世への愛貪欲

富は、天に積みなさい(マタイ6・20)

清廉な裕福記憶知ジャングル・ジム

イエズスのほかに、もっとすぐれたものをさがすことはいらない

だれも、二人の主人に仕えることはできない。(マタイ6・24)

この世の富希望不正な管理人(ルカ16章)

 

 

 

 

 

1.富

2.富んだ者・金持ち

3.商人

4.商いをする

5.高利貸し

6.財産を捨てねばならないのか―富の善

7.金もうけ

8.財産はやっかいなもの

9.最古代の子孫には富を蓄積しようとの考えはなかった

10.金持ちも天国へ行く

11.悪と誤謬

12.そしてかれは凡ての財産をとりかえした

13.真の富・真の平和

14.霊的な力を遺産として残す (枯れた骨の復活(エゼキエル37)/)

15.富とは回心すること、富とは自分が罪人だと認め、悔い改めのうちに、身を低くして私のもとを訪れ、我が指針を守りながら 聖なる生活を送ること。

16.霊的な人の富

17.財産、快楽について考えていると天使たちとの交わりから遠ざけられる

18.スウェーデンボルグ

19.サンダー・シング

20.ルイザ・ピッカレータ

21.マリア・ワルトルタ

22.健全な理性を持つ者は何人も富を軽蔑することは出来ない

23.銀の器と金の器

24.戦利品、娼婦の賃金

25.霊的な名誉と富とは任務、用に属す

26.複利

27.トマス・ア・ケンピス

28.天界では知恵に従って豊かに富が与えられている

30.天界の富は善と真理

31.お前の寿命が尽きる日、息を引き取る時に、財産を譲り渡せ

32.サンダー・シングも父の遺産を一部受け取り、孤児を引き取った

33.マリア・ヴァルトルタも節約した

34.悪い者の持っていたその同じ知識が、その同じ富のように、善い者のもとにもあって、善い用に仕えることが出来る

35.ヴァスーラ・・・希望という宝

 

 

 

 

詩篇49

 

諸国の民よ、これを聞け

この世に住む者は皆、耳を傾けよ

人の子らはすべて

豊かな人も貧しい人も。

わたしの口は知恵を語り

わたしの心は英知を思う。

わたしは格言に耳を傾け

竪琴を奏でて謎を解く。

 

災いのふりかかる日

わたしを追う者の悪意に囲まれるときにも

どうして恐れることがあろうか

財宝を頼みとし、富の力を誇る者を。

神に対して、人は兄弟をも贖いえない。

神に身代金を払うことはできない。

魂を贖う値は高く

とこしえに、払い終えることはない。

人は永遠に生きようか。

墓穴を見ずにすむであろうか。

人が見ることは

知恵ある者も死に

無知な者、愚かな者と共に滅び

財宝を他人に遺さねばならないということ。

自分の名を付けた地所を持っていても

その土の底だけが彼らのとこしえの家

代々に、彼らが住まう所。

 

 人間は栄華のうちにとどまることはできない。

 屠られる獣に等しい。

 

これが自分の力に頼る者の道

自分の口の言葉に満足する者の行く末。

陰府に置かれた羊の群れ

死が彼らを飼う。

朝になれば正しい人がその上を踏んで行き

誇り高かったその姿を陰府がむしばむ。

しかし、神はわたしの魂を贖い

陰府の手から取り上げてくださる。

人に富が増し、その家に名誉が加わるときも

あなたは恐れることはない

死ぬときは、何ひとつ携えて行くことができず

名誉が彼の後を追って墓に下るわけでもない。

命ある間に、その魂が祝福され

幸福を人がたたえても

彼は父祖の列に帰り

永遠に光を見ることはない。

人間は栄華のうちに悟りを得ることはない。

屠られる獣に等しい。

 

 

 

詩編119・72

 

卑しめられたのはわたしのために良いことでした。わたしはあなたの掟を学ぶようになりました。

あなたの口から出る律法はわたしにとって幾千の金銀にまさる恵みです。

 

 

 

詩編119・127

 

それゆえ、金にまさり純金にまさってわたしはあなたの戒めを愛します。

 

 

 

 

エレミヤ17・9

 

人の心は何にもまして、とらえ難く病んでいる。

誰がそれを知りえようか。

心を探り、そのはらわたを究めるのは

主なるわたしである。

それぞれの道、業の結ぶ実に従って報いる。

しゃこが自分の産まなかった卵を集めるように

不正に富をなす者がいる。

人生の半ばで、富は彼を見捨て

ついには、神を失った者となる。

 

 

 

ミカ書6・12

 

都の金持ちは不法で満ち、住民は偽りを語る。

彼らの口には欺く舌がある。

 

 

 

マタイ6・19−21

 

 あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。富は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。

 

 

 

マタイ6・24

 

だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。

 

 

 

ルカ16・13

 

どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。

 

 

 

マタイ19・23−26

 

 イエスは弟子たちに言われた。「はっきり言っておく。金持ちが天の国に入るのは難しい。重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」弟子たちはこれを聞いて非常に驚き、「それでは、だれが救われるのだろうか」と言った。イエスは彼らを見つめて、「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」と言われた。

 

 

 

ルカ12・15−21

 

そして、一同に言われた。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」それから、イエスはたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作だった。金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」 

 

 

 

ルカ12・33−34

 

自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい。そこは、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない。あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのである。

 

 

テモテ1・6・8−10

 

食べる物と着る物があれば、わたしたちはそれで満足すべきです。金持ちになろうとする者は、誘惑、罠、無分別で有害なさまざまの欲望に陥ります。その欲望が、人を滅亡と破滅に陥れます。金銭の欲は、すべての悪の根です。金銭を追い求めるうちに信仰から迷い出て、さまざまのひどい苦しみで突き刺された者もいます。

 

 

ヘブライ13・5

 

 金銭に執着しない生活をし、今持っているもので満足しなさい。

 

 

 

 

 

1.富

 

 

スウェーデンボルグ/黙示録講解118

 

聖言の「富」は真理と善とに関わる知識とそこから発している理知と知恵とを意味していることは相応しているのである。なぜなら天界の天使たちのもとでは、凡ゆるものは金、銀、宝石で輝いているかのように現れており、しかもそのことは天使たちが真理の理知と善の知恵の中にいる限り見られるのである。諸天界の下にいる霊たちのもとでもまたその霊たちのもとで主から真理と善とが受け入れられていることに応じて富が現れているのである。

 

 

 

スウェーデンボルグ/天界の秘義3913

 

 自然的な人は自分が他の者よりも富んで世界の富を得ると、その幸福の中にいるが、しかし霊的な人は真理と善とに関わる知識の中にいるとき、その幸福の中におり、その知識が彼の富であり、彼が真理に従って善を実践する時は、更に彼は幸福の中にいるものの、それでも彼は富をそれにより彼はその善を実践して世にいることが出来るため、軽蔑しないのである。

 

 

 

天界の秘義4105

 

『得たもの』の意義は真理であり、『財産』の意義は善である。

 

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズスに出会った人々1.P300

 

 まことに、財産を持ったまま天国を手にするのは難しい。むしろ、一般的に言って、正直につくったか、それとも遺産でもらった財産であったとしても、それで天国を失います。なぜなら、財産を正しく善く使うのを知る金持ちは少ないからです。

 

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち5巻P52

 

 この私たちの間の会話は多くの人の探し求めた宝。

 

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/10巻P150

 

あなたの時代は、その罪、不遜、私への無関心によって、生者よりも死者の数のほうが多い。 世界が創造されて以来 私は永遠に及ぶ力と 神性を常に示してきた、無から生じた一切のものが 私を知らしめている。 しかもなお、あなたが土の素材ではあっても わたしはその中に住まい、この土の素材に いのちもたらすことができる、あなたが引き上げられたのは 恵みによる。 では、いつまでも 我が被造物たちが反逆のわざによって 死に向っているのを黙って見ているべきか? 慈悲をもって私が 行動しないはずがあろうか?

 

私のもとには 大いなる豊かさと、永続する富があり、悔悛の心で近づく者たちを豊かに富ませる。 婚姻を結んだなら 私をどう所有するかを知るという宝を与えよう。 三位一体の神を知り 理解するという宝を。 聖なる知恵をもってのみ家は建てられ 理解力は それを強固にするとは聞いていなかったか? 知識が、その蔵を あらゆる種類の富、どの時代の賢者も切に欲しがる神聖にして類まれな宝で いっぱいにすると?

