平和

 

清廉な裕福君が代

 

 

 

 

1.聖書

2.マリア・ワルトルタ

3.ヴァッスーラ

4.ルイザ・ピッカレータ

5.聖母から司祭へ

6.サンダー・シング

 

 

 

 

1.聖書

 

 

詩篇34・15

 

悪を避け、善を行い

平和を尋ね求め、追い求めよ。

 

 

 

イザヤ9・5

 

ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。

ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。

権威が彼の肩にある。

その名は「驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君」と唱えられる。

 

 

 

イザヤ57・19

 

わたしは唇の実りを創造し、与えよう。平和、平和、遠くにいる者にも近くにいる者にも。わたしは彼をいやす、と主は言われる。

 

 

 

マタイ5・9

 

平和を実現する人々は、幸いである、

その人たちは神の子と呼ばれる。

 

 

 

マタイ10・34−35

 

わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。わたしは敵対させるために来たからである。

 

 

 

ルカ2・14

 

「いと高きところには栄光、神にあれ、

地には平和、御心に適う人にあれ。」

 

 

 

ルカ12・49−51

 

「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。しかし、わたしには受けねばならない洗礼(バプテスマ)がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう。あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。

 

 

 

ヨハネ14・27

 

わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。

 

 

 

ヨハネ16・33

 

これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。

 

 

 

ヨハネ20・19

 

その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。

 

 

 

 

2.マリア・ワルトルタ

 

 

マリア・ワルトルタ/聖母マリアの詩下/P270

 

「マリアは天と創造の世界の花、天国の真珠、神の平和です。・・・そう、平和。私が平和の君なのは、御父の子、無限の平和と甘美な平和のマリアの子だからです。」

 

 

 

マリア・ワルトルタ25・11/天使館1巻P208

 

聖母がマリア・ワルトルタに:

 

子らよ、わたしたちのために、に仲裁していただくには、希望し、祈り、赦さねばならないのです。あなたたちも、あなたたちの受難を生きなさい。あなたたちの犯した罪に値する受難を。喜びつつ、いかに受難を克服し、それを変えるかをわたしはあなたたちに教えましょう。法外に希望しなさい。信頼を失わず祈りなさい。赦されるために赦しなさい。子らよ、の赦しこそあなたたちが熱望している平和なのです。

 

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズスに出会った人々3・P342

 

 私は民衆に正義をもたらす者と言われていますが、そのとおりです。なぜなら、すべての国の人々が私の教えを実行すれば、互いの憎しみも戦争も迫害もなくなります。

 

 

 

マリア・ワルトルタ/マグダラのマリア/P367

 

「そして、もし苦しみがあなたたちを訪れるならば―苦しみは人を聖ならしめ、肉欲の腐敗から人を守る没薬ではあるが―私があなたたちを愛しているという信念をもち、私は“その苦しみの中でも”あなたたちを愛し、そして私の愛から来る平和を味わうことができよう。」

 

 

 

マリア・ヴァルトルタ「手記」抜粋/天使館/P31

 

 平和は善意の人々に約束された。キリストは平和をもたらすために来臨した。だが、あなたたちがキリストを追い払い善意を持たないとすれば、どうして平和を得ることができよう?

 

 

 

マリア・ワルトルタ/手記/P37

 

 わたしに結ばれていなさい。わたしのうちには正義と平和と愛がある。ほかの教説を探し求めてはならない。福音を生きなさい。そうすればあなたたちは幸せになるだろう。わたしによって生き、わたしのうちに生きなさい。あなたたちは肉体的な大きなよろこびは味わわないだろう。わたしはそんなよろこびは与えない。真のよろこびを与える。それは単なる肉のよろこびであるだけでなく、わたしが授け、承認し、共有するのを拒まなかった霊魂のよろこび、誠実で祝福された、聖なるよろこびである。

 家族、子供たち、清廉な裕福、穏やかに栄える祖国と、兄弟たちとの国々との好ましい調和。こういったものをわたしは聖なるものと呼び、祝福する。それらによってあなたたちは健康をも享受する。なぜなら誠実に生きられる家庭生活は肉体に健康を与えるからだ。それらによってあなたたちは心の平静を得る。なぜなら誠実に行われた取引や職業は良心の安らぎを与えるからだ。それらによってあなたたちは祖国と国々の平和と繁栄を得る。なぜなら同胞や隣国の人々と好ましい調和のうちに生きることによって、あなたたちは怨恨と戦争を避けるからだ。

 

 

 

 

3.ヴァッスーラ

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/3巻P240

‘89・9・4 聖母より祈りの集いに与えられたメッセージ。

 

