清廉な裕福

 

 

 

平和日本富の善貧しい者清貧

富は、天に積みなさい(マタイ6・20)祝福

ラザロ

 

 

 

1.聖書

2.マリア・ヴァルトルタ

3.スウェーデンボルグ

4.聖母から司祭へ

 

 

 

1.聖書

 

 

詩篇69・33

 

貧しい人よ、これを見て喜び祝え。

神を求める人々には

健やかな命が与えられますように。

 

 

 

箴言30・7−9

 

二つのことをあなたに願います。

わたしが死ぬまで、それを拒まないでください。

むなしいもの、偽りの言葉を

わたしから遠ざけてください。

貧しくもせず、金持ちにもせず

わたしのために定められたパンで

わたしを養ってください。

飽き足りれば、裏切り

主など何者か、と言うおそれがあります。

貧しければ、盗みを働き

わたしの神の御名を汚しかねません。

 

 

 

箴言31・10−31

 

有能な妻を見いだすのは誰か。真珠よりはるかに貴い妻を。

夫は心から彼女を信頼している。儲けに不足することはない。

 

彼女は生涯の日々

夫に幸いはもたらすが、災いはもたらさない。

羊毛と亜麻を求め

手ずから望みどおりのものに仕立てる。

商人の船のように

遠くからパンを運んで来る。

夜の明ける前に起き出して

一族には食べ物を供し

召し使いの女たちには指図を与える。

熟慮して畑を買い

手ずから実らせた儲けでぶどう畑をひらく。

力強く腰に帯し、腕を強くする。

商売が好調かどうか味わい

灯は夜も消えることがない。

手を糸車に伸べ、手のひらに錘(つむ)をあやつる。

貧しい人には手を開き、乏しい人に手を伸べる。

雪が降っても一族に憂いはない。一族は皆、衣を重ねているから。

敷物を自分のために織り、麻と紫の衣を着ている。

夫は名を知られた人で

その地の長老らと城門で座に着いている。

彼女は亜麻布を織って売り、帯を商人に渡す。

 

力と気品をまとい、未来にほほえみかける。

口を開いて知恵の言葉を語り

慈しみの教えをその舌にのせる。

一族の様子によく目を配り

怠惰のパンを食べることはない。

息子らは立って彼女を幸いな人と呼び

夫は彼女をたたえて言う。

「有能な女は多いが

あなたはなお、そのすべてにまさる」と。

あでやかさは欺き、美しさは空しい。主を畏れる女こそ、たたえられる。

彼女にその手の実りを報いよ。その業を町の城門でたたえよ。

 

 

 

 

2.マリア・ヴァルトルタ

 

 

天使館/渡邊義愛訳/マリア・ヴァルトルタ「手記」抜粋/P37

 

 わたしに結ばれていなさい。わたしのうちには正義と平和と愛がある。ほかの教説を探し求めてはならない。福音を生きなさい。そうすればあなたたちは幸せになるだろう。わたしによって生き、わたしのうちに生きなさい。あなたたちは肉体的な大きなよろこびは味わわないだろう。わたしはそんなよろこびは与えない。真のよろこびを与える。それは単なる肉のよろこびであるだけでなく、わたしが授け、承認し、共有するのを拒まなかった霊魂のよろこび、誠実で祝福された、聖なるよろこびである。

 家族、子供たち、清廉な裕福、穏やかに栄える祖国と、兄弟たちとの国々との好ましい調和。こういったものをわたしは聖なるものと呼び、祝福する。それらによってあなたたちは健康をも享受する。なぜなら誠実に生きられる家庭生活は肉体に健康を与えるからだ。それらによってあなたたちは心の平静を得る。なぜなら誠実に行われた取引や職業は良心の安らぎを与えるからだ。それらによってあなたたちは祖国と国々の平和と繁栄を得る。なぜなら同胞や隣国の人々と好ましい調和のうちに生きることによって、あなたたちは怨恨と戦争を避けるからだ。

 

 

 

マリア・ヴァルトルタ『私に啓示された福音』3巻下P26/206・10

 