 

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち5巻P81

 

富とは回心すること、富とは自分が罪人だと認め、悔い改めのうちに身を低くして私のもとを訪れ、我が指針を守りながら聖なる生活を送ること。

 

 

 

マリア・ワルトルタ24・6/天使館P196

 

聖母がマリア・ワルトルタに:

 

自分の過ちを認め、それを心から悔やみ、謙遜に、誠実な心で表明する者をは赦してくださいます。赦してくださるだけでなく、報いてくださいます。おお! わたしのは、謙遜で誠実な者にどれほど慈悲深いことか! を信じ、に信頼する者に!

 

鈍重で、塞がれているあなたたちの霊を解き放ちなさい。光を迎えるために、精神を整えなさい。闇の中の灯台のように、は案内者であり、聖なる慰めです。

 

との友情は、その信徒たちの至福、他に匹敵するもののない富であり、それを所有する者は決して孤独ではなく、絶望の苦さを味わうことはありません。聖なる友情は苦しみを皆無にはしません。苦しみは受肉されたの定めであったし、人間の定めでもありうるのですから。でも聖なる友情はこの苦しみを、その苦しさの中で甘くし、天上的な一触で、十字架の重みを軽くする光と愛撫をそれに混ぜ合わせてくれるのです。

 

それゆえ神の全善があなたたちに一つの恩寵を与えるなら、その受けた良いものをの栄光のために用いなさい。良いものを有害な武器にするような愚か者たち、あるいは富は赤貧に変える放蕩息子たちのようであってはなりません。

 

 

 

ヴァッスーラ・神のうちの真のいのち・9巻P144

‘98・4・22

 

あなたに平安。 キリストが自らの御血で買い取られた教会、この教会の栄光と利益のために今明かそうとしているのは 私自身に関する最も高貴なテーマの一つとなろう。 教会の益となって豊かに溢れ出すこの尽きざる富であなたの兄弟姉妹も養われるよう この富を現す必要があるのです。気を入れ替え 今は私のほうに十分注意を向けなさい。 私が神として明かそうとするこの高貴なテーマを受けるには、あなたの知性に深く入らせてもらい 崇高な理解力の光を注ぐ必要がある。私が思いやり深く屈んであなたに話しかけるだけではなく、奇しき者自らが その知識を全人類にふるまうのです。

 

 

 

 

2.富んだ者・金持ち

 

 

天界の秘義4744

 

「富んだ者」は多くの事柄を知っている者を意味している。なぜなら「富」は霊的な意義では記憶知と教義的な事柄と善と真理との知識であるからである。これらの事柄を知ってはいるが、それを行わない者は「富んだ空しい者」と呼ばれている。

 

 

 

天界の秘義10227

 

聖言をもっていたユダヤ国民

 

 

 

 

3.商人

 

 

スウェーデンボルグ/天界の秘義2967

 

善と真理とにかかわる知識を持っている者たち。

「商品」は知識そのもの。

 

 

 

スウェーデンボルグ/黙示録講解275

 

 「商人」は自らのために善と真理とにかかわる知識を得て、それを伝える者を意味している。

 

 

 

 

4.商いをする

 

 

天界の秘義2967

 

 自分のために善と真理にかかわる知識を得て、その知識により善そのものを得ること。これは主のみから発している。

 

 

 

 

5.高利貸し

 

 

天界の秘義9210

 

「兄弟に銀の高利を課すこと」は利得のために、真理を貸すこと、または教えることを意味し、「彼に食物の高利を課すこと」は利得のために真理の善を貸すことを意味している。なぜなら「銀」は真理を意味し(1551、2954、5658、6914、6917)、「食物」は真理の善を意味しているからである(5147、5293、5340、5342、5419、5426、5487、5576、5582、5588、5655、5915、8562)。

 

「高利のために銀を与えること」・・単に利得のためにのみ教えることを、かくて報酬のために善を行うことを意味。

 

「高利を取ること」・・利得と報酬のために善を行い、かくて仁慈から善を行わないことを意味。

(純粋な仁慈は功績に対する要求を全くもたないことについては、2371、2373、2400、4007、4174、4943、6388、6390、6392、6478番を参照されたい。)

 

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズスに出会った人々P61

 

ペトロ:

「だけど・・・わたしたちにそれほど厳しい律法学士と博士たちとは・・・安息日に働きはしないが、それこそ貧乏人にパン一切れを与える手間を省こうとし、おまけに安息日にも高利貸しをします。体を使う仕事ではないから、高利貸しは安息日にしてもいいのですか」

 

イエズス:

「いいえ、いついかなる時もいけません、安息日でも、他の日でも。高利貸しをする人は、よこしまな残酷な人です」

 

 

 

 

6.財産を捨てねばならないのか―富の善

 

 

天界の秘義945

 

 王妃高貴な家族の者、また富んだ両親を持った者のような、生活の快楽と享楽の中へ生まれながらにして入れられ、小児時代からそのようなものの中に教育された者たちは異なっている。これらの者は奢侈、華麗、優雅の中に生活しているものの、同時に主に対する信仰と隣人に対する仁慈の中に生きさえしているならば、他生で幸福な者の中にいるのである。なぜなら自己から生活の楽しさ、権力、富を剥奪し、かくして惨めさにより天界に価すると考えることは誤った道であるからである。しかし快楽、権力、冨を主に比較するなら無意味なものとみなし、世の生活を天界の生活に比較するなら無意味なものとして見なすこと、それが聖言にそれらの物を斥けることにより意味されていることである。

 

 

 

スウェーデンボルグ/天界の秘義3951

 

 天界のための席を得るにはこのような物を脱ぎすててしまわねばならないと自分自身に説きつけている者は非常に誤っている。(中略)自分自身から世の財産をはぎとるときは、自分自身を他の者の目から低く評価させ、従って奉仕をなし、義務を遂行する上に無益なものとしてしまったため、自分自身を人の軽蔑にさらすのである。(中略)この間の実情は人間の栄養と正確に一致。

 

 

 

天界の秘義10227

 

あなたらの中でたれであれ、その財産[持ち物]をことごとく棄て去らない者はわたしの弟子となることは出来ない(ルカ14・33)

 

『財産[所有]』はその内意では聖言から発している霊的な財と富とを意味していることを知らない者は、自分が救われるためには自分自身から富をことごとく剥ぎとってしまわなくてはならないとしか考えることは出来ないが、それでもそれがこの言葉の意味ではなく、『財産』によりここでは人間自身の理知から発した事柄の凡てが意味されているのである、なぜならたれ一人自分自身から賢明になることは出来ないのであり、ただ主のみから賢明になることが出来るのであり、それで『財産をことごとく棄て去ること』は理知と知恵を一つとして自己に帰しはしないことを意味しており、このことを行わない者は主により教えられることは出来ないのであり、即ち、『主の弟子』となることは出来ないからである。

 

 

 

デボラ/生ける神より明かされた英知/5巻下P17

 

 全てを棄てなさい、と私があなたに言うとき、それは先ず、あなた自身を棄てなさいという意味である。

 

 

 

 

マリア・ワルトルタ/受難の前日/P110

 

 「金持ちが天国に入るのは、何と難しいことか! その門は狭く、その道は険しい。富の大荷物を背負っている人はそこに歩み入ることはできない。そこに入るには、物質的なものではない徳の宝を持つことが必要であり、あるいは、この世の空しいものから離脱することを知らねばならない」

(中略)

 

「人間にできないことでも、神にはおできになる。神は全能なのだから。人間の方としては、善意をもって“主を助ける”それだけでよい。受けた助言を聞き入れ、この世の富から自由になるように努力する。これが善意の努力です。“神に従うために、全く自由になること”です。

 

 人間の真の自由とは何かと言えば、次のように言えます。『神が人の心にささやかれるその声と命令に従い、自分自身と、世俗または人間の思惑の奴隷、つまりサタンの奴隷にならないように努力することです。神が人間に与えてくださった最上の賜物、すなわち選択の自由意志を用いて、自由にただ善だけを望めば、光りにあふれる自由な、幸せな、永遠の生命に到達できます』

 自分の生命に対してすら奴隷であってはなりません。この世の生命を保つために、神に背かねばならないようなことがあれば、これについては、すでに皆に語った通りです。

『私への愛にために、神に仕えるために自分の生命を捨てる者は、永遠のためにその生命を救うのである』と」

 

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズスの受難/P17

 

ラザロが主に:

