主に対する敵意

 

主の神性の否定偽りの基督教徒

 

 

 

天界の秘義3489

 

 教会はこのような性格を持っていることは教会の中にいる者たちには明らかではない、即ち、彼らは善と真理とに属している凡ゆるものを軽蔑し、嫌忌し、またそのようなものに、特に主御自身に敵意を抱いているということは明らかではない、なぜなら彼らは礼拝所に再三出入りし、説教を聞き、そこにいる時は一種の神聖感に浸り、聖餐に列し、時にはそのような事柄については似つかわしい態度で互に語り合い―これは善人も悪人も同じように行うところである―また彼らは彼ら自身の間では市民としての仁慈または友情をもって生活しているからである。従って人間の目には侮蔑は見えはしないし、まして嫌忌は見られはしないのである。しかし乍らこれらの物は人が他を迷わせる手段としている外なる形であって、教会の人間の内なる形は全然それに似てはいないで、全くその外なる形に相反しているのである。内なる形がここに記されているものであり、また前に記されているようなものであり、彼らの真の性質は天界ではそのあるがままに、現れているのである、なぜなら天使たちは内なるもの以外のものには、即ち、目的または意図と願いとそこから生まれてくる思考以外のものには何ら注意しないからである。

 

 

 

天界の秘義3489[2]

 

 これらのものは外なるものといかに異なっているかは、基督教国から他生へ入って来る者たちから明白であり、彼らについては前を参照されたい(2121−2126番)、なぜなら他生では彼らはその内なるものに従ってのみ考えまた語るからである、なぜなら外なるものは身体と共に後に残されるからであり、他生に、このような者は世では如何ほど穏やかなものとして見えたにしても、それでも互に憎悪を抱き、信仰に属している凡ゆる事柄に対して、特に主に対して憎悪を抱いたことが明らかになるのである。なぜなら他生では主が単に彼らの面前で口に出されるのみで、主に対する軽蔑のみでなく嫌忌と憎悪とのスフィアが彼らから、実に外観では主について敬虔に語り、宣べ伝えた者らからさえも、放出されて、あたりに広げられ、仁慈と信仰とが口に出された時も同じことが起こるからである。

 

 

 

天界の秘義3489[3]

 

(そこで明らかにされる)内なる形では彼らはこのような性格を持っているため、もし彼らがこの世に住まっている間にその外なるものが弛められて、取り除かれたなら、即ち、彼らがその時自分の生命のために恐れなかったなら、その切望して追及する名誉のために、望み、熱烈に求める富のために、法律を恐れなかったなら、特に自分の世評を案じてそれを恐れなかったなら、自分の衝動と考えとに従って、内的な憎悪を抱いて互に他に掴みかかり、何らの良心も無しに他人の財産を掴みどり、同じく何らの良心も無しに他の者を、特に無垢な者を殺りくしたことであろう。現今の[主の年1751年の]基督教徒はその内部の方面では、彼らの知らない僅かな者を除いては、こうしたものであり、このことから教会の性質のいかようなものであるかが明白である。

 

 

 

2.天的意義:軽率に主に対して怒りを発し、主を憎悪し、その御名を抹殺しようと欲すること

 

 

真の基督教311

 

「天的な意義では」殺害することは軽率に主に対して怒りを発し、主を憎悪し、その御名を抹殺しようと欲することである。このような人々は彼を十字架につけると言われる。主が再び世に来り給うならばユダヤ人らが前に行ったように、彼らは実際これを行うであろう。この事は子羊が「殺されしままに」(黙示録5・6、13・8)立つことにより、「十字架につけられし者」(黙示録11・8、ヘブル6・6、ガラテア3・1)により意味されている。

 

 

 

真の基督教312(太字は当方による)

 