大金持ちでありながらわたしの友であり、神の友であるラザロのこの地で、わたしが言うことはすべて奇妙に思われるかもしれません。しかしラザロは富める者たちの中の例外です。ラザロは、地上で見つけることが極めて難しく、また、他の者に教えるためにそれを実践することはさらに難しいこの徳、すなわち富からの自由という徳に到達した人です。

 

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P344

 

神は愛のない所にはおられません。愛のない所に神を探すことは無駄です。その前に神を見出す条件を揃える必要があります。神は愛の中に見つけられます。愛に固く立っている人は苦労して探さなくとも神を見つけ、そして神を有する人の事業は成功します。

 

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズスたそがれの日々/P344

 

憎しみや妬みは役に立ちません。孤立した人は強くなく、愛を知らない人は、愛されることもありません。詩篇が言っているように、豊かで幸せになるために、早朝から起き出して働いても役に立ちません。苦しい生活の慰めとして適当に休みなさい。なぜなら眠りは神の賜物であり、光をはじめ人間が恵まれている他のすべてのことも神の恵みです。眠りのときも目覚めているときも、愛に伴われているなら、その人の仕事は繁栄し、家族も財産も殖え、何よりも心が豊かになります。

 

 

 

 

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズスの受難/P17

 

ラザロが主に:

「先生、どうかご自分をお救い下さい! ご自身を救って! 私は先生を逃せられます。どうぞ、今夜にでも。いつだったか、エジプトへお逃げになったことがあるではありませんか! 今度もお逃げなさい。さあ、行きましょう。お母様と二人の姉妹をも連れて発ちましょう。ご存じのとおり、私は自分の富に何の未練もありません。私の富であり、またマリアとマルタの富はあなたです。さあ、行きましょう」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

3.スウェーデンボルグ

 

 

天界と地獄357

 

天界に受け入れられることについては色々な見解がある。貧しい者は受け入れられるが、富んだ者は受け入れられないと考えている者もいるし、富んだ者も貧しい者も同じように受け入れられると考える者もいるし、富んだ者はその富を断念して、貧しい者のようにならない限り受け入れられることは出来ないと考える者もおり、しかもその各々の考えは聖言から確認されているのである。しかし天界について富んだ者と貧しい者とを区別する者は聖言を理解していない。聖言はその内部では霊的なものではあるが、その文字では自然的なものである、それ故聖言を文字の意義に従ってのみ理解し、何ら霊的な意義に従って理解しない者は、多くの事柄で誤りを犯し、特に富んだ者と貧しい者とについて誤りを犯すのである、例えば金持ちが天界に入るのはらくだが針の穴を通るのと同じく困難であるが、「貧しい者は祝福されている、天国は彼らのものだから」(ルカ6・20、21)と言われているため、貧しい者は貧しいがゆえに、天国に入るのは容易であると彼らは考えるのである。しかし聖言の霊的意義について多少なりと知っている者はそのようには考えない。彼らは天国は、富んでエホバいようと貧しかろうと、信仰と愛との生活を送っている凡ての者のためにあることを知っている。しかし聖言で富んだ者により誰が意味されているか、また貧しい者により誰が意味されているかを以下に述べよう。私は天使たちと再三話し合い、また交わることにより、富んだ者も貧しい者と同じく容易に天界に入り、人間は豊かに生活しているために天界から閉め出されることはなく、また貧しいために天界へ迎えられもしないことを確実に知ることが出来たのである。そこには富んだ者も貧しい者もおり、富んだ者の多くは貧しい者よりもさらに大きな栄光と幸福とを得ているのである。

 

 

 

天界と地獄358

 

