

 

 

霊的な生命・神の聖言−遺稿―(黙示録講解からの抜粋)P91

 

 しかし、あなたは殺してはならない、というこの戒めの、更に遠い意義は―それは天的な霊的な意義と呼ばれているが、その意義は―人は人から神を信じる信仰と神を愛する愛を取り去り、かくてその霊的な生命を取り去ってしまってはならないということである。これは殺人そのものである、なぜならその信仰から人間は人間となっていて、身体の生命はこの生命に、媒介的な原因がその第一次的な原因に仕えているようにも、仕えているからである。更に、この霊的な殺人から道徳的な殺害が派生しており、従ってその一方のものの中にいる者はまたその他方のものの中にもいるのである、なぜなら人間の霊的な生命を取り去ろうと欲する者は、もしそれを取り去ることが出来ないなら、その人間を憎悪するからである、なぜなら彼はその人間の中に在る信仰と愛とを憎悪し、かくてその人間その者を憎悪するからである。この三つのものは、即ち、信仰と愛とにかかわる霊的な殺害と名声と名誉にかかわる道徳的な殺害と、身体にかかわる自然的な殺害は、原因と結果のように、互に他から連続して発生しているのである(黙示録講解1012番)。

 

 

 

霊界日記2705

 

「これらの者らについて私はその際霊たちと話し合い、以下のことを知らされた、即ち、こうした者らは他の霊たちの間では容赦はされないで、彼らの社会から糞尿のように斥けられてしまい、そのこともまた自然的なものと霊的なものと天的なものとの秩序の法則から確認されて流れ出ており、そのことについて彼らはまた私と話したのである、なぜなら天的な社会はことごとく婚姻愛[結婚愛]に基礎づけられており、その愛から善良な愛と情愛とが凡て発生しており、かくて彼らは無垢に基礎づけられているのである。こうした輩はその欲念をもって無垢の原理のみでなく、愛の原理をも破壊しようと躍起になるのである、なぜならこれらの者は婚姻愛の凡てに全く対立して、これを憎悪するのみでなく、また無垢にも対立して、それを殺すほどに害うからであり、更に彼らは婚姻愛に浸透することが出来る無垢な者たちを後には娼婦として生きるようにしむけてしまい、かくて彼らは内的な性質の殺人者である、なぜなら愛の最初の花は処女を婚姻愛へ導き入れて、夫と妻の心を連結させるものであるからである。霊たちはこうした事柄について私と話したのである。」

 

 

 

神の摂理94

 

主の人間との結合と人間の主との相互的な結合は人間がその隣人を自分のように愛し、主を凡てのものにまさって愛することにより行われる。自分のように隣人を愛することは彼に不誠実な、不当な行為をしないこと、彼を憎まないこと、或いは彼に対し復讐の念に燃えないこと、彼をののしらず、そしらぬこと、その妻と姦淫を犯さぬ事その他それに類した罪を彼に為さないことである。このようなことを為す者はその隣人を自分のように愛していないことを誰が理解し得ないであろうか。しかしそのようなことは隣人に悪であると同時に主に対し罪であるため、そこから遠ざかる者は隣人に誠実に、正当に、親切に、忠実に行動している。そして主も同じように行動されるため、そこに相互的な結合が生まれ、かくて人間がその隣人に為すものは凡て、主から為し、人間が主から為すものは凡て善であり、そのとき彼にとり隣人はもはや人物ではなくて、その人物の中の善である。何物にもまさって主を愛することは、主は聖言の中におられるゆえ、聖言を害わず、また主は教会の聖い物の中におられるゆえ、それを害わず、また魂はことごとく主の御手に在るゆえ、何人の魂をも害わないことを意味している。これらの悪を恐るべき罪として避ける者は何ものにもまさって主を愛するが、しかし隣人を自分自身のように愛する者のみがこのことを為すことが出来るのである、なぜならその二つのものは分かつことが出来ないからである

 

 

 

 

4.天的意義:軽率に主に対して怒りを発し、主を憎悪し、その御名を抹殺しようと欲すること

 

