偽りの基督教徒
1.偽りのクリスチャン
2.現今のキリスト教徒はユダヤ人よりも悪い
3.前の教会は単に名目のみの基督教であり、事実のそれではなかった
4.こうした霊どもから地獄は現在無限に増大し、しかも驚嘆すべきことは、特に教会内にいる者らから増大している
5.現今基督教界には何等宗教が無いために、最早如何なる教会も無い
6.こうした者はキリストを偶像崇拝で拝している
7.サンダー・シング
8.外部ではキリスト教徒のようではありつつも、内部ではその霊の生命の方面では悪魔のようなもの
1.偽りのクリスチャン
天界の秘義916[2]
教会はそれが仁慈からまたは仁慈の善から行動する時霊的なものと呼ばれ、それはそれが仁慈の無い信仰を持っているという時は決して霊的なものと呼ばれはしないのである。なぜならその時それは教会でさえもないからである。なぜなら信仰の教義は仁慈の教義でなくて何であろう。そして信仰の教義は人間はその教えることを為さなくてはならないということを除いては何を目的とするであろうか。それはその教えることを単に知りまた考えることで在り得る筈はなく、その教えることは為さなくてはならないということのみである筈である。それ故霊的教会はそれが信仰の教義そのものである仁慈から行動する時始めて教会と呼ばれるのである。または、それと同一事ではあるが、教会の人間はその時始めて教会となるのである。丁度それと同じように、戒めは何のためにあるのであるか、それは人間がそれを知るためではなく、その戒めに従って生きるためではないか。なぜならそのとき彼は、主の王国はもっぱら相互愛とその幸福とに在るからには、彼自身の中に主の王国を持つからである。
天界の秘義916[3]
仁慈から信仰を分離し、救いを仁慈の善い業の無い信仰に在るとする者は、その兄弟のアベルを、即ち仁慈を殺すカインの輩である。そして彼らは死骸の周りを飛び回っている鳥のような者である。なぜならこうした信仰は鳥であり、仁慈の無い人間は死骸であるからである。かくて彼らは基督教世界に良く知られているように、悪魔のように生活し、隣人を憎悪し、迫害し、その生涯を姦通に費やし、しかも救われるために、彼ら自身のためにまた似而非良心を形作るのである。人間は野獣のような生活をしていても、救われることが出来るということを聞いて、それを納得するにまさって快適なことが彼に在り得ようか。異教徒すらそれは誤っていることを認めており、その多くの者は基督教徒の生活を見ているため、基督教徒の教義を忌み嫌っているのである。こうした信仰の真の性質は、基督教世界における生活以上に忌まわしい生活はどこにも見出されないという事実からもまた明白である。
天界の秘義2596
ある朝私から遠く隔たった辺りに一つの合唱隊がいたが、その合唱隊が表象している物から彼らが支那人であることを私は知ることが出来た。(中略)
やがて私は彼らと語り、ついには主について語った。私が主をキリストと呼ぶと、一種の反感が彼らの中に認められた、しかしその原因は、彼らが彼ら自身が送った生活よりもさらに悪い生活を送って何ら仁慈の中に生きていない基督教徒を知ったことからこうした反感を世から抱いてきたということであることが発見された。しかし私がかれを単に主と呼ぶと、彼らは内部で感動したのである。彼らは後で天使たちから、基督教の教義は全世界の凡ゆる教義にもまさって愛と仁慈とを規定しているが、しかしそれに従って生きている者は僅かしかいないことを教えられたのである。
天界の秘義2597
世に生きていた時、基督教徒は最悪の生活そのものを送っていることを、すなわち、姦淫を行い、憎悪し、争い、酒に酔いつぶれなどして最悪の生活を送っていることを社会の交わりや報告から知っていた異邦人がおり、そのため彼らはそのような事は彼らの法律、道徳、宗教に反しているため、恐怖を抱いているのである。他生ではこうした者たちは信仰の諸真理を受け入れる点では他の者以上に小心であるが、しかし彼らは天使たちにより、基督教の教義は、また信仰そのものはそれとは全く対立したことを教えているのである、基督教徒はその教義に従っては異教徒以上に生きてはいないのであると教えられるのである。彼らはそのことを認めると、信仰の真理を受け入れて主を拝するが、しかしそれは他の者よりは遅いのである。