♡ あなた方皆に平和。 神お一人が知恵。 この砂漠であなた方に呼びかける知恵の声に耳を澄まし、耳を開いてそのお声を聞き分けて下さい。 イエスは皆を呼んでおられます、一人ずつ主のもとに戻って来るようにと、愛に立ち帰り 足跡をたどるようにと。 我が息子はあなた方の弱さ 欠点をご存じです、でもその神聖な御手にすっかり身を委ね 信頼するなら心配しないでいいのです、ありのままで我が息子のもとを訪れ あなたの意志をお捧げなさい、あなたの愛を、あなたの苦しみを、悲しみを、苦悩を、抱えている問題を、何であってもお捧げし、信頼するように、イエスの聖心の深淵にまで導いていただくに任せ そこで彼の平和を見い出しますように、あなたの霊魂にとってこれほどまでに必要な平和を ♡ 心配、分裂や混乱を引き起こし 今までより一層神の救いの計画と戦っている悪魔に対し 常に警戒していて下さい ♡ 悪魔は正しい人たちでさえ騙し、挫(くじ)こうとしています。 けれど、主の御名を呼ぶ者たちは誰であっても聞かれ 転びから救われます、しかし悪魔の言葉に耳を傾ける者たちは、神からの正義を見落とし、愛のお声に気づかないでしょう。 善い知らせをもたらす足音は歓迎すべきだといつも覚えておくように ♡ 祈りなさい、愛する子たちよ、心から、そして多くのくに民に注がれている御霊(みたま)を歓迎して下さい ♡ いかに愛の立ち帰りの時が近づいており み恵みが分け隔てなくあなた方の多くに降り注いでいるかを感じて下さい ♡ メッセージの最後に当たって思い出させましょう あなた方が愛ゆえに愛によって、創り主を愛するようにと創造され また創られた全ては創り主によって 創り主のために創造されたのです。 そこであなたを造られたお方を讃美し 栄光を讃えて下さい ♡ 私、あなたの母を喜ばせ、私たちのメッセージを思い巡らし 私たちのメッセージを生きて下さい。 皆を祝福します、家族も祝福します ♡ あなたの聖なる母、私は皆を愛しています ♡ 

 

 

 

 

4.ルイザ・ピッカレータ

 

 

ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国/4巻P109

 

 恩恵を所有している霊魂の第二のしるしは、この霊魂が話すとき、それは平和で、他の人たちにも平和を呼び覚ます、という徳をもっていることである。ところが同じことを、恩恵をもっていない霊魂が話しても、何の結果も、どのような平和ももたらすことがない。一方恩恵をもっている人が話すとき、それは素晴らしいことを行い、霊魂たちに平和を取り戻してあげる。

 

 

 

 

5.聖母から司祭へ

 

 

聖母から司祭へ1976.7.31

 

 特に愛されている私の子らよ、大きな信頼をもって私にしたがってください。そしてあなたがたの生活に於いて出逢う困難にこだわらず心配しないでください。

 この困難は私の母の心であなたがたのために準備されたものです。この困難は、あなたがたの私の汚れなき心への完全な奉献の生活を育てています。この困難はあなたがたの見方、感じかた、嗜好、愛着からはなれさせ、少しずつわが子イエズスのみ心に従って見たり感じたりするように導きます。

 私はあなたがたが困難を堪えしのんだその心の中に、イエズスのいのちが育てられたのを見ます。そしてこれは私の母の心をどんなに強めてくれるでしょう。

 子らよ、あなたがたの生活が私の個人的な影響によって、本当に変わりつつあることに気がつきませんか?

 内的な困難はあなたがたをいっそう苦しめます。あなたがたは、私のものですが、まだ世に引かれています。私の清さを着ていますが、まだ肉の誘惑の苦しみを感じています。あなたがたの中のある人々は、歎きながらそれから解放されたいと望んでいます。

 更に、あなたがたが経験するこの内的な困難は、あなたがた自身からも離脱するために、どんなに助けになるでしょう。

特に愛された子らよ、自分を決して見つめないでください。あなたがた自身が美しくないと思うほど、私とわが子イエズスには、あなたがたはいっそう美しい者に見えるでしょう。

 あなたがたを覆うのは私のマントです。私の清さそのものが、あなたがたを照らすのです。それから外的な困難があります。それはあなたがたが住む環境によるもので、誤解や非難です、時には軽蔑や讒言さえあります。

 私の敵は、あなたがたを打ち倒し落胆させるために有力な武器としてそれを使います。

 あなたがたはどのように答えたら良いでしょうか?