 

真の基督教311

 

「天的な意義では」殺害することは軽率に主に対して怒りを発し、主を憎悪し、その御名を抹殺しようと欲することである。このような人々は彼を十字架につけると言われる。主が再び世に来り給うならばユダヤ人らが前に行ったように、彼らは実際これを行うであろう。この事は子羊が「殺されしままに」(黙示録5・6、13・8)立つことにより、「十字架につけられし者」(黙示録11・8、ヘブル6・6、ガラテア3・1)により意味されている。

 

 

 

真の基督教312

 

内なる人の性質は、主によって改良されない限り、如何なるものであるかは、地獄の悪魔と悪鬼によって私に明らかになった。なぜなら、彼らは絶えず主を殺そうとする考えを抱いているからである。けれども彼らはそれが出来ないために、主に献身している者達を殺そうとするのである。彼らはこれを、この世の人間が為すことが出来るように為すことが出来ないため、彼らの霊魂を破壊しようと、即ち、彼らの信仰と仁慈とを破壊しようと努めるのである。憎悪は彼らの間では青ざめた火のように、復讐は蒼白な火のように現れるが、ただしこれは火ではなく外観である。彼らの心の凶悪さは、時折空中に架空な戦いを出現させ、その戦いに天使達は倒されて、殺される。このような恐るべき空想を生むものは、彼らの天に対する怒りと憎悪である。更に、彼等自身は遠方では、虎、豹、狼、狐、犬、鰐その他凡ゆる種類の蛇のように見え、而して彼らは優しい動物の表象的な形を見る時、想像においてこれに飛びかかり、これを滅ぼそうと試みるのである。嘗て若干の悪魔が私の眼前に竜の形をとって現れ、婦人達の側に立った。婦人達は嬰児を抱いていたが、これを彼らは、黙示録(12章)に述べられている通りに噛み砕こうと努めたのである。この外観は主と主の新しい教会に対する彼らの憎悪を表象するものであった。

世に在って主の教会を破壊しようと欲する人間は、これらの悪魔に似ている。こうした事実は彼らに連なっている者達に明らかではない。それは人間にその地上の義務を果たさせる物質的な身体によって、このような物は視野から遮断されているからであるが、彼らの身体を眺めないで、彼らの霊を眺める天使達には彼らは上述した悪魔のように見えるのである。主がある人間の目を開いて、これに霊界を見ることを得させ給わない限り、誰がこのような事柄を知ることが出来るであろう。もし主がこれを明らかにし給わなかったならば、これらの事や他の多くの極めて重要な事柄は永久に人類から隠れたままにおかれなかったであろうか?

 

 

 

 

霊的な生命・神の聖言−遺稿―(黙示録講解からの抜粋)P91

 

 地獄にいる者は凡て、主に対する憎悪を抱き、かくて天界に対する憎悪を抱いているように―なぜなら彼らは善と真理に反抗しているからであるが―地獄は本質的な殺人者であり、または本質的な殺害の源泉である。それが本質的な殺害の源泉であるのは、人間は主から善と真理とを受け入れることを通して人間となっており、従って善と真理とを破壊することは人間的なものそのものを破壊し、かくて人間を殺してしまうことであるためである。

 地獄にいる者らはこうしたものであることは未だ世では知られてはいないのは、地獄に属しており、それで死後地獄に入って来る者らの中には、善と真理に対する、または天界に対する憎悪は明白ではなく、まして主に対する憎悪は明白ではないためである。なぜなら凡ゆる者は世に生きている間は外なるものの中におり、この外なるものは正直で礼儀正しく、公正で公平な、善い、真であるようなものを偽装するように幼い頃から教えられ、訓練されているからである。にも拘らず、憎悪は彼らの霊〔精神〕の中に隠れており、しかもそれは彼らの生命の悪と等しい度をもって隠れているのである。そして憎悪は霊の中に在るため、死後現実に起こることではあるが、それは外なるものが傍らに取り除けられると、迸り出てくるのである。