天界の秘義2689[4]
しかし彼らが疑惑を容認し、その後否定的なものを容認する真の原因は彼らの悪の生命の中に見出されねばならない。悪の生命の中にいる者らはそれ以外のことを行うことは出来ないのである。なぜなら前に言ったように人間各々の生命はその者の情愛または愛であり、その情愛または愛のあるがままにその思考もあるのである。悪の情愛[悪を求める情愛]と真理の思考[真理を考える思考]とは決して連結はしないのである。こうした連結の外観がその中に存在している者らのもとでも[悪の情愛と真理の思考とが連結しているように見える者らのもとでも]実際にはそのような連結は存在していないで、単に真理の思考が真理の情愛無しに存在しているに過ぎないのであり、それでこうした人物のもとでは真理は真理ではなくて、単に音声のようなもの、または何か口先のみのようなものであり、そこには心情が欠けているのである。このような真理は最悪の者でさえも知ることが出来るのであり、時としては他の者よりも良く知ることが出来るのである。ある者のもとにはまた、それは純粋なものであるとしかたれも考えることが出来ないといった性質をもった真理の確信[真理についての確信]が見られるが、それでもそれはもし善の生命が存在しないならそうしたものではない。即ち、それは自己を求める、または世を求める愛であって、その愛から、彼らはそれを激烈な外観的な熱意をもってさえも弁護し、否、それを受け入れない者を、または自分と同じ様に信じない者を弾劾しさえもするといった確信が生まれてくるのである。しかしこの真理は、それが発生してくる源泉である各人における原理[主義]と同じ性質を持っており、自己を、または世を求める愛が強くなるに応じて強くなっている。それは実にそれ自身を悪に密着させもするが、しかしそれに連結させはしない、それでそれは他生では根絶してしまうのである。善の生命の中にいる者たちはそれとは非常に異なっている。これらの者のもとでは真理それ自身はそれ自身の土地と心情とを持っており、主からその生命を得ているのである。
天界の秘義3489[3]
(そこで明らかにされる)内なる形では彼らはこのような性格を持っているため、もし彼らがこの世に住まっている間にその外なるものが弛められて、取り除かれたなら、即ち、彼らがその時自分の生命のために恐れなかったなら、その切望して追及する名誉のために、望み、熱烈に求める富のために、法律を恐れなかったなら、特に自分の世評を案じてそれを恐れなかったなら、自分の衝動と考えとに従って、内的な憎悪を抱いて互に他に掴みかかり、何らの良心も無しに他人の財産を掴みどり、同じく何らの良心も無しに他の者を、特に無垢な者を殺りくしたことであろう。現今の[主の年1751年の]基督教徒はその内部の方面では、彼らの知らない僅かな者を除いては、こうしたものであり、このことから教会の性質のいかようなものであるかが明白である。
真の基督教673
実に地獄の多くの悪魔はこの世では洗礼を受けたのである。
霊界日記5063
更に、私は言った、真の信仰は必ずしも不一致〔意見の相違〕を生み出しはしないのであり、実情はそうしたものでないことはキリスト教が腐敗した状態に置かれているためである、と。
霊界日記5855
私はしばしば、他生にいる者らについて、彼らは良心とは何であるかを知らず、かくて千人の中殆ど一人さえもそのことを知ってはいないことを認めもし、聞きもしたのである。天使たちはそうした無知が何処から発しているのか、と怪しんだが、しかしその理由が明らかにされたのである、即ち、教会の人間は、善を、引いては、業を無意味なものとしており、そうしたものを無意味なものとしている者は決して良心とは何であるかを知ることは出来ないのである、なぜなら良心は、人が神の戒めに反したことを行ったために、また人がその戒めに反したことを考えたために悲しむことであるからである。このことから現今のキリスト教徒の性質が明らかであり、それは殆ど宗教を欠如しているのである、なぜなら宗教を持ち、神的な事柄を愛する者は良心を持っているからである、なぜなら彼は、もし彼が何か神的なものに反したことを考え、意図したとするなら、ましてや、そうしたことを行ったとするなら、苦痛を経験するからである。
