清貧
1.清貧
2.最古代の子孫には富を蓄積しようとの考えはなかった
3.財産を捨てねばならないか?・・・富の善
4.金もうけ
5.財産はやっかいなもの
6.富に拘泥しないこと、執着しないこと
7.アグレダのマリア
8.エホバの祝福
1.清貧
トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/1・22・2
この世の物を余るほど持っていても、人は幸福にはならない。ただ人なみに持っていさえすればそれでじゅうぶんである。
トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/3・7・3
経験者の言葉を信じないで、自分の意見ばかりに従い、あくまで自説を捨てないならば、その結果はなはだ危険である。
自分を賢いと心得ている人が、謙遜に他人の指図を受けるなどということはめったにない。
あまり学問がなく、理解力に乏しくても、謙遜であれば、知識の宝を多く有してうぬぼれている人よりもずっとよい。
誇ることのできるものは、たくさん持つよりも少なく持つ方が、あなたのためによい。
トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/3・22・4
ですから、私の主なる神よ、私は、表面(うわべ)から見て、また世人の考えによって、賞賛すべきもの、名誉とすべきものとされているところのものを、多く持たないことを、大なるおん恵みと考えます。人は自分の貧しさ卑しさを思いめぐらして、憂鬱や悲しみに沈んだり、落胆したりすべきではありません。かえってむしろ大なる慰めや喜びを感ずべきであります。というのは、ああ神よ、主が貧しい者、卑しい者、この世に軽蔑されている者を選んで、主の親友、主の家人としてくださったからであります。
トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/3・23・3
わたしの子よ、あなたの意志よりも、むしろ他人(ひと)の意志を行うように努めよ。
つねに多く持つより、少なく持つほうがよい。
つねに末席について、人の下に立つようにせよ。
神のみ旨が、あなたにおいてまったく成就されるように、つねにねがい、かつ祈るがよい。
見よ、かような人こそ、平和安心の域にはいるのである。
トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/3・26・4
ごらん下さい。飲物、食べ物、着物、その他肉体を保つために必要なものは、熱心な人にとって重荷であります。
なにとぞかような物は程よく用いるに止め、むやみに愛着することがないようにしてください。
トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/3・27・3
だから外部において何かを得たり、それをふやしたりすることは、あなたにとってなんの益にもならない、益になるのはむしろそういう物を軽んじて、根こそぎ心から引き抜いてしまうことである。
これはただ金銀財宝についての話ばかりではない、名誉を欲しがったり、つまらない称賛を望んだりすることや、世とともに過ぎ去るいっさいの物事についても言えるのである。
マザー・テレサ/愛と祈りのことば/PHP文庫/P141
私の恐れているものは、ただ一つ。お金です。
お金への執着、金銭欲こそは、ユダをしてイエスを裏切らせる動機となったのです。
マザー・テレサ/愛と祈りのことば/PHP文庫/P142
執着心から、捨てられないものの何と多いことでしょう。
すべてをイエスに差し出すためには、所有物は少ない方がよいのです。
マザー・テレサ/愛と祈りのことば/PHP文庫/P143
男女を問わず、自分のお金をいかに貯めるかで悩んでいる人々は、真の貧者です。もし自分の手許にあるお金を他人に与えようとするなら、その時、その人は富者、真の意味で豊かな人となれるのです。
2.最古代の子孫には富を蓄積しようとの考えはなかった
天界の秘義230
この子孫の支配的悪[この子孫の心を支配した悪]は自己愛であったが、しかし、かれらは同時に世への愛[世を求める愛]を現代に存在する程多くは持っていなかったのである、なぜならかれらはかれら自身の家族と氏族の中に生活して、富を蓄積しようとの考えはなかったからである。
3.財産を捨てねばならないか?・・・富の善
スウェーデンボルグ/天界の秘義3951
天界のための席を得るにはこのような物を脱ぎすててしまわねばならないと自分自身に説きつけている者は非常に誤っている。
(中略)
自分自身から世の財産をはぎとるときは、自分自身を他の者の目から低く評価させ、従って奉仕をなし、義務を遂行する上に無益なものとしてしまったため、自分自身を人の軽蔑にさらすのである。(中略)
この間の実情は人間の栄養と正確に一致。
天界の秘義10227
あなたらの中でたれであれ、その財産[持ち物]をことごとく棄て去らない者はわたしの弟子となることはできない(ルカ14・33)
『財産[所有]』はその内意では聖言から発している霊的な財と富とを意味していることを知らない者は、自分が救われるためには自分自身から富をことごとく剥ぎとってしまわなくてはならないとしか考えることはできないが、それでもそれがこの言葉の意味ではなく、『財産』によりここでは人間自身の理知から発した事柄の凡てが意味されているのである、
なぜならたれ一人自分自身から賢明になることはできないのであり、ただ主のみから賢明になることができるのであり、それで『財産をことごとく棄て去ること』は理知と知恵を一つとして自己に帰しはしないことを意味しており、このことを行わない者は主により教えられることはできないのであり、すなわち、『主の弟子』となることはできないからである。
デボラ/生ける神より明かされた英知/5巻下P17
全てを棄てなさい、と私があなたに言うとき、それは先ず、あなた自身を棄てなさいという意味である。
中山みき
貧に落ちきれ!