 善の中にいる凡ての者に対するこの奈落の憎悪は主に対する憎悪であるため、それは相手を殺そうとする憎悪である。そのことは特に彼らが悪を行ってそのことに覚えるその歓喜の中に認められることが出来るのであり、それは度においては他の凡ゆる歓喜にもまさっているといったものである。なぜならそれは霊魂を破壊しようとする欲念に燃えている火であるからである。更に、この歓喜は、彼らが破壊しようと企てている者たちに対する憎悪から発しているのではなくて、主御自身に対する憎悪から発していることが確かめられたのである。そして人間は主から人間となり、主から発している人間的なものは善と真理であるため、また地獄にいる者らは、主に対する憎悪から、善と真理である人間的なものを殺そうと燃えているため、地獄は殺人そのものの源泉であることが生まれている(黙示録講解1013番)。

 

 

聖書[4]

 

 あなたは殺してはならない。『殺すこと』により人間はまた憎悪を抱くことを、復讐心に燃えて、殺そうとまで欲することを理解している。霊的天使は悪魔として行動し、人間の霊魂を破壊することを理解している。そして天的天使は主に対して、また主のものであるものに対して憎悪を抱くことを理解している。

 

 

 

 

5.憎悪は人間のもとに地獄を作る

 

 

天界の秘義1047

「このことは自己を求める愛と世を求める愛が―それらは人間の意志に属したものであるが―憎悪以外の何ものでもないという事実から充分に明らかである。なぜならたれでも自分自身を愛するに応じて益々隣人を憎むからである。」

 

 

 

黙示録講解1015[2]

 

 殺そうと欲する[意志する]ことである憎悪は主に対する愛の、また隣人に対する愛の反対のものであるからには、これらの愛は人間のもとに天界を作るものであるからには、憎悪はかくて反対のものであるため、人間のもとに地獄を作るものであることは明白である。奈落の火は憎悪以外のいかようなものでもないのであり、その結果憎悪の質と量とに従って薄暗く燃えている火の中に、憎悪から発する復讐の量と質とに従って薄暗い焔を上げて燃えている火の中に地獄は在るように見えるのである。

 

 

 

黙示録講解1015[3]

 

憎悪と愛とは真向から対立しているものであるからには、憎悪は結果として、ちょうど愛が人間のもとに天界を構成しているように、人間のもとに地獄を構成するからには、主は以下のように教えられている―

 

 もしあなたが祭壇に捧げ物をして、そこであなたの兄弟があなたに何かのことで反感を抱いていることを憶い出すなら、そこにあなたの捧げ物をその祭壇の前に残しておいて行き、先ずあなたの兄弟と和解し、それから帰って来て、捧げ物を捧げなさい。あなたの仇と共に道の中にいる間にその者と和解しなさい、もしかしてその仇があなたを裁判官に引き渡し、その裁判官が役人に引き渡し、あなたが牢に投げ込まれる恐れがないためである。まことにわたしはあなたに言います。あなたは最後の小銭を払ってしまうまではそこから出てくることはないのである(マタイ5・23−26)。

 

裁判官に引き渡され、その裁判官により役人に引き渡され、その役人により牢に投げ込まれることは、その者が世においてその兄弟に対し憎悪を抱いていたことから死後も憎悪の念にいる人間の状態を記しており、『牢』は地獄を意味し、『最後の小銭を払うこと』はとこしえに燃え続ける火と呼ばれる刑罰を意味している。

 

 

 

 

黙示録講解1017

 

 人間が憎悪を慎み、そこから遠ざかり、それを悪魔的なものとして避けるとき、そのとき愛、仁慈、なごやかさが主から天界を通して流れ入り、そのとき初めてその者が行う業は愛と仁慈との業である。その者が以前行った業は、その外なる形ではいかほど善であるように見えたにしても、ことごとく自己を、世を求める愛の業であったのであり、その中には憎悪が、その業が報いられはしなかったときは必ず潜んでいたのである。憎悪が遠ざけられない限り、人間は単に自然的なものであるに過ぎず、単に自然的な人間はその人間が受け継いだ凡ゆる悪の中に止まっており、凡ゆる者を支配することを求める愛であるところの憎悪が、その根と共に除かれない中は、霊的なものとなることも出来ないのである、なぜなら霊的な愛である天界の火は、憎悪である地獄の火が、途中に立ちはだかって、それを閉め出している限りは、流れ入ってくることは出来ないからである。

