子供

 

 

無垢単純従順率直無邪気純朴幼子

人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ(創世記8・21)

やめさせてはならない。あなたがたに逆らわない者は、あなたがたの味方なのである(ルカ9・50)

金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい(マタイ19・24)

無学な者たちが選ばれた理由

 

 

 

 

1.聖書

2.スウェーデンボルグ

3.マリア・ワルトルタ

4.ヴァッスーラ

5.子供さえ地獄へ行く

6.天界の三分の一を形作っている子供たち

 

 

 

1.聖書

 

 

マタイ18・1−5

 

 そのとき、弟子たちがイエスのところに来て、「いったいだれが天の国でいちばん偉いのでしょうか」と言った。そこで、イエスは一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせて、言われた。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」

 

 

 

マルコ10・13〜16

 

「イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。『子供たちをわたしのところに来させなさい、妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。』そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。」

 

 

 

マタイ11・25−27

 

 そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。すべてのことは、父からわたしに任されています。父のほかに子を知る者はなく、子と子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。」

 

 

 

マタイ18・10

 

これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである。

 

 

 

マタイ28・18−20

 

イエスは近寄って来て言われた。わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。

 

 

 

ルカ10・21−22

 

 そのとき、イエスは聖霊によって喜びにあふれて言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。すべてのことは、父からわたしに任されています。父のほかに、子がどういう者であるかを知る者はなく、父がどういう方であるかを知る者は、子と、子が示そうと思う者のほかには、だれもいません。」

 

 

 

ルカ18・15−17

 

イエスに触れていただくために、人々は乳飲み子までも連れて来た。弟子たちは、これを見て叱った。しかし、イエスは乳飲み子たちを呼び寄せて言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」

 

 

 

ヨハネ6・37

 

父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。

 

 

 

 

2.スウェーデンボルグ

 

 

天界と地獄408

 

天界では最も小さい者が最も偉大な者である、なぜなら自分自身からは力も知恵も持たず、また持とうとも願わないで、主からそれを得ようと願う者が最も小さな者と呼ばれており、こうした意味で最も小さい者は最大の幸福を持っている。そしてその者は最大の幸福を持っているため、彼は最も偉大な者であることが生まれている。なぜなら彼はそのことによって主から凡ゆる力を受けて、知恵では凡ゆる者に優れるからであり、そして最大のものであることは、最も幸福であることでなくて何であろうか。

 

 

 

天界の秘義1616[2]

 

『ヘブロンにあるマムレの樫の木の杜』がさらに内なる認識を意味していることについて、実状は以下のようである。

 

外なる人にぞくしたものが内なる人の天的なものに連結するにつれ、認識は増大して、さらに内なるものとなるのである。

 

天的なものとの連結は認識を与えるのである、なぜならエホバに対する愛にぞくした天的なものの中には内なる人の生命そのものが存在しており、またはそれと同一のことではあるが、愛にぞくした天的なものの中には、すなわち、天的な愛の中には、エホバが現存されており、その現存は連結が行われないうちは外なる人の中には認められないのであって、認識はことごとく連結から発しているからである。

 

 

 

天界の秘義1616[3]

 

内意からここに主における実情はいかようなものであったが明白である、すなわち、主の外なる人は、または人間的な本質は知識が増大して実を結ぶに応じて、徐々に神的な本質に連結されたのである。

 

知識によらなくては、たれ一人、人間として、エホバに、または主にいかような方法によっても連結することはできないのである、なぜなら知識により人間は人間になるからである、そのように主も他の人間のように生まれたもうたため、かれらが教えられるようにまた教えられたもうたのであるが、しかし主の知識の中へは、それを容器として、天的なものが絶えず秘かに注ぎこまれ、それでその知識は絶えず天的なものを入れる容器となり、知識それ自身もまた天的なものとなったのである。

 

 

 

天界の秘義1616[4]

 

主はこのようにして幼児の天的なものの中へ絶えず進まれたのである、なぜなら、前に言ったように、愛にぞくした天的なものは幼児の最初期から子供時代にかけて、また青年期にかけて、徐々に浸透するからである。

 