「先生、どうかご自分をお救い下さい! ご自身を救って! 私は先生を逃せられます。どうぞ、今夜にでも。いつだったか、エジプトへお逃げになったことがあるではありませんか! 今度もお逃げなさい。さあ、行きましょう。お母様と二人の姉妹をも連れて発ちましょう。ご存じのとおり、私は自分の富に何の未練もありません。私の富であり、またマリアとマルタの富はあなたです。さあ、行きましょう」

 

 

 

 

7.金もうけ

 

 

マリア・ワルトルタ/マグダラのマリア/P33

 

 金をもうけることは罪ではない。正しいもうけで満足するならば。勉強して知識を得ることも罪ではない、それによってわれらの中なる神の観念を殺さないならば。その代わりに祭壇に仕えることでも罪であり得る。自分の利益のためにするならば。

 

 

 

 

8.財産はやっかいなもの

 

 

マリア・ワルトルタ/

 

「あなたもですか? マナエン」

「主よ・・・私は別です。私にはヨゼフのように家族の財産を守る必要はありません」

「財産は、何時でもやっかいなものだと言う私のことば通りでしょう。ヨゼフに我々がそこで会うことはだれにも漏れないだろうと知らせてよいでしょう」

 

 

 

マリア・ワルトルタ/受難の前日/P13

 

やっとこぶしを開き、ユダがつかんでいた金袋を奪い取って床に投げ捨て、金貨を踏みつけ、抑え難い怒りのうなりを上げる。

「去れ! サタンの芥よ! 呪いの黄金! 地獄のごみの蛇の毒、去れ!」

 

 

 

マザー・テレサ/愛と祈りのことば/PHP文庫/P141

 

 私の恐れているものは、ただ一つ。お金です。

お金への執着、金銭欲こそは、ユダをしてイエスを裏切らせる動機となったのです。

 

 

 

マザー・テレサ/愛と祈りのことば/PHP文庫/P142

 

 執着心から、捨てられないものの何と多いことでしょう。

すべてをイエスに差し出すためには、所有物は少ない方がよいのです。

 

 

 

マザー・テレサ/愛と祈りのことば/PHP文庫/P143

 

 男女を問わず、自分のお金をいかに貯めるかで悩んでいる人々は、真の貧者です。もし自分の手許にあるお金を他人に与えようとするなら、その時、その人は富者、真の意味で豊かな人となれるのです。

 

 

 

マザー・テレサ/愛と祈りのことば/PHP文庫/P

 

 きわめて安楽な生活、ぜいたくな生活のできる人々がいます。それは、彼らが努力した結果手に入れた特権と言えるでしょう。

 私が怒りを覚えるのは、無駄使いです。

 まだ使えるものを捨てたり、または無駄にしているのを見ると、怒りを覚えます。

 

 

 

ルカ16・13

 

どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。

 

 

 

 

9.最古代の子孫には富を蓄積しようとの考えはなかった

 

 

天界の秘義230

 

この子孫の支配的悪[この子孫の心を支配した悪]は自己愛であったが、しかし、彼らは同時に世への愛[世を求める愛]を現代に存在する程多くは持っていなかったのである、なぜなら彼らは彼ら自身の家族と氏族の中に生活して、富を蓄積しようとの考えはなかったからである。

 

 

 

 

10.金持ちも天国へ行く

 

 

真の基督教523

 

私は、自然界にいた時、優美な服装をし、美食をし、金を作り、演劇に興じ、放埓な無駄口を叩き等して、他の者のように生活した多くの者達と霊界に会ったことがあるが、しかも、天使達は彼らのある者は罪があるが、他の者は全く罪がないと明言したのである。私は両者とも外面的には同じように行動したことを認めていたので、その理由を尋ねた。彼らは罪と無垢とは全然目的、目標、意図による、なぜなら、善は天界の凡ゆるものの目標あるいは意図であり、悪は地獄の凡ゆるものの目標あるいは意図であるからであると答えた。

 

 

 

天界と地獄357

 

天界に受け入れられることについては色々な見解がある。貧しい者は受け入れられるが、富んだ者は受け入れられないと考えている者もいるし、富んだ者も貧しい者も同じように受け入れられると考える者もいるし、富んだ者はその富を断念して、貧しい者のようにならない限り受け入れられることは出来ないと考える者もおり、しかもその各々の考えは聖言から確認されているのである。しかし天界について富んだ者と貧しい者とを区別する者は聖言を理解していない。聖言はその内部では霊的なものではあるが、その文字では自然的なものである、それ故聖言を文字の意義に従ってのみ理解し、何ら霊的な意義に従って理解しない者は、多くの事柄で誤りを犯し、特に富んだ者と貧しい者とについて誤りを犯すのである、例えば金持ちが天界に入るのはらくだが針の穴を通るのと同じく困難であるが、「貧しい者は祝福されている、天国は彼らのものだから」(ルカ6・20、21)と言われているため、貧しい者は貧しいがゆえに、天国に入るのは容易であると彼らは考えるのである。しかし聖言の霊的意義について多少なりと知っている者はそのようには考えない。彼らは天国は、富んでいようと貧しかろうと、信仰と愛との生活を送っている凡ての者のためにあることを知っている。しかし聖言で富んだ者により誰が意味されているか、また貧しい者により誰が意味されているかを以下に述べよう。私は天使たちと再三話し合い、また交わることにより、富んだ者も貧しい者と同じく容易に天界に入り、人間は豊かに生活しているために天界から閉め出されることはなく、また貧しいために天界へ迎えられもしないことを確実に知ることが出来たのである。そこには富んだ者も貧しい者もおり、富んだ者の多くは貧しい者よりもさらに大きな栄光と幸福とを得ているのである。

 

 

 

天界と地獄358

 

 前もって以下のことを述べておかなくてはならない、即ち、人間は機会が与えられる限り、ずるく立ち回って、他を欺きさえしなければ、富を得て、それを貯えてもよいのであり、また美味しいものを、ただその上に己が生命をおかない限り、食べても、飲んでもよく、己が境遇に従って壮麗な所に住んでもよく、己が流儀なりに他と交わっても良く、娯楽の場所へ再三でかけてもよく、世の出来事について話してもよく、献身者のように悲しい、沈んだ顔つきをし、頭を垂れて歩く必要もなく、楽しく、陽気にしていてもよいのであり、またその財産を、情愛から動かされない限り、貧しい者に与える必要もないのである。約言すれば、彼は外面では全く世の人間のように生活してもよく、もし自分自身の心の奥深くで神について正しく考え、隣人に対して誠実にまた公正に行動しさえするならば、そうしたことのために人間は天界へ入るのを妨げられはしないのである。それで人間はその行為に従って審判され、その業に従って報いられるであろうと聖言に言われていることにより、人間はその行為の源泉であるところの、またはその行為にあるところの、その思考と情愛とに従って審判され、報いられることが意味されている、なぜなら行為は全く思考と情愛と同じものであって、思考と行為がないなら無価値なものであるから(*1)。従って人間の外なる部分は何かを為すのではなくて、それを為すものは彼の内なる部分であり、そこからその外なる部分が発していることが明白である。例えば、もし誰かが、単に法律を恐れ、名声を失い、そこから名誉または利益を失うことを恐れるためにのみ、誠実に行動して、他の者を欺かないなら―もしその恐れにより抑えられないならば、他の者を出来るだけ欺くなら―その行為は例え外面では誠実に見えても、その思考と意志とは詐欺であり、こうした人間は、内面的には不誠実で、誑(たばか)りに満ちているため、その者自身の中に地獄を持っている。しかしそうしたことは神に背くことであるため、誠実に行動して、他の者を欺かないならば、たとえ他を欺くことが出来ても、欺こうとはしないのであり、彼の思考と意志とは良心であり、彼は自分自身の中に天界を持っているのである。彼らの行為は外形では同じように見えはするが、内面では全然異なっている。

 

 

*1 人間は審判かれ、その行為と業とに従って報いられるであろうと聖言に再三言われている、3934。そこの行為と業とにより外なる形における行為と業とが意味されていないで、内なる形におけるものが意味されている、なぜなら外なる形における善い業は邪悪な者によってもまた為されるが、外なる形と同時に内なる形における善い業はただ善良な者によってのみ為されるからである、3934、6073。業は、凡ての行為のように、人間の思考と意志とに属するその内部から、そのエッセ「存在、本質」とエキジステレ[存在の形、本質の現れ]を得ている、なぜならそれはそこから発出しているからである、それ故、内部の状態のいかんに業は応じている、3934、8911、10331。かくて内部の愛と信仰との方面の状態のいかんに応じている、3934,6073,10331,10332。かくて業は愛と信仰とに従っている、3147、3934、6073、8911、10331、10332。業は自己と世とを目指している限り、善ではなく、ただ主と隣人とを目指している限り善である、3147。

