教会の一致・刷新
兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける(マタイ5・22)/
わたしと一緒に集めない者は散らしている(マタイ12・30)/
やめさせてはならない。あなたがたに逆らわない者は、あなたがたの味方なのである(ルカ9・50)/
1.教会の一致・刷新
@.スウェーデンボルグ
・かくも多い相違の源泉
・今から後は基督教会と呼ばれなくてはならない
A.ヴァッスーラ
B.聖母から司祭へ
C.デボラ
D.サンダー・シング
E.マザー・テレサ
F.マルタ・ロバン
G ファウスチナ
2.分裂の意味
3.悪は分裂させる
4.今後の世界と教会との状態
5.復活祭の日取りを一致させるように
6.教会を一致させるのは私の仕事です、あなたは私を運ぶ者となるだけです
7.我が家が自らを刷新しはじめ
8.教義のみがかれらを連結させるなら、そのときはかれらは互に他から分かれて、教義と同数の教会を作る
9.生命・教義の方面でへりくだる
10.しかしまだ誰も 一致への全道程を知る者はなく(ヴァッスーラ)
11.心における一致
12.肌の色や教義で区別しないように
使徒言行録2・44−47
信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。
1.教会の一致・刷新
@.スウェーデンボルグ
真の基督教784
新しい教会が地上に建設されるに先立って新しい天界が作られねばならぬことは神的秩序に順応している。何故なら内なる教会と外なる教会とがあり、内なる教会は天界の教会と一をなし、従って天界と一を成し、而してこの世の教職者達によって知られている如く、内なるものは外なるものの前に作られ、その後外なるものが内なるものによって作られねばならないからである。
人間における教会の内なるものを形成するこの新しい天界が増大するに応じて、新しいエルサレム即ち新しい教会がその天界から降って来るのであり、それ故これは一瞬に生ずることは出来ない。前の教会の諸々の虚偽が先ず取り除かれなくてはならない。何故なら新しい真理は古い虚偽が根こそぎにされない中は入ることは出来ないからである。而してこれは先ず教職者の間に生じ、彼らを通して平信徒の間に生じなくてはならない。何故なら主は以下のように語り給うたからである、「誰も新しきぶどう酒をふるき革袋に入れず、もし然せばその袋はりさけ、ぶどう酒ほとばしり出でん。新しきぶどう酒は新しき革袋に入れ、かくて二つながら保つなり」(マタイ9・17。マルコ2・22.ルカ5・37,38)。
これらの事柄は主の御言葉によって明白であるように、教会の終わりを意味する世の終わりまでは生ずることは出来ない。イエスは語り給うた「天国は良き種畑にまく人の如し。人々の限れる間に、仇来りて、麦のなかに毒麦を播きて去りぬ。苗はえ出でて実りたるとき、毒麦もあらわる。僕ども来りて家主に言う、我らが往きて毒麦を抜き集むるを欲するかと。主人言う、いな恐らくは毒麦を抜き集めんとて、麦をも共に抜かん。両ながら収穫まで育つに任せよ。収穫のとき我かの者に、先ず毒麦をあつめて、焚くためにこれを束ね、麦はあつめて倉に入れよと言わん。収穫は世の終わりなり。されば毒麦の集められて火に焚かるる如く、世の終わりにも斯くあるべし」(マタイ13・24−30、39、40)。
本章の第1項に見られ得るように、ここの麦は新しい教会の真理と善を意味し、毒麦は前の教会の諸々の虚偽と悪を意味し、世の終わりは教会の終わりを意味する。
天界の秘義2913
もし凡てのものが仁慈を持っているなら、たとえ教義的なものと礼拝とについては異なっているにしても、教会は一つのものとなるであろう。(1285,1316、1798、1799、1834、1844、2385)
天界の秘義1285[3]
第一古代教会の場合もこれと同一であったのである、なぜなら全般的には諸国民と同数の種類の礼拝があり―そのあるものは内なるものであり、またあるものは外なるものであったけれど―また特殊的には諸国民の中に存在した氏族と同数の礼拝があり、また個別的には教会の人間と同数の種類の礼拝があったけれども、しかも彼らは凡て一つの唇を持ち、言葉は一つであったのである、即ち、彼らは凡て全般的にもまた個別的にも一つの教義を持っていたのである。教義は凡ての者が相互愛の中に、または仁慈の中にいるときは一つである。例えそれらは多様ではあるものの、相互愛と仁慈により、それらはすべて一つのものとなるのである、なぜなら相互愛と仁慈とは多様なものから一つのものを作るからである。凡ての人間は、例え如何に数多くいようとも、巨万の数にさえ達しようとも、もし、仁慈の中に、すなわち相互愛の中にいるならば、一つの目的を、すなわち、共通の善を、主の王国を、主御自身を持っているのである。教義と礼拝における多様なものは、すでに言ったように、人間における感覚と内臓の多様なものに似ており、それらは全体の完全性に貢献しているのである。なぜならそのときは、主は仁慈を通し、各々の者の資質に応じて、多様な方法で流入し給い、また活動し給い、かくして全般的にもまた個別的にも、天界のみでなく地上の凡てのものを処理されて秩序づけられるからである。そしてそのとき、主御自身教えられているように、主の意志が天界に行われるように、地にもまた行われるのである。
天界の秘義3324[10]
世界にあまねく存在している主の教会は凡ゆる所で真理の方面では相違しているが、しかし仁慈を通して一つのものとなっている(3267番)。たとえ教会員は祭儀のまた教義の事柄については相違しているにしても、もし凡ての者が仁慈を持っているならば、教会は一つのものである(809、1285、1316、1798、1799、1834、1844番)。もし凡ての者が信仰ではなく、仁慈を教会の本質的なものであるものとして考えるなら、多くのものから一つの教会が生まれるであろう(2982番)。
天界の秘義3451[2]
しかし地上の主の王国、即ち、主の教会については、それはその教義的な事柄を聖言の文字の意義から得ているからには、それはこれらの教義的なものの方面では色々と異なったものでないわけにはいかないのであり、即ち、或る団体は一つの事柄を、それが聖言にそのように言われているため、信仰の真理であると告白し、他の団体は他の事柄を、それがまたそのように言われているため、真理として告白しており、そうしたことが繰り返されているといったことが現実となっているのである。従って主の教会は聖言の文字の意義からその教義的な物を得ているため、それは凡ゆる所で相違しており、しかもそのことは幾多の団体のみでなく、時としては一つの団体の中の個人各々についてさえも言われるのである。にも拘らず信仰の教義的な事柄における相違は、善を欲し、善を為すことについては一致が在りさえするなら、教会が一つのものとなる妨げとはならないのである。
天界の秘義3451[4]
教義的なものであるものが教会を作るのではなく、仁慈がそれを作る(809、916、1798、1799、1834、1844)。
教義的な事柄は人間がそれに従って生きない限り無意味である(1575番)。
教会は真理の方面では異なってはあるが、しかし仁慈を通して一つのものとなっている(3267)。
善に属している天的な事柄の方面では主と人間との間には類似性[対応]が存在しているが、しかし真理に属している霊的な事柄の方面ではそれは存在しない(1831、1832番)。
ただ一つの教義が、すなわち、主に対する愛と隣人に対する仁慈の教義が在るにすぎない(3445番)。
たとえ礼拝と教義的な事柄の方面では相違していても、もし凡てのものが仁慈を持っているなら、教会は一つのものとなるであろう(809、1285、1316、1798、1799、1834、1844、2982番)。
もし凡てのものが仁慈を持っているなら、教会は諸天界における主の王国のようなものになるであろう(2385番)。
天界には善と真理との無数の多様なものが存在しているが、しかしそれにも拘らずそれらのものは調和により、身体の各器官と部分のように一つのものとなっている(684、690、3241番)。
黙示録講解104
仁慈が教会を構成するのであり、809、916、1798、1799、1844、1894、番、教会の内なるものは仁慈であり、4766、5826番、
もし凡ての者が、たとえ信仰の教義と礼拝の祭儀[儀式]との方面では相違してはいても、仁慈から顧慮されるなら、一つの教会が存在して、現今のように、多くの教会は存在はしないのである、1286、1316、1798、1799、1834、1844、2385、2982、3267、3451番、主を拝することは仁慈の生命の中に在り、8254、8256、番、礼拝の性質は仁慈の性質に順応しているのである、2190番
天界の秘義2385〔4〕
主に対する愛と隣人に対する仁慈とはその上に律法のすべてがかかっているものであり、またあらゆる予言者から語られているものであり、それでそれらはあらゆる教義と礼拝との本質的なものであるという真理が受け入れられている場合は非常に異なるのである。なぜならその場合心はその真理が原理として受け入れられないときは不明確な誤った原理の中に隠されてしまうところの聖言の無数のものにより明るくされるからである。否、そうした場合には異端は消滅してしまって、一つの教会が多くのものから起こってくるのである。
たとえその一つの教会から流れ出ている、またはそれへ導かれている教義的な祭儀的な事柄がいかに甚だしく相違しているにしても。
天界の秘義2385[5]
そうしたものが古代教会であって、それは多くの王国に拡がっていたのである。すなわちアッシリア、メソポタミア、シリア、エチオピア、アラビア、リビア、エジプト、ツロとシドンにも達したぺリシテ、ヨルダンの両岸のカナンの地にも拡がっていたのである。これらの国の間では教義的なものと祭儀的なものとは相違してはいたが、しかし彼らには仁慈は本質的なものであったため、依然教会は一つのものであった。そのとき地上には主の王国が天界におけるように存在したのである。なぜならそうしたものが天界であるからである(684、690)。もしそれが現今もそのようなものであるなら、すべては主により一人の人間として支配されるであろう。