 前もって以下のことを述べておかなくてはならない、即ち、人間は機会が与えられる限り、ずるく立ち回って、他を欺きさえしなければ、富を得て、それを貯えてもよいのであり、また美味しいものを、ただその上に己が生命をおかない限り、食べても、飲んでもよく、己が境遇に従って壮麗な所に住んでもよく、己が流儀なりに他と交わっても良く、娯楽の場所へ再三でかけてもよく、世の出来事について話してもよく、献身者のように悲しい、沈んだ顔つきをし、頭を垂れて歩く必要もなく、楽しく、陽気にしていてもよいのであり、またその財産を、情愛から動かされない限り、貧しい者に与える必要もないのである。約言すれば、彼は外面では全く世の人間のように生活してもよく、もし自分自身の心の奥深くで神について正しく考え、隣人に対して誠実にまた公正に行動しさえするならば、そうしたことのために人間は天界へ入るのを妨げられはしないのである。それで人間はその行為に従って審判され、その業に従って報いられるであろうと聖言に言われていることにより、人間はその行為の源泉であるところの、またはその行為にあるところの、その思考と情愛とに従って審判され、報いられることが意味されている、なぜなら行為は全く思考と情愛と同じものであって、思考と行為がないなら無価値なものであるから(*1)。従って人間の外なる部分は何かを為すのではなくて、それを為すものは彼の内なる部分であり、そこからその外なる部分が発していることが明白である。例えば、もし誰かが、単に法律を恐れ、名声を失い、そこから名誉または利益を失うことを恐れるためにのみ、誠実に行動して、他の者を欺かないなら―もしその恐れにより抑えられないならば、他の者を出来るだけ欺くなら―その行為は例え外面では誠実に見えても、その思考と意志とは詐欺であり、こうした人間は、内面的には不誠実で、誑(たばか)りに満ちているため、その者自身の中に地獄を持っている。しかしそうしたことは神に背くことであるため、誠実に行動して、他の者を欺かないならば、たとえ他を欺くことが出来ても、欺こうとはしないのであり、彼の思考と意志とは良心であり、彼は自分自身の中に天界を持っているのである。彼らの行為は外形では同じように見えはするが、内面では全然異なっている。

 

 

 

天界と地獄361

 

天界における富んだ者の運命は豊かさにおいて他の凡ての者にもまさる底のものであって、その中には宮殿に住んでいる者もあり、その宮殿の中では凡ゆる物は金銀で輝いている。彼らは生活の用のために凡ゆる物を豊富に持ってはいるものの、己が心をそうした物におかないで、用においている。用を彼らは明らかに、また光の中に見るように見ているが、金銀は用に比較すれば曖昧に、蔭の中で見るようにしか見ていない。その理由は、彼らは世では用を愛し、金銀はただ手段、器具としてしか愛さなかったということである。用そのものは天界ではこのように輝いており、用の善は金として、用の真理は銀として輝いている(*4)。それ故世における彼らの用のいかんに、天界における彼らの豊かさは応じ、また彼らの歓喜と幸福とが応じている。善い用は自分自身と自分のもの[自分の家族]に生活の必要なものを供えることであり、また自分の国と隣人のために豊かな富を願うことであって、富んだ者はその国と隣人とを多くの方法で貧しい人間よりも更に益することが出来るのである。また彼はこのようにして有害な怠惰な生活から心を遠ざけることも出来るのである―怠惰な生活では人間は自分の中に植え付けられている悪から悪を考えるのである。こうした用はその中に神的なものを持っている限り、即ち、人間が神的なもの〔神〕と天界とを仰ぎ、その用の中に己が善を見出し、富の中には単に手段として役立つ善のみしか認めない限り、善である。

 

*4 善は凡て用から、また用に応じてその歓喜を得ている、3049、4984、7038、またその性質も得ており、従って用のいかんに、善が応じている、3049。生命の幸福と歓喜とは凡て用から発している、997。全般的に言って、生命は用の生命である、1964。天使の生命は愛と仁慈との善に在り、かくて用を遂行することに在る、454。主は、従って天使たちは、人間が仰いでいる目的にのみ注意を払っており、その目的とは用である、1317、1645、5844。主の王国は用の王国である、454,696、1103、3645、4054、7038。主に仕えることは用を遂行することである、7038。凡ての者はその遂行する用の性質に応じた性質を持っている、4054、6815、その説明、7038。

 

 

 

 

天界の秘義945

 