マリア・ワルトルタ/受難の前日/P110
「金持ちが天国に入るのは、何と難しいことか!その門は狭く、その道は険しい。富の大荷物を背負っている人はそこに歩み入ることはできない。そこに入るには、物質的なものではない徳の宝を持つことが必要であり、あるいは、この世の空しいものから離脱することを知らねばならない」
(中略)
「人間にできないことでも、神にはおできになる。神は全能なのだから。人間の方としては、善意をもって“主を助ける”それだけでよい。受けた助言を聞き入れ、この世の富から自由になるように努力する。これが善意の努力です。“神に従うために、全く自由になること”です。
人間の真の自由とは何かと言えば、次のように言えます。『神が人の心にささやかれるその声と命令に従い、自分自身と、世俗または人間の思惑の奴隷、つまりサタンの奴隷にならないように努力することです。
神が人間に与えてくださった最上の賜物、すなわち選択の自由意志を用いて、自由にただ善だけを望めば、光りにあふれる自由な、幸せな、永遠の生命に到達できます』
自分の生命に対してすら奴隷であってはなりません。この世の生命を保つために、神に背かねばならないようなことがあれば、これについては、すでに皆に語った通りです。
『私への愛にために、神に仕えるために自分の生命を捨てる者は、永遠のためにその生命を救うのである』と」
4.金もうけ
マリア・ワルトルタ/マグダラのマリア/P33
金をもうけることは罪ではない。正しいもうけで満足するならば。勉強して知識を得ることも罪ではない、それによってわれらの中なる神の観念を殺さないならば。その代わりに祭壇に仕えることでも罪であり得る。自分の利益のためにするならば。
マザー・テレサ/愛と祈りのことば/PHP文庫/P
きわめて安楽な生活、ぜいたくな生活のできる人々がいます。それは、彼らが努力した結果手に入れた特権と言えるでしょう。
私が怒りを覚えるのは、無駄使いです。
まだ使えるものを捨てたり、または無駄にしているのを見ると、怒りを覚えます。
5.財産はやっかいなもの
マリア・ワルトルタ/
「あなたもですか?マナエン」
「主よ・・・私は別です。私にはヨゼフのように家族の財産を守る必要はありません」
「財産は、何時でもやっかいなものだと言う私のことば通りでしょう。ヨゼフに我々がそこで会うことはだれにも漏れないだろうと知らせてよいでしょう」
マリア・ワルトルタ/受難の前日/P13
やっとこぶしを開き、ユダがつかんでいた金袋を奪い取って床に投げ捨て、金貨を踏みつけ、抑え難い怒りのうなりを上げる。
「去れ!サタンの芥よ!呪いの黄金!地獄のごみの蛇の毒、去れ!」
6.富に拘泥しないこと、執着しないこと
マリア・ワルトルタ/イエズスの受難/P17
ラザロが主に:
「先生、どうかご自分をお救い下さい!ご自身を救って!私は先生を逃せられます。どうぞ、今夜にでも。いつだったか、エジプトへお逃げになったことがあるではありませんか!今度もお逃げなさい。さあ、行きましょう。お母様と二人の姉妹をも連れて発ちましょう。ご存じのとおり、私は自分の富に何の未練もありません。私の富であり、またマリアとマルタの富はあなたです。さあ、行きましょう」
7.アグレダのマリア
アグレダのマリア/神の都市/P147
元后の御言葉
私の娘よ、王たちの贈り物は素晴らしく、贈り物と一緒に捧げた愛情はもっと素晴らしいです。汝も同様の贈り物をするように。一番の贈り物は清貧です。この世の金持ちは、自分の兄弟である貧乏人にも、神にも、自分の持ち物を上げようとせず、独り占めしています。汝は、自分の生計に必要なものの一部を貧乏人に与えることができます。汝の絶え間ない献金は、愛であり黄金です。続けて祈ることは乳香です。労働と本当の自己放棄は没薬です。主に対する献げ物は、熱心に即座に捧げなさい。そのために、神の信仰と光がいつも汝の心を燃やし続けるように。
天界の秘義4981
「『エホバの祝福』。これは増大したものを意味していることは『エホバの祝福』の意義から明白である。『エホバの祝福』はその純粋な意義では主に対する愛と隣人に対する仁慈を意味している、なぜならこれらのものを与えられる者たちは、その時天界と永遠の救いを与えられて、『エホバに祝福された者』と呼ばれるからである。ここから『エホバの祝福』は、外なる意義では、または世における人間の状態に関連した意義では、神の中に満足することであり、そこから人間がおかれている名誉と富の状態に―それが尊ばれて富んでいる者たちの間にあろうと、またはそれほど尊ばれない、貧しい者の間にあろうと、それに―満足することである。なぜなら神の中に満足している者は名誉と富とを用を果たす手段と認めており、彼らはそれらを「名誉と富を」考えると同時に永遠の生命を考える時、名誉と富とを何ら重要なものとしては認めないで、永遠の生命を本質的なものとして認めるからである。
「エホバの祝福」または主の祝福は、その純粋な意義ではこれらのものを含んでいるため、「祝福」もまたその中に無数のものを含んでおり、引いてはそこから生まれてくる種々のものを意味しており、例えば霊的な善と天的な善を豊かに与えられることを(981、1731)、真理の情愛から実を結ぶものとされることを(2846)、天界の秩序に配列されることを(3017)、愛の善を与えられ、かくて主と連結することを(3406、3504、3514、3530、3584)、また楽しさを(3216)意味している。それゆえ「祝福」が特定的に意味しているものは連続した前後の事柄から認めることが出来よう。