なぜならそれらは一つの身体の幾多の肢体と器官のようなものとなるからである。なぜなら身体の肢体と器官とは同じ形はしておらずまた同じ働きも持ってはいないものの、それでもすべてのものは一つの心臓に関連をもっていて、その心臓にすべてのものが、また各々のものが、あらゆる所で相違しているその幾多の形を持ちつつも依存しているからである。そのときは各々の者は、いかような教義の中に、いかよう外的な礼拝の中にいようとも、これは私の兄弟である、私は彼が主を拝していて、善良な人間であることを認めると言うであろう。
天界の秘義2982
「カナンの地の」。これは、その教会は主の王国の中で一つのものであることを意味していることは、「カナンの地」の表象が主の王国であることから明白である(1413、1437、1585、1607番を参照)。主の諸教会における実情は以下のごとくである、即ち、古代には多くの教会が同時に存在して、今日のように教義的な事柄についてはその諸教会の間に区別があったが、しかしそれでもそれらはそれらが主に対する愛と隣人に対する仁慈とを第一義的な、本質的なものそのものとして承認し、それ故教義的な事柄の目的はいかように考えなくてはならないかをそれらに教えることではなくて、いかように生きなくてはならないかを教えることであったという事実から一つのものとなっていたのである。そして各々のものと凡てのもののもとで[一切の教会のもとで]主に対する愛と隣人に対する仁慈が―即ち、生命の善が―本質的なものとなっていると、そのときは諸教会は、それらがいか程多くあるにしても、一つの教会を構成するのであり、そのときは凡てのものは主の王国の中で一つのものとなるのである。こうしたものがまた天界である、そこには無数の社会が在って、凡ては明確に区別はされているが、それでも凡てのものの中には主に対する愛と隣人に対する仁慈が存在しているため、それらは一つの天界を形成しているのである。
天界の秘義3241[3]
霊的な教会に属している者たちは、天的な教会に属している者とは異なって、善い真である事柄を何ら認識しないで、その学んだものを真理として認めているため、そのため彼らはその事柄については、何かの事柄が真であるか否かと絶えず論じており、各々の者はその者自身の教会のものであるその教義に止まって、それを真のものと呼んでいるのである。これがかくも多い相違の源泉となっている。さらに極めて多くの者は外観と迷妄[妄想]から善い真の事柄についてその結論を下しており、互にその仕方は異なっているが、たれ一人いかような認識からもそれを下してはいないのである。彼らは認識の何であるかを知ってさえもおらず、その理解はこのように信仰の幾多の善と真理については明確ではないため、信仰の凡ゆる事柄の中で最も本質的なものについても、即ち、主の神的なものと人間的なものと発出する聖いものとについても見解の相違が生まれてくるのは驚くにはあたらないのである。天的な者たちはこれらのものは三つのものではなくて、一つのものであることを認めているが、しかし霊的な者たちは、それらのものは一つのものであると考えようとは欲しはするものの三つのものの観念の中に宿っているのである。それで最も本質的なものであるものについても見解の相違が在るからには、教義的な事柄の変化と相違とは無数であるに相違ないことは明白である。このことから凡ての者は、ここに名を記されている者たちにより意味されているところの幾多の派生したものが何処から発しているかを知ることが出来よう。しかし教義的な事柄には極めて多くの変化と相違とが(即ち、極めて多くの派生したものが)存在していることを認めるにしても、それでも、凡てのものが仁慈を教会の本質的なものとして承認するとき、またはそれと同一のことではあるが、生命[生活]を教義の目的として認めるとき即ち、彼らが教会の人間がいかように生活しているかを尋ねて、その見解はいかようなものであるかをさほど問題にしないときは、それらのものは共になって、一つの教会を形作っているのである、なぜなら他生では人は各々その者の生命の善に応じて分を主から受けて、生命の善から分離した教義の真理に応じてそれを受けはしないからである。
天界の秘義4448
霊的な教会であった古代教会の場合はそれとは異なっていたのである。なぜならこの教会は最古代教会とは異なって、主に対する愛の中にはいないで、隣人に対する仁慈の中にいて、信仰の真理によらなくては仁慈に達することはできなかったのであり、この真理を最古代の人のようには認識しないで、それで彼らはそのとき真理についてはそれがそうであるか否かと詮索しはじめたのである。
天界の秘義4837[3]
それはまた教会が一つのものではなくて、いくつものものになっており、しかもそのいくつものものが信仰の諸真理に従って、またはいくたの教義的なものに従って互に他から明確に区別されているようなイメージを提示するのであるが、しかし教会は善がその中で本質的なものとなり、それが諸真理により加減されて、いわば変化するときは一つのものなのである。(中略)
そのことはただ善の中にのみ、即ち、主に対する愛の中に、また隣人に対する愛の中にのみ在り得るのである。なぜなら愛は凡ての者を連結するのであり、各々の者が善と真理に対する愛を持つとき、彼らは主から発している共通の生命を持ち、かくて主を持ち、主からは凡ての者を連結されるからである。
天界の秘義6269[2]
しかし再生の途上にいない者らは、信仰は第一位にある、すなわち、それは教会の本質的なものであると絶対的に言うのであり、それは彼らがその事によりその欲するままに生きることが出来て、しかも自分たちには救われる希望があると言うことが出来るためである。ここからまた現今では仁慈はその性質がほとんど何人にも知られていないほどにも消失してしまい、従って信仰もまた消失してしまっているのである。なぜなら前のものは愛のものなしにはあり得ないからである。もし仁慈が第一位に立って、信仰が第二位に立つなら、教会の相は異なるであろう、なぜならそのときは信仰の真理に従って生きる者、すなわち、仁慈の生活を送る者以外の者は基督教徒とは呼ばれないであろうし、また彼らはそのとき仁慈の何であるかを知るからである。そのときはまた彼らは信仰の諸真理にかかわる見解に応じて彼らの間に区別をもうけて多くの教会を作ることもなく、以下のように言うからである。すなわち、ただ一つの教会があって、その中に生命の善にいる者が、教会が存在している地域にいる者のみでなく、教会の外側にいる者もいるのである、と。このようにしてその教会は主の王国に属している事柄を明らかに示されるのである。なぜなら仁慈は明るくはするが、仁慈のない信仰は決して明るくはしないからであり、また分離した信仰により持ち込まれた過誤は明らかに認められもするからである。
天界の秘義6269[3]
ここからもし仁慈の善が第一位に立ち、すなわち、本質的なものとなり、信仰の真理が第二位に立ち、すなわち、仁慈の善の形式的なものとなるなら、教会はいかに異なった姿を持つかは明白である。そのときはその教会の姿は古代教会のそれのようになるであろう、(なぜなら)古代教会は教会を仁慈から成立させて、教会の教義的なものは、仁慈の教義的なもの以外には何一つ持たず、そこから彼らは主から知恵を得たからである。その教会の性質はモーセの書に以下の言葉で記されているのである―
エホバは彼を導きまわり、彼に教え、彼をその目の瞳のようにも守られた。鷲がその巣をゆり動かし、そのひなの上を飛びまわり、その翼を拡げるように、かれは彼をとり、その翼に負われた。エホバのみが彼を導かれ、彼のもとには異教の神もなかった。かれは彼を地の高い所を駆けさせ、畠の作物で養われ、岩から蜜を吸わせ、油を岩のすい石から吸わせられた。家畜のバター、羊の乳、小羊の脂、バシャンの子の雄羊の脂、小麦の腎の脂(で養われた)。あなたはぶどうの血から純粋なぶどう酒をのむ(申命記32・10−14)。
それでその教会に属した者たちは天界にいて、そこに幸福と栄誉そのものの中にいるのである。
天界の秘義6272
「彼はその手を互い違いに伸ばした」。これは、かくて、秩序に従わないで、を意味していることは、『手を互い違いに伸ばすこと』の意義から明白であり、それは、秩序に従わないで、である。なぜならそのことにより彼は弟を長子とし、逆に長子を弟とし、従って信仰の真理を先在的なもの、高いものとし、仁慈の善を後在的なもの、低いものとするからである。なぜなら『生得権』が先在性と卓越性とを決定するからである(3325番を参照)。このことがいかに多くの悪を教会に導き入れるかは明白である。なぜならそのことにより教会の人々は善とは何であるかを知らないし、かくて真理とは何であるかも知らないような不明な状態に陥るからである。なぜなら善とは焔のようなものであり、真理はその焔から発する光のようなものであるからである。すなわち、もし焔を取り去るなら、光もまた消滅するのであり、もし何らかの光が現れるにしても、それは焔から発していない、人を迷わせる光のようなものである。そこから諸教会は互に他と抗争して、真理について論争し、一つの集会は何かの事柄が真であると主張すると、他の集会はそれは誤っていると主張するのである。そして悪いことは、一度彼らが教会の集まりで信仰を第一位におくと、次に信仰を仁慈から分離して、仁慈を比較的無価値なものとし、かくて生活を無視し始めるが、人間は生来こうしたことに陥る傾向を持っているのである。ここから教会は死滅してしまうのである。なぜなら人間のもとに教会を作るものは生活[生命]であって、生活のない教義ではなく、かくて卓越した信仰であるところの信頼でもないからである。なぜなら純粋な信頼は仁慈の中にいる者たちのものにのみ在り得るのであって、仁慈から信頼の生命が発しているからである。(さらに仁慈の善は事実上長子であり、すなわち、第一位に立っていて、信仰の真理はそのようなものとして見えるにすぎないことは前に見ることが出来よう、3324、3539、3548、3556、3563、3570、3576、3603、3701、4243、4244、4247、4337、4925、4926、4928、4930、4977番)。
天界の秘義343
