兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける

マタイ5・22

 

兄弟憎しみ・憎悪

教会の一致・刷新

第5戒:なんじ、殺すなかれ

 

 

 

1.聖書

2.スウェーデンボルグ

3.マリア・ワルトルタ

 

 

 

1.聖書

 

 

マタイ5・21、22

 

あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。

 

 

 

 

2.スウェーデンボルグ

 

 

天界の秘義374

 

 『血の声』は暴行が仁慈に加えられたことを意味することは聖言の多くの記事から明らかであり、その中では『声』は訴える物を意味し、『血』如何様な種類であれ、罪を特に憎悪を意味している。なぜならたれでもその兄弟に対し、憎悪を抱く者は、主が教えられているように、彼を心の中で殺してしまうからである―

 

 昔の人に「殺してはならない、たれであれ殺す者は審判かれるであろう」と言われたことをあなたらは聞いている、しかしわたしはあなたらに言う、すべて軽率に人の兄弟を怒る者は審判かれるであろう。また兄弟にむかってラーカーと言う者は衆議に会うであろう、また馬鹿者と言う者は火の地獄に落ちるであろう。(マタイ5・21、22)。

 

 これの言葉により憎悪の度が意味されているのである。憎悪は仁慈に反しており、たとえ手を用いなくても、心の中で、何であれ、その為すことの出来る方法をもって殺しており、手の行為からはただ外なる拘束によってのみ遠ざけられているに過ぎないのである。それ故憎悪は凡て血である、例えばエレミヤ記には―

 

 あなたはなぜあなたの道を善として、愛を求めるのか。あなたの裾に貧しい無垢な者の魂の血が見られる(2・33、34)

 

 

 

[2]憎悪は『血』により意味されるように、各種の不法も同じく『血』により意味されている、なぜなら憎悪は凡ての不法の源泉であるからである。

 

 

 

 

天界の秘義1010

 

『人の中の人の血を流す者はたれでも』、これは仁慈を消滅させることを意味し、『人の中の』は、人のもとに在る、であることは『血』の意義が仁慈の聖いものであり―それについては前を参照―また『人の中の人の血』と言われていることから明白である。これは彼の内なる生命を意味しており、内なる生命は人間の中に存在しないで、人間のもとに存在しているのである。なぜなら主の生命は仁慈であって、それは、人間は不潔で、汚らわしいものであるため、人間の中には存在しないで、人間のもとに存在しているからである。『血を流すこと』は仁慈に暴行を加えることであることは聖言の記事から明白である、例えば前に引用した記事から明白であり(374、376番)、そこには仁慈に加えられた暴行は『血』と呼ばれていることを示しておいた。『血を流すこと』は文字の意義では殺すことであるが、しかし内意では主がマタイ伝に教えておられるように、隣人に憎悪を抱くことである―

 

  あなたらは昔の者たちに、お前は殺してはならない、たれでも殺す者は審判を受けるであろう、と言われたことを聞いている、しかしわたしはあなたたちに言う、凡て原因も無いのにその兄弟を怒る者は審判を受けるであろう(5・21、22)。

 

 ここでは『怒ること』は仁慈から退くことを意味し(それについては357番参照)、従って憎悪を意味している。

 

 

 

 

天界の秘義1010[2]

 

憎悪を抱いている者は仁慈を持っていないのみでなく、仁慈に暴行を加えるのである、即ち、「血を流す」のである。憎悪には事実殺害が存在しており、それは以下のことから明白である。即ち憎悪を抱いている者はその憎んでいる者が殺されることを何ものにもまさって願っており、もし外的な拘束により抑えられもしないならば、彼を殺そうと欲するのである。こうした理由から『兄弟を殺しその血を流すこと』は憎悪であり、そしてそれが憎悪であるからには、その者に対する彼の観念[考え]の各々の中にはそれが存在しているのである。冒涜も同じである。すでに言ったように聖言を冒涜する者は真理を憎むのみでなく、それを消滅させ、または殺すのである。このことは他生にいる冒涜罪を犯した者らから明白である。彼らはその身体の中で生きていた間は外面的には正しい、賢い、敬虔なものとしていかほど見えたにしても、他生では主に、また愛の諸善と信仰の諸真理の凡てに致死的な憎悪の念を抱いているが、それはこれらのものが彼らの内的な憎悪、強奪、姦通に対立しているという理由に基いていて、彼らはその内的な憎悪、強奪、姦通を聖いものの仮面の下で覆い隠し、また愛の諸善と諸真理と不善化してそれらに自分自身を支持させるためである。

 

 

 

天界の秘義1011

 

「その血は流されなくてはならない」。これは彼が罪に定められることを意味することはすでに言ったことから明白である。血を流す者、または殺す者が死をもって罰しられることは文字の意義に従っている。しかし内意では、主もまたマタイ伝に教えられているように、隣人に憎悪を抱く者はそのことにより死に、即ち地獄に定められることが意味されているのである―