 

 

天界と地獄360

 

世にいて貿易や商業に携わって、そうした仕事により富んだ者となった者たちの中で多くの者が天界にいるが、名誉ある地位にいてその職務により富んだ者たちの中で天界にいる者はそれほど多くはない。その理由は、後者は、正義と公正とを施行する結果、また有利な名誉ある地位のために受ける利得と栄誉により、自分自身と世とを愛し、そのため己が思考と情愛とを天界から遠ざけて、自分自身に向けるようになったということである、なぜなら人間は自分自身と世とを愛して、凡ゆる物の中に自分自身と世とを顧みるに応じて、自分自身を神的なもの[神]から引き離し、自分自身を天界から遠ざけるからである。

 

 

 

天界と地獄361

 

天界における富んだ者の運命は豊かさにおいて他の凡ての者にもまさる底のものであって、その中には宮殿に住んでいる者もあり、その宮殿の中では凡ゆる物は金銀で輝いている。彼らは生活の用のために凡ゆる物を豊富に持ってはいるものの、己が心をそうした物におかないで、用においている。用を彼らは明らかに、また光の中に見るように見ているが、金銀は用に比較すれば曖昧に、蔭の中で見るようにしか見ていない。その理由は、彼らは世では用を愛し、金銀はただ手段、器具としてしか愛さなかったということである。用そのものは天界ではこのように輝いており、用の善は金として、用の真理は銀として輝いている(*4)。それ故世における彼らの用のいかんに、天界における彼らの豊かさは応じ、また彼らの歓喜と幸福とが応じている。善い用は自分自身と自分のもの[自分の家族]に生活の必要なものを供えることであり、また自分の国と隣人のために豊かな富を願うことであって、富んだ者はその国と隣人とを多くの方法で貧しい人間よりも更に益することが出来るのである。また彼はこのようにして有害な怠惰な生活から心を遠ざけることも出来るのである―怠惰な生活では人間は自分の中に植え付けられている悪から悪を考えるのである。こうした用はその中に神的なものを持っている限り、即ち、人間が神的なもの〔神〕と天界とを仰ぎ、その用の中に己が善を見出し、富の中には単に手段として役立つ善のみしか認めない限り、善である。

 

*4 善は凡て用から、また用に応じてその歓喜を得ている、3049、4984、7038、またその性質も得ており、従って用のいかんに、善が応じている、3049。生命の幸福と歓喜とは凡て用から発している、997。全般的に言って、生命は用の生命である、1964。天使の生命は愛と仁慈との善に在り、かくて用を遂行することに在る、454。主は、従って天使たちは、人間が仰いでいる目的にのみ注意を払っており、その目的とは用である、1317、1645、5844。主の王国は用の王国である、454,696、1103、3645、4054、7038。主に仕えることは用を遂行することである、7038。凡ての者はその遂行する用の性質に応じた性質を持っている、4054、6815、その説明、7038。

 

 

 

天界と地獄362

 

 しかし神的なもの[神]を信じないで、天界と教会とに属している物を心から斥けた金持ちの運命はその反対であって、彼らは汚物、悲惨、欠乏の満ち満ちた地獄にいる。こうした物に目的として愛される富は変化するが、単に富のみでなく、彼らの用そのものも変化する―その用は彼らがその好むままに生活して、快楽にふけり、邪悪を更に欲しいままにしようとする願いであるか、彼らの軽蔑している者を見下ろそうとする願いであるか、その何れかである。こうした富とこうした用とは、その中に何ら霊的なものを持たないでただ地的なものしか持っていないため、汚れたものとなる、なぜなら富とその用における霊的な目的は身体の中の霊魂のようなものであり、しめった土地の中の光のようなものであるから。が、[前の]そうした富と用は霊魂のない身体のように、天の光のない湿地のように腐敗してしまう。これらの者は富に誘惑されて、天界から引き出された者らである。

 

 

 

天界と地獄364

 

 貧しい者はその貧しいためではなく、その生命のために天界へ入る。富んでいようが、貧しかろうが、各々の者の生命がその各々の者について行くのである。人によって特別な慈悲があるのではなく、良い生活をした者は迎えられるが、悪い生活をした者は斥けられるのである。更に貧しいこともまた富と同じく人間を誘惑して、天界から引き離すのである。貧しい者の中には、自分の運命に満足しないで、多くの物を求め、富が祝福であると信じ(*6)、それでそれを得ないと、怒って、神の摂理を悪く考える者が多くいる。彼らもまた富んだ者の善い物を妬み、機会があると同じく彼らを欺き、また同じように汚れた快楽の中に生きている。しかし自分の運命に満足し、入念に、また勤勉に仕事をし、勤労を怠惰よりも愛し、誠実に、忠実に行動すると同時に、基督教徒として生きている貧しい者はそうではない。私は、農夫や普通の人々の中にいて、世で生きている間、神を信じ、その仕事では、公正なことを為した者たちと時々話したことがある。これらの者は、真理を知ろうとする情愛にいたため、仁慈とは何であるか、信仰とは何であるかと尋ねたが、それは世では彼らは信仰について多くのことを聞きはしたが、他生では仁慈について多くのことを聞いたためである。それで彼らは以下のように言われたのである、即ち、仁慈は生命[生活]に属している凡てのものであるが、信仰は教義に属している凡てのものである、従って仁慈は凡ゆる業において公正なことを意志し[欲し]、為すことであるが、しかし信仰は公正に考えることであり、信仰と仁慈とは教義とそれに従った生活のように、または思考と意志のように、共に連結しており、人間は公正に考えることを、また意志し、行うとき、信仰は仁慈となり、そのときその信仰と仁慈とは二つのものではなくて、一つのものとなる。このことを彼らは充分に理解し、喜んで、自分たちは信じることは生活すること以外のものであることは世では考えなかったと言ったのである。

 

 

*6

高位と富とは真の祝福ではなく、それでそれらは善い者にも悪い者にも与えられる、8939、10775、10776。真の祝福は主から愛と信仰とを受けることであり、そのことにより主と連結することである、なぜならそこから永遠の幸福が生まれるからである、1420、1422、2846、3017、3406、3504、3514、3530、3565、3584、4216、4981、8939、10495。

 

 

 

天界の秘義5886[4]

 

霊的な意義では『買うこと』は自己のために得ることであり、『売ること』は遠ざけることであるため、それでマタイ伝には、天界の王国は主により売り買いする者に譬えられている―

 

天国は畑に隠れた宝に似ている、人がそれを見つけると、隠しておき、喜んで去り、その持っているものを凡て売って、その畑を買うのである。更に、天国は美しい真珠を探し求めている商人に似ている。彼は貴重な真珠を見つけると、去り、その持っているものを凡て売って、それを買ったのである(12・44−46)。

 

『天国』は人間のもとにある善と真理とを意味し、かくてそのもとにある天界を意味し、『畑』は善を意味し、『真珠』は真理を意味し、『買うこと』は善と真理を自分自身に得て、自分自身のものとすることを意味し、『その持っているものを凡て売る』は、彼が以前持っていた彼自身のものを遠ざけることを、かくて悪と誤謬を遠ざけることを意味している、なぜならこれらは自分自身のものであるからである。

 

 

 

天界の秘義5886[5]

 

ルカ伝には―

 

イエスはその若いプリンスに言われた、あなたは尚一つの事を欠いている、あなたが持っているものをことごとく売って、貧しい者に分け与えなさい、さすればあなたは天に宝を得るでしょう。そして来て、わたしについてきなさい(18・22)。

 

内意ではこれらの言葉により、悪と誤謬以外のなにものでもないところの、彼自身のものである凡てのものは遠ざけられねばならない、そしてそれが遠ざけられたとき彼は『天の宝』である善と真理とを受けるに違いないことが意味されているのである。

 

 

 

天界の秘義5886[6]

 

同書に以下のように言われていることも同様である―

 

あなたたちの財産を売り、施しなさい。古くならない財布を、尽きない天の宝を作りなさい(ルカ12・33)。

 