もしその人間が再生することができるようなものであるなら、これらの知識はそのとき愛と仁慈にぞくした天的なものに満たされ、かくてその人間が幼少の頃から子供時代と青年期にかけて与えられてきた天的なものの中に植えつけられ、かくしてかれの外なる人はかれの内なる人に連結するのである。

 

これらの知識は先ずかれが青年時代に与えられた天的なものの中に植えつけられ、次にかれが子供時代に与えられたものの中に植えつけられ、最後にかれが幼少の頃に与えられたものの中に植えつけられるのであって、そのときかれは主から『神の国はこうした者の国である』と言われた『小さな子供』となるのである。

 

この植えつけられることは主のみにより行われるのであって、そうした理由から主から発していない、また主のものでない天的なものは一つとして人間のもとにはありえないのであり、またあり得るはずもないのである。

 

 

 

天界の秘義5608

 

「小さな子供」により無垢が意味されています。誰一人無垢を多少なりと持たない限り、天界へ入ることは出来ない。

 

 

 

天界の秘義5608[]

 

 しかしながら小さな子供たちの無垢については、それはたんに外なるものであって、内なるものではない、それは内なるものではないため、いかような知恵とも連結されることはできないのである。しかし天使たちの、とくに第三の天界の天使たちの無垢は内なる無垢であり、かくて知恵と連結している(2305、2306、3494、4563番)。人間は年をとり、小さな子供のようになると、幼児の頃に持っていた無知の無垢に知恵の無垢が連結され、かくてかれは真の幼児として他生へ入って行くように創造されているのである。

 

 

 

 

3.マリア・ワルトルタ

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P62

 

 「(前略)たやすく信じることのできる子供たちは幸せです」と、イエズスは子供であること、信じることを知っているヨハネの帯に腕を回し、その親愛の情を示す。

 

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P84

 

 では、あなたたちは、私も彼女を祝福するとあの人に伝えておくれ。私に代って子供たちを愛してくれるようにとね。あなたたちは蜂蜜とパン菓子のためだけでなく、あのよい婦人を愛しなさい。私の名で子供を愛している人は、その名が天に書かれるのだから、あなたたちも彼女に倣いなさい。私の名で水の一杯を与えても、あわれみの心は天の報いを受けます。子供に対してのあわれみ、子供たちを飢えや渇きや寒さばかりでなく、世間の腐敗から救っている場合は、無限に報いられると知りなさい。

 

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P86

 

 町からも他のガリラヤ人がやって来る。イエズスを取り囲む人の数が増えるばかりで、イエズスのそばに近寄れなくなった子供たちは、不平を言い始める。イエズスは子供たちの無邪気な抗議を聞き、微笑んで言う。

 

「子供たちが私の所に来るのを邪魔しないで欲しい」

 

主を取り囲んでいる輪が解けると、子供たちは小鳥のように大喜びで、イエズスに走り寄る。イエズスは彼らの頭をなでながら、大人たちと話を続ける。

 

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P336

 

神は霊的なことばで話され、霊魂はこれを聞きます。それに霊魂には年齢がありません。そればかりか幼い霊魂は、悪意を知らないので、神を知る能力として、年寄りの罪人よりも大人であると言えます。シモン、幼い子供が英雄的な愛の知恵を教えることがあるのだと、何時か悟るでしょう。しかし肉体的な理由のために死ぬ小さい子供には、神が直接働きかけられます。今ここで、あなたに説明できないほど高い理由のために、天国においてだけ聖人はその“本”を読みます。“読む”と言いましたが、実は神の限りない知恵を知るためには、神を見るだけで足ります。

 

 

 

マリア・ワルトルタ33・3

 

この場面から立ち上がる至福を語ることはおよそ不可能です。母親が赤ん坊を寝かしつけているだけじゃないか、と言われればそれまでです。でもあの母とあの赤ん坊なのです!ですから至福、愛、清らかさ、天国がこのささやかな、偉大な、甘美な情景の中にあると考えられるのです。この情景は、その記憶と共にわたしが今も繰り返しハミングするそのメロディに残り、わたしを慰めてくれるのです。神父さま、あなたにもそのメロディをお聞かせできたら、と思います。(中略)何という平和!何という美しさ!わたしは幸せで満たされる。

 

 

 

マリア・ワルトルタ33・4

 