 

 たれでも自分の兄弟に向って、馬鹿者と言う者は火の地獄に投げこまれる危険がある(マタイ5・22)。

 

 なぜなら仁慈が消滅すると、その人間は自分自身と自分自身のものとに向って放任されてしまって、最早良心に属した内的な束縛を通して主により支配されなくなってしまい、自分の富と権力のために作る束縛のような、法律に属した外なる束縛を通してのみ支配されるからである。そしてこれらの束縛が緩められると、―こうしたことは他生に起るのであるが―彼は最大の残酷と淫猥にさえも突入し、かくして自分自身を罪に定めるのである。血を流す者はその者の血を流されなくてはならないことは古代人に良く知られた報復の法則であり、それに応じて彼らは聖言の多くの記事から明白であるように、犯罪と不正とを審いたのである。この法則は人は他の者からしてもらいたくないことを他の者にしてはならないという普遍的な法則から起っており(マタイ7・12)同じくまた以下のことからも起っている、即ち悪はそれ自身を罰し、同様に誤謬もそれ自身を罰し、かくして悪と誤謬との中にそれ自身の刑罰が存在しているということが他生における普遍的な法則となっているのである。そして悪は悪自身を罰し、あるいはそれと同じことではあるが、悪い人間はその者の悪に相応した刑罰に突入するという秩序が在るため、古代人はそこから彼らの報復の法則を引き出したのであって、そのことがまたここに、凡て(他の者の)血を流す者は、その者の血を流さなくてはならない、即ち、彼は自ら自分自身を罪に定めるというこの宣言により意味されているのである。

 

 

 

 

3.マリア・ワルトルタ

 

 

マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音/2卷P507/126・7

 

わたしはどのように襲ったか?

常軌を逸するまで怒り狂い、その後衝撃の最初の引き金を引いたのか? 時として人は自分の感情を抑えられません。なぜならサタンは、石投げ兵のように、悪の中に人を投げ込むからです。しかし、一つの石が目標に達した後、もう一度投げられ、襲うために、石投げ兵の手に自ら戻って来るとしたら、その石についてあなたたちは何と言うでしょうか? 『魔法にかけられた地獄のような力に囚われている』と言うでしょう。第一撃の後、その残忍さは衰えもせず、第二、第三、第十番目の打撃を与える人はそうなのです。怒りは収まるから、最初の弾みのすぐ後、尤もな理由から弾みがまたあるとしても、理性がその後釜に座ります。ところが一方、真の殺人者、すなわちサタンは憎しみですから、兄弟への憐れみなど無いし、ありえないサタンの中では襲われた犠牲者に対する残忍さは弥(いや)増します。

 

 

 

 

マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音/3卷上P142/171・5

 

 隣人に対する愛の掟の完成は、『殺すな』と命じられていたように、もうわたしが言わないほど重要な掟です。なぜなら殺人者は人びとが裁くでしょうから。しかしわたしはあなたたちに『怒るな』と言います。というのも、より高度な裁きをあなたたちは受けるだろうし、そこでは非物質的な行為も裁かれるからです。兄弟を侮辱した者は最高議会によって罰せられるでしょう。しかし、兄弟を馬鹿呼ばわりし傷つけた者はから罰せられるでしょう。

 もしに対する愛のために、まず、心の内奥で自らの怨恨を生贄にし、赦すことを知るという至聖な祭式を済まさなければ、祭壇に捧げ物をしても空しく、役に立ちません。したがって、に捧げ物をしようとする時、もしあなたの兄弟に対して過失があったり、あるいは兄弟の過失を恨んでいるのを思い出したら、祭壇の前に捧げ物を置いて、まずはあなたの自愛心を犠牲にし、あなたの兄弟と仲直りをし、それから祭壇に戻りなさい、その時、その時はじめて、あなたの捧げ物は聖なるものとなります。

好ましい合意は常に最良の事業です。人間の判断は当てにならず、挑戦に固執する者は訴訟に負けるかもしれないし、相手に最後の一文まで支払わされ、獄死するかもしれません。

 万事においてに向かって目を上げなさい。『がわたしと共になさらないことをする権利がわたしにあるだろうか?』と、自分に問いなさい。なぜならはあなたたちほど非情ではなく、片意地ではないからです。非情で片意地なあなたたちは災いです! 一人として救われないでしょう。この反省があなたたちを柔和、謙遜、慈悲に富む者にするように。そうなればあなたたちはの目に欠けるところのない者となり、その上、報いを受けるでしょう。

 ここに、わたしの前に、わたしを憎み、彼が何を考えているかをわたしが知っているので、『わたしを治してくれ』と、あえてわたしに言えない人もいます。しかしわたしは『あなたが欲することがなされるように。またあなたの目から鱗が落ちるように、あなたの心から怨恨と闇が落ちるように』と言います。

 皆さん、わたしの平和と共に行きなさい。明日もまたあなたたちに話すでしょう」。