『羊を牧う者』は仁慈の善を行う者であることは何人にも明白であるに相違ない。なぜならこれは旧新約聖書の聖言の親しい象徴であるからである。導いて、教える者は『羊飼い』と呼ばれ、導かれ、教えられる者は『羊』と呼ばれている。仁慈の善へ導かないし、またそのことを教えない者は真の羊飼いではないし、善に導かれないし、また善いことを学びもしない者は羊の一匹ではない。(中略)
イザヤ書には―
アラビヤの羊の群はことごとくあなたのもとに集められ、ネバイオテの雄羊はあなたに仕えるでしょう(60・7)。
羊の群を仁慈の善へ導く者は『羊の群を集める者』であるが、これを仁慈の善に導かない者は『羊の群を追い散らす』のである。なぜなら凡て共に集まり、一つになることは仁慈から生まれ、追い散らして一つにならないことは仁慈の欠如から発するからである。
スウェーデンボルグ/神学論文集P100
ベイエル博士に宛てたイマヌエル スエデンボルグの第六番目の手紙から
「飼い葉桶」は、らばと馬とが聖言を理解することを意味しているため、聖言から与えられる教えを意味しており(「啓示による黙示録解説」、297番を参照)、「飼い葉桶」はそれらの食物を含んでおります、宿屋に部屋が無かったことはエルサレムには教える所が無かったことを意味しており、それで、来るべき教会を意味している羊飼いたちに、「このことがあなたらに与えられるしるしとなりましょう、あなたらは飼い葉桶に寝かされている赤児を見つけるでしょう」(ルカ伝2・12)と言われています。ヨハネの洗礼は、神御自身がユダヤ人の間に降臨されるとき、ユダヤ人たちが存続するようにと諸天界を備えたのです。ヨハネは主と主の降臨とについて言われた旧約聖書の凡ゆる予言を意味したのであり、同じくエリアも、予言者たちの首頭であったため、そのことを意味したのです。
天界の秘義1799 [4]
基督教界では教会を区別しているものは教義的なものであり、その教義的なものから人間は自分自身をロマ・カトリック教会、ルーテル派、カルビン派または改革派、福音派などと呼んでいるのである。彼らがそのように呼ばれているのは教義的なもののみによっているのであって、こうしたことはもし彼らが主に対する愛と隣人に対する仁慈とを信仰の第一義的なもの[主要なもの]とするなら、決して存在はしないであろう。そうした場合教義的な事柄は信仰の諸々の秘義に関わる種々の見解であるに過ぎなくなり、真に基督教的な人間ならそれらをたれでもその者の良心に従って抱くままにさせて、その心の中に、人間が基督教徒として、即ち、主が教えられているように、生活するときは、真に基督教徒であると言うであろう。かくて互に異なっている諸教会のすべてから一つの教会が形作られ、教義のみから生まれているあらゆる分離は消滅してしまうであろう、実に相互に他に抱き合っている憎悪もことごとくたちまち消散して、主の王国は地上に臨むであろう。
天界の秘義3241[3]
霊的な教会に属している者たちは、天的な教会に属している者とは異なって、善い真である事柄を何ら認識しないで、その学んだものを真理として認めているため、そのため彼らはその事柄については、何かの事柄が真であるか否かと絶えず論じており、各々の者はその者自身の教会のものであるその教義に止まって、それを真のものと呼んでいるのである。これがかくも多い相違の源泉となっている。さらに極めて多くの者は外観と迷妄[妄想]から善い真の事柄についてその結論を下しており、互にその仕方は異なっているが、たれ一人いかような認識からもそれを下してはいないのである。彼らは認識の何であるかを知ってさえもおらず、その理解はこのように信仰の幾多の善と真理については明確ではないため、信仰の凡ゆる事柄の中で最も本質的なものについても、即ち、主の神的なものと人間的なものと発出する聖いものとについても見解の相違が生まれてくるのは驚くにはあたらないのである。天的な者たちはこれらのものは三つのものではなくて、一つのものであることを認めているが、しかし霊的な者たちは、それらのものは一つのものであると考えようとは欲しはするものの三つのものの観念の中に宿っているのである。それで最も本質的なものであるものについても見解の相違が在るからには、教義的な事柄の変化と相違とは無数であるに相違ないことは明白である。このことから凡ての者は、ここに名を記されている者たちにより意味されているところの幾多の派生したものが何処から発しているかを知ることが出来よう。しかし教義的な事柄には極めて多くの変化と相違とが(即ち、極めて多くの派生したものが)存在していることを認めるにしても、それでも、凡てのものが仁慈を教会の本質的なものとして承認するとき、またはそれと同一のことではあるが、生命[生活]を教義の目的として認めるとき即ち、彼らが教会の人間がいかように生活しているかを尋ねて、その見解はいかようなものであるかをさほど問題にしないときは、それらのものは共になって、一つの教会を形作っているのである、なぜなら他生では人は各々その者の生命の善に応じて分を主から受けて、生命の善から分離した教義の真理に応じてそれを受けはしないからである。
主新しい教会へ招きたもう/大要(10)(P16)
今から後は人々は福音派、改革派と呼ばれてはならない、ましてやルーテル派、カルビン派とも呼ばれてはならない。基督教会と呼ばれなくてはならない。
・凡てのものが一つの目的を目指していると、そのとき彼らは不断に関連づけられて、一つのものとなる
天界の秘義9828[2]
各々の、また凡てのものが一つの目的を目指していると、そのとき彼らは不断に関連づけられて、一つのものとなるのである。なぜなら彼らは、凡ての者を従属と連合との法則に従って御自身に向けられ、かくして彼らを相互に連結させられる只一人の方の視野と統治と摂理の下におかれているからである。ここから天界の凡ての顔はそこの太陽であられ、かくて凡ての者が目指す中心であられる主に絶えず向けられており、しかもそのことが、言うも驚嘆すべきことではあるが、天使たちが何れの方向に身を向けようとも、行われていることが生まれているのである(3638番を参照)。そして主は相互愛の善の中に、また隣人に対する仁慈の善の中におられるため―なぜなら主は凡ての者を愛され、愛を通して凡ての者を連結されているからである―それで天使たちもまたこの愛からその交友を顧慮することにより主に向いているのである。
A.ヴァッスーラ
ジャック・ネランク/あなたは預言を無視しますか・現代の預言者ヴァッスーラに聞く/P169
ヴァッスーラ:イエスはメッセージの中で、教皇をご自分の教会の代理人とお呼びになっています。私はカトリックのサークルに呼びかけをする時は、主のメッセージをそのまま伝えます。イエスはカトリック信者に、教皇に盲目的に従いなさいとおっしゃっています。なぜ教皇に従わなければならないかというと、不服従は神からのものではなく、サタンから出たものだからです。ギリシャ正教徒の私が、このようなことを申し上げるものですから、びっくりなさり、なぜカトリックに改宗していないのかと尋ねにくる方もいらっしゃいます。この方々は教皇の回勅がギリシャ正教徒に対して、カトリック教徒になれなどとはまったく求めていないことに耳を傾けもしないし、それを読んだこともないのですね。教皇は東方正教の諸教会を姉妹の教会と呼んでおられます。「来て私たちと一緒になりましょう。体は一つの肺だけでは呼吸できません。二つの肺が必要なのですから」。
ネランク:それはヨハネ・パウロ2世が好んで用いる表現ですね。
ヴァッスーラ:ですから私は「教皇のおっしゃることに従いなさい」と申し上げています。私はといえば、教皇と、教会一致運動を信奉する東方正教会の総主教バルトロマイ1世がおっしゃったことに従います。イエスも、教皇と同じ言い方をなさっています。「一つの体に属する二本の手は、祈りの時のように、結ばれなければならない」。体は、二本の手で仕事をします。一方の手をないがしろにして、片手だけで働くことはできません。
ネランク:ということは、キリスト教会が統合されても、東方正教会、イギリス国教会、ルター派教会というカトリックに最も近い教会が、ローマに従属するような統合ではない。各教会は、個々の組織と典礼を保持しながらも、ローマに結ばれることになるのですね。
ヴァッスーラ:私はローマ・カトリック教会の姉妹である、東方正教会の代りにお答えすることはできます。それ以外の教会は、神聖な秘跡を執行していないからです。イエスはメッセージの中で、聖体拝領の秘跡は、教会の生命の礎だという事実に立ちもどっておられます。イエスは、教会が精彩を欠いているのは、多くの教会が永続的なミサ聖祭の典礼を廃止したからだとおっしゃっています。イエスは、まず「心の一致です」とおっしゃいます。それは一致のための外部での運動というより、むしろ内面の動きです。イエスがおっしゃりたいのは「回心において、あなたがたは一致するだろう。回心においてあなたがたは一つとなって栄えるだろう」ということです。それは機構の変化よりも、心の内面の本質的な変化です。キリスト教徒が自らの行いを悔い改めもせず、イエスを愛することもしないかぎり、全教会の一致は不可能です。最近ルンドベルク牧師からストックホルムに招かれ、聖カタリナ教会を訪れました。この方の言葉がとても印象に残っています。「私たちは聖母マリアの位置を過小評価し過ぎたという、重大な過ちを冒しました。聖母ははかり知れないほど大きな役を果たしてこられたことに、私たちは今気が付いたところです」と。ルンドベルク牧師の教会に入ると、私が講演する場所の前には、聖母マリアの像が置かれていました。教会にはルター派とカトリックの信者が大勢いらしていました。私は神からのメッセージを伝えました。証言を終えると、牧師はとても感動してくださり、皆さんの前で贈り物をしてくださいました。それは幼子イエスを抱く聖母マリアの像でした。本当に感動いたしました。そして、聖母マリアの聖像の問題にはきわめて厳格な態度をとってきたルター派の人たちが、なぜこれほど変化したのか質問してみました。集会にいらした信者の一人が、変化は信者の中から生まれたものだと答えてくださいました。強い欠乏感があり、一致を望んでいるのです。皆さんが『神のうちの真のいのち』のメッセージを通して希望を見いだしているのです。
ネランク:スイスでは、プロテスタントの信者もあなたの集会に参加していますか?