 王妃高貴な家族の者、また富んだ両親を持った者のような、生活の快楽と享楽の中へ生まれながらにして入れられ、小児時代からそのようなものの中に教育された者たちは異なっている。これらの者は奢侈、華麗、優雅の中に生活しているものの、同時に主に対する信仰と隣人に対する仁慈の中に生きさえしているならば、他生で幸福な者の中にいるのである。なぜなら自己から生活の楽しさ、権力、富を剥奪し、かくして惨めさにより天界に価すると考えることは誤った道であるからである。しかし快楽、権力、冨を主に比較するなら無意味なものとみなし、世の生活を天界の生活に比較するなら無意味なものとして見なすこと、それが聖言にそれらの物を斥けることにより意味されていることである。

 

 

 

天界の秘義4981

 

「『エホバの祝福』。これは増大したものを意味していることは『エホバの祝福』の意義から明白である。『エホバの祝福』はその純粋な意義では主に対する愛と隣人に対する仁慈を意味している、なぜならこれらのものを与えられる者たちは、その時天界と永遠の救いを与えられて、『エホバに祝福された者』と呼ばれるからである。ここから『エホバの祝福』は、外なる意義では、または世における人間の状態に関連した意義では、神の中に満足することであり、そこから人間がおかれている名誉と富の状態に―それが尊ばれて富んでいる者たちの間にあろうと、またはそれほど尊ばれない、貧しい者の間にあろうと、それに―満足することである。なぜなら神の中に満足している者は名誉と富とを用を果たす手段と認めており、彼らはそれらを「名誉と富を」考えると同時に永遠の生命を考える時、名誉と富とを何ら重要なものとしては認めないで、永遠の生命を本質的なものとして認めるからである。

 「エホバの祝福」または主の祝福は、その純粋な意義ではこれらのものを含んでいるため、「祝福」もまたその中に無数のものを含んでおり、引いてはそこから生まれてくる種々のものを意味しており、例えば霊的な善と天的な善を豊かに与えられることを(981、1731)、真理の情愛から実を結ぶものとされることを(2846)、天界の秩序に配列されることを(3017)、愛の善を与えられ、かくて主と連結することを(3406、3504、3514、3530、3584)、また楽しさを(3216)意味している。それゆえ「祝福」が特定的に意味しているものは連続した前後の事柄から認めることが出来よう。」

 

 

 

天界の秘義5886[6]

 

同書に以下のように言われていることも同様である―

 

あなたたちの財産を売り、施しなさい。古くならない財布を、つきない天の宝を作りなさい(ルカ12・33)。

 

たれでもこれらの言葉には他の意義が在ることを認めるのである。なぜならたれでもその財産を売ることは現在では自分自身を乞食にして、仁慈を行う能力をことごとく、それを売った後では、自分自身から剥奪してしまうからであり、また天界には貧しい者のみでなく、富んだ者もいるということは確立された真理であるからである。

 

 

 

新エルサレムの教義97

 

人各々がその者自身の隣人である、すなわち、人各々は先ず自分自身を考慮しなくてはならないと普通に言われているが、しかし仁慈の教義は、いかようにしてこのことが理解されなくてはならないかを教えている。人は各々食物、着物、住居や、その他その者の送っている社会的生活の状態から必然的に要求される多くの物といった生活上必要な物を自分自身のために供えなくてはならず、単にそのことを自分自身のためのみでなく、自分の者のためにも、単に現在のためのみでなく、また将来のためにもなさなくてはならない、なぜなら人間は自分自身のために生活の必要なものを得ない限り、仁慈を行う状態にいることは出来ないから。なぜなら彼は凡ゆる物に欠乏してしまうからである。

 

 

 

霊界日記5790イ

 

こうした者(自己愛により他を支配しようとする者)でない者たちはその者たち自身の家で静かに暮らしている。彼らは彼ら自身の持っている物で満足し、彼らに課せられた義務を遂行している。これらの者は天界の喜びを享受している。なぜならそれが彼ら自身の中に在って、彼らの外側には存在しないからである。

 

 

 

神学論文集P12

 

さらに、私は私が必要とするこの世の富を充分に得ており、更に多くのものを求めもしませぬし、望みもいたしません。

 

 

 

 

4.聖母から司祭へ

 

聖母から司祭へ1987.7.23

 

<わたしに奉献された家族>

 

家庭のすべてのメンバーが、いつも霊的な、さらに物質的な繁栄を味わえますように。