生命を目的としない者は、信仰のみを目的としているため、良心とは何であるかを決して知りはしない、彼は良心とは何であるかを尋ねはするが、それでも把握はしない、なぜなら彼は、善い業は救いには何ら貢献はしない、と信じているからであるが、それでもそうしたものは生命のものであり、信仰の知識は、信じられていると考えられてはいるものの、もしそれがそれを意志し[欲し]行うことにより生命に植え付けられていないなら、単に記憶の中に在るに過ぎないのである。
2.現今のキリスト教徒はユダヤ人よりも悪い
(究極の[最も外なる]天界における凡ゆる霊たちの中で最悪の者らは自らが基督教徒であると言明した者らであり、またユダヤ人である。)
霊界日記480
私は多くの経験から、最も外なる天界における凡ゆる霊たちの中で最悪の者は世で基督教徒と呼ばれている者らであることを知った。これらの者の大半は何ら信仰を持ってはいないで、真の信仰に属した事柄をことごとく迫害し、憎悪しており、自らが教えを受けることに堪えることもしない。彼らは頑強に自説を主張し、実に、極めてたばかりに満ち、主に反抗し、イエスに対する信仰に反抗し、忠実な者に反抗して、かくも甚だしいたばかりの糸をつづり合わせているため、こうした(憎悪が)彼らの『精神』または根深い性質に密着していることに驚かないわけにはいかない、なぜなら彼らはその際その気質から行動しており、その気質に放任されるときは、復讐神(フューリーズ)さながらの者となるからである。実に、マホメット教徒は、教えられることが出来て、自らが導かれることに甘んじ、容易に信仰を受けるため、そのことには非常に驚くのである。基督教徒に次いで最悪の者は、アブラハムを神として拝した者らを除いたユダヤ人であり、これらの者もまた非常にたばかりに満ちている。凡ての者の中でも最も柔和な者たちはアフリカ人であり、彼らについては前を参照(432、453番)。1748年〔60歳〕1月15日。
霊界日記5978
彼らはこのように次から次へと主を承認する者を迫害した。かくて現今のキリスト教徒はユダヤ人よりも悪いことが証明された。
3.前の教会は単に名目のみの基督教であり、事実のそれではなかった
真の基督教668
洗礼が命ぜられたことは、ヨハネがヨルダンで洗礼を授け、そこへユダヤとエルサレムの凡ての人々が出かけて行ったことによって明白である(マタイ3・5、6。マルコ1・4、5)。我々の救い主なる主もまた自らヨハネから洗礼を受け給うた(マタイ3・13-17)。さらに主はその弟子達に凡ゆる国人に洗礼を授けることを命じ給うた(マタイ28・19)。明らかにこの制度の中には神的な物が在り、それは聖言の霊的な意義が知られなかったために、現在まで隠れていたのである。しかしこの意義は現今啓示されたのである。何故なら、真の基督教会は今始まりつつあり、前の教会は単に名目のみの基督教であり、事実のそれではなかったからである。
真の基督教700
このような考えが現今基督教国に遍く抱かれているのは、偏にそれが聖言の文字的な意義に一致し、而して霊的な意義が ― その意義においてのみ聖餐の用がその真の光の中に見られるのである ― 現今まで明らかにされなかったためである。この意義がいまや初めて明らかにされたのである。それは基督教は現今に至るまで名前以外のものではなかったからである。何故なら人々は内に神的三一性を宿す唯一の神として直接主に近づかず、また彼を礼拝せず、単に間接的に彼に近づき礼拝したに過ぎないからである。これは主に近づき主を礼拝することではなく、単に主を人間に対する救いの原因として尊崇することに過ぎない。これは本質的な原因ではなく媒介的な原因であり、本質的な原因の下位にあり、その外部に在る。しかし真の基督教は明け初めている。而して黙示録の新エルサレムによって象徴され、父なる神、子、聖霊はそれが一人格の中に在るが故に一つとして認められている新しい教会を、いまや主は設立し給いつつあるのである。それ故、この教会は洗礼と聖餐なる二つの秘蹟の真の用と益とを受けるために、主は聖言の霊的な意義を示すことをよしとし給うた。この用と益とは人が理解を以てまたは霊の眼を以てその中に含まれている聖さを認め、これを主がその聖言に於て教え給うたように受ける時、受けられるであろう。