 イエズスのように沈黙と祈り、おん父との完全な一致の中に生きることです。

 おん父の光の中では、本当でないこと、良くないこと、偽り、讒言など、すべてが霧が太陽の下に消えると同じように消えさってしまいます。

 それで、私の汚れなき心にいるあなたがたには、何ものも触れることができません。

 誰かが、故意にあなたがたに悪を望んでもそれは実現しないでしょう。また誰かが善意をもって何かするなら、悪があなたがたに起こる前にその人は光に照らされるでしょう。

 ですから現在の嵐の中にあっても、あなたがたは平和の内に歩むでしょう。

 

 

 

聖母から司祭へ1986.10.27

 

 平和は、神のおくりものとしてのみ、あなたたちの所に来ることができます。

 人間的な議論と、おたがいの妥協のみで、あなたたちが平和をつくろうとすればするほど、平和は遠ざかってしまいます。

 そのためには、人類が改心して、心を変えるという道を歩むことによって、神にたち戻ることが必要です。

 すべての人は、真理を知り、イエズスの福音を受け入れて、これに従う必要があります。

 これこそ、教会にまかされた役割です。

 こん日、教会の奉仕者、奉献された者、すべての信徒がなすべきことは、これです。すなわち、殉教者の勇気と信仰のあかし人たちのあのたくましさをもって、イエズス・キリストだけが、救い主であり、あがない主であるという、よい訪れを全世界に告げなければなりません。

 あなたたちを、平和にみちびきうるのは、イエズス・キリストだけです。

 何にも恐れないで、また何にも妥協しないで、イエズスをすべての人にのべ伝え、かれの神としての命令を実現させねばなりません。その命令は、「全世界に行って、すべての人に福音をのべ伝えよ、信じて洗礼をうける人は救われる」という命令です。

 いつわりのにせの神々を礼拝する者までふくめて、すべての宗教を集め、人間的な価値を守るために世界的な宗教の一致をめざす努力は、むなしく、危険で、わたしの汚れなき心の望みにかなったものではありません。

 この努力は、むしろ、宗教的な混乱と無関心をはげます危険があり、まことの平和を得ることを、なおさらむずかしくすることがあります。

 それで、わたしは、こん日みなさんにいいます。すべての人に、キリストをのべ伝えなさい。

 キリストと、その福音だけに忠実を示しなさい。そうすれば、あなたたちは、本当に平和をつくるものとなるでしょう。

 

 

 

聖母から司祭へ1992.2.2

 

この世界が、平和を知らないのは、イエズスを迎えないからです。

 それで、母としてのわたしの役目は、おいでになる主を迎えるために、わたしのすべての子らの心を開くことです。なぜなら、そのときはじめて、これほど願われ、期待されている平和が、この世に来ることができるからです。

 

 

 

聖母から司祭へ1997.1.1

 

 母としてわたしの役目は、あなたがたの神であり救い主であるイエズス・キリストのもとに、あなたがた皆を導くことです。こうしてのみ人類は、平和というこのうえなき貴重な善を楽しむことができるでしょう。

イエズスは、あなたがたの平和です。

神と人類の間の平和。神の子となり、ただ一つの家族を構成するようにと呼ばれたあなたがたお互いの間の平和です。

 平和とは愛の果実です。

 平和は善意から生まれます。

 平和は全ての人々の間に調和と兄弟愛をもたらします。

 真の平和を築くためには、平和の王であるイエズス・キリストを迎え入れることが必要です。

「み言葉を受け入れた者、その名を信じた者には、神の子となる権能を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の意志によってでも、また人の意志によってでもなく、神によって生まれたのである。」(ヨハネ1・12)

 

 

 

聖母から司祭へ1997.2.2

 

平和な人は幸いである。

 ごらんなさい。ここに平和そのものである幼子がおられます。彼の名は平和です。彼の使命は、神と人類の間に平和をもたらすことです。彼の計画は、世界中を平和で満たすことです。彼のみが平和をもたらすことができ、神の子としてただ一つの家族を形成するようにと呼ばれた全ての人々の心に平和をあたえることができます。

 もし彼を拒否するならば、この世は決して平和を知ることはないでしょう。

 

 

 

 

6.サンダー・シング

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書P147

 

 祈りの人が祈りの裡に感じとる名状しがたい平和は、想像や思考の産物ではなく、その人の霊魂に神が臨まれた結果である。池から立ち昇る程度の水蒸気では、巨大な雲を形成して雨を降らせることは到底できない。乾ききった大地を潤し肥沃にするほど大量の雨を含む巨雲は、大海からしか湧き起こらない。同様にして、われわれに平和がくるのも、小さな潜在意識からではなく、絶えず祈りの中で触れる神の愛という無限の大海から来る。