 

 

 

 

6.聖母から司祭へ

 

 

聖母から司祭へ1973.12.1

 

 淫猥な悪魔は何でも汚します。可哀想な子供たち・・・ どれほどそれに打たれて、その病気にかかっていることでしょう!

 神への反逆の精神が人類をそそのかしました。無神論がたくさんの人の心に入って、信仰と愛の光を残らず消してしまいました。

 聖書に描かれている赤い龍とはこれです。ああ、子供たち、聖書を読んでください。今はその実現の時です! 私の子供たちの中には、今やこのサタンの誤謬の犠牲者となった人が、どれほどいることでしょう。私の司祭のうちにさえ、もう信仰を持ってはいない人があります。それにも拘らず、私の教会の中に残っていますが、彼らは羊の衣をつけた真の狼で、数えきれないほど多くの霊魂を滅ぼしているのです!

 

 

 

7.マリア・ワルトルタ

 

 

マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音/2卷P505/126・3

 

父に対してその一子を殺害すれば、その子に対してのみ罪を犯すのですか? いいえ。父に対しても罪を犯します。肉においては子に、心においては父に対して罪を犯します。しかし双方に痛手を与えます。ある人を殺せばその人に対してだけ罪を犯すのですか? いいえ。に対しても罪を犯します。肉においてはその人に対して、その権利においては神に対して罪を犯します。なぜなら、生と死はからのみ与えられ、取り上げられるべきものだからです。殺すことは、と人に対して暴力を振るうことです。殺すことは、の支配権を侵害することです。殺すことは愛の掟を破ることです。殺す者は、の傑作である一人間を無き者にするのですから、を愛していません。殺す者は隣人を愛していません。なぜなら殺害者自身が欲しているもの、すなわち命を隣人から取り上げるのですから。

 

 

 

マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音/2卷P506/126・5

 

今、女である皆さん、よく聞きなさい。多くの命を殺しておきながら、暗黙のうちに、罰を免れているあなたたち、聞きなさい。罪深い種子(たね)であるからと言って、あるいは望まれなかった胚(はい)であり、あなたたちの手元で育てるためには、また、あなたたちの富のためには、余計なお荷物であるからと言って、胎内で育っている子を引き離すことも殺すことなのです。あのお荷物を負わない方法は一つしかかりません。それは純潔、貞節であることです。淫欲に殺人を、不従順に暴力を結びつけではならず、人は見ていないのだからは見ていないだろうと思い込んではなりません。はすべてを見ておられ、またすべてを思い出されます。あなたたちもそれを思い出しなさい。

 

 

 

マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音/2卷P507/126・7

 

わたしはどのように襲ったか?

常軌を逸するまで怒り狂い、その後衝撃の最初の引き金を引いたのか? 時として人は自分の感情を抑えられません。なぜならサタンは、石投げ兵のように、悪の中に人を投げ込むからです。しかし、一つの石が目標に達した後、もう一度投げられ、襲うために、石投げ兵の手に自ら戻って来るとしたら、その石についてあなたたちは何と言うでしょうか? 『魔法にかけられた地獄のような力に囚われている』と言うでしょう。第一撃の後、その残忍さは衰えもせず、第二、第三、第十番目の打撃を与える人はそうなのです。怒りは収まるから、最初の弾みのすぐ後、尤もな理由から弾みがまたあるとしても、理性がその後釜に座ります。ところが一方、真の殺人者、すなわちサタンは憎しみですから、兄弟への憐れみなど無いし、ありえないサタンの中では襲われた犠牲者に対する残忍さは弥(いや)増します。

 

 

 

マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音/2卷P508/126・8

 