たれでもこれらの言葉には他の意義が在ることを認めるのである。なぜならたれでもその財産を売ることは現在では自分自身を乞食にして、仁慈を行う能力をことごとく、それを売った後では、自分自身から剥奪してしまうからであり、また天界には貧しい者のみでなく、富んだ者もいるということは確立された真理であるからである。

 

 

 

ルカ12・33−34

 

自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい。そこは、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない。 あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ。

 

 

 

 

11.悪と誤謬

 

 

天界の秘義1694

 

「彼らはソドムとゴモラの富をことごとく取った」。これはこれらのものが悪を行う力を奪われたことを意味していることはたれかの富を取り去ることの意義から明白である。ソドムとゴモラの富により内意では悪と誤謬以外には何ごとも意味されてはいない。ここでは悪は『富』により、誤謬は『食物』により意味されている。霊的な富と宝とは、善良な者に関連しているときは、その者が主から与えられて、豊かになっている善と真理以外の何ものでもなく、それで富と宝とは悪い者に関連しているときは、その者がその者自身に得た悪と誤謬以外の何ものでもないのである。こうしたものがまた聖言の中で『宝』により意味されている。このことからソドムとゴモラの富を取ることは、彼らから悪を行う力を剥奪することであることが明白である。

 

 

 

 

12.そして彼は凡ての財産を取り返した

 

 

天界の秘義1717

 

 「そして彼は凡ての財産を取り返した」(創世記14・16)。これは内的な人が外なる人における凡てのものを(内的な人に)順応した状態に至らせたことを意味していることは、『凡ての財産を取り返すこと』の意義から認めることが出来よう。ここの『財産』は前に記したことの中に話されたように、ケダラオメルが、また彼とともに王たちが彼らの敵から取ったものである。ケダラオメルが、また彼とともに王たちが彼らの敵から取ったものである。ケダラオメルと彼とともにいた王たちにより外的な人の諸善と諸真理とが意味されている。彼らがその敵から取り上げた財産はその敵が悪を行い、誤謬を考える力を奪われること以外の何ものでもなかったのであり、そのことが[その敵が悪を行い、誤謬を考える力が]ソドムとゴモラとの富により意味され、また彼らの取った凡ゆる食物によっても意味されたのである。(そのことは前の11節にとり扱われている)。

 

 

 

天界の秘義1717[2]

 

この事柄は僅かな言葉では示すことが出来ないような性質を持っているが、しかしここに以下に記されていることによってそれについて若干知ることが出来よう。試練の争闘の中にいて、征服する者は、悪霊を支配する、または悪魔の一味を支配する力を益々自らに取得して、ついには彼らは些かも敢えて試みようとはしなくなるのである。しかし勝利が得られる度毎に、主は争闘が行われた源泉である諸善と諸真理とを秩序づけられ、またかくてその度毎にそれらは浄められるのであり、そして浄められるに正比例して、愛の天的なものが外的な人の中へ徐々に注ぎ入れられて、相応が行われるのである。これらが凡ゆる財産を取り返すことにより意味されている事柄である。

 

 

 

天界の秘義1717[3]

 

外なる人が幾多の試練の争闘なしに内なる人に相応するようになることが出来ると想像する者は誤っている、なぜなら試練は幾多の悪と誤謬とを消散させる方法であり、また同じく諸善と諸真理とを導き入れ、外なる人に属したものを服従にいたらせる方法であり、かくてそれは[外なる人は]内的なまたは合理的な人に仕え、またそのことを通して内なる人に仕えることができるのであり、すなわち、内なる人を通して働かれつつある主に仕えることができるからである。これらの事柄が試練により行われることは幾多の試練を通して再生している者以外には何人も知ることはできないのである。しかしいかようにしてこれが為されるかは、最も全般的にさえも殆ど記すことはできない、なぜならそれは人間が何処からまたいかようにして為されるかを知ることなしに為されるからである、なぜならそれは主の神的な働きであるからである。

 

 

 

 

天界の秘義1851

 

「その後でかれらは大いなる財産をもって出て行くであろう」。これは解放を意味し、またかれらは天的な霊的ないくたの善を持つであろうということを意味していることは以下から明白である、すなわち、『出て行くこと』の意義は解放されることであり、『財産』の意義は天的な霊的ないくたの善である、なぜならこれが迫害を受け、またこの節と前の節とにとり扱われているところの試練、抑圧、苦悩、または労役を受ける者たちの財産であるからである。これらの善はまたヤコブの子孫がエジプトから出て行ったさいのその財産により(出エジプト記11・2、12・36)、またいくたの国民が追放されたさいのカナンの地におけるかれらの財産により表象され、意味されたのであり、また予言者の中では、かれらの敵から得られて、自らを富ませた戦利品がとり扱われているときは必ず(その戦利品により表象され、また意味されているのである)。

 

 

 

 

13.真の富・真の平和

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P93

 

求道者:「ああ、神よ、今日、わたしのいただいたこの祝福が、わたしの弱さや冷淡によって失われたりすることがありませんように。わたしが最後まで忠実であるよう、どうかお恵みください。わたしが常にあなたの真実の下僕であり続け、あなたの中に、あなたのために生きられますよう」

 

メルキゼデク:「常に目を覚まし、祈ることが大切である。世の富を失うとも決して気にかけるな。それは早晩起ることである。だが、今あなたは、自分を失わない限りは他の誰にも奪い取ることのできない、真の富を手にしているのだ。今、あなたは、小船に乗って濁流の上を旅する男のようである。荒れ狂う波風に打たれてこの小船は沈んだ。彼は川岸に向って泳いだが、ポケットの中の小銭以外、すべての持ち物が濁流に押し流された。男は川岸に着くと、賊に襲われ、持っているものすべてを奪われた。こうしてすべてを奪われても、男は決して取り乱さなかった。それは、誰にも奪い取ることのできない、あの真の平和が心の中にあったからである。そこで彼は賛美歌をうたいながら神を讃え、そこを去って定められた務めに着手した。

 今、あなたは、この世の富と名誉を失うことによって心が空にされ、真の永遠の富を受けるに至ったことに感謝せよ。みよ、わたしはいつまでもあなたと共にいる。行って、わが羊たちを牧しなさい」

 真理の探究者は、恭しく頭を下げ、メルキゼデクの足下に身を投げ出し、メルキゼデクは彼を祝福すると姿をかき消した。彼は起き上がり、全身全霊をもって神に仕えた。

 

 

 

 

14.霊的な力を遺産として残す

 

枯れた骨の復活(エゼキエル37)/)

 

 

マリア・ヴァルトルタ/「手記」抜粋/天使館/P53

 

『わたしたちはもうその時代には生きていないだろう』と言ってはならない。あなたたちではなく、あなたたち皆ではない。だが、自分のことしか考えないのは愚かで愛徳に欠けることである。無神論者の父からは無神論者の息子が生まれる。無気力な父親からは無気力な息子が生まれる。そして彼ら、あなたたちの子供たちや、そのまた子供たちは、あの時のためにどれほど多くの霊的力を必要とすることだろう!結局、子供たちや孫たちの幸せを用意してやるのは人間的な愛の掟なのだ。現世的なことがらについて示す努力よりも、霊的なことに関して為す努力をそこそこにしてはならないし、子供たちがあなたたちよりも幸せな日々を送れるように、彼らに財産を与え、あるいはそれを残すために努めるよりも、彼らに霊的な力を遺産として残すために骨を折りなさい。世とルシフェルとの最終的な戦いの雹が、地獄のほうがまだましだと思われるほどの残忍さで人類を鞭打つとき、彼らが霊的な力をふんだんに持つために働き、その力を増加させることが出来るように。

 地獄! 人類はそれを体験するだろう。そのあと、霊魂に忠実な人々には楽園が到来するだろう。現世ではない地球、すなわち天の王国が到来するだろう。」

 

 

 

 

15.富とは回心すること、富とは自分が罪人だと認め、悔い改めのうちに、身を低くして私のもとを訪れ、我が指針を守りながら 聖なる生活を送ること。

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/5巻P81

‘91・2・26

 

今日は聖パウロか聖ペトロのメッセージをいただけないかと考えていました。神秘に深く入って行きたかったので、イエスに応えて下さるよう お願いしました。

主よ?