 

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P160

 

この世には真の平和というものはない。罪のためにこの世の平和は閉ざされている。真の永遠の平和は「平和の御子」にのみ発見できる。自らは高所から流れ落ちるか、地下から噴出するかして、あるべき所に落ち着き静けさを取り戻す。それと同じく、人もあるべき所に落ち着き平和を回復するには、高慢の高みから落ち、罪の奈落から引き上げられる必要がある。

 

 

 

聖なる導きインド永遠の書P197

 

真の平和は、真の信者の胸の中にわたしが臨むことから生まれる。彼らはそれをみることができなくとも、その力は感じとりそこに幸せを感じる。そのような心の幸せをみることができなくとも、それを通してわが存在の平和を歓ぶことができる。それは、舌と砂糖の関係にも似ている。舌にある味覚とそれが感じとる甘さは、いすれもみることができない。そのように、わたしはまた“隠されたマナ”によって、子供たちに生命と歓びを与えるが、世はどのような知恵をもってしても、それを知ることはできないのである。

 

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P359

 

神の方法に対抗することをやめ、神の意志に屈服するや、神との調和を回復することの中に平和を知る。自分の意志を捨て去るときに、神の意志をはたすことの中に平和を見る。一方、自分の思いを遂げることに執着していれば、思いが遂げられないばかりか、遂げる力そのものを滅ぼすことになる。神と調和していないからである。言葉を換えれば、自分を捨てる者は、自分自身と神、その他すべてを見出すが、自分を捨てない者は、神の意志に逆らうことによって霊的自殺を図ることになる。

 

 

 

サンダー・シング/イエス・キリスト封印の聖書/P310

 

 

 何年も前、まだクリスチャンになっていなかった頃のわたしは、いつもキリストを憎み、キリストの敵でありました。わたしは、この世のもので願いを満たそうとしましたが、かないませんでした。家にはこの世的なものが沢山ありましたが、霊魂の求めを満たせるものは何一つありませんでした。心(ハート)は、この世のどんなものによっても満たすことはできない。心をお創りになった方によってしか満たすことはできないのです。主ただお一人のみが、それを満たすことができるのです。わたしは家と人とを捨てなければなりませんでした。わたしはすべてを失いました。しかし、わたしはキリストの中に、すべてを見出しました。この世の与えることのできなかった、取り去ることもできない、言い知れぬ平和を、キリストの中に見たのです。ただ信仰の友と一緒にいるときだけではなく、困難の最中にあっても、わたしは平和を見出したのです。

 

 

 

サンダー・シング/イエス・キリスト封印の聖書/P375

 

わたしたちは、自分が神の国の近くにいるのか、中にいるのかを知らなくてはなりません。中にいれば、生活の中にその証拠が見えてきます。生活の中の驚くべき平和は、わたしたちが神の国の中にいる証拠です。平和が宿っていなければ、神の国の外にいるのです。悔い改め、神に祈らなければなりません。わたしたちは神の国に入ることでしょう。

 

 

 

 

悔い改めが最も必要、救われている証拠は平和の経験

 

十字架は天である/サンダー・シング全集P637

<悔い改めが最も必要である>

 悔い改めは神の国に入ろうとする者にとっては最も必要である(マタイ伝3の2)。神の国は只未来の国ではなくこの地上から始まるのである。最も小さい一つの罪でも、悪い思考の一つでさえも我らの希望を滅ぼし、神の国の外に居らせるのに十分である。所せん小さい罪というものが最も危険である。丁度病気を起こさせる細菌のように、我々は肉眼を以て細菌を見ることが出来ないが何千の人がこの惨害に委ねられているように我々も見ることの出来ない罪の為に禍を受けるのである。我々が罪の中から解放されて神の国に入ることが出来た証拠は平和の経験である。一人の教授が或る時に私に尋ねた。『何処に貴方が救われているという証拠がありますか』と。私は答えて言った『それは丁度或ものを食べて甘味を知った様に私は自分の救われていることを平和の経験によって知っています』。ある人は氷で焼く(凍傷を起す)ことを信じようとせず保温の手段をせずに裸足で氷の上を歩いて、その足の皮膚を損傷してしまった。その中にある人は罪が苦痛の原因となることを理解しない。

 罪は神と我々との間の結合を破壊する。ある人は自分の破れた骨が接がれる前に苦痛から救われることを願った。何と愚かなことか。罪によって起された苦痛が取り去られる前に先ず神と我々との関係が回復しなければならない。