壮大でもなく、これといって特別なことを啓示しているわけでもないこのビジョンを、多くの人はつまらないと言うでしょう。神父さま、わたしにはそれがよくわかります。でもわたしにとっては無上の至福であり、そう思います。マンマの手によって爽やかな新風を吹き込まれ、わたしは平静で、純粋で、愛に溢れた魂にしてもらったように感じるからです。神父さま、あなたにもこのようなわけで喜んでいただけると思います。

 

わたしたちは『子供』です。そのほうがずっといいのです!イエズスを喜ばせます。他の人たち、学識者か気難しい人たちは好きなように考えればいいし、わたしたちを『子供っぽい奴ら』と言って笑わば笑えです。わたしたちは痛くも痒くもありません。そうでしょう?

 

 

 

マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音/6巻上/378.8/P210

 

「いけません、そんなことをしては! 子供たちが私のところに来るのを妨げてはいけません。家族が連れて来るのもです。なぜなら、王国は、こういう無垢な魂のものだからです。彼らは大きな罪を犯すことなく、私への信仰の中で成長するでしょう。だから、彼らを聖別させてください。天使たちが彼らを私へと導いているのです」。

 

 

 

 

 

マリア・ワルトルタ30・11/天使館1巻P257

 

それはともかく、わたしのこの秘跡に対しても、そうあるべきではないだろうか?

それからもう一つ、これはあなただけに言います。あの天使は、誰にまず自分を現わし、マリアの愛情の吐露を聞くに値したのは誰であったか、よく観察しなさい。それは牧童レビです。

 

子供のような純真さをもつ者に、はご自分を現わし、その神秘を明かし、自分とマリアの言葉をお聞かせになる。子供のような純真さをもつ者は、『イエズスの産衣に接吻させてください』と言うレビの聖なる大胆さを持つ。彼はそれをマリアに言う。それもそのはず、あなたたちにイエズスを与えるのは、常にマリアだからです。聖体を運ぶ人は常に彼女なのです。生きた聖体容器(チボリウム)は常に彼女なのです。

 

マリアのもとへ行く者は、そこにわたしを見つけます。わたし彼女に求め願う者は、彼女からわたしを受けます。わたしの微笑は、『もっと愛するためにイエズスをわたしにください』と誰かが言うとき、諸天を喜びの、同じく幸せの強烈な輝きで青ざめさせるのです。

 

だから『イエズスの産衣に接吻させてください。その御傷に接吻させてください』とわたしに言いなさい。さらに大胆に言いなさい。『あなたのイエズスの聖心の上にわたしの頭を凭れさせてください。至福を味わうために』と。

おいで。そして憩いなさい。イエズスとマリアの間に置かれた揺り籠で。イエズスのように」。

 

 

 

マリア・ヴァルトルタ「手記」抜粋/天使館/P66

‘43年8月2日

 

二十世紀の今も、単純な人々、子供たちはわたしについて来るし、わたしを信じるだろう。彼らが単純なのは、合理主義と不信と心の傲慢が手を付けていない赤子と同じ心の持ち主だからだ。いいや。わたしはわたしの教会に、信じる能力のある者を見出さないだろう。言い替えれば、わたしの司祭の大軍団の中に最高の処女性、すなわち『霊魂のそれ』を維持することを知ったいくばくかの霊魂を見出すだろう。

 

 

 

 

4.ヴァッスーラ

 

 

ヴァッスーラ/私の天使ダニエルP61

 

神父さまが私に、あなたなら私を教会から放り出し、たとえ教会の戸を叩いてもあなたは断ることがおできだから 開けないだろう、と仰った時 どうお感じでしたか。

 

泣いた。 顔を手に埋め 泣いていた。 私の教会はどの人のためでもある。 私の戸を叩く者は誰であっても歓迎する。 私、イエスが、戸を開く。 私はあなたを愛している贖い主です。

 

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/2巻P253

‘88.7.14

 