ヴァッスーラ:もちろんです。聖体拝領の中にイエスが現存されていることを信じて、カトリックやギリシャ正教の教会で聖体拝領をするプロテスタントの信者もいます。カトリック司祭に告解しているプロテスタントの信者もいますよ。
ネランク:私も、何人かの司祭から同じような話を聞きました。そうなりますと、こんな疑問も当然わきます。さまざまな宗派の信者たちが、それほどまでに教会の一致を渇望し、かつて存在した対立を一切忘れているとしたら、最後の障害はいったいどこにあるのでしょうか?
ヴァッスーラ:一般信徒は、教会の統一に障害があるとはまったく感じてはいません。イエスは私に三本の鉄棒の幻視を見せてくださいました。一致するためには、三本の棒の頭がたわまなければなりません。イエスは確かに頭の話をなさいました。鉄棒の頭たちは、たわむことを学ばなければなりません。
ネランク:その点でヴァッスーラさんのお話は、とても明白ですね。けれども、あなたが神から受けた幻視やメッセージによれば、東方正教会とプロテスタント教会は、カトリックという共通の一本の幹に戻るという印象を受けます。あなたが思い描いていらっしゃるのは、そうした状況ですか?
ヴァッスーラ:二本の棒が、あとの一本に屈服するという意味ではありません。むしろ三本が同じ方向へたわむということです。たわむというのは、謙虚な心で、愛のうちに一致するという意味です。神は私に、キリスト教徒の一致のために働いている人々は、柔軟性に欠け、鉄の棒のように固いとおっしゃっています。
ヴァッスーラ/あなたは預言を無視しますか/P183
ヴァッスーラ:
私たちの分裂は罪です。分裂は神からのものではなく、「ディアボロ」からのものです。この言葉はギリシャ語では、分裂をもたらすものを意味していて、訳せば悪魔のことです。まず教会の一致の問題ですが、これについてのイエスの最大の願いは―それは一致のための鍵でもあるのですけど―謙虚さと愛とによって、復活祭の日付けが統一されることです。1989年の10月26日にイエスは私をお呼びになり、頭の付いた三本の棒を描くようにおっしゃいました。そこで私はイエスに言われたとおりに、三本の鉄の棒と頭を描きました。イエスは私に、三本の鉄の棒はローマ・カトリック教会、東方正教会、プロテスタント教会を象徴しているとおっしゃってから、これらの教会がたわみ一本になることを望んでおられるともおっしゃいました。
「でもこの三本の棒はまだ頑なだから、自分たちだけでたわむことはできない」。「だから私は、私の火をたずさえて三本の鉄の棒のもとへ赴かねばなるまい。炎の力で棒たちは柔らかになりたわみ、溶解して、堅固な一本の棒になるだろう。そして私の栄光は地上全体を満たす
だろう」。
ヴァッスーラ/天使のたより2号/P2
何故私たちは罪の中にあるのでしょうか? そもそもキリスト教が各派に分裂、分離していること自体が罪なのです。
ヴァッスーラ/天使のたより2号/P3
現在の教会間の分裂は、直接私たちに起因せず私たちの祖先にその原因がある訳ですが、それでも私たちは有罪です。何故なら、その分裂をそのままにしていることは、私たちがその分裂状態を温存、維持していることにつながるからです。
ヴァッスーラ/天使のたより2号/P4
私たちキリスト教徒が分裂しているかぎり、休むことなく非キリスト教化の道をたどるか、いつも過ちに陥っているかのどちらかなのです。
ヴァッスーラ/天使館/天使のたより4号/P12
悔い改めが、魂を暗闇から光へと導く入り口です。したがって、今日に至ってもまだ私たちが分裂し、ばらばらである現状を考えますと、私たちが光の中を歩んでいるとは言えません。私たちは皆、神の子供ですから、神の前で皆平等なのです。
ヴァッスーラ/天使館/天使のたより4号/P13
それぞれの教会は、自ら進んでエゴと頑なさに死ぬべきであり、そして感情に流されないこのような死を通して、キリストの現存が教会の中に生命を持つようになるでしょう。それぞれの教会は絶えまない悔い改めを通らなければならず、それによって過去と現在の失敗をぬぐい去るキリストの人類への神聖な愛に結びつくことができるでしょう。この謙った行いによって、一致が実現されるでしょう。聖書はこうおっしゃっています。「主のみ前にへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高めてくださいます。」(ヤコブ4・10)
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/1・P141
主:そうです、私の体は教会です。ヴァッスーラ、私は 教会を一つにしたい、すべての司祭たちを一つにまとめたい、軍隊のように、救いの軍隊です。私の羊は散らされている。すべての司祭たちは一致すべきです。
ヴァッスーラ:わが神よ、私は個人的にはギリシャ正教の洗礼を受けています。主はどのことを言っておられるのでしょう? カトリックですか、プロテスタントですか、それとも諸派でしょうか? それともほかの宗教のことでしょうか? 敢えてこうお尋ねするのは、それらが存在するからです。
主:ああ ヴァッスーラ、ヴァッスーラ、私は一つです! 私 神は唯一です、我が子たちは 皆私の手によって造られた、どうして私のすべての子どもたちは散らされているのか? 私は一致を望む。
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/1巻P165
,87・5・2
一致しなさい! 一致して一つになりなさい、私 神は唯一なるがゆえ。一致は力をもたらす、一致しなさい ♡
私の熱心な種蒔きになり、我が平和と愛の種子を蒔きなさい。私は地上が天国となるような穀粒を創った、地上の王国は天と同じようになるはずだからです、私の心の中にあり、聖血によって清められた穀粒を取り、辺りにばら蒔きなさい
♡
私はそれらの種子を抱きかかえる 愛する者たちよ あなた方が私の心に入って それらを取り出すことを望んでいる ♡
一致を求めなさい。私の花たちを癒し、香りを与え、茂らせる、我が庭園を美しくさせよう、あなた方の心に水を与え、生き返らせる。
被造物よ! あいしている! あなた方の上に輝こう そうするなら私の暖かい光はあの重く暗い雷雲を散らし、消し去ってしまう。
私の光はそれらを貫き 重くのしかかる暗やみと悪 あなたに弱さと、みじめさと悪徳しかもたらさなさったこのやみはすべて 消え失せてしまうであろう。私の暖かい光は花を皆生き返らせ
天からは正義、成聖、清さ、誠実、平和と愛の露を降らせる。
私は 寝ずにあなた方の上に目を注ぐ熱心な牧者、思い出しなさい、私はこの世の光、御言葉です。
あなた方皆に平和があるように、我が栄光を誉め讃え、私に依りかかって、努力を重ねなさい そして 私の十字架を背負い 我が子どもたちを癒すことに疲れてしまわないように
♡
我がヴァッスーラ 倦まずに書きつづけなさい ♡ 愛している。英知があなたを教え導こう ♡♡
愛しております 主よ、み旨が行われますように。
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/1巻P202
‘87・5・20
時々、私は自分自身に驚いてしまいます。どうしてこのような形で主にお会いしたいという、こういった衝動が起こるのでしょう。なぜ、どうやって、そして、どういうわけで主のメッセージを聞きながら書くことができるのでしょう。これは長い月日のうちに、私にとってなくてはならないものになったのです。
♡ 愛している、私に会いたいというこの衝動を与えているのは 私、イエス ♡ ヴァッスーラ、いつも私を愛しなさい ♡ 妹よ、我が望みを教えよう ♡
イエスは、本当にお優しいお方です。しかしみ顔には悲しみの表情がありました。
私は 我がすべての司祭たちを一致させたい、彼らがもっと私を愛するように望んでいる。 彼らには清らかさ、熱意、忠誠心がほしい。 一致は愛を増大させ、一致が愛を確立させることを司祭たちは 理解しなければならない。 いったい いつまで不一致が彼らの間で支配するのか? 愛とは一致。 私の愛は彼らを私と一つにする。 私の教会は彼らの不一致で弱くなった。私の望みは 一致。 教会が一つになることを願っている。
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/2巻P80
「主:ヴァッスーラ、教会を一致させる時が来た、再び一つとなりなさい 愛する者たちよ、このいにしえの廃墟を建て直しに来なさい、私自身の手で建てられた基礎を建て直しなさい、我が母を尊ぶように、みことばである私が 誰にもまして尊んでいるように。そうならば 塵と灰であるあなたが母を 天の元后として認め、尊ぶのを私が望まないだろうか? 被造物が我が母の重要性について殆ど知らないのを見て 今日私は深く悲しんでいる、
ルーテルの名のもとに 全く孤立してしまった人びとは、ペテロのもとに戻りなさい、
ヴァッスーラ:主よ! 彼らにはショックでしょう!
主:ヴァッスーラ 我が母を敬うように彼らのひざを屈ませる、主である私が語っている、屈ませる! 屈んだ時、彼らの上に光を注ぎ 甦らせる、幹を強め、あなた方は灌漑された庭にように、水を湛えて決して涸れることのない泉となり、私は基礎を造り直す、来なさい 愛する者よ、私の言葉を刻むことができるよう今のように柔軟で素直となって、さあ 私の聖なる現存を決して忘れないように。
ヴァッスーラ:はい 主よ。
ヴァッスーラ:わが神よ、プロテスタントの人たちにはショックでしょう!(私はまだそのことを思っていました。)
主:ヴァッスーラ 私は彼らが変わるように何年も待っていた、もうこの願いを自由に書き下ろさせてもらいたい。」
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/2巻P274
‘88・8・9
すべての民族は我が名のもとに一つとなる、これは私の特別な祝福となろう ♡
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/3巻P80
‘88・12・3
♡ 私を愛する者は 我が愛のうちに成長してゆき、一方彼らは私を愛するよう 他の者たちも連れて来れるようになる ♡ 我が聖心は愛の炎で燃え立ち その深淵に皆を引き入れようと切望している。 愛に渇く。 あなたに求めるのは愛のみ、愛は有徳の木の根だから。 来なさい、私と和解していないすべての者たち、来なさい、来て和解し 私自らの平和を受けなさい、来て 我が愛を共有しなさい、まだ私を理解していない者たちよ 来て、私と和解しなさい(ヨハネ14・27)、来て 愛と和解しなさい ♡ 私、あなたの主イエス・キリストは あなたに我が光の子となってほしいと願っている、そう、私を尊ぶ 平和と愛の弟子となって、
ああ 主よ! ほかのどの時代もそうですが、迫害されるでしょう!