4.こうした霊どもから地獄は現在無限に増大し、しかも驚嘆すべきことは、特に教会内にいる者らから増大している
天界の秘義6666〔3〕
こうした霊どもから地獄は現在無限に増大し、しかも驚嘆すべきことは、特に教会内にいる者らから増大しているが、それは狡猾、詐欺、憎悪、復讐、姦淫のためであり、そうした悪は教会内では他の所よりもはびこっているのである、なぜなら教会内では狡猾は今や利口なこととして、姦淫は尊いこととして考えられ、それに異議を差し挟む者は嘲笑されてしまうからである。現今教会内でそのようなことが行われていることはその最後の時が切迫しているというしるしとなっている、なぜならマタイ伝24・22の主の御言葉に従って、『終わりが無いなら、たれ一人救われない』からである、なぜなら悪はことごとく丁度酒のおりが塊まりに染み込み、かくて遂に凡てのものに染み込むように、伝染し、染み込むからである。
真の基督教673
実に地獄の多くの悪魔はこの世では洗礼を受けたのである。
天界の秘義824
ここにはその生涯を姦淫と好色とに過ごした者の地獄について述べよう。また欺く者、女妖術者[女魔法使い、妖婦]の地獄についても述べよう。
右足のくびすの下に、残酷を喜ぶと同時に、姦淫を喜び、その中に自分の生命の最大の歓喜を覚えた者の住む地獄が在る。身体の生命の中で残酷であった者はまた他の者以上に姦通者であることは注意すべきことである。このような者がこの地獄にいる者らであり、ここでは彼らは筆舌に言い現わし難い残酷な方法を取っている。彼らは草をすり潰すに用いられる器や、すりこぎのようなものをその幻想によりすり潰すために作り、それを以て可能であればたれでもすり潰し、苦しめる、彼らはまた死刑執行人の持っているような幅の広い斧のようなものや大錐を持っており、それを以て互に残酷な暴行を加え合っている、他の凄まじい残虐な振る舞いは言わずもがなである。前の時代に異邦人を非常に残酷に扱ったユダヤ人が若干そこに居る。そして現今その地獄は、特に基督教世界と言われているものから来ているが、その生命の歓喜をことごとく姦通〔姦淫〕に見出し、その大半は残酷なものである者らにより増大しつつあるのである。時として彼らの歓喜は人間の排泄物の悪臭に変わり、それはその地獄が開く時極度に発散する。私はそれを霊たちの世界の中で嗅いだが、その時そのため殆ど気を失うほどにもなった。この不快な排泄物の臭は地獄に満ちたり、止んだりして、それが交互に繰り返されている、なぜならそれは彼らの姦通から発する歓喜であり、それがこのような不快なものに変わるからである。時がたって、彼らはこのような物の中で一定の期間を過ぎると、独り棄ておかれ、責め苛まれながら坐り、醜い骸骨のようなものになるが、しかしそれでも生きているのである。
5.現今基督教界には何等宗教が無いために、最早如何なる教会も無い
真の基督教389
然し、我々の或る者は天界より照示され、そのことによって現今基督教界には何等宗教が無いために、最早如何なる教会も無いことを示されました。
6.こうした者はキリストを偶像崇拝で拝している
天界の秘義3732[2]
この凡てからユダヤ民族の父祖たちの性質は、例えばここではヤコブの性質はいかようなものであったかが明白である。彼は未だエホバを承認していなかったのであり、エホバをまたは他の者を彼の神として承認しなくてはならないかについてはその選択は尚定まってはいなかったのである。たれもが自分自身の神を持とうと望み、もしたれかがエホバを拝するなら、それは彼がエホバと呼ばれる神を拝したということに過ぎないのであり、その神はその名前により他の国民の神々から区別されたのであり、かくて彼らの礼拝はこの点においてすら偶像崇拝であったということがかの国民の、その父祖たちの時代さえもからの、特質[特異性]であったのである。なぜなら単に名前を拝することは、エホバという名前を拝することでさえもが、偶像崇拝以外の何ものでもないからである(1094番)。そのことは自分自身を基督教徒と呼んで、自分はキリストを拝していると言ってはいるものの、その教えに従って生きてはいない者にも言われるのであり、こうした者はキリストを偶像崇拝で拝しているのである。なぜなら彼らの拝しているのは偽キリストであるからには彼らは彼の名前のみを拝しているからである。この偽キリストについてはマタイ伝24・23、24を参照されたい(3010番)。
サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P169
遠い国からきた東の博士たちは、星によって「義の太陽」へと導かれた。この遠くからきた人々は、「義の王」を拝し敬うことによって心の願いを満たしたが、一方、ある意味で主ご自身の民であったユダヤ人は、主を拒み十字架にかけ、祝福を失うに至った。人々は真実を求めて東からも西からも辿り着き、主をみつけて心と魂から主を敬い、わが身を犠牲として御足元に投げ出す。この犠牲によって、彼らは天国で永生を受け継ぐのである。一方、ある意味で主ご自身の民である“クリスチャン”は、言葉と行ないによって主を拒み、計り知れない損失をみている。東から来た博士たちは長く留まらず、キリストの教えをきくことも、奇蹟をみることも、十字架、復活、昇天の場にも居合わせなかったため、世界には何も伝えられなかった。同じように、真実を探究する人の中にも、主との至福に満ちた交わりに生き、生命を分かち与える神の力を体験することがないために、世界に何も伝えらずにいる人々がいる。
サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P182
自分自身の内的生活の中で、主の神性を体験することもなくキリストに従っているクリスチャンが今も沢山いる。このために彼らは堕落するのである。彼らはキリストとは二千年昔に生きて死んだ偉人の一人くらいにしか考えない。だが、心底悔い改め祈る者に対して、主は聖パウロに向けられた栄光と力の中で、ふたたびご出現になる。彼らはキリストとの交わりを新たにし、聖霊の力によって忠実に、死ぬまで主のお仕えする。
徳間書店/林陽編訳/サンダー・シング/イエス・キリスト封印の聖書/P382
キリスト教国と称する国々には、主を愛する忠実なクリスチャンも多くいますが、クリスチャンといいながら、サタンの代理人にすぎない人々も多数います。キリストの神性を否定し、主とともに生きたことのない人々がそれです。彼らは、われわれに何のメッセージも持ってはいません。語るべきものを何一つ持ち合わせません。イエス・キリストを通して文明を受け、教育を受け、物質的恩恵を受けていながら、彼らは主を否定しているのです。「わたしとともにパンを食べた者が、わたしに向かって踵を上げる」とキリストが言われた通りであります。主に向かって踵を上げた結果、彼らは、知識の木に自分を吊すことになるでしょう。
主に対し忠実で、主とともに生き、イエス・キリストが誰かを知る人々、彼らだけが、行って、イエス・キリストの真実を人々に告げることができるのです。
8.外部ではキリスト教徒のようではありつつも、内部ではその霊の生命の方面では悪魔のようなもの
黙示録講解902[3]
しかし人間は宗教からこれらの戒めを行わなくてはならないことを知らなくてはならない、それらは主により命じられているためである、もし人間は何であれ何か他の考慮からそれらを行うなら、例えば単に民法または道徳律に対する顧慮から行うなら、かれは自然的なものとしてとどまり、霊的なものとはならないのである。なぜなら人間は宗教から行動するとき、人間は心情の中に、神、天界、天界と地獄、死後の生命が在ることを承認しているからである。しかし人間が単に民法と道徳律から行動するとき、かれは同じ方法で行動するであろうが、心情の中では、神、天界と地獄、死後の生命が在ることを否定する可能性が在るのである。そしてもしかれが悪を避け、善を行うならば、それは単に外なる形の中においてのみ行われるのであって、内なる形において行われるのではない、かくてかれは身体の生命の方面では外部ではキリスト教徒のようではありつつも、内部ではその霊の生命の方面では悪魔のようなものである。凡てのことは、人間は主から宗教に従って生きる生活によってのみ、霊的になり、または霊的な生命を受けることができることを明らかにしている。