 

私です。 聴きなさい 花よ、今日の私の関心は 贖いです。 与えようとは思わない神秘を どうして探し求めるか? 私はあなたの聖性に関心がある。 あなたに求めるのは悔い改め。 娘よ、何に関心があり、何が私にとって重要かを理解しなさい。 ラザロが四日間私の神秘の中に入って行き その神秘を見て理解しながら、戻って来た時には沈黙を守り その秘密を他に明かさないようにと私は要請した。 私の宝を訳の分からない霊魂たちにやってしまうのを望まなかった。 富とは回心すること、富とは自分が罪人だと認め、悔い改めのうちに、身を低くして私のもとを訪れ、我が指針を守りながら 聖なる生活を送ること。富は 私の神秘を解き明かそうとする中にはない、もしそうしようとするなら、どこにも到達しない曲がりくねった道へと あなたを引き込もう。 そこで私のもとに 子どもとして来なさい そして私の手で この知識をもってあなたを耕し 富ませてほしい、私が あなたの富となり、みことばを通して 知識を得るように。 あなたの関心を 私の関心:

            あなたが完徳に

達すること とさせなさい。 愛している、来なさい。 せかせかと祈りを唱えないように。 愛がそばにいる。

 

 

 

 

16.霊的な人の富

 

 

天界の秘義3913[3]

 

連結の手段が存在しなければならないことは、自然的な人はそれ自身では霊的な人とは些かも一致していないで、全く対立している程にも一致してはいないという事実から認めることが出来よう。なぜなら自然的な人は自己自身と世とを顧慮して、それらを愛しているが、しかし霊的な人は自己自身と世とをそれが霊界における用を増進することに貢献している限り顧慮はするものの、それに貢献しない限りは顧慮しないのであり、かくて用と目的からその奉仕を顧慮し、またそれを愛するからである。自然的な人は自分が高位[顕職]に挙げられ、かくて他の者よりも一際卓越した地位に挙げられると生命を持っているようにその人自身に思われるが、しかし霊的な人は卑下の中に、またいとも小さいものであることの中に生命を持っているようにその人自身に思われるのである。彼はまた高位を、もしそれを手段としてそれにより自分が隣人に、共同体に、教会に仕えることが出来さえするなら、無視はしないのである。それでも彼はその挙げられた高位を自分自身のために顧みないで、彼が目的として認めている用のために顧みているのである。自然的な人は自分が他の者よりも富んで世界の富を得ると、その幸福の中にいるが、しかし霊的な人は真理と善とにかかわる知識の中にいるとき、その幸福の中におり、その知識が彼の富であり、彼が真理に従って善を実践するときは、更に彼は幸福の中にいるものの、それでも彼は富を、それにより彼はその善を実践して、世にいることが出来るため、軽蔑もしないのである。

 

 

 

天界の秘義5135[4]

 

霊的な生命には善と真理の知識以外には何らの富はなく、善とその真理から生まれてくる生命の幸福以外には何ら財産と遺産はないのである。

 

 

 

 

17.財産、快楽について考えていると天使たちとの交わりから遠ざけられる

 

 

天界の秘義6210

 

ときどき起ったことではあるが、私は世の事柄について、大半の人間の大きな関心を引くような事柄について、すなわち、財産、富の獲得について、快楽といったものについて熱心に考えていた。そうした時、わたしは感覚的なものに落ちこんで、思いがそうした物に浸されてしまうに応じて、わたしが天使たちとの交わりから遠ざけられてしまうことに気づいたのである。このことよりまた、こうした心づかいに深く浸されている者は他生にいる者たちと交わることができないこともわたしに明らかにされたのである。なぜならこうした思いに全心がとらわれると、その思いは低い心を下に連れ去り、またそれを曳きずり下ろす重しのようなものになり、その思いが目的として認められると、それは人間を天界から遠ざけてしまい天界へは彼は愛と信仰との善によらなくては挙げられることはできなくなるからである。このことは以下の事実からさらに私に明らかにされたのである、すなわち、かつて私が天界の住居の間を導かれて行かれると同時に、霊的な考えの中にいたとき、たまたま、不意に世的な物を考える思いに沈み込み始めると、その霊的な観念は凡て消散して、全く存在しないようになったのである。

 

 

 

 

18.スウェーデンボルグ

 

 

神学論文集P12

 

さらに、私は私が必要とするこの世の富を充分に得ており、更に多くのものを求めもしませぬし、望みもいたしません。

 

 

 

 

19.サンダー・シング

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P93

 

求道者:「ああ、神よ、今日、わたしのいただいたこの祝福が、わたしの弱さや冷淡によって失われたりすることがありませんように。わたしが最後まで忠実であるよう、どうかお恵みください。わたしが常にあなたの真実の下僕であり続け、あなたの中に、あなたのために生きられますよう」

 

メルキゼデク:「常に目を覚まし、祈ることが大切である。世の富を失うとも決して気にかけるな。それは早晩起ることである。だが、今あなたは、自分を失わない限りは他の誰にも奪い取ることのできない、真の富を手にしているのだ。今、あなたは、小船に乗って濁流の上を旅する男のようである。荒れ狂う波風に打たれてこの小船は沈んだ。彼は川岸に向って泳いだが、ポケットの中の小銭以外、すべての持ち物が濁流に押し流された。男は川岸に着くと、賊に襲われ、持っているものすべてを奪われた。こうしてすべてを奪われても、男は決して取り乱さなかった。それは、誰にも奪い取ることのできない、あの真の平和が心の中にあったからである。そこで彼は賛美歌をうたいながら神を讃え、そこを去って定められた務めに着手した。

 今、あなたは、この世の富と名誉を失うことによって心が空にされ、真の永遠の富を受けるに至ったことに感謝せよ。みよ、わたしはいつまでもあなたと共にいる。行って、わが羊たちを牧しなさい」

 真理の探究者は、恭しく頭を下げ、メルキゼデクの足下に身を投げ出し、メルキゼデクは彼を祝福すると姿をかき消した。彼は起き上がり、全身全霊をもって神に仕えた。

 

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P359

 

蒔くことも刈ることも、倉に納めることもせず、雛のために巣作りをする空の鳥を見習った方がいい。蒔いては刈り、集めては倉に納め、それでいて自分のためにも子供のためにも、来世への備えをしないでいる人間は、倉に納めたこの世の宝とともに滅びる他ない。心を富の上に置き、神の栄光のためにも、人の福祉のためにもそれを使わなかったからである。この世の金/銀/財宝は、われわれの飢えも渇きも満たすことはなく、満たすための媒介として使えるにすぎない。しかし、富も正しく使えば「永遠の住まい」に友を迎える手段ともなる。

 

 

 

 

20.ルイザ・ピッカレータ

 

 

ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国/2巻P38

 

「魂が愛情からばかりでなく事実としてすべてのものから離れてゆくのなら、私は喜ぶ。物から離れてゆくほどに私は光をまとわせるので、魂は水晶のようになり、そうなれば、太陽光は何ものにもさえぎられることなく透過してゆき、建物や他の物質も貫いてゆく。人びとは精神的なものばかりか、肉体的な欲望についても、脱ぎ捨てるどころか、さらに厚着を重ねていく。すべてのものから離れてゆく魂を、私は特別扱いする準備があるというのに。私の意図は、すべてをベールのように包む。すると、無一物なのに一切を所有していることになる」。

 

このあと私たちは聴罪司祭を離れると、多くの修道者たちが利益目的に働いているのに出会いました。そこでイエズスは言った。

 

「ああ、災いだ。金のために働く者に災いを。お前たちはすでにこの世で報われてしまっているから。」

 

 

 

 

21.マリア・ワルトルタ

 

 

マリア・ワルトルタ/聖母マリアの詩 上/P164

 

神との友情、信者の幸福は、他のどんな富にも比べられないもので、その富を持っている人は、いつでも孤独ではなく、絶望、落胆の苦さを感じることがありません。しかし聖なる友情よ、あなたは苦しみを皆無にするのではありません。苦しみは肉体となった神のはからいで、人間の運命でもありうるからです。

 

 

 

マリア・ワルトルタ/手記/P37

 

 わたしに結ばれていなさい。わたしのうちには正義と平和と愛がある。ほかの教説を探し求めてはならない。福音を生きなさい。そうすればあなたたちは幸せになるだろう。わたしによって生き、わたしのうちに生きなさい。あなたたちは肉体的な大きなよろこびは味わわないだろう。わたしはそんなよろこびは与えない。真のよろこびを与える。それは単なる肉のよろこびであるだけでなく、わたしが授け、承認し、共有するのを拒まなかった霊魂のよろこび、誠実で祝福された、聖なるよろこびである。