分かっている 我が子よ、心がまだ閉じたまま 心ではなく頭で判断する人びとによって迫害を受ける者もあろう、しかし恵みにより、この人びとの多くも 我が聖心に引き寄せる。 小さな花たちよ、勇気を、傍らにいて 目をあなたに注いでいる、怖れないように、我が平和と愛のメッセージが北から南へ 東から西へと広がって行くのは 私の望み、私を信じなさい、秘かにあなたの時代のために それを準備してきた ♡ メッセージの中で 我が教会が一つになることを求めている、父と私が一つであるように、我が教会も一つとなり、皆が一致して一つの群れとなる必要があるためである。 守護者として 我が再臨まで真理のうちにあなた方を護るようにと ペトロを選んだ、しかし人びとは私に背き、分裂し、自分たち自身の規則を布告した。 真に言っておくが、我が−仔羊たちの−ペトロ、今はヨハネ・パウロ二世である、ペトロに反対する人びとに耳を傾けてはならない・・・ 私に選ばれ 我が霊魂に愛された者だからである、彼を貶める者たちの声を聞いてはならない、道を逸れてしまったからだ。 愛する者たちよ、あなた方が最近分裂した時は、私の一部が引き裂かれた、そう、我がからだの一部を引き裂いたとは知らずに、ああ 我が愛する者たちよ・・・ これは私にふさわしい仕打ちか? ・・・ なぜ我が心を引き裂くか?・・・ なぜ我が眼をさらに多くの血で満たすか?(*)・・・
* 苦しみの極みにあるイエスの肖像が現れました。御眼は血が溢れ、固まってその周りにこびりついています・・・
ちょうど、自らの友により不具となってしまった、乞食のようにして、懇願する、皆ペトロのもとに立ち帰り 一つとなりなさい、父と私が一つであるように ♡ 母を拒むすべての人にも呼びかける(*)、耳を開いて聞くように、母は天の元后、神の母と呼ばれている。 知らなかった人びとを非難してはいない、真理に連れ戻そうとしているだけだ。 この世の改心のためにも呼びかける、私の全能を忘れてしまった人びとは 私を自らと比較しないように(**)、皆に思い出させているが、あなた方は時の終わりに生きている それで我が印も増えてきた・・・ 聖書が成就されつつある・・・ 私は平和と愛、私、あなたの主イエスは 慈しみに満ち溢れ、そう、我が慈しみは偉大。 我が慈しみを信じなさい、それでもなお、私が義の神であるのを決して忘れないように。 私の送る浄めは、愛によってなされる。 これを誤解したり 解釈を誤って 神からの脅し とは呼ばないように、脅しからではなく、愛を込めて警告している。 子に注意を与え、道理を説いて、家に帰らそうとする父親のように、私も、道理を説き あなた方のある者たちが いかに誤っており 道を逸れているか、罪によって我が光を妨げ得るかを 示そうとしている。 多くが深い眠りに陥っているために、起こしに来た。 我が限りない慈しみを通して、死者を甦らせに 皆のもとを訪れよう、あなた方皆に抱く限りない愛ゆえに、悔い改め 生き方を変えて 聖となるようにと、来て頼んでいる、私は聖であるから、聖なる生き方をしなさい ♡ 私の平和を与える、あなたが平和のうちに留まり 兄弟にもこの平和を分け与えられるように ♡ さあ 来なさい、この一年の終わりに当たって 祈りのうちに気を落ちつかせていなさい、来て 主である私があなたを愛するように 互いに愛し合いなさい。 あなた方一人ひとりに 祝福を与える ♡
*プロテスタントの人びと **今日の神の御わざを理性で推し量ろうとする人びと。
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/4巻Pviii
ヴァッスーラ:そうですね、マリア様からの強い一致の呼びかけがあります。そのメッセージをお読みする前に、一般的な「一致」の解釈には同意できないと申し上げたいのです。ギリシャ正教では時々、兄弟のローマ・カトリックが、ギリシャ正教になるなら一致が実現すると言います。そしてカトリックでは時々、皆がローマ・カトリックになるのを期待しています。これが人間の考え方です。天国ではこうした考え方ではありません。天国では一致を、一人ひとりの心のうちに築くものと見ています。私は今でもギリシャ正教です。ギリシャ正教徒のままです。ギリシャ正教を実践していますが、カトリックの兄弟のもとに行っても壁をつくりません。この方がたの教会に行きます。イエスはどこへでも私をお遣わしになるのです。ギリシャ正教のもとだけでなく。心のうちに、心をもって一致すべきです。
今は廃墟となっている教会の上に、イエスが建てると仰っている教会について、それは、いわば分派のように、全く新しい教会を造るのではなく、「初代教会に似せて、唯一であり 一致し、愛と謙遜という基礎の上に築く」と言っておられます。 ― 互いを受け入れ、イエスに向かって一緒に、祈りを捧げるのです。
ではマリア様が話しかけられておられる箇所を読みます:
「反逆は兄弟の間で一致を妨げます。心の不誠実は神の杯をさらに満たしていくことになります。彼らは我が子のからだをねじ曲げ、分裂させ、手足を切り落し、麻痺させてしまいました。思い出させましょう あなた方は皆 主を通して、唯一の霊のうちに、御父のみもとにいたる自分の道があるのです、ですのに我が子の名のもとに 別れたままでいます。一致と平和をあなた方は口にしますが、それを実践する人びとに対しては罠を仕掛けます。神は欺かれません、あなた方の理屈に納得もされていません。
神の国は口にのぼる言葉だけにとどまりません。神の国は 心のうちにある愛、平和、一致と信仰、それは心の中で一つに一致している主の教会なのです。一致の鍵は愛と謙遜です。イエスはあなた方の分裂をお勧めになったことはなく、ご自分の教会の分裂は イエスのお望みではありませんでした。心と声をもって一致し 我が子の初代教会を心の中に再び築いて下さるようにお願いします。我が子の初代教会と申しているのは、その教会が愛、素朴、謙遜と、信仰に基いていたからです。改めて新しい組織を造り上げるのではなく、心の中の組織を造り直すようにと申しています。心の中にある古い煉瓦、不一致、不寛容、不実、赦しの拒み、愛の欠如という煉瓦を壊して、我が子の教会を 和解によって造り直すのです。非常に大きな霊の貧しさと 溢れるほど豊かな寛容が 要求されます、そして屈まなければならないと理解するまでは、一致できないでしょう。」(ノート54、‘91・9・23)
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/4巻Pxvi
一つの祭壇でパンを分かち合う日が来る そして誰も我が子たちが私のもとにやって来るのを止めないであろう。誰も:「あなたはギリシャ正教徒か?」とは尋ねない。あなた方を分かつために築いたこの要塞を 私はもう非としている。 あなた方は皆私のうちで兄弟です。こう信じるように教え 勧めなさい。 ― 私の聖なる名のもとに自分たちを分け隔て、からだと霊において分かれたままでいる者たちには、サルディスの教会(黙示録3)に言ったと同じことを言う:世間の目に生きていると評価されても、創り主の目にはそうでない。残されたほんのわずかないのちを生き返らせなさい:それは急速に死にかけている 死骸のあるとこにはどこでも、はげ鷹が群がるものだ。一致しなさい! 集まりなさい! ともに私の名を呼び求めるように! ともに私のからだと血を献げなさい! 道を迫害しないように! 一致し 私を讃えることができるように自らへりくだり かがみなさい。あなた方は聖霊について語るが 聖霊のうちに行ってはいない。 道について話すが それを第一に遮る者となっている! ― ほとんど私を知らない者よ・・・。 私の名を呼びながら、聖櫃と祭壇の間で我が子たちを殺害しているではないか。 私は厳粛に言う、このすべては裁きの日にあなたの前に持ち出される 私に顔を向けて まことに言えようか:「私は兄弟と和解した」と? あなたはまことに言えようか:「あなたの聖なる御名のもとに私は兄弟たちの間で自分を分け隔てしなかった」と。 私の前で弁明する時、あなたの面前で言おう:「離れなさい、あなたは兄弟を同等に扱ってはいなかった。私のからだを日々殺害した。 あなたの勝利はどこか? 私が造り上げている時、あなたは打ち壊していた。 私が再び集めようとしていた時、あなたは散らしていた。 私が一致させようとしていた時 あなたは分裂させていた! しかし、今日でさえも、ありのままの姿で 私のもとに来るなら、癒すことができる。変容させることができる そして あなたが我が誉れとなろう。 私の日に、身重の女と、乳飲み子を持った女たち(ルカ21・23)のように罪を孕み 仲間うちで罪に練達した者同士がいるのを見られたなら災いである。 しかしこの人たちの間から 弟子を誘い つき従わせようと 紛(まが)い物の真理を口にする者たちが出ると言われている(使徒行録20・30)。あなたを救うために 私は叫び声を上げ 耳が不自由でもあなたに聞こえるようにしている そしてこうあなたを非難するのは、あなたにたいする大きな愛からである。しかしまことに言う: いつの日か私のばらばらになったからだのすべての部分を 一体となるように集めることであろう。」(ノート55、『私の天使ダニエル』166−167ページ)
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/U巻P163、\巻]]F
私、主は、いかなる教会の分裂も望まない。あなた方は、私のために、一致し 私の名のもとに私を愛し、従い、証しするように。私が愛するように互いに愛し合い、一致し、一人の牧者のもとに一つの群れとなるのです。あなた方皆が知っているように 私はペトロを選んだ、権威を与えて。皆も知っているように 天の御くにの鍵をペトロに渡した。ペトロには私の仔羊と羊の面倒を見て、養うように頼んだ。この権威は私が与えたもの。私の望みをあなた方に変えてもらいたくはなかった(88.3.19前掲UP163).
