金持ちが神の国に入るよりも、

らくだが針の穴を通る方がまだ易しい

マタイ19・24

 

 

らくだ乞食清廉な裕福富の善

これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました(マタイ11・25)

天の国はこのような者たちのものである(マタイ19・14)

 

 

 

 

1.聖書

2.スウェーデンボルグ

3.多くの者は在来の考え方に縛られ、すでに自分は知識深い義人であると思い込んで生きています(マリア・ワルトルタ)

 

 

 

 

1.聖書

 

 

マタイ19・23−26

 

 イエスは弟子たちに言われた。「はっきり言っておく。金持ちが天の国に入るのは難しい。重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」弟子たちはこれを聞いて非常に驚き、「それでは、だれが救われるのだろうか」と言った。イエスは彼らを見つめて、「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」と言われた。

 

 

 

マルコ10・23−31

 

 イエスは弟子たちを見回して言われた。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。」弟子たちはこの言葉を聞いて驚いた。イエスは更に言葉を続けられた。「子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」弟子たちはますます驚いて、「それでは、だれが救われるのだろうか」と互いに言った。イエスは彼らを見つめて言われた。「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」ペトロがイエスに、「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」と言いだした。イエスは言われた。「はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける。しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」

 

 

 

 

2.スウェーデンボルグ

 

 

天界と地獄365

 

「富んだ者が神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るのがやさしい」(マタイ19・24)と主から言われている富んだ人間により、霊的な意義のみでなく、自然的な意義の、その二つの意義における富んだ者が意味されているのである。自然的な意義における富んだ者は富が溢れて、心をそこに置く者であるが、霊的な意義では、霊的な富である知識と学問とにより自分自身の理知から天界と教会との事柄の中へ自分自身を入り込ませようとする者である。それでこのことは神の秩序に反しているため、らくだが針の穴を通る方がやさしいと言われている、なぜなら霊的意義では、らくだにより全般的に学び、知る能力が意味され、針の穴により霊的真理が意味されるからである。らくだと針の穴によりこうした事が意味されていることは現今では知られていないのは、聖言の文字の意義で言われていることの霊的な意義を教えるかの知識がこれまで開かれていないためである。聖言の各細目には自然的な意義のにでなく、霊的な意義がある、なぜなら天界と世との直接的な連結がなくなった後は、天界が世に連結するためにまたは天使たちが人間に連結するために、聖言は、自然的な物と霊的な物との相応に従って記されたからである。従って聖言で富んだ人間により特にに誰が意味されているかが明白である。聖言の富んだ者によりその霊的意義では真理と善との知識にいる者が意味され、富により事実として霊的な富である知識そのものが意味されていることは、幾多の記事から明らかとなるであろう(例えばイザヤ書10・12−14、30・6、7、45・3、エレ17・3、48・7、50・36、37、51・13、ダニエル5・2−4、エゼ26・7、12、27・1から終りまで、ゼカ9・3、4、詩篇40・13、ホゼア12・5、黙示録3・17、18、ルカ14・33、その他)。同じくまた霊的意義の貧しい者により、善と真理との知識を持たないものの、それを欲している者が意味されていることも幾多の記事から明らかとなるであろう(マタイ11・5、ルカ6・20、21、14・21、イザヤ14・30、29・19、41・17、18、ゼパニヤ3・12、18)。これらの凡ての記事は「天界の秘義」(10227)の中に霊的意義とに従って説明されているのを見ることが出来よう。

 

(注)8

らくだは、聖言では、全般的に知る能力と全般的な知識を意味している、3048、3071、3143、3145。

 

針仕事、針で仕事することの意義、従って針の意義、9688。

 

外なる知識から信仰の真理に入ることは神の秩序に反している、10236。

 

そのようなことをする者は天界と教会との事柄については愚物となる、128−130、232、233、6047。

 

そして他生では、霊的な事柄について考える時、いわば酔いどれのようなものになる、1072。

 

さらにその性質はいかようなものとなるか、196。

 

もし霊的な物へ外なる知識から入ろうと試みるならば、その霊的な物は把握されることは出来ないことが例を引いて説明されている、233、2094、2196、2203、2209。

 

霊的な真理から自然的な人の外なる知識の中へ入ることは許されてはいるが、その反対は、許されてはいない、なぜなら自然的なものへ注ぐ霊的流入は与えられているが、霊的なものへ注ぐ自然的流入は与えられていないからである、3219、5119、5259、5427、5428、5478、6322、9110。

 

聖言と教会との諸真理を先ず承認し、その後外なる知識に諮ることは許されてはいるが、その反対は許されてはいない、6047。

 