 家族、子供たち、清廉な裕福、穏やかに栄える祖国と、兄弟たちとの国々との好ましい調和。こういったものをわたしは聖なるものと呼び、祝福する。それらによってあなたたちは健康をも享受する。なぜなら誠実に生きられる家庭生活は肉体に健康を与えるからだ。それらによってあなたたちは心の平静を得る。なぜなら誠実に行われた取引や職業は良心の安らぎを与えるからだ。それらによってあなたたちは祖国と国々の平和と繁栄を得る。なぜなら同胞や隣国の人々と好ましい調和のうちに生きることによって、あなたたちは怨恨と戦争を避けるからだ。

 

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズスに出会った人々1/P120

 

ある人は、神に特によく仕えるために稀な恵みをいただいていたために、一生涯にわたって何の不幸も起きないといいうのは良いことですか。人間生活においては、あまり幸せではなくても、いままでいただいた多くの恵みのために十分幸せであると考えてもよいのではないですか。心に神の啓示の光を受け、同時に賛成する良心のほほえみをもっているのに、この世でまた余分に光栄とか豊かな財産とかをいただくのは不正ではないでしょうか。その上、不賢明なことでもあり得ます。

 

 

 

マリア・ヴァルトルタ24・6/天使館P196

 

聖母がマリア・ワルトルタに:

 

自分の過ちを認め、それを心から悔やみ、謙遜に、誠実な心で表明する者をは赦してくださいます。赦してくださるだけでなく、報いてくださいます。おお! わたしのは、謙遜で誠実な者にどれほど慈悲深いことか! を信じ、に信頼する者に!

 

鈍重で、塞がれているあなたたちの霊を解き放ちなさい。光を迎えるために、精神を整えなさい。闇の中の灯台のように、は案内者であり、聖なる慰めです。

 

との友情は、その信徒たちの至福、他に匹敵するもののない富であり、それを所有する者は決して孤独ではなく、絶望の苦さを味わうことはありません。聖なる友情は苦しみを皆無にはしません。苦しみは受肉されたの定めであったし、人間の定めでもありうるのですから。でも聖なる友情はこの苦しみを、その苦しさの中で甘くし、天上的な一触で、十字架の重みを軽くする光と愛撫をそれに混ぜ合わせてくれるのです。

 

それゆえ神の全善があなたたちに一つの恩寵を与えるなら、その受けた良いものをの栄光のために用いなさい。良いものを有害な武器にするような愚か者たち、あるいは富を赤貧に変える放蕩息子たちのようであってはなりません。

 

 

 

マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音/10卷上P54/604・5

 

貧しい人を助け、金持ちで貪欲なヘブライ人に、隣人への愛の掟を教えた。わたしの手に、次々と黄金が渡されたが、わたしは貧しいままにとどまり、富を持つあなた方のだれよりも、涙をぬぐった。そして、ついに、目に見えない富を与えた。を知ること、を知ることである。

 

 

 

 

22.健全な理性を持つ者は何人も富を軽蔑することは出来ない

 

 

真の基督教403

 

健全な理性を持つ者は何人も富を軽蔑することは出来ない。何故なら、それは国の生命の血管であるから。彼はまた公の職務に与えられている名誉を軽蔑することは出来ない。何故なら公の僕は若し、その自然的な感覚的な愛が霊的な愛に従属するならば、王の手であり、社会界の柱であるから。天界にも亦行政機関があり、これに高貴が加えられているが、これを果す人々は霊的であるから、己が職務を果すことを愛するのである。

 

 

 

新エルサレムの教義97

 

人各々がその者自身の隣人である、即ち、人各々は先ず自分自身を考慮しなくてはならないと普通に言われているが、しかし仁慈の教義は、いかようにしてこのことが理解されなくてはならないかを教えている。人は各々食物、着物、住居や、その他その者の送っている社会的生活の状態から必然的に要求される多くの物といった生活上必要な物を自分自身のために供えなくてはならず、単にそのことを自分自身のためのみでなく、自分の者のためにも、単に現在のためのみでなく、また将来のためにもなさなくてはならない、なぜなら人間は自分自身のために生活の必要なものを得ない限り、仁慈を行う状態にいることは出来ないから。なぜなら彼は凡ゆる物に欠乏してしまうからである。

 

 

 

天界の秘義3913

 

「自然的な人は自分が他の者よりも富んで世界の富を得ると、その幸福の中にいるが、しかし霊的な人は真理と善とに関わる知識の中にいるとき、その幸福の中におり、その知識が彼の富であり、彼が真理に従って善を実践するときは、さらに彼は幸福の中にいるものの、それでも彼は富をそれにより彼はその善を実践して世にいることが出来るため、軽蔑しないのである。」

 

23.銀の器と金の器

 

 

天界の秘義6917

 

「銀の器と金の器」。『銀の器』は真理の記憶知を意味し、『金の器』は善の記憶知を意味していることは以下から明白である、即ち、『器』の意義は記憶知であり(3068、3079番を参照)―記憶知は全般的なものであって、その中に無数の真理と多様な善とを含んでいるため、『器』と呼ばれている―『銀』の意義は真理であり、『金』の意義は善である(1551、1552、2954、5658番)。(エジプトの『銀』は真の、適合した記憶知を意味していることは前の6112番に見ることが出来よう)。ここのみでなく、前の記事の中の、また以下の記事の中の『エジプト人』により誤った記憶知が意味されているのに、エジプト人のもとに在る『銀と金の器』が真理の記憶知と善の記憶知であることについては、これらの知識はそれ自身では真理ではなく、また誤謬でもなく、それらは真理にいる者のもとでは真理となり、誤謬にいる者のもとでは誤謬となり、そのことはそれらを適用し〔応用し〕用いる結果によっていることを知られたい。人間の記憶知に言われることはその財宝と富にも言われるのである。財宝と富とは悪の中にいる者には有害である、なぜなら彼らはそれらを悪い用に用いるからである、が、それらは善の中にいる者たちには有益である、なぜなら彼らはそれらを善い役に立つこと〔用〕に用いるからである。それでもし悪い者に属している財宝と富が善い者に移されるなら、それらは善となるのである。

 

 

 

 

24.戦利品、娼婦の賃金

 

 

天界の秘義6917〔3〕

 

こうしたものがまたカナンの地の幾多の国民のものを掠奪することにより、またそこでイスラエルの子孫が戦利品として奪った富、羊の群れ、家、ぶどう園によっても意味されているのである。このことは諸国民から戦利品として奪った金銀がまた聖め事に用いられたことから更に明らかであり、そのことは以下の記事から明白である―

 

 彼の手には銀の器、金の器、銅の器があった、これらもまたダビデ王は聖めてエホバに捧げた、(即ち)その征服した凡ての国民、シリア人、モアブ、アンモンの子孫、ペリシテ人、アマレク、ゾバの王、レホブの子ハダデゼルから掠奪したものの中で、彼の聖めた銀、金と共に捧げた(サムエル記後8・10−12)。

 そしてツロの商品とその娼婦の賃金はエホバに聖いものとなるであろう、それは貯えてはならない、またしまっておいてもならない、その商品はエホバの前に住む者たちのものとなって、その者たちに飽きるまでも食べられ、また年老いた者が身を包むものとしなくてはならない(イザヤ3・18)。

 

イスラエルの子孫の女たちがエジプト人から借り、かくて掠奪したこれらの物もまた後には彼らの礼拝用の箱やその他多くの物を作るために用いられたのである。

 

 

 

 

25.霊的な名誉と富とは任務、用に属す

 

神の摂理217(ロ)

 