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/4巻P23
‘89・10・25
(聖母)
♡ 主への愛 そして兄弟への愛を通して主の王国をひろげなさい、悪を愛で返し、人生が愛に主導され、愛があなた方の根となりますように。 自分の考え方に警戒しなさい、互いに裁かないように、あなた方のやり方は主のなさり方とは違うのです。 他への批判はさしひかえ 謙虚さによって主をお喜ばせなさい、神の愛はあなた方の最も小さな者たちにさえ 明かされています。 愛する人びとよ、家に帰っても私どもを後ろにおいて行かないで下さい、一緒に連れて行って下さい。 私どもの聖なる現存を感じるようになり、「私」の代わりに「私たち」と言うようにして下さい、皆を祝福します、主が望んでおられるように、一つとなりなさい、天国では一つなのですから 分かれていないように ♡ 平安のうちに 平和の中で暮らすように ♡
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/5巻P106
‘91・4・13
主よ、教会の分裂ですが、それもカトリックと東方教会だけの話しですが、本当に恥ずかしいことです! 私たちキリスト教徒が分裂しつづけているなんて、どうしてあり得るでしょう、それも一時的でなくいつまでも続き、根が深く、あまりにも理不尽な争いがもとで! 一人ひとりが相手の敵になってしまい、その一部ではいまだ怒りと憎しみをかかえ、心の中で言い争っていては、筋の通った話しができるでしょうか? 兄弟と和解したと言って主に顔を向け、曇りない良心で、あなたの祭壇に献げ物をするなんて本当にできるでしょうか? いいえ、生きている限り、聖なるみ名のもとにそんなことはできません、和解しないまま、晴れた良心でみもとを訪れるなんて。 それでも、あなたの最大の願いが、愛するキリストよ、一致だと、皆知っています。 でもやっぱり、分け隔てているものにしっかりと しがみつき:「本当の信仰と真理を持つのはこちらだから、かがみたくない」とは正直に言えないようです。もし一致するなら、あなたの花嫁はもっとずっと美しいのが、私たちには分からないと見えて? 教会はずっとたくましくなるでしょうに? ずっと成長し? 実もずっと増えて? 今は、よどんでしまったかのようです。毎日目の前に、霊魂たちが二流の哲学、そう、ニューエージやエホバの証人といった秘教のセクトを追って、次々と花嫁をやめて行くのを見ていて、教会が成長し、霊魂たちを得ていると正直に言えるでしょうか? しかもこの霊魂たちもあなたを探しているように感じます、そこで あなたが見い出せますよう、どうぞお助け下さい。
ああ、私の鳩よ、教えていたのは無駄でなかった! ・・・ 一致するには 彼らの心が要るのを 皆まだ理解していない。 心の中で 私の教会が一つとなるように造り直すには 彼らの心が要る。 一致は心でするのです。 見よ、私は よその民に証しするように あなたを送り出した、しかし多くの人は 英知がなぜよそ者にあなたを送ったか理解しないで、よそ者に屈服したと信じている、私 主が 彼らの心に あなたの心を一致させたのを悟っていない、あなたはまさに 二重の十字架を負っている 我が子よ、自分たちの仲間となるようにと たえず挑発する何人かのよそ者からも 追いやられて。 今のままでいることによってどう一致し 一致とはどんな様子かを 私は両方に教えている。 一致とは 我が聖なる名のもとに 自分たちを分け隔てしないこと、一致とは 聖体拝領を分かち合い 聖体のうちに 私のまことの現存を信じること ♡ 一致とは、我が子よ、互いに自分たちの富を与え合うこと。
主よ、「私たちが裁くとき、あなたの慈しみを思い、裁かれるとき、憐れみに依り頼む」(知恵の書12・22)ことを、お教え下さい。
ああ、我が子よ、あなたの種族は まだ滅ぶことはない、しかし覚えておくように、私が前にいて、御母が傍らにおられ、あなたを励ましている、そして足もとには守護の天使がいて あなたを護っている。 聞くように、兄弟たちの中でも 先頭に立つ者は尊ばれよう、そこで私のペトロを尊びなさい。 至高者からの一言です ♡
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/\巻]]G
将来の一致について話されたもう一つのメッセージの中では、もっとはっきりと書かれています:
ペトロの手には私の羊を護る鉄の錫を置く、そして「どうして道案内など必要か?」をまだ知らず 自問する人たちに対しては このように言う:羊飼いを持たない羊の群れを見たり聞いたりしたことがあるか? 私は天の羊飼い そして戻るまで仔羊たちを護るようにペトロを選び、その責任を与えた、ではなぜこのように議論するか、空しい論争を? 我が言葉を未だ知らないすべての人たちは、それについて聖書で読むように、私の弟子ヨハネの福音書の中に見出そう。こうして教会を一致させ 一つの群れとなるように腕の中に包み込む、今日はこのように散らされ あまりに多くの共同体、分裂したセクトを造りだしている。私のからだはあなた方に引裂かれてしまったが、こうあってはならない! 皆を一致させる(88.5.16、前掲UP222)。
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/7巻P136
94・7・4
―ああ! 我がメッセージの類似が書かれはじめたなら どんなに嬉しいか! 今日与えているみことばを尊び 私に仕えるであろう者は祝福されている。 私が彼を手助けしよう その行為をすべて考慮していると(・・・)に伝えなさい。
「我が息子よ、ほかの務めをたくさん 引き受けないように。 (そうです)
ふえていくばかりで あなたは時間の不足に苦しもう! できるだけ急ぎなさい、だが:<主よ、何を必要とされていますか?>と尋ねるなら 決してたどりつかない。 教えよう:<私のメッセージは 救う、そして時は短い、あなたの始めたことを 私は祝福した。 この世代に理解のパンと知恵の飲みものを与えなさい。 我がメッセージは栄養を与え 渇きを癒す。 この世代は食物がないために どんどん死に絶えている。あなたの労苦の実は 多くの人を救おう。 急いで今 私のメッセージを食べなさい。(そうです!)
我が聖心の富をそこから引き出し、次にこれらの富に光を当てなさい。 教会の健康が回復するよう あなたには健全さを与えた。 我が司祭たちと信者の心を照らすに必要な光を メッセージから引き出しなさい。 その中に 一致という宝を与えた、我がメッセージに照らされて 一致を推し進めなさい。 みことばを引用し 類似するものをあげなさい。 この作品の麗しさに 国ぐには群れをなして啓発されよう。
ヴァッスーラ・神のうちの真のいのち・8巻P38
‘95・4・28
私の名が絆となって西の家と東の家は 全き平安と、愛のうちに 欠けるところなく一致して生きよう。 私の新しい名がこの二つの家の王的なしるしとなる・・・間もなくあなたの時代に このことが起こるゆえ、こうは言わないように、「主は今度もご自分の時間に合わせてゆっくりされる」と。
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/8巻P59
我が教会が一致して一つとなる日を見たいと・・・一致を祈り求めなさい そして一致を望まない人たちには耳をかさないように。分裂をもたらす者が彼らを引き裂いておき その霊を攻撃的にしている。―心から誠実に 一致を求めて働かない人は 我が霊を大きく悲しませる。教会を一致に導くために集まる人びとには この言葉を念頭に刻んでほしい:
―謙遜と愛―
謙遜と愛が 一致をもたらす鍵。流暢な話しぶりも長々とした説教も 一致へとはつながらない。互いに褒めあったとしても 私の教会を一致へとは導かない。 こうしたすべてに私は疲れはてた・・・我が聖所は荒らされ 荒廃が浸透している、そこで互いに褒めあったとして何になろう? 彼らの面目はどこにあるか? 私の意思が見えてくるように 身を屈めなさい。救いの声が栄光の高みから語っているのが聞き取れるよう 自分達の声を低くしなさい。あなた方は回心によって 私の声が心には聞こえ 教会が一つとなるように導いて、私のからだは一致する。
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/10巻P11
‘99・2・2
ああ、世代よ、あなたのあまりにみじめな時代にとって この本(*2)ほど利益をもたらすものを ほかには得られなかったであろう。 我が教会の刷新にとってこれ以上の贈物を受け取ることはあり得なかった、しかしこのたびも我が教会はこの意図を理解せず、私を裏切っている・・・・
*2イエスは、「神のうちの真のいのち」の全巻を仰っています。
B.聖母から司祭へ
聖母から司祭へ1979.2.11
イエズスが、あなたがたを愛してくださったように、あなたがたは、あいたがいに愛し合いなさい。そうすれば、あなたがたが、心をひとつにすることができるでしょう。一致こそ、愛の完成なのです。
聖母から司祭へ1993.11.21
キリストの光栄ある王国は、イエズスのご聖体の王国の勝利とともに実現するでしょう。
なぜなら、清められ、聖なるものとされ、愛によって完全に新たにされた世界において、イエズスは、特に、ご聖体におけるご自分の現存の神秘をもって、御自らをお現しになるからです。
ご聖体は、そのあらゆる神的力が発揮され、新たな光となって、人々の心と霊魂、そして個人に家庭に、また諸民族の生活にも、その輝かしい光線を反射させ、こうしてすべての人を、従順で柔和な唯一の羊檻(おり)の群れとなし、イエズスは、その唯一の牧者となられるでしょう。
おいでになる主を迎える準備をさせるために、こん日、世界各地からあなたたちを集めている天の母は、この新しい天と地にあなたたちを導きます。
聖母から司祭へ1986.8.8
教会全体を完全な刷新に導くのは、あなたたちの司牧的な計画や議論にあるのではありません。すなわち、あなたたちが、これほど信頼して、たよりにしている人間的な手段ではありません。ご聖体のイエズスだけに可能です。
聖母から司祭へ1980.10.27
私は、あなたがたにとって、一致の道です。わたしは、全教会に受け入れられたとき、はじめて母として、私のすべての子らを同じ家族の団欒に集めることができるでしょう。
それで、私の汚れなき心が世界に勝利をうるその同じときに、すべてのキリスト者はカトリックの教会にふたたび一致するでしょう。こうして、再一致した教会は、新たな聖霊降臨の輝きを受けて全世界のすべての民族を新しくする力を帯びるのです。
聖母から司祭へ1996.2.22
イエズスは、ペトロに、教会の土台となり、その真理のすべてを保護する役割りを与えられました。
聖母から司祭へ1996.2.22
何世紀にもわたって、カトリック教会から分離した様々なキリスト教派は、キリストから望まれ、御父から熱く嘆願された教会の一致に対抗する反逆者の勝利を代表します。今、これら全ての間違いを、和解と教会一致運動の道を歩むことによって償おうと試みられています。しかし、カトリック教会の中における全ての教派の再構成は、世界におけるわたしの汚れなき心の勝利と共に実現するでしょう。
C.デボラ
デボラ/生ける神よりあかされた英知/1巻上P114
「主よ、最後にお会いしたときにあなたは、教会の一致についてお話しになりました。そして人間は、この一致が実現したときにのみ平和に達することができるだろうとおっしゃいました。」(中略)
「私の教会を分けたということは、私の身体を分けたということを意味しており、ちょうど子のない父、父のない聖霊を想像するようなものである。」
デボラ/生ける神よりあかされた英知/1巻下P92
小さい娘よ、私の聖心は『一致』を欲しているという確証を世界中に与えるために、あなたにこうして話しているのである。
デボラ/生ける神よりあかされた英知/1巻下P93
現代、キリスト教における一致こそ、私があなたたちを招いている活動である。あなたたちの間では、互いに一致する準備ができていなければならない。そうでないなら、どうやって私を迎えるつもりか?
