名目のみのキリスト教

 

 

真のキリスト教徒偽りの基督教徒

 

 

 

 

1.名目のみの基督教

2.こうした者はキリストを偶像崇拝で拝している

 

 

 

 

1.名目のみの基督教

 

 

真の基督教668

 

洗礼が命ぜられたことは、ヨハネがヨルダンで洗礼を授け、そこへユダヤとエルサレムの凡ての人々が出かけて行ったことによって明白である(マタイ3・5、6。マルコ1・4、5)。我々の救い主なる主もまた自らヨハネから洗礼を受け給うた(マタイ3・13−17)。さらに主はその弟子達に凡ゆる国人に洗礼を授けることを命じ給うた(マタイ28・19)。明らかにこの制度の中には神的な物が在り、それは聖言の霊的な意義が知られなかったために、現在まで隠れていたのである。しかしこの意義は現今啓示されたのである。何故なら、真の基督教会は今始まりつつあり、前の教会は単に名目のみの基督教であり、事実のそれではなかったからである。

 

 

 

真の基督教700

 

 このような考えが現今基督教国に遍く抱かれているのは、偏にそれが聖言の文字的な意義に一致し、而して霊的な意義が―その意義においてのみ聖餐の用がその真の光の中に見られるのである―現今まで明らかにされなかったためである。この意義がいまや初めて明らかにされたのである。それは基督教は現今に至るまで名前以外のものではなかったからである。何故なら人々は内に神的三一性を宿す唯一の神として直接主に近づかず、また彼を礼拝せず、単に間接的に彼に近づき礼拝したに過ぎないからである。これは主に近づき主を礼拝することではなく、単に主を人間に対する救いの原因として尊崇することに過ぎない。これは本質的な原因ではなく媒介的な原因であり、本質的な原因の下位にあり、その外部に在る。しかし真の基督教は明け初めている。而して黙示録の新エルサレムによって象徴され、父なる神、子、聖霊はそれが一人格の中に在るが故に一つとして認められている新しい教会を、いまや主は設立し給いつつあるのである。それ故、この教会は洗礼と聖餐なる二つの秘蹟の真の用と益とを受けるために、主は聖言の霊的な意義を示すことをよしとし給うた。この用と益とは人が理解を以てまたは霊の眼を以てその中に含まれている聖さを認め、これを主がその聖言に於て教え給うたように受ける時、受けられるであろう。

 

 

 

 

2.こうした者はキリストを偶像崇拝で拝している

 

 

天界の秘義3732[2]

 

 この凡てからユダヤ民族の父祖たちの性質は、例えばここではヤコブの性質はいかようなものであったかが明白である。彼は未だエホバを承認していなかったのであり、エホバをまたは他の者を彼の神として承認しなくてはならないかについてはその選択は尚定まってはいなかったのである。たれもが自分自身の神を持とうと望み、もしたれかがエホバを拝するなら、それは彼がエホバと呼ばれる神を拝したということに過ぎないのであり、その神はその名前により他の国民の神々から区別されたのであり、かくて彼らの礼拝はこの点においてすら偶像崇拝であったということがかの国民の、その父祖たちの時代さえもからの、特質[特異性]であったのである。なぜなら単に名前を拝することは、エホバという名前を拝することでさえもが、偶像崇拝以外の何ものでもないからである(1094番)。そのことは自分自身を基督教徒と呼んで、自分はキリストを拝していると言ってはいるものの、その教えに従って生きてはいない者にも言われるのであり、こうした者はキリストを偶像崇拝で拝しているのである。なぜなら彼らの拝しているのは偽キリストであるからには彼らは彼の名前のみを拝しているからである。この偽キリストについてはマタイ伝24・23、24を参照されたい(3010番)。