あなたたちは、殺すことによって命令の第一と第二の組に逆(そむ)くことを見てきました。何となれば、あなたたちは神の権利を不当に我がものとし、隣人を踏み躙(にじ)るからです。しかもあなたたちがなすことは殺人の罪のみに止(とど)まりません。暴力の罪、傲慢の罪、不従順の罪、冒瀆の罪、もし他人の地位、財産を盗むなら、時として貪欲の罪を犯します。それについては、殺人はただ凶器や毒物だけで犯されるのではなく、中傷誹謗によっても犯される、と言うに止め、別の日にそれはじっくり説明することにしましょう。黙想しなさい。

 

 

 

マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音/3卷上P142/171・5

 

 隣人に対する愛の掟の完成は、『殺すな』と命じられていたように、もうわたしが言わないほど重要な掟です。なぜなら殺人者は人びとが裁くでしょうから。しかしわたしはあなたたちに『怒るな』と言います。というのも、より高度な裁きをあなたたちは受けるだろうし、そこでは非物質的な行為も裁かれるからです。兄弟を侮辱した者は最高議会によって罰せられるでしょう。しかし、兄弟を馬鹿呼ばわりし傷つけた者はから罰せられるでしょう。

 もしに対する愛のために、まず、心の内奥で自らの怨恨を生贄にし、赦すことを知るという至聖な祭式を済まさなければ、祭壇に捧げ物をしても空しく、役に立ちません。したがって、に捧げ物をしようとする時、もしあなたの兄弟に対して過失があったり、あるいは兄弟の過失を恨んでいるのを思い出したら、祭壇の前に捧げ物を置いて、まずはあなたの自愛心を犠牲にし、あなたの兄弟と仲直りをし、それから祭壇に戻りなさい、その時、その時始めて、あなたの捧げ物は聖なるものとなります。

好ましい合意は常に最良の事業です。人間の判断は当てにならず、挑戦に固執する者は訴訟に負けるかもしれないし、相手に最後の一文まで支払わされ、獄死するかもしれません。

 万事においてに向かって目を上げなさい。『がわたしと共になさらないことをする権利がわたしにあるだろうか?』と、自分に問いなさい。なぜならはあなたたちほど非情ではなく、片意地ではないからです。非情で片意地なあなたたちは災いです! 一人として救われないでしょう。この反省があなたたちを柔和、謙遜、慈悲に富む者にするように。そうなればあなたたちはの目に欠けるところのない者となり、その上、報いを受けるでしょう。

 ここに、わたしの前に、わたしを憎み、彼が何を考えているかをわたしが知っているので、『わたしを治してくれ』と、あえてわたしに言えない人もいます。しかしわたしは『あなたが欲することがなされるように。またあなたの目から鱗が落ちるように、あなたの心から怨恨と闇が落ちるように』と言います。

 皆さん、わたしの平和と共に行きなさい。明日もまたあなたたちに話すでしょう」。

 

 

 

8.霊界日記

 

 

霊界日記4492

 

彼は再び尿の大だるの中へ送り込まれたが、その大だるの中では彼は自分の天界へ入って来たかのように見え、またそのようにも言ったのである、なぜなら彼はそこに彼自身の天界を作り上げたからである。

 

 

 

霊界日記4493

 

 突然前面の上方に或る一人の者が来たが、その者がやってくると、その強盗は非常な恐怖に襲われ、自らを下の方へ投げつけはしたが、しかしその欲するほどには深く投げ込むことは出来なかった、彼は更に深く自らを投げ込もうとしたのではあったが。彼は自分がその者を非常に恐れていると言い、ありもしない幾多の理由を述べたてはしたが、彼はその者を殺害したことが明るみに出され、また彼は、彼の生命を奪おうとして、彼を待ち伏せする色々な方法を前には考えていたことも言われた。このことからいかような種類の恐怖に人殺しは、その犠牲となった者が現れてくるとき、襲われるかが明らかとなるであろう、即ち、彼らは彼らが近づいてくるや否や凄まじい恐怖に襲われるのである。