D.サンダー・シング
サンダー・シング/イエス・キリスト封印の聖書/P338
今日、こんなにも多くの宗教があるのは、人々が彼らを満たしてくれるイエス・キリストを知らないからであります。
サンダー・シング/インドの聖者スンダル・シング/P199
1920年にロンドンでフォン・ヒューゲル男爵にお会いしたとき、彼はとても親切にしてくれました。彼に会えて嬉しく思いました。教会の会員については、わたしはキリストの体に所属しているということです。それは、生きる者も死んでいる者も、目に見える者も目に見えない者も、真のキリスト教徒の体として理解されるものです。
しかし、ひとが地上で組織的な教会の会員になることについては、わたしはまったく反対しません。この意味においては、わたしはインドの聖公会の一員です。わたしは使徒継承[教会が権威を使徒たちから継承されているという主張]を信じませんが、この信念がひとの霊的生活の助けとなるのであれば、彼らがそれを信じるのは構いません。
真の霊的な継承は何度か遮られてきました。すべての主教や法皇たちが、本当に聖霊によって任命されたわけではないからです。多くは聖人でも、全員ではありません。活けるキリストが本当にわたしたちのそばにいて、心の中で生きているのなら、なぜ中心にある核を拒絶して、乾き切った外の殻にすがる必要があるでしょうか。
E.マザー・テレサ
マザー・テレサ/愛と祈りのことば/PHP文庫/P112
私たちには、平和に働く義務があります。しかし、平和達成のためには、まず、イエスのような心の柔和さと謙遜さを学ばねばなりません(マタイ11・29)。
謙遜の徳のみが私たちに一致をもたらし、一致のみが平和をもたらすのです。
お互いにイエスに近づいて、謙遜に、しかも明るく生きることを学びましょう。
F.マルタ・ロバン
マルト・ロバンの面影P74
フィネ神父は語っている。
「最初の一時間のあいだ、マルトは聖母マリアについてしか話さなかった。かの女は、神秘に満たされた人のように、神秘と親密にまじわっている人のように、聖母マリアについて話した。
第二時間目は印象深かった。マルトは、権威ある語調で、本を読んでいるかのように、歴史のなかに展開するに違いない『諸事件』について話してくれた。これらの事件のうち、あるものはきわめて重大で、きわめて辛いものであった。他の事件は希望と美とに満ちたものであった。大変よく記憶しているのは、『教会のなかに愛のペンテコステ(聖霊降臨)がおこなわれるでしょう』と言ったことである。かの女はまた、教会は『信徒によって若返るでしょう』とも言った。
マルトは、このかなり新しい『信徒』という語に力を入れた。そして、『信徒』は未来の教会のなかで主要な役割りを果すにちがいないと、繰り返し話してくれた。そう話しながら、喜びに満たされていた。かの女はまた、教会は刷新されるとも言った。そのうえ、信徒について話したとき、この信徒を養成する手段を見出すことが焦眉の急であることを強調した」。
G ファウスチナ
いつくしみセンター/聖ファウスチナの生涯P32
最終的に、イエスが望まれたのは新しい組織や修道会をつくることではなく、すべての人が属することのできる運動のことでした。
2.分裂の意味
聖母から司祭へ1996.2.22
― 地獄の力が勝ち誇ることはない。 悪魔が、わたしの御子イエズスの神秘体である教会の一致を粉々に砕いて、分裂や教義の分離など深い裂傷の種を蒔いて暴れ回ったにもかかわらずです。 何世紀にもわたって、カトリック教会から分離した様々なキリスト教派は、キリストから望まれ、御父から熱く嘆願された教会の一致に対抗する反逆者の勝利を代表します。今、これら全ての間違いを、和解と教会一致運動の道を歩むことによって償おうと試みられております。しかし、カトリック教会の中における全ての教派の再構成は、世界におけるわたしの汚れなき心の勝利と共に実現するでしょう。
3.悪は分裂させる
マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P229
もう、こんなことをしてはならない。あなたたちにとって、別々になるのはよくない。私が皆一緒にいるようにと言うのは、互いに支え合う必要があるからです。あなたたちは一人では何でもできるほど強くない。一緒にいれば、互いに支え合うこともできるし、抑えもできる。別々にいると・・・
いつくしみセンター/聖ファウスチナの生涯P32
最終的に、イエスが望まれたのは新しい組織や修道会をつくることではなく、すべての人が属することのできる運動のことでした。
4.今後の世界と教会との状態
最後の審判とバビロンの滅亡73
今後の世界の状態は現在までの状態と全く同じであろう。なぜなら霊界で起った大きな変化も自然界の外なる形には何ら変化を起こさないからである。それゆえ、この後も前のように民事が在り、前のように平和や、条約や、戦争が在り、全般的にもまた個別的にも社会にぞくする他の凡ての事が在るであろう。主は以下のように言われた。
最後の時に戦争が起り、国民は国民に抗って、王国は王国に抗って立ち上がるであろう。色々な所に飢きん、疫病、地震が在るであろう(マタイ24・6,7)。
これはこうした事が自然界に存在するであろうことを意味するのではなく、それに相応した事が霊界に存在するであろうことを意味している。なぜなら聖言はその予言では地上の王国を取扱わず、またそこの飢きんや、悪疫や、地震も取扱わず、それらに相応した霊界の物を取扱うからである。これらの物は如何ようなものであるかは、「天界の秘義」に説明されており、その主題に関係した記事を集めたものは下に見ることができよう。(略)
しかし教会の状態については、その状態こそ今後相違するものである。それは実際、その外見では同じであるが、内部では異なるであろう。外見では、これまでのように、分離した諸教会が在り、その教義はこれまでのように教えられ、そして今と同じような諸宗教が異邦人たちの間に存在するであろう。しかし今後は教会の人は、霊的な自由が彼に回復されているゆえ、信仰の事柄については、引いては、天界に関わる霊的な事柄については、さらに自由に考える状態に在るであろう。
なぜなら天界と地獄との凡ての物は今や秩序に復し、神的な事に関わる、また神的なものに反抗した考えの凡てはそこから流れ入り、すなわち、天界からは神的な物に調和した考えの凡てが、地獄からは神的な物に反抗したものが凡て流れ入るからである。しかし人間は自分自身の中のこうした状態の変化に気づかない。なぜなら彼はそのことについて反省もしないし、また霊的な自由や流入については何ごとも知らないからである。
にも拘らずそれは天界で認められており、またそれは人間自身によりその死後認められるのである。霊的自由が人間に回復されたゆえ、聖言の霊的意義は今や明らかにされ、それにより内的な神的真理が啓示されたのである。なぜなら人間はその前の状態ではそれを理解しなかったであろうし、それを理解した者は、それを冒涜したであろうから。人間は天界と地獄との均衡により自由を持つこと、人間は自由にいないかぎり改良され得ないことは、「天界と地獄」の著作(597の終り)に見ることができよう。
5.復活祭の日取りを一致させるように
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/8巻P236
今まではあなた方に 圧力をかけてはいなかった、復活祭の日取りを一致させるようにと懇願してきたが あなた方には我が霊の言葉が聞こえていない。 御父の忍耐を あなた方は挑発している。
6.教会を一致させるのは私の仕事です、あなたは私を運ぶ者となるだけです
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/1巻P262
‘87・7・3
ヴァッスーラ、私のために、我が教会を一致させてくれるか?