内なる人の性質は、主によって改良されない限り、如何なるものであるかは、地獄の悪魔と悪鬼によって私に明らかになった。なぜなら、彼らは絶えず主を殺そうとする考えを抱いているからである。けれども彼らはそれが出来ないために、主に献身している者達を殺そうとするのである。彼らはこれを、この世の人間が為すことが出来るように為すことが出来ないため、彼らの霊魂を破壊しようと、即ち、彼らの信仰と仁慈とを破壊しようと努めるのである。憎悪は彼らの間では青ざめた火のように、復讐は蒼白な火のように現れるが、ただしこれは火ではなく外観である。彼らの心の凶悪さは、時折空中に架空な戦いを出現させ、その戦いに天使達は倒されて、殺される。このような恐るべき空想を生むものは、彼らの天に対する怒りと憎悪である。更に、彼等自身は遠方では、虎、豹、狼、狐、犬、鰐その他凡ゆる種類の蛇のように見え、しかして彼らは優しい動物の表象的な形を見る時、想像においてこれに飛びかかり、これを滅ぼそうと試みるのである。嘗て若干の悪魔が私の眼前に竜の形をとって現れ、婦人達の側に立った。婦人達は嬰児を抱いていたが、これを彼らは、黙示録(12章)に述べられている通りに噛み砕こうと努めたのである。この外観は主と主の新しい教会に対する彼らの憎悪を表象するものであった。

世に在って主の教会を破壊しようと欲する人間は、これらの悪魔に似ている。こうした事実は彼らに連なっている者達に明らかではない。それは人間にその地上の義務を果たさせる物質的な身体によって、このような物は視野から遮断されているからであるが、彼らの身体を眺めないで、彼らの霊を眺める天使達には彼らは上述した悪魔のように見えるのである。主がある人間の目を開いて、これに霊界を見ることを得させ給わない限り、誰がこのような事柄を知ることが出来るであろう。もし主がこれを明らかにし給わなかったならば、これらの事や他の多くの極めて重要な事柄は永久に人類から隠れたままにおかれなかったであろうか?

 

 

 

 

霊的な生命・神の聖言−遺稿―(黙示録講解からの抜粋)P91

 

 地獄にいる者は凡て、主に対する憎悪を抱き、かくて天界に対する憎悪を抱いているように―なぜなら彼らは善と真理に反抗しているからであるが―地獄は本質的な殺人者であり、または本質的な殺害の源泉である。それが本質的な殺害の源泉であるのは、人間は主から善と真理とを受け入れることを通して人間となっており、従って善と真理とを破壊することは人間的なものそのものを破壊し、かくて人間を殺してしまうことであるためである。

 地獄にいる者らはこうしたものであることは未だ世では知られてはいないのは、地獄に属しており、それで死後地獄に入って来る者らの中には、善と真理に対する、または天界に対する憎悪は明白ではなく、まして主に対する憎悪は明白ではないためである。なぜなら凡ゆる者は世に生きている間は外なるものの中におり、この外なるものは正直で礼儀正しく、公正で公平な、善い、真であるようなものを偽装するように幼い頃から教えられ、訓練されているからである。にも拘らず、憎悪は彼らの霊〔精神〕の中に隠れており、しかもそれは彼らの生命の悪と等しい度をもって隠れているのである。そして憎悪は霊の中に在るため、死後現実に起こることではあるが、それは外なるものが傍らに取り除けられると、迸り出てくるのである。

 善の中にいる凡ての者に対するこの奈落の憎悪は主に対する憎悪であるため、それは相手を殺そうとする憎悪である。そのことは特に彼らが悪を行ってそのことに覚えるその歓喜の中に認められることが出来るのであり、それは度においては他の凡ゆる歓喜にもまさっているといったものである。なぜならそれは霊魂を破壊しようとする欲念に燃えている火であるからである。更に、この歓喜は、彼らが破壊しようと企てている者たちに対する憎悪から発しているのではなくて、主御自身に対する憎悪から発していることが確かめられたのである。そして人間は主から人間となり、主から発している人間的なものは善と真理であるため、また地獄にいる者らは、主に対する憎悪から、善と真理である人間的なものを殺そうと燃えているため、地獄は殺人そのものの源泉であることが生まれている(黙示録講解1013番)。

 

 

 

聖書[4]

 

 あなたは殺してはならない。『殺すこと』により人間はまた憎悪を抱くことを、復讐心に燃えて、殺そうとまで欲することを理解している。霊的天使は悪魔として行動し、人間の霊魂を破壊することを理解している。そして天的天使は主に対して、また主のものであるものに対して憎悪を抱くことを理解している。