「名誉と富とは祝福である時は霊的で永遠のものであるが、しかし呪いであるときは一時的なものであって、移ろい易い」。天界にもこの世のように名誉と富とがある、なぜならそこには政治があり、従って司政と任務とがあるから、そこにはまた商業があり、それゆえ富がある、なぜなら天界には諸々の社会と共同体があるから。全天界は二つの王国に分かれ、その一つは天的王国と呼ばれ、他は霊的王国と呼ばれ、各王国は大小無数の社会に分れ、その社会の凡てはそこに住む人々と共に、愛の相違に応じ、従って知恵の相違に応じ、排列されている、即ち天的王国の共同体は天的愛、即ち主に対する愛の相違に従って排列され、霊的王国は霊的愛、即ち隣人に対する愛の相違に従って排列されている。このような諸々の共同体があり、そこに住む者は凡てこの世の人間であったのであり、それゆえ世で持っていた愛を保有しているため(彼らは今は霊的であり、名誉と富とは霊的王国では霊的であり、天的王国では天的であるとの相違はあるが)、他の者よりも偉大な愛と知恵とを持つ者は更に偉大な名誉と富とを受け、世の高貴と富とが祝福となっていた者であることが推論される。このことから霊的な名誉と富とは任務に属し、人物に属さないことを認めることが出来よう。そこに高貴な地位にある人物は実に地上の王の壮麗に似た壮麗を以て囲まれているが、しかし彼らは高貴そのものを何ら顧みず、ただその司って、遂行している用のみを顧みるに過ぎない。彼らはその地位に属する名誉を受けるが、それを自分自身に帰さないで、用に帰している。そして用は凡て主から発しているため、彼らはその用の起原である主にその用を帰している。それ故こうしたものが永遠の霊的な栄誉と富である。しかし世の名誉と富とが呪いとなった者の実情は異なっている。彼らはそれを自分自身に帰して、用に帰することをせず、用が彼らを支配することを欲しないで、彼らが用を支配することを欲し、用が彼ら自身の名誉と栄光とに役立つ時にのみ、用を用として認めたため、地獄におり、そこに侮蔑され、貧に苦しんで、共有の奴隷となっている。さてこの種の名誉と富とは消滅するため、それは一時的なものであり、移ろい易いものと呼ばれる。この二つの部類の者について主は以下のように教えられている、『自分のために地で宝を貯えるな、そこでは虫と錆とが腐らせ、盗人は破って入り、盗むのである、自分のために天に宝を貯えよ、そこでは虫も錆も腐らせず、盗人は破って入って、盗みもしない、あなたたちの宝のあるところには、心もまたあるからである』(マタイ6・19−21)。

 

 

 

天界の秘義10227[18]

 

ルカ伝には―

あなたらの中でたれであれ、その財産[持ち物]をことごとく棄て去らない者はわたしの弟子となることは出来ない(14・33)。

 

『財産[所有]』はその内意では聖言から発している霊的な財と富とを意味していることを知らない者は、自分が救われるためには自分自身から富をことごとく剥ぎ取ってしまわなくてはならないとしか考えることは出来ないが、それでもそれがこの言葉の意味ではなく、『財産』によりここでは人間自身の理知から発した事柄の凡てが意味されているのである、なぜならたれ一人自分自身から賢明になることは出来ないのであり、ただ主のみから賢明になることが出来るのであり、それで『財産をことごとく棄て去ること』は理知と知恵を一つとして自己に帰しはしないことを意味しており、このことを行わない者は主により教えられることは出来ないのであり、即ち、『主の弟子』となることは出来ないからである。

 

 

 

 

26.複利

 

 

新エルサレムの教義186

 

再生した人間のもとでは善から発した諸真理は継続的に派生していわば星座を形作り、絶えずそれ自身を周囲に増大させている(5912番)。

 

ジャングル・ジム

 

 

 

 

 

27.トマス・ア・ケンピス

 

 

トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/1・25・6

 

イエズスのほかに、もっとすぐれたものをさがすことはいらないのである。

 

 

 

トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/2・1・2

 

 あなたはキリストさえあれば、富める者で不足がない。主があなたのために用意し、忠実にすべてをして下さるので、あなたは少しも人に頼る必要がなくなるだろう。なんとなれば、人は変わりやすく、すぐに死んでしまうが、キリストは永遠においでになって、終りまであなたを忠実に助けてくださるからである。

 

 

 

 

28.天界では知恵に従って豊かに富が与えられている

 

 

結婚愛250

 

 地位については、そこの凡ての者は他の者をその果たす用に応じて認めている。優れた者は低い地位の者を兄弟として眺めて、用の優越よりも位階を重んじないし、位階よりも用の優越を重んじている。なぜなら、たれ一人地上のその父を知っておらず、主が凡ての者の父であられるからである。同じく富についても、それはそこでは知恵に到達したことに対する賜物であって、知恵に従って豊かに富が与えられている

 

 

 

 

29.霊界日記

 

 

他生における富、権力、華麗について、またプルートと奈落の霊らについて

霊界日記4427

 

 

 

 

30.天界の富は善と真理

 

 

天界と地獄407

 

 身体の生命の中で他の者たちを支配する権能を持っていたある一人の者が他生でもまた支配しようとの欲望を依然持っていたが、彼は以下のように告げられた、あなたは永遠の他の王国におり、地上のあなたの支配は終わったのであり、天国では誰もその持っている善い真のものによらなくては、またその者が世におけるその生活から浴した主の慈悲によらなくては尊ばれないのであり、またこの王国も地上とは異なっていないで、ここでも人間はその富と君から受ける恩恵から尊ばれており、ここの富は善と真理であり、君から受ける恩恵は人間が世におけるその生命に応じて主から受ける慈悲である。もしこのことに反してあなたが支配しようと望むなら、あなたは他の方の王国にいる以上、反逆者となる、と。こうした事を聞くと彼は恥じたのである。

 

 

 

 

 

 

31.お前の寿命が尽きる日、息を引き取る時に、財産を譲り渡せ

 

 

シラ書33・24

 

お前の寿命が尽きる日、息を引き取る時に、財産を譲り渡せ

 

 

 

 

32.サンダー・シングも父の遺産を一部受け取り、孤児を引き取った

 

 

 

 

33.マリア・ヴァルトルタも節約した

 

 

 

34.悪い者の持っていたその同じ知識が、その同じ富のように、善い者のもとにもあって、善い用に仕えることが出来る

 

天界の秘義7770[3]

 

この間の実情は世の富の場合に似ており、それは人間のいかんによって善い用にも、悪い用にも用いられ、従って富は各人のもとではそれが用いられる用と同じものとなるのである。このことからまた悪い者の持っていたその同じ知識が、その同じ富のように、善い者のもとにもあって、善い用に仕えることが出来ることが明白である。

 

 

 

 

35.ヴァスーラ・・・希望という宝

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/8巻P97

 

来なさい、私を望み 自らをみことばで養う者たちよ。 みことばはあなたを富ませ その霊魂を私の荘厳さで飾ろう。 愛がともにいる 今もとこしえに・・・

 

 

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/10巻P162

‘00・・・(日付を思い出せません)

 

希望は 心に歓びと慰めをもたらす そして考え得る限りのあらゆる辛苦を心が負っていようと、聖霊を運ぶ者(*)はその一切を乗り越える なぜなら聖霊は 慰めと愛の讃歌をうたって聞かせ、こうして苦難を乗り越え 霊を引き上げる手助けをして 元気に威厳をもって歩ませるゆえに ♡ 希望は、それゆえ、聖霊からの賜。

 

多くの心を捕らえながら 神との出遇いをもたらさない、この世の富に希望を置きながら、それでもなお幸せを感じられようか? こうした富がとこしえには永らえず 永遠のいのちも栄光も もたらさないと知ったなら? 否、霊魂がこの世の富にだけ捕われているなら、誰も幸せではあり得ない。 その結果は にがよもぎのように苦々しい。 しかし 私に顔を向ける人は 幸せ。 その貧しさを通して 私が富んだ者にすることができる。 我が心のうちに含まれる すべての富によって私は その人を豊かにできる。

 

我が心のうちには一切の 幸せへと導く小道がある。 希望という宝を見いだすなら 自分の笑い声が全身にさざ波のように広がるのが聞こえてこよう、その笑い声を聞いて 天はこぞって歓ぶ もはやあなたの眼差しはこの世の汚れた富には注がれず 天の麗しさをまとった王の上に注がれるであろうから。 そう、かつては偶像とした銀や金を、不浄と見なすようになる。 そのとき、あなたの希望 護り手でもある聖霊があなたのうちにしっかりと住まい あなたも聖霊のうちに住まうがゆえ あなたを囚人としていた大蛇は二度と決してあなたのうちに巣喰うことはない。 気がつくとあなたは 歓びの叫びをあげている、永久に及ぶ歓びが その顔に刻まれて。 歓びと楽しみがあなたにつき従い 悲しみと嘆きは終わりを告げる。そう希望という宝は 霊を慰め励ます。

 

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/10巻P164

‘00・・・(日付を思い出せません)

 

栄光の高みより声が発せられ あなた方の時代に取っておかれた宝があると告げている。 こうは言わないように、「私は探したが 見つからない」と。 雲のようにあなた方の頭上を 私は進み行く、それでも私が見えないと 多くは言う、世代よ。 あなた方はこの世の富の間をあてもなくさ迷う、ところがあなたに降り注ぎ 荘厳なる私をまとわせてくれる霊的な宝に関しては注意を払おうともしない。