私はあなたの前にいる そして指図を与えているのは私、ただついてきなさい ♡ 私は全教会に一致してほしい ♡ 司祭たちには私の今までになし遂げたわざと 使徒たちの持っていた素朴さとを思い出してほしい。 初代教会のキリスト教徒の身につけていた謙遜と忠実の心を ♡ 来なさい、心の最も内奥の望みを打ち明ける、あなたのうちにそれを刻印させてほしい 小さな者よ ♡
このとき、本当に絶望的な感じがしました。主は、望んでおられる非常に多くの重要な事柄を語られ、書き下ろさせておいでですが、私は麻痺したまま、その上にあぐらをかいています。主のお望みを果たしていないように感じています。何も変わっていないのですから。しかし、どう変わり得るでしょう。本当にこういったことを誰も、殆ど何も知らないのですから。私は主に逆らい、最も望まれていることをしないで、主の機嫌を損ねているように感じます。これをジェームズ神父にはお見せしましたが、神父さまもそれを読んで助言すること以外、何ができるでしょう。イエス? (百人以上の人がこれらの啓示のコピーを持っています。けれど、それは十分ではありません!)
♡ 私です、平和に生きなさい ♡ 私が我が教会を復興する、私の言葉を ヴァッスーラ あなたの上に記すことだけをさせてほしい、愛している、私も愛して 我が誉れとなりなさい、教会を一致させるのは私の仕事です、あなたは私を運ぶ者となるだけです、違いが分かるか? 私の教会を刷新しなさいとか、一致させなさいと言う時でさえ、ヴァッスーラ、それはあなたに直接向けられたものではまったくない ♡ 今に分かってこよう、私とともにする仕事が一部だけでも分かってきたであろうか?
はい、主よ、分かってきました。
今に分かろう ♡
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/2巻P163
‘88・3・19
イエス、みもとに参りました。
ああ ヴァッスーラ、書くことに疲れてしまわないように。 今日は飢えた仔羊たちを養う、明日はあなた方を一致させ 私の神秘を知らせる、私を喜びで満たし 愛して証しする全ての人に聖なるロザリオの祈りを伝えなさい、
全てのキリスト者にですか?
♡ そう 愛する者よ、私が母を尊ぶようにあなたも尊ぶのです、あなたの主が喜ぶ仕方で行う十字架の道行も 伝え示すのです、私を証しする全ての人に、
全てのキリスト者に、主よ?
♡ そう 私を愛するすべての人に、私、主は、いかなる教会の分裂も望まない、あなた方は、私のために、一致し 私の名のもとに私を愛し、従い 証しするのです、私が愛するように互いに愛し合い、一致し 一人の牧者のもとに一つの群れとなるのです、あなた方皆が知っているように 私はペトロを選んだ、権威を与えて、皆が知るように 天の王国の鍵をペトロに渡した、ペトロには私の仔羊 そして羊の面倒を見て、これらを養うように頼んだ、この権威は私が与えたものだ、私の望みをあなた方に変えてもらいたくはなかった、集まりなさい 愛する者たちよ、私の教会を強化し、私が何を望むかを 我がうちに探し求め、あなた方のでなく 私の利益を求めるように、私の栄光を求めなさい、一致することにより私の栄光は讃えなさい 被造物よ、我がからだに活力を与えて、 あなた方皆を愛している ♡ 耳を開いて十字架からの叫びを聞きなさい! ♡ ヴァッスーラ あなたの家がどこにあるか 覚えているか? そう、私の聖心の中にある、来なさい、さあ 愛する者よ、待っている、限りなく愛している
お愛しします、主よ、救い主。どうぞお喜ばせする方法をお教えください、あなたとともにいて 用いていただけますように。
あなたを教えているところだ、しなやかなまま 私の利益にだけ注意を向けていなさい ♡ どのときも、「私たち」、私はあなたのために、あなたは私のために、あなたの傍らに私はいる(I Am)、祈りなさいヴァッスーラ 霊魂の救いのために、このメッセージのためにあなたを創造した。 ♡♡♡
ありがとうございます、イエス。
7.我が家が自らを刷新しはじめ
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/10巻P106
‘00・6・6
高官たちは初めのうちは 彼女にも私どもの言葉にも 注意を向けないだろう。 彼らは王の布告を無視するが、一方 私どもの権威は彼女を通して すべての国々にひろまって行く。 そして我が家が自らを刷新しはじめ 聖霊によって生まれ変わり始めたとき、私どもを大胆にも非難し、高貴な心たちを罪人のように扱う野獣の総督が、私どもの子どもと 私どもの高貴なテーマに対し 大きな力で向って来よう。 しかし真のねらいは私どもにある。
それは 私どもの愛のテーマが、彼(*1)とその手下を危険にさらすと 気づいたがゆえ、また 私どもが彼らを長年にわたる彼らの教会への陰謀を暴き、ある日は自然主義を 別の日は合理主義を、皆に強要してその心を縛り、私の声を弱めようと、彼らの掟を押しつけていることを すべての国たみに明かそうとしているため。
*1 彼とその手下は世界をわがものとし、キリストの神性と父なる神に戦いを挑む 私たちの時代の闇の勢力です。十字架にも戦いを挑んでいます。
8.教義のみが彼らを連結させるなら、その時は彼らは互に他から分かれて、教義と同数の教会を作る
天界の秘義4468
「私たちは一つの民となりましょう」(創世記34・16)。これは教義の方面でもまた連結することを意味していることは、『民』の意義から明白であり、それは教会の真理であり、従って教義である(1259、1260、3295、3581番)。かくて『一つの民となること』は教義によって連結することを意味している。教会の人間を共に連結させる二つのもの、すなわち、生命と教義が存在している。生命が彼らを連結させるときは、教義は彼らを分離させはしないが、しかし現今の教会の中で見られるように、教義は生命のために存在して、生命は教義から発してはいるものの、教義のみが彼らを連結させるなら、そのときは彼らは互に他から分かれて、教義と同数の教会を作るのである。もし教義のみが教会の人間たちを連結しているなら、彼らは互に他から離れることは、教義を異にしている者は互に他の者を非難し、時として地獄に堕ちる者として非難しているという事実から明白である。しかしもし生命が教会の人間を連結しているなら、教義は彼らを引き離しはしないことは以下の事実から明白である、すなわち、生命の善の中にいる人間は意見を異にしている他の者を非難はしないで、その事柄を彼の信仰と良心とにまかせて、しかもそのことは教会の外側にいる者に対してすら行っているのである、なぜなら彼はその心の中でもし彼らが年のいかない子供たちのように無垢と相互愛に生きているなら、無知だからといって罪に定められはしない、子供たちもまた死ぬときは無知の中にいるからである、と言うからである。
9.生命・教義の方面でへりくだる
天界の秘義4471
『かれらの言葉はハモルの目に良かった』は生命の方面でへりくだることを意味し、『ハモルの息子シケムの目に(良かった)』は、教義の方面で(へりくだることを)意味し、『で、その若者はその言葉を為すのにためらわなかった』は、受け入れようとの切望を意味し、
10.しかしまだ誰も 一致への全道程を知る者はなく
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/5巻P23
‘90・11・15
私はあなたをエジプトから連れ出し、我が教会を一致させるために、あなたのではない民のもとに遣わした、しかしまだ誰も 一致への全道程を知る者はなく 我が計画の糸口を把握している者は まだいない。 歩ませようとしている道に まだ誰も気づいていない。英知が持っておられる一致への鍵を 神学者も哲学者たちもまだ見つけていない。
11.心における一致
ヴァッスーラ/花むこから花嫁への呼びかけ ヴァッスーラの証しの記録/天使館/P141
神は、どの人も自分の心の蓄えの中からこれらのメッセ―ジを判断するとおっしゃっています。神のみことばはすべてが正しく、理解する人は素直に受け入れ、単純な清い心の人には悦びとなりますが、ジャッカルたちにとっては物議をかもしだす侮辱と映るでしょう。真実のクリスチャンとは内面がクリスチャンの人であり、まことの一致は心のうちになされ、これからもそうであろうと言っておられるからです。一致は文字によらず、霊のうちになされるのです。
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/3巻P61
‘88・10・25
わが主よ?
私です ♡ 娘よ! 歓びなさい! あなたの理解をはるかに越える愛をもって 永遠の昔から 愛してきた! 偏愛をもって。 あなたを創造したのは あなたの愛で我が霊を悦ばせ 我が心を満たすため、あなたの涙によって我が怒りをなだめ 傷を和らげるため。 あなたを創造したのは 疲れた時の 憩い 忘れられた時の 話し相手として。 夢中であなたを愛している! 愛する者よ、 我が聖心の望みを知ってもらい、我が持てるすべてを分かち合うために あなたを選んだ。 我が光の子となりなさい。 私はあなたを最も愛する者 最も祝福する者。 私があなたに抱く嫉妬深い愛は その小さな心を燃え上がらせ 光の松明とし、ほかの心をも私を愛するように 燃え立たせるであろう。 私の愛が点る 祭壇となり、この炎を広げ 石の心をも生き生きとさせて 私の熱心な弟子にさせなさい。 肌の色や教義で区別しないように、あなた方は皆 私の似姿につくられ 私の十字架は 全てのくに民のために捧げられた。 我が聖なる名のもとに 一つとなりなさい。 被造物よ 私は 夢中で愛している! 生き返りなさい 被造物! あなた方のさ中に 私が現存すると信じて、皆を癒すことができるよう あなた方の心に入らせてほしい。
花よ、私を望みなさい、我が掟を重んじ 私を喜ばせなさい、私を第一におき 全てのものに優先させなさい。 地上的なものはすべて 嫌悪するように、この世でなされた すべての悪を埋め合わせるには 莫大な償いを必要とする、他の人びとに代って償うように、ヴァッスーラ、決して見捨てない。私の教えに導かれて あなたは我がもとに来た、私とあなた、あなたと私は、代々終わりなく結ばれている、私の平和を受けなさい ♡ 来なさい ♡