 

 

天界の秘義128

 

世的な形体的な人間は、もし私は感覚に属した物により信仰について、信仰に関わる凡ゆる物について教えられてそれを認めないならば、また記憶に属した物により教えられて、それを理解しないならば信じはしないと心に語り、自然的な物に相反する筈はないと考えて、このことを確認するのである。かくて彼は天的で神的な物を感覚の諸々の物により教えられようとするが、それは駱駝が針の穴を通ることが不可能であるように不可能なことである。なぜなら彼はそうした手段によって賢明になろうとすればするほど、益々自分自身を盲目にしてしまい、ついには何物をも信じなくなり、霊的なものが在ることさえも、または永遠の生命が在ることさえも信じなくなるからである。このことは彼の仮定している原理から生まれている。これが善悪の知識の実を食うことであり、彼はそれを食うに応じて益々死んだものとなってしまうのである。しかし主から賢明になろうとは欲するが、世から賢明になろうとはしない者は、主を信じなくてはならない、即ち、主が聖言において語られたことは真理であるため、それを信じなくてはならないと心に語り、この原理に従ってその思考を規定するのである。彼は理性、知識、感覚、自然に属した物により確認するが、確認させない物は捨て去ってしまうのである。

 

 

 

天界の秘義10227[18]

 

ルカ伝には―

あなたらの中でたれであれ、その財産[持ち物]をことごとく棄て去らない者はわたしの弟子となることはできない(14・33)。

 

『財産[所有]』はその内意では聖言から発している霊的な財と富とを意味していることを知らない者は、自分が救われるためには自分自身から富をことごとく剥ぎとってしまわなくてはならないとしか考えることは出来ないが、それでもそれがこの言葉の意味ではなく、『財産』によりここでは人間自身の理知から発した事柄の凡てが意味されているのである、なぜならたれ一人自分自身から賢明になることは出来ないのであり、ただ主のみから賢明になることが出来るのであり、それで『財産をことごとく棄て去ること』は理知と知恵を一つとして自己に帰しはしないことを意味しており、このことを行わない者は主により教えられることは出来ないのであり、即ち、『主の弟子』となることは出来ないからである。

 

 

 

霊界日記1466

 

世の学者、賢人を表象する者たちは自分らはそこから遠ざかることは出来ない、自分らはお前の舌が破壊されてしまうことを願っていると告白したが、そのことは世の賢人は信仰の内的な、また更に内的な事柄を容易に教えられることが出来ないことを示している。彼らはもし欲するなら理解することは出来たのではあるが、それらのものを彼ら自身と彼ら自身の知識から知って、説明しようと望んでいるため、理解しようとは欲しなかったのである。しかし彼らは自分らは殆どそこから遠ざかることは出来ない、と告白したからには、それは主が『富んだ者が神の国に入るよりはらくだが針の穴を通る方が易しい』と言われた通りである(マタイ19・24)。『富』によりここでは人間の教義と知恵とが派生する源泉となる知識といったようなものが意味されているのである。 1748年〔60歳〕3月17日。

 

 

 

 

3.多くの者は在来の考え方に縛られ、すでに自分は知識深い義人であると思い込んで生きています(マリア・ワルトルタ)

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P147

 

 イエズスの履き物を脱がせて足を洗い、サンダルにまた足を戻す前に、その裸足に口づけし、自分の首の上に載せて言う。

 

「こうさせてください。以前のザケオの残りかすを踏み潰してください」(中略)

 

「(前略)彼らの惨めな生活を理解するには、私はあまりにも多くの罪を犯しましたが、私もあなたが皆に与えてくださる喜びを、良心の呵責を感じないという喜びを、その人たちに与えたいのです。主よ、私のやり方はやり過ぎだったでしょうか?」

 

「いや、よくやりました、ザケオ。あなたは彼らが望む以上のことを与えました。私が人間に与えたいと思っているのは、あなたが想像する以上のものです。ゆるされて良心の呵責もなしにいられる喜びだけでなく、近いうちに天の国の民になるという喜びもです。私は、あなたがやっていることを知らなかったのではなく、険しいが光栄ある愛の道に進んでいるのを見守っていました。それは純粋な愛の徳だからです。あなたは御国のことばを理解したが、それを理解した人は少ない。多くの者は在来の考え方に縛られ、すでに自分は知識深い義人であると思い込んで生きています。あなたは心から過去を悔いて、空になったその心の中に、新しい未来、永遠を入れようと望み、そうしました。ザケオ、今までのようにやっていれば、あなたは主イエズスのよい税吏になるでしょう」と、イエズスは微笑みながら、ザケオの頭に手を置く。