主なる私がまだ呼び続けていることを 思い出させなさい、来て 私に近づいてほしい、どうして愛から身を退いてしまうのか? いつも聖櫃のかげにいて 彼らの一人が訪ねて来ないかと忍耐強く待っている、ああ! 今でも待ち続けている・・・理屈が通り正当だと信じさせる あらゆる言い訳をいつも用意しているサタンに警戒するように、まさに道理が通って見えるようにそれらを美しく飾り、あなた方が私のもとに来るのを妨げる ♡ 私は皆を愛する、彼ら以上にあなたを愛してはいないと理解させなさい、これを、彼らの幾人かは完全に理解するように、私の平和と愛のメッセージを読むなら分かるであろう、まだ理解していない人たちのために繰り返し言う、私主は平等に皆を愛している、さあ 来なさい、訪ねなさい、来て私から飲むように そうしたらもっと飲みたくなる、来て私を食べなさい もっと望むようになる、心を開いて私を受け入れなさい、戸口で立たせたままにしないでほしい! 心に迎え入れなさい、必要とするもの 弱さを知っている、あなたの霊魂は私を必要とし 私を通してのみ天国に入る、 敵の敷いた罠になぜ霊魂を陥らせてしまうのか? 私のもとに戻り、顔を向け、みことばを読んで自らを教育しなさい、私を読むのに使った時間は 無駄とはならない ♡ 一日1時間 救い主のために時間を割いてもよいではないか? 互いに愛し合いなさい、互いに平和を保ち、赦しなさい、私があなたの罪を赦すように、悪を愛で返しなさい、善い心を持ち! 完全でありなさい! さあ、愛があなたを愛し 決して見放すことはない、愛が助けとなろう、そして最後まで導いてゆく ♡♡

 

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/3巻P16

‘88・8・25

 

ああ イエス、このすべては遠いことのように思えます、そして主の再臨はますます遠いことのように!

 

娘よ、私の平和を持ち 喜んで熱心に私を迎えるように、はっきりと言う、時がなくなっている、陰のように消え失せ 我が再臨を現す 最初の兆しの中に あなた方はすでに生きている、産みの苦しみの最初の痛みが すでに始まった、しかし愚かにも、被造物はそれを笑いとばす、我が最初の兆しを拒んで、産みの苦しみがすでに始まったと 信じるのを拒む! そこで私に献身して 私から養われるように、あなたに不足がないように見届ける、左も右も見ないで、まっすぐ私のもとにやって来なさい、私は主であり あなたの師 そして霊的指導者であり続ける、あなたは知恵から学んでいる、私から学んでおり 知恵の鍵を持つのは私である、知者の目を持つ誰にも 知恵を見に入らせない、私は子どもにしか知恵を与えない、単なる子どもだけに 入って行って知恵と出会うのを許す ♡

 

ありがとうございます わがイエス。

 

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/8巻P24

 

これからも教えを 預言のようにして注ぎ出す・・・私は教えるのを喜びとする、特に私を喜ばせようと子どものように熱心で、気だてがよく、私に頼るしかないあなたのような霊魂を! そのような霊魂を悦びとする ♡

 

 

 

 

5.子供さえ地獄へ行く

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/2巻P275

‘88・8・9

 

♡♡ 戦いは終わっていません、どの日も 毎日どれほど多くの霊魂が地獄に落ちていくかを知ったなら! その数は警戒すべきほど多いのです・・・ (私はどういう人びとかお尋ねしました) 枢機卿もあれば・・・(*)幼い子どもまで。 

 

*聖母は躊躇なさり 御心のうちに痛みが感じられました。

 

 

 

マリア・ヴァルトルタ「手記」抜粋/天使館/P17

 

 わたしにとって、あなたたちの住んでいる世で、弟子の霊魂を見つけるのはとても困難だ! そして、子供のあいだでさえも、幼子の霊魂を見つけるのはもっと困難だ。わたしが憩いを見出していた素朴さ、信頼、無邪気さを、ごく幼い子供たちのなかでさえも殺したの息はあなたたちをすっかり腐敗させてしまった。

 

 

 

 

6.天界の三分の一を形作っている子供たち

 

 

天界と地獄4

 

 天界の三分の一を形作っている子供たちは凡て、主は彼らの父であられることを教え込まれて、それを承認もし、信じもし、後には主は凡ての者の主であられ、引いては天と地の神であられることを承認し、信じている。子供たちは天界で成長し、知識を通して完全なものにされて、遂には天使の理知と知恵にも達することは以下